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Person / 人

ウィリアム・ホガース

William Hogarth
AD1697年11月10日 – AD1764年10月26日(享年66)
イギリス重要度 4

概要

ロンドン。ラテン語教師の父が債務者監獄に。銀器の彫版。『娼婦一代記』(1732年)、『放蕩一代記』、『当世風結婚』(1743年)、『ジン横丁』『ビール街』(1751年)、『選挙』。版画で稼ぎ、絵で認められたかった。『美の分析』(1753年、蛇状線)。孤児院(捨て子養育院)の理事。「イギリスの画家」。フランスを嫌った。「私はイギリスに絵の学校を作った」。

関わったできごと(1)

ホガース『放蕩一代記』AD1735年 · 描いた

本文

1697年11月10日、ロンドン、スミスフィールドのバーソロミュー・クローズ。父リチャードはウェストモーランドから出て来たラテン語教師で、ラテン語の辞書を書き、「ラテン語しか話せないコーヒーハウス」を開いて、破産して、フリート監獄(債務者)に4年(1708〜12年)。家族も監獄の中で暮らした。ウィリアムは10歳から14歳。「私は、出版社と出版業に、生涯、疑いを持った」。

1714年、銀器の彫版師エリス・ギャンブルの徒弟(紋章、名刺、店の看板)。1720年、独立。書物の挿絵(『ヒューディブラス』1726年)、商店のカード、版画。セント・マーチンズ・レーンのアカデミー(ヴァンダーバンクとシェロン、1720年)、ソーンヒル(ジェームズ・ソーンヒル卿。グリニッジ病院の天井、セント・ポールのドーム。宮廷画家)の無料のアカデミー(1724年)。1729年、ソーンヒルの娘ジェインと駆け落ちして結婚した(ソーンヒルは初め怒り、『娼婦一代記』を見て、和解した、と伝える)。

「会話画(カンヴァセーション・ピース)」。家族と友人が集まっている小さな絵。『ウォラストン家』(1730年)。『乞食オペラ』の舞台(1728〜31年、5版)。それから、「近代的な道徳の主題」。『娼婦一代記』(1732年、油彩は1755年の火事で焼けた)、『放蕩一代記』(1735年)、『ストロード家』『グレアム家の子供たち』(1742年)、『当世風結婚』(1743〜45年、ナショナル・ギャラリー)、『勤勉と怠惰』(1747年)、『ジン横丁』『ビール街』(1751年)、『残酷の四段階』(1751年)、『選挙』(1755年。ソーンズ美術館)。

肖像画(「私は、顔(フィズ)を描くという、この呪われた仕事に落ちた」)。『コーラム船長』(1740年、捨て子養育院)、『海老売りの娘』(1740年頃、ナショナル・ギャラリー。未完。笑っている)、『自画像(パグと)』(1745年。犬トランプと、パレットに「美の線」)、『ロヴァット卿』(1746年、スコットランドのジャコバイト。処刑の直前。版画が1日100枚)、『ギャリック(リチャード3世役)』(1745年)。

『美の分析』(1753年。「蛇状線(ライン・オブ・ビューティー)」。S字の曲線が、美の線。「多様性」「複雑さ」。アカデミーの規則を嫌った。「イタリアへ行く必要はない」。イギリスの、自然と、日常から)。

1735年、版画家著作権法(ホガース法)。1735年、セント・マーチンズ・レーン・アカデミー(再建。後の王立アカデミーの元。1768年に王立アカデミーができたとき、ホガースは死んでいた。彼はアカデミーの「規則」に反対だった)。1740年、捨て子養育院の理事(コーラムの友人。絵を寄贈して、画家たちに寄贈させて、養育院が最初の公共美術館のようになった。ヘンデルも寄贈した)。1757年、国王の首席画家(父の後を継いだソーンヒルの職)。

1748年、フランスへ行って、カレーで城門をスケッチしていて、スパイとして逮捕された。『カレーの門(おお、古きイングランドのローストビーフ)』(1748年。痩せたフランス兵、太った修道士、そしてイギリスへ運ばれる牛肉)。フランスを嫌った。

1762年、『時代』(版画。ピット、ウィルクスを攻撃)。ウィルクス(急進派の政治家、『ノース・ブリトン』紙)が反撃し、ホガースは『ジョン・ウィルクス』(1763年。斜視で、「自由」の帽子)を描き、詩人チャーチルが『画家への手紙』でホガースを攻撃し、ホガースは『熊』(チャーチルを熊に)。「私は、自分の最後の絵を、争いで終えた」。

1764年10月26日、レスター・フィールズ(レスター・スクエア)の家。67歳。チズウィックの教会(ガーリックが墓碑を書いた)。ジェインは1789年まで生きた。

「イギリスで最初の、イギリスの画家」。「私は、イギリスに、絵の学校を作ろうとした」。彼の後、レノルズ、ゲインズバラ、王立アカデミー。彼は、それを、望んでいなかったかもしれない。