概要
漫才のもとは、正月に家々を回って祝いの言葉を述べ、鼓を打って掛け合いをする「萬歳」という芸だった。寄席の萬歳も、長く歌や踊りや鳴り物が中心だった。1930年、吉本興業の横山エンタツと花菱アチャコは、和服ではなく背広を着て舞台に立ち、楽器を持たずに、ふだんの言葉の掛け合いだけで客を笑わせた。1933年の「早慶戦」はラジオで放送されて大当たりする。この年、吉本は「萬歳」を「漫才」と書くことに改めた。二人で話すだけの芸は、ラジオとテレビにそのまま載り、日本の笑いの中心になっていく。
場所
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府
本文
正月になると、烏帽子をかぶった太夫と、鼓を打つ才蔵の二人組が家々を回り、めでたい言葉を述べて、滑稽な掛け合いをした。これを萬歳という。三河萬歳、尾張萬歳などが知られ、江戸時代には武家の屋敷にも出入りした。明治になると、萬歳は寄席の芸にもなり、大阪で人気を得る。ただ、その中心は、歌や踊りや鳴り物を交えた賑やかな芸だった。
大阪の吉本興業は、1912年に吉本吉兵衛とせいの夫婦が寄席を買い取って始めた会社で、落語より安い木戸銭で見られる萬歳に力を入れていた。1930年、吉本は横山エンタツと花菱アチャコを組ませる。エンタツはアメリカの寄席の芸を見てきた人で、二人は背広を着て舞台に立ち、楽器を持たずに、ふだん町で交わすような言葉で掛け合いをした。
身近な話題を、話すことだけで笑いにする。「しゃべくり漫才」の始まりである。1933年、二人が大学野球の早慶戦を題材にした「早慶戦」はラジオで放送され、全国に広まった。同じ年、吉本は宣伝部の提案で、萬歳を「漫才」と書くことにした。
話すだけの芸は、道具も舞台の仕掛けも要らず、ラジオにもテレビにもそのまま載せられた。戦後、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいしから、1980年の漫才ブーム、そして今日の賞レースまで、漫才は日本の笑いの中心であり続けている。二人の掛け合いで一人がとぼけ、一人が突っ込むという形は、この時期に固まった。