人物

李煜(南唐後主)

Li Yu
AD937年 – AD978年8月13日(享年41・推定)
南唐重要度 5

概要

南唐の三代目。政治をせず、詞と書と画と仏教。周皇后と小周后。975年、金陵が落ちて開封へ。「違命侯」。「春花秋月何時了」。「問君能有幾多愁、恰似一江春水向東流」。誕生日に太宗の毒。詞は彼で、宴の歌から、人の心の文学になった。

関わったできごと(1)

南唐の滅亡AD975年 · 最後の王

本文

937年の七夕、南唐の都金陵(いまの南京)で、のちの二代目の君主李璟の六男として生まれた。字は重光。片方の目に瞳が二つあったと伝えられ、古代の聖王の舜や楚の項羽と同じ相だと言われた。父は詞を作る文人の君主で、宮廷には書画と音楽があふれていた。六男だった彼は位を継ぐ立場になく、本人も山に隠れて暮らしたいと望んで、隠者を気取った号を名乗っていた。

南唐は、唐が滅んだあとの五代十国の時代に長江の下流に興った国で、江南の豊かさに支えられて文化の都となった。しかし父の代の958年、北の後周の柴栄(後周世宗)に攻められて長江より北の土地を割き、皇帝の称号を捨てて臣下の礼をとることになった。兄たちが次々に亡くなり、皇太子だった兄も959年に死んだため、961年、24歳の李煜が国主として位を継いだ。北ではその前年、趙匡胤(宋の太祖)が宋を建てていた。

即位したとき、南唐はすでに宋の属国だった。彼は宋に貢ぎ物を送り続け、国号も「江南国主」と名を落としてへりくだった。政治よりも詞と書と絵、そして仏教に心を傾けた。金陵には寺が建ち並び、僧が増えた。最初の妻、周皇后(大周后)は音楽に長け、唐の玄宗の時代に名高かった「霓裳羽衣の曲」の楽譜を見つけて、弾き直したと伝えられる。964年、幼い息子を亡くした直後に周皇后も29歳で病死した。彼はのちにその妹(小周后)を皇后に迎えている。妹との恋は姉の存命中から始まっていたとされ、そのころの逢い引きを描いたとされる詞が残る。

彼の宮廷は、文化の上では中国でも指折りの場所だった。李煜自身、書では震えるように筆を運ぶ独特の書きぶりで知られ、絵もよくした。南唐の宮廷の工房で漉かれた紙は「澄心堂紙」と呼ばれ、宋の文人たちが争って求める名品となった。重臣の韓熙載が夜ごと開く宴の様子を描いた「韓熙載夜宴図」は、李煜が画家を送り込んで様子を探らせた絵だという言い伝えがある。もっとも、いま北京の故宮にある絵は後の時代の写しとされる。

974年、宋の太祖は李煜に都の開封へ来るよう命じた。彼は病を理由に断り、宋の軍が長江を渡った。金陵は1年近く囲まれ、975年の冬に落ちた(南唐の滅亡)。李煜は一族とともに降り、開封へ連れて行かれた。故国を去るときの心を詠んだとされる「破陣子」には、四十年来の家と国、三千里の山河、という句がある。太祖は彼に「違命侯(命令に背いた侯)」という屈辱的な爵位を与えた。

開封での暮らしは、名ばかりの屋敷に閉じ込められた虜囚のそれだった。旧臣への手紙に、朝夕、涙で顔を洗っていると書いたと伝えられる。しかし彼の詞が大きく変わったのは、この時期である。それまでの詞は宴で歌姫が歌う、恋と春の歌が中心だった。亡国ののちの李煜は、失ったものへの痛みをそのまま言葉にした。「浪淘沙」では、簾の外の雨音で目覚め、夢の中だけは自分が囚われの身だと忘れて楽しんでいた、と詠む。「相見歓」では、黙って一人西の楼に登れば月は鉤のように細く、断ち切ろうとしても断ち切れず、整えようとしてもまた乱れる、それが別れの愁いだ、と歌った。

最もよく知られるのが「虞美人」である。春の花、秋の月、いつになったら終わるのか、と始まり、昨夜も小さな楼に東風が吹いたが、月明かりの中で故国を振り返ることには耐えられない、と続く。結びは、君に問う、愁いはどれほどあるかと、まるで春の川の水が東へ流れていくようだ、という句で、千年後のいまも中国で広く口ずさまれている。

978年の七夕、42歳の誕生日に、彼は屋敷で歌姫にこの「虞美人」を歌わせた。故国を懐かしむ詞を聞いた宋の太宗(太祖の弟)は怒り、牽機薬という毒を贈って殺させた、と宋代の筆記は伝える。体が弓なりに反って苦しみ死ぬ毒だという。毒殺の話がどこまで本当かは確かめられないが、彼がその日に死んだことは確かである。洛陽の北の北邙山に葬られたとされる。小周后も間もなく亡くなった。

残された詞は、父李璟の作とあわせて『南唐二主詞』にまとめられた。李煜の作と確かに言えるものは30数首で、どれを彼の作とするかには異説がある。20世紀の初め、学者の王国維は『人間詞話』で、詞は李後主に至ってはじめて見る世界が大きくなり、感慨が深くなり、歌い手の詞から士大夫の詞に変わった、と書いた。さらに、ニーチェは血で書かれた文学を愛すると言ったが、後主の詞こそ血で書かれたものだ、とも評している。

国を守れなかった君主としては、彼ほど無力な者は少ない。しかし宴の歌にすぎなかった詞を、一人の人間の悲しみを語る文学に変えた人として、彼は「詞帝」とも呼ばれる。のちの宋の時代、詞は唐の詩(唐詩の頂点)と並ぶ中国文学の柱となった。その入口に立っていたのが、亡国の後主だった。

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