できごと

烏台詩案

Crow Terrace Poetry Trial
AD1079年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民キメク=キプチャク可汗国遼(契丹)宋チベットラージプートの諸王国ガズナ朝西夏西夏チャールキヤ朝チョーラ朝南詔パーラ朝南詔と大理パガン朝日本プラティーハーラ朝高麗パガン朝クメール帝国アイヌカリンガHaripunjayaSenas大越チャーハマーナ朝チャンパドヴァーラヴァティーAD1079年開封
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概要

蘇軾の詩が「新法を誹謗している」と御史台に訴えられ、獄で4か月。「根は九泉に到りて曲がる所なし」の檜は皇帝への不忠、と読まれた。死刑を求められ、太皇太后と王安石が助けた。黄州へ。そこで『赤壁賦』と「東坡」。中国で最初の文字の獄と言われる。

場所

開封
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省

本文

11世紀の宋の朝廷は、二つに割れていた。皇帝神宗に重く用いられた王安石が、国の財政と軍を立て直すために次々に新しい法を作り(王安石の新法)、それに反対する司馬光らの官僚と激しく対立したのである。新法の側を新法党、反対する側を旧法党と呼ぶ。蘇軾は若くして科挙に合格し(宋の科挙と士大夫)、詩も文章も書も当代随一と言われた文人だったが、新法が民を苦しめていると考えて批判した。都に居づらくなった蘇軾は、自ら願って地方の役人に出て、杭州の通判や、密州、徐州の知事を務めながら、民の暮らしと世の中を詩に詠んだ。その詩は人々に愛され、写されて広まった。

1079年の春、蘇軾は湖州の知事に移った。慣例にしたがって皇帝に礼の文を奉ったが、その中に、自分は愚かで時勢に合わず、新しく進んできた者たちにはついて行けない、という意味のくだりがあった。新法党の御史たち、何正臣、舒亶、そして御史中丞の李定は、これを朝廷への皮肉だとして弾劾した。蘇軾の詩集が調べ上げられ、新法を当てこすったと読める句が、次々に罪の証拠として並べられた。

元代初期に描かれた蘇軾の肖像(趙孟頫画、台北国立故宮博物院)
元代初期に描かれた蘇軾の肖像(趙孟頫画、台北国立故宮博物院)Wikimedia Commons Zhao Mengfu · Public domain

よく知られるのが、二本の檜を詠んだ詩である。その根は地の底まで伸びても曲がるところが無い、それを知るのは地中に潜む龍だけだ、という句があった。皇帝は天にある飛ぶ龍にたとえられるのに、地下の龍に知己を求めるのは皇帝への不忠である、と訴えた者がいた。神宗は、詩人が檜を詠んだだけだ、私に何の関わりがあるか、と言ったと伝えられる。

7月、蘇軾は湖州で捕らえられ、都の開封へ送られた。8月18日から、御史台の獄に入れられる。御史台は役所の柏の木に烏が多く住んでいたので「烏台」と呼ばれ、この事件は「烏台詩案」の名で呼ばれるようになった。取り調べは厳しく、蘇軾は死を覚悟した。獄中で弟の蘇轍に宛てて、どこの青い山にも骨は埋められる、いつか夜の雨の音を聞くとき、君は一人で心を痛めるだろう、という意味の詩を残している。差し入れの食べ物に魚が入っていたら死罪が決まった知らせ、と息子と約束していたところ、事情を知らない親類が魚を届けたので、別れの詩を書いた、という話も宋の人の随筆に伝わる。

宋代に発行された紙幣(交子)の一例
宋代に発行された紙幣(交子)の一例Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

蘇軾を救おうとする人々もいた。弟の蘇轍は、自分の官職と引き換えに兄の罪を許してほしいと願い出た。病床にあった仁宗の皇后、曹太皇太后は、仁宗が蘇軾兄弟を将来の宰相の器と喜んでいたことを神宗に語り、詩のことで人を殺すべきではないと説いたとされる。すでに都を去っていた王安石も、聖明な世に才ある者を殺してよいものか、と書き送ったと伝えられる。政敵であったはずの王安石の言葉は、後の世で美談として語られてきた。

12月の末、蘇軾は130日ほどの獄から出された。死罪は免れたが、長江のほとりの黄州へ、名ばかりの団練副使として流される。勝手に任地を離れることも、政務に関わることも許されない身だった。蘇轍も左遷され、詩を受け取っていた友人たちも、罰金や降格の処分を受けた。

「煙江畫層山図」(王詵画)
「煙江畫層山図」(王詵画)Wikimedia Commons Wang Shen · Public domain

黄州での4年余りは、蘇軾の文学の頂点となった。貧しい暮らしの中で、城の東の荒れた坂を借りて耕し、「東坡居士」と号した。「蘇東坡」の名はここから生まれる。長江の赤い崖のもとに舟を浮かべては、三国時代の赤壁の戦いをしのび、「赤壁賦」と「後赤壁賦」、詞の「念奴嬌・赤壁懐古」を書いた。人の世のはかなさと、江上の清風や山間の明月の尽きることのなさを対比した「赤壁賦」は、中国の散文の名作として読み継がれている。

蘇軾はのちに都へ呼び戻されたが、旧法党が新法を何もかも廃止しようとすると、それにも異を唱え、どちらの側からも疎まれた。晩年は南の恵州、さらに海南島へまで流され、1101年、許されて北へ帰る途中で死んだ。烏台詩案は、詩の言葉を罪の証拠とした筆禍の早い例としてよく挙げられる。言葉を政治の罪とするやり方は、のちの清の時代の清の文字の獄で、はるかに大きな規模で繰り返された。

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