ジャワの強制栽培制度
概要
ジャワ戦争(1825〜30年)とベルギー独立で財政が傾いたオランダが、総督ファン・デン・ボスの案で、ジャワの村に、耕地の5分の1でコーヒー・砂糖・藍を作り、政府に決まった値で売ることを課した。実際には5割を超える村も、田が減って飢えた村もあった。オランダ本国の歳入の3分の1がジャワから来た年がある。1860年、『マックス・ハーフェラール』が告発し、1870年に緩んだ。
場所
-6.92°N 107.61°E · インドネシア
関わった人(1)
ムルタトゥーリAD1820年3月2日–AD1887年2月19日 · 告発した本文
17世紀の初めに設立され(オランダ東インド会社の設立)、ジャワ島のバタヴィアを拠点にした(オランダ東インド会社のバタヴィア)オランダ東インド会社は、18世紀の末に財政が破綻して解散し、その領土はオランダ政府の植民地になった。ナポレオン戦争の間の一時期、ジャワはイギリスの統治下に置かれ、副総督ラッフルズは土地に税をかけて現金で納めさせる仕組みを試みた。戦争が終わってジャワを取り戻したオランダは、この地を思うように利益の上がる土地にできずにいた。
そこへ二つの打撃が重なった。一つは1825年に始まったジャワ戦争である。ジョグジャカルタの王族ディポネゴロが、オランダと、それと結んだ宮廷への反発を集めて立ち上がり、5年にわたるゲリラ戦になった。ジャワ人の死者は戦闘と飢えと病で20万人ほどにのぼり、オランダの側もヨーロッパ兵と現地兵を合わせて1万5000人ほどを失った。戦費は2000万ギルダーに達した。もう一つは、1830年の南部諸州の反乱である。ベルギーとして独立しようとする南部をオランダは認めず、1839年まで軍を維持し続けた。本国の財政は火の車になった。

1830年、新しい総督ファン・デン・ボスがジャワに着任した。彼の案は単純だった。ジャワの農民は、ヨーロッパに売れる作物を作る力はあっても、税を現金で納める力は乏しい。それなら、作物で納めさせればよい。この「栽培制度」の建前はこうである。村は耕地の5分の1を割いて、政府の指定する輸出用の作物、主にコーヒー、サトウキビ、藍を作り、政府の定めた値段で政府に引き渡す。その代わり、地租は免除される。土地の少ない村は、そのかわりに年に66日、政府の農園や工事で働く。作物は政府の委託を受けたオランダ商事会社がアムステルダムへ運び、競売にかけた。
建前どおりに運ばれた村は少なかった。5分の1のはずの割り当ては、多くの村で3分の1から半分に及び、所によってはさらに多かった。66日の労働は、作物の運搬や工場の仕事も加わって、それを大きく超えた。サトウキビは稲と同じ水田と水を必要としたため、米を作る田と人手が奪われた。政府の決める買い上げ値は安く、免除された地租よりも負担のほうがずっと重かった。そして、監督にあたるヨーロッパ人の役人と、村を治めるジャワ人の地方首長には、取れ高に応じた歩合が支払われた。彼らには、村から少しでも多く絞り取る理由があった。

その結果は、1840年代に表れた。西ジャワのチレボン一帯では1843年から44年にかけて飢饉が起き、中部ジャワのドゥマクとグロボガンでは1849年から50年にかけて、凶作と重なって大飢饉となった。グロボガンでは数年のうちに人口が数分の1に減ったと伝えられる。一方で、ジャワ全体の人口はこの時代に増え続けており、制度の影響は地域によって大きく違った。制度が村に新しい作物と道路や工場をもたらした面を指摘する研究者もいる。
本国から見れば、栽培制度は大成功だった。政府の会計で「剰余」と呼ばれた、植民地から本国の国庫への純益は、1831年から1877年までにおよそ8億ギルダーにのぼった。1850年代には、本国の歳入の3分の1ほどがこの純益でまかなわれた年もある。その金で、オランダは戦争で膨らんだ国の借金を返し、国内に鉄道を敷き、運河を掘った。19世紀のオランダの繁栄の土台は、ジャワのコーヒーと砂糖が作ったと言われる。

この仕組みに、オランダ人の良心を突きつけたのが、一冊の小説だった。1860年、ジャワの西部ルバックで副理事官を務めていたエドゥアルト・ダウエス・デッケルが、「ムルタトゥーリ」(ラテン語で、私は多くを苦しんだ、の意)という筆名で『マックス・ハーフェラール、あるいはオランダ商事会社のコーヒー競売』を出版した(ムルタトゥーリ)。主人公の役人ハーフェラールは、現地の首長が農民から水牛や労働を取り上げていることを告発しようとして上司に退けられ、職を辞す。作者自身の体験である。物語は、アムステルダムのコーヒー仲買人の退屈な語りと、ジャワの農民の若者サイジャが水牛を奪われ、家族を失い、恋人アディンダを追って死ぬ挿話とを組み合わせ、最後に作者自らが国王に向かって訴える。小説はオランダ中で読まれ、植民地の現実をめぐる議論に火をつけた。
ただ、制度を終わらせたのは、良心だけではなかった。本国では自由主義の勢力が伸び、政府の独占ではなく、民間の企業がジャワで自由に事業をすべきだと主張していた。1870年、農地法と砂糖法が成立し、政府の強制栽培は段階的に廃止され、ジャワは民間の農園企業に開かれた。それは農民にとって、別の形の搾取の始まりでもあった。最も利益の上がったコーヒーの強制栽培だけは、西ジャワの山地プリアンガンなどで1917年まで残った。

20世紀の初め、オランダは植民地政策の転換を掲げた。ジャワから得た富に対して、オランダは「名誉の負債」を負っている、という論説が反響を呼び、1901年、女王の議会での演説は、東インドの人々に対する道義的な責務を述べた。「倫理政策」と呼ばれる。灌漑、教育、人口の多いジャワから他の島への移住が進められた。その学校で学び、オランダ語で西洋の思想に触れた世代から、スカルノやハッタら、独立運動の指導者が生まれた。1945年8月、彼らはインドネシア独立宣言を読み上げる。インドネシアでは、栽培制度はいまも植民地支配の苦難の象徴として教えられている。