
概要
人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。
この物語について
いま私たちは、一日で地球の反対側へ飛び、週末には遠い町へ旅をする。人はいつから、こんなに速く遠くへ動けるようになったのか。そして旅は、いつから楽しみになったのか。
数千年のあいだ、人の速さは、自分の足と馬の速さだった。車輪と馬の家畜化は陸の移動を変え、ラクダは砂漠を越える道を開いた。帝国は道を敷き、駅を置いて、命令と税と兵を運んだ。ローマのアッピア街道、ペルシアの駅伝、インカの道、江戸の五街道。旅をするのは、商人と巡礼と兵と役人がほとんどだった。
19世紀、鉄道は人の動く速さを一気に何倍にもした。時刻表のために国じゅうの時計がそろえられ、トマス・クックは鉄道で団体旅行を売り出し、案内書が旅の手引きになった。自転車は人々、とくに女性に、自分の力で出かける自由を与えた。ガソリンの車はやがて量産され、町と暮らしを作り変えた。
20世紀、人は空を飛んだ。大西洋をひとりで越えた飛行家は世界の英雄になり、ジェット旅客機とジャンボ機は、海外旅行を多くの人の手に届くものにした。高速道路と新幹線が国土を結び、トンネルと橋が海峡を越えた。
速く遠くへ動けることは、豊かさと自由をもたらしたが、事故と渋滞と排気ガス、土地を奪われる人々、温暖化も生んだ。この物語は、人と物と旅のかたちを変えてきた乗り物と道の歴史を並べたものになる。
この物語が起きた場所
筋(58)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 馬の家畜化できごと約5500年前(ボタイ)〜4200年前(黒海北岸の草原)人が馬の速さを得る大型の草食獣148種のうち家畜になったのは14種で、馬はその中で最も戦争と交通を変えた。シマウマはならなかった。ボタイ(位置は特定されていない)
- 車輪の登場できごと紀元前35世紀ろくろが先で、荷車は後だったとされる。この道具は独立に何度も発明されず、アメリカ大陸では運搬に使われなかった。ウルク
- ペルシアの駅伝できごとBC500年頃帝国の駅伝スーサからサルディスまで2500キロ。一日で行ける距離ごとに宿駅を置き、馬と人を待たせる。書簡が着けば、次の者が受け取って走る。ヘロドトスが書いている。「雪も雨も暑さも夜の闇も、定められた行程を全速で走り抜くことを妨げない」。徒歩なら90日の道を、7日で伝えた。帝国の広さは、命令が届く速さで決まる。この一文が、19世紀にニューヨークの中央郵便局の壁に刻まれ、アメリカの郵便配達員の非公式の標語になった。スーサ
- 乳香の道できごとBC400年頃乳香と没薬は、アラビア半島南端のごく限られた地域にしか生えない木の樹脂である。切り傷から滲み出た涙を集め、乾かす。神殿で焚き、遺体に塗り、薬にした。年に3000トンが北へ運ばれたという推計がある。ラクダの隊商が、2000キロ以上を60日以上かけて進んだ。その道の要にあったのがナバテア人のペトラである。彼らは水の乏しい岩山に貯水の仕組みを作り、通行税を取って富を築いた。海路が開けると、道は衰えた。ペトラ
- アッピア街道できごとBC312年すべての道はローマにサムニウム人との戦いのさなか、監察官アッピウス・クラウディウスは、ローマから南のカプアまで、真っ直ぐな道を敷かせた。砂利を層に重ね、上に多角形の石を隙間なく組む。雨水を流すため中央を高くし、脇に溝を掘った。目的は兵と補給を速く送ることである。商人が使い、巡礼が使い、やがて南のブルンディシウムまで延びて、東方への出口になった。「街道の女王」と呼ばれる。道は征服の道具であり、征服のあとは支配を続ける道具になる。二千三百年後のいまも、石畳の一部は歩ける。ローマ
- 張騫の西域派遣できごとBC138年西域への道匈奴を挟撃する同盟を探して送られた使者が、中央アジアの情報を持ち帰った。絹の道の始まり。長安
- パウロの伝道旅行できごとAD47年ユダヤ教の枠を越えて、割礼を求めずに異邦人へ説いた。地中海を三度回り、手紙を書いた。その手紙が新約聖書の最も古い部分になる。エフェソス
- サハラへのラクダの導入できごと3世紀砂漠を越えるこれで砂漠が「越えられるもの」になった。地中海と西アフリカが金と塩でつながる。トンブクトゥ
- 法顕の求法の旅できごと399年求法の旅60歳を過ぎて長安を発ち、砂漠を越えてインドへ行き、海路スリランカ経由で帰った。玄奘の200年前。パータリプトラ
- 大運河の完成できごとAD609年川で南北を結ぶ煬帝が、洛陽を中心に、南は杭州、北は涿郡(北京)まで、2500キロを掘らせた。延べ数百万人。堤に柳を植え、40の離宮を置いた。江南の米が北の都と軍を養えるようになり、中国の南北が経済で一つになった。同時に、この工事と3度の高句麗遠征が隋を潰した。運河は残り、その後1300年、中国の背骨だった。揚州
- モンゴルの站赤できごとAD1234年帝国の駅伝の網オゴデイが整備した駅伝の網。25から45キロごとに站を置き、馬、食料、宿、そして替えの人を常備させる。牌子(パイザ)を持つ使者は、どの站でも馬を替えられる。金の牌を持つ者は最優先。急使は一日に300キロ以上進んだとされる。マルコ・ポーロが、その規模に驚いて詳しく書いている。ユーラシアの東西が、初めて一つの通信網で結ばれた。同時に、この街道を、14世紀の疫病が同じ速さで移動した。カラコルム
- マルコ・ポーロ人物AD1254年 – AD1324年東方への旅を語り、ヨーロッパにアジアの富を印象づけた。コロンブスはこの本を携えて出航する。
- イブン・バットゥータの旅できごとAD1325年三十年の大旅行巡礼のつもりで出た旅が30年、12万kmになった。行く先々でイスラーム法官として職を得られたことが、この距離を可能にしている。タンジール

- インカ道できごとAD15世紀アンデスの道インカの国は、山脈に沿って南北四千キロに伸びていた。それを結んだのが、総延長三万キロを超える道の網である。車輪も馬も無い。人が歩き、リャマが荷を負う。険しい斜面には石の階段を刻み、谷には草を編んだ吊り橋を架け、毎年架け替えた。道沿いには一定の間隔で宿が置かれ、食料と衣類が備えられている。走る飛脚は区間ごとに交代し、クスコから海岸の魚を数日で運んだと伝えられる。文字を持たない国が、紐の記録と、この道で、広大な領土を動かしていた。クスコ
- 五街道と宿場できごとAD1601年(慶長6年)江戸の五街道関ヶ原の翌年、徳川家康は東海道の宿駅に、人足と馬を常備させる制度を敷いた。公用の書状と荷は、宿ごとに人と馬を替えて運ばれる。やがて中山道、日光、奥州、甲州を加えた五街道が整えられ、一里塚が築かれ、並木が植えられた。参勤交代で大名の行列が毎年往復し、宿場町が育つ。同時に、この道は管理の道具でもあった。関所で人と武器を検め、橋を架けない川では渡しを止められる。速く動かすための道と、動きを止めるための関所が、同じ制度の中にあった。東京
- グランドツアーできごとAD1670年若い貴族の教養の旅17世紀の後半から18世紀にかけて、イギリスの貴族や富裕な家の若者たちは、学業の仕上げとして、家庭教師を連れてフランスとイタリアを1年から数年かけて巡った。パリで社交と言葉を学び、アルプスを越えて、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ナポリで古代の遺跡とルネサンスの美術を見る。この旅は「グランドツアー」と呼ばれた。若者たちは古代の彫刻や風景画を買って帰り、故郷に古典様式の屋敷を建てた。旅はイギリスの趣味と教養を形作ったが、異国での放蕩の場でもあった。鉄道と団体旅行の時代が来ると、こうした長い旅はすたれた。ローマ
- 『おくのほそ道』の旅できごとAD1689年旅を詠む1689年の春、四十代半ばの松尾芭蕉は、住まいを人に譲り、門人の曾良と二人で江戸の深川を出た。東北から北陸をめぐり、美濃の大垣まで、およそ百五十日の旅である。平泉では、義経の最期と奥州藤原氏の栄華の跡を前に、夏草を詠んだ。紀行文は、旅のあと何年もかけて推敲され、芭蕉の死後に刊行される。事実どおりの記録ではなく、句と文を組み合わせて作り上げた作品だった。いまも多くの人が、その道筋をたどって歩いている。江戸
- 鉄で橋を架けるできごとAD1779年セヴァーン川の谷は、製鉄の炉が並ぶ工業地帯だった。両岸を結ぶ橋が要るが、船の帆柱を通さねばならず、石のアーチでは橋脚が邪魔になる。鉄工所のエイブラハム・ダービー三世は、鋳鉄だけで一つのアーチを組むことにした。前例が無いので、継ぎ目は木造の指物や大工の仕口を真似ている。鉄を鋳物として使う発想そのものが新しく、できた橋は観光の名所になった。素材が変われば、形も作り方も変わる。その最初の実例として、いまも同じ場所に架かっている。コールブルックデール
- 『東海道中膝栗毛』できごとAD1802年庶民の旅の楽しみ江戸の町人、弥次郎兵衛と喜多八の二人が、伊勢参りを口実に東海道を旅する。宿場ごとに失敗し、だまされ、喧嘩し、笑いを振りまく。1802年、十返舎一九が出した滑稽本の初編は評判を呼び、続編が二十年以上にわたって出された。庶民が旅をするようになった時代の、旅の案内書としても読まれた。各地の名物や方言が織り込まれている。弥次さん喜多さんという呼び名は、いまも気ままな二人旅の代名詞になっている。江戸
- 鉄道の開業できごとAD1825年9月27日鉄道の始まり蒸気機関車が公共の交通になった。人と物が動く速さが桁で変わり、時刻という概念が全国で揃う。マンチェスター
- 乗合馬車できごとAD1826年乗合馬車ナントで製粉業を営むスタニスラス・ボードリーが、郊外の浴場へ客を運ぶ馬車を仕立てたところ、途中で乗り降りする者が増えた。運ぶ相手を決めずに、決まった道筋を決まった時刻に走らせる。乗り場が帽子屋の前にあり、その店の看板に「オムネス・オムニブス」(すべての人に)とあったのが名の由来だと伝わる。二年後にはパリで営業が始まり、ロンドン、ニューヨークへ広がった。個別の注文で動く馬車から、路線と時刻表で動く輸送へ。都市交通はここから数えられる。ナント
- ロケット号とレインヒルできごとAD1829年10月6日リヴァプール・マンチェスター鉄道が機関車を公募した。5台。スティーブンソン父子のロケット号が、多管ボイラーで時速47キロ。翌年の開通式で国会議員ハスキソンが轢かれて死んだ。世界最初の鉄道の死者。鉄道は、それから20年で、イギリスに1万キロ。レインヒル

- ガイドブックできごとAD1830年代ガイドブックそれまでの旅の本は、教養ある人が自分の感想を綴ったものだった。カール・ベデカーは、旅行者が実際に要る情報を並べた。宿の等級と値段、馬車の時刻、歩く距離、心づけの相場。そして、見るべきものに星印を付けた。星が多いほど良い、という単純な指標である。読者は、自分で判断する手間を省けるようになった。同時に、旅先で何を見るかが本に決められることにもなる。星の付いた場所に人が集まり、付かない場所は素通りされる。評価を付けるという行為が、旅の形を変えた。コブレンツ
- 鉄道と標準時できごとAD1840年時計がそろうそれまで、時刻は町ごとに違った。太陽が南中したときが正午である。ロンドンとブリストルでは10分ずれる。歩く速さでは問題にならない。鉄道が走ると、時刻表が組めず、単線ですれ違い事故が起きる。1840年、グレート・ウェスタン鉄道がロンドンの時刻を全線で使い始めた。1855年までにイギリスの時計の98%がグリニッジ時刻に合った。町の時計に針を二本つけた教会もある。時間が、天体からではなく、電信線を通って配られるものになった。ロンドン
- 団体旅行できごとAD1841年7月5日団体旅行禁酒運動の世話人だったトマス・クックは、集会へ人を運ぶために鉄道会社と交渉し、往復の切符をまとめて安く買った。五百人ほどが参加し、一人一シリングである。これが団体旅行の始まりとされる。彼はやがて宿と食事と入場券を組み合わせ、前もって払えば現地で金を扱わずに済む仕組みを作った。旅は、金と暇のある人のものから、勤め人が一週間分の楽しみとして買うものになる。目的地で何を見るかも、あらかじめ決められた。旅程という商品が生まれたことになる。レスター
- ロンドン地下鉄の開業できごとAD1863年1月10日地下を走るパディントンからファリンドン・ストリートまで6キロ。世界初の地下鉄。掘割を掘って蓋をする「開削工法」。蒸気機関車が走ったので、煙が充満した(換気口を開け、機関車は自分の煙を水槽に溜める仕組みを積んだ。それでも息苦しかった)。初日に4万人。1890年、電化された最初の深い地下鉄(シティ・アンド・サウス・ロンドン線)。都市が、垂直に広がり始めた。ロンドン
- 大陸横断鉄道の開通できごとAD1869年5月10日大陸を結ぶ東から西へユニオン・パシフィック、西から東へセントラル・パシフィック。中国人労働者1万2000人がシエラネバダにトンネルを掘った。ユタのプロモントリーで、金の犬釘を打った。電信で「DONE」。ニューヨークからサンフランシスコまで、6か月が1週間に。バッファローが撃たれ、平原の先住民の暮らしが終わり、西部が開かれた。プロモントリー

- 新橋・横浜間の鉄道できごとAD1872年10月14日(明治5年9月12日)日本の鉄道明治の政府は、イギリスから資金と技師を借り、東京の新橋と横浜のあいだ二十九キロに鉄道を敷いた。海の上に堤を築いて線路を通した区間もある。1872年、天皇を乗せた開業の式が行われた。歩けば一日がかりの道のりを、汽車は一時間足らずで走る。運賃は高く、はじめは乗る人も限られたが、時刻表どおりに動く汽車は、分単位で時間を守るという新しい習慣を持ち込んだ。線路は、その後の半世紀で全国に伸びていく。横浜
- ブルックリン橋できごとAD1883年イースト川に架ける吊り橋を設計したジョン・ローブリングは、着工前の測量中に事故で破傷風にかかり死んだ。跡を継いだ息子は、川底で基礎を築く潜函の作業で潜水病になり、以後は自宅から望遠鏡で現場を見て指示を出す。妻エミリーが現場と技師のあいだを毎日往復し、実質的な監督を務めた。鋼の針金を束ねた主索は当時としては桁違いに長く、十四年かけて1883年に開通する。開通直後、橋が落ちるという噂で群衆が殺到し、十二人が圧死した。翌年、象の群れを渡らせて安全を示したと伝えられる。ニューヨーク
- オリエント急行できごとAD1883年10月4日国境を越える寝台列車ベルギーの実業家ジョルジュ・ナゲルマケールスは、アメリカで寝台車を見て、ヨーロッパの国境を越えて走る豪華な列車を思い立った。1883年10月4日、彼の国際寝台車会社の列車がパリを出て、ウィーン、ブダペスト、ブカレストを経て、黒海の港から船でコンスタンティノープルへ向かった。のちに線路がつながると、パリからイスタンブルまで列車だけで行けるようになった。食堂車では一流の料理が出され、王族や外交官、富豪が乗った。アガサ・クリスティの推理小説の舞台にもなった。飛行機の時代に客を失い、パリとイスタンブルを結ぶ直通の運行は1977年に終わった。パリ
- 安全型自転車の登場できごとAD1885年自転車が女性を解放した1817年、ドイツのドライスが足で地面を蹴って進む二輪の乗り物を作り、のちに前輪にペダルがつき、速さを求めて前輪が巨大になった。だが高い座席の自転車は転ぶと危なかった。1885年、イギリスのコヴェントリーのジョン・ケンプ・スターレーは、前後同じ大きさの車輪をつけ、ペダルの力を鎖で後輪に伝える「ローヴァー」を売り出した。3年後には空気を入れたゴムのタイヤも現れた。誰でも安全に乗れる自転車は、1890年代に欧米で大流行し、とくに女性に、付き添いなしで自由に出歩く手段を与えた。コヴェントリー
- ガソリンで走る車できごとAD1886年1月29日ガソリンで走る車マンハイムの技術者カール・ベンツは、小さなガソリンエンジンを積んだ三輪の車を作り、1886年1月29日に特許を出した。だが売れない。1888年の夏、妻のベルタは、夫に告げずに十代の息子二人と車に乗り、百キロほど離れた実家まで走った。燃料は途中の薬局で買い、詰まった管は帽子のピンで直したと伝えられる。この遠出が評判になり、改良の手がかりにもなった。自動車は、動くことを証明してみせた者によって世に出た。マンハイム
- ミシュランガイドの創刊できごとAD1900年車で旅する人のための案内1900年、フランスのタイヤの会社ミシュランの兄弟は、自動車に乗る人のために、ガソリンの買える店、修理の工場、泊まれる宿、食事のできる店を載せた小さな案内の本を作り、無料で配った。車で遠くへ出かける人が増えれば、タイヤが減り、売れるからである。当時フランスの車は三千台ほどしかなかった。1920年代から有料になり、1926年に料理のうまい店に星を付けはじめ、1931年に一つから三つ星の形が整う。三つ星は「そのために旅行する価値がある」店とされた。タイヤの販売の工夫が、世界の料理人の評価を左右する本になった。パリ
- ライト兄弟の初飛行できごとAD1903年12月17日空を飛ぶ12秒、36メートル。翼を大きくすることでもエンジンを強くすることでもなく、操縦の問題として解いた。新聞はほとんど報じなかった。キティホーク
- シベリア鉄道の開通できごとAD1904年モスクワからウラジオストクまで9289キロ。1891年、皇太子ニコライがウラジオストクで鍬入れした(大津事件の直後)。囚人と農民と中国人の労働。永久凍土、バイカル湖(初めは船で渡し、1904年に環状線)。日露戦争に間に合わせるために突貫した。ロシアが東を「領土」として持てるようになった。ヨーロッパとアジアを7日で結ぶ、いまも世界最長の鉄道。ウラジオストク
- T型フォードできごとAD1908年10月1日車が大衆のものに自動車は長く金持ちの道楽だった。1908年10月1日、フォード社は、丈夫で修理しやすく、悪路も走れる車を売り出す。T型である。流れ作業で作るようになると値段は下がり続け、1920年代には発売時の三分の一以下になった。二十年近くで千五百万台が売れる。色は黒しか選べない、と言われた時期もあった。農民も労働者も車を持つようになり、道路が整備され、町は郊外へ広がった。一つの車種が、国の形を作り替えた。デトロイト
- 旅券の規格できごとAD1920年10月21日旅券の規格身分証明の書状は古くからある。しかし十九世紀のヨーロッパは、鉄道と自由貿易のもとで、旅券をむしろ廃止する方向へ動いていた。第一次大戦が、それを逆転させる。スパイと脱走兵と敵国人を選り分けるため、各国が旅券と査証を導入した。戦後も戻らなかった。1920年、国際連盟がパリで会議を開き、大きさ、頁数、記載事項、写真、そして仏語併記を定める。国籍が、国境を越えるための条件になった。持たない者は、動けなくなった。パリ
- リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行できごとAD1927年5月21日大西洋をひとりで越えるニューヨークとパリを無着陸で結んだ者に2万5千ドルを贈るという賞を目指して、何組もの飛行家が挑み、命を落としていた。1927年5月20日の朝、25歳の郵便飛行の操縦士チャールズ・リンドバーグは、燃料を詰め込んだ単発の小さな機「スピリット・オブ・セントルイス」で、ニューヨークの飛行場を飛び立った。眠気と霧と戦いながら、ひとりで33時間半飛び続け、21日の夜、パリのル・ブルジェ飛行場に降りた。十万人ともいわれる群衆が押し寄せた。リンドバーグは世界の英雄になり、空の旅への関心は一気に高まった。パリ
- アウトバーンの開通できごとAD1935年5月19日自動車専用の道1933年に政権を握ったヒトラーは、全国に自動車専用の高速道路網を造る計画を打ち出し、その年の9月、フランクフルトで自ら最初の鍬を入れた。1935年5月19日、フランクフルトとダルムシュタットの間の最初の区間が開通した。交差点も信号も無く、上りと下りが分けられた道は、国民に車の時代を約束する宣伝の道具になり、国民車フォルクスワーゲンの計画とも結びついた。失業をなくすための事業と宣伝されたが、雇われた人の数は限られ、のちには捕虜や強制労働も使われた。高速道路の考え方自体は、ナチより前からイタリアやドイツにあった。フランクフルト
- 有給休暇の夏できごとAD1936年休みに旅をする1936年、フランスで人民戦線の内閣ができると、各地の工場でストライキが広がった。政府と経営者と労働組合の合意で、賃上げとともに、年に二週間の有給休暇が認められる。その夏、多くの労働者が、割引の鉄道切符で生まれて初めて海を見た。自転車で田舎へ出かける人も増える。休暇は、裕福な人だけのものではなくなった。夏になると都市が空になるフランスの習慣は、ここから始まる。休む権利は、働く権利と同じく、闘って得られた。パリ
- ヒンデンブルク号できごとAD1937年5月6日飛行船の時代の終わり全長二百四十メートルの飛行船が、着陸の直前に燃え上がり、三十数秒で骨組みだけになった。乗員乗客九十七人のうち三十五人と、地上の一人が死んだ。設計では不燃のヘリウムを使う予定だったが、産出国のアメリカが軍事物資として輸出を禁じていたため、燃える水素を詰めていた。現場には報道陣が集まっており、写真と映像と、泣き声混じりの実況が世界に流れた。飛行船による旅客輸送は、この一件で終わる。事故そのものより、それが映像で見られたことが大きかった。レイクハースト
- ジェット旅客機コメットできごとAD1952年5月2日ジェットの旅1952年5月2日、イギリスのデ・ハビランド社のコメットが、ロンドンからヨハネスブルクへ飛び、世界で初めてジェット旅客機が定期便で客を運んだ。プロペラ機のほぼ倍の速さで、揺れも少ない。ところが二年のうちに、コメットは空中で次々に分解して墜ちた。機体を水槽に沈めて圧力をかけ続ける実験で、窓の四角い角から金属の疲れによる亀裂が広がることが突き止められる。いまの飛行機の窓が丸いのは、この失敗の教訓による。ロンドン
- ディズニーランドの開園できごとAD1955年7月17日テーマパークアニメーション映画で名を上げたウォルト・ディズニーは、親と子が一緒に楽しめる清潔な遊園地を作りたいと考え、ロサンゼルスの郊外アナハイムのオレンジ畑に、映画のセットのように作り込んだ世界を建てた。1955年7月17日の開園の日はテレビで全米に生中継されたが、偽の招待券で人があふれ、アスファルトが熱で溶け、水飲み場も足りず、のちに「暗黒の日曜日」と呼ばれた。それでも客足は伸び続け、物語の世界を丸ごと体験させる「テーマパーク」という形が生まれた。1983年には、アメリカの外で初めて、千葉県浦安市に東京ディズニーランドが開園した。アナハイム
- 州間高速道路できごとAD1956年アイゼンハワーは若いころ、陸軍の車列で大陸を横断し、二か月かかった経験を持つ。大統領になった彼は、ドイツで見たアウトバーンを引き合いに、全国を結ぶ高速道路の建設を進めた。1956年の法は、費用の九割を連邦が負う仕組みを作る。核攻撃のときの避難路という理由づけも使われた。四万マイルを超える網ができ、郊外の住宅地とトラック輸送が広がり、鉄道と都心は衰える。都市を通す区間は、地価の安い地区、多くは黒人の住む地区を貫いた。道をどこに通すかは、誰の暮らしを壊すかを決めることでもあった。ワシントンD.C.
- 名神高速道路の開通できごとAD1963年7月16日1956年、日本の道路を調べに来た世界銀行の調査団は、報告書の冒頭に、日本の道路は信じがたいほど悪いと書いた。国道でさえ多くが舗装されていなかった。日本は世界銀行から資金を借りて、初めての高速道路の建設に取りかかった。1963年7月16日、兵庫県の尼崎と滋賀県の栗東の間の71キロが開通し、1965年に名古屋と西宮がつながった。1969年には東名高速道路も全線が開通し、東京から神戸までが一本の高速道路で結ばれた。高速道路は、トラックによる物の運び方を変え、マイカーの時代を後押しした。栗東
- 海外旅行の自由化できごとAD1964年4月1日海外旅行が自由に戦後の日本では、外国のお金が足りなかったため、仕事や留学などの理由が無ければ海外へ出ることはできなかった。1964年4月1日、観光のための海外旅行が自由になった。ただし年に1回、持ち出せる外貨は500ドルまでだった。この年、日本は為替の自由化を約束する国になり、秋には東京オリンピックが開かれた。翌年、日本航空は団体旅行の商品「ジャルパック」を売り出した。旅行は高嶺の花だったが、1970年代にジャンボ機と円高で値段が下がると、海外へ出る日本人は1972年に年100万人、1990年には1000万人を超えた。東京
- 東海道新幹線できごとAD1964年10月1日高速鉄道の始まり鉄道は時代遅れで、これからは自動車と飛行機だと、世界の多くが考えていた。国鉄総裁の十河信二と技師長の島秀雄は、線路の幅を広げ、専用の線路を新しく敷いて、東京と大阪を高速で結ぶ計画を押し通す。世界銀行から金を借りた。1964年10月1日、東京オリンピックの九日前に開業し、最高時速二百十キロで両都市を四時間で結んだ。以来、列車の衝突や脱線で乗客が亡くなった事故は起きていない。鉄道の復権は、ここから世界に広がった。東京
- ジャンボ機できごとAD1970年1月22日空の大量輸送1970年1月22日、ニューヨークからロンドンへ、二階建ての大きな旅客機ボーイング747が初めて乗客を運んだ。それまでの旅客機の倍以上の、四百人近くが乗れる。一度に多く運べば、一人あたりの運賃は下がる。ジャンボ機と呼ばれたこの飛行機で、海外への旅は金持ちだけのものではなくなった。日本でも1970年代から海外旅行が広がり、団体の観光客が世界へ出かけていく。一方で、一度の事故で失われる命も大きくなった。ニューヨーク
- コンコルドできごとAD1976年1月21日音より速くイギリスとフランスが共同で開発した超音速の旅客機コンコルドは、1976年1月21日に定期便の運航を始めた。音の二倍の速さで、ロンドンやパリからニューヨークまで三時間半で飛ぶ。だが燃料を大量に使い、衝撃波の騒音で多くの空港に乗り入れを断られ、客席は百ほどしかなく、運賃は極めて高かった。作られたのは試作機を含めて二十機ほどである。2000年にパリで墜落事故が起き、2003年に引退した。速さより安さを選んだのが、その後の空の旅だった。パリ
- 成田空港の開港できごとAD1978年5月20日空港と土地を奪われる人々羽田空港が手狭になると、政府は1966年、千葉県の三里塚・芝山に新しい国際空港を造ることを、地元の農民に相談しないまま決めた。農民たちは反対の同盟を作り、新左翼の学生たちも加わって、激しい闘争になった。1971年の土地の強制収用では、機動隊員3人が殺された。開港の直前の1978年3月には、過激派が管制塔に侵入して機器を壊し、開港は延期された。5月20日、空港は厳重な警備の中で開港した。1990年代、政府は話し合いの場で、強引な進め方を農民に謝罪した。成田
- 航空の規制緩和できごとAD1978年10月24日空の旅が安くなるアメリカの国内の航空は、長いあいだ政府の委員会が、どの会社がどの路線を飛べるか、運賃をいくらにするかを決めていた。運賃は高く、空の旅は一部の人のものだった。1978年10月24日、カーター大統領は、路線と運賃の規制をなくす法に署名した。新しい会社が次々に参入して運賃は下がり、飛行機に乗る人は大きく増えた。一方で、パンナムなどの老舗の会社が潰れ、大手は拠点の空港に便を集める形に変わった。同じ流れはヨーロッパやアジアにも広がり、格安航空会社の時代を開いた。ワシントンD.C.
- TGVの営業開始できごとAD1981年9月27日日本の新幹線の成功を見たフランスは、独自の高速鉄道を開発した。1981年9月27日、パリとリヨンの間で、TGV(高速列車)の営業運転が始まった。新しく造った専用の線路を時速260キロで走り、それまで4時間ほどかかった道のりを2時間40分に縮めた。専用の線路を出れば、在来の線路にもそのまま乗り入れられるのが強みだった。TGVの路線は国中に広がり、フランスの国内の空の便を減らした。2007年には、試験の列車が時速574.8キロの、車輪で走る列車の世界記録を出している。リヨン
- 日航機墜落事故できごとAD1985年8月12日1985年8月12日の夕方、羽田から大阪へ向かった日本航空123便は、離陸して十二分後に後部の圧力隔壁が壊れ、尾翼と油圧を失った。操縦士たちは三十分あまり機体を保とうとしたが、群馬県の御巣鷹の尾根に墜ちる。乗っていた五百二十四人のうち五百二十人が亡くなり、単独の機体の事故としていまも世界最悪である。七年前の事故のあと、製造会社が行った隔壁の修理に誤りがあった。お盆の帰省の便だった。御巣鷹の尾根(位置は特定されていない)
- 国鉄の分割民営化できごとAD1987年4月1日国鉄からJRへ日本国有鉄道は、1964年に赤字に転じてから、車と飛行機に客と貨物を奪われ、地方の赤字路線と、政治の求めで造られる新線を抱えて、借金を膨らませ続けた。労働組合とのストライキも繰り返された。中曽根内閣は、国鉄を地域ごとに分け、民間の会社にすることを決めた。1987年4月1日、国鉄は、北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州の6つの旅客の会社と、一つの貨物の会社などに分かれ、JRとして出発した。37兆円を超える借金の多くは国が引き受けた。分割の過程では、多くの国鉄の職員が新会社に採用されず、長い争いが残った。東京
- 青函トンネルできごとAD1988年3月13日海峡の下を走る1954年、台風で青函連絡船の洞爺丸が沈み、千百人を超える人が亡くなった。海の底を掘って本州と北海道を結ぶ計画が、この事故をきっかけに動き出す。海底の下の軟らかい地層から水が噴き出し、工事は何度も止まった。二十年以上かかり、三十人を超える人が命を落とす。1988年3月13日、全長五十三キロあまりの、当時世界で最も長い鉄道のトンネルが開通した。そのころには、人の多くはすでに飛行機で移動するようになっていた。津軽海峡(位置は特定されていない)
- 英仏海峡トンネルの開通できごとAD1994年5月6日島国が大陸とつながるイギリスとフランスの間の海峡の下にトンネルを掘る計画は、ナポレオンの時代から何度も持ち上がったが、島国の守りが崩れることを恐れるイギリスが、そのたびに止めてきた。1980年代、両国の首脳はついに民間の資金で掘ることに合意し、両岸から掘り進めたトンネルは、1990年12月、海の下でつながった。1994年5月6日、エリザベス2世女王とミッテラン大統領が開通を祝った。全長50キロあまりのうち、38キロは海の下を通る。秋にはロンドンとパリを3時間で結ぶ列車ユーロスターが走り始め、イギリスは鉄道で大陸とつながった。英仏海峡トンネル(位置は特定されていない)
- 海の上の空港できごとAD1994年9月4日大阪の空港は住宅地の中にあり、騒音への訴えで夜は飛べなかった。沖合五キロの海を埋め立てて島を造り、そこに空港を置く。1994年9月4日、日本で初めて二十四時間使える国際空港として開港した。だが海の底の軟らかい粘土の上に造った島は、予想を超えて沈み続け、護岸を高くする工事が続く。2018年の台風では、高潮で滑走路が水に浸かり、連絡橋にタンカーがぶつかって島が孤立した。関西国際空港
- 明石海峡大橋できごとAD1998年本州と淡路島のあいだの海峡は、潮が速く、水深があり、台風と地震の通り道でもある。中央の径間は二キロ近く、世界で最も長い吊り橋になった。工事の途中、1995年の阪神淡路大震災が起きる。二つの主塔の基礎はそれぞれ別の地盤に立っており、地面がずれて塔の間隔が一メートル近く広がった。設計を修正して工事を続け、1998年に開通する。橋を架ける難しさは、長さや重さだけではない。何十年ものあいだに動く地面と風と潮の中で、それでも持つように作ることになる。明石海峡
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
技術と産業34件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。交易路とお金14件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。都市の歴史13件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。民族移動の時代4件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。表現の歴史4件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。二つの大戦3件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。武士の700年3件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。探検と発見3件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。帝国と独立3件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。誰が書き残したか3件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。ローマ人の物語2件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。女性の権利2件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。草原の帝国2件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。キリスト教のひろがり2件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。文明のはじまり2件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀2件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。働くことの歴史2件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。インドと仏教1件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。中国の王朝1件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。主権はだれのものか1件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。冷戦のあと1件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。確かめるという方法1件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史1件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『交易の世界史』で読む物の流れ1件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。『史記』で読む中国1件を共有 / 2000年前に、一人の男が3000年ぶんを書いた。宮刑を受けてなお書き続け、以後の中国の歴史書の型になった。メディアの歴史1件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。