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Event / できごと

ジャワの強制栽培制度

Cultivation System in Java
AD1830年
重要度 5

概要

ジャワ戦争(1825〜30年)とベルギー独立で財政が傾いたオランダが、総督ファン・デン・ボスの案で、ジャワの村に、耕地の5分の1でコーヒー・砂糖・藍を作り、政府に決まった値で売ることを課した。実際には5割を超える村も、田が減って飢えた村もあった。オランダ本国の歳入の3分の1がジャワから来た年がある。1860年、『マックス・ハーフェラール』が告発し、1870年に緩んだ。

場所

プリアンガン(西ジャワ)
-6.92°N 107.61°E · インドネシア

関わった人(1)

ムルタトゥーリAD1820年3月2日–AD1887年2月19日 · 告発した

本文

1825〜30年、ジャワ戦争。ジョグジャカルタの王子ディポネゴロが立ち、5年でジャワ人20万人、オランダ側1万5000人が死んだ。オランダは勝ったが、2000万ギルダーを使った。同じ1830年、ベルギーが独立して、オランダ本国の財政が傾いた。

ヨハネス・ファン・デン・ボス。新総督。案は単純だった。「ジャワ人は貨幣で税を払えない。ならば、作物で払わせよう」。

1830年、「耕作制度(カルチュールステルセル)」。村は、耕地の5分の1で、政府が指定する輸出作物——コーヒー、サトウキビ、藍、茶、タバコ、胡椒——を作り、政府が決めた値段で政府に納める。その代わり、地租を免除される。作物を作らない村は、賃労働で年66日、政府のために働く。

実際。5分の1は守られなかった(3分の1から2分の1、地域によっては全部)。66日は、100日を超えた。コーヒーは山地の村に、砂糖は水田の村に課され、水田が減った。指定作物の値段は低く、地租の免除より重かった。監督する現地の首長(プリヤイ)には、産出高に応じた歩合が支払われたので、彼らは村を絞った。

1843〜44年、中部ジャワのチルボンとドゥマクで飢饉。1849〜50年、グロボガンで、人口が7分の1になった村がある。

オランダ本国。1831年から1877年まで、ジャワからの「純益(バーティグ・スロット)」は8億ギルダー以上。1850年代、本国の歳入の3分の1がここから来た年がある。鉄道が敷かれ、運河が掘られ、国債が償還された。「オランダは、ジャワのコーヒーで作られた」。

1860年、『マックス・ハーフェラール、またはオランダ商事会社のコーヒー競売』。ジャワの副理事官だったエドゥアルト・ダウエス・デッケルが、「ムルタトゥーリ(私は多くを苦しんだ)」の名で書いた。現地の摂政の搾取を告発して、上司に止められ、辞職した男の物語。中に「サーイジャとアディンダ」——水牛を奪われ、父を失い、恋人を探して死ぬ若者の話——が挟まる。オランダ中が読んだ。「本は、政治を揺さぶった」。

1870年、農地法と砂糖法。強制栽培が段階的に廃止され、民間の企業に開かれた(それはそれで別の搾取になった)。コーヒーだけは1917年まで残った。

1901年、オランダ議会は「倫理政策」を宣言した。「オランダは、東インドに対して、名誉の負債を負っている」。灌漑、教育、移住。その学校で学んだ世代から、スカルノとハッタが出た。

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