葛飾北斎
概要
70歳を過ぎてから富嶽三十六景を描いた。90年で30回改名し、93回引っ越したと伝わる。
所属
日本関わったできごと(1)
『富嶽三十六景』1830年 · 当人本文
1760年、江戸の本所割下水(いまの墨田区)に生まれた。幼名は時太郎。幕府御用の鏡師、中島伊勢の養子となったとも、実子だったとも言われ、はっきりしない。後年、自分は本所の百姓の出だと書いたこともある。子どもの頃から絵を描くのが好きで、十代で貸本屋の手伝いや版木を彫る職人の見習いをした。

19歳のとき、役者絵で人気の浮世絵師、勝川春章に入門し、勝川春朗の名で役者絵を描きはじめた。だが北斎は一つの流派に収まらなかった。狩野派や土佐派、琳派の絵を学び、西洋の銅版画の遠近法や陰影まで取り入れた。他派の画法を学んだことで勝川派を破門された、とも伝わる。
改名を繰り返したことで知られる。春朗、宗理、北斎、戴斗、為一、画狂人、画狂老人卍。生涯に使った名は30ほどにのぼる。名を弟子に譲って礼金を取ったとも言われる。引っ越しも93回したと伝わり、一日に3度越したこともあるという。部屋が散らかって汚れると掃除をせずに越した、というのがその理由とされる。これらの数は明治の伝記に拠るもので、どこまで正確かは分からない。

40代から50代にかけては、読本の挿絵で名を上げた。読本は貸本屋で借りて読まれた長編の伝奇小説で(貸本屋)、とくに曲亭馬琴と組んだ『椿説弓張月』では、迫力のある挿絵が評判を呼んだ。人前で描く見せ物も好んだ。1804年には江戸の護国寺の境内で、120畳分の紙に大きな達磨の半身像を描き、群衆を驚かせた。逆に、米粒に雀を2羽描いてみせたという話もある。
1814年、名古屋の版元から『北斎漫画』の初編を出した。人の表情、職人の手つき、動物、妖怪、風や波まで、目に映るあらゆるものを素早い筆で描き留めた絵手本で、北斎の死後まで続いて全15編になった。ここで言う「漫画」は、気の向くままに描いた絵という意味である。

70歳を過ぎた1831年頃から、版元の西村屋与八から『富嶽三十六景』を出した。季節や天気、場所を変えて富士山を描き分けた連作で、評判がよく、のちに10図を足して全46図になった。荒波が小舟を呑み込もうとする神奈川沖浪裏、朝日に赤く染まる「凱風快晴」はこの中の一枚である。
鮮やかな青は、ベロ藍と呼ばれた人工の顔料による。18世紀初めにドイツで偶然作られたプルシアンブルーで、清を経て輸入されるようになり、この頃には値も下がって浮世絵に使いやすくなっていた。植物の藍より発色がよく、色褪せにくい。北斎の連作に続いて、歌川広重らの風景画が次々に世に出ることになる。

1834年、75歳で出した『富嶽百景』の跋文に、北斎はこう書いた。6歳から物の形を写す癖があり、50歳の頃から多くの絵を出してきたが、70歳までに描いたものは取るに足らない。73歳でようやく鳥や獣、虫や魚の骨格、草木の生え方が少し分かった。80歳でさらに進み、90歳で奥義を極め、100歳で神妙の域に達し、110歳では一点一画が生きているようになるだろう、と。署名は「画狂老人卍」である。
暮らしは豊かではなかった。孫の放蕩の後始末で借金を抱え、逃れるように江戸を離れた時期もある。1839年には火事で家が焼け、写生帖などを失ったと伝わる。晩年を支えたのは三女のお栄だった。絵師としての名を応為という。父に劣らぬ腕の持ち主で、北斎の名で出た絵の中には、彼女が手がけたものもあると考えられている。

80代になると、信濃の小布施に住む豪農で文人の高井鴻山に招かれ、何度か足を運んだ。江戸からおよそ250キロの道を、80歳を過ぎた老人が歩いて往復したことになる。天保の改革で浮世絵の出版が厳しく制限されていた時期でもあった。小布施には、北斎が描いた祭り屋台の天井絵が残っている。この頃の北斎は版画よりも肉筆画に力を注ぎ、龍や虎、怒濤など、力のみなぎる絵を描いた。
1849年5月10日、浅草の寺の長屋で亡くなった。数えで90歳。死の床で「天があと10年、いや5年命を与えてくれたら、本物の絵描きになれただろう」と言ったと伝えられる。辞世の句は「人魂で行く気散じや夏野原」。

北斎の名声は、死後、海の外で大きくなった。開国後に浮世絵や『北斎漫画』がヨーロッパに渡ると、モネやドガ、フィンセント・ファン・ゴッホら印象派の画家たちが熱心に集め、構図や色づかいを学んだ。ジャポニスムと呼ばれる流行である。ドビュッシーの交響詩『海』の楽譜の表紙には、神奈川沖浪裏が使われた。いま、世界で最もよく知られた日本の絵は、70歳を過ぎた老人が描いた一枚の波である。