交易路とお金

概要
運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。
この物語について
儲けるのは、物を作る側ではない。通り道の細いところを押さえた側になる。それはいまも変わらない。では、人と物が動くところには、なぜいつも同じ仕組みが生えてくるのか。運ぶ、両替する、貸す。この三つの営みが、時代と場所を変えて何度も現れる。
交易は文字より古い。地中海の東岸では、紀元前2千年紀からフェニキア人の都市が海に乗り出し、ティルスの王ヒラムはイスラエルのソロモン王と組んで遠い国へ船を送ったと聖書は伝える。ティルスの名産だった紫の染料は、巻貝から少しずつしか取れず、王侯の色になった。前9世紀の終わりごろ、ティルスの人々は北アフリカにカルタゴを建てたと伝えられる。中央ヨーロッパのハルシュタットでは、岩塩坑から掘った塩が富をもたらしていた。交易路の多くは、物よりも先に値段と情報を運んでいた。

運んだ物を交換するには、ものさしが要る。前7世紀ごろ、小アジアのリュディアで、金と銀の自然の合金に刻印を打った貨幣が作られた(リュディアの鋳造貨幣)。重さと質を国が保証する小片があれば、いちいち秤にかけずに取引ができる。のちの王クロイソスは、金と銀を分けた貨幣を造ったとされ、その名は富の代名詞になった。中国では、それとは別に青銅の貨幣が発達していく。
陸の道で最もよく知られるのは、中国と地中海を結ぶ絹の道である。その始まりは、交易ではなく同盟探しだった。前2世紀、漢の武帝は北の匈奴を挟み撃ちにする相手を求めて、張騫を西へ送った(張騫の西域派遣)。張騫は途中で匈奴に捕らえられて10年以上を過ごし、ようやく目的地に着いたものの、同盟は断られた。それでも彼が持ち帰った西の国々の知らせが、漢の西への進出と交易の道を開いた。絹は一つの隊商が端から端まで運んだのではなく、オアシスの町ごとに商人の手を渡り、そのたびに値が上がった。6世紀には突厥が草原の道を押さえ、ソグド人の商人がその仲介で栄えた。
道を通ったのは物だけではない。751年、唐とアッバース朝の軍が中央アジアのタラス河畔でぶつかった。このとき捕虜になった唐の紙すき職人がサマルカンドで紙を作り始めた、という話が広く知られているが、それ以前から紙は西へ伝わり始めていたともいわれる。いずれにせよ、紙はやがてイスラム世界の学問を支え、さらにヨーロッパへ渡っていく。

海の道では、季節風が交易のリズムを決めた。インド洋の風は半年ごとに向きを変える。ダウ船の商人たちは、冬の北東の風でアラビアやインドからアフリカ東岸へ下り、夏の南西の風で帰った。風の折り返し地点に、キルワやモンバサのようなスワヒリ海岸の港町が栄えた。東の海では、マラッカ海峡が細い通り道だった。7世紀から栄えたシュリーヴィジャヤは、スマトラ島を拠点に海峡を通る船を押さえ、港に寄らせて税をとった(シュリーヴィジャヤの海上交易)。唐の僧義浄はインドへの往き来の途中でここに滞在し、仏教の学問が盛んな様子を書き残している。押さえるべきは産地ではなく、通り道の細いところだった。
サハラ砂漠では、ラクダが道を作った。紀元後の数世紀のうちに北アフリカに広まったラクダは、何日も水を飲まずに荷を運べ、砂漠を越えられるものにした。サハラの南には金があり、北には塩があった。西アフリカのガーナ王国は、その交換の場所を押さえて栄えた(ガーナ王国の金と塩の交易)。暑い土地では塩がなければ人も家畜も生きられない。金と塩が同じ重さで交換されたという言い伝えもあるが、どこまで文字どおりかは分からない。ガーナのあとを継いだマリの王マンサ・ムーサは、1324年にメッカへ巡礼した。その途中のカイロで大量の金を配り、使ったために、金の値が何年も下がったとアラブの記録者は書いている(マンサ・ムーサの巡礼)。

交易が大きくなると、運ぶ者と別に、お金を扱う者が現れる。中世のイタリアの商人たちは、重い金貨を運ぶ代わりに為替手形を使った。フィレンツェで払った金を、ブルッヘやロンドンの取引先で受け取れる約束の紙である(為替手形)。教会は利子を取ることを禁じていたが、両替の手数料と為替の差益という形で、実際には貸し借りの対価が取られた。15世紀のフィレンツェで最大の銀行を作ったメディチ家は、各地の支店をそれぞれ別の会社にして、一つが潰れても全体が倒れない仕組みにした。ピサ出身のフィボナッチが北アフリカで学んだインド・アラビア数字を『算盤の書』で紹介したのも、商人の計算のためだった。北の海では、ドイツの諸都市がハンザ同盟を結び、国を介さずに都市どうしで商いの決まりを守った。
イブン・バットゥータは14世紀に30年近くかけて、北アフリカから西アフリカ、東アフリカ、インド、中国までを旅した。旅ができたのは、各地にイスラム教徒の商人と法学者の共同体があり、同じ言葉と法で迎えてくれたからである。15世紀の初めには明の鄭和が大艦隊を率いて東アフリカまで7回の航海をしたが、明はその後、民間の海外渡航を厳しく制限し、遠征をやめた。

その海に、ヨーロッパ人が外から入ってきた。1498年、ヴァスコ・ダ・ガマはアフリカ東岸のマリンディで水先案内人を雇い、季節風に乗ってインドのカリカットに着いた。数百年動いてきたインド洋の交易網に、大砲を積んだ船で割り込んだのである。
16世紀に、お金の流れは初めて地球を一周した。1545年、いまのボリビアの高地でポトシの銀山が見つかり(ポトシ銀山の開発)、先住民を強制的に働かせる仕組みで大量の銀が掘られた。銀の一部は大西洋を渡ってスペインへ行き、ヨーロッパの物価を押し上げながらアジアとの取引に使われた。もう一部は、1565年に始まるマニラ・ガレオン貿易で太平洋を横断し、マニラで中国の絹や陶磁器と交換された。明は税を銀で納める仕組みに移りつつあり、銀を強く求めていた。日本の石見の銀も、同じ流れに加わっていた。
同じ航路と同じ会社の仕組みは、人を商品として運ぶのにも使われた。16世紀から19世紀までに、アフリカから大西洋を越えて運ばれた人は1200万人を超え、航海の途中で多くが死んだ(大西洋奴隷貿易)。カリブの砂糖、北アメリカのタバコや綿花の農園は、その労働の上に成り立っていた。コンゴ王国のアフォンソ1世は、16世紀にポルトガル王へ手紙を送り、自国の民がさらわれて売られていくことに抗議している。交易の歴史は、そこを避けては書けない。

17世紀には、交易そのものが株式会社の形をとった。1602年にできたオランダ東インド会社は、多くの出資者から集めた資金で船団を送り、利益を配当した。会社は軍隊を持ち、条約を結び、ジャワ島のバタヴィアを拠点に香辛料の産地を力で押さえた。危険を分け合う仕組みも生まれ、ロンドンのロイドのコーヒーハウスでは、船の積み荷の危険を引き受ける人々が書類の下に名を連ねた。
19世紀には、運ぶ速さと値段が一気に変わった。蒸気船は風を待たずに時刻表どおりに走り、大西洋の海底に電信のケーブルが通って、ロンドンとニューヨークの市場が同じ日の値段を知るようになった。イギリスは自国の通貨を金と結びつけ、多くの国がそれに続いて、世界の通貨が金でつながった。それは安定をもたらしたが、同時に金の量に経済を縛った。

20世紀には、その仕組みが何度も揺れた。1923年のドイツでは物価が天文学的に上がり、1ドルが4兆マルクを超えた。世界恐慌のあと、各国は通貨の切り下げを競い合い、関税の壁を築いた。その反省から、1944年のブレトン・ウッズ会議で、ドルを金と結び、各国の通貨をドルと結ぶ仕組みが作られた。
そして1956年、アメリカの運送業者マルコム・マクリーンは、トラックの荷台ごと船に積むことを思いついた。コンテナ輸送のはじまりである。規格の揃った鉄の箱は港での積み下ろしの手間と盗みを激減させ、荷の積み込みの費用は1トンあたり5ドル83セントから16セントほどに下がったとされる。いま身の回りにある品物の多くは、こうして海を渡ってきている。

運ぶ、両替する、貸す。シュリーヴィジャヤが海峡で取った通行料は、いまのスエズ運河やパナマ運河、マラッカ海峡を通るコンテナ船の運賃に姿を変えた。1973年のオイルショックで一つの資源の値段が世界の暮らしを揺さぶり、2008年の金融危機では、貸し借りの網が一か所の破れから世界中に広がった。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生まれ、同じところで行き詰まる。通り道の細いところを誰が押さえているかを見ることは、いまも世界を読むいちばんの手がかりである。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(382)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 猫と人の関係できごとBC7500年頃船に乗って広がったキプロス島に、野生の猫はいなかった。それなのに、9500年前の墓に、人と猫が並んで葬られていた。誰かが船に乗せて連れて来たことになる。猫の家畜化は、農業とともに始まったと考えられている。穀物を貯めれば鼠が来る。鼠が来れば猫が来る。人は追い払わなかった。エジプトで神になり、船に乗って世界へ広がった。犬と違い、猫は用途のために作り変えられなかった。品種の大半は19世紀以降の産物である。シロウロカンボス
- ウルのゲーム盤と骰子できごとBC2600年頃船乗りが運んだ盤ウルの王墓から、貝殻と青金石を象嵌した盤が5面出土した。20の枡が十字に並ぶ。動かす数は、四面体の骰子で決める。ルールは長く不明だったが、大英博物館の学芸員が、紀元前177年の粘土板に書かれた遊び方の記述を解読して、復元した。同じ盤が、エジプトからインドまでの遺跡に出る。船乗りと商人が運んだ。人が最初に作った道具の中に、生きるためではないものが、これだけ古くからある。ウル

- メソポタミアの徳政令できごとBC24〜18世紀(王の代替わりごとに繰り返された)借金を帳消しにする制度王が代わるたび、農民の借金を帳消しにし、質に取られた家族を家へ返した。借金で社会が壊れることを、当時の王はよく知っていた。バビロン
- ティルスの紫できごとBC1500年頃1グラムに貝が1万個アクキガイ科の巻貝の鰓下腺から、ごく微量だけ取れる分泌物。空気と日光にさらすと、黄から緑、青を経て、深い赤紫に変わる。1グラムの染料に貝が1万個要る。だからこの色は、王と神官と高位の官職の色になった。ローマでは皇帝以外が全身を紫に染めることを禁じ、ビザンツでは皇后の産室を紫の石で覆って「生まれながらの紫(ポルフュロゲネトス)」と呼んだ。1453年のコンスタンティノープル陥落のころには、製法はほぼ途絶えていた。ティルス
- ヒラムのティルスできごとBC950年頃オフィルへの船フェニキアの王が、ソロモンにレバノン杉と職人を送って神殿の造営を助け、紅海の船を一緒に出した。20の町を礼にもらって「値打ちのない土地」と言った。ティルスはのちに地中海に植民市を送り、カルタゴを建てる。ティルス
- カルタゴの建設できごとBC814年(伝承)ティルスから来たフェニキア人が北アフリカに築いた。母市が衰えたあとも西地中海の交易を握り、600年後にローマと三度戦うことになる。カルタゴ
- ハルシュタットの鉄と塩できごとBC8世紀頃(BC12〜BC5世紀)岩塩坑の塩で栄えたアルプスの岩塩坑と鉄で栄えた。ここから広がった文化がのちにケルトと呼ばれる人びとのもとになる。坑内の塩が革の靴も道具もそのまま保存していた。ハルシュタット
- 管仲人物? – BC645年塩と鉄を国が握る敵だった公子に仕え、その公子を覇者にした宰相。塩と鉄を国が握り、商業を認めた。「衣食足りて礼節を知る」はこの人の言葉として伝わる。
- リュディアの鋳造貨幣できごとBC7世紀後半金と銀の合金に刻印を打ち、重さを量らずに数えて使えるようにした。市場での取引が速くなり、税も給金も数で払えるようになる。サルディス
- ドンソンの銅鼓できごとBC6世紀頃(BC10〜BC1世紀)銅鼓の分布が海の道を示している。国家より先に、広い交換の網があった紅河の流域で作られた大きな銅の太鼓が、インドネシアの島々まで運ばれている。東南アジアが海でつながっていたことが、鋳物の分布から分かる。ドンソン
- クロイソス人物BC595年頃 – BC546年頃金銀の鋳造貨幣を最初に整えた王とされ、その富は「クロイソスのように富める」という言い方で残った。キュロス2世に敗れて国を失う。
- ペルシアの駅伝できごとBC500年頃90日の道を7日でスーサからサルディスまで2500キロ。一日で行ける距離ごとに宿駅を置き、馬と人を待たせる。書簡が着けば、次の者が受け取って走る。ヘロドトスが書いている。「雪も雨も暑さも夜の闇も、定められた行程を全速で走り抜くことを妨げない」。徒歩なら90日の道を、1週間ほどで伝えたと推定される。帝国の広さは、命令が届く速さで決まる。この一文が、20世紀にニューヨークの中央郵便局(1914年開館)の壁に刻まれ、アメリカの郵便配達員の非公式の標語になった。スーサ
- 乳香の道できごとBC400年頃木の涙を集める乳香と没薬は、アラビア半島南端のごく限られた地域にしか生えない木の樹脂である。切り傷から滲み出た涙を集め、乾かす。神殿で焚き、遺体に塗り、薬にした。年に3000トンが北へ運ばれたという推計がある。ラクダの隊商が、2000キロ以上を60日以上かけて進んだ。その道の要にあったのがナバテア人のペトラである。彼らは水の乏しい岩山に貯水の仕組みを作り、通行税を取って富を築いた。海路が開けると、道は衰えた。ペトラ
- 張騫の西域派遣できごとBC138年絹の道は、同盟を探した副産物として開いた匈奴を挟撃する同盟を探して送られた使者が、中央アジアの情報を持ち帰った。絹の道の始まり。長安
- 霍去病の河西遠征できごとBC121年20歳の将軍が匈奴を河西回廊から追い、漢はのちに四つの郡を置いていく。西域への道がここで開き、敦煌が最初の関になる。敦煌
- 大宛遠征(汗血馬)できごとBC104年馬のために開いた道武帝が「血の汗をかく天馬」を求めた。大宛は使者を殺した。李広利が数万で行き、飢えて帰り、武帝が「玉門関を入るな」。もう一度、6万。大宛は王の首を差し出し、馬3000頭。帰ったのは1万。西域の道が、馬のために開いた。フェルガナ(大宛)
- ナバテア人のペトラできごとBC1世紀乳香と没薬の道の要砂漠の岩の谷に、水路とダムで町を作った。乳香と没薬の道の要にあり、岩を彫って神殿の正面を刻んだ。ローマに併合されて商路が変わり、忘れられる。ペトラ
- 塩鉄会議できごとBC81年専売か市場か国が塩と鉄を専売するのは正しいか。官僚と儒者が朝廷で論じ、その記録が残った。国家と市場をめぐる最古の討論の一つになる。長安
- 常平倉できごとBC54年価格を平らにする豊作の年は米が安く、農民が困る。凶作の年は高く、都市の貧民が困る。前漢の宣帝の時代、耿寿昌が提案した。国家が、安い年に買い上げ、高い年に放出する。価格を平らにするので常平という。米を蓄えるだけでなく、市場に介入して値を動かす仕組みである。隋唐の義倉、宋の社倉、そして朝鮮の還穀と日本の江戸期の囲米へ。1938年、アメリカの農業調整法にも同じ名の制度が入った。農務長官ヘンリー・ウォレスが、中国の古典から取ったと述べている。長安
- ローマの絹できごとAD16年国富が東へ流れると嘆かれた元老院が男性の絹の着用を禁じた。国富が東へ流れる、と大プリニウスが嘆いている。作り方を知らないまま、木に生える綿毛だと考えられていた。ローマ
- ガルムできごとAD50年頃小魚を塩と一緒に石の槽に積み、日に晒して数か月置く。魚自身の酵素と細菌が身を分解し、澄んだ琥珀色の液が上がる。ローマ人はこれをほとんどの料理にかけた。産地と等級があり、上等品は同じ重さの香水に迫る値で取引された。ポンペイに製造業者アウルス・ウンブリキウス・スカウルスの家が残り、床のモザイクに壺の絵と銘が描かれている。同じ原理の調味料が、東アジアの魚醤と、そして醤油につながる。ポンペイ
- 『エリュトラー海案内記』できごとAD60年頃港ごとに、売れる物と買える物エジプトから紅海を出て、東アフリカとインドへ行く商人のための実用書。港ごとに売れる物と買える物が書かれている。季節風の使い方が広まった時期のもの。アレクサンドリア
- 硬貨で出る聖水できごとAD1世紀アレクサンドリアの技術者ヘロンは、神殿に置く装置を書き残した。硬貨を穴に入れると、その重みで皿が傾き、弁が開いて一定の量の聖水が流れ出る。硬貨が皿から落ちると弁が閉じる。人がいなくても、決まった値で決まった量を売る仕組みである。ヘロンは蒸気で回る球や自動で開く扉も記したが、多くは神殿を驚かせる仕掛けとして使われた。自動販売機が街に並ぶのは十九世紀の終わりからで、原理はすでにここにあった。アレクサンドリア
- 扶南の港市できごとAD100年インド洋と南シナ海の中継地インドと中国を結ぶ海路の中継地。ローマの貨幣も出土しており、交易網の広さを示す。オケオ
- アクスム王国国AD1世紀頃 – AD940年頃(衰退と滅亡には諸説ある)紅海の交易で栄えた紅海の交易で栄え、独自の文字と貨幣を持った。4世紀にキリスト教を国の宗教にする。ローマ・ペルシア・中国と並ぶ「世界の四大国」とペルシアの著述家が書いた。
- 蔡倫の製紙法できごとAD105年樹皮や布くずから安価な紙を作る方法をまとめた。600年後、タラス河畔で西へ渡る。洛陽
- 大秦王安敦の使者できごとAD166年両側から手を伸ばして届かなかった「大秦王安敦」の使者が海路で日南に着き、象牙と犀の角を献じた、と後漢書が記す。マルクス・アウレリウスの使者か、商人の名乗りかは分からない。洛陽
- チャンパ国AD192年(林邑の自立) – AD1832年(阮朝による併合)宋と日本と交易した海の国ベトナム中部の沿岸に、1500年続いた海の国。インドの神々を祀り、煉瓦の塔を建て、宋と日本と交易した。北から大越に押されて、少しずつ南へ縮む。
- サハラへのラクダの導入できごと3世紀これで砂漠が越えられるものになったこれで砂漠が「越えられるもの」になった。地中海と西アフリカが金と塩でつながる。トンブクトゥ
- アクスムの紅海交易できごとAD300年頃ローマとインドを結ぶ中継地として栄え、独自の貨幣を発行した。同時代の記録が「世界四大国」に数えている。アドゥリス
- ソグド商人のネットワークできごと400年絹の道の共通語を作った商人たちサマルカンドを中心に、中国から黒海まで隊商の網を張った人びと。ソグド語が絹の道の共通語になり、仏教もマニ教もこの商人たちに運ばれた。サマルカンド
- 絹の秘密できごとAD552年技術は、人と一緒に移動する絹の作り方は、中国が数千年、外に出さなかった。蚕の卵を国外へ持ち出せば死罪である。ローマとビザンツは、代金を金で払い続けた。プロコピオスによれば、552年、インドから来た修道士たちがユスティニアヌス帝に申し出て、中央アジアへ戻り、卵を持ち帰った。杖の中に隠したという話は、別の書き手が伝える。真偽は確かめられない。しかし6世紀半ば以降、ビザンツ帝国が自前で絹を生産し始めたことは確かである。皇帝の工房が独占し、紫の絹は帝室の色になった。コンスタンティノープル
- チャトランガとチェスの伝播できごとAD600年頃インドからペルシア、アラブ、ヨーロッパへインドで生まれた「四つの部分」という名の盤上遊戯。歩兵、騎兵、象、戦車、そして王と大臣。四つの兵科がそのまま駒になった。7世紀にペルシアへ渡ってシャトランジになり(王手を意味する「シャー・マート」が、チェックメイトの語源)、アラブ世界を経て、10世紀にヨーロッパへ。15世紀のヨーロッパで、大臣が最強の駒「クイーン」に変わった。同じ時期にイサベル女王がいたことと結びつける説がある。東へは、中国象棋、朝鮮のチャンギ、そして日本の将棋になった。パータリプトラ
- バーミヤンの大仏できごとAD600年頃三つの様式が混ざるヒンドゥークシュの谷の砂岩の崖に、高さ55メートルと38メートルの立像が彫られた。表面は泥と漆喰で成形され、顔と手は木の骨組みで作られ、金と朱で彩色されていた。玄奘が630年に見て「金色に輝き、宝飾が煌めく」と書いた。シルクロードの交易と、ギリシアとインドとイランの様式が混ざった場所。2001年3月、タリバンが爆薬で破壊した。空の窪みが残っている。バーミヤン
- 大運河の完成できごとAD610年南北が一つになった煬帝が、洛陽を中心に、南は杭州、北は涿郡(北京)まで、2500キロを掘らせた。延べ数百万人。堤に柳を植え、40の離宮を置いた。江南の米が北の都と軍を養えるようになり、中国の南北が経済で一つになった。同時に、この工事と3度の高句麗遠征が隋を潰した。運河は残り、その後1300年、中国の背骨だった。揚州
- シュリーヴィジャヤ国AD7世紀半ば – AD13世紀後半(衰退と消滅には諸説ある)マラッカ海峡の通行料で栄えたマラッカ海峡を握った港市国家。インドと中国を結ぶ船から通行料を取り、大乗仏教の学問の中心でもあった。義浄がここでサンスクリットを学んでいる。
- 義浄のシュリーヴィジャヤ滞在できごとAD671年海峡の国に千人の僧がいた、と記録が伝える唐の僧が海路でインドへ向かい、途中の港でサンスクリットを学んだ。海峡の国に千人の僧がいた、とその記録が伝える。パレンバン
- ヴェネツィア共和国国AD697年(最初のドージェの選出。伝承) – AD1797年(ナポレオンによる解体)地中海東部の海を握った潟の上に建った都市が、1100年続いた。東ローマの属領から始まり、第四回十字軍で帝都を略奪し、地中海東部の海を握った。ナポレオンが一言で終わらせる。
- シュリーヴィジャヤの海上交易できごとAD700年頃マラッカ海峡という細いところを押さえたマラッカ海峡を押さえ、インドと中国を結ぶ海の道で栄えた。仏教の学問の中心でもあった。パレンバン
- ガーナ帝国国AD8世紀頃 – AD1240年頃(マリに吸収される)南の金と北の塩を交換する場所を押さえた西アフリカで最初の大きな国。南の金と北の塩を交換する場所を押さえ、王は金の飾りを付けた犬を飼っていたとアラビア語の史料が書く。今のガーナとは場所が違う。
- タラス河畔の戦いできごとAD751年紙が西へ渡る。運ばれたのは物だけではない唐がアッバース朝に敗れた。捕虜を通じて製紙法が西へ伝わり、やがてヨーロッパに届く。タラス河畔(位置は特定されていない)
- 正倉院の楽器できごとAD756年インドからペルシア、唐を経て聖武天皇の四十九日に、光明皇后が遺愛の品を東大寺に納めた。その中に楽器が18種75件あった。螺鈿紫檀五絃琵琶(世界に現存する唯一の五絃琵琶。インド起源で、ペルシアと唐を経て来た)、漆胡瓶、箜篌(ハープ)、尺八、方響。国家が管理する倉に、1250年、風だけが通る校倉で保たれた。同じ時代のものが、原産地のどこにも残っていない。奈良
- 両税法できごとAD780年土地の売買を認めた安史の乱で戸籍が崩れ、均田制と租庸調が回らなくなった。宰相楊炎の案。人でなく、持っている土地と資産に課税する。夏と秋の2回。銭で納める(後に一部は現物)。土地の私有と売買を、事実上、認めた。国家が土地を配る建前が終わり、地主と佃戸(小作)の関係が中国の農村の基本になった。この形が、明の一条鞭法まで800年続いた。長安
- ガーナ王国の金と塩の交易できごとAD800年頃金と塩が同じ重さで交換されたと伝わるサハラを越えて南の金と北の塩を交換した。この道の上に、のちのマリ・ソンガイが立つ。クンビ・サレー(位置は特定されていない)
- ビルカの交易できごとAD800年頃アラブの銀貨メーラレン湖の島。8世紀から10世紀、スウェーデンのヴァイキングの交易の町。東からアラブの銀貨、絹、ガラス。西から毛皮と奴隷。3000の墓。829年、宣教師アンスガルが来た。10世紀末に捨てられ、街は残らなかった。1993年、世界遺産。戦士の装備を持つ墓の主が女性だったことが2017年にDNAで確かめられた(戦士だったかは議論が続く)。ビルカ
- 張保皐の清海鎮できごとAD828年唐・新羅・日本を結ぶ海の交易唐で軍人になった新羅人が帰国し、海賊を討つ拠点を莞島に置いた。唐・新羅・日本を結ぶ海の交易を握り、円仁の旅も助けている。莞島(清海鎮)
- 張保皐人物? – AD846年唐で軍人になり、同胞が奴隷として売られるのを見て帰国した。清海鎮を置いて海賊を討ち、海の交易を握る。王位継承に関わって暗殺された。
- チョーラ朝国AD848年頃(ヴィジャヤーラヤの復興) – AD1279年ベンガル湾を渡ってシュリーヴィジャヤを攻めた南インドの海の帝国。セイロンを取り、ベンガル湾を渡ってシュリーヴィジャヤを攻めた。青銅のシヴァ像と巨大な寺院を残し、村の自治を石に刻んで記録した。
- アル=マスウーディー人物AD896年頃 – AD956年バグダードに生まれ、インド・東アフリカ・カスピ海まで旅して『黄金の牧場』を書いた。歴史と地理を一冊に束ねた最初の人とされる。
- ファーティマ朝国AD909年(イフリーキヤでの成立) – AD1171年(サラーフッディーンによる廃止)地中海とインド洋の交易をつなぐ位置にあったシーア派のカリフを名乗り、バグダードのカリフと並び立った。カイロを建て、アズハルを開く。地中海とインド洋の交易をつなぐ位置にあった。
- 『黄金の牧場』できごとAD947年歴史と地理をひとつづきに書いた。東アフリカの海岸で象牙が中国へ運ばれることまで載っていて、当時の海の広さがそのまま分かる。バグダード
- ラージェーンドラ1世人物AD971年頃 – AD1044年インドの王朝が海の向こうへ軍を出した数少ない例艦隊を仕立ててベンガル湾を越え、シュリーヴィジャヤの港を攻めた。インドの王朝が海の向こうへ軍を出した、数少ない例になる。
- スワヒリ海岸の交易都市できごとAD1000年アフリカとアラビア・インド・中国が混ざり合った。スワヒリ語はこの交易のなかで生まれる。ソファラ
- 宋の科挙と士大夫できごとAD1000年頃一族の投資としての受験唐の科挙の合格者は年に数十人で、貴族の家の子が多かった。宋は合格者を年数百人に増やし、皇帝自身が最終試験(殿試)を行った。合格者は皇帝の門下生になる。武人の力を削ぎ、文人の官僚が国を運営する体制ができた。受験のための出版が栄え、印刷術が広まった。「万般皆下品、惟有読書高」。同時に、受験は一族の投資になった。一人を合格させるために、村や一族が学費を出し、合格すれば免税と地位が一族に及んだ。開封
- ダウ船とモンスーンできごとAD1000年頃風が半年で反転するインド洋は、季節で風向きが反転する。夏は南西から、冬は北東から。この規則性を掴めば、帆船は往復できる。紀元1世紀の『エリュトラー海案内記』に既に書かれている。ダウ船は、板を釘でなく椰子の繊維で縫い合わせ、三角の帆(ラティーン・セイル)で風上へも切り上がった。アラビア、ペルシア、インド、東アフリカを結び、季節ごとに港で数か月を過ごした。スワヒリの都市は、その待ち時間の上に建った。キルワ
- ヴェネツィアのダルマティア遠征できごとAD1000年アドリア海がヴェネツィアの湾になったドージェが艦隊を率いてアドリア海東岸の港を従えた。以後ドージェは「ダルマティア公」を名乗り、毎年海に指輪を投げる儀式が始まる。ヴェネツィア
- 泉州の海上交易できごと1000年マルコ・ポーロが世界最大級と書いた港マルコ・ポーロが世界最大の港の一つと書いた町。ムスリムの商人が数万人住み、モスクとヒンドゥー寺院とマニ教の像が並んでいた。泉州
- 景徳鎮の磁器できごと1004年一つの町が世界の磁器を焼いた一つの町が、世界の磁器を焼いた。分業で一日に数万点を作り、ペルシアの藍で染めた皿がイスタンブルにもアムステルダムにも届く。最初の世界商品の一つになる。景徳鎮

- 占城稲の導入できごとAD1012年人口が1億を超えた11世紀初め、北宋の真宗が、ベトナム中部の占城(チャンパ)から早稲の種籾を取り寄せ、江南に配って栽培を奨励した。干魃に強く、100日ほどで実る。それまで一年一作だった土地で二期作ができ、丘陵にも田を開けるようになった。宋代の人口は、この時期に倍増して1億を超えた。米が余れば、人は都市へ出て、別の仕事に就ける。宋の都市と商業と貨幣経済は、この稲の上に立っている。杭州(臨安)
- ラージャラージャ1世人物? – AD1014年海軍でスリランカと東南アジアまで影響を広げた。南インドが海の帝国になる。
- 交子(世界最初の紙幣)できごとAD1024年世界最初の政府発行の紙幣四川は銅が不足して鉄銭を使っていた。絹1匹を買うのに鉄銭130斤(約80キロ)。商人が預り証を発行して、それが手形として流通した。1023年、宋の政府が「益州交子務」を置いて、国家の発行に切り替えた。3年ごとに刷り直し、準備金を持つ。世界で最初の政府発行の紙幣。南宋の会子、金の交鈔、元の宝鈔へ。マルコ・ポーロが驚いて書いた。過剰発行によるインフレも、ここから始まった。成都(交子)
- チョーラ朝の海上進出できごとAD1025年南インドの王朝がスリランカから東南アジアまで艦隊を送った。インド洋が一つの交易圏として動く。タンジャーヴール
- チョーラのシュリーヴィジャヤ遠征できごとAD1025年インドの王朝が海の向こうへ軍を送った、ほとんど唯一の例ベンガル湾を渡って、海峡の港市国家を攻めた。インドの王朝が海の向こうへ軍を送った、数少ない例になる。パレンバン
- ムラービト朝のガーナ攻撃できごとAD1076年交易路が東へずれ、マリが出てくるサハラの遊牧民の宗教運動が、南のガーナ帝国の都を攻めた。都を落としたかどうかは史料が割れているが、以後ガーナは衰える。クンビ・サレー(位置は特定されていない)
- ドゥームズデイ・ブックの水車できごとAD1086年使用料ウィリアム征服王の土地台帳は、イングランドに5624の水車を数えた。50世帯に1つ。穀物を挽く。ローマの技術(ウィトルウィウス)が、中世に村ごとに広がった。領主は水車を独占して、農民に使用料を取った(「バナリテ」)。12世紀から、縮絨(毛織物)、鍛冶のハンマー、製材、製紙、鉱山の排水。ヨーロッパは、水の力で、機械の文明になった。ウィンチェスター
- シトー会の創設できごとAD1098年3月21日羊毛と鉄自ら建てたモレーム修道院がゆるんだと、院長ロベールが21人と沼地へ。「戒律を、字の通りに」。白い衣。飾りのない教会。自分で耕す。「祈りと労働」。14年後にベルナールが30人を連れて来て、50年で350の修道院。ヨーロッパの荒地を開き、羊毛と鉄で富んだ。シトー
- カネム=ボルヌの隆盛できごとAD1100年頃チャド湖の周りで千年近く続いた国。サハラ縦断路の東側の出口を押さえた。チャド湖(位置は特定されていない)
- グレート・ジンバブエ国AD11世紀頃 – AD1450年頃(放棄)内陸の金を海岸の港へ流す網の要モルタルを使わずに積み上げた石の壁が、高さ11メートルで残る。内陸の金を海岸の港へ流す網の要にあった。ヨーロッパ人は長らくアフリカ人が造ったと認めなかった。
- エンリコ・ダンドロ人物AD1107年頃 – AD1205年船賃の代わりに帝都を取った90歳を過ぎた盲目のドージェが、第四回十字軍の船賃を払えない騎士たちをコンスタンティノープルへ向けさせた。帝都の略奪で、ヴェネツィアは海の帝国になる。
- 高麗青磁できごとAD1150年頃宋の使節が書いた中国の越州窯を学んで始まり、12世紀に独自の色に達した。「翡色」。宋の徐兢が『高麗図経』に「高麗人は青磁の色を翡色と言う。近年、作りが巧みで、色も美しくなった」と書いた。象嵌の技法——素地に文様を彫り、白土と赤土を埋めて焼く——は高麗の発明で、雲と鶴が器の上を飛ぶ。モンゴルの侵攻と、その後の窯の衰退で、技法は一度、失われた。開城
- シャンパーニュの大市できごと1150年為替と信用の作法がここで育った年に六度、北の毛織物と南の香辛料がこの平野で出会った。伯爵が道中の安全と裁判を保証し、そこで為替と信用取引の作法が育つ。トロワ

- レオナルド・フィボナッチ人物AD1170年頃 – AD1250年頃ブジーで学んだピサの商人の子。父はブジー(現アルジェリア)の税関の役人で、少年を呼び寄せてアラビアの計算を学ばせた。エジプト、シリア、ギリシア、シチリアを回り、各地の計算法を比べた。1202年『算盤の書』。ローマ数字を捨てて位取りの数字を使うことを説いた。皇帝フリードリヒ2世の宮廷で数学の試合に出た。「フィボナッチ」は19世紀に付けられた呼び名で、本人はレオナルド・ピサーノと名乗った。
- 福原遷都できごとAD1180年(治承4年)6月宋との港清盛が天皇と院を連れて、自分の別荘のある福原へ都を移した。大輪田泊。宋との貿易の港。公家も僧も反対し、東国で頼朝が挙兵し、半年で京に戻った。『方丈記』の鴨長明が「都遷り」の混乱を書いた。福原
- 割り符と国庫できごとAD13世紀イングランドの財務府は、木の棒に切れ込みを入れて金額を記した。千ポンドは手のひらの幅、一ペニーは細い線。刻んだ後で棒を縦に割り、片方を納税者が、片方を国庫が持つ。木目は二つと同じものがないので、合わせれば本物だと分かる。改竄が難しく、読み書きができなくても使える。この方式は六百年以上続き、割り符そのものが債権として転々と売買された。1834年、廃止された棒を国会議事堂の炉で燃やしたところ、煙突から火が移り、議事堂が全焼した。ロンドン
- フィボナッチ『算盤の書』できごとAD1202年商人のための筆算ピサの商人の子レオナルドは、父の任地である北アフリカのブジーで、アラビアの数字と計算法を学んだ。帰国して書いたこの本は、9つの数字と「ゼフィルム」(ゼロ)による筆算を、ヨーロッパの商人に教えるためのものだった。利息、両替、比例配分、そして有名なうさぎの問題(各項が前の二項の和になる数列)。ローマ数字とそろばんに代わって、紙の上で計算する方法が広まった。フィレンツェは1299年、帳簿での新数字の使用を一度は禁じている。ピサ
- 第四回十字軍できごとAD1204年4月12日四頭の馬はヴェネツィアへエジプトへ行くはずが、ヴェネツィアへの船賃を払えず、ザラを落とし、ビザンツの亡命皇子に雇われ、コンスタンティノープルを3日略奪した。聖ソフィアに娼婦を座らせた。四頭の馬はヴェネツィアへ。ラテン帝国57年。ビザンツは1261年に戻ったが、二度と大きくならなかった。コンスタンティノープル

- モンゴルの站赤できごとAD1234年東西が一つの網で結ばれたオゴデイが整備した駅伝の網。25から45キロごとに站を置き、馬、食料、宿、そして替えの人を常備させる。牌子(パイザ)を持つ使者は、どの站でも馬を替えられる。金の牌を持つ者は最優先。急使は一日に300キロ以上進んだとされる。マルコ・ポーロが、その規模に驚いて詳しく書いている。ユーラシアの東西が、初めて一つの通信網で結ばれた。同時に、この街道を、14世紀の疫病が同じ速さで移動した。カラコルム
- マリ帝国国AD1235年(キリナの戦い) – AD1610年頃(三つに分かれる)金と塩。サハラを越える交易の南の端金と塩の交易でニジェール川上流から大西洋岸までを収めた。マンサ・ムーサのメッカ巡礼はカイロの金相場を10年狂わせたと伝わる。
- ハンザ同盟できごとAD1241年都市どうしが国を介さずに結んだ都市どうしが国を介さずに結んだ商業の連合。艦隊を持ち、王と条約を結び、200年北海とバルト海を握った。リューベック
- キプチャク汗国国AD1242年(バトゥの西征の終わり) – AD1502年(大オルダの滅亡)ヴォルガの都サライは交易で栄えたチンギスの長男ジョチの家が継いだ、帝国の西の端。ルーシの諸公国を250年従え、その間にモスクワが徴税の代行で力をつけた。ヴォルガの都サライは交易で栄えた。
- マムルーク朝国AD1250年 – AD1517年(オスマンによる征服)香辛料の道を握った奴隷として買われ、兵として育てられた者たちの国。血縁ではなく実力で次のスルタンが決まる。モンゴルを止め、十字軍を追い出し、香辛料の道を握って270年続いた。
- 公証人できごとAD13世紀信用が、人の顔から書類へ移っていく商いが遠くまで伸びると、口約束では足りない。何を、いくらで、いつまでに、という取り決めを、あとから確かめられる形で残す必要が出る。北イタリアの都市では、公証人がその役を担った。当事者の前で文書を作り、決まった書式で記し、自分の帳簿に控えを残す。その控えは何十年も保管され、争いが起きれば証拠になる。ボローニャの大学は、この技術を教える課程を持っていた。契約を紙に固定し、第三者が保証する。信用が、人の顔から書類へ移っていく。ボローニャ
- ボタンと穴できごとAD13世紀飾りとしてのボタンは古くからあった。留め具として使うには、対になる穴が要る。十三世紀のヨーロッパで、ボタンホールが広まった。紐や帯で体に巻きつける衣服から、体の線に沿って閉じる衣服へ変わる。仕立ての技が要るようになり、既製ではなく注文で作る職が育った。身分によって使える素材を制限する法が各地で出され、金や銀のボタンは禁じられる。留め具の変化が、服の形と、服で示す身分の両方を動かした。いま男女で掛け方が逆なのは、この時代の名残と言われる。パリ
- ガジャ・マダ人物AD1290年頃 – AD1364年マジャパヒトの宰相。群島の統一を果たすまで香辛料を口にしないと誓ったと伝わる。いまインドネシアの国民的な英雄になっている。
- ムラーノの硝子職人できごとAD1291年木造の街で炉を焚くのは危険である、という理由で、ヴェネツィア共和国は硝子の工房をすべてムラーノ島へ移させた。火事の予防は本当の理由の一つでしかない。職人は島から出ることを制限され、技術は国家の機密として扱われた。娘は貴族と結婚でき、身分は高い。しかし国外へ逃げれば追手が向かい、暗殺された者がいると伝えられる。無色透明のクリスタッロ、そして水銀とスズによる平面鏡が、ここで完成した。ヴェネツィア
- マジャパヒト国AD1293年(元軍を追い返して成立) – AD1527年(ドマクのイスラム勢力に滅ぼされる)東部ジャワから海へ出た。宰相ガジャ・マダが群島の統一を誓い、宮廷詩はスマトラからニューギニア西部までを支配下と数える。実態は朝貢と交易の網に近い。
- 『東方見聞録』できごとAD1298年(獄中での口述)ジェノヴァの獄中で、同房の物語作家に旅を語った。ヨーロッパのアジア観を数百年にわたって形づくる。ジェノヴァ

- キルワとインド洋交易できごとAD1300年頃インド洋の季節風の折り返し地点東アフリカの港市がアラビア・インド・中国と結ばれた。スワヒリ語はこの交易の中で育つ。キルワ
- グレート・ジンバブエの繁栄できごとAD1300年頃石を積んだ大規模な都市遺跡。インド洋交易で栄えた南部アフリカの王国。グレート・ジンバブエ
- 為替手形できごとAD1300年頃紙の上で債権が動く金貨を持って山を越えれば、盗まれる。ジェノヴァの商人がシャンパーニュの大市で受け取るべき代金を、現地の同業者に払わせ、その分をジェノヴァで清算する。紙の上で債権が動く。教会が利子を禁じていたので、利益は為替の相場に折り込まれた。同じ通貨を貸して利子を取れば高利貸しだが、通貨と場所が違えば、それは為替の差益である。この迂回が、金融の技術を育てた。手形は裏書きで転々と流通し、決済の網が大陸を覆った。ジェノヴァ
- ラピスラズリと群青できごとAD1300年頃海を越えて来る青当時、深い青の顔料はこれしかなかった。原料はアフガニスタン北東の山中の一つの鉱山。そこからヨーロッパへ運ばれるので「海を越えて(ウルトラマリーヌ)」と呼ばれた。石を砕いて練り、蜜蝋と樹脂に混ぜて灰汁で洗い出す工程が要る。値段は同じ重さの金に匹敵した。だから契約書に「聖母の衣にはウルトラマリンを何オンス使うこと」と書かれた。青が神聖なのではなく、高価だから聖母に使われた。1826年に合成品が作られ、値段は数百分の一になった。サーレサング
- ポルトラーノ海図できごとAD1300年頃内陸は空白羊皮紙に、海岸線と港の名を書き、そこへ32方位の線を放射状に張り巡らせた海図。内陸は空白のことが多い。船乗りが実際に測った針路と距離の集積で、地中海の形は驚くほど正確である。最古の現存は1290年頃の「ピサ図」。ジェノヴァ、マヨルカ、ヴェネツィアが作った。理論から描いた地図ではなく、航海の経験を紙にしたもの。緯度も経度もない。羅針盤とセットで働いた。ジェノヴァ
- オヨ王国国AD14世紀頃 – AD1836年(イロリンの離反による崩壊)森林地帯には珍しく騎兵を主力にした。王が専横になると、貴族会議が空の瓢箪を送って自死を求める仕組みがあった。奴隷貿易の供給側でもあった。
- スコーネのニシン市できごとAD14世紀塩と魚と樽を押さえたことが、商人の力になった毎年の秋、デンマーク領だったスコーネの沖には、ニシンの大群が押し寄せた。浜には各地の商人の小屋が建ち並び、何万人もの人が集まる。ニシンは脂が多く、すぐに傷む。リューベックの商人たちは、リューネブルクの塩を運んできて、捕れたその日のうちに腹を裂き、樽に塩と交互に詰めた。樽の大きさと詰め方には決まりがあり、印を押した樽は中身を開けずに売り買いされた。四旬節に肉を断つキリスト教徒にとって、塩漬けのニシンは欠かせない食べ物だった。塩と魚と樽を押さえたことが、ハンザの商人たちの力になった。スカーノル(スコーネ)
- イブン・バットゥータ人物AD1304年2月24日 – AD1369年頃30年で12万km。マルコ・ポーロの三倍21歳で巡礼に出て、30年かけて12万kmを歩いた。インド・中国・マリまで行き、帰ってから口述で『大旅行記』を残す。マルコ・ポーロの三倍の距離になる。
- マンサ・ムーサの巡礼できごとAD1324年道中で配った金が相場を崩したマリ王が大量の金を配りながらメッカへ向かい、通り道の金相場を崩したと伝わる。トンブクトゥ

- イブン・バットゥータの旅できごとAD1325年巡礼のつもりで出た旅が30年、12万kmになった。行く先々でイスラーム法官として職を得られたことが、この距離を可能にしている。タンジール

- 夢窓疎石と禅の庭できごとAD1339年天龍寺船後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が建てた天龍寺の作庭を、夢窓疎石が手がけた。曹源池庭園。借景に嵐山を取り込み、水の中に石を組んで滝を表した。彼は西芳寺(苔寺)も作った。天龍寺船を元に送って、造営の費用を稼いだ。後醍醐、尊氏、直義の三人の帰依を、同時に受けた僧。庭が、修行の場になった。京都
- マジャパヒト王国の隆盛できごとAD1350年頃ジャワを中心に 島嶼部の広い範囲へ影響を及ぼした。現在のインドネシアが自国の源流として掲げる。トロウラン
- アユタヤ朝国AD1351年(ウートン王の即位) – AD1767年(コンバウン朝ビルマによる陥落)チャオプラヤーの河口に近い中洲に建ち、海の交易で栄えた。日本町もあり、山田長政がここで官位を得ている。417年続いて、ビルマに焼かれて終わる。
- ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ人物AD1360年 – AD1429年2月20日目立つな、憎まれるなメディチ家を興した人物。ローマの親戚の銀行で修業し、その支店長になり、1397年に独立してフィレンツェに本店を移した。教皇庁の資金を扱う地位を得て、家の富の基礎を築いた。政治では目立たないことを選び、党派の争いに深入りしなかった。1427年のカタスト(財産税)の導入を支持し、富裕層に重く課す税制を受け入れて、庶民の支持を得た。死の床で子に「目立つな、人に憎まれるな」と遺したと伝えられる。
- トランプの伝播できごとAD1370年頃型紙で刷れるように単純化した中国の紙の札が起源とされる。マムルーク朝エジプトの札が、現存する最古のまとまった一組で(トプカプ宮殿蔵)、剣・棒・杯・貨幣の4組に、王と副官と第二副官の絵札が付く。人物は描かれない。偶像を禁じる規範による。これがイタリアとスペインへ渡り、4組の記号がそれぞれの土地で変わった。フランスがハート・スペード・ダイヤ・クラブに単純化し、型紙で刷れるようにしたので、安く大量に作れた。それが英語圏へ渡り、いまの標準になった。カイロ
- 鄭和人物AD1371年 – AD1433年頃雲南のムスリムの家に生まれ、少年で去勢されて宮廷に入り、七度の大航海を率いた。旗艦はコロンブスのサンタ・マリア号の数倍あったとされる。
- 尚巴志人物AD1372年 – AD1439年鉄の交易から佐敷の按司の子。小柄で「巴志」と呼ばれた。鉄の交易で力をつけ、1406年に中山王を倒して父を王に立て、1416年に北山(今帰仁)、1429年に南山を滅ぼして、三山を統一した。首里城を整え、那覇港を開き、明との朝貢貿易を独占した。第一尚氏は7代で終わり、1470年、クーデターで第二尚氏(尚円)に代わった。
- コンゴ王国国AD1390年頃 – AD1665年(アンブイラの戦いで王が戦死し、以後分裂)ポルトガルとのやり取りは、しだいに人の売買になっていったポルトガルと対等な国として文通を始めたが、やり取りの中身はしだいに奴隷貿易になっていった。王が自ら人の売買をやめてほしいと書き送っている。
- メディチ銀行できごとAD1397年支店ごとに別会社にするジョヴァンニ・ディ・ビッチが、フィレンツェに銀行を開いた。革新は組織にある。各地の支店を、本店が出資する別々の合名会社にした。一つの支店が潰れても、他へ及ばない。支店長は共同経営者で、利益を分ける。ローマ、ヴェネツィア、ジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン。最大の顧客は教皇庁で、全ヨーロッパの教会収入がこの銀行を通った。孫のロレンツォの代に、貸し倒れと放漫な経営で傾き、1494年、フランス軍の侵入とともに終わった。フィレンツェ
- ベニン王国の青銅器できごとAD1400年頃青銅の材料は交易で入ってきた精緻な鋳造で王宮を飾った。のちに英軍が略奪し、いまも各国の博物館で返還が議論されている。ベニンシティ
- マラッカ王国の成立できごとAD1400年頃海峡の細いところに港ができた。ここを通らないと東西の船は動けない。イスラムが東南アジアへ広がる入口にもなる。マラッカ
- 鄭和の南海遠征できごと1405年植民も征服もせず、朝貢の関係を結んで帰った七度の航海で数百隻の船団がアフリカ東岸まで達した。植民も征服もせず、朝貢の関係を結んで帰る。だが事業は打ち切られ、記録の多くも失われた。海は他者に委ねられる。南京
- マデイラの植民できごとAD1420年森を7年焼いた無人の島を、ヘンリー航海王子の船が見つけ、森を7年焼いて、砂糖を植えた。奴隷が切った。1450年代にヨーロッパ最大の砂糖の産地。カナリアへ、サントメへ、ブラジルへ、カリブへ。「砂糖と奴隷」の型は、この島で作られた。コロンブスは島の娘と結婚した。マデイラ
- 琉球王国の統一できごとAD1429年万国津梁尚巴志が北山・中山・南山の三山を統一して、首里を都にした。明に朝貢し、日本と朝鮮とシャムとマラッカとジャワを結ぶ中継貿易で栄えた。1458年の「万国津梁の鐘」の銘。「舟楫を以て万国の津梁と為し、異産至宝は十方刹に充満せり」。武器を持たない国、というのは後の話で、実際には城と軍があった。首里
- イブン・マージド人物AD1432年頃 – AD1500年頃インド洋の季節風と星の高さで航海する技術を書物にまとめた。ヴァスコ・ダ・ガマを案内したという話が伝わるが、確かな証拠はない。
- ルカ・パチョーリ人物AD1447年頃 – AD1517年6月19日会計の父ボルゴ・サンセポルクロ。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカに幾何を学び、フランシスコ会士になり、各地の大学で数学を教えた。1494年『スンマ』(算術、代数、そして複式簿記)。1497年からミラノで、レオナルド・ダ・ヴィンチと同居した。『神聖比例論』(黄金比。挿絵はレオナルド)。「会計の父」。
- ロレンツォ・デ・メディチ人物AD1449年1月1日 – AD1492年4月8日銀行家が都市と芸術の後ろ盾になった銀行家として芸術家を支え、ルネサンスの盛期を作った。ミケランジェロを見出す。
- アフォンソ1世人物AD1456年頃 – AD1543年ポルトガル語で読み書きし、対等な国として文通した。人の売買で国が空になると訴える手紙を何通も書き送っているが、止まらなかった。
- ヤーコプ・フッガー人物AD1459年3月6日 – AD1525年12月30日フッゲライ織物商の10番目の子。ヴェネツィアで簿記と為替を学んだ。ティロルの銀とハンガリーの銅を、大公と王への貸付の担保として押さえた。教皇の贖宥状の送金も扱った(ルターが怒った理由の一つ)。財産は当時のヨーロッパのGDPの2%と推定される。貧しい市民のためのフッゲライ(1521年)は、いまも家賃が年0.88ユーロで人が住んでいる。
- 公営の質屋できごとAD1462年利子の禁を回避して、貧しい人に小口を貸す中世のキリスト教は、利子を取ることを罪とした。だが貧しい人ほど、明日の食べ物のために金を借りる必要がある。禁を負わないユダヤ人の金貸しがその役を担い、それがまた迫害の口実にもされた。フランシスコ会の修道士たちは、別の仕組みを説いた。町が基金を集め、品物を預かって、ごく低い手数料だけで小口の金を貸す。1462年、ペルージャに最初の「憐れみの山」が置かれた。手数料を取ることは利子ではないのか、という議論は半世紀続き、1515年の公会議でようやく認められた。公的な質屋は、いまもイタリアの銀行の祖先として残っている。ペルージャ
- ソンガイ帝国国AD1464年(ソンニ・アリ即位) – AD1591年(トンディビの戦い)マリに代わって大湾曲部を握った。トンブクトゥの学問が最も盛んだったのはこの時代になる。モロッコが砂漠を越えて送った銃兵に敗れて終わる。
- 船のための森できごとAD15世紀船を造り続けるために、数百年先を見て森を数えたヴェネツィアの力は船にある。船はガレー一隻に何百本もの木を食う。竜骨と肋材には曲がった樫が、櫂には真っ直ぐなブナが要る。共和国は、本土の森を国の管理下に置いた。モンテッロの樫の林は海軍のもの、カンシリオのブナは櫂のためと決め、森ごとに番人を置き、木を伐る許可、植える義務、育つまでの年数を台帳に書き込む。無断で伐れば重い罰である。使う量から逆算して、何年後に何本が要るかを数え、いま植える。国家が数百年先を見て森を管理した、早い例になる。ヴェネツィア
- ヴィジャヤの陥落できごとAD1471年チャンパが南の一角に縮む大越の黎聖宗が20万で攻め、チャンパの都を落とした。6万が殺され、3万が連れ去られたと伝わる。チャンパは南の一角に縮み、以後戻らない。ヴィジャヤ(チャー・バン)
- クリシュナデーヴァラーヤ人物AD1471年 – AD1529年ポルトガルから馬を買ったヴィジャヤナガルの最盛期の王。北のスルタン諸国を押し返し、詩人を集め、自らテルグ語の叙事詩を書いた。ポルトガルから馬を買っている。
- トラテロルコの併合できごとAD1473年最大の市場テノチティトランの隣の島の双子の街。アステカ最大の市場。王アシャヤカトルが攻め、トラテロルコの王は神殿から落ちて死んだ。市場は残り、1521年に最後の戦いの場所になり、1968年に学生が撃たれた広場になった。三つの文化の広場。トラテロルコ
- 発明を独占させるできごとAD1474年独占を与える代わりに、内容を明かさせる職人は技を隠す。弟子にしか教えず、他の町へ出さない。ヴェネツィアは硝子でそれを徹底し、職人を島から出さなかった。一方で、新しい工夫を呼び込むには、隠さずに登録させたほうがよい。1474年の法は、新しく役に立つ装置を作った者が登録すれば、十年のあいだ他人が真似ることを禁じると定めた。独占を与える代わりに、内容を明かさせる。期限が来れば、誰でも使える。発明を秘密にするか、公開して一定期間守られるか。この取引の形が、いまの特許制度の原型になる。ヴェネツィア
- エルミナ城の建設できごとAD1482年金と、それから奴隷ポルトガルがギニアの黄金海岸に石を運んで城を建てた。サハラ以南で最初のヨーロッパの建物。金と、それから奴隷。1637年にオランダが取り、1872年にイギリスに売った。「帰らずの門」。いまはガーナの世界遺産で、アメリカから子孫が来る。エルミナ
- コンゴ王国とポルトガルの接触できごとAD1483年対等な国どうしとして始まった対等な国どうしとして始まり、王は洗礼を受けて使節を送った。だが奴隷貿易が国を内側から壊していく。ンバンザ・コンゴ
- ソンニ・アリ人物? – AD1492年川の船団と騎兵でトンブクトゥとジェンネを取り、ソンガイを帝国にした。ウラマーを弾圧したため、イスラームの年代記では暴君として書かれている。
- アスキア・ムハンマドのソンガイできごと1493年トンブクトゥの学者を保護し、行政を整えた。西アフリカで最大の国になる。ガオ
- 複式簿記の刊行できごとAD1494年貸借が合わなければルカ・パチョーリの『算術・幾何・比および比例全書』の中の27ページ。ヴェネツィアの商人が200年使ってきた記帳法を、初めて印刷した。借方と貸方、日記帳・仕訳帳・元帳、そして「貸借が合わなければ、どこかが間違っている」。ゲーテは「人間の精神が生んだ最も美しい発明の一つ」と言った。会社が、持ち主から独立した「一つの計算の単位」になった。ヴェネツィア
- マリンディの水先案内できごとAD1498年喜望峰を回ったポルトガル船は、東アフリカで案内人を得て季節風に乗りインドへ渡った。その人をイブン・マージドとする話が広まっているが、確かな証拠はない。マリンディ
- カリカット到着できごとAD1498年5月20日数百年動いていた交易に、外から入ってきた数百年動いていたインド洋交易に、ヨーロッパの船が外から入ってきた。持参した贈り物は現地の基準では貧弱で、王の側は相手にしなかったと伝わる。カリカット
- ソンガイ帝国の最盛期できごとAD1500年頃西アフリカ最大の帝国。トンブクトゥの学院には各地から学者が集まった。ガオ
- コロンブス交換できごとAD1500年頃トマトも唐辛子も新しい1492年を境に、1万年ぶりに二つの生物界が繋がった。アメリカからヨーロッパ・アジア・アフリカへ、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバ、トマト、唐辛子、カカオ、落花生、タバコ。逆向きに、小麦、米、サトウキビ、コーヒー、馬、牛、豚、羊、そして天然痘・麻疹・インフルエンザ。旧世界の人口は新作物で増え、新世界の人口は病で9割減った。イタリア料理のトマトも、四川の唐辛子も、この交換の産物である。メキシコシティ
- フッガーの選挙資金できごとAD1519年金融が帝国の位を決めた皇帝の位が競売のようになった。カール5世とフランソワ1世が、7人の選帝侯に金を配った。ヤーコプ・フッガーがカールに85万グルデンを貸した。カールが皇帝に選ばれた。「陛下が皇帝の位を得たのは、私なしにはあり得なかったことを、陛下はご存じです」とフッガーは後で書いた。ティロルとハンガリーの銀と銅の鉱山。金融が、帝国の位を決めた。アウクスブルク
- コチニールできごとAD1523年原料が虫であることを、スペインは長く伏せたウチワサボテンに寄生する小さな虫の、雌の体を乾かして砕くと、鮮やかな深紅が採れる。メソアメリカでは千年以上前から栽培されていた。スペインが植民地の産物として送り出すと、ヨーロッパの染色が変わる。それまでの赤は茜と地衣で、くすんでいた。枢機卿の緋衣も、イギリス軍の赤い上着も、これである。原料が虫であることをスペインは長く伏せ、生産をオアハカに独占させた。銀に次ぐ輸出品になり、そして合成染料が、それを終わらせた。オアハカ
- 大西洋奴隷貿易できごと1526年同じ航路と同じ会社の仕組みが、人を運ぶのにも使われた1200万人以上がアフリカから大西洋を越えて運ばれた。三つの大陸の人口と社会が、この一つの流れで作り替えられる。ベニンシティ

- アフォンソ1世の手紙できごとAD1526年やり取りの中身が人の売買になっていく「私の国が空になってしまう」。人の売買をやめるよう求めてポルトガル王に書き送った。手紙は残り、売買は止まらなかった。ンバンザ・コンゴ
- 石見銀山できごとAD1533年日本の銀が、世界の物の値段を動かした十六世紀、石見で灰吹法という精錬の技術が導入された。鉛と混ぜて溶かし、灰の上で鉛を吸わせて銀だけを残す。朝鮮半島から伝わったこの方法で、産出量が跳ね上がった。最盛期の日本は、世界の銀の三分の一を産したとも言われる。その銀が、ポルトガル船と中国商人を通じて明へ流れ、ポトシの銀と合わさって、世界の物の値段を動かした。坑道は狭く、掘る者は粉塵で肺を病み、三十を超えれば長寿と言われた。銀の値打ちは、そこで働く人の寿命の上に成り立っていた。石見銀山
- 武野紹鴎の茶できごとAD1540年頃堺の富が簡素を選んだ堺の皮革商で、連歌を学び、藤原定家の歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」に侘びの心を見た。茶室から装飾を減らし、竹の花入と、備前と信楽の水指を使い、板の床を土壁にした。堺の町衆の間に茶を広げた。弟子に千利休、今井宗久、津田宗及。堺は自治都市で、鉄砲と南蛮貿易の富があり、その富が、簡素を選んだ。堺
- ポトシ銀山の開発できごとAD1545年ここで掘られた銀が世界を一周する南米の銀がヨーロッパを経て中国へ流れた。世界で最初の、地球を回るお金の流れ。ポトシ
- 唐辛子の伝播できごとAD1550年頃胡椒だと思って持ち帰った中南米原産。コロンブスが胡椒だと思って持ち帰り、胡椒(pimienta)から取った名を与えた。ヨーロッパでは当初、観賞用と薬だった。広めたのはポルトガル船である。1500年代、インドのゴアへ、東南アジアへ、そして中国と朝鮮へ。日本には16世紀に伝わった(南蛮胡椒、高麗胡椒)。安く、育てやすく、暑い土地でよく実る。100年ほどで、四川、湖南、タイ、韓国、ハンガリーの食が塗り替えられた。伝統に見えるものの多くは新しい。長崎
- 塩ダラできごとAD16世紀干しダラが、断食の食卓にも、農園の食事にも並んだニューファンドランド沖の浅瀬には、底が見えないほどのタラがいた。十六世紀、バスク、ポルトガル、フランス、イングランドの漁師たちが毎年大西洋を渡り、夏のあいだタラを釣った。タラは脂が少ないので、塩をして浜の棚で風に干せば、板のように固くなって何年も持つ。塩の豊かな南の国の船は塩をたっぷり使い、塩の乏しいイングランドの船は陸に上がってよく干した。干しダラは船乗りの食料になり、カトリックの国々の断食の日の食卓に並び、やがて西インドの農園で働かされる人々の食べ物にもなった。セントジョンズ
- タバコの伝播できごとAD1560年頃ヴァージニアの奴隷制の基礎アメリカ大陸原産。先住民が儀礼と医療に使っていた。コロンブスの一行が持ち帰り、当初は薬として広まった。フランス大使ジャン・ニコがカトリーヌ・ド・メディシスに勧めたことから、ニコチンの名が付いた。100年でユーラシア全域に達した。オスマン、ムガル、明、そして日本。各地の君主が禁じ、破れば死罪とした例もある。誰も止められなかった。植民地の主要な換金作物になり、ヴァージニアの奴隷制の基礎になった。セビリャ
- 三味線の渡来できごとAD1560年頃琉球を経て堺へ中国の三弦が琉球に入って三線になり、蛇皮を張った。それが16世紀の半ば、堺に来た。日本には蛇がいないので、猫と犬の皮を張った。琵琶法師が、撥で弾く技法を持ち込んだ。棹に勘所を示す印がなく、音程を耳で取る。この楽器が、浄瑠璃と歌舞伎と、遊里の音楽を担った。町人の音楽の中心になり、江戸の音の風景を変えた。堺
- マニラ・ガレオン貿易できごと1565年太平洋を渡って中国へメキシコの銀とアジアの絹が太平洋を往復した。ポトシの銀が中国へ流れる経路がここで完成する。マニラ
- アミナ女王のザザウできごとAD16世紀後半ハウサの都市国家を率いて周辺を従え、交易路を押さえた。土を突き固めた壁で町を囲む様式が「アミナの壁」として残る。実在を疑う説もある。ザザウ(ザリア)

- 一条鞭法できごとAD1581年世界の銀が税の形を変えた張居正が全国を検地して、ばらばらだった税と労役を一本にまとめ、銀で納めさせた。名はもと「一条編」(一つに編む)で、同じ音の「鞭」の字が当てられた。日本とアメリカ大陸から流れ込んだ銀が、それを可能にした。農民は作物を売って銀を得なければならず、市場経済に組み込まれた。張居正が死ぬと一族は財産を没収され、名誉は剥奪されたが、税の仕組みは残った。清の地丁銀へ。世界の銀が、中国の税の形を変えた。北京
- ネーデルラント連邦共和国国AD1581年(廃位布告) – AD1795年(フランス軍の侵入による崩壊)株式会社と証券取引所と中央銀行がほぼ同時に生まれた王を戴かない共和国が、80年戦ってスペインから独立した。人口200万の国が、17世紀の世界の海運の半分を握る。株式会社と証券取引所と中央銀行が、ここでほぼ同時に生まれた。
- モカとコーヒーの広がりできごとAD1600年頃煮てから出すエチオピア原産の実を、15世紀のイエメンのスーフィーが、夜の勤行で眠らないために煮て飲んだ。紅海の港モカが積出港になり、オスマンが独占した(種の持ち出しを、煮てから出すことで防いだ)。17世紀、オランダがバンテンとジャワへ、フランスがカリブへ苗を持ち出した。コーヒーハウスは、ロンドンでは新聞と保険(ロイズ)と株式取引を、パリでは革命の議論を生んだ。「1ペニー大学」。モカ
- オヨ王国の騎兵できごとAD17世紀北から馬を買い、南へ人を売った森林地帯では珍しく騎兵を主力にし、北から馬を買い続けた。王の専横を貴族会議が抑える仕組みも持っていた。オヨ(位置は特定されていない)
- 醤油できごとAD1600年頃大豆と小麦に麹菌を生やし、塩水に仕込み、半年から数年寝かせる。菌の酵素がタンパク質をアミノ酸に、澱粉を糖に分解する。中国の醤が原型で、鎌倉期に紀州湯浅で径山寺味噌を作る際、樽の底に溜まる液が使われるようになったと伝えられる。江戸期に湯浅、野田、銚子で量産され、関東の濃口が江戸の味を決めた。オランダ東インド会社が樽で輸出し、ヨーロッパの宮廷の食卓にも上っている。湯浅
- アムステルダム取引所できごとAD1602年世界で最初の株式市場東インド会社が、航海ごとでなく、21年の特許の会社として資本を集めた。アムステルダムだけで1143人が出資し、株は他人に譲れた。同じ年、証券取引所。世界で最初の株式市場。先物、空売り、オプション。1688年、ジョセフ・デ・ラ・ベガ『混乱の中の混乱』が、その狂騒を書いた。1637年にはチューリップ球根の先物で最初のバブルが弾けていた。アムステルダム
- オランダ東インド会社の設立できごとAD1602年3月20日株を転売できる会社の最初誰でも株を買え、その株を転売できる会社の最初。国ではなく会社が艦隊と兵を持ち、200年アジアの海を握った。アムステルダム
- 大英帝国国AD1607年(ヴァージニアの入植) – AD1997年(香港の返還)会社の商館から始まり、七年戦争でフランスを退け、19世紀に世界の陸地の4分の1を占めた。二つの大戦で疲れ、20年ほどでほとんどを手放す。
- 薩摩の琉球侵攻できごとAD1609年4月5日(慶長14年3月)薩摩の財島津家久が3000で奄美から攻め下り、1か月で首里城を開かせた。尚寧王は薩摩と江戸へ連れて行かれ、2年後、「琉球は薩摩に属する」と誓って戻された。奄美は薩摩の直轄に。琉球は、明(のち清)に朝貢しながら、薩摩に年貢を納める「日中両属」になった。薩摩は琉球を通した中国の産物で財を作り、その財が幕末の薩摩を動かした。首里

- オランダ東インド会社のバタヴィアできごとAD1619年会社が国のように領土を持つ会社が国のように領土と軍を持った。株式会社という仕組みが植民地支配の道具になる。バタヴィア
- コルベール人物AD1619年8月29日 – AD1683年9月6日鵞鳥の羽を鳴かせずにランスの織物商の子。マザランの家令。マザランが死ぬとき、ルイ14世に「私の全部より、コルベールを」。財務総監。22年。財政の立て直し、王立マニュファクチュール(ゴブラン、鏡)、保護関税、東インド会社(1664年)、海軍(20隻から250隻)、運河(ミディ運河)、科学アカデミー、ヴェルサイユの費用と戦った。「税は、鵞鳥の羽を、鳴かせずに、最も多く抜く技術」。重商主義。ルイに「もう嫌だ」と言って死んだ。
- バンダ諸島の虐殺と香辛料の独占できごとAD1621年独占のために島を空にしたナツメグの木が世界でここにしか無かった。オランダ東インド会社が独占のために島民1万5000人のほとんどを殺すか奴隷にし、空いた土地に農園を作った。バンダ諸島(位置は特定されていない)
- 三井高利人物AD1622年 – AD1694年伊勢松坂の商家の八人兄弟の末子。十四歳で江戸の兄の店へ出て、才を認められ、そして疎まれて呼び戻された。以後二十年以上、松坂で金貸しをしながら機を待った。兄の死後、五十二歳で江戸に越後屋を開く。現金払い、正価、切り売り、そして店頭販売。両替商も兼ね、幕府の公金の為替を扱って信用を得た。息子たちに家を分けず、一族の共有財産として経営する形を定めた。その仕組みが、後の三井の基礎になった。
- ンジンガのポルトガル抵抗できごと1624年40年にわたって奴隷貿易に抗った。外交と軍事を使い分け、オランダとも組んでポルトガルを牽制する。ンドンゴ(位置は特定されていない)
- 参勤交代の制度化できごとAD1635年(寛永12年)街道と宿場家光が武家諸法度を改めて、大名は1年おきに江戸と国元を往復し、妻子は江戸に置く、と定めた。人質。大名は行列の費用と江戸屋敷の費用で財を減らし、街道と宿場と江戸が栄えた。260年、日本中の大名が同じ道を歩き、江戸は世界最大の街になった。江戸
- 首に巻く布できごとAD17世紀三十年戦争のころ、フランス王に雇われたクロアチア人の傭兵は、首に布を結んでいた。パリの宮廷で、その結び方が流行する。フランス語で首巻きをクラヴァットと呼ぶのは、クロアチア人を指す言葉から来ているとされる。ルイ14世も好んだ。布の結び方は時代ごとに変わり、十九世紀には結び方を解説する本まで出た。いまのネクタイはその子孫である。実用の役目はほとんど無い。首の布は、きちんとしていることを示す印として残った。パリ
- チューリップ・バブルできごと1636年球根一つが家一軒の値になり、数か月で崩れた。記録に残る最初の投機バブルとして引き合いに出される。アムステルダム

- カリブの砂糖プランテーションできごと1640年砂糖という最初の世界商品小さな島が、世界で最も利益の出る土地になった。砂糖のために数百万人が大西洋を運ばれ、ヨーロッパの食卓に甘さが日常として入る。工場に似た労働の管理も、ここで先に生まれた。バルバドス(位置は特定されていない)
- レンブラント『夜警』できごとAD1642年一人あたりの料金アムステルダムの市民自警団の集団肖像画。当時の慣例では、全員を横一列に、同じ大きさで並べて描く(一人あたりの料金で)。レンブラントは、隊が動き出す一瞬を描いた。前に出る者、影に沈む者、旗、犬、少女。注文主の一部は不満だった、と長く言われたが、記録はない。夜でもない(19世紀にニスが黒ずんでいた)。同じ年、妻サスキアが死んだ。彼は以後、注文を失っていった。アムステルダム
- 確率論のはじまりできごとAD1654年保険と年金の祖先賭博師シュヴァリエ・ド・メレが、パスカルに二つの問いを出した。中断した賭けの掛け金をどう分けるか。パスカルはフェルマーと手紙を交わし、「これから起こりうる場合を数え上げて、期待値で分ける」という答えに達した。過去の実績ではなく、未来の可能性を数える。ここから、保険、年金、統計、そして意思決定の理論が出る。パスカル自身は、この考えを神の存在への賭けにも使った。パリ
- 藩札できごとAD1661年福井藩が発行したものが、確実な記録として最も古い部類とされる。幕府の貨幣は金銀銅の三種で、地方では現物が不足した。藩は領内限りで通用する紙の札を刷り、年貢と引き換えに回収する。財政が苦しければ刷り増す。正貨との交換を渋れば値が下がり、領民が損をする。二百四十以上の藩が発行した。幕府は禁止と黙認を繰り返した。明治になって新政府が引き受け、額面を大幅に切り下げて整理した。国家の統一通貨が無い時代の、地域の通貨である。江戸
- 死亡表と統計のはじまりできごとAD1662年保険料が計算できるようになったロンドンの小間物商ジョン・グラントが、教区が毎週出していた埋葬の一覧(死亡週報)を数十年ぶん集計した。誰も統計として読んでいなかった紙束である。彼は、男児の出生がわずかに多いこと、死因の分布、そして疫病の年の異常を示し、年齢ごとの生存者数の表を作った。人口を数えることで社会を知るという考え方が、ここから始まる。ハレー(彗星の人)がブレスラウの記録でこれを精密にし、生命保険の保険料が計算できるようになった。ロンドン
- 飛脚できごとAD1663年為替と手形が網に乗った江戸と大坂を、二人一組で走り継ぐ。継飛脚は幕府の公用で、東海道を三日から四日で走った。町飛脚は民間で、定期便を出し、書状も金銀も荷も運んだ。大坂の商人が仕立てた三度飛脚は、月に三度、定日に発した。為替と手形も、この網に乗った。江戸の相場を大坂へ、大坂の米相場を江戸へ。堂島の米相場は、旗振り通信という別の手段でも、飛脚よりはるかに速く送られた。江戸
- ジョン・ロー人物AD1671年4月21日 – AD1729年3月21日スコットランドの賭博師で、決闘で人を殺して逃げた先のフランスで財政を任された。紙幣と株式で立て直そうとして、史上有数のバブルを作る。
- 燻す鰹節できごとAD1674年(延宝2年)鰹は傷みやすい魚で、古くは煮て干したものが都に送られていた。江戸の初め、紀州の漁師甚太郎が土佐に移り、煮た鰹を煙で燻しながら乾かす方法を広めたと伝えられる。煙で燻すと、中まで水が抜け、表に脂がにじみ出るのを防げる。さらにのちには、表面にわざとカビを付けて水分を吸わせる手が加わり、鰹節は石のように固くなった。削って出汁を取れば、旨みが湯に溶け出す。保存のための工夫が、そのまま日本の味の土台になった。高知
- 書面と署名できごとAD1677年口約束をめぐる裁判が増えていた。言った言わないの争いに、証人を金で雇う者まで現れる。1677年、イングランドの議会は、一定の種類の契約は書面にして署名しなければ裁判で認めない、と定めた。土地の売買、保証、一年を超える契約、そして高額の売買。証拠のために形式を要求するという発想である。これで偽証は減ったが、書面が無いという理由だけで、本当にあった約束が守られないこともある。形式を課すことは、いつも、二つの不正義のどちらを選ぶかという話になる。ロンドン
- 火災保険と火災標できごとAD1681年ロンドン大火で一万三千戸が焼けた。医師で不動産業者のニコラス・バーボンが、家屋を対象とする保険会社を作った。契約した家には金属の標を打ちつける。会社は自前の消防隊を雇い、標のある家だけを消した。標のない家の前で隊が引き返した、という話が語られる。競合が現場で争い、効率が悪い。やがて隊は統合され、1866年に公の首都消防隊が発足して、消防を引き受けた。私的な備えから、公共の役務への移行である。ロンドン
- 現金掛け値なしできごとAD1683年誰が来ても、同じ値であるそれまでの呉服商は、屋敷へ反物を担いで行き、客の身分を見て値を決め、代金は盆暮の掛け払いである。焦げ付きを見込んで値を高くするしかない。三井高利は駿河町の店で、店頭売り、現金払い、そして値札による一物一価に切り替えた。誰が来ても同じ値である。さらに、一反を必要な分だけ切って売り、その場で仕立てた。回転が上がり、値を下げられる。同業から激しく妨害されたが、繁盛した。三越の前身であり、いまの小売の形の、早い一例である。江戸
- 鏡の間とサン=ゴバンできごとAD1684年輸入を止め、国内で作り、輸出する鏡はヴェネツィアの独占で、極端に高価だった。コルベールは職人を金で引き抜き、パリに工房を作らせた。ヴェネツィアは追手を送り、職人の一人が死んだ。フランスは1688年に、吹いて広げるのではなく溶けたガラスを台に流して延ばす鋳造法を得て、大きな板を作れるようになった。ヴェルサイユの鏡の間には357枚が並ぶ。輸入を止め、国内で作り、輸出する。重商主義の実演であり、この工房は今日のサン=ゴバン社になった。ヴェルサイユ
- ロイズと海上保険できごとAD1688年下に署名する人テムズ河畔のタワー街に、エドワード・ロイドという男がコーヒーハウスを開いた。船主と船長と商人が集まる。彼は客のために、船の出入りと海難の情報を集めて紙に刷った(ロイズ・リスト、1734年から現存する世界最古級の日刊紙)。情報が集まる場所に、引受人が集まった。航海一件ごとに、複数の個人が「この額まで引き受ける」と紙の下に署名する。アンダーライター(下に書く人)の語源である。会社ではなく、個人の集まりが、無限責任で危険を分け合った。ロンドン
- マルセイユ石鹸の勅令できごとAD1688年10月産地の名に法が線を引き、名前そのものが品質の保証になったルイ14世の治世、財務総監コルベールが敷いた産業統制の路線のもとで、マルセイユの石鹸に規格が定められた。原料はオリーブ油に限り、動物性の脂を混ぜてはならない。違反すれば罰し、製品を没収する。産地の名を、品質の保証として守る仕組みである。油と灰汁を煮るという製法自体は古く、地中海の各地にあった。そこに国家が線を引き、名前に値打ちを与えた。原産地の呼称を法で囲うやり方は、後にワインとチーズへ広がる。匂いを扱う技術が、産業と、制度になった。マルセイユ
- ネルチンスク条約できごとAD1689年9月6日北京での交易ロシアと清が、アムール川の流域で衝突して、初めて対等な条約を結んだ。イエズス会士のペレイラとジェルビヨンがラテン語で仲介した。ロシアはアムールを諦め、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を境に。代わりに北京での交易が認められた。中国が西洋の国と結んだ最初の条約で、170年、破られなかった。1727年のキャフタ条約で、モンゴル方面の国境と、恒常的な交易の場が決まった。ネルチンスク

- 置き薬できごとAD17世紀末使ってから払う。信用がなければ成り立たない商売富山の売薬は、先に薬を置いていく。行商人が各家に薬箱を預け、一年後にまた訪ねて、使った分だけ代金を受け取り、減った薬を補充する。現金の乏しい村でも、必要なときに薬が手元にある。信用が無ければ成り立たない商売で、同じ家を親子二代で回った。江戸時代には藩が保護し、行商人は全国を歩いて情報も運んだ。土産の紙風船や版画も配られた。売ってから使うのではなく、使ってから払う。この「先用後利」という言い方は、いまも会社の理念として掲げられている。富山
- 宝くじと国家財政できごとAD1694年返ってこない国債は買わないが籤は買うイングランドは、フランスとの戦争の戦費に困っていた。1694年、議会が「百万宝くじ」を可決した。10ポンドの札を10万枚売り、当選者に16年間、年金を払う。外れた者にも元本相当の利子を付けたので、実質は国債である。人々は、返ってこないかもしれない国債は買わないが、当たるかもしれない籤は買う。同じ年、イングランド銀行が設立された。宝くじは、税を課さずに金を集める方法として、各国が使い続けている。ロンドン
- イングランド銀行の設立できごとAD1694年国の借金を議会が保証する。信用の仕組みが国家の力になるフランスとの戦費のために作られた。議会が返済を保証する仕組みで、王が勝手に借りられない国のほうが、かえって安く大きく借りられた。ロンドン
- 広州の茶貿易できごと1700年イギリスが飲む茶の代金として、銀が中国へ流れ続けた。その流れを逆にするために持ち込まれたのがアヘンになる。飲み物の習慣が、戦争の理由になった。広州
- 風呂敷できごとAD18世紀名は、湯屋で脱いだ衣を包み、上がってから足を拭いた布に由来すると言われる。一枚の四角い布は、入れる物の形に合わせて包み方を変えられる。箱のような固い容器と違い、中身が無ければ畳んで懐に入る。江戸では商人が商品を包んで運び、紋を染めて店の印にした。規格化された箱は積み重ねやすいが、中身に合わせられない。包むという行為は、容器を物に合わせることである。使い捨ての袋が広まって一度は廃れ、近年また持ち出されるようになった。江戸
- アシャンティ王国できごとAD1701年黄金の椅子が天から降りてきて、国の魂が宿ったとされる。誰も座らない。英国が19世紀にその椅子の引き渡しを求めたことが、戦争の引き金になった。クマシ
- アシャンティ王国国AD1701年(オセイ・トゥトゥの即位) – AD1902年(イギリスによる併合)黄金の椅子に国の魂が宿るとされ、王でさえ座らない。金と交易で栄え、イギリスと四度戦った。19世紀の西アフリカで最も強い国だった。
- 破産と免責できごとAD1705年返せない借金は、長く犯罪に近い扱いを受けた。債務者監獄に入れられ、家族ごと収監されることもある。働けないので返せず、出られない。1542年のイングランドの法は、財産を差し押さえて債権者に分ける手続きを定めたが、借金は残った。1705年の法が新しかったのは、手続きに協力した商人について、残りの債務を免除できるとした点である。やり直しを認める。危険を取って商売をする人がいなければ、経済は回らないという判断でもあった。免責は、温情ではなく制度の設計になる。ロンドン
- 生命保険の始まりできごとAD1706年命が金額になったロンドンの「アミカブル・ソサエティ」。会員が毎年、同じ額を払い、その年に死んだ会員の遺族が、集めた金を人数で分ける。年齢による差はまだない。1762年、エクイタブル生命が、ドドソンがロンドンの死亡表から計算した表を使って、年齢ごとに保険料を変えた。数学で死を計算する商売。海上保険(ロイズのコーヒーハウス、1688年)と火災保険(大火の後、1680年)に続いて、命が金額になった。ロンドン
- オーデコロンできごとAD1709年イタリア出身の商人ジョヴァンニ・マリア・ファリーナが、ケルンで売り始めた香水。柑橘の精油をアルコールに溶かした、軽く澄んだ香りで、それまでの重い動物性の香料とは違った。彼は兄への手紙に、雨の後のイタリアの朝を思い出させると書いている。地名がそのまま商品名になり、模倣品が溢れ、「ケルンの水」は普通名詞になった。強い香りで臭いを覆う段階から、清潔さそのものを香りで示す段階へ。体を洗う習慣が広まる前に、香りのほうが先に、その役を引き受けた。ケルン
- 『ロビンソン・クルーソー』できごとAD1719年4月25日ホモ・エコノミクスの神話59歳のデフォーが、セルカークの4年の無人島の話を元に、28年の島の話を書いた。難破、日記、帳簿、柵、山羊、麦、傘、フライデー。ホモ・エコノミクスの神話、とマルクスが言い、ルソーは『エミール』の唯一の本にした。イギリスで最初の小説、と言われる。表紙に「彼自身が書いた」とあって、デフォーの名はない。ロンドン

- ミシシッピ会社のバブルできごと1719年紙幣と株で国の借金を消そうとした株価が1年で20倍になり、1年で崩れた。フランス王家は信用を失い、以後の戦費を高い利子で借りることになる。パリ

- 襤褸と紙できごとAD1719年製紙の原料は、綿と麻の襤褸である。木ではない。だから紙の供給は、古着の量に縛られていた。印刷が広まるほど襤褸が足りなくなり、値が上がり、買い集める業者が街を回り、輸出を禁じる国が出た。1719年、レオミュールがフランス科学アカデミーで、蜂が木を噛んで紙のような巣を作ることを指摘し、木から紙を作れるはずだと述べた。誰も試さなかった。実用になるのは、それから百二十年以上あとである。パリ
- 南海泡沫事件できごとAD1720年人の狂気は計算できない南海会社は国債を引き受けて、スペイン領アメリカとの貿易の独占を約束された。貿易はほとんどなかった。株は1月の128ポンドから6月末に1000ポンドを超えた。「誰も知らない事業のための会社」まで生まれた。9月に崩れた。ニュートンが2万ポンド失った。「天体の動きは計算できるが、人の狂気は計算できない」。大臣が獄に入り、ウォルポールが収拾して、最初の首相になった。ロンドン
- アダム・スミス人物AD1723年(6月5日洗礼) – AD1790年7月17日「見えざる手」は本の中で一度しか出てこないグラスゴーの道徳哲学の教授。人が自分の利益を追うことが、意図せず社会の富を増やすと論じた。「見えざる手」は本の中で一度しか出てこない。
- 事務所という場所できごとAD1729年住むところと働くところが、分かれたそれまで、商人は自分の家で帳面をつけた。住むところと働くところが、同じ建物である。東インド会社は、扱う量が一人の手に負えなくなり、書記を大量に雇い、書くためだけの建物を建てた。リーデンホール街の本社である。名簿、帳簿、往復の書簡、そして議事録。それを保管し、参照し、決裁する手順が要る。書記の一人にチャールズ・ラムがいて、三十三年勤め、机の上でエッセイを書いた。会社は消えたが、そこで生まれた仕事の形は、残った。ロンドン
- 堂島の米市場できごとAD1730年世界最初の先物市場大坂には諸藩の蔵屋敷が100以上あり、年貢米が集まった。米切手(米の引換券)が売買され、やがて、現物の受け渡しをせず、期日の値段の差額だけを決済する取引が生まれた。1730年、幕府が公認した。帳合米商い。世界で最初の、組織された先物市場とされる。値段は飛脚と旗振り信号で全国へ伝えられ、江戸まで数時間で届いた。相場の記録から、ローソク足の図が生まれた。堂島(大坂)

- 四つに分けて回すできごとAD18世紀中世の畑は、三つに分けて一つを休ませていた。休ませないと、土が痩せるからである。イングランド東部で広まったやり方は、休みを無くした。小麦、かぶ、大麦、クローバーの順に回す。クローバーは根に窒素をためて土を肥やし、かぶは冬の家畜の餌になる。家畜が増えれば糞が増え、それがまた畑に入る。休耕地が消え、収穫が増え、冬に家畜を殺さずに済むようになった。土を休ませるのではなく、育てるものを組み合わせて回す。これが、人口が増えても食べていける土台になった。ノーフォーク
- ナーディル・シャーのデリー略奪できごとAD1739年孔雀の玉座とコ・イ・ヌールを持ち去った。ムガルは形だけの帝国になり、地方の勢力が実権を握る。デリー
- オラウダ・イクイアーノ人物AD1745年頃 – AD1797年3月31日自分の値段を貯めて自由を買い戻した奴隷にされ、自分で自由を買い戻し、その体験を本にした。奴隷貿易廃止運動を動かした一冊になる。
- グラースと香水できごとAD1750年頃摘んですぐ処理する南フランスの丘の町。もとは皮なめしの産地だった。なめした革は臭う。16世紀、革手袋に香りを付けることが流行し、この町が香料の栽培と加工に転じた。ジャスミン、バラ、チュベローズ、ラベンダー、オレンジの花。花は摘んですぐ処理しなければ香りが失われるので、畑と工房が隣り合う必要がある。冷浸法で油脂に香りを移し、アルコールで抽出する。19世紀、合成香料が現れ、天然にない香りが作れるようになった。グラース
- 囲い込みできごと1750年土地が売り買いされるものになった共有地に柵が立ち、法で私有地になった。羊と機械のために土地が空き、行き場を失った人びとが工場の働き手になる。土地が売り買いされる商品になった過程でもある。ロンドン

- 鯨油できごとAD1750年頃夜を明るくする最良の油夜を明るくする最良の油は、マッコウクジラの頭部から採れた。煙が少なく、臭わず、白く明るい。頭の中の脳油は冷えると蝋になり、ほとんど煤の出ない蝋燭になった。ナンタケット島とニューベッドフォードの船が、大西洋から太平洋へ、そして日本の沖へと漁場を広げていく。航海は三年に及んだ。乗組員は多様で、逃亡奴隷と先住民と各国の船乗りが同じ船で働いた。鯨油の値が高騰し、そして石油とガス灯が、この産業を終わらせた。ナンタケット
- 綿の布団できごとAD18世紀中世の日本の庶民は、藁や筵の上に寝て、昼の着物や夜着を掛けて眠った。綿は輸入品で高かった。木綿の栽培が西日本に広がると、綿を入れた敷き布団と掛け布団が、都市の家にも入っていく。十八世紀の江戸には、布団を貸す商売があった。婚礼の支度として布団を持たせる習わしも、この頃に形になる。昼は畳んで押し入れにしまえば、同じ部屋が居間にも寝室にもなった。寝る場所を決めない住まいは、布団と組になっている。江戸
- 沖の岩に立つ灯台できごとAD1759年10月16日イングランド南西のプリマス沖二十キロほどに、満潮になると隠れる岩礁があり、多くの船が砕けた。1698年、ウィンスタンリーが岩の上に木の塔を建てて火を灯したが、五年後の大嵐で塔ごと彼も海に消えた。次の塔は火事で焼けた。技師ジョン・スミートンは、樫の木の幹の形にならって裾の広い石の塔を設計し、花崗岩を蟻継ぎで噛み合わせ、水の中でも固まる石灰を工夫した。1759年に灯った塔は、百二十年以上、波に耐えた。のちに岩のほうが削れて危うくなり、塔の上半分は陸に移されて、いまもプリマスの丘に立っている。エディストン岩礁
- ベイクウェルの品種改良できごとAD1760年頃種雄を売らずに貸すそれまで、家畜は雄と雌を一緒に放しておくものだった。レスターシャーの農民ロバート・ベイクウェルは、雌雄を分けて飼い、目的の形質を持つものだけを掛け合わせた。近親交配も辞さない。目的は「早く太る羊」である。ニュー・レスター種は、従来の半分の期間で市場に出せた。彼は優れた種雄を売らずに貸し出し、一季節で高額の料金を取った。羊の平均重量が数十年で倍になった。ダーウィンは『種の起源』の冒頭で、この人為選択を、自然選択を説明する導入に使った。ディシュリー
- イーライ・ホイットニー人物AD1765年12月8日 – AD1825年1月8日マサチューセッツの農家の子。釘と杖の製造で学費を貯め、二十七歳でイェールを出た。家庭教師の職を求めてジョージアへ渡り、その地の綿の問題を聞いて綿繰り機を作った。特許は取ったが、構造が単純すぎて誰でも真似でき、訴訟に明け暮れて儲からなかった。次に政府から小銃一万挺を請け負い、部品の互換性を売り物にした。約束の期日は大幅に遅れ、互換性の実現度についても後世の検証で疑問が出ている。
- 切り分けた地図できごとAD1766年ロンドンの地図職人ジョン・スピルズベリーは、地図を板に貼り、国境に沿って切り分けた。子どもがばらばらの国を組み直すうちに、地理を覚えるという教材である。のちに糸鋸で切るようになってジグソーパズルと呼ばれる。はじめは学ぶための道具で、裕福な家の子どもしか持てなかった。二十世紀に厚紙を型で打ち抜くようになって安くなり、大恐慌のアメリカでは、仕事の無い大人の時間を埋める娯楽として売れた。ロンドン
- じゃがいものヨーロッパ普及できごとAD1770年頃王の作物だから盗むなアンデス原産。16世紀にスペインが持ち帰ったが、200年、「聖書に出てこない」「ハンセン病を起こす」と嫌われて、家畜の餌だった。プロイセンのフリードリヒ2世は、農民に栽培を命じ、効かないので、畑に見張りを立てて「王の作物だから盗むな」と触れさせた。農民が夜に盗んで植えた。フランスではパルマンティエが同じ手を使った。同じ面積で穀物の2〜4倍を養え、地中にあるので軍隊に踏まれない。ヨーロッパの人口が増えた。ベルリン
- ロバート・オーウェン人物AD1771年5月14日 – AD1858年11月17日協同組合の父ウェールズの馬具屋の子。10歳で店員、19歳でマンチェスターの紡績工場の支配人。1799年、義父の工場ニュー・ラナークを買った。児童労働の廃止、教育、住宅、店。「人の性格は、その人が作るのでなく、環境が作る」。1824年、アメリカのニュー・ハーモニーで共同体を試みて、3年で失敗した。1834年、全国労働組合大連合(数週間で50万人、そして崩壊)。協同組合運動の父。
- 田沼時代できごとAD1772年(安永元年)俵物足軽の子から老中になった田沼意次が、商人の株仲間を認めて運上金を取り、銅と俵物(干し鮑、ふかひれ)を専売し、印旛沼を干拓し、蝦夷地を調べさせ、南鐐二朱銀で貨幣を金本位に寄せた。賄賂と言われた。天明の飢饉、浅間山の噴火、息子意知の殿中での刺殺。1786年、失脚。松平定信が全部戻した。江戸

- ボストン茶会事件できごとAD1773年12月16日イギリス本国は、経営の苦しい東インド会社を助けるため、植民地で茶を独占して売らせる法律を作った。植民地の人びとは、自分たちの代表のいない議会が決めた税に従う理由はないと反発する。1773年12月16日の夜、先住民に扮した男たちがボストンの港の船に乗り込み、三百四十二箱の茶を海に投げ捨てた。本国は港を閉鎖し、自治を奪う厳しい法で応じる。対立は、一年四か月後の武力の衝突へと進んだ。ボストン
- 『国富論』できごとAD1776年分業と市場が国を豊かにする富は金銀ではなく労働の生産物だと定め、分業と市場が国を豊かにすると論じた。経済学がここから一つの学問になる。エディンバラ

- ダービーできごとAD1780年競馬そのものは古い。変わったのは、賭ける側の仕組みである。1780年に始まったエプソムの競走は、三歳馬だけが一度きり走る形を採った。名は、企画した二人のうちどちらの名を付けるかを硬貨で決めたと伝えられる。同じ条件で走らせ、勝った馬の血を残す。これが馬の改良と、種牡馬の価値を決める市場を生んだ。観客は階級を越えて集まり、賭けの胴元が場を仕切る。のちに日本を含む各国が、この「ダービー」の名と形を輸入した。競走は、賭けと繁殖の両方の装置になった。エプソム
- スタンフォード・ラッフルズ人物AD1781年7月6日 – AD1826年7月5日ラッフルズ・ホテルジャマイカ沖の船の上で生まれた。14歳で東インド会社の書記。ペナン、マレー語。1811年、ジャワの副総督(ナポレオン戦争でオランダ領を取った)。ボロブドゥールを「発見」した。『ジャワ誌』。1819年、シンガポール。動物学者で、ロンドン動物園を作った。奴隷貿易を禁じた。45歳で脳腫瘍。会社は彼の借金を遺族に請求した。ラッフルズ・ホテル、ラッフレシア。
- バンコクへの遷都できごとAD1782年アユタヤの陥落から15年、ラーマ1世が対岸に新しい都を築いた。焼けた都を意識して再現している。王宮の配置も、寺院の様式も。いまのタイの王朝はここから続く。トンブリー
- フレデリック・チューダー人物AD1783年9月4日 – AD1864年2月6日ボストンの法律家の子。ハーヴァードへ進まず商売に入った。1805年、兄との雑談から、冬の氷を熱帯へ運ぶ事業を思いつく。最初の航海で大損し、以後も失敗を重ね、二度、債務者監獄に入った。断熱に鋸屑を使うこと、現地に氷倉を建てること、そして冷たい飲み物の習慣そのものを作ることを、順に解いていった。1833年のカルカッタ航海で軌道に乗り、氷王と呼ばれた。晩年は資産家として死んだ。
- ロバート・ピール人物AD1788年2月5日 – AD1850年7月2日穀物法の廃止ランカシャーの綿工場主の子。内相として1829年にロンドンに警察を作った。警官は「ボビー」「ピーラー」。カトリック解放。保守党を作り直した(タムワース宣言)。首相として所得税、鉄道法、工場法、穀物法の廃止。党を割って辞めた。1850年、落馬して死んだ。「ピール派」がグラッドストンを連れて自由党に行った。
- イクイアーノの自伝できごとAD1789年自分で自由を買い戻した人が書いた奴隷にされ、自分で自由を買い戻した人が、その体験を書いた。版を重ね、議会でも読まれる。黒人が自分の言葉で書いた本が、そのこと自体で議論を動かした。ロンドン
- アッシニアできごとAD1789年12月19日革命政府は破産していた。教会財産を没収し、それを担保として国債の証券を発行する。売却が進めば回収して焼く、という約束である。やがて利子が外され、法定通貨になった。土地の売却は進まず、戦費が要り、刷り続けるしかない。1795年には額面の一パーセント未満まで下がった。物価の統制と最高価格法が失敗し、パンの行列と暴動が続く。イギリスが偽札を大量に刷って流し込んだことも記録されている。担保があるという設計が、刷る歯止めにならなかった。パリ
- 綿繰り機できごとAD1793年内陸で育つ短繊維の綿は、種が繊維に固く絡む。手で取ると、一人が一日に一ポンドしか処理できない。イーライ・ホイットニーの装置は、回転する円筒の鉤で繊維を引き抜き、種を残す。処理量が数十倍になった。結果は、彼が予期しなかったものである。綿花が儲かる作物になり、南部の耕地が西へ広がり、そして奴隷の需要が急増した。1790年に約70万人だった奴隷は、1860年に約400万人になる。労働を減らす機械が、奴隷制を延命させた。サヴァナ
- ローランド・ヒル人物AD1795年12月3日 – AD1879年8月27日外部者が費用の構造を分析したキダーミンスターの教師の家。12歳で父の学校の助手になり、独学で数学と天文学を学んだ。兄弟と作った学校では、生徒による自治と、体罰の廃止を実践した。オーストラリアへの植民の事務にも関わった。1837年『郵便の改革——その重要性と実行可能性』。役所の実務を知らない外部者として、費用の構造を数字で分析し、猛烈な反対を押し切って通した。後に郵政の長官。
- マンゴ・パークのニジェール川できごとAD1796年7月20日アフリカ協会の金スコットランドの医者が、アフリカ協会の金で、ガンビアから一人で東へ。捕えられ、逃げ、飢えて、ニジェール川が東に流れるのを見た。「私が探していた川」。帰って本を書いた。1805年、40人で戻り、全員死んだ。川がどこへ流れるかは、25年後にランダー兄弟が確かめた。セグー(ニジェール川)
- 江戸の再生の仕組みできごとAD1800年頃紙屑買いと灰買い人口100万の都市が、ごみをほとんど出さなかった。専門の買い手がいたからである。紙屑買いが古紙を集めて漉き返す。灰買いが竈の灰を買い、肥料と洗剤と染色に回す。古着屋、鋳掛屋、瀬戸物の焼き接ぎ、樽と桶の箍の直し。そして下肥。人の糞尿を、近郊の農家が買い取り、野菜にして市中へ戻した。値段が付き、盗まれる事件が起き、権利が売買された。捨てるものに値段が付けば、誰かが拾う。それだけの仕組みである。江戸
- ニュー・ラナークの実験できごとAD1800年児童労働をやめて生産は落ちなかったクライド川の紡績工場を買ったロバート・オーウェンが、10歳未満の児童労働をやめ、労働時間を10時間半に減らし、工場の中に学校(1816年、性格形成学院)と、世界初とされる幼児学校と、安い店を作った。生産は落ちなかった。「人の性格は環境が作る」。1819年の工場法、協同組合、労働組合、そしてユートピア社会主義が、ここから出た。2001年、世界遺産。ニュー・ラナーク

- 天然氷の交易できごとAD1806年2月13日需要そのものを作ったボストンの若い商人フレデリック・チューダーは、冬の池の氷を熱帯に売ることを思いついた。周囲は正気を疑った。最初の積荷はカリブ海のマルティニークへ運ばれ、大半が溶け、大損を出した。彼は債務者監獄に入っている。それでも続け、鋸で切り出す道具、おがくずによる断熱、そして氷を保つ倉庫を整えた。1833年、カルカッタへの積荷が成功する。ニューイングランドの氷が、インド、キューバ、そしてイギリスへ運ばれた。氷が、遠くから買う商品になった。ボストン
- ガス灯と夜の街できごとAD1807年夜の店と夜の労働石炭を蒸し焼きにして出るガスを管で送り、燃やす。1807年、ロンドンのポール・モール街に最初のガス灯が並んだ。それまで、夜の街は月と手提げの提灯だけだった。夜間の労働、夜の店、夜の劇場、そして夜の警察と犯罪。人の一日の使い方が変わった。副産物のコールタールは、当初は厄介な廃棄物で、そこからモーヴが、薬が、そして20世紀の有機化学工業が出てくる。ロンドン
- アリスティド・ブシコー人物AD1810年7月14日 – AD1877年12月26日ノルマンディーの帽子屋の子。行商から始め、パリの織物店の売り子になった。1852年、共同経営者としてボン・マルシェに入り、やがて全部を買い取る。薄利多売、正価、返品自由、自由な入店。従業員に利益分配と年金の制度を設け、社宅と食堂を用意した。同時に、労働は長時間で、規律は厳格である。妻マルグリットは、洗濯女から身を起こした人で、夫の死後に事業を継ぎ、その財産の大半を慈善に充てた。
- アイザック・シンガー人物AD1811年10月27日 – AD1875年7月23日俳優になりたかった男ニューヨーク州の貧しい家。12歳で家を出て、機械工と、そして旅回りの役者として暮らした。生涯、俳優になりたがっていた。1850年、ボストンで壊れたミシンの修理を頼まれ、11日で実用的な改良型を作った。特許争いを弁護士クラークとの提携で乗り切り、月賦販売と、女性を使った実演販売で市場を作った。私生活は放埒で、複数の家庭に24人の子がいた。醜聞を避けてヨーロッパへ移り、イギリスのデヴォンで死んだ。
- ペミカン布告できごとAD1814年1月8日平原の保存食が、毛皮の道の燃料だった北米の平原の人々は、バイソンの肉を薄く切って干し、砕いて、溶かした脂と混ぜ、皮の袋に詰めた。ペミカンと呼ばれるこの食べ物は、軽く、何年も持ち、少しで力が出る。毛皮を運ぶカヌーの漕ぎ手たちは、これなしでは遠い奥地まで行けなかった。その平原の真ん中に、ハドソン湾会社の後ろ盾で入植地が作られた。1814年、入植地の総督は、冬の食料が足りないとして、土地からペミカンを持ち出すことを禁じた。ペミカンに頼っていた競争相手の毛皮会社と、それを作っていたメティスの人々は怒り、二年後、血が流れた。レッドリヴァー植民地(位置は特定されていない)
- シャンプーという語できごとAD1814年言葉は移動するが、移動させた人の顔は消えるシャンプーは、押す・揉むを意味するヒンディー語から来ている。インド生まれのセイク・ディーン・マホメドは、東インド会社の軍を経てイギリスへ渡り、1814年にブライトンで蒸気浴と揉み療治の施設を開いた。国王の侍医を名乗るまでになる。彼はロンドンで最初期のインド料理店も開いていた。植民地から来た人が、故郷の技法を売り物にして受け入れられる。やがて語だけが残り、髪を洗う石鹸を指すようになった。言葉は移動するが、持ってきた人の名は残りにくい。ブライトン
- ワーテルローの歯できごとAD1815年体の一部が商品として流通した砂糖が安くなると、歯を失う人が増えた。当時の入れ歯に使う材料でいちばん良いのは、人の歯である。墓を暴いて集める者もいたが、埋葬から時間が経った歯は使えない。1815年のワーテルローの戦いのあと、戦場には若い男の遺体が数万あった。歯を抜いて回る者が現れ、それは樽に詰められてロンドンへ運ばれた。「ワーテルローの歯」と呼ばれ、由来が明かされたうえで売られた。若く健康な歯だという意味になったからである。入れ歯の歴史は、砂糖と戦争に結びついている。ワーテルロー
- イギリスの金本位制できごとAD1816年金の量に縛られる長く、銀と金の両方が貨幣だった。ニュートンが造幣局長だった1717年、金と銀の交換比率を定めたところ、金を高く評価しすぎて銀が国外へ流出し、事実上の金本位になった。ナポレオン戦争の間、兌換は停止された。1816年の貨幣法で金を唯一の本位と定め、1821年に兌換を再開した。1870年代、ドイツ、アメリカ、北欧などが続き、日本も1897年に加わって、世界の通貨が金で結ばれた。為替が安定し、貿易と投資が国境を越えた。同時に、各国は金の量に縛られた。ロンドン
- マカダム舗装できごとAD1816年十八世紀のイギリスの道は、雨が降れば泥沼になり、馬車は轍にはまった。有料道路の管理人だったジョン・ラウドン・マカダムは、石を大きく敷き詰める従来のやり方をやめた。砕いた小さな石だけを層にして敷き、中央を高くして水を流す。通る車輪が石を締め固め、使うほど固くなる。厚い土台も高価な切石も要らないので、安く長い距離を舗装できた。道が固まると、馬車の速さと積める量が上がる。鉄道が来る前の数十年、この舗装がイギリスの物流を支えた。ブリストル
- 八時間労働できごとAD1817年短縮しても利益が出たロバート・オーウェンが標語を作った。八時間労働、八時間休息、八時間の自由。当時の工場は、一日14時間から16時間が普通で、子どもも同じだけ働いた。彼は自分の紡績工場で、労働時間を短縮し、子どもの就労年齢を上げ、それでも利益が出ることを示した。以後100年、この三つの八が、世界中の労働運動の要求になった。1886年5月1日のアメリカのゼネスト、そしてヘイマーケット事件。1919年、国際労働機関の第1号条約が、これを国際基準とした。ニュー・ラナーク
- 偽造との競争できごとAD1818年偽と知らずに受け取った者が、絞首刑になったナポレオン戦争中、イングランド銀行が兌換を停止し、少額の紙幣を大量に出した。それまで紙幣に馴染みの無かった人々が使い、そして偽札が氾濫する。偽造は死罪だった。1797年から1829年に三百人以上が絞首刑になり、その多くが、偽と知らずに受け取った貧しい者である。1818年、銀行は偽造されにくい紙幣の公募を行った。透かし、彫刻、特殊なインク、そして機械彫り。技術の競争が始まり、そこから紙幣印刷という産業が生まれた。ロンドン
- ラッフルズのシンガポールできごとAD1819年2月6日自由港マラッカ海峡の南端の、人口1000人の島。東インド会社のラッフルズがジョホールの王位争いに介入して、条約で商館を置いた。自由港。関税なし。5年で人口1万、中国人、マレー人、インド人、アラブ人。オランダは抗議し、1824年の英蘭条約で線が引かれ、海峡の北がイギリス、南がオランダになった。マレーシアとインドネシアの境。シンガポール
- サイラス・フィールド人物AD1819年11月30日 – AD1892年7月12日牧師の子。製紙の卸で財を成し、三十代で引退できるだけの資産を得た。海底電信の話を持ち込まれ、電気の知識は無いまま、資金と人を集める役に回った。1857年から1866年まで、四度の失敗と一度の短命な成功を経て、大西洋を結んだ。三十回以上大西洋を往復し、私財の大半を注ぎ込んでいる。晩年は投機の失敗と一族の不祥事で財産を失い、貧しく死んだ。
- ウイスキーと酒税できごとAD1823年月光酒と徴税吏1644年、スコットランド議会が蒸留酒に課税した。以後180年、山中の密造と、徴税吏との追いかけっこが続いた。夜に焚くので月光酒と呼ばれた。1823年の酒税法が、免許料を下げ、合法の蒸留を現実的な選択にした。密造者が次々に免許を取った。同時に、この時期に定まったものがある。連続式蒸留機による大量生産と、樽での熟成である。空いたシェリー樽を使ったところ、色と香りが付いた。偶然が、この酒の定義になった。スペイサイド
- ウォルター・バジョット人物AD1826年2月3日 – AD1877年3月24日金融を感情ごと書いたサマセットの銀行家の子。ロンドン大学で数学と道徳哲学。弁護士の資格を取ったが、父の銀行に入り、実務を知った。1861年から『エコノミスト』の編集長(義父が創刊者)。『イギリス憲政論』(1867年)で、憲法を「尊厳ある部分」(王室)と「機能する部分」(内閣)に分けて説明した。1873年『ロンバード街』。金融の現場を、感情と群集心理を含めて描いた。「金は、恐怖に対してだけは、貸されない」。51歳で肺炎により死去。
- 摩擦マッチできごとAD1826年イングランド北東部の薬屋ジョン・ウォーカーが、調合中の棒の先が炉の縁に擦れて発火するのに気づいた。塩素酸カリウムと硫化アンチモンを練り、木の軸に付ける。紙やすりで擦れば、一瞬で燃える。彼は特許を取らず、作り方を隠さなかった。数年で各地が真似をし、白リンを使った安価な版が広まる。数分かかった作業が一秒になり、火は保つものから、要るときに作るものになった。ただし白リンは猛毒で、その代償は作る側が払うことになる。ストックトン・オン・ティーズ
- 『富嶽三十六景』できごと1830年顔料が交易で入ってきた70歳を過ぎてからの仕事。安価な藍(ベロ藍)が入ってきたことが、あの青を可能にした。江戸

- ジャワの強制栽培制度できごとAD1830年本国の歳入の3分の1ジャワ戦争(1825〜30年)とベルギー独立で財政が傾いたオランダが、総督ファン・デン・ボスの案で、ジャワの村に、耕地の5分の1でコーヒー・砂糖・藍を作り、政府に決まった値で売ることを課した。実際には5割を超える村も、田が減って飢えた村もあった。オランダ本国の歳入の3分の1がジャワから来た年がある。1860年、『マックス・ハーフェラール』が告発し、1870年に緩んだ。プリアンガン(西ジャワ)
- ハインリヒ・フォン・シュテファン人物AD1831年1月7日 – AD1897年4月8日仕立屋の子として生まれ、16歳で郵便局の見習いになり、ドイツ帝国郵便の長官まで昇った。国際郵便の料金体系が複雑を極めていることを実務で知り、世界を一つの区域とみなす案を書いた。1874年のベルン会議でそれが通り、万国郵便連合が生まれた。絵葉書の制度化を後押しし、電話をドイツに導入し、ベルリンに郵便博物館を作った。外来語のテレフォンを避け、フェルンシュプレッヒャーというドイツ語に言い換えた人物でもある。
- 1833年工場法できごとAD1833年工場監督官を置いた綿工場で、9歳未満の労働を禁じ、9〜13歳は1日9時間、13〜18歳は12時間まで、夜業を禁じ、9〜13歳に1日2時間の教育を義務づけた。それまでの法と違ったのは、給料を払う工場監督官を4人置いたこと。国家が、工場の中に人を入れて確かめる。児童労働は消えなかったが、「国が労働の条件を決める」という考えが、ここから広がった。同じ年、大英帝国の奴隷制が廃止された。ロンドン

- 報時球できごとAD1833年航海に出る船は、船の時計を正確に合わせておかなければ、海の上で自分の居場所を割り出せない。グリニッジの天文台は、屋根に長い柱を立て、赤い大きな球を取り付けた。毎日、昼の一時の少し前に球を柱の上まで引き上げ、一時ちょうどに落とす。テムズ川に停泊する船の上から、航海士たちはその瞬間を見て時計を合わせた。正午にしなかったのは、天文学者たちが正午には太陽を測るのに忙しかったからだと言われる。音ではなく、目に見える合図が、遠くの船に時刻を届けた。グリニッジ
- ウォードの箱できごとAD1833年植物を船で運ぶと、たいてい死んだ。潮風、塩水、日照りのない船倉。運べた苗は二十本に一本とも言われる。ロンドンの医師ナサニエル・ウォードは、蓋をした硝子の瓶の中で植物が育ち続けることに気づく。水は蒸発して硝子につき、また土へ戻る。密閉した箱が小さな循環になっていた。1833年、この箱に苗を入れてシドニーへ送る試みが成功した。以後、茶、ゴム、キナが大陸を越えて移された。帝国の植物の移動は、この硝子の箱が可能にしている。ロンドン
- ガイドブックできごとAD1830年代それまでの旅の本は、教養ある人が自分の感想を綴ったものだった。カール・ベデカーは、旅行者が実際に要る情報を並べた。宿の等級と値段、馬車の時刻、歩く距離、心づけの相場。そして、見るべきものに星印を付けた。星が多いほど良い、という単純な指標である。読者は、自分で判断する手間を省けるようになった。同時に、旅先で何を見るかが本に決められることにもなる。星の付いた場所に人が集まり、付かない場所は素通りされる。評価を付けるという行為が、旅の形を変えた。コブレンツ
- エドモンソン式乗車券できごとAD1837年初期の鉄道は、駅馬車の流儀で、乗客ごとに係が名前と行き先を手で書いた券を渡していた。混む駅では窓口に列ができ、売上をごまかされても分からない。ニューカースル・アンド・カーライル鉄道のミルトン駅の駅長トマス・エドモンソンは、行き先を刷り込み、一枚ずつ通し番号を打った厚紙の小さな券を作り、売るときに日付だけを機械で押すようにした。券を渡すのは一瞬で済み、売れ残りの番号を見れば売上が合う。この大きさの券は世界中に広まり、日本の近距離の切符はいまもほぼこの寸法で作られている。ミルトン駅(ブランプトン)(位置は特定されていない)
- 蒸気船の大西洋定期航路できごとAD1838年4月23日航海が時刻表になった同じ日に2隻がニューヨークに着いた。小型のシリウス号(石炭が尽き、家具と予備の帆桁を焚いたと伝わる)と、ブルネル設計のグレート・ウェスタン号。石炭を積むほど船体は大きくなければならず、大きな船ほど効率がよい(体積は三乗、抵抗は二乗で増える)。ブルネルはそれを見抜いていた。風待ちが消え、航海が時刻表になった。1840年、キュナードが定期便を始めた。ニューヨーク
- ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』できごとAD1838年靴墨工場の記憶救貧院で生まれた孤児が、粥のおかわりを求めて「もう少しください」と言い、追い出され、ロンドンの窃盗団に拾われる。1834年の新救貧法(貧民を救貧院に押し込め、夫婦を分け、労働を強いる)が施行された直後の連載。月刊の分冊で、毎号、街が続きを待った。作者は12歳のとき、父が債務者監獄に入って、靴墨工場で働いた。そのことを、生涯、誰にも話さなかった。ロンドン
- ペニー・ブラックと郵便改革できごとAD1840年5月6日受け取る側が払っていたそれまでの郵便は、受け取る側が距離に応じて払った。高額で、受取拒否が多く、集金の手間が費用の大半を占めていた。ローランド・ヒルは、費用を分析して、距離はほとんど関係ないことを示した。かかるのは仕分けと配達である。だから、全国どこでも重さだけで決め、前払いにし、支払いの証拠として紙片を貼る。半オンスまで一ペニー。世界初の切手。10年で郵便物は5倍以上になり、識字と教育と、庶民の手紙の習慣が広がった。ロンドン
- 鉄道と標準時できごとAD1840年町ごとの正午が消えたそれまで、時刻は町ごとに違った。太陽が南中したときが正午である。ロンドンとブリストルでは10分ずれる。歩く速さでは問題にならない。鉄道が走ると、時刻表が組めず、単線ですれ違い事故が起きる。1840年、グレート・ウェスタン鉄道がロンドンの時刻を全線で使い始めた。1855年までにイギリスの時計の98%がグリニッジ時刻に合った。町の時計に針を二本つけた教会もある。時間が、天体からではなく、電信線を通って配られるものになった。ロンドン
- 鳥の糞の時代できごとAD1840年代海鳥の糞が、一つの国の収入の大半になったペルー沖の小さな島々には、雨がほとんど降らないため、海鳥の糞が何千年も流されずに積み重なり、厚さ数十メートルの層になっていた。窒素とリンを多く含むこの糞は、畑に撒けば収穫が大きく増える。1840年代、ヨーロッパとアメリカの農家がこぞって買い求め、ペルーの国の収入の大半がこの糞になった。掘ったのは、中国から契約労働で連れてこられた人々で、鼻を突く粉塵の中で、逃げられない島で働かされた。糞は数十年で掘り尽くされる。そのあとを継いだのは、隣の砂漠の硝石をめぐる戦争だった。チンチャ諸島
- ねじを揃えるできごとAD1841年産業革命の工場では、ねじは職人が一本ずつ切っていた。同じ寸法のねじが二本と無い。壊れれば、そのねじ専用の穴に合う一本を作り直す。ジョゼフ・ウィットワースは、各地の工場のねじを集めて測り、山の角度を五十五度に、直径ごとの山数を決めた規格を提案した。産業界がこれを採り、同じ寸法のねじが、どの工場の機械にも合うようになる。部品を交換できることは、修理と量産の前提になる。のちにメートル法に基づく規格が広がるが、揃えるという発想そのものはここで形になった。マンチェスター
- 団体旅行できごとAD1841年7月5日旅程という商品が生まれた禁酒運動の世話人だったトマス・クックは、集会へ人を運ぶために鉄道会社と交渉し、往復の切符をまとめて安く買った。五百人ほどが参加し、一人一シリングである。これが団体旅行の始まりとされる。彼はやがて宿と食事と入場券を組み合わせ、前もって払えば現地で金を扱わずに済む仕組みを作った。旅は、金と暇のある人のものから、勤め人が一週間分の楽しみとして買うものになる。目的地で何を見るかも、あらかじめ決められた。旅程という商品が生まれたことになる。レスター
- 骨と硫酸できごとAD1842年骨を砕いて畑に撒くと、よく育つ。ただし溶けるのに何年もかかる。イギリスのジョン・ベネット・ローズは、骨や鉱石のリン酸を硫酸で処理すると、水に溶けやすい形になることを見つけ、1842年に特許を取った。世界で最初の化学肥料の工場が動き出す。彼は自分の農場に試験区を作り、肥料を変えながら同じ畑で収穫を測り続けた。その試験は百八十年を超えて続いている。効くかどうかを、印象ではなく、長い年数の記録で確かめる。農学が実験の学問になった場所でもある。ロンドン
- モールスの電信できごとAD1844年5月24日情報が人より速くワシントンの最高裁の部屋からボルティモアまで60キロ。「What hath God wrought(神は何を成し給うたか)」。画家のモールスが、点と線の符号と、電磁石の受信機で。10年で全米に電線、1858年に大西洋ケーブル(3週間で切れた。1866年に成功)。情報が人より速く動く最初。株価、ニュース、戦争の命令、時報。ワシントンD.C.
- 穀物法の廃止できごとAD1846年6月25日自由貿易1815年から、外国の安い穀物に関税をかけて、地主の穀物の値段を守っていた。工場主は「パンが高いから賃金が高い」と言い、コブデンとブライトの反穀物法同盟が7年運動した。アイルランドの飢饉。保守党の首相ピールが自分の党を割って廃止した。自由貿易。イギリスは食糧を輸入し、工業製品を輸出する国になった。ピールは4日後に辞めた。ロンドン

- 線路の幅できごとAD1846年イギリスの初期の鉄道は、会社ごとに線路の幅が違った。スティーヴンソンの系統はおよそ一四三五ミリ、ブルネルのグレート・ウェスタンは二一四〇ミリで、後者のほうが速く快適だと主張された。困るのは乗客と荷物である。幅の違う線が出会う駅では、全員が降り、荷を積み替えなければならない。委員会が調べ、1846年、新線は狭いほうの幅に統一する法が通った。すでに敷かれた距離が長いほうが勝った形になる。どちらが優れているかではなく、どちらが多いかで決まる。規格の争いは、たいていそうなる。ロンドン
- ロンドンの塵芥山できごとAD1850年頃塵芥業者が財を成した家庭から出る灰と燃え殻を、業者が集めて山に積む。そこで、女たちがふるいにかけて選り分けた。細かい灰は煉瓦の材料と肥料に、燃え残りの石炭はまた燃やし、骨は膠と肥料に、ぼろ布は製紙に、金属は鋳直す。塵芥業者は、この選別で財を成した。ディケンズが『我らが共通の友』で、塵芥の山を相続する話を書いている。石炭から都市ガスへ、そして灰が出なくなると、この経済は消えた。回収する動機が、消えたからである。ロンドン
- ロイターの伝書鳩できごとAD1850年速さそのものに値段が付いたベルリンとパリの間に電信線が引かれたが、アーヘンとブリュッセルの約120キロが繋がっていなかった。この空白を、ポール・ロイターが鳩で埋めた。ブリュッセルの株価を薄い紙に書いて鳩に付け、二時間でアーヘンへ運び、そこから電信でベルリンへ送る。郵便列車より数時間速い。翌年、線が繋がって鳩は不要になったが、彼はロンドンへ移り、通信社を作った。情報が速く着くことに、それ自体の値段が付くと分かった時期である。アーヘン
- 万能薬の時代できごとAD19世紀新聞が広告で成り立つようになると、いちばん多く広告を出したのは薬だった。咳にも、疲れにも、赤ん坊の夜泣きにも効くと書かれ、中身は公表されない。実際には阿片やモルヒネ、アルコールが入っているものが多く、子どもを静かにさせる水薬で死ぬ例も出た。効かなくても害があっても、売る側は責任を問われない。表示の義務が無いからである。記者が成分を調べて連載し、世論が動いた。何が入っているかを書かせること。それが、いまの医薬品の規制の出発点になる。ニューヨーク
- ミシンと分割払いできごとAD1851年月賦という仕組み手縫いでシャツ1枚に14時間かかった。ミシンなら1時間である。1846年にハウが本縫いの機構を特許にし、1851年にシンガーが実用的な足踏み式を作った。特許の争いが泥沼化し、1856年、各社が特許を持ち寄る共同管理(世界最初のパテント・プール)で決着した。シンガーの発明はむしろ売り方にある。高価な機械を、月賦で家庭に売った。分割払いという仕組みが、ここから消費財に広がる。同時に、縫製工場と既製服の産業が生まれた。ボストン
- ロンドン万国博覧会できごとAD1851年5月1日600万人ハイド・パークに、鉄とガラスで、長さ563メートルの温室。水晶宮。9か月で建て、600万人が来た。イギリスの人口の3分の1。蒸気機関、機関車、電信、コルト拳銃、コ・イ・ヌール、印度の象牙の玉座。「万国の産業の作品」。アルバート公が仕切った。利益で自然史博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館。産業革命の勝利宣言。ロンドン

- アリスモメーターできごとAD1851年パスカルとライプニッツ以来、計算機は作られてきたが、どれも一点物で、壊れやすく、実用にならなかった。保険会社の経営者トマ・ド・コルマーは、段付きの歯車を使う機構を1820年に特許にし、その後三十年をかけて、毎日使っても狂わない機械に仕上げた。四則が扱える。1851年から量産に入り、以後半世紀で数千台が売れた。買ったのは保険会社、天文台、測量局、そして軍である。事務の現場に機械が入った最初である。パリ
- ボン・マルシェできごとAD1852年買い物が、外出の目的になったアリスティド・ブシコーが、小さな織物店を、あらゆる品を並べる大きな店に変えていった。値札を付け、正価で売り、返品を認め、そして誰でも自由に入って、買わずに出てよいことにした。それまでの店は、入れば買わされる場所である。季節ごとの大売出し、通信販売の目録、そして店内の読書室と休憩室。1869年からの新築にはエッフェルの事務所が関わった。ゾラが取材して『ボヌール・デ・ダム百貨店』を書いている。買い物が、外出の目的になった。パリ
- 灯油のランプできごとAD1853年7月31日ガリツィアの山あいでは、地面から黒い油がにじみ出ていた。薬局で働くウカシェヴィチは、それを蒸留して澄んだ灯油を取り出し、燃やすためのランプを作った。1853年の夏、ルヴフの病院で、夜の緊急の手術がこのランプの明かりの下で行われたと伝えられる。翌年、彼は油を汲み上げる井戸を掘り、やがて精製所を建てた。灯油は鯨の油よりずっと安く、どこの家でも夜に本が読めるようになる。石油は、燃料になるより前に、まず明かりとして世界に広まった。リヴィウ(ルヴフ)
- ユーレカ砦の反乱できごとAD1854年12月3日免許料ビクトリアの金鉱で、掘る権利の高い免許料と、警官の取り締まりに、鉱夫が怒った。免許証を焼き、青い南十字星の旗の下で「互いの権利と自由を守る」と誓い、丸太で砦を作った。日曜の夜明け、兵と警官が襲って15分。鉱夫22人、兵5人が死んだ。裁判で陪審は全員を無罪にした。翌年、免許料は廃止され、鉱夫に選挙権が与えられた。オーストラリアの民主主義の神話になった。バララット

- モーリーの風と海流の図できごとAD1855年リオまで10日短縮アメリカ海軍のマシュー・モーリーが、落馬の怪我で海上勤務を離れ、倉庫に積まれた古い航海日誌を読み始めた。何十年ぶんの、日ごとの風向と海流と水温。それを海域ごとに集計して図にした。船長たちは航路を変え、ニューヨークからリオまでの日数が10日縮んだ。彼は各国に「日誌を同じ書式で記録して共有しよう」と呼びかけ、1853年のブリュッセル会議で合意した。国際的な科学協力の早い例。ワシントンD.C.
- モーヴと合成染料できごとAD1856年色が畑から工場へ18歳の学生ウィリアム・パーキンが、復活祭の休みに自宅の屋根裏で、石炭タールから抗マラリア薬キニーネを合成しようとした。できたのは黒い泥だった。洗おうとしてアルコールを注ぐと、鮮やかな紫に溶けた。絹を染めると落ちない。彼は学校をやめ、父の貯金で工場を建てた。ヴィクトリア女王とウジェニー皇后がこの色を着て、流行した。以後、色は畑(藍、茜、コチニール)から工場へ移り、ドイツの染料会社がバイエルとBASFになる。ロンドン
- 登記が権利を作るできごとAD1858年7月1日過去を遡るのをやめ、台帳の現在の一行を絶対にした土地を買うとき、売り主が本当に持ち主かを確かめるには、過去の証書を何十年分もさかのぼって調べるしかなかった。一枚でも欠ければ、後から別の相続人が現れる。南オーストラリアのロバート・トレンスは、船の登録簿の考え方を土地に持ち込んだ。国が台帳を作り、そこに載っている者が持ち主である。証書の連なりを調べるのではなく、台帳の現在の一行だけを見る。誤りがあれば国が補償する。手続きが速く安くなり、この方式は各地に広がった。ただし台帳を作る過程で、書面を持たない先住民の権利は、そこに載らなかった。アデレード
- 缶切りできごとAD1858年缶詰が作られてから、缶切りが現れるまで四十年以上かかった。初期の缶は鉄が厚く、重さも中身と同じくらいある。開け方は、槌と鑿で叩き割るか、銃で撃つ、と説明書に書かれていた。軍の補給には向いても、家庭では扱いにくい。薄い鋼板の缶が作れるようになって、ようやく刃で切る道具が成り立つ。1858年に特許が出て、以後、てこ式、回転刃式と改良された。中身より、開ける手段のほうが遅れて来ることがある。道具は、使う人の手が届く形になって初めて広まる。ウォーターベリー
- ドレークの油井できごとAD1859年8月27日石油は、地面に滲み出るものを掬って集めていた。灯火用の鯨油が高騰し、代わりが求められていた。元の車掌エドウィン・ドレークが、塩井を掘る技術を油に転用した。柔らかい地層で穴が崩れるため、鉄管を打ち込んでその中を掘る。二十一メートルで油が上がってきた。この一本から、産油という産業が始まる。ドレークは特許を取らず、投機に失敗し、貧しくなった。晩年、州が年金を与えている。タイタスヴィル
- 藍の反乱できごとAD1859年一度、金を受け取ったら、抜けられないベンガルの農民は、耕地の一部に藍を作ることを強いられた。前貸しの金を受け取ると、抜けられない。買い取り価格は生産費を下回り、借金だけが積み上がる。拒めば、私設の暴力団に打たれ、家を焼かれ、家族を捕らえられた。1859年、ナディア県で作付けの拒否が始まり、ベンガル全域に広がる。裁判が起こされ、新聞が書き、戯曲『ニール・ダルパン』が事態を伝えた。調査委員会が置かれ、強制の作付けは崩れた。植民地の農民の、組織的な抵抗の初期の例である。コルカタ
- トーネットの14番できごとAD1859年ミヒャエル・トーネットは、ブナの棒を蒸気で柔らかくし、型に沿って曲げる方法を工夫した。1859年の14番の椅子は、曲げた木六本とねじ十本でできている。職人の彫刻も継ぎ手も要らない。分解して箱に詰めれば、一立方メートルに三十六脚入り、船で世界へ送れた。ウィーンのカフェの椅子として知られ、1930年までに数千万脚が売れたと言われる。椅子が、職人の一点物から工場の製品になった。ウィーン
- 農奴解放令できごとAD1861年3月3日49年の年賦ロシアの人口の3分の1、2300万人の農奴が、人身の自由を得た。地主の所有でなくなった。土地は、49年の年賦で買い戻す。土地は村(ミール)が持ち、農民は村から出られなかった。「上から与えなければ、下から起きる」とアレクサンドル2世は貴族に言った。買い戻し金は重く、農民は貧しいままで、1905年と1917年に立った。皇帝は1881年に爆弾で殺された。サンクトペテルブルク
- 小さな鍵できごとAD1861年それまでの錠は、鍵が大きく重かった。錠の中の仕掛けが大きいからである。ライナス・イェール二世は、エジプトの木の錠と同じ原理を金属で小さくまとめた。円筒の中に長さの違うピンを並べ、平たい鍵の凹凸でそれぞれを正しい高さへ押し上げる。すべて揃うと円筒が回る。錠の本体は扉の中に収まり、鍵はポケットに入る。同じ形の錠を大量に作り、ピンの組み合わせだけを変えれば、鍵は全部違うものになる。量産と個別性を両立させた設計が、いまの玄関の鍵になっている。スタンフォード(コネチカット)
- 既製服できごとAD1860年代服は、仕立てるか、家で縫うものだった。既製の服は、船乗りや奴隷に着せる粗末なものに限られていた。変えたのは戦争になる。南北戦争で軍服を大量に作る必要が生まれ、兵の体を何十万人分も測った記録から、背丈と胸囲の組み合わせに規則性があることが分かった。いくつかの型を用意すれば、多くの人に合う。戦後、その型と工場がそのまま紳士服に転用される。ミシンと型紙と分業で、服は買うものになった。同時に、体を「サイズ」という数字で表す習慣も広まっていく。ニューヨーク
- グリーンバックできごとAD1862年2月25日金の裏づけの無い紙を、国家が押し通せるか南北戦争の戦費で、北部の銀行が正貨の支払いを止めた。議会は法定通貨法を通し、金と交換できない紙幣を発行する。裏面が緑のインクで刷られたので、そう呼ばれた。合衆国の政府が自ら発行した、最初の全国共通の紙幣である。総額約四億五千万ドル。金貨に対して値が下がり、一時は四割ほどまで落ちた。戦後、金への復帰をめぐって二十年争われる。農民と債務者は増発を求め、債権者と東部の金融は緊縮を求めた。通貨の量が、政治の争点になった。ワシントンD.C.
- ブラックバーディングできごと1863年労働力そのものが運ばれる太平洋の島々から、6万人以上が騙されるか攫われるかしてクイーンズランドやフィジーの農園へ運ばれた。奴隷貿易ではないという建前で、40年続いた。スバ

- 遺体を、家に返すできごとAD1865年4月21日南北戦争では、兵が故郷から遠い戦場で死んだ。夏の鉄道で何日もかけて運べば、家に着くころには見られる状態ではない。医師トマス・ホームズらが、動脈から薬液を入れて腐敗を遅らせる方法を売り込み、戦場のそばに天幕を張って商売にした。金を払える家の息子だけが、家に帰れた。決定的だったのは大統領の遺体である。暗殺されたリンカーンは防腐処理を受け、二週間かけて各地を巡り、沿線の人々がその顔を見た。死者を土に返すまでのあいだ、専門の業者が預かるという形が、ここでできた。ワシントンD.C.
- 大西洋横断電信ケーブルできごとAD1866年市場が同じ日を共有した1858年、最初のケーブルが繋がり、ヴィクトリア女王とブキャナン大統領が挨拶を交わした。98語の送信に16時間かかり、3週間で切れた。1865年、グレート・イースタン号(当時ずば抜けて巨大な失敗作の客船)が敷設船に転用され、途中で切断。1866年、成功し、落とした前年のケーブルも拾い上げて繋いだ。ロンドンとニューヨークの間の情報の伝達が、10日から数分になった。市場と外交と新聞が、同じ日を共有し始めた。ハーツ・コンテント(位置は特定されていない)

- 『資本論』できごとAD1867年9月14日剰余価値大英博物館の閲覧室で20年。第1巻、ハンブルクで1000部。商品、価値、剰余価値、労働日、機械、本源的蓄積。「資本は頭から足の先まで、毛穴という毛穴から血と汚物を滴らせて生まれてくる」。マルクスは第2巻と第3巻を書き終えずに死に、エンゲルスが草稿から編集した。19世紀で最も影響の大きい本の一つを、ほとんど誰も最後まで読んでいない、と言われる。ロンドン

- 乳児のための粉できごとAD1867年母乳の代わりが、工場で作られる母乳が出ないとき、乳母を雇えない家の赤ん坊は、薄めた牛乳や粥で育てられ、多くが死んだ。スイスのヴヴェイの薬剤師アンリ・ネスレは、牛乳と小麦粉と砂糖を合わせて乾かした乳児用の粉を作る。1867年、母乳も他の食べ物も受けつけなかった早産の子がこれで助かったと宣伝され、ヨーロッパ中に売れた。母乳の代わりが工場で作られる時代の始まりである。のちにその売り方が、途上国で大きな問題を起こすことになる。ヴヴェイ
- 大陸横断鉄道の開通できごとAD1869年5月10日6か月が1週間に東から西へユニオン・パシフィック、西から東へセントラル・パシフィック。中国人労働者1万2000人がシエラネバダにトンネルを掘った。ユタのプロモントリーで、金の犬釘を打った。電信で「DONE」。ニューヨークからサンフランシスコまで、6か月が1週間に。バッファローが撃たれ、平原の先住民の暮らしが終わり、西部が開かれた。プロモントリー

- FAカップと近代サッカーできごとAD1872年20年で労働者のものに1863年、ロンドンのパブでフットボール・アソシエーションが結成され、手を使う流儀(後のラグビー)と分かれた。1872年、最初のFAカップ決勝(ワンダラーズ対ロイヤル・エンジニアーズ)と、最初の国際試合(イングランド対スコットランド、0対0)。初めは上流の学校のスポーツだったのが、20年で工場労働者のものになった。土曜の午後が半休になり、鉄道が観客を運んだ。1888年、リーグ発足。シェフィールド
- 銀座の洋風調剤薬局できごとAD1872年海軍の薬剤師だった福原有信は、1872年、東京の銀座に日本で最初の洋風の調剤薬局を開いた。名は易経の一節から取った資生堂である。医薬分業を掲げ、西洋の処方で薬を作った。1897年に化粧水を出し、やがて化粧品が本業になる。大正には意匠部を置き、広告と包装の図案まで自前で作った。白粉の鉛の害が問題になっていた時代に、薬の知識を持つ店が化粧品を作ったことに意味があった。美しさが、薬局の棚から商品として売られるようになる。東京
- 第一国立銀行できごとAD1873年江戸時代にも両替商はあったが、人びとから広く金を集めて事業に貸す銀行は無かった。アメリカの制度を手本に作られた法律のもとで、1873年、東京の兜町に第一国立銀行が開業する。国立と名がついているが、民間の資本の銀行である。大蔵省を辞めた渋沢栄一が、その経営の中心に立った。渋沢はこの銀行を足場に、製紙、紡績、鉄道、保険など五百ほどの会社の設立に関わる。金を集めて事業に回す仕組みが、日本の資本主義の出発点になった。東京
- バジョットと最後の貸し手できごとAD1873年高い金利で惜しみなく貸せ恐慌が起きると、誰もが現金を求めて銀行に走る。健全な銀行でも、全員が同時に来れば潰れる。『エコノミスト』の編集長ウォルター・バジョットが『ロンバード街』で原則を書いた。中央銀行は、危機のとき、良質な担保に対して、高い金利で、惜しみなく貸せ。高い金利は、本当に困っている者だけを来させる。良質な担保は、潰れるべき者を救わないためである。この一行が、以後150年の中央銀行の教科書になった。2008年にも引かれた。ロンドン
- 鋲を打ったズボンできごとAD1873年5月20日労働のための頑丈さが、そのまま意匠として残ったネヴァダの仕立て屋ジェイコブ・デイヴィスは、作業ズボンのポケットの角が破れやすいので、銅の鋲で留めることを思いついた。特許の費用が無く、布を仕入れていたサンフランシスコの商人リーヴァイ・ストラウスに持ちかける。1873年5月20日、二人の名で特許が認められた。鉱夫と牧場の労働着は、二十世紀半ばに映画の若者の反抗の服になり、冷戦期の東側では西側の自由の印として闇で取引された。労働着が、世界でいちばん普通の服になった。サンフランシスコ
- 万国郵便連合できごとAD1874年10月9日世界を一つの郵便区域とみなすそれまで、外国へ手紙を出すには、経由する国ごとに二国間の取り決めがあり、料金の計算が誰にもできなかった。22か国がベルンに集まり、ドイツのシュテファンの案を受け入れた。世界を一つの郵便区域とみなす。料金は差出国が受け取り、配達する国に渡さない。中継する国には、重さに応じた運び賃を払う。切手はどの国のものでも本国のものが有効になる。国境を越える協力の、最も古く、最も静かに続いている仕組みの一つである。ベルン
- 有刺鉄線できごとAD1874年11月24日大平原には石も木もなく、柵が作れなかった。だから家畜は放し飼いにされ、土地は共同で使われていた。イリノイの農民ジョゼフ・グリデンが、針金にもう一本を巻きつけて棘を固定する方法で特許を取った。安く、大量に作れる。数年で年に数万トンが売れ、平原が細かく囲われていった。柵を切る者と守る者のあいだで銃撃が起き、水場を囲われた牧場主が破産した。所有権は前からあった。それを地面の上に見える形で示す手段が、このとき初めて安くなった。ディカルブ
- メートル条約できごとAD1875年5月20日度量衡が条約の対象になったフランス一国の制度を、国際の制度にする。十七か国が署名し、常設の機関として国際度量衡局をパリ郊外セーヴルに置いた。1889年、白金九割・イリジウム一割の合金で、たわみに強いX字の断面を持つ国際メートル原器と国際キログラム原器が作られ、複製が各国に配られた。日本は1885年に加入し、原器を受け取った。度量衡が、条約で管理される対象になった最初である。パリ
- ベルの電話できごとAD1876年3月10日同じ日に別の出願ボストンの下宿の一室。聾者の教師だったアレクサンダー・グラハム・ベルが、隣の部屋の助手に言った。「ワトソンくん、来てくれ。用がある」。硫酸をこぼしたから、という話が伝わる。3日前に特許を取っていた。同じ日に、イライシャ・グレイが同じ原理の書類を出していた(数時間の差、と言われる)。1877年、ベル電話会社。1915年、ニューヨークとサンフランシスコ。ボストン
- 割り箸できごとAD1878年ごろ外で食べる人が増えると、箸を洗って使い回すことへの抵抗が出る。明治のはじめ、奈良の吉野で、樽を作るときに出る杉の端材から箸を作る商売が始まったと伝えられる。使い捨てにできて、木の香りがつく。鰻屋や蕎麦屋が使い、駅弁に添えられ、外食の広がりとともに定着した。のちに国産材から輸入材へ切り替わり、森林の伐採と結びつけて批判されるようになる。一方で、間伐材や端材を使う限りは無駄ではない、という反論もある。清潔さと資源は、たいてい逆を向く。東京
- フィジーへの年季労働移民できごとAD1879年奴隷制の後に作られた、別の形の労働の移動奴隷制の廃止後、砂糖農園の労働力としてインドから6万人が送られた。5年契約という建前だった。いまフィジーの人口の4割近くがその子孫になる。スバ
- エジソンの白熱電球できごとAD1879年10月22日発明工場メンローパークの「発明工場」で、炭化した木綿糸のフィラメントが13時間半光った。翌年、京都の八幡の竹で1000時間以上。電球より重要だったのは、発電所と、配電網と、メーターと、スイッチと、料金の仕組みを、まとめて作ったこと。1882年、ニューヨークのパール街発電所。「私は失敗していない。うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ」。メンローパーク
- 太平洋戦争(南米)できごとAD1879年硝石をめぐって、海を失った国アタカマ砂漠には、肥料と火薬の原料になる硝石が眠っていた。採掘していたのはチリとイギリスの資本の会社で、土地はボリビアとペルーのものだった。ボリビアが会社に新しい税をかけると、1879年、チリ軍が港町アントファガスタを占領し、戦争になる。チリは海でも陸でも勝ち、ペルーの首都リマまで占領した。ボリビアは海への出口を失い、いまも内陸国である。ボリビアでは、失った海を取り戻す日を毎年記念している。アントファガスタ
- 冷蔵船できごとAD1882年98日かけて腐らずに着いた1882年、ニュージーランドのポート・チャーマーズを出た帆船ダニーデン号が、圧縮式の冷凍機を積み、羊5000頭分の枝肉を98日かけてロンドンへ運んだ。腐らずに着いた。以後、アルゼンチンの牛、オーストラリアとニュージーランドの羊、アメリカのバターが、ヨーロッパの食卓に流れ込んだ。イギリスの労働者が肉を食べられるようになり、ヨーロッパの農業は打撃を受けた。南半球の草原が、北半球の都市の胃袋に繋がった。ロンドン
- ウラービー運動できごとAD1882年9月13日スエズと破産スエズ運河の建設と浪費で、エジプトは破産し、英仏が財政を管理した。農民出身の陸軍大佐ウラービーが「エジプト人のエジプトを」と立ち、憲法と議会を求めた。アレクサンドリアがイギリス艦隊に砲撃され、テル・エル・ケビールで夜襲に敗れた。ウラービーはセイロンへ流された。イギリスの「一時的な」占領は74年続いた。テル・エル・ケビール

- ジョン・メイナード・ケインズ人物AD1883年6月5日 – AD1946年4月21日ブレトン・ウッズケンブリッジ。父は経済学者、母は市長。イートン、キングズ・カレッジ。ブルームズベリー・グループ(ヴァージニア・ウルフ、リットン・ストレイチー)の一員。1919年、パリ講和会議に大蔵省の代表として出て、賠償の過酷さに抗議して辞任し、『平和の経済的帰結』を書いた(そこでの予言が的中した)。投資で財を成し、劇場を建て、バレリーナのリディア・ロポコワと結婚した。1944年、ブレトン・ウッズ。
- 万年筆できごとAD1884年インク壺にペン先を浸す書き方は、机から離れられない。インクを内蔵するペンは早くから試みられたが、漏れるか、出ないかのどちらかだった。保険の外交員だったルイス・ウォーターマンは、契約の場でインクが漏れて商談を逃した話が伝わる。彼が改良したのは、ペン先へ続く溝である。インクが出る分だけ空気が入るようにすると、流れが安定した。持ち歩けるペンは、事務員、記者、旅行者の道具になる。署名はその場でできるものになり、契約の作法も変わった。ニューヨーク
- ヘイマーケット事件できごとAD1886年5月4日8時間労働5月1日、8時間労働を求めて全米で35万人がストライキに入った。5月3日、シカゴのマコーミック工場前で警官が発砲して死者が出た。翌4日の抗議集会が終わりかけたとき、爆弾が投げられ、警官7人と市民4人が死んだ。投げた者は分からないまま、無政府主義者8人が裁かれ、4人が絞首刑になった。1889年、第二インターナショナルが5月1日をメーデーに定めた。ヘイマーケット(シカゴ)

- 石鹸と広告できごとAD1886年清潔が上品さと道徳として売られた石鹸は長く高価な品だったが、原料の改良と課税の廃止で安くなり、十九世紀末には大量に作られるようになった。売る側は、必要のない人にも買わせなければならない。ピアーズ社は画家ミレーの描いた子どもの絵を買い取り、石鹸を描き加えて広告に使った。清潔であることが、上品さであり、道徳であり、文明であるという語り方が広まる。同じ語り方は植民地にも向けられ、石鹸の広告が「野蛮を洗い落とす」構図で描かれた。体を洗う習慣は、衛生の知識だけでなく、広告によっても作られた。ロンドン
- 国境を越える著作権できごとAD1886年守る側に回るまで、守らない利益のほうが大きかった自国では守られても、国境を越えれば守られない。十九世紀のアメリカでは、イギリスの小説が作者に断りなく刷られ、安く売られていた。ディケンズは講演旅行でこれを訴え、逆に反感を買っている。1886年、ヨーロッパ各国がベルヌで条約を結んだ。加盟国は、他国の著作物を自国のものと同じに扱う。登録や手続きは要らず、書いた時点で権利が生まれる。アメリカが加わるのは百年後の1989年になる。守る側に回るまで、守らない利益のほうが大きかったことになる。ベルン
- ホレリスのパンチカードできごとAD1890年IBMになる会社1880年のアメリカの国勢調査は、集計に7年かかった。次の調査が始まるまでに終わらない。技師ハーマン・ホレリスは、鉄道の車掌が切符に乗客の特徴をパンチで刻むのを見て思いついた。人ひとりを1枚のカードにし、穴の位置で属性を表す。カードを機械に通すと、穴を通った針が水銀に触れて回路がつながり、計数器が回る。1890年の調査は、人口の速報が6週間で出た。彼の会社が合併を重ねてIBMになる。国家が人を数えるために、計算機の産業が生まれた。ワシントンD.C.
- タバコ・ボイコットできごとAD1891年1890年、イランの国王は、タバコの生産から売買、輸出までを五十年間独占する権利を、イギリス人の会社に売り渡した。タバコを作る農民も、売る商人も、吸う人びとも、外国の会社を通さねばならなくなる。商人と宗教学者が反対し、1891年、最高位の宗教学者の名で、タバコを吸うことは信仰に背くという見解が出された。国じゅうで人びとが吸うのをやめ、王の後宮の女性たちまで従ったと伝えられる。翌年、利権は取り消された。宗教と商人と民衆が組んだこの運動は、のちの立憲革命の先駆けになった。テヘラン
- シアーズの目録できごとAD1893年地方の値段が、全国の値段に引き寄せられたアメリカの農村では、雑貨屋が一軒しかなく、品数も値段も、その主人が決めていた。鉄道の駅員だったリチャード・シアーズが、売れ残りの時計を通信で売ったのが始まりである。分厚い目録を無料で配り、鉄道と郵便で届けた。品数は十万を超え、衣類、農具、楽器、薬、そして組み立て式の住宅まで載った。字の読める者が家族に読み聞かせた。地方の値段が、全国の値段に引き寄せられる。1970年代まで、アメリカ最大の小売業者だった。シカゴ
- 合成インディゴできごとAD1897年アドルフ・フォン・バイヤーが1878年に合成に成功し、1883年に構造を決めた。しかし工業化は別である。BASFは十七年と、当時の資本金を超える一千万マルク以上を投じた。転機は偶然で、水銀の温度計が割れて釜に落ち、それが触媒として働いた。1897年、製品が出る。インド各地の藍の畑が、数年で価値を失った。ベンガルとビハールの農村経済が崩れ、そこから南アフリカ帰りのガンディーが最初に取り組んだ農民運動が生まれる。ルートヴィヒスハーフェン
- ユナイテッド・フルーツと「バナナ共和国」できごと1899年一つの会社が、中米数か国の鉄道と港と土地を握った。1954年、農地改革を進めたグアテマラ政権が、この会社の働きかけを受けたアメリカの介入で倒される。グアテマラシティ
- サイモン・クズネッツ人物AD1901年4月30日 – AD1985年7月8日数え方を作った人の警告ロシア帝国のピンスク(現ベラルーシ)生まれ。ハリコフで学び、革命後の混乱の中で統計局に勤めた。1922年、アメリカへ移住。コロンビア大学で学位。全米経済研究所で、長期の経済統計の系列を組み立てた。1934年、議会に国民所得の推計を提出。第二次大戦中は戦時生産の計画に関わった。経済成長と所得格差の関係を論じた「クズネッツ曲線」で知られる。彼自身は、その仮説を暫定的なものとして提示していた。1971年ノーベル経済学賞。
- テディベアできごとAD1902年1902年、ミシシッピへ熊狩りに出たセオドア・ローズヴェルト大統領は、木に縛りつけられた熊を撃つのを断った。その場面が新聞の漫画になる。ブルックリンで菓子屋を営むミクトム夫妻が、熊のぬいぐるみを作って「テディの熊」と名付けた。ほぼ同じころ、ドイツのシュタイフ社も手足の動く熊を作り、アメリカから大量の注文を受ける。猛獣だった熊が、子どもが抱いて眠るものになった。政治家の逸話が商品になった最初の例の一つでもある。ニューヨーク
- ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理』できごとAD1905年なぜ西ヨーロッパでなぜ資本主義は西ヨーロッパで生まれたのか。マルクスは経済が意識を決めると言った。ウェーバーは、逆の方向も見た。カルヴァン派の予定説——救われるかどうかは既に決まっていて、行いでは変えられない——が、人に不安を与え、その不安が「職業に励み、禁欲し、儲けを使わずに再投資する」生き方を作った。宗教の動機が消えた後も、その生き方だけが残って、機械のように回る。「鉄の檻」。ベルリン
- ストルイピンの改革できごとAD1906年11月強い者に賭ける1905年の革命のあと、首相ストルイピンは「まず鎮圧、それから改革」で臨んだ。軍法会議の絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。同時に、農民が共同体(ミール)を出て自分の土地を持てるようにした。「強い者に賭ける」。「20年の平穏をくれれば、ロシアを変える」。1911年、キエフの劇場で、皇帝の見ている前で撃たれた。6年後、革命。サンクトペテルブルク
- ベークライトと合成樹脂できごとAD1907年千の用途を持つ素材ベルギー生まれの化学者レオ・ベークランドが、フェノールとホルムアルデヒドを圧力鍋のような容器で反応させた。できたのは、熱で固まり、二度と溶けない樹脂である。天然にない、まったく新しい物質だった。電気を通さず、熱に強く、型に流せば何にでもなる。電話機、ラジオの筐体、電気の絶縁部品、玉突きの球、装身具。「千の用途を持つ素材」と宣伝された。以後、人類は、分解されない物質を作り続けることになる。ヨンカーズ
- 信用格付けの始まりできごとAD1909年評価される側が金を払う鉄道の債券が大量に発行され、投資家はどれが危ないか分からなかった。ジョン・ムーディーが、鉄道会社の債券を調べ、AaaからCまでの記号で並べた冊子を売り出した。1916年にプアーズ、1922年にスタンダード統計、1924年にフィッチ。当初は投資家が買う情報誌だったが、1970年代から、格付けを受ける側が料金を払う方式に変わった。評価される者が評価する者に金を払う。この構造が、2008年の金融危機で厳しく問われた。ニューヨーク
- スタンダード・オイルの解体できごとAD1911年5月15日ジョン・ロックフェラーのスタンダード・オイルは、競争相手を買い取り、鉄道会社から秘密の割引を受け、アメリカの石油精製の九割を握った。記者アイダ・ターベルが、その手口を雑誌の連載で細かく暴く。1911年5月15日、連邦最高裁は、この会社が独占を禁じる法に違反するとして、三十余りの会社に分割するよう命じた。分割されたあとの会社の株は値上がりし、ロックフェラーの富はかえって増えた。大きすぎる会社をどう扱うかという問いは、いまも巨大な情報企業に向けられている。ワシントンD.C.
- マルコム・マクリーン人物AD1913年11月14日 – AD2001年5月25日汽笛が一斉に鳴ったノースカロライナの農家。ガソリンスタンドで働き、中古のトラック1台で運送業を始め、全米有数の会社に育てた。港で荷を降ろすのに何時間も待った経験から、「荷台ごと船に載せればよい」と考えた。1955年、トラック会社を売り、船会社を買った。コンテナの特許を無償で公開し、規格の統一に協力した。彼の葬儀の朝、世界中のコンテナ船が一斉に汽笛を鳴らした。
- フォードの流れ作業できごとAD1913年日給5ドルハイランドパーク工場。シカゴの食肉工場の「解体の流れ」を逆にした。組み立てる物が動き、人は動かない。T型フォード1台の組み立てが12時間半から93分に。値段は850ドルから260ドルへ。1914年、日給5ドル(当時の倍)と8時間労働。「私の工場の労働者が、自分の作る車を買えるように」。単純な動作の繰り返し。チャップリンが『モダン・タイムス』で笑った。ハイランドパーク(デトロイト)
- パナマ運河の開通できごとAD1914年8月15日2万2千キロ短くフランスのレセップス(スエズの成功者)が1881年に着工し、海面式にこだわり、マラリアと黄熱で2万人以上を失って破綻した。アメリカが引き継ぎ、コロンビアが条件を拒むとパナマの独立運動を支援して新国家を承認し、運河地帯の権利を得た。ゴーガスが蚊を絶ち、閘門式に設計を変え、山を切り、川をせき止めて人造湖を作った。ニューヨークからサンフランシスコへの航路が、およそ1万3千キロ短くなった。1999年、パナマに返還された。パナマ運河
- 映画のための化粧できごとAD1914年ロシアの宮廷の劇場で化粧を担当していたマックス・ファクターは、アメリカへ渡り、ロサンゼルスで映画俳優の化粧品を作った。舞台用の厚い練り白粉は、映画の大写しではひび割れて見える。1914年、薄く伸ばせる映画用の化粧品を作った。スターの顔を作る仕事が評判になり、やがて同じ品を一般の女性に売る。「メイクアップ」という言い方を広めたのも彼の会社だと言われる。スクリーンの顔が、町の女性の顔の手本になっていった。ロサンゼルス
- セルフサービスできごとAD1916年9月6日棚の上で、箱が自分を売り込むそれまでの食料品店では、客が欲しいものを店員に告げ、店員が棚から取ってくる。時間がかかり、人手が要る。クラレンス・サンダースは、メンフィスの店で、客を回転式の木戸から入れ、通路を一本道にして、すべての棚を通らせ、出口で精算させた。店員が減り、値が下がる。すべての商品に値札を付ける必要が生まれ、包装と銘柄が意味を持つようになった。買う物を、客が自分で選ぶ。ピグリー・ウィグリーという名の由来を、彼は最後まで説明しなかった。メンフィス
- 運動靴できごとAD1917年ゴムの底に布の甲を貼った靴は、十九世紀末から作られていた。底が柔らかく、歩いても音がしないので、忍び寄る者という意味の名で呼ばれる。1916年、アメリカで量産の運動靴が売り出され、翌1917年、別の会社がバスケットボール用の靴を出した。選手の名を付けた型は、その後何十年も売られ続ける。学校の体育が広まり、余暇に体を動かす人が増えた時期と重なっていた。やがて運動靴は、競技の道具から日常の履物になり、若者の装いと結びついていく。ボストン
- 二股ソケットの町工場できごとAD1918年九歳で丁稚奉公に出た松下幸之助は、電灯会社で働いたのち、1918年、大阪の借家で妻と義弟と三人で電気器具の製造を始めた。一つの電灯の口から、電灯と家電の二つに電気を取れる二股のソケットが売れる。当時の家は、電気の口が天井の電灯しかなかった。のちに、水道の水のように良い品を安く大量に届けて貧しさをなくす、という考えを掲げ、家電の大企業を育てる。暮らしの小さな不便から、日本の家電の時代が始まった。大坂
- ドイツのハイパーインフレできごとAD1923年1ドルが4兆マルクに1914年に1ドル4.2マルクだったものが、1923年11月に4兆2000億マルクになった。第一次大戦の戦費を国債で賄い、敗戦後は賠償と、ルール占領への消極的抵抗の費用を、紙幣の増刷で支えた。物価は数時間で変わり、賃金は日に二度払われ、鞄一杯の札束でパンを買った。年金と預金と生命保険が、紙になった。11月、レンテンマルクの発行で収まったが、中間層の貯蓄と、通貨への信頼と、共和国への支持が、同時に失われた。ベルリン
- ブロイラーの誕生できごとAD1923年間違って届いた500羽デラウェアの主婦セシル・スティールが、注文した50羽の代わりに500羽の雛を受け取った。返さずに育てて売ったところ儲かった。数年で彼女は数万羽を飼っていた。それまで鶏は卵を取るもので、肉は廃鶏だった。ビタミンDの発見で日光なしに屋内飼育ができるようになり、抗生物質と配合飼料と、1948年の「明日のチキン」品評会による品種改良が続いた。1920年に出荷まで16週・体重1.1kgだったものが、いまは6週・2.7kgである。世界の鶏は230億羽を超える。デルマーバ半島
- 足を測るできごとAD1927年規格と身体のずれは、いつまでも残るイギリスの靴のサイズは、大麦の粒の長さを単位にしていたと言われる。三粒で一インチ、その三分の一刻みで番号を付ける。既製の靴が広まると、この番号だけでは合わない人が続出した。足の長さが同じでも、甲の高さと幅が違う。1927年、アメリカのブラノックが、長さと幅と土踏まずの位置を同時に測る器具を作る。靴屋の床に置かれた金属の板である。以後、幅の表示が加わった。体を数字で表す試みは、既製服のサイズと同じく、規格と身体のずれを抱え続けている。シラキュース(ニューヨーク州)
- 蒸気船ウィリーできごとAD1928年11月18日ウォルト・ディズニーは、自分の作ったウサギのキャラクターの権利を配給会社に取られた。新しいネズミのキャラクターを作り、1928年11月18日、ニューヨークで、絵の動きに音楽と効果音をぴったり合わせた短編アニメーションを公開する。舵を取りながら口笛を吹くネズミ、ミッキーの登場である。キャラクターは映画会社の財産になり、玩具や本に広がっていった。その著作権を守るために法の保護期間が延ばされた、とも言われる。ニューヨーク
- 急速冷凍できごとAD1930年ゆっくり凍らせると、氷の結晶が大きく育ち、細胞の壁を破る。解けたとき、水が流れ出て、味も歯応えも失われる。クラレンス・バーズアイは、ラブラドルで先住民が氷点下四十度の外気で魚を一瞬に凍らせ、数か月後も生のように食べられることに気づいた。速く凍らせれば結晶が小さい。彼は二枚の冷えた金属板で挟む装置を作り、1930年、マサチューセッツ州スプリングフィールドの食料品店で試験販売した。冷凍庫を持つ家庭がまだ少なく、普及には二十年を要した。スプリングフィールド
- 金本位制の崩壊できごとAD1931年9月イギリスが金との交換をやめ、各国が続いた。世界を一つに縛っていた仕組みが外れ、通貨のブロックに分かれていく。ポランニーはここを19世紀文明の終わりに置いた。ロンドン
- ニューディールできごとAD1933年3月9日連邦政府が経済に就任の翌日、銀行を全部閉めた。「100日」。緊急銀行法、農業調整法、テネシー川流域開発公社、全国産業復興法、市民保全部隊、証券法。1935年、社会保障法、ワグナー法(労組の権利)、公共事業促進局。「恐れなければならないのは、恐れそのものだ」。炉辺談話。連邦政府が経済に手を入れる国になった。恐慌は終わらず、戦争で終わった。ワシントンD.C.

- 国民所得の発明できごとAD1934年何を数えるかは選択である大恐慌のさなか、政府は経済がどれだけ縮んだかを知らなかった。統計がなかったからである。上院の求めで、サイモン・クズネッツが国民所得の推計を作った。1934年、報告書を提出した。彼はその中で警告している。国民所得から、一国の福祉を推し量ることはできない。何を数えるかは選択であり、彼は軍事支出と広告と投機を除くことを主張した。採用されなかった。そして家事と育児と介護は、市場で取引されないという理由で、はじめから外にある。ワシントンD.C.
- ケインズ『一般理論』できごとAD1936年有効需要不況は、賃金が高すぎるからでも、放っておけば直るものでもない。人が使わなければ、誰かの所得が減り、その人がまた使わなくなる。均衡は、失業を抱えたままでも成り立つ。だから、政府が支出して、有効需要を作る。「穴を掘って埋め戻す仕事でも、何もしないよりましだ」。長期には我々は皆死んでいる。ニューディールと戦後の福祉国家の理論の基礎になり、1970年代のスタグフレーションで批判され、2008年にまた読まれた。ケンブリッジ
- ショッピングカートできごとAD1937年運べる量が増えると、買う量が増えたセルフサービスの食料品店では、客は自分で籠を持って歩く。籠が重くなれば、それ以上は買わない。オクラホマシティの店主シルヴァン・ゴールドマンは、折りたたみの椅子に車輪を付け、籠を二つ載せる台を作った。1937年のことである。はじめは誰も使わなかった。男は弱く見えると嫌い、女は乳母車のようだと嫌った。ゴールドマンは人を雇って押させ、使うのが当たり前に見えるようにした。運べる量が増えると、一度に買う量が増えた。オクラホマシティ
- ダンマーム7号井できごとAD1938年3月4日繁栄の井戸カリフォルニア・スタンダード石油が1933年に利権を買い、5年掘って何も出なかった。撤退を考えていた。7号井が1440メートルで、1日1500バレル。「繁栄の井戸」。イブン・サウードは1939年、最初のタンカーの栓を自分で開けた。世界最大の油田(ガワール、1948年)。アラムコ。1945年、ローズヴェルトが軍艦で王に会った。石油と安全保障。ダーラン

- 体を数字にするできごとAD1939年男物は胸囲と身長で型が作れたが、女物は難しかった。通信販売が広がると、返品が経営を圧迫する。アメリカ農務省は1939年から、一万五千人の女性の体を計測する調査を行った。ただし、応じたのは謝礼の要る調査に来られる人が中心で、白人が大半だった。その数字から作られたサイズ表が、長く業界の基準になる。その後、体格は変わり、各社が同じ番号で違う寸法を出すようになった。番号は、体の大きさではなく、売り手の都合を表す記号に近い。数字が先にあり、体が合わせられていく。ワシントンD.C.
- ブレトン・ウッズ会議できごとAD1944年7月1日切り下げ競争を繰り返さないノルマンディー上陸の3週間後、44か国の代表がニューハンプシャーの山中のホテルに集まった。目的は、両大戦の間の混乱——為替の切り下げ競争、ブロック経済、そしてそこから戦争へ至った道——を繰り返さない仕組みを作ることである。ケインズは、どの国にも属さない国際通貨バンコールと、黒字国にも調整を課す清算同盟を提案した。アメリカのホワイト案が通った。ドルを金に固定し(1オンス35ドル)、各国通貨をドルに固定する。IMFと世界銀行ができた。ブレトン・ウッズ
- ベネルクス関税同盟できごとAD1944年9月5日小国の統合の試作1944年9月5日、ドイツに占領されてロンドンに逃れていたベルギー、オランダ、ルクセンブルクの亡命政府は、戦争が終わったら三国のあいだの関税をなくし、外に向けては同じ関税をかけるという協定に署名した。三国の頭文字を合わせて「ベネルクス」と呼ばれる。同盟は1948年に動き出した。大国にはさまれ、二度の大戦で中立を踏みにじられた小国が、まとまることで生き延びようとする試みだった。三国はそのまま、1951年の石炭と鉄鋼の共同体、1957年のローマ条約に加わり、ヨーロッパの統合の先がけになった。ロンドン
- 郊外住宅の量産できごとAD1947年頭金なしで復員兵に復員兵に住宅がなかった。レヴィット父子は、ロングアイランドのジャガイモ畑を買い、家を工場方式で建てた。基礎を打たず、コンクリート板の上に建てる。部材を寸法通りに切って運び、27の工程に分けた職人の班が家から家へ移動する。1日30戸以上。7990ドル、頭金なしで復員兵に売った。1万7000戸。アメリカの郊外と自動車社会の原型になった。当初の売買契約には、白人以外への転売を禁じる条項があった。レヴィットタウン
- マーシャル・プランできごとAD1947年6月5日ヨーロッパは二つに固まった国務長官がハーヴァードの卒業式で「飢えと貧困と絶望と混乱に対する」援助を提案した。4年で130億ドル。西欧16か国。ソ連は東欧に受け取らせなかった。西ドイツが復興し、共産党は西で弱まり、ヨーロッパは二つに固まった。ケンブリッジ(マサチューセッツ)
- 世界の規格を決める場できごとAD1947年規格を握ることは、市場を握ることでもある第二次世界大戦で、連合国は部品や工具の規格が合わない不便を痛感した。戦後の1947年、各国の規格団体が集まって国際標準化機構が作られる。ねじ、紙、コンテナ、ねじ込み電球、非常口の記号、品質管理の手順。決めるのは政府ではなく、各国の代表と業界の技術者が議論して合意する形である。強制力は無い。それでも、多くの国が国内の規格として取り込むので、事実上の世界の決まりになる。誰が会議に出て、どの案を通すか。規格を握ることは、市場を握ることでもある。ジュネーヴ
- GATTの調印できごとAD1947年10月30日関税を下げ合う1930年代、大恐慌のなかで各国は関税を引き上げ、自分の国の市場を閉ざし合った。貿易は縮み、経済の行き詰まりが国々を戦争へ押しやった。その反省から、戦後の世界は自由な貿易の仕組みを作ろうとした。1947年10月30日、ジュネーヴで23か国が、関税を引き下げ、どの国にも同じ条件を与えることを約束する関税と貿易に関する一般協定、GATTに署名した。本来は国際貿易機関ができるまでのつなぎだったが、その機関は生まれず、GATTが47年間、世界の貿易の決まりを担った。何度もの交渉で関税は大きく下がり、1995年に世界貿易機関へ引き継がれた。ジュネーヴ
- マクドナルドの流れ作業できごとAD1948年農業と物流が組み替えられたカリフォルニアのドライブインで、マクドナルド兄弟が店を一度閉め、作り直した。品目をハンバーガーなど9つに絞り、皿と食器をやめ、注文係と焼き係と包む係を分けた。自動車工場の流れ作業を厨房に持ち込んだのである。値段を半分にし、待ち時間を30秒にした。1954年、ミキサーの営業マンだったレイ・クロックが、8台注文が来たこの店を見に行った。加盟店の網が、食の均質化と、農業と物流の再編を引き起こした。サンバーナディーノ
- 浜松のオートバイできごとAD1948年自動車の修理工場から身を起こした本田宗一郎は、戦後、軍の払い下げの小さなエンジンを自転車に取り付けて売り出した。1948年、浜松に本田技研工業を作る。のちの小型のオートバイ、スーパーカブは、蕎麦屋の出前が片手で運転できるように作られ、世界で最も多く作られた乗り物の一つになった。世界の二輪の大きなレースに挑み、勝ち続ける。町工場の技術者が、戦後の日本の工業を世界へ連れ出した。浜松
- 後払いの一枚できごとAD1950年ニューヨークの実業家フランク・マクナマラは、レストランで財布を忘れたことがきっかけで、現金を持たずに食事ができる仕組みを考えたと伝えられる。1950年、加盟した店で名前の書かれた札を見せれば、代金は後でまとめて請求される会員制を始めた。店は手数料を払い、客は現金を持ち歩かずに済む。後払いはもともと、店と顔なじみの客の間の信用だった。それを、見知らぬ店どうしでも通用する一枚の札にした。ニューヨーク
- Tシャツを外に着るできごとAD1950年代袖の短い綿の肌着は、アメリカ海軍が二十世紀のはじめに支給品にしたものだった。兵士が持ち帰り、作業着として広まる。だが人前で肌着一枚になるのは、だらしないことだった。1951年の映画でマーロン・ブランドが、1955年にジェームズ・ディーンが、Tシャツ姿で若者の反抗を演じる。肌着が外着になった。やがて文字や絵を刷り込めるようになり、主張を着て歩く服になる。いちばん安い服が、いちばん多くの言葉を運ぶ服になった。ロサンゼルス
- かんばん方式できごとAD1953年待っている部品の山が、どこで流れが詰まるかを隠していた工場では、部品が工程と工程のあいだに山と積まれて、次の工程を待っていた。トヨタ自動車の大野耐一は、この待っている部品こそが無駄を隠していると考えた。後の工程が使った分だけを、前の工程に取りに行く。取りに行くときに、何をいくつ持っていったかを書いた札を置いてくる。前の工程は、札の枚数だけを作る。アメリカのスーパーマーケットの、減った分だけ棚を補う仕組みから思いついたと大野は書いている。1953年に本社工場の機械工場で始め、十年ほどかけて全社へ広げた。物を待たせないことで、どこで流れが詰まるかが見えるようになった。挙母(豊田)(位置は特定されていない)
- 付加価値税できごとAD1954年売上に税をかけると、材料を仕入れて売るたびに税が重なり、工程の多い商品ほど不利になる。フランスの税務官モーリス・ローレは、各段階で新たに加わった価値の分だけを課税し、仕入れ分は差し引く仕組みを考えた。1954年に導入されると、重なりが消え、輸出品からは税を外せるようになる。企業どうしが互いの領収書を求め合うので、取引が記録に残りやすいという利点もあった。ヨーロッパ共同体が共通の税として採り、いまでは百七十を超える国が使っている。日本の消費税も、この形になる。パリ
- コンテナ輸送のはじまりできごとAD1956年4月26日5.83ドルが15.8セントにトラック運送業のマルコム・マクリーンが、改造したタンカー「アイデアルX」に58個の金属の箱を積み、ニューアークからヒューストンへ送った。荷役費が1トン5.83ドルから15.8セントになった。それまで、船荷は港で人の手で一つずつ積み替えられ、費用の半分近くが港で消えていた。箱の寸法が国際規格になり、船と鉄道とトラックが繋がり、港は都市の中心から沖の埋立地へ移った。工場が海の向こうへ行けるようになった。ニューアーク
- 即席麺できごとAD1958年戦後の闇市で、屋台のラーメンに人が並ぶのを見た安藤百福は、家で簡単に作れる麺を考えた。裏庭の小屋で試行を重ね、味を付けて蒸した麺を油で揚げると、水分が抜けて穴だらけになり、湯を注げば戻ることを見つける。1958年、袋入りの即席麺が売り出された。値段はうどんの数倍だったが、保存が利き、二分でできる。のちに、アメリカで現地の人が麺を割ってカップに入れて食べるのを見て、容器ごと売る形を思いつく。食べる場所と器から、料理を組み直した商品になった。池田(大阪)
- ビニール傘できごとAD1958年和傘から洋傘への切り替えで、日本の傘屋は布の傘を作っていた。雨に濡れると布は傷む。東京の小さな傘屋が、布の代わりに塩化ビニルの薄い膜を張った傘を作る。透明で前が見え、濡れても拭くだけでよい。1964年の東京オリンピックで外国人が買い、輸出が始まったと伝えられる。安価な輸入品が加わって、傘は買い直すものになった。日本では年に約一億三千万本が消費され、大半が使い捨てられる。直して使う道具だった傘が、百年ほどで反対側へ行き着いている。東京
- かみ合うブロックできごとAD1958年1月28日デンマークの村ビルンの大工オーレ・キアク・クリスチャンセンは、大恐慌で家具が売れなくなり、木のおもちゃを作り始めた。社名は「よく遊べ」を縮めたレゴ。戦後、イギリスの製品にならってプラスチックの積み木を作るが、組んでもすぐ外れた。1958年1月28日、上の突起を下の管で挟んで留める形の特許を出す。この年に作られたブロックは、いまのものとそのまま組める。形を変えないという決まりが、何十年分の箱を一つの遊びにつないだ。ビルン
- バービー人形できごとAD1959年3月9日ルース・ハンドラーは、娘のバーバラが紙の人形で大人の役を演じて遊ぶのを見ていた。当時の人形は、ほとんどが赤ん坊の姿である。ドイツの大人の女性の人形を手本に、1959年3月9日、ニューヨークの玩具見本市で大人の体の人形を出した。最初の人形は日本で作られている。服を替え、職業を替え、宇宙飛行士にも大統領候補にもなった。一方で、ありえない体の比率が少女に与える影響も批判され続け、2016年に体型の違う人形が加わった。ニューヨーク
- 座席予約システムできごとAD1960年航空会社の座席は、回転する棚のカードで管理されていた。電話を受けた係が棚を回し、空きを探し、鉛筆で書く。一件に数十分かかり、間違えれば二重に売る。アメリカン航空とIBMが、大型計算機を電話回線で結ぶ仕組みを作った。名はセイバー。全国の端末から同じ在庫を見て、その場で確定する。世界最大級の民間のオンライン処理系であり、後の予約と発券のほとんどが、この形を踏襲している。待つ側が、いつ乗れるかを、先に知れるようになった。ニューヨーク
- OPECの結成できごとAD1960年9月14日産油国が値段を取り戻す20世紀の半ば、中東や南米の石油は、「セブン・シスターズ」と呼ばれる欧米の大きな石油会社が掘り、値段を決めていた。1959年と1960年、石油会社は、産油国に相談もなく原油の公示価格を引き下げ、産油国の収入は減った。1960年9月14日、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5か国はバグダードに集まり、石油輸出国機構、OPECを作った。産油国が手を組んで、石油の値段と生産の量を自分たちの手に取り戻そうとしたのである。1973年の石油危機で、OPECは世界の経済を揺るがす力を見せつけた。バグダード
- 種苗と育成者の権利できごとAD1961年12月2日種は殖える新しい品種を作るには、時間と金がかかる。しかし、種は殖える。誰かが一袋買えば、翌年から自分で殖やせる。1961年、パリで植物新品種保護条約が結ばれ、育成者に排他的な権利が与えられた。当初は、農民が自家採種することは認められていた。1991年の改定で、その例外が各国の裁量になった。以後、種苗の権利をめぐる対立が続いている。企業は開発の費用を回収できなければ品種を作れないと言い、農民と途上国は、種を自分で採る権利は数千年の慣行だと言う。パリ
- 海外旅行の自由化できごとAD1964年4月1日年1回・500ドルまで戦後の日本では、外国のお金が足りなかったため、仕事や留学などの理由が無ければ海外へ出ることはできなかった。1964年4月1日、観光のための海外旅行が自由になった。ただし年に1回、持ち出せる外貨は500ドルまでだった。この年、日本は為替の自由化を約束する国になり、秋には東京オリンピックが開かれた。翌年、日本航空は団体旅行の商品「ジャルパック」を売り出した。旅行は高嶺の花だったが、1970年代にジャンボ機と円高で値段が下がると、海外へ出る日本人は1972年に年100万人、1990年には1000万人を超えた。東京
- トリー・キャニオン号の座礁できごとAD1967年3月18日大型タンカーの時代の汚染1967年3月18日、クウェートの原油を満載した大型タンカー、トリー・キャニオン号が、イギリス南西の端の沖のセブン・ストーンズ岩礁に乗り上げた。潮の時刻に間に合わせようと、船長が近道をとったためだった。流れ出た十万トンを超える原油は、コーンウォールとフランスのブルターニュの海岸を黒く覆った。イギリス政府は、空軍と海軍の飛行機で船を爆撃し、油を燃やそうとした。油を散らすために大量にまいた洗剤は、油よりも海の生き物を殺した。大型タンカーの時代に起きた最初の大きな事故は、船による海の汚染を防ぐ国際条約づくりのきっかけになった。セブン・ストーンズ岩礁
- ノルウェーの北海油田の発見できごと1969年12月石油の富を基金に1960年代、石油会社は北海の海底を掘り続けたが、空の井戸ばかりで、ノルウェー側からは手を引く会社も出ていた。1969年の暮れ、アメリカのフィリップス石油が、ノルウェー沖でエコフィスクの大油田を掘り当てたと発表する。1971年に生産が始まり、港町スタヴァンゲルは石油の都になった。ノルウェーは国営の石油会社を作り、収入の大きな部分を国が握った。1990年には石油の収入を海外の株や債券で運用する基金を設け、使うのは運用益のほどほどに限った。漁業と海運の国は、欧州で最も豊かな国の一つになった。スタヴァンゲル
- ジャンボ機できごとAD1970年1月22日1970年1月22日、ニューヨークからロンドンへ、二階建ての大きな旅客機ボーイング747が初めて乗客を運んだ。それまでの旅客機の倍以上の、四百人近くが乗れる。一度に多く運べば、一人あたりの運賃は下がる。ジャンボ機と呼ばれたこの飛行機で、海外への旅は金持ちだけのものではなくなった。日本でも1970年代から海外旅行が広がり、団体の観光客が世界へ出かけていく。一方で、一度の事故で失われる命も大きくなった。ニューヨーク
- 金とドルの交換停止できごとAD1971年8月15日お金から金の裏づけが消えたアメリカがドルと金の交換をやめた。世界の通貨から、金という裏づけが消える。以後のお金は、国家への信用そのものになった。ワシントンD.C.

- 『収奪された大地』の刊行できごとAD1971年ラテンアメリカ500年の歴史を、金と銀とゴムと砂糖とコーヒーが持ち去られた記録として書いた。チリ、アルゼンチン、ウルグアイの軍事政権が発禁にし、著者は亡命した。ブエノスアイレス
- 一つの部品に計算機をできごとAD1971年日本の計算機会社ビジコンは、新しい電卓のための部品を、カリフォルニアの新しい半導体会社インテルに頼んだ。求めたのは十数種の専用の部品だったが、インテルの技術者は、計算の手順を書き換えられる一つの部品で済ませる案を出す。日本から派遣された技術者の嶋正利も設計に加わった。1971年、世界初の商用のマイクロプロセッサが売り出される。電卓のための部品が、のちのあらゆる計算機の心臓になった。サンタクララ
- 家事労働に賃金をできごとAD1972年賃金は女性を家に固定するか1972年、パドヴァで国際フェミニスト連合が結成され、この要求が掲げられた。マリアローザ・ダラ・コスタとセルマ・ジェイムズ。主張は素朴に見えて、鋭い。家事は愛の行為とされ、報酬がない。しかし、それがなければ労働者は明日、工場へ行けない。つまり、資本は、無償の労働の上に立っている。運動の内部でも論争になった。賃金を払えば、女性を家に固定するのではないか。運動は賃金そのものより、見えない労働を可視化する言葉として残った。パドヴァ
- オイルショックできごとAD1973年一つの資源の値段が世界中の暮らしを変えた産油国が石油を武器にした。高度成長が終わり、資源の有限さが意識される。メッカ
- バーコードの最初の会計できごとAD1974年6月26日オハイオ州トロイのマーシュ・スーパーマーケットで、リグレーのチューインガム一箱が読み取られた。67セント。縞の太さで数字を表す仕組みは1949年に特許が取られていたが、読み取る光と計算機が追いつくのに二十五年かかった。業界が共通の規格を作れたことが決定的である。会計が速くなっただけではない。何が、いつ、どれだけ売れたかが、その場で記録される。在庫と、発注と、そして棚の配置が、数字で管理されるようになった。トロイ
- コンビニの一号店できごとAD1974年5月15日1974年5月15日、東京の豊洲に、アメリカの店の名を借りたコンビニエンスストアの一号店が開いた。酒屋を営んでいた家が、店を改装して加わったものである。大型スーパーの進出で町の小売店が苦しむなか、小さな店が生き残る道として始まった。売れた品を細かく記録して仕入れを決め、一日に何度も少量ずつ届ける。やがて弁当、公共料金の支払い、銀行の窓口まで引き受ける。町の小さな店が、生活の窓口に変わった。東京
- ランブイエ・サミットできごとAD1975年11月15日先進国の首脳が集まる1970年代の前半、ドルと金の交換が止まって通貨の仕組みが揺らぎ、石油危機で物価が上がりながら景気は冷え込んだ。1975年11月、フランスのジスカール・デスタン大統領は、パリの郊外のランブイエの城に、アメリカ、西ドイツ、イギリス、イタリア、日本の首脳を招いた。日本からは三木武夫首相が出席した。首脳たちが、少人数で膝をつき合わせて、世界の経済の舵取りを話し合う初めての場だった。翌年カナダが加わってG7となり、首脳会議は毎年開かれるようになった。2008年の金融危機のあとは、中国やインドなどを加えたG20の首脳会議も開かれている。ランブイエ
- ファストファッションできごと1975年5月安い服を次々に1975年、スペイン北西部のア・コルーニャで、アマンシオ・オルテガがZARAの1号店を開いた。オルテガは、流行をすばやく取り入れた服を、自社の工場で少量ずつ作り、数週間で店に並べ、売れ行きを見て作り直す仕組みを作った。流行の服を安く、次々に売る「ファストファッション」である。スウェーデンのH&M、日本のユニクロなども世界に店を広げ、人々は服を手軽に買い、手軽に捨てるようになった。一方で、途上国の工場の過酷な労働と、大量の服の廃棄による環境への負担が、厳しく問われるようになった。ア・コルーニャ
- ボトルの水できごとAD1977年安全な水道が普及した国で、水を瓶で買う市場が生まれた安全な水道が普及した国で、水を瓶で買う市場が生まれた。フランスのペリエは1977年からアメリカで大規模な広告を打ち、健康と洗練の記号として売った。ダイエット飲料の代わりであり、そしてワインの代わりである。以後、世界の消費量は増え続け、いまや年間数千億リットルに達する。水道水と品質に有意な差が無い例が多く、価格は数百倍から千倍になる。使われるペットボトルの多くは再生されず、輸送の燃料と合わせて、環境の負荷が論じられている。ニューヨーク
- 航空の規制緩和できごとAD1978年10月24日空の旅が大衆のものにアメリカの国内の航空は、長いあいだ政府の委員会が、どの会社がどの路線を飛べるか、運賃をいくらにするかを決めていた。運賃は高く、空の旅は一部の人のものだった。1978年10月24日、カーター大統領は、路線と運賃の規制をなくす法に署名した。新しい会社が次々に参入して運賃は下がり、飛行機に乗る人は大きく増えた。一方で、パンナムなどの老舗の会社が潰れ、大手は拠点の空港に便を集める形に変わった。同じ流れはヨーロッパやアジアにも広がり、格安航空会社の時代を開いた。ワシントンD.C.
- 国連海洋法条約できごとAD1982年12月10日大砲の届く距離が領海だった海は誰のものか。17世紀、グロティウスが自由な海を説き、セルデンが閉じられた海を説いた。長く、大砲の届く距離、およそ3海里が領海とされた。20世紀、海底の資源と漁業をめぐって主張が広がった。9年の交渉の末に採択され、ジャマイカのモンテゴ・ベイで署名が始まった条約が、領海12海里、排他的経済水域200海里、そして大陸棚の定義を決めた。深海底は人類の共同財産とされた。アメリカは、その部分を理由に、いまも批准していない。モンテゴ・ベイ
- プラザ合意できごとAD1985年9月22日アメリカは貿易の赤字に苦しみ、ドルは高すぎた。1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに主要五か国の蔵相と中央銀行の総裁が集まり、ドル高を正すため協調して動くことに合意した。一ドル二百四十円ほどだった円は、二年あまりで百二十円台まで上がる。輸出の会社は苦しみ、政府と日銀は景気を支えるため金利を下げ、金を緩めた。その金が株と土地に流れ込み、バブルと呼ばれる熱狂が始まる。ニューヨーク
- シェンゲン協定できごとAD1985年6月14日国境の検問をなくす1985年6月14日、フランス、西ドイツ、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの代表が、ルクセンブルクの小さな村シェンゲンの近く、三国の境が接するモーゼル川に浮かぶ船の上で、国境での検問を少しずつなくしていく協定に署名した。実際に検問がなくなったのは1995年である。いまでは三十に近い国々のあいだを、旅券を見せずに行き来できる。そのかわり、外との境の守りと、警察の情報の共有を強めた。2015年に難民が押し寄せたときや、2020年の感染症の流行のときには、各国が国境の検問を一時的に戻した。シェンゲン
- マーストリヒト条約できごとAD1992年2月7日単一通貨ベルリンの壁の崩壊とドイツ統一の直後。ドイツを、通貨を手放させることでヨーロッパに縛る、というミッテランの計算と、コールの決断。欧州共同体(EC)が欧州連合(EU)になった。単一通貨、共通の外交と安全保障、司法と内務の協力。EU市民権。デンマークが国民投票で一度否決し、条件をつけて通した。2002年、ユーロの紙幣と硬貨が12か国で流通した。マーストリヒト
- 鄧小平の南巡講話できごとAD1992年1月18日発展こそ硬い道理天安門の3年後、改革が止まっていた。87歳の鄧小平が、肩書きなしで、深圳、珠海、上海を回って、「改革開放を続けろ。計画か市場かは社会主義か資本主義かの区別ではない。発展こそ硬い道理」。北京の保守派は無視しようとして、党大会で「社会主義市場経済」が決まった。中国の30年の成長は、ここから。深圳

- ネットで本を売るできごとAD1995年1995年、シアトルのガレージで始まった会社が、インターネットで本を売り始めた。本は種類が多く、書店の棚には並びきらない。画面の上なら、何百万冊でも並べられる。買った人が評価を書き込み、次の客がそれを読んで選ぶ。やがて本以外のあらゆる品を扱い、倉庫と配送の網を自前で持つようになる。町の書店と商店は減った。店に並ぶ品を選んで買うことから、画面で探して家に届けさせることへ、買い物の形が変わった。シアトル
- 世界貿易機関できごとAD1995年1月1日戦後の貿易は、関税を下げるための協定の上で、交渉を重ねて広がってきた。1995年1月1日、それを常設の国際機関に改めた世界貿易機関が、ジュネーヴで発足する。物だけでなく、サービスや特許も扱い、国どうしの争いを裁く手続きを持った。2001年には中国が加盟し、世界の工場になっていく。一方で、1999年のシアトルの会議は大規模な抗議に包まれた。自由な貿易の恩恵と、その陰で職を失う人びととの溝は、いまも埋まっていない。ジュネーヴ
- アジア通貨危機できごとAD1997年タイのバーツの暴落から、数か月で東南アジア全域と韓国へ広がった。短期の外国資金が一斉に引き揚げた。IMFの処方箋が事態を悪化させたという批判が、いまも残る。バンコク

- 介護保険できごとAD2000年4月1日数えられても安いままそれまで、高齢者の介護は家族が、実際にはその家の女性が担うものとされていた。措置制度の下で、行政が対象者と内容を決めた。2000年、40歳以上が保険料を払い、要介護の認定を受けて、事業者と契約してサービスを選ぶ仕組みに変わった。介護の社会化と呼ばれた。家の中で見えなかった労働の一部が、値段の付いた仕事になった。同時に、その賃金は他の産業より低く、人手不足が続いている。数えられるようになっても、安いままである。東京
- 世界金融危機できごとAD2008年住宅ローンの証券化が世界に連鎖した。国境を越えた金融の速さが、そのまま危機の速さになる。ニューヨーク
- ソマリア沖の海賊できごと2008年1991年に政府が崩れたソマリアでは、外国の漁船が沖で魚を獲り荒らし、廃棄物を捨てていった。漁師の中には、海を守ると称して船を襲う者が現れ、やがて身代金を目当ての商売になった。2008年ごろから、スエズ運河へ向かう船が通るアデン湾とインド洋で、小さな高速艇に乗った海賊が、大型のタンカーや貨物船を次々に乗っ取った。国連の安全保障理事会は各国の軍艦による取り締まりを認め、ヨーロッパ連合や日本などが艦艇を送った。日本はジブチに初めての海外の拠点を置いた。船に武装した警備員が乗るようになり、2012年以降、襲撃は大きく減った。アデン湾(位置は特定されていない)
- 一帯一路できごとAD2013年9月7日2013年9月、中国の国家主席の習近平は、カザフスタンの大学で、かつての絹の道のように陸でアジアとヨーロッパを結ぶ経済の帯を作ろうと呼びかけた。翌月には海の道も加わる。中国の銀行の資金で、各地に港や鉄道や発電所が造られた。道路や電気を必要とする国々には歓迎されたが、返せない借金のかたに港の運営権を渡した国も出て、借金の罠だという批判も起きる。影響力をめぐる大国の競争の、新しい舞台になった。アスタナ
- 中国がごみを受け入れなくなるできごとAD2018年分別して回収した紙やプラスチックの多くは、再び使われるために海を渡っていた。行き先の最大は中国で、世界の廃プラスチックのおよそ半分を受け入れていた時期がある。汚れた資源ごみが環境を損なうとして、中国は2018年から輸入を大きく絞った。欧米や日本の回収業者は行き場を失い、ごみは東南アジアへ移り、そこでも規制が始まる。リサイクルに出したという安心の先に、誰かが引き受ける仕事と場所があった。北京
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
技術と産業86件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。都市の歴史54件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。帝国と独立35件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。お金の歴史33件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。主権はだれのものか32件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。表現の歴史21件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史20件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。考えることの歴史19件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。誰が書き残したか19件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。働くことの歴史18件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。食の歴史18件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。探検と発見17件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。海の歴史16件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。中国の王朝15件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。イスラム世界15件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。交通と旅の歴史14件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀13件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。支え合いの歴史12件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。冷戦のあと11件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。確かめるという方法11件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。武士の700年10件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。キリスト教のひろがり10件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史10件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。日本の古代9件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。『サピエンス全史』で読む歴史9件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『負債論』で読む歴史9件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『交易の世界史』で読む物の流れ8件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。大航海時代7件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。冷戦7件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。感染症と人類7件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。草原の帝国7件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。女性の権利6件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。接触前のアメリカ6件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。『近代世界システム』で読む歴史6件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層6件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『リオリエント』で読む世界経済6件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。インドと仏教5件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。東ローマ千年5件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。民族移動の時代5件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『大分岐』で読む歴史5件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『繁栄』で読む歴史5件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ5件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。老いと死の歴史5件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。メディアの歴史5件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。ローマ人の物語4件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史4件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『大転換』で読む歴史4件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。子どもの歴史4件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。住まいの歴史4件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。古代オリエント3件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。二つの大戦3件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。朝鮮半島3件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。『1491』『1493』で読む新大陸3件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史3件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『砂糖の世界史』で読む世界商品3件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。差別の歴史3件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。明治2件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。コテンラジオで聞く歴史2件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『地中海』で読む歴史2件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後2件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『歴史序説』で読む王朝の寿命2件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。教育の歴史2件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。ポエニ戦争1件を共有 / 地中海の覇権をめぐる、ローマとカルタゴの120年。三度戦い、三度目でカルタゴは消えた。宗教改革と科学革命1件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。ヴァイキング1件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。文明のはじまり1件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『暴力の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『アラブが見た十字軍』で読む十字軍1件を共有 / 同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。『地に呪われたる者』で読む脱植民地1件を共有 / 植民地支配が人の心に何をするかを、精神科医が診察室から書いた。36歳で死ぬ年に口述された本。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。『黒い皮膚・白い仮面』で読む植民地の心1件を共有 / 支配される側が、支配する側の目で自分を見てしまう。27歳の精神科医が書いた最初の本。『史記』で読む中国1件を共有 / 2000年前に、一人の男が3000年ぶんを書いた。宮刑を受けてなお書き続け、以後の中国の歴史書の型になった。障害の歴史1件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。言葉と文字の歴史1件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。