カルナックの列石
概要
ブルターニュの海岸に3000の石が列をなして4キロ。何のためかは分からない。ストーンヘンジより古い。伝説では、聖コルネリウスが追ってきたローマ兵を石に変えた。1990年代に柵で囲まれた。
場所
47.58°N -3.08°E · フランス
本文
フランスの北西の端、ブルターニュ半島の南岸にあるカルナックの村のまわりには、立てられた石が野原に何列も並んでいる。数はおよそ3000本。いくつかの群に分かれ、端から端まで歩けば4キロほどになる。石の多くは人の背丈ほどで、高いものは4メートルほどになる。並べられたのは、新石器時代の紀元前4500年から紀元前3300年ごろのあいだとされる。ブリテン島のストーンヘンジ(ストーンヘンジの完成)で石組みが始まるより、千年以上も前のことになる。
代表的な群は三つある。西のメネクには1000本あまりが11列ほどで1キロ以上続き、東隣のケルマリオには1000本あまりが10列、さらに東のケルレスカンには500本あまりが13列ほど並ぶ。列は西の端で石が高く、東へ行くほど低くなる傾向があり、列の端に石で囲んだ円形や半円形の区画が置かれていることもある。一本ずつ立てた石はブルトン語で「長い石」を意味するメンヒルと呼ばれ、石を組んで屋根を架けた墓はドルメン(石の机)と呼ばれる。どちらもこの地方の言葉から考古学の用語になった。

何のために並べたのかは分かっていない。夏至や冬至の日の出の方角に合わせた暦だとする説、死者の儀礼や行列のための道だとする説、集団どうしの境界や会合の場の目印だとする説がある。列の向きは群ごとに少しずつ違い、天文の説で全体を説明するのは難しい。文字の無い時代の人々が残したのは石と、周りの墓だけである。
カルナックの石は、周りの巨石の遺跡と一続きのものとして見たほうがよい。近くのロクマリアケールには、高さ20メートルほどの巨大なメンヒルが倒れて四つに割れたまま残っている。モルビアン湾に浮かぶガヴリニス島の墓の通路には、壁一面に渦巻きや同心円の模様が刻まれている。この湾の一帯では、新石器時代のあとに海面が上がり、かつて陸にあった石の列や環の一部はいまは海の中にある。石を運び、立て、並べるには、多くの人を一つの目的のために集める力が要ったはずで、ここに農耕をする集団が定住していたことを物語る。

石を立てた人々は、それより前から大西洋の岸づたいに暮らしていた狩りと漁の人々と、東から移ってきた農耕と牧畜の人々が混ざり合った集団だったと考えられている。巨石を立てる習わしは、ブルターニュからイベリア半島、ブリテン島、北欧の海岸まで、大西洋に面した土地に広く見られ、ブルターニュはその中でも古い中心の一つとされる。トルコのギョベクリ・テペのように、さらに数千年古い石の建造物も知られているが、それは農耕が始まるころの、まったく別の伝統である。カルナックの石は、海ぞいに暮らす農耕の村々が、何世代にもわたって手を加え続けた場所だったのかもしれない。
土地の人々は、石の由来を伝説で語ってきた。3世紀の教皇コルネリウスがローマの兵に追われてここまで逃げ、追ってきた兵を石に変えた、という話である。カルナックの教会は聖コルネリウスに捧げられ、牛の守り神としても祀られている。19世紀には、石の列をケルト人の祭司ドルイドの神殿と見る説が流行ったが、ケルト人がこの地に現れるのはずっと後で、年代が合わない。

それでも、メンヒルといえばケルトの古代を思い浮かべる見方は根強い。フランスで広く読まれてきた漫画『アステリックス』では、怪力のオベリックスがメンヒルを担いで運ぶ職人として描かれ、石の列は「ガリアの昔」の象徴として親しまれてきた。実際の石は、ガリアの人々にとってもすでに遠い昔の遺物だった。
学問としての調査は19世紀に始まった。スコットランド出身のジェームズ・ミルンが発掘をし、その手伝いをした地元のザカリー・ル・ルジックが、のちに生涯をかけて調査を続けた。ル・ルジックは倒れていた石の多くを立て直したが、元の位置がどこだったかの記録は十分ではなく、いま見る列の一部は20世紀の手が入った姿である。

20世紀の後半、訪れる人が増えると、踏まれた土が削れて石の根元が弱ることが心配された。1991年から主な列は柵で囲まれ、自由に歩くことはできなくなった。観光の少ない冬の時期に限って、一部の列に入れるようにしている。石は1本ずつ、名も知られない誰かが立てた。6000年たったいまも、その意図を言い当てた人はいない。