人物

ラビンドラナート・タゴール

Rabindranath Tagore
AD1861年5月7日 – AD1941年8月7日(享年80)
イギリス領インド重要度 4

概要

アジアで最初のノーベル文学賞。インドとバングラデシュ、両方の国歌を作詞している。

関わったできごと(1)

ベンガル分割AD1905年 · 分割反対の運動を歌で支えた

本文

1861年5月7日、カルカッタのジョラサンコにあるタゴール家の屋敷に生まれた。祖父ドワルカナートはイギリス人と組んで財を成した実業家で、父デーベンドラナートは宗教改革の団体ブラフモ・サマージを率いた思想家だった。ラビンドラナートは十数人いた子のうちの末に近い息子である。一族からは音楽家、画家、学者が何人も出ており、屋敷では演劇や音楽の催しが絶えなかった。19世紀のベンガルで西洋の学問とインドの伝統が出会った文化運動(ベンガル・ルネサンス)の、中心にいた家だった。

ベンガル・ルネサンスに関わる図版:Royal Peacock Barge LACMA M.82.154
ベンガル・ルネサンスWikimedia Commons Public domain

学校が大嫌いだった。いくつかの学校に入っては嫌になってやめ、勉強は家庭教師と兄たちから受けた。17歳でイギリスに留学して法律を学んだが、学位を取らずに帰国している。一方で詩は早くから書き、10代のうちに作品が雑誌に載った。

30歳の頃から、父に命じられて東ベンガル(いまのバングラデシュ)にある一族の領地の管理に赴いた。屋形船で川を行き来しながら、農民の暮らしを間近に見た。この時期に書いた短編小説は、村の人々の喜びや悲しみを描き、ベンガル語の近代短編の始まりとされる。

ラビンドラナート・タゴール(1909年)
ラビンドラナート・タゴール(1909年)Wikimedia Commons Generalstabens litografiska anstalt · Public domain

1901年、父が瞑想の地として開いたシャンティニケタンに、小さな学校を作った。子どもたちは木の下で学び、詩や歌や踊りも学びの一部だった。試験と暗記で縛るイギリス式の教育への批判から生まれた学校である。1921年には、世界の文化が出会う場所として大学(ヴィシュヴァ・バーラティ)に広げた。学校を開いた頃から数年のうちに、妻、娘、息子、父を相次いで失っている。

1905年、イギリスがベンガル州を宗教の境で二つに分けると(ベンガル分割)、タゴールは反対運動の先頭に立ち、歌を作って人々を励ました。そのとき作った「わが黄金のベンガル」は、のちにバングラデシュの国歌になる。1911年に作った「ジャナ・ガナ・マナ」は、独立後のインドの国歌になった。一人の詩人が二つの国の国歌を書いたことになる。スリランカの国歌も、作者がシャンティニケタンでタゴールに学んだ人で、その影響が指摘されている。ただ、運動が暴力や外国製品の排斥に傾いていくと、タゴールは身を引いた。

アインシュタインとラビンドラナート・タゴール(ベルリン、1930年7月14日)
アインシュタインとラビンドラナート・タゴール(ベルリン、1930年7月14日)Wikimedia Commons Martin Vos · Public domain

1912年、自分でベンガル語から英語に訳した詩を携えてロンドンを訪れた。アイルランドの詩人イェイツらが感嘆し、詩集『ギーターンジャリ』が序文付きで出版される。翌1913年、ヨーロッパの外の人として初めてノーベル文学賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。もっとも、英訳は原詩をかなり自由に縮め、言い換えたもので、ベンガル語の韻律や響きはほとんど伝わっていない。西洋がもてはやしたのは「東洋の神秘の聖者」という姿で、タゴール本人は後にその扱いに苦しんだ。

1915年にイギリスからナイトの称号を受けたが、1919年、アムリトサルで非武装の群衆が撃ち殺されると(アムリトサル虐殺)、総督に抗議の手紙を送って称号を返上した。

タゴールとガンディー
タゴールとガンディーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ガンディーとは互いに深く敬い合いながら、何度も公に論争した。ガンディーを「マハートマ」(偉大な魂)と呼んだのはタゴールだとされる。それでも、外国製の布を集めて焼く運動には反対した。西洋のものを排除するのではなく、受け取ったうえで超えるべきだ、と考えたからである。ナショナリズムそのものにも警戒を隠さず、国家が人を戦争へ駆り立てる力を恐れた。

日本には3回訪れている。友人の岡倉天心を通じて日本の美術に親しみ、日本の近代化を称えたが、1916年の講演では、西洋をまねた軍国主義の道を歩むなと戒め、歓迎は冷めた。のちに日本が中国へ攻め込むと、日本の詩人との手紙のやり取りで、その侵略を厳しく批判した。

1916年の訪日時のタゴール(中央)。右端に横山大観。
1916年の訪日時のタゴール(中央)。右端に横山大観。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

60代の終わりからは絵を描き始め、2000点を超える作品を残した。1930年にはアインシュタインと会い、真理は人間の外にあるのかをめぐって対話している。生涯に作った歌は2000を超え、ベンガルではいまも「ロビンドロ・ションギート」(タゴールの歌)として日常的に歌われる。

1941年、最後の講演「文明の危機」で、西洋文明への失望と、それでも人間への信頼を捨てないと語った。同じ年の8月7日、生まれたカルカッタの屋敷で亡くなった。80歳だった。インドの独立も、ベンガルがふたたび分けられるのも、見ることはなかった。

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