できごと

『シャー・ナーメ(王書)』

Shahnameh
AD1010年
重要度 4
『シャー・ナーメ(王書)』に関わる図版:The Court of Gayumars (Cropped)
The Court of Gayumars (Cropped) Wikimedia Commons Attributed to Sultan Muhammad · Public domain

概要

6万対句。アラビア語に呑まれかけたペルシア語を、この一作が繋ぎ止めたとされる。

場所

トゥース
36.49°N 59.53°E · イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州

関わった人(1)

フィルドウスィーAD940年頃–AD1020年頃 · 作者

本文

7世紀の半ば、アラブのイスラーム軍はペルシアのササン朝を倒した(ニハーヴァンドの戦い)。イランの地はイスラームの国に組み込まれ、人々の多くはしだいにイスラームに改宗していった。役所の文書や学問の言葉は、アラビア語になった。ササン朝の時代に使われていた中世のペルシア語は、書き言葉としての地位を失っていった。

だが、人々が話す言葉としてのペルシア語は消えなかった。9世紀から10世紀にかけて、イランの東部、ホラーサーンや中央アジアで、イラン系の王朝が自立した。中でもブハラを都としたサーマーン朝は(サーマーン朝の興り)、アラビア文字で書くペルシア語、つまり新しいペルシア語の文学を保護した。詩人たちがペルシア語で詩を書き、古いペルシアの王たちの物語をまとめる試みも始まった。

シャー・ナーメ
シャー・ナーメWikimedia Commons Mir Sayyid Ali / Sultan Muhammad · Public domain

フィルドウスィーは、940年ごろ、ホラーサーンの町トゥースの近くに生まれた。土地を持つ地方の名家の出だった。古いペルシアの伝承を受け継ぎ、それを大切にする家柄である。フィルドウスィーは、ペルシアの王たちの物語を、一つの長い叙事詩にまとめる仕事に取りかかった。先に同じ仕事を始めていた詩人ダキーキーは、千句ほどを書いたところで殺されていた。フィルドウスィーはその詩句も自分の作品の中に組み込んでいる。

完成までに、30年あまりの年月がかかった。1010年ごろに仕上がった『シャー・ナーメ(王書)』は、写本によって数は違うが、5万から6万の対句からなる。二行で一組の詩句が、それだけ続くのである。古代ギリシアのホメロスの二つの叙事詩を合わせたものより、はるかに長い。

紙本墨書南番文字(原本)
紙本墨書南番文字(原本)Wikimedia Commons persian gulf1 · CC0

物語は、世界で最初の王から始まる。続く王たちが、人々に火の起こし方や鉄の鍛え方、布の織り方を教えていく。神話の時代の王たちが続き、肩から二匹の蛇が生えた暴君ザッハークと、それに立ち向かう鍛冶屋カーヴェの物語がある。中ほどの英雄の時代の主人公は、怪力の勇者ロスタムである。ロスタムが、生き別れた自分の息子ソホラーブとそれと知らずに戦い、息子を殺してしまう悲劇は、とくによく知られている。物語の後半は歴史の時代に入り、アレクサンドロスの東征、ササン朝の王たちと続いて、最後の王がアラブに追われて死ぬところで終わる。

フィルドウスィーは、アラビア語から入った言葉をなるべく使わずに書いたとされる。もちろんアラビア語の言葉をまったく使わなかったわけではないが、その割合はとても低い。この30年、私は苦労して、このペルシア語でペルシアの人々をよみがえらせた、という意味の一句が、彼の作として広く知られている。ただし、この句が本当に彼の書いたものかどうかを疑う研究者もいる。

バフラーム・グールとアーザーデの物語を描いた狩猟文様の皿。この挿話の現存最古の描写とされる
バフラーム・グールとアーザーデの物語を描いた狩猟文様の皿。この挿話の現存最古の描写とされるWikimedia Commons CC0

完成した作品は、当時イランの東部を治めていたガズナ朝のマフムード・ガズナウィーに献じられた。だが、詩人は報われなかったと伝えられる。12世紀の書物は、王が約束より少ない報酬しか払わず、怒った詩人は王を風刺する詩を書いて逃げ出した、と記している。のちに王が悔やんで報酬を送ったが、それが届いたとき、詩人の亡骸が町の別の門から運び出されるところだった、という話も伝わる。これらの話には、後の時代の脚色が多く含まれていると考えられている。トルコ系の出身の王が、ペルシアの王たちを讃える詩にあまり関心を持たなかったのだろう、という見方もある。

フィルドウスィーは1020年ごろに死んだとされる。だが、『シャー・ナーメ』は生き続けた。ペルシア語は、ガズナ朝やセルジューク朝、のちのインドのムガル帝国やオスマン帝国の宮廷でも、教養と文学の言葉として使われるようになった。後の詩人たちも、この言葉の伝統の上に立っている。オマル・ハイヤームの四行詩も、ルーミーの神秘の詩(ルーミー『精神的マスナヴィー』)も、ペルシア語で書かれた。『シャー・ナーメ』の写本は、各地の宮廷で華やかな挿絵とともに作られ、ペルシアの細密画の最高の作品の多くが、この叙事詩の場面を描いている。

ビージャンとマニージェの物語を描いたミナーイー焼の杯(イラン、12世紀末、フリーア美術館)
ビージャンとマニージェの物語を描いたミナーイー焼の杯(イラン、12世紀末、フリーア美術館)Wikimedia Commons Daderot · Public domain

いま、トゥースにはフィルドウスィーの廟が建ち、多くの人が訪れる。イランだけでなく、ペルシア語を話すアフガニスタンやタジキスタンでも、『シャー・ナーメ』は共通の古典として読まれている。町の茶店では、語り手がロスタムの物語を語り聞かせる伝統も残っている。千年前の一人の詩人の仕事が、言葉と物語を通して、国境を越えた人々を結びつけている。

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