概要
蘇軾の詩が「新法を誹謗している」と御史台に訴えられ、獄で4か月。「根は九泉に到りて曲がる所なし」の檜は皇帝への不忠、と読まれた。死刑を求められ、太皇太后と王安石が助けた。黄州へ。そこで『赤壁賦』と「東坡」。中国で最初の文字の獄と言われる。
場所
開封
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
本文
蘇軾は新法に反対し、地方に出て、詩を書いた。1079年、湖州の知事になった礼状で「愚かで時勢に合わず、若い者について行けない」と書いた。新法党の李定、舒亶、何正臣が、これを皇帝への皮肉だと訴えた。蘇軾の詩集から、証拠が集められた。
「根到九泉無曲処、世間惟有蟄龍知(根は地の底まで曲がらずに伸び、それを知るのは冬眠している龍だけ)」。檜を詠んだ詩。皇帝は天上の飛龍なのに、地下の蟄龍を言うのは、皇帝への不忠だ、と読まれた。神宗は「詩人が檜を詠んだのだ。私に関係があるか」と言ったと伝わる。
御史台。烏台(台に烏が多くて)。8月18日から、4か月と12日。獄で、蘇軾は死を覚悟して、弟の蘇轍に詩を残した。「是処青山可埋骨、他年夜雨独傷神(どこの青山にも骨は埋められる、いつかの夜の雨に君は一人で悲しむだろう)」。
助けた人がいた。弟の蘇轍が自分の官を返上して兄を助けたいと願った。太皇太后(仁宗の妻)が病床で神宗に「仁宗は蘇軾兄弟を宰相の器と喜んだ。詩で殺すのか」と言った。引退していた王安石が「聖なる世に、才を殺してよいのか」と手紙を送った。
12月、黄州へ。団練副使、給料なし、行動の自由なし。黄州で蘇軾は東の坂を耕して「東坡居士」と名乗り、『赤壁賦』『後赤壁賦』『念奴嬌・赤壁懐古』を書いた。「大江東去、浪淘尽、千古風流人物」。
「文字の獄」。詩の言葉を反逆の証拠にする。清の乾隆帝の時代に、それが何百件も起きる。その最初がこれだと言われる。