技術と産業

概要
道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。
この物語について
技術は、作った人の思惑どおりには使われない。一つの発明が、まったく別の分野を予期せず動かしてしまう。
最初の大きな技術の転換は、道具ではなく暮らし方の変化だった。1万年あまり前、西アジアの「肥沃な三日月地帯」で、人は麦を蒔き、羊や山羊を飼い始めた。農耕の始まりは、同じ広さの土地からはるかに多くの人を養えるようにした。ただ、骨の調査からは、初期の農民は狩猟採集民より背が低く、虫歯や栄養不足が多かったことも分かっている。食べ物の量は増えたが、一人一人の暮らしが楽になったとは限らない。それでも人口は増え、定住した村は町に、町は都市になった。日本列島では、それより早く、狩猟と採集を続けながら縄文土器が作られ、煮炊きが暮らしを変えていた。
都市ができると、運ぶ、作る、記録する技術が一気に進んだ。紀元前4千年紀のメソポタミアでは、粘土板に文字が刻まれ、車輪が登場した。銅に錫を混ぜた青銅は、硬い刃物と武器を生んだが、原料の錫は遠くからしか手に入らず、交易の網を握る者だけが持てた。紀元前12世紀ごろ、地中海の東の世界で国々が崩れ、交易の網が途切れると、各地で採れる鉄が広まっていく。鉄はどこにでもあるぶん、農民の鍬にも兵士の剣にもなった。西アフリカのノク文化のように、独自に鉄を作り始めた地域もある。
目立たないが、大きな発明もある。紀元前7世紀ごろ、小アジアのリュディアで、金と銀の自然の合金に印を打った小さな塊が作られた。重さと質を国が保証した貨幣である。それまで取引のたびに秤で量っていた金属が、数えるだけで受け渡せるものになった。貨幣はギリシアの都市へ、ペルシアへと広まり、市場と税と兵の給料の仕組みを変えた。誰が作ったかも分からない工夫が、人の付き合い方を根本から組み替えることがある。
技術は、ものの見方も変えた。紀元前3世紀、アレクサンドリアの学者エラトステネスは、夏至の日に二つの町で太陽の影の角度が違うことから、地球の周りの長さを計算した。その値は、実際とそれほど違わなかったとされる。棒の影と、町と町の距離と、幾何学だけで、誰も見たことのない地球全体の大きさが分かったのである。
技術が思わぬ方向へ転がっていく例として、紙ほど分かりやすいものはない。中国では紀元前から紙が作られていたが、105年、後漢の宦官蔡倫が樹皮や麻くず、ぼろ布を使った作り方を改良して皇帝に献じた。紙は木簡や竹簡より軽く、絹よりはるかに安い。この技術は長く中国の外へ出なかったが、8世紀には中央アジアのサマルカンドで紙が作られ、やがてバグダードに製紙場ができた。751年のタラス河畔の戦いで唐の捕虜から製紙の技術が伝わったという話は、その象徴として語られるが、それより前から伝わっていたとする研究もある。
紙はイスラームの世界を経てイベリア半島に渡り、12世紀ごろからヨーロッパでも作られるようになった。一方、中国の宋では、11世紀に粘土の活字による印刷が考え出され、航海に使える羅針盤や、火薬を使った武器も現れた。ただ、数千の文字を持つ漢字では、活字を組むより版木を彫るほうが手軽で、活字は広く使われなかった。文字の数が少ないアルファベットの世界で、同じ発想は別の結果を生む。
1450年ごろ、ドイツのマインツで、グーテンベルクが鉛の合金の活字と、ぶどう搾りを応用した印刷機、油性のインクを組み合わせて、本を大量に刷る仕組みを完成させた。安い紙が無ければ、この仕組みは採算が合わなかっただろう。そして1517年、ルターが教会の贖宥状を批判して書いた論題は、すぐに刷られて数週間でドイツ中に広まり、西方の教会を割った。紙が中国の宮廷で改良されたとき、それがやがてヨーロッパの信仰を二つに割るとは、誰も思わなかった。

火薬も同じだった。中国で不老不死の薬を探す錬丹術の中から生まれたとされる火薬は、やがて武器になり、モンゴルの時代を経て西へ伝わった。ヨーロッパでは大砲が城壁を崩し、城を拠点にした騎士の時代を終わらせた。1543年に種子島に伝わった鉄砲は、数十年のうちに日本で大量に作られ、戦国の戦い方を変えた。時計もまた、修道院で祈りの時刻を知らせる道具として始まり、やがて町の塔で昼夜を同じ長さの時間に区切って、人びとの働き方を時刻で縛るようになった。
18世紀のイギリスで、技術はもう一度、暮らしの土台を変えた。炭鉱の水を汲み出すために使われていた効率の悪い蒸気機関を、グラスゴー大学で機械の修理をしていたジェームズ・ワットが改良した。蒸気を冷やす部屋を別に設けることで、燃料を大きく減らしたのである。ワットの蒸気機関は、やがて回転運動を生み出せるようになり、紡績工場を川べりから解き放った。それまで生産を支えていた人と家畜と水の力から、石炭の力へ。産業革命は、ここから世界に広がっていく。

蒸気機関は、やがて車輪に載った。1825年、イギリスのストックトンとダーリントンの間で、蒸気機関車が貨車を引いて走った。鉄道は距離を時間に置き換え、国中の時計を同じ時刻に合わせることを求めた。1840年代には、電線で文字を送る電信が実用になり、情報は初めて人や馬の移動より速く動けるようになった。1831年にファラデーが見つけた、磁石を動かすと電気が生まれる現象は、半世紀後には発電所と電灯になって都市の夜を変えた。
20世紀に入ると、物理学の発見が技術に変わるまでの時間が短くなった。1905年、アインシュタインは、質量とエネルギーが互いに移り変われることを式で示した。そのとき彼が、40年後に一つの都市を一発で消す兵器を思い描いていたわけではない。1938年に原子核の分裂が見つかると、各国はそれが兵器になりうることに気づき、アメリカは国を挙げてその開発を進めた。1945年8月の広島・長崎への原爆投下は、物理学の式が数年で都市の破壊に変わりうることを示した。同じ原理で動く原子力発電所は電気を生んだが、2011年の東日本大震災では福島第一原発の事故を引き起こした。

計算する機械も、戦争の中から育った。1936年、イギリスの数学者アラン・チューリングは、どんな計算も単純な操作の組み合わせで行える仮想の機械を考え出した。第二次世界大戦中、彼はドイツ軍の暗号エニグマの解読に加わり、その経験は戦後の電子計算機の開発につながった。半導体の素子が真空管に代わり、計算機は部屋いっぱいの大きさから、やがて手のひらに収まるまでに小さくなる。
1957年のスプートニク、1969年のアポロ11号の月面着陸は、ロケットと計算機の技術の到達点だった。その一方で、農業の分野では、収量の多い品種と化学肥料、灌漑を組み合わせた緑の革命が、アジアや中南米の飢えを大きく減らした。1953年にはDNAの二重らせんの構造が明らかになり、生命の仕組みを分子のレベルで扱う技術が始まった。

1989年、スイスのジュネーヴ近郊にある欧州原子核研究機構(CERN)で働いていたティム・バーナーズ=リーは、研究所の中の文書を互いにつなぐ仕組みを提案した。上司はその提案書に「あいまいだが面白い」と書き込んだと伝えられる。物理学者どうしが資料を共有するための仕組みとして生まれたウェブは、誰でも情報を出し、誰でも読める世界を作った。それが商売や政治や人間関係のあり方までを変えるとは、本人も予想していなかった。
技術の年表を並べると、一つの発明から次の大きな発明までの間隔が、どんどん短くなっていることが分かる。農耕から車輪まで数千年、紙から印刷術まで千年あまり、蒸気機関から電信まで数十年、そして計算機からウェブまでは半世紀に満たない。新しい技術は、前の技術の上に重なり、互いを加速させる。そのたびに、作った人の思惑を超えた使われ方が現れる。いま私たちが手にしている技術も、おそらく例外ではない。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(488)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 縄文土器できごと紀元前140世紀世界最古級の土器。農耕を始めていない狩猟採集の集団が作っており、土器=農耕という順序は成り立たない。縄文の日本列島(位置は特定されていない)
- 農耕の始まりできごと紀元前90世紀麦を蒔き、羊を囲った。栄養は偏り、身長は縮み、病気は増えた。それでも人口は桁違いに増える。肥沃な三日月地帯(位置は特定されていない)
- 最初のチーズできごとBC5500年頃成人の多くは、乳糖を分解できない。搾った乳をそのまま飲めば腹を下す。ところが乳酸菌が糖を食べ、水を切れば、消化できる食べ物になり、しかも保つ。土器の破片に残る乳脂肪の分析から、この加工がアナトリアとバルカンで新石器時代に行われていたことが分かっている。ポーランドの孔の空いた土器は、乳を漉した道具と考えられている。乳を飲めるように体が変わるより先に、飲まずに済ませる技術のほうが、先にあった。チャタル・ヒュユク
- 河姆渡の稲できごと約7000年前稲の層杭州湾の南で1973年に出た。高床の家、骨の鍬、そして厚さ数十センチの稲の層。長江の下流で、黄河の粟より早く、稲が作られていた。中国の農耕は北の一つの中心からでなく、二つの川で別々に始まった。河姆渡
- 車輪の登場できごと紀元前35世紀ろくろが先で、荷車は後だったとされる。この道具は独立に何度も発明されず、アメリカ大陸では運搬に使われなかった。ウルク
- ギザの大ピラミッド建設できごとBC2560年頃古王国のクフ王が築いた。3800年にわたり世界で最も高い建造物であり続けた。ギザ
- 木の錠できごとBC2000年ごろ合う並びを持つ者だけが開ける、という原理扉に横木を渡して閉じるだけでは、外から動かされる。古代エジプトで使われた錠は、横木の上に開けた穴へ、木の棒を数本落とし込む仕組みだった。棒が落ちていると横木は動かない。鍵は、その棒と同じ配置に突起を並べた木の板である。差し込んで持ち上げれば棒が抜け、横木が滑る。突起の並びが合わなければ開かない。この「合う並びを持つ者だけが開ける」という考え方は、いまのピンタンブラー錠とまったく同じになる。四千年、同じ原理が使われ続けている。テーベ(王家の谷)
- 箸できごとBC12世紀殷の遺跡から青銅の箸が出ている。初めは煮えた鍋から具を取るための道具で、食べるのには手を使っていたらしい。食卓の道具になったのは、食べ物を細かく切って調理する形が広まってからだと考えられている。台所で切ってしまえば、食卓に刃物は要らない。儒教は刃物を殺生の道具として遠ざけ、それも後押しした。箸は朝鮮、日本、ベトナムへ広がり、土地ごとに材質と長さが変わる。中国は長く、日本は短く先が細い。魚の骨を外す食べ方に合わせたと言われる。殷墟(安陽)
- アルファベットの成立できごとBC11世紀頃書くことが専門職の手から離れる数百の記号を覚えなければ書けなかったものが、22の子音字で書けるようになった。書くことが書記の専門職から離れる。ギリシア文字もラテン文字もアラビア文字もヘブライ文字も、ここから枝分かれしている。ビブロス
- 鉄が広まるできごとBC12〜BC9世紀遠距離交易に頼らずに刃物が作れるようになった青銅は錫と銅が要り、どちらも遠くから運ぶしかない。鉄鉱石はどこにでもある。武器も農具も、遠距離交易に頼らずに作れるようになった。ヒッタイトが独占していたという通説は、いまは疑われている。ハットゥシャ
- ハルシュタットの鉄と塩できごとBC8世紀頃(BC12〜BC5世紀)アルプスの岩塩坑と鉄で栄えた。ここから広がった文化がのちにケルトと呼ばれる人びとのもとになる。坑内の塩が革の靴も道具もそのまま保存していた。ハルシュタット
- カナートできごとBC700年頃汲みすぎることが、構造上できない乾燥地で水を引く。山麓の帯水層まで縦穴を掘り、そこから村へ向かって、ごく緩い勾配の横穴を通す。水は重力だけで流れ、地下を通るので蒸発しない。掘る途中の土を出すために、数十メートルごとに縦穴を開ける。空から見ると、点線が砂漠を横切っている。イランに三万数千本があり、総延長は数十万キロに及ぶ。北アフリカのフォガラ、中国のカレーズ、スペインとメキシコの水路も同じ技術である。掘る者は落盤と窒息で死んだ。イスファハーン
- リュディアの鋳造貨幣できごとBC7世紀後半重さを量らずに数えて払えるようになった金と銀の合金に刻印を打ち、重さを量らずに数えて使えるようにした。市場での取引が速くなり、税も給金も数で払えるようになる。サルディス
- ドンソンの銅鼓できごとBC6世紀頃(BC10〜BC1世紀)紅河の流域で作られた大きな銅の太鼓が、インドネシアの島々まで運ばれている。東南アジアが海でつながっていたことが、鋳物の分布から分かる。ドンソン
- ノク文化の製鉄できごとBC500年西アフリカで独自に鉄が作られた西アフリカで独自に鉄が作られた。等身大のテラコッタ像も残る。ノク(位置は特定されていない)
- ゲルできごとBC500年頃柳の格子を蛇腹に広げて壁とし、放射状の垂木を輪で受けて屋根にする。羊毛を圧縮したフェルトで覆い、毛の縄で締める。釘も接着も使わない。二人で一時間ほどで組み、また畳める。頂の輪は煙を出し、光を入れ、そして時刻を測る目安になった。入口は必ず南を向く。内部の位置には決まりがあり、北が上座、西が男の側、東が女の側である。移動する家であると同時に、方位と序列を持つ小さな宇宙だった。カラコルム
- 囲碁できごとBC400年頃2016年に人が負けた『論語』と『孟子』に既に名が出る。駒に種類がなく、石はすべて同じ。取ることより囲うことが目的で、勝敗は地の広さで決まる。琴棋書画のひとつとして、士大夫の教養に組み込まれた。7世紀に日本へ入り、正倉院に碁盤が残る。江戸幕府は本因坊など四家に禄を与え、御城碁を年中行事にした。碁の局面の数は、宇宙の原子の数より多い。2016年、アルファ碁が李世乭に勝った。洛陽
- エピダウロスの劇場できごとBC4世紀後半医神アスクレピオスの聖域に、斜面を削って半円の客席が作られた。一万三千人が座り、いちばん上の段までおよそ六十メートル離れている。それでも舞台の声が聞き取れると、古代から言われてきた。2007年の音響の研究は、石の段が細かい溝の並びのように働き、風や人のざわめきのような低い音を弱め、声の高さの音を通していると論じた。設計者は溝の働きを知らなかったはずである。それでも、届く形が選ばれて残った。拡声の機械が無い時代に、声を遠くへ運ぶ方法は、建物の形しかなかった。エピダウロス
- アッピア街道できごとBC312年サムニウム人との戦いのさなか、監察官アッピウス・クラウディウスは、ローマから南のカプアまで、真っ直ぐな道を敷かせた。砂利を層に重ね、上に多角形の石を隙間なく組む。雨水を流すため中央を高くし、脇に溝を掘った。目的は兵と補給を速く送ることである。商人が使い、巡礼が使い、やがて南のブルンディシウムまで延びて、東方への出口になった。「街道の女王」と呼ばれる。道は征服の道具であり、征服のあとは支配を続ける道具になる。二千三百年後のいまも、石畳の一部は歩ける。ローマ
- ファロスの灯台できごとBC280年頃ファロスの語が、多くの言語で灯台を意味するナイル三角州の海岸は低く平らで、沖から陸の位置が分からない。プトレマイオス朝が、港の入口のファロス島に塔を建てた。高さは百メートルを超えたと伝えられ、四角、八角、円柱の三段。頂に火を焚き、金属の鏡で沖へ投げた。昼は煙を目印にした。設計者ソストラトスの名が、王の名の下の石に隠して刻まれていたという逸話がある。千五百年立ち、地震で崩れた。1994年、港の海底からその石材が見つかっている。ファロスの語が、多くの言語で灯台を意味する語になった。アレクサンドリア
- エクノモス岬の海戦できごとBC256年コルウスローマ330隻、カルタゴ350隻。古代で最大の海戦。ローマはコルウス(渡り板)で敵の船に歩兵を送り込んだ。勝って、レグルスがアフリカに渡り、翌年スパルタの傭兵隊長クサンティッポスに負けて捕虜になった。海で勝ち、陸で負けた。エクノモス岬

- 都江堰できごとBC256年ごろ秦の蜀郡の太守になった李冰は、山から平野へ流れ出る岷江の暴れように手を焼いた。雪解けには洪水が起き、日照りには田が干上がる。彼は川を堰き止めるのではなく、川の真ん中に魚の口のような形の中州を築いて流れを二つに分けた。一方は洪水と砂を流し去り、もう一方は岩山を切り開いた狭い口から平野の用水へ入る。水かさが増せば、余った水は低い堰を越えて戻る。堤は竹籠に石を詰めて作り、毎冬、人々が総出で底をさらった。成都の平野は「天府の国」と呼ばれる穀倉になり、この仕組みはいまも使われている。都江堰
- 地球の大きさが測られるできごとBC240年頃影の差から地球の大きさを計算した二つの都市の井戸の影の差から地球の周長を計算した。誤差は数パーセントに収まる。アレクサンドリア
- クルスス・プブリクスできごとBC20年頃アウグストゥスが整えた、帝国の公用の逓送制度である。街道沿いに一日行程ごとに宿駅を置き、馬と車と宿を用意した。使者は乗り継いで走り、一日に約80キロ、急使は数倍を進んだ。使えるのは通行証を持つ官人だけで、私信は運ばない。維持の費用は沿道の都市と住民が負う。速さは道の質と宿駅の密度で決まる、という原理をそのまま体現した仕組みで、以後の帝国はどこもこれに似たものを持った。ローマ
- 蔡倫人物AD50年頃 – AD121年樹皮や布くずから安価な紙を作る方法をまとめた。書物の値段が変わる。
- 硬貨で出る聖水できごとAD1世紀決まった値で決まった量を売る仕組みアレクサンドリアの技術者ヘロンは、神殿に置く装置を書き残した。硬貨を穴に入れると、その重みで皿が傾き、弁が開いて一定の量の聖水が流れ出る。硬貨が皿から落ちると弁が閉じる。人がいなくても、決まった値で決まった量を売る仕組みである。ヘロンは蒸気で回る球や自動で開く扉も記したが、多くは神殿を驚かせる仕掛けとして使われた。自動販売機が街に並ぶのは十九世紀の終わりからで、原理はすでにここにあった。アレクサンドリア
- 蔡倫の製紙法できごとAD105年ここから紙の旅が始まる樹皮や布くずから安価な紙を作る方法をまとめた。600年後、タラス河畔で西へ渡る。洛陽
- ローマのコンクリートできごとAD125年頃海の中で、時とともに強くなる石灰と、ナポリ近郊ポッツオーリの火山灰と、石の塊を混ぜる。水と反応して固まる。木の型枠に流し込めるので、石を積むのでは作れない曲面が作れた。パンテオンの直径43メートルの丸屋根は、上へいくほど軽い骨材を使い、いまも無筋で立っている。海水中では、灰の成分が海水と反応して結晶が育ち、時とともに強くなる。この配合は中世に失われ、十九世紀に別の原理のセメントが現れるまで、これを超えるものは無かった。ローマ
- 『斉民要術』できごとAD540年頃中国最古の農書北魏の役人が、農業、園芸、養蚕、畜産、醸造、料理を10巻92篇に書いた。現存する中国最古の農書。「食べ物が足りなければ礼儀はない」。輪作、接ぎ木、酒と酢と醤油の作り方、羊の飼い方。のちの中国の農書は、これを手本にした。青州
- 大運河の完成できごとAD610年2500キロ煬帝が、洛陽を中心に、南は杭州、北は涿郡(北京)まで、2500キロを掘らせた。延べ数百万人。堤に柳を植え、40の離宮を置いた。江南の米が北の都と軍を養えるようになり、中国の南北が経済で一つになった。同時に、この工事と3度の高句麗遠征が隋を潰した。運河は残り、その後1300年、中国の背骨だった。揚州
- 漏剋できごとAD671年(天智10年)4月25日天智天皇は近江大津宮で、水時計を新しい台に据え、鐘と鼓を打って時を知らせ始めたと『日本書紀』は記す。桶から桶へ一定の速さで水を落とし、溜まった水に浮かべた目盛りで時刻を読む。役人は、その合図で宮に出仕し、合図で退く。時を知らせることは、人を同じ時刻に動かすことである。時刻は天子が与えるものだという考えは、唐の国から学んだ。のちにこの日にちなんで、6月10日が「時の記念日」と定められた。大津(近江大津宮)
- 鐙と騎士できごとAD700年頃馬の重さが槍に乗る鐙は中国で4世紀に、アヴァールが6世紀にヨーロッパへ。鐙に足を掛けて、槍を脇に挟んで突撃すると、馬の重さが槍に乗る(「衝撃戦」)。リン・ホワイトは1962年、「鐙が騎士を生み、騎士を養う土地の制度(封建制)を生んだ」と論じた。カール・マルテルが教会の土地を騎士に配った(732年)。反論も多い。確かなのは、8世紀から、鎧の騎兵が戦場の主で、それを養うのに村一つが要った、ということ。ポワティエ
- 氷室できごとAD700年頃冬に山で採った氷を、藁と土で覆った穴に入れ、夏まで保つ。『日本書紀』は仁徳朝の話として伝え、律令では宮内省に主水司が置かれ、氷池と氷室が管理された。旧暦六月一日の氷の節句に、朝廷が氷を配る。清少納言が削り氷に甘葛をかけたものを書いている。氷は献上品であり、贈られる相手の格を示した。同じ仕組みは、ペルシアのヤフチャール、中国の凌陰、ローマの雪の貯蔵にもある。暑い季節に冷たいものを出せることが、権力の見せ方だった。奈良
- タラス河畔の戦いできごとAD751年製紙法が西へ渡る唐がアッバース朝に敗れた。捕虜を通じて製紙法が西へ伝わり、やがてヨーロッパに届く。タラス河畔(位置は特定されていない)
- 蒸留とアランビクできごとAD800年頃修道院の生命の水液体を熱して蒸気にし、冷やして集める。分離の技術である。原型は古代からあったが、アラビアの錬金術師が装置と手順を洗練させた。アル=アンビーク(蒸留器)、アル=クフル(微細な粉、のちにアルコール)、アル=イクスィール(霊薬、エリクサー)。目的は酒ではなく、薬と、香料と、そして物質の本質を取り出すことだった。この装置がヨーロッパへ渡り、修道院で「生命の水」を生み、蒸留酒の系譜が始まる。バグダード
- 中世の農業革命できごとAD800年頃重量有輪犂重量有輪犂(鉄の犂先、撥土板、車輪。北の重い粘土の土を深く耕して、返す。牛8頭)。三圃制(冬穀、春穀、休閑。土地の3分の2を使う。二圃制の半分より多い。春に燕麦と豆——馬の餌と、人の蛋白質)。馬の首輪(肩に掛ける。馬が牛の倍の速さで引ける)。蹄鉄。水車。9世紀から13世紀、ヨーロッパの人口が2倍になり、森が畑になり、村が街になった。「暗黒時代」の中で。アーヘン
- 肩で引くできごとAD900年頃首ではなく、肩で引く古代の馬具は、帯を馬の首に回して引かせる。力を出すほど気管と血管を圧迫し、馬は自分の首を絞めながら働く。だから重い荷は牛に引かせた。中国で先に現れた、肩の骨に当てる硬い枠が、中央アジアを経て九世紀のヨーロッパに届く。馬の牽引力が数倍になった。馬は牛より速く、持久力があり、長く働く。重い犂で北ヨーロッパの粘土質の土が耕せるようになり、農民は遠くの畑まで通えるようになった。村の形が変わった。アーヘン
- 蹄鉄できごとAD900年頃蹄は角質で、伸びるが、擦り減る。乾いた草原では保つ。湿った土と石畳では、擦り切れて歩けなくなる。ローマ人は縄と革の沓を履かせていた。鉄の板を蹄に釘で打ちつける方法は、中世初期の北ヨーロッパに現れる。釘は蹄の外側の、神経の通わない部分に打つ。馬が重い荷を引き、硬い道を長く歩けるようになった。同時に、鍛冶屋が村に不可欠になり、装蹄という職業が生まれた。アーヘン
- 畢昇人物AD970年頃 – AD1051年頃夢渓筆談だけが記録職人。生涯はほとんど分からない。沈括『夢渓筆談』の記述だけが同時代の記録で、そこに「慶暦年間、布衣の畢昇が活版を作った」とある。膠泥の活字、鉄板、松脂と蝋の接着、二枚の板を交互に使って途切れなく刷る方法。彼の死後、活字は沈括の甥たちが受け継いだ、と同書は書く。1990年、湖北で「畢昇」の名のある墓碑が見つかったが、同一人物かは分からない。
- ホホカムの運河できごとAD1000年頃石の道具で1000キロアリゾナの砂漠に、石の道具で1000キロの運河を掘った人々。トウモロコシ、豆、綿。球戯場。メキシコからの貝と鸚鵡。1450年頃、消えた。干魃か洪水か。フェニックスの運河は、その上に掘られた。「ホホカム」は「去った者たち」。スネークタウン(ホホカム)
- 景徳鎮の磁器できごと1004年分業で一日に数万点一つの町が、世界の磁器を焼いた。分業で一日に数万点を作り、ペルシアの藍で染めた皿がイスタンブルにもアムステルダムにも届く。最初の世界商品の一つになる。景徳鎮

- 交子(世界最初の紙幣)できごとAD1024年鉄銭80キロ四川は銅が不足して鉄銭を使っていた。絹1匹を買うのに鉄銭130斤(約80キロ)。商人が預り証を発行して、それが手形として流通した。1023年、宋の政府が「益州交子務」を置いて、国家の発行に切り替えた。3年ごとに刷り直し、準備金を持つ。世界で最初の政府発行の紙幣。南宋の会子、金の交鈔、元の宝鈔へ。マルコ・ポーロが驚いて書いた。過剰発行によるインフレも、ここから始まった。成都(交子)
- グイードの記譜法できごとAD1025年頃ウト・レ・ミアレッツォのベネディクト会士が、聖歌を覚えるのに10年かかる修道士のために、線の上に音符を置いた。4本の線(赤いF、黄色いC)。音の高さが、線と間で分かる。「ウト・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」(聖ヨハネ賛歌の各行の最初の音節から)。「グイードの手」(指の関節で音を覚える)。教皇ヨハネス19世が呼んで、自分で聖歌を歌えた。音楽が、耳から目へ。楽譜。アレッツォ
- 宋の活字と羅針盤できごとAD1040年頃活字・羅針盤・火薬膠泥活字、羅針盤の航海利用、火薬の兵器化。世界を変える技術がこの時期の中国から出る。開封
- 畢昇の活字できごとAD1045年頃グーテンベルクの400年前膠泥(粘土)を薄く切って字を彫り、火で焼いて硬くした。鉄の板に松脂と蝋と紙の灰を敷き、その上に活字を並べ、温めて押し付けて平らにする。刷り終えたら温めて外す。沈括が『夢渓筆談』に書いた。漢字は数万種あって、一つの本に同じ字が何度も出るので、木版のほうが安かった。それでも、活字の原理は、朝鮮(金属活字、13世紀)へ渡った。グーテンベルクの400年前。開封
- ドゥームズデイ・ブックの水車できごとAD1086年50世帯に1つウィリアム征服王の土地台帳は、イングランドに5624の水車を数えた。50世帯に1つ。穀物を挽く。ローマの技術(ウィトルウィウス)が、中世に村ごとに広がった。領主は水車を独占して、農民に使用料を取った(「バナリテ」)。12世紀から、縮絨(毛織物)、鍛冶のハンマー、製材、製紙、鉱山の排水。ヨーロッパは、水の力で、機械の文明になった。ウィンチェスター
- 羅針盤が海に出るできごとAD1090年頃曇りの日は指南針を見る磁石が南を指すことは中国で古くから知られ、占いの盤に使われた。1044年の『武経総要』に、鉄の魚を熱して冷まし磁化する方法がある。1088年、沈括が『夢渓筆談』に、糸で吊るす方法と、磁北が真北からずれること(偏角)を書いた。1117年の『萍洲可談』に、泉州の船乗りが「夜は星を見、昼は日を見、曇りの日は指南針を見る」とある。曇りでも進めるようになった。アラブとヨーロッパへ12世紀に伝わった。泉州
- 水運儀象台できごとAD1092年北宋の都開封で、官僚の蘇頌は、高さ十メートルを超える時計の塔を造らせた。水で回る大きな車輪が、一定の間を置いて一段ずつ進む仕掛けで回り、塔のてっぺんの天球儀と、星の動きを示す球を動かす。塔の中では、木の人形が時刻ごとに現れ、鐘を鳴らし、太鼓を打ち、時を記した札を掲げた。暦を正しく保つことは、天の意思を知る皇帝の仕事である。塔は、その仕事を機械にやらせる試みだった。三十数年後、都が女真の金に落ちると、塔は解体されて北へ運ばれ、二度と動かなかった。開封
- シトー会の創設できごとAD1098年3月21日荒地を開いた自ら建てたモレーム修道院がゆるんだと、院長ロベールが21人と沼地へ。「戒律を、字の通りに」。白い衣。飾りのない教会。自分で耕す。「祈りと労働」。14年後にベルナールが30人を連れて来て、50年で350の修道院。ヨーロッパの荒地を開き、羊毛と鉄で富んだ。シトー
- ヨーロッパの風車できごとAD1180年頃小屋ごと風に向けてペルシアには9世紀から縦軸の風車があった。ヨーロッパの風車は横軸で、羽が垂直に回る(別の発明、と考えられる)。最初の記録は1180年代、ノルマンディー、ヨークシャー、サフォーク。「ポスト・ミル」(小屋ごと風に向けて回す)。12世紀の終わりから北ヨーロッパの平野に広がった。オランダは風車で水を汲み出して、土地を作った。15世紀に「タワー・ミル」。ドン・キホーテが巨人と間違えた。ウィンチェスター
- シャルトル大聖堂できごとAD1194年飛び梁6月の火事で街と聖堂が焼け、聖母の衣が地下室から無事に出てきた。「聖母が建て直せと」。26年で建った。飛び梁、ステンドグラス176枚、青。ゴシックの完成形。二つの塔は形が違う。北は300年後に建った。シャルトル
- 東大寺の再建できごとAD1195年(建久6年)大仏様1180年に平重衡が焼いた大仏殿を、61歳の僧重源が勧進で建て直した。宋の技術「大仏様」。周防の山から木を切り出し、宋の鋳物師陳和卿が大仏を鋳た。落慶供養に頼朝が来た。南大門の仁王は運慶と快慶。東大寺
- 煙突の普及できごとAD1200年頃壁に火を寄せる中世の家は、部屋の中央で火を焚き、煙は屋根の隙間から抜けた。すすで目を病み、天井は黒く、二階は作れない。12〜13世紀、壁に沿って炉を寄せ、煙道で外へ導く仕組みが広がった。結果は建築だけでなかった。煙のない部屋に天井を張れるから、家が二階建てになる。大広間で全員が一つの火を囲む必要がなくなり、部屋が分かれ、私室ができた。個人という感覚の物理的な条件の一つが、ここで整った。ロンドン
- 糸車できごとAD1200年頃人類が最も多くの時間を費やした作業の一つ繊維を引き出しながら撚りをかけ、巻き取る。手回しの錘だけでやると、極端に遅い。人類が費やしてきた労働時間のうち、糸を紡ぐことに使われた分は膨大で、そのほとんどを女性が担った。車輪で錘を回す装置が、中国とインドで先に現れ、13世紀にヨーロッパへ届く。生産量が数倍になった。同じ道具が、二十世紀にガンディーの手の中で、独立運動の象徴になる。インドの国旗の中央にある輪は、もとはこの車である。デリー
- ボタンと穴できごとAD13世紀留め具の変化が、服の形と身分の表示を動かした飾りとしてのボタンは古くからあった。留め具として使うには、対になる穴が要る。十三世紀のヨーロッパで、ボタンホールが広まった。紐や帯で体に巻きつける衣服から、体の線に沿って閉じる衣服へ変わる。仕立ての技が要るようになり、既製ではなく注文で作る職が育った。身分によって使える素材を制限する法が各地で出され、金や銀のボタンは禁じられる。留め具の変化が、服の形と、服で示す身分の両方を動かした。いま男女で掛け方が逆なのは、この時代の名残と言われる。パリ
- ロジャー・ベーコン『大著作』できごとAD1267年火薬の最初の記述フランシスコ会士がオックスフォードとパリで、教皇クレメンス4世に頼まれて、1年で書いた。840ページ。「知識の四つの障害」(権威、習慣、偏見、無知の隠蔽)。「経験科学(scientia experimentalis)」。数学が全ての基礎。光学(レンズ、虹)、暦の改革(グレゴリオ暦の300年前に、誤りを指摘した)、火薬(ヨーロッパで最初の記述)。飛ぶ機械と自走する車の予想は、同じ頃の書簡に書いた。教皇は翌年死んで、読まれなかった。「驚異の博士」。オックスフォード
- 眼鏡の発明できごとAD1286年頃読む人の労働年数が延びた1306年、ピサのジョルダーノが説教で述べている。眼鏡が作られるようになってから二十年経たない、自分はそれを作った人物に会って話した、と。名は伏せられている。凸レンズを二枚、革か骨の枠に留め、鼻に載せる。老眼で読み書きができなくなった写字生と学者が、その後も働けるようになった。読む人の労働年数が延びた。凹レンズによる近視の矯正は15世紀である。ヨーロッパでガラスの光学が進んだ背景に、この日用品がある。ピサ
- ムラーノの硝子職人できごとAD1291年厚遇し、そして島から出さない木造の街で炉を焚くのは危険である、という理由で、ヴェネツィア共和国は硝子の工房をすべてムラーノ島へ移させた。火事の予防は本当の理由の一つでしかない。職人は島から出ることを制限され、技術は国家の機密として扱われた。娘は貴族と結婚でき、身分は高い。しかし国外へ逃げれば追手が向かい、暗殺された者がいると伝えられる。無色透明のクリスタッロ、そして水銀とスズによる平面鏡が、ここで完成した。ヴェネツィア
- ラピスラズリと群青できごとAD1300年頃1826年に値段が数百分の一に当時、深い青の顔料はこれしかなかった。原料はアフガニスタン北東の山中の一つの鉱山。そこからヨーロッパへ運ばれるので「海を越えて(ウルトラマリーヌ)」と呼ばれた。石を砕いて練り、蜜蝋と樹脂に混ぜて灰汁で洗い出す工程が要る。値段は同じ重さの金に匹敵した。だから契約書に「聖母の衣にはウルトラマリンを何オンス使うこと」と書かれた。青が神聖なのではなく、高価だから聖母に使われた。1826年に合成品が作られ、値段は数百分の一になった。サーレサング
- 煙突のある暖炉できごとAD13〜14世紀中世のはじめ、ヨーロッパの館では大広間の真ん中で火を焚き、煙は屋根の穴から抜いた。主人も家来も同じ火の周りで食べ、眠った。壁に炉を寄せ、煙を煙突で上へ導く造りが広がると、暖かい部屋を一つの火にまとめる必要がなくなる。部屋ごとに暖炉を置き、主人の家族は広間を離れて小さな私室で過ごすようになった。煙突の数が富の目印になり、のちに税の対象にもなる。暖める仕組みが変わると、誰とどこで過ごすかが変わった。ロンドン
- 機械時計と、等しい一時間できごとAD1335年時間が機械の刻みから来るそれまでの時間は、日の出から日の入りまでを等分したものだった。だから、一時間の長さが、夏と冬で違う。日時計も水時計も、そう作られていた。修道院が、定時の祈りのために正確な合図を求め、脱進機を持つ機械が生まれた。1335年、ミラノのサン・ゴッタルド教会の塔で、時刻ごとに自動で鐘を打つ装置が動いた。以後、時間は、天体からではなく、機械の刻みから来るものになった。長さの等しい一時間が、そこから始まる。ミラノ
- トランプの伝播できごとAD1370年頃安く大量に作れた中国の紙の札が起源とされる。マムルーク朝エジプトの札が、現存する最古のまとまった一組で(トプカプ宮殿蔵)、剣・棒・杯・貨幣の4組に、王と副官と第二副官の絵札が付く。人物は描かれない。偶像を禁じる規範による。これがイタリアとスペインへ渡り、4組の記号がそれぞれの土地で変わった。フランスがハート・スペード・ダイヤ・クラブに単純化し、型紙で刷れるようにしたので、安く大量に作れた。それが英語圏へ渡り、いまの標準になった。カイロ
- ブルネレスキ人物AD1377年 – AD1446年4月15日設計図を見せなかった金細工師。1401年、洗礼堂の扉のコンクールでギベルティに負けた。ローマへ。ドナテッロと古代の遺跡を測った。「宝探し」と思われた。線遠近法を発明した。板に穴を開けて洗礼堂を描いた。ドーム。捨子養育院。サン・ロレンツォ。大聖堂の下に葬られた。
- 『直指』の印刷できごとAD1377年現存最古の金属活字本清州の興徳寺で、白雲和尚の編んだ禅の語録を、金属活字で刷った。現存する世界最古の金属活字本。グーテンベルクの78年前。下巻1冊がフランス国立図書館にある(フランスの駐朝公使コラン・ド・プランシーが集めて持ち帰り、1950年に寄贈された)。朝鮮では1234年に金属活字で刷った記録があり(現物は残らない)、1403年からは国家が鋳字所を置いた。清州
- グーテンベルク人物AD1400年頃 – AD1468年金属活字による印刷を実用にした。考えが広がる速さが、この一手で変わる。
- こたつできごとAD15世紀日本の家は夏の風通しを重んじて建てられ、冬は寒い。部屋全体を暖めるのではなく、火の近くの体だけを温めてきた。室町の頃、囲炉裏の上に木の櫓を組み、布団を掛けて足を入れる形が生まれたとされる。江戸時代には、炭の火鉢を入れて好きな場所へ動かせる置きごたつが広まった。家族は一つの布団に足を入れて集まる。家を暖めずに人を暖めるやり方は、燃料を節約する知恵でもあり、寒い家を続けさせた理由でもある。京都
- ブルネレスキのドームできごとAD1436年牛が回す起重機フィレンツェ大聖堂の穴は100年開いたままだった。幅45メートル、足場もアーチも無理。金細工師が二重の殻と、レンガの魚骨の積み方と、牛が回す起重機で16年で閉じた。設計図を誰にも見せなかった。ミケランジェロは「もっと大きくは作れるが、もっと美しくは作れない」。フィレンツェ

- グーテンベルクの活版印刷できごとAD1455年頃600年かけて紙が印刷術になった書物が手写しから機械の複製になった。考えが広がる速さが根本から変わる。

- 船のための森できごとAD15世紀ヴェネツィアの力は船にある。船はガレー一隻に何百本もの木を食う。竜骨と肋材には曲がった樫が、櫂には真っ直ぐなブナが要る。共和国は、本土の森を国の管理下に置いた。モンテッロの樫の林は海軍のもの、カンシリオのブナは櫂のためと決め、森ごとに番人を置き、木を伐る許可、植える義務、育つまでの年数を台帳に書き込む。無断で伐れば重い罰である。使う量から逆算して、何年後に何本が要るかを数え、いま植える。国家が数百年先を見て森を管理した、早い例になる。ヴェネツィア
- 発明を独占させるできごとAD1474年職人は技を隠す。弟子にしか教えず、他の町へ出さない。ヴェネツィアは硝子でそれを徹底し、職人を島から出さなかった。一方で、新しい工夫を呼び込むには、隠さずに登録させたほうがよい。1474年の法は、新しく役に立つ装置を作った者が登録すれば、十年のあいだ他人が真似ることを禁じると定めた。独占を与える代わりに、内容を明かさせる。期限が来れば、誰でも使える。発明を秘密にするか、公開して一定期間守られるか。この取引の形が、いまの特許制度の原型になる。ヴェネツィア
- 『魔女に与える鉄槌』できごとAD1487年印刷術で30版ドミニコ会の異端審問官ハインリヒ・クラーマーが、インスブルックで魔女裁判に失敗して司教に追い出され、教皇の勅書を付けて、この本を書いた。魔女は実在する。悪魔と契約し、交わり、天候と作物と男の性器を害する。ほとんどが女である(「女は信仰が弱い(femina=fe minus)」)。訊問と拷問と処刑の手引き。印刷術で30版。魔女狩りは1560年から1630年が頂点で、4万〜6万人が処刑された。シュパイアー

- ゲオルギウス・アグリコラ人物AD1494年3月24日 – AD1555年11月21日本名はゲオルク・パウアー。ザクセンの染物屋の子。ライプツィヒで古典を学び、イタリアで医学を修めた。銀山の町ヨアヒムスタール、次いでケムニッツの市医となる。坑夫を診療しながら、坑内に入り、道具と手順を記録した。鉱物を色、硬さ、光沢など観察できる性質で分類し、化石を生物の遺骸と考えた。ケムニッツ市長を四度務めた。カトリックのまま、宗教改革下のザクセンに留まったため、死後、市内に埋葬されなかった。
- チャルディラーンの戦いできごとAD1514年火器が騎兵を過去のものにしたオスマンの鉄砲と大砲が、サファヴィーの騎兵を破った。スンナ派とシーア派の境がこの線で固まる。チャルディラーン
- 95か条の論題できごとAD1517年10月31日技術が信仰を動かしたルターの問いかけが印刷術に乗って広がり、西方教会が割れた。宗教改革の始まり。ヴィッテンベルク

- 木の入れ歯できごとAD16世紀ヨーロッパの入れ歯が、象牙や動物の骨を金具で縛りつけるものだったころ、日本では黄楊の木を彫って歯茎の形に合わせる義歯が作られていた。仏像を彫る職人の技である。口の中に蝋を入れて型を取り、削っては合わせを繰り返す。吸いつく力だけで留まるので、金具が要らない。和歌山の寺に伝わる十六世紀の尼僧の義歯が、現存する最古級とされる。噛めるように作られており、実際に長く使われた跡がある。同じ問題に、材料も技術系統も違う答えが出ていた。和歌山(紀州)
- 床屋の三色柱できごとAD1540年外科が分かれたあと、床屋には柱だけが残った中世の床屋は、髪と髭だけを扱ったのではない。歯を抜き、腫れ物を切り、そして瀉血をした。患者は棒を握って血の巡りを出し、終われば血の付いた布をその棒に巻いて外に干した。それが看板になったとされる。赤は血、白は包帯である。1540年、イングランドは床屋と外科医の組合を一つにまとめ、同時に仕事を分けた。床屋は抜歯まで、外科医は髭を剃らない。やがて外科が医学の側へ移り、床屋には柱だけが残った。いまも回り続ける看板は、外科の分かれた跡になる。ロンドン
- 鉄砲伝来できごとAD1543年ポルトガル人が種子島に漂着した。数十年で日本は世界有数の鉄砲保有国になり、戦の形が変わる。種子島
- デ・レ・メタリカできごとAD1556年ゲオルギウス・アグリコラは、ザクセンの鉱山町の医師である。坑夫を診ながら、彼らの仕事を二十年かけて書き取った。鉱脈の探し方、坑道の支保、排水の水車とポンプ、換気の送風機、鉱石の粉砕と精錬。二百九十点を超える木版の図が付く。坑夫の肺の病についても書いている。ラテン語で書かれ、二百年近く現場の標準になった。1912年、後の大統領ハーバート・フーヴァーとその妻ルウが、鉱山技師としての知識で英訳した。ケムニッツ
- メルカトルの図法できごとAD1569年直線が針路になる球を平面にすると、必ずどこかが歪む。メルカトルは、角度を正しく保つほうを選んだ。緯線を等間隔にせず、高緯度ほど引き伸ばす。すると、地図の上で直線を引けば、それが「羅針盤の針を一定に保って進む針路」(等角航路)になる。船乗りにとって、これ以上ないものだった。代償として、面積が壊れた。グリーンランドがアフリカと同じ大きさに見える。この歪みは、後に政治の議論になった。デュースブルク
- 石山合戦できごとAD1570年(元亀元年)鉄甲船石山本願寺の顕如が信長に立った。10年。一向宗の門徒、雑賀の鉄砲、毛利の水軍、伊勢長島と越前の一揆。信長は長島で2万人を焼き殺し、越前で3〜4万を殺した。1576年、木津川口で毛利水軍に負け、1578年、鉄甲船6隻で勝った。1580年、正親町天皇の仲介で顕如が退去した。本願寺は焼け、その跡に秀吉が大坂城を建てた。大坂

- 長篠の戦いできごとAD1575年6月29日(天正3年5月21日)鉄砲3000挺武田勝頼1万5000が長篠城を囲み、信長・家康3万8000が設楽原に馬防柵を作って待った。鉄砲3000挺(1000とも)。武田の騎馬が柵に突撃を繰り返し、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊が死んだ。「三段撃ち」は後の話。武田は7年後に滅んだ。鳥居強右衛門が援軍を告げて磔にされた。長篠

- 亀甲船と閑山島できごとAD1592年8月14日(宣祖25年7月8日)鉄の錐を植えた屋根李舜臣が、屋根を板で覆って鉄の錐を植えた亀甲船を先頭に、閑山島の沖で日本の水軍を鶴翼の陣で囲んだ。73隻のうち59隻を沈めた。日本軍は、西の海から漢城と平壌へ物資を送る道を失い、陸の進軍が止まった。彼は讒言で官を奪われ、白衣従軍させられ、後任が全滅した後に呼び戻されて、残った12隻で鳴梁を戦った。閑山島
- 産科鉗子と、出産の職の交代できごとAD1600年頃箱で運び目隠しをした出産は、長く女性の領分だった。産婆が取り上げ、男は部屋に入らない。ユグノーの亡命者チェンバレン家が、難産で赤子を引き出す鉗子を考案した。彼らは、それを100年以上、家族の秘密にした。金箔を貼った大きな箱で運び込み、産婦の目を布で覆い、他の者を部屋から出して使った。器具を持つ男性の外科医が、次第に産婆の仕事を奪った。器具は命を救ったが、その独占が、どれだけの死を放置したかは分からない。1813年、家の床下から、古い鉗子が見つかった。ロンドン
- オンドルが床全体に広がるできごとAD17世紀朝鮮半島では、かまどの煙を床下に通して床石を温める暖房が古くから使われていた。はじめは部屋の一部だけを温めるものだったが、朝鮮時代の十七世紀、寒さが厳しかった時期に、床全体を温める造りが身分を問わず広がったとされる。人は温かい床に直に座り、直に寝る。椅子とベッドの暮らしにならなかった理由の一つである。一方で、燃料の薪を求めて山の木が切られ、禿山が増えた。いまの韓国の集合住宅にも、温水の床暖房として受け継がれている。漢陽
- 定期刊行の新聞の始まりできごとAD1605年同じ日に同じことを知る仕組み毎週おなじ日に、遠くの出来事が同じ紙面に並ぶ。顔も知らない何万人が、同じ朝に同じことを読む。国民という感覚は、この習慣の上に育った。ストラスブール
- ネイピアの対数できごとAD1614年計算尺はアポロまで使われた掛け算を足し算に変える。スコットランドの領主ジョン・ネイピアが20年かけて表を作った。数を並べ、その指数を並べれば、掛けたい二数の指数を足して引き直せばよい。天文学者は、それまで何日もかけていた計算を数時間で済ませられるようになった。ラプラスが「天文学者の寿命を二倍にした」と言った。ブリッグズが常用対数に直し、オートレッドが二本の対数目盛りを滑らせる計算尺を作った。この道具は、アポロ計画まで使われた。エディンバラ
- 計算尺できごとAD1622年掛け算が、目盛を合わせる動作になった対数は掛け算を足し算に変える。ガンターは対数の目盛を刻んだ物差しを作り、コンパスで長さを測って足した。オートレッドは、同じ目盛の尺を二本、滑らせて重ねればよいと考えた。掛け算が、目盛を合わせる動作になる。有効数字は三桁ほどしか読めない。しかし、桁を間違えなければ、それで足りる場面が多い。以後三百五十年、技師と航海士と学生がこれを腰に下げた。アポロ計画の技術者も使っている。電卓が現れて、数年で消えた。ロンドン
- 空気の重さを量るできごとAD1643年井戸の水は、どんなに良い喞筒でも十メートル以上は吸い上がらない。職人は知っていたが、理由は分からなかった。ガリレオの弟子トリチェリは、水より重い水銀で試す。片方を閉じた長い管に水銀を満たし、逆さに立てると、上に隙間ができて、水銀は決まった高さで止まった。空気が外から押しているから、その重さの分だけ上がるのだと彼は考えた。上の隙間は、何も無い空間である。空気に重さがあり、真空がありうる。この二つを同時に示した装置が、やがて天気を測る道具になる。フィレンツェ
- パスカルの計算機できごとAD1645年桁上がりを重りで伝える19歳のパスカルが、徴税官の父の帳簿の計算を助けるために作った。歯車を回して数を入れ、桁上がりは重りの落下で次の桁へ伝わる。フランスの通貨が12進と20進の混在だったため、桁ごとに歯数が違う。50台ほど作られ、9台が現存する。高価で壊れやすく、実用にはならなかった。30年後、ライプニッツが段付き歯車で掛け算のできる機械を作った。「優れた人間が、機械にもできる計算に時間を奪われるのは、まったく不当である」。パリ
- バルトロメオ・クリストフォリ人物AD1655年5月4日 – AD1731年1月27日パドヴァの生まれ。1688年、メディチ家のフェルディナンド大公に招かれ、フィレンツェで楽器の管理と製作にあたった。チェンバロとオルガンを作りながら、弦を槌で打つ仕掛けを考えた。槌が弦から離れて戻る脱進機と、二度打ちを防ぐ受けを備えた完成度の高い機構で、後の改良は多くがその延長にある。生前は評価されず、現存する自作の楽器は三台である。
- 三百年の気温できごとAD1659年から二十世紀半ば、気象学者ゴードン・マンリーは、イングランド中部に残された観測の記録を集め始めた。個人の日記、館の記録、学校の帳面。置き場所も器械もばらばらで、暖房のない部屋の中で測ったものまである。彼はそれらを一つずつ突き合わせて補正し、1659年まで遡る月ごとの気温の列を作った。世界でもっとも長い気温の記録である。一年だけを見ても何も分からないが、三百年並べると、寒い時期があり、そして近年の上がり方が、それまでとは違うことが見える。測り続けることが、それ自体で発見になる。イングランド中部(位置は特定されていない)
- 王立協会の設立できごとAD1660年「誰の言葉も鵜呑みにしない」を掲げ、実験で確かめたことだけを認める場を作った。学会という仕組みの原型。ロンドン
- ニュートンのプリズムできごとAD1666年鎧戸の穴から差す光ペストで大学が閉鎖され、故郷に戻っていた年。窓の鎧戸に穴を開け、差し込む光を三角のガラスに通すと、壁に虹の帯が伸びた。当時の説では、色はガラスが白い光を「汚す」ことで生じるとされていた。彼は帯の一色だけを二枚目のプリズムに通し、それ以上分かれないことを示した。白色光は色の混合であり、プリズムはそれを分けているだけである。1704年『光学』。ゲーテは半世紀後、これに真っ向から反論する色彩論を書いた。ケンブリッジ
- パリの街灯できごとAD1667年9月2日ルイ十四世は、パリに初めて警察の長官を置き、ラ・レニーを任じた。夜のパリは暗く、路地には盗賊が潜み、人は松明持ちを雇って歩いた。ラ・レニーが最初に打った手の一つが、明かりである。通りの上に縄を渡し、蝋燭を入れたランタンを吊るす。九百あまりの通りに二千七百を超えるランタンが下がり、冬の夜ごとに住民の当番が火を入れた。費用は住民の税でまかなった。暗がりを減らすことが、見張りを増やすことと同じ働きをする。のちにパリが「光の都」と呼ばれるのは、この夜の明かりから始まったとも言われる。パリ
- ニュートンの反射望遠鏡できごとAD1668年レンズの望遠鏡は、色がにじむ。光の色によって屈折の度合いが違うためで、ニュートンはプリズムの実験からその原因を知っていた。鏡なら色は分かれない。彼は銅とスズの合金を自分で鋳て、磨いて凹面にし、小さな斜めの鏡で光を横へ出した。全長わずか十五センチほどで、当時の一メートル超の屈折望遠鏡に匹敵した。1672年に王立協会へ送られ、彼はそれで会員になった。現在の大型望遠鏡は、すべて鏡である。ケンブリッジ
- 錦帯橋できごとAD1673年(延宝元年)岩国の錦川は、大水のたびに橋を流した。架けては流され、また架ける。藩主の吉川広嘉は、中国の書物に描かれた島づたいの橋に着想を得て、川中に石の橋脚を築き、そのあいだを五つの反り橋でつなぐ形を選んだ。木を何層にも重ねて反りを作り、釘をほとんど使わずに組む。翌年の洪水で流されると、橋脚を補強して架け直し、以後二百七十年余り流されなかった。定期的に架け替えることを前提にした設計で、技術は大工の手から手へ引き継がれている。岩国
- 骨まで柔らかく煮る鍋できごとAD1679年フランスの物理学者ドニ・パパンは、ロンドンで、蓋を固く締めた鍋で水を熱すると、ふつうより高い温度で煮えることを確かめた。1679年、骨まで柔らかく煮られる鍋を王立協会で披露する。破裂を防ぐため、圧力が高くなりすぎると重りが持ち上がって蒸気を逃がす弁を付けた。この安全弁は、のちの蒸気機関に欠かせない部品になる。パパン自身も、蒸気でピストンを動かす考えを書き残している。台所の鍋と、工場の機関は、同じ原理でつながっていた。ロンドン
- ルネ・レオミュール人物AD1683年2月28日 – AD1757年10月17日ラ・ロシェルの生まれ。裕福で、生涯を研究に費やした。鋼の組織を調べ、可鍛鋳鉄の製法を開き、アルコールの膨張による温度計と、氷点0度・沸点80度の目盛を作った。六巻の『昆虫誌』は観察の精密さで知られる。鳥の消化を、金属の管に肉を入れて飲ませる実験で調べた。1719年、雀蜂の巣が木の繊維からできていることに触れ、木から紙が作れると述べた。弟子と助手の功績を自分のものにしない人物だったと評される。
- 鏡の間とサン=ゴバンできごとAD1684年鏡はヴェネツィアの独占で、極端に高価だった。コルベールは職人を金で引き抜き、パリに工房を作らせた。ヴェネツィアは追手を送り、職人の一人が死んだ。フランスは1688年に、吹いて広げるのではなく溶けたガラスを台に流して延ばす鋳造法を得て、大きな板を作れるようになった。ヴェルサイユの鏡の間には357枚が並ぶ。輸入を止め、国内で作り、輸出する。重商主義の実演であり、この工房は今日のサン=ゴバン社になった。ヴェルサイユ
- 板ガラスと窓できごとAD1688年流して延べて磨くガラスの窓は、ローマにもあったが、中世には教会と宮殿のものだった。小さな円形ガラス(クラウン・ガラス)を鉛の桟で継ぐ。1688年、フランスのサン=ゴバン王立工場が、溶けたガラスを鉄の台に流して延べ、冷ましてから磨く方法を工業化した。大きな平らな板が作れる。ヴェルサイユの鏡の間(1684年)は、それより前の吹きガラスの鏡だった。19世紀、円筒法と機械研磨で値段が下がり、庶民の家に窓が入った。室内が明るくなり、そして店の陳列窓が生まれた。パリ
- マルセイユ石鹸の勅令できごとAD1688年10月ルイ14世の治世、財務総監コルベールが敷いた産業統制の路線のもとで、マルセイユの石鹸に規格が定められた。原料はオリーブ油に限り、動物性の脂を混ぜてはならない。違反すれば罰し、製品を没収する。産地の名を、品質の保証として守る仕組みである。油と灰汁を煮るという製法自体は古く、地中海の各地にあった。そこに国家が線を引き、名前に値打ちを与えた。原産地の呼称を法で囲うやり方は、後にワインとチーズへ広がる。匂いを扱う技術が、産業と、制度になった。マルセイユ
- ジョン・ハリソン人物AD1693年4月3日 – AD1776年3月24日木の歯車ヨークシャーの大工の子。学校にほとんど行かず、木で時計を作った(歯車も木。油が要らないように、自己潤滑性のある癒瘡木を使った)。振り子が温度で伸び縮みするのを、膨張率の違う二種の金属を組み合わせて打ち消す仕組み(グリッドアイアン振り子)を発明した。船では振り子が使えないので、ぜんまいと天符に移った。経度委員会と40年争った。83歳で死んだ。
- ピアノの発明できごとAD1700年頃チェンバロは弦を弾く。強く叩いても音の大きさが変わらない。メディチ家の楽器係だったバルトロメオ・クリストフォリは、弦を叩く仕掛けを作った。叩いたあと、槌が弦から離れて戻る。指の力がそのまま音の大きさになる。「強くも弱くも出るチェンバロ」(gravicembalo col piano e forte)。1700年のメディチ家の目録にその名がある。反応は鈍く、彼の生前にほとんど広まらなかった。三台が現存する。フィレンツェ
- 火口箱できごとAD18世紀火は作るものではなく、絶やさないもの、そして借りるものだった火を新しく起こすのは、長いあいだ、面倒な作業だった。鋼を火打ち石に打ちつけ、飛んだ火花を、焦がした布に受ける。そこに硫黄を塗った木片を当てて、ようやく炎になる。慣れた者でも数分、湿っていれば十分以上かかり、うまくいかないこともある。だから人は火を作るより、絶やさないようにした。灰に埋めた炭を朝まで持たせ、消えていれば隣家から火種を借りに行く。台所の火が家の中心にあったのは、暖かいからではなく、消すと取り戻せなかったからである。ロンドン
- 和傘できごとAD18世紀竹の骨に紙を張り、油を引いて水をはじく。日本の傘は、材料をすべて国内で調達できた。江戸では傘の張替えを専門にする職人がいて、骨だけになった傘を買い集め、紙を張り直して売る。傘は使い捨てではなく、直して使う道具だった。武家の内職としても知られ、貧しい藩士が傘を張って生計の足しにした話が残る。番傘、蛇の目傘、日傘と用途で形が分かれ、模様は家や店の印になった。雨の日に差すものが、持ち主の身分を示す看板でもあった。江戸
- ライプニッツの二進法できごとAD1703年電気の入切で計算する0と1だけで、すべての数を書く。ライプニッツは1679年頃からこれを考え、1703年に論文として発表した。彼はイエズス会士から送られた『易経』の六十四卦の配列を見て、陰と陽が0と1に対応することに気づき、古代中国が同じ体系を持っていたのだと考えた(この解釈は現在では否定されている)。彼にとって二進法は、無(0)から神(1)がすべてを創る象徴でもあった。実用になるのは、電気の入切で計算する機械が現れてからである。ハノーファー
- ニューコメンの蒸気機関できごとAD1712年ワットの60年前炭鉱の水を汲み上げるための機械だった。燃料を食いすぎて炭鉱の脇でしか使えない。それでも、石炭で動く最初の実用の動力になる。ダドリー
- 経度法できごとAD1714年2000人が座礁で死んだ緯度は太陽か北極星の高さで出る。経度が出ない。地球は1時間で15度回るから、出港地の時刻を持ち歩けば、その場の正午との差で分かる。しかし、揺れて温度も湿度も変わる船で、正確に動く時計がなかった。1707年、シリー諸島で艦隊が座礁し2000人近くが死んだ。1714年、議会が賞金2万ポンドを設けた。天文学者は月の位置から出す方法を推した。時計職人が挑んだ。ロンドン
- 襤褸と紙できごとAD1719年紙の供給は、古着の量に縛られていた製紙の原料は、綿と麻の襤褸である。木ではない。だから紙の供給は、古着の量に縛られていた。印刷が広まるほど襤褸が足りなくなり、値が上がり、買い集める業者が街を回り、輸出を禁じる国が出た。1719年、レオミュールがフランス科学アカデミーで、蜂が木を噛んで紙のような巣を作ることを指摘し、木から紙を作れるはずだと述べた。誰も試さなかった。実用になるのは、それから百二十年以上あとである。パリ
- 歯を治す職できごとAD1728年歯が痛めば、床屋か、市の立つ日に来る抜歯屋に抜いてもらう。音楽を鳴らして痛みの叫びをかき消したという話が残っている。フランスの外科医ピエール・フォシャールは1728年、それまで秘伝とされてきた手技を一冊にまとめて公開した。虫歯が体液の乱れではなく、口の中で起きることだと論じ、詰め物、義歯、歯並びを直す道具まで記している。抜くだけの仕事が、治して残す仕事になった。歯科が医学の一分野として名乗るのは、この本からになる。パリ
- 体内時計できごとAD1729年200年かかって理解された天文学者ドゥ・メランが、オジギソウの葉が朝に開き夜に閉じることに気づいた。そして、その鉢を暗い戸棚に入れた。光が来なくても、葉は同じ周期で開閉を続けた。生物の中に、時計がある。この観察が正しく理解されるまで200年以上かかった。1970年代、ショウジョウバエで周期を狂わせる遺伝子が見つかった。1984年、その遺伝子が単離された。仕組みは、タンパク質が自分の合成を抑える、約24時間の負のフィードバックである。2017年、ノーベル賞。パリ
- 堂島の米市場できごとAD1730年旗振り信号大坂には諸藩の蔵屋敷が100以上あり、年貢米が集まった。米切手(米の引換券)が売買され、やがて、現物の受け渡しをせず、期日の値段の差額だけを決済する取引が生まれた。1730年、幕府が公認した。帳合米商い。世界で最初の、組織された先物市場とされる。値段は飛脚と旗振り信号で全国へ伝えられ、江戸まで数時間で届いた。相場の記録から、ローソク足の図が生まれた。堂島(大坂)

- 四つに分けて回すできごとAD18世紀土を休ませず、組み合わせて回す中世の畑は、三つに分けて一つを休ませていた。休ませないと、土が痩せるからである。イングランド東部で広まったやり方は、休みを無くした。小麦、かぶ、大麦、クローバーの順に回す。クローバーは根に窒素をためて土を肥やし、かぶは冬の家畜の餌になる。家畜が増えれば糞が増え、それがまた畑に入る。休耕地が消え、収穫が増え、冬に家畜を殺さずに済むようになった。土を休ませるのではなく、育てるものを組み合わせて回す。これが、人口が増えても食べていける土台になった。ノーフォーク
- ジェームズ・ワット人物AD1736年 – AD1819年蒸気機関を実用の動力に変えた。人と家畜の力に頼らない生産が始まる。
- フランクリン・ストーブできごとAD1742年発明を、公共のものにする開いた暖炉は、熱の多くを煙突から逃がす。ベンジャミン・フランクリンは、鉄の箱を部屋の中へ突き出させ、熱い空気の通り道を工夫した暖房器具を考えた。1742年頃のことで、薪は少なくて済む。ペンシルベニアの知事は特許を与えると申し出たが、フランクリンは断った。他人の発明から多くの恩恵を受けているのだから、自分の発明も自由に使ってもらうべきだと自伝に書いている。実際の設計には欠点もあり、のちの改良品がその名で売られた。フィラデルフィア
- グラースと香水できごとAD1750年頃天然にない香り南フランスの丘の町。もとは皮なめしの産地だった。なめした革は臭う。16世紀、革手袋に香りを付けることが流行し、この町が香料の栽培と加工に転じた。ジャスミン、バラ、チュベローズ、ラベンダー、オレンジの花。花は摘んですぐ処理しなければ香りが失われるので、畑と工房が隣り合う必要がある。冷浸法で油脂に香りを移し、アルコールで抽出する。19世紀、合成香料が現れ、天然にない香りが作れるようになった。グラース
- 囲い込みできごと1750年工場の働き手はここから来た共有地に柵が立ち、法で私有地になった。羊と機械のために土地が空き、行き場を失った人びとが工場の働き手になる。土地が売り買いされる商品になった過程でもある。ロンドン

- ガスパール・ド・プロニー人物AD1755年7月22日 – AD1839年7月29日土木技師。エコール・デ・ポンゼショセで学び、後にその校長を務めた。橋、運河、そして水力の研究で知られ、流体の摩擦を測る装置と、機関の出力を測るブレーキに名を残す。1791年、新しい度量衡に合わせた大規模な数表の作成を命じられた。分業によって単純な足し算の反復に還元するという方法を採り、十九巻の手稿を仕上げた。刊行費用が出ず、ついに印刷されなかった。手稿はパリの天文台に残っている。
- 沖の岩に立つ灯台できごとAD1759年10月16日沈む岩の上に、波に耐える明かりを立てたイングランド南西のプリマス沖二十キロほどに、満潮になると隠れる岩礁があり、多くの船が砕けた。1698年、ウィンスタンリーが岩の上に木の塔を建てて火を灯したが、五年後の大嵐で塔ごと彼も海に消えた。次の塔は火事で焼けた。技師ジョン・スミートンは、樫の木の幹の形にならって裾の広い石の塔を設計し、花崗岩を蟻継ぎで噛み合わせ、水の中でも固まる石灰を工夫した。1759年に灯った塔は、百二十年以上、波に耐えた。のちに岩のほうが削れて危うくなり、塔の上半分は陸に移されて、いまもプリマスの丘に立っている。エディストン岩礁
- 産業革命できごと1760年生産が人と家畜の力から切り離される石炭と蒸気で、人と家畜の力に頼らない生産が始まった。人類の暮らしが根本から変わる。マンチェスター

- ベイクウェルの品種改良できごとAD1760年頃羊の重さが倍になったそれまで、家畜は雄と雌を一緒に放しておくものだった。レスターシャーの農民ロバート・ベイクウェルは、雌雄を分けて飼い、目的の形質を持つものだけを掛け合わせた。近親交配も辞さない。目的は「早く太る羊」である。ニュー・レスター種は、従来の半分の期間で市場に出せた。彼は優れた種雄を売らずに貸し出し、一季節で高額の料金を取った。羊の平均重量が数十年で倍になった。ダーウィンは『種の起源』の冒頭で、この人為選択を、自然選択を説明する導入に使った。ディシュリー
- ハリソンの航海時計できごとAD1761年81日で5秒ヨークシャーに生まれリンカンシャーで育った大工の子で、独学の時計職人ジョン・ハリソンが、31年かけて4台を作った。H1からH3は大きな機械。H4は直径13センチの懐中時計だった。1761年、ジャマイカまでの81日の航海で、遅れは5秒。経度にして誤差は数キロ。委員会は賞金を渋り、条件を足し続けた。1773年、80歳の彼は国王ジョージ3世の口添えで、ようやく相当額を受け取った。賞金そのものは、誰にも与えられなかった。ロンドン
- 熱と温度は、別であるできごとAD1760年代グラスゴーのジョゼフ・ブラックは、氷に火をあてても、溶けきるまで温度が上がらないことに引っかかった。熱は入っている。温度計は動かない。では入った熱はどこへ行ったのか。彼は、熱が氷を水に変えることそのものに使われていると考え、これを潜んだ熱と呼んだ。沸騰する湯も同じで、湯気になるまで温度は上がらない。同じ重さの物でも、温めるのに要る熱の量が違うことも測った。温度計が指す数と、出入りする熱の量は別物である。この区別が、蒸気機関の効率を考える土台になった。グラスゴー
- イーライ・ホイットニー人物AD1765年12月8日 – AD1825年1月8日マサチューセッツの農家の子。釘と杖の製造で学費を貯め、二十七歳でイェールを出た。家庭教師の職を求めてジョージアへ渡り、その地の綿の問題を聞いて綿繰り機を作った。特許は取ったが、構造が単純すぎて誰でも真似でき、訴訟に明け暮れて儲からなかった。次に政府から小銃一万挺を請け負い、部品の互換性を売り物にした。約束の期日は大幅に遅れ、互換性の実現度についても後世の検証で疑問が出ている。
- ワットの蒸気機関できごとAD1769年既にあった蒸気機関が、工場に置ける道具になる復水器を分けて燃料を大幅に減らした。既にあった蒸気機関が、ここで工場に置ける道具になる。ロンドン
- マルク・イザムバード・ブルネル人物AD1769年4月25日 – AD1849年12月12日ノルマンディーの農家の生まれ。海軍士官となり、革命下で王党派の言動により亡命した。アメリカでニューヨーク市の技師を務め、1799年に渡英する。ポーツマス工廠に、滑車を大量生産する機械の系列を据えた。百十人の熟練工の仕事を、十人の未熟練工で置き換えた。工場の機械化の初期の例である。製靴機械の事業で破産し、債務者監獄に入った。テムズ・トンネルのシールド工法を考案し、十八年かけて完成させた。
- じゃがいものヨーロッパ普及できごとAD1770年頃穀物の2〜4倍アンデス原産。16世紀にスペインが持ち帰ったが、200年、「聖書に出てこない」「ハンセン病を起こす」と嫌われて、家畜の餌だった。プロイセンのフリードリヒ2世は、農民に栽培を命じ、効かないので、畑に見張りを立てて「王の作物だから盗むな」と触れさせた。農民が夜に盗んで植えた。フランスではパルマンティエが同じ手を使った。同じ面積で穀物の2〜4倍を養え、地中にあるので軍隊に踏まれない。ヨーロッパの人口が増えた。ベルリン
- 消しゴムできごとAD1770年消せることは、書くことと同じくらい大事だった鉛筆の跡を消すには、パンの白い部分を丸めて使っていた。南米から運ばれた樹液の塊が、その跡をよく消すと気づかれる。1770年、化学者プリーストリーが、この物質は鉛筆の跡を擦り取るのに向くと書いた。英語で「擦るもの」を意味する語が、この素材の名になった経緯がある。ただし生ゴムは、暑ければ溶け、寒ければ固くなる。実用になるのは、硫黄を混ぜて加硫する方法が見つかってからである。書いたものを消せることは、書くことと同じくらい大事だった。下書きと推敲が、当たり前にできるようになる。ロンドン
- 水洗便所とS字トラップできごとAD1775年時計職人の特許水洗の便器は1596年にジョン・ハリントンが考案していたが、広まらなかった。下水管から悪臭と害虫が逆流するからである。1775年、時計職人アレクサンダー・カミングスが、排水管をS字に曲げて水を溜める仕組みを特許にした。溜まった水が蓋になる。翌年、ジョセフ・ブラマーが弁を改良した。この単純な曲がりが、家の中に便所を置くことを可能にした。上下水道の整備と合わせて、19世紀後半、都市の家の間取りが変わった。ロンドン
- 鉄で橋を架けるできごとAD1779年鉄で組んだ最初の橋。継ぎ目は木工の仕口を真似ているセヴァーン川の谷は、製鉄の炉が並ぶ工業地帯だった。両岸を結ぶ橋が要るが、船の帆柱を通さねばならず、石のアーチでは橋脚が邪魔になる。鉄工所のエイブラハム・ダービー三世は、鋳鉄だけで一つのアーチを組むことにした。前例が無いので、継ぎ目は木造の指物や大工の仕口を真似ている。鉄を鋳物として使う発想そのものが新しく、できた橋は観光の名所になった。素材が変われば、形も作り方も変わる。その最初の実例として、いまも同じ場所に架かっている。コールブルックデール
- アルガン・ランプできごとAD1780年頃空気を多く当てる、という一つのこと油の灯は、二千年、ほとんど変わっていなかった。芯を油に浸し、火をつける。暗く、煤が出る。ジュネーヴ出身のエメ・アルガンは、芯を円筒にして内側にも空気を通し、その上にガラスの筒を立てた。煙突の効果で空気が引き上げられ、炎が完全に燃える。明るさが蝋燭十本分に達し、煤がほとんど出なくなった。夜の読書と、精密な作業と、そして灯台の光が、これで変わった。特許をめぐる争いで、彼自身は報われていない。パリ
- ジョージ・スティーブンソン人物AD1781年6月9日 – AD1848年8月12日1435ミリ炭鉱夫の子。18歳まで字が読めなかった。炭鉱の機関の修理。1814年、機関車ブリュッヘル号。1825年、ストックトン・ダーリントン鉄道のロコモーション号。1829年、息子ロバートとロケット号。1830年、リヴァプール・マンチェスター。線路の幅4フィート8.5インチ(1435ミリ)を決めた。世界の鉄道の6割が、いまもこの幅。「鉄道の父」。
- 人が浮かぶできごとAD1783年人が地面を離れたのは、飛行機より百二十年早い製紙業を営むモンゴルフィエ兄弟は、暖炉の上で灰が舞い上がるのを見て、煙に浮く力があると考えた。実際に浮かせていたのは熱せられた空気だが、理屈を取り違えたまま装置は動いた。1783年9月、ヴェルサイユの宮廷の前で、羊と鴨と鶏を乗せた気球が上がる。高いところで生き物がどうなるか分からなかったからである。二か月後、人が乗って二十五分ほどパリの上空を飛んだ。同じ年、シャルルは水素を使う気球を上げている。人が地面を離れたのは、飛行機より百二十年早い。パリ
- 破られない錠できごとAD1784年弱点を公表すべきか、という議論がここで起きたジョゼフ・ブラマーは1784年、円筒の中に何枚もの滑り板を並べた錠を作り、店の窓に飾って札を掲げた。これを開けた者に二百ギニーを払う、と。六十七年、誰も開けられなかった。1851年のロンドン万国博覧会で、アメリカの錠前師アルフレッド・ホッブズが挑む。専用の道具を作り、五十時間以上かけて開けた。会場では、イギリスの錠がことごとく破られる実演が続き、安全だと思われていたものが安全でないと知れ渡った。この騒ぎが、錠の設計を一段進めることになる。ロンドン
- オーギュスタン・ジャン・フレネル人物AD1788年5月10日 – AD1827年7月14日建築技師の子。体が弱く、八歳まで読めなかったと伝えられる。エコール・ポリテクニークを経て土木技師になり、道路と橋を作りながら、独学で光を研究した。ナポレオンの百日天下に反対して職を解かれた期間に、回折の実験を行っている。光は粒子ではなく波であり、しかも進行方向に垂直に振動する横波である、と数学で示した。当時の主流であったニュートン以来の粒子説を、覆した。灯台のレンズは、その理論の応用である。三十九歳で結核により死んだ。
- マイケル・ファラデー人物AD1791年9月22日 – AD1867年8月25日発電機とモーターの元になった製本屋の徒弟から実験家になった。磁石を動かせば電流が起きると示す。数式はほとんど使わず、代わりに「場」という考え方を残した。
- チャールズ・バベッジ人物AD1791年12月26日 – AD1871年10月18日辻音楽と戦った男ロンドンの銀行家の子。ケンブリッジで解析協会を作り、ニュートン流の記法を捨ててライプニッツ流を導入した。階差機関と解析機関の設計者。天文学会の創設、郵便料金の均一化の提案、機関車の前の障害物除け、灯台の点滅信号、産業の工程の分析(『機械化と製造業の経済』)。街頭の辻音楽が騒がしいという運動でも知られ、子どもに追いかけられた。晩年は不機嫌な老人として有名だった。
- サミュエル・モールス人物AD1791年4月27日 – AD1872年4月2日画家だった画家。ラファイエットの肖像を描いていたとき、ワシントンから妻が病気だと手紙が来て、着いたときには埋葬されていた。遠くに速く伝える方法を考えた。1832年、船の上で電信を思いつき、ヴェイルと符号を作った。1844年、議会が3万ドル。「神は何を成し給うたか」。特許で富んだ。反カトリック、反移民、奴隷制の擁護者でもあった。
- ド・プロニーの計算工場できごとAD1793年革命政府は、十進法にもとづく新しい三角関数表と対数表を必要とした。桁数も規模も、前例が無い。ガスパール・ド・プロニーは、アダム・スミスのピン工場の記述を読んで着想した。仕事を三層に分ける。上層の数学者数人が式を決め、中層の十人ほどが計算の手順に落とし、下層の百人近くが足し算と引き算だけを繰り返す。下層の多くは、革命で職を失った理髪師だったと伝えられる。人間を部品として組んだ計算機であり、バベッジが機械化を構想する直接の手本になった。パリ
- 綿繰り機できごとAD1793年労働を減らす機械が、奴隷制を延命させた内陸で育つ短繊維の綿は、種が繊維に固く絡む。手で取ると、一人が一日に一ポンドしか処理できない。イーライ・ホイットニーの装置は、回転する円筒の鉤で繊維を引き抜き、種を残す。処理量が数十倍になった。結果は、彼が予期しなかったものである。綿花が儲かる作物になり、南部の耕地が西へ広がり、そして奴隷の需要が急増した。1790年に約70万人だった奴隷は、1860年に約400万人になる。労働を減らす機械が、奴隷制を延命させた。サヴァナ
- シャップの腕木通信できごとAD1794年望遠鏡で読んで送り継ぐ塔の上に、動く腕木を組んだ装置を置く。腕の角度の組み合わせで196通りの符号を作り、望遠鏡で次の塔から読み取って、送り継ぐ。革命政府が採用し、1794年、リールからパリへ、オーストリア軍から町を奪還した知らせが、一時間ほどで届いた。ナポレオンが全土に広げ、最盛期には534の塔が5000キロを結んだ。天候と昼間に縛られ、内容は暗号だったので、送る側と受ける側しか意味が分からない。1850年代、電気の電信に取って代わられて消えた。パリ
- 鉛筆できごとAD1795年材料が手に入らないことが、硬さを選べる鉛筆を生んだイギリスのボロウデールで見つかった黒鉛の塊は、切り出して木で挟むだけで字が書けた。良質の黒鉛はここにしか無く、イギリスは輸出を厳しく制限する。戦争でそれが手に入らなくなったフランスで、技師ニコラ・ジャック・コンテが解決した。粉にした黒鉛を粘土と混ぜ、焼いて固める。粘土の割合を変えれば、硬さも濃さも選べる。いまのHBやBという表示は、この方法から生まれた。材料の不足が、質を落とす代わりに、調整できる製品を生んだことになる。パリ
- セリンガパタムの陥落できごとAD1799年5月4日ロケット弾マイソールのティプー・スルタンは4回イギリスと戦った。フランスと組み、ナポレオンがエジプトから手紙を書いた。ロケット弾でイギリス兵を驚かせた(コングリーヴがそれを真似た)。1799年、ウェルズリー兄弟が囲み、ティプーは城壁の門で戦って死んだ。「ティプーの虎」(イギリス兵を虎が食う仕掛けのオルガン)はロンドンの博物館にある。シュリーランガパトナ(セリンガパタム)
- 笑気ガスの見世物できごとAD1799年ハンフリー・デーヴィが亜酸化窒素を吸って記録を残した。頭が軽くなり、笑いが止まらない。そして彼はこう書き添えた。この気体は痛みを消すので、外科手術に使えるかもしれない、と。誰も読まなかったわけではない。だが四十年以上、それは実行されなかった。代わりに広まったのは、巡回の興行である。木戸銭を取って客に吸わせ、ふらつく様を見せる。痛みを消せる気体が、笑うための見世物として、半世紀のあいだ使われ続けた。ブリストル
- 電池できごとAD1800年カエルの脚が金属に触れると痙攣する。ガルヴァーニはそれを動物の中の電気だと考えたが、同郷のヴォルタは、二種類の金属が触れ合うことで電気が生じているのだと反論した。彼は銅と亜鉛の円板を、塩水で湿らせた布を挟んで交互に積み上げる。触れると持続的に電流が流れた。それまでの静電気は、一瞬で放電して終わる。安定して流れ続ける電気が、初めて手に入った。この装置から電気分解が生まれ、電磁石が生まれ、電信が生まれる。十九世紀の電気の技術は、すべてこの積み木から始まった。コモ
- 部品を入れ替えるできごとAD1801年手の技を、治具と検査の精度に移し替えた銃は、職人が一挺ずつ仕上げるものだった。同じ型でも、部品は互いに入れ替わらない。壊れれば、その銃のために作り直す。1801年、イーライ・ホイットニーは政府の前で、複数の銃から部品を取り混ぜて組み立ててみせたと伝えられる。この実演は準備された仕込みで、彼の工場は実際には互換の水準に届いていなかった、という研究がある。それでも発想は政府を動かし、国営の工場が治具と型と検査の道具をそろえて、この方式を実現していく。手の技を、道具の精度に移し替える考え方が、ここで形になった。ニューヘイヴン
- 黒板できごとAD1801年一人ずつ石板に書かせていた授業では、教師は席を回って直すしかない。全員に同じものを見せる手立てがなかった。十九世紀の初め、スコットランドの教師が、壁ほどの大きさの黒い板に白墨で書いて示すことを始めたとされる。同じ図を四十人が同時に見る。説明しながら書き、書きながら消せる。これで、一人の教師が大勢を教える授業の形が成り立った。教室の前に黒板があり、机が同じ向きに並ぶ配置は、この道具から決まっている。安く、壊れず、電気も要らない。二百年使われ続けた教具になる。エディンバラ
- モルヒネの単離できごとAD1804年薬草は、効く成分と効かないものの混合である。どれが効いているのか、量をどう測るのかが分からない。二十歳の薬剤師見習いゼルチュルナーが、アヘンから白い結晶を取り出した。犬に与えると眠り、自分と三人の若者で試すと、危うく死にかけた。夢の神の名からモルフィウムと名づけた。植物から取り出された最初のアルカロイドである。以後、キニーネ、カフェイン、ニコチン、アトロピンが次々に単離され、薬が量で処方できるものになった。パーダーボルン
- 天然氷の交易できごとAD1806年2月13日ボストンの若い商人フレデリック・チューダーは、冬の池の氷を熱帯に売ることを思いついた。周囲は正気を疑った。最初の積荷はカリブ海のマルティニークへ運ばれ、大半が溶け、大損を出した。彼は債務者監獄に入っている。それでも続け、鋸で切り出す道具、おがくずによる断熱、そして氷を保つ倉庫を整えた。1833年、カルカッタへの積荷が成功する。ニューイングランドの氷が、インド、キューバ、そしてイギリスへ運ばれた。氷が、遠くから買う商品になった。ボストン
- ガス灯と夜の街できごとAD1807年廃棄物だったコールタール石炭を蒸し焼きにして出るガスを管で送り、燃やす。1807年、ロンドンのポール・モール街に最初のガス灯が並んだ。それまで、夜の街は月と手提げの提灯だけだった。夜間の労働、夜の店、夜の劇場、そして夜の警察と犯罪。人の一日の使い方が変わった。副産物のコールタールは、当初は厄介な廃棄物で、そこからモーヴが、薬が、そして20世紀の有機化学工業が出てくる。ロンドン
- アペールの瓶詰と缶詰できごとAD1810年なぜ腐らないか分からないまま革命政府とナポレオンが、軍の食料を保存する方法に懸賞を出したと伝えられる。パリの菓子職人ニコラ・アペールが、食品を瓶に詰め、コルクで栓をして、湯で長時間加熱する方法を14年かけて完成させた。政府は1万2000フランを与え、その方法を本にして公開させた。なぜ腐らないのかは分からないまま(微生物の発見はパスツールの50年後)。同じ年、イギリスのデュランドがブリキ缶の特許を取った。缶切りが発明されるのは45年後で、初期の缶にはノミと槌で開けよと書いてあった。パリ
- エリシャ・オーティス人物AD1811年8月3日 – AD1861年4月8日ヴァーモントの農家の生まれ。荷馬車の製造、製材、そしてベッド枠の工場の職長と、職を転々とし、そのたびに失敗した。ベッドの製造工場で二階へ機械を上げる必要があり、綱が切れても落ちない昇降機を考えた。1853年に会社を興したが、注文は年に数台である。1854年、万国博覧会の会場で、自分が乗った台の綱を斧で切らせる実演をした。翌年の注文が急増する。四十九歳で死に、二人の息子が事業を継いだ。会社は現在も世界最大の昇降機会社である。
- 安全灯できごとAD1815年安全の装置が、危険な場所での労働を可能にした炭鉱の坑道には、可燃性のガスが溜まる。灯りの裸火が引火すれば、坑内の全員が死ぬ。1812年の爆発で九十人以上が亡くなったあと、化学者ハンフリー・デービーは、炎を細かい金網で囲む灯を作った。網が熱を逃がすので、外のガスに火が移らない。しかも、炎の色と高さでガスの有無が分かる。彼は特許を取らず、誰でも作れるようにした。ただし、安全になった坑道はより深く、より危ない場所まで掘られるようになる。安全の装置が、危険な場所での労働を可能にした面もあった。ニューカッスル
- フリードリヒ・ゴットロープ・ケラー人物AD1816年6月27日 – AD1895年9月8日ザクセンの村の織工の家に生まれ、正規の教育をほとんど受けていない。少年のころ、蜂の巣を見て木から紙ができると考えたと自ら書いている。1843年、濡らした木を砥石に押しつけて繊維を得る装置を作り、翌年その紙で新聞を刷らせた。特許を得たものの、更新料が払えず失効し、権利は製紙業者フォルターに移った。生涯、貧しかった。後年、僅かな年金と名誉学位を受けている。世界の紙のほとんどが、彼の方法の子孫である。
- 聴診器できごとAD1816年それまで、胸の音を聞くには、患者の胸に直接、耳を当てるしかない。1816年、ルネ・ラエンネックは、太った若い女性を診るのに、それをためらった。彼は紙を丸めて筒にし、一端を胸に、一端を耳に当てた。直接聞くより、はるかによく聞こえた。木で作り直し、三年かけて音と病変を対応づける。心雑音、ラッセル音、そして胸膜の摩擦音。解剖で確かめた。診察が、患者の言葉を聞くことから、体の内部を読むことへ移る。彼自身は結核で四十五歳で死んだ。パリ
- マカダム舗装できごとAD1816年砕いた石だけを敷き、通るほど固くなる道十八世紀のイギリスの道は、雨が降れば泥沼になり、馬車は轍にはまった。有料道路の管理人だったジョン・ラウドン・マカダムは、石を大きく敷き詰める従来のやり方をやめた。砕いた小さな石だけを層にして敷き、中央を高くして水を流す。通る車輪が石を締め固め、使うほど固くなる。厚い土台も高価な切石も要らないので、安く長い距離を舗装できた。道が固まると、馬車の速さと積める量が上がる。鉄道が来る前の数十年、この舗装がイギリスの物流を支えた。ブリストル
- 偽造との競争できごとAD1818年ナポレオン戦争中、イングランド銀行が兌換を停止し、少額の紙幣を大量に出した。それまで紙幣に馴染みの無かった人々が使い、そして偽札が氾濫する。偽造は死罪だった。1797年から1829年に三百人以上が絞首刑になり、その多くが、偽と知らずに受け取った貧しい者である。1818年、銀行は偽造されにくい紙幣の公募を行った。透かし、彫刻、特殊なインク、そして機械彫り。技術の競争が始まり、そこから紙幣印刷という産業が生まれた。ロンドン
- 左右のある靴できごとAD19世紀足に靴を合わせるのか、靴に足を合わせるのか17世紀から約200年、靴は左右の区別なく作るのがふつうだった。同じ形の木型で二つ作り、履く人の足がそれに合わせて変形する。痛いのは当たり前で、履き慣らすものだと考えられていた。十九世紀の初め、左右別の木型が作られ始める。靴を大量に作る機械が普及すると、左右別はそのまま標準になる。足に靴を合わせるのか、靴に足を合わせるのか。当たり前に見える答えが定着するまでに、何百年もかかっている。フィラデルフィア
- サイラス・フィールド人物AD1819年11月30日 – AD1892年7月12日牧師の子。製紙の卸で財を成し、三十代で引退できるだけの資産を得た。海底電信の話を持ち込まれ、電気の知識は無いまま、資金と人を集める役に回った。1857年から1866年まで、四度の失敗と一度の短命な成功を経て、大西洋を結んだ。三十回以上大西洋を往復し、私財の大半を注ぎ込んでいる。晩年は投機の失敗と一族の不祥事で財産を失い、貧しく死んだ。
- クリストファー・ショールズ人物AD1819年2月14日 – AD1890年2月17日ペンシルヴェニアの生まれ。印刷の徒弟から新聞の編集者になり、ウィスコンシン州の議員と税関の役人も務めた。奴隷制に反対し、州の死刑廃止に関わっている。1867年から、カルロス・グリデン、サミュエル・ソウルとともに印字機の試作を重ね、五十以上の型を作った。特許をレミントン社に売り、その後も改良を続けた。晩年は結核を病み、キーボードの配列を作り直そうとしていた。その改良案は、採用されなかった。
- エドウィン・ドレーク人物AD1819年3月29日 – AD1880年11月9日ニューヨーク州の農家に生まれ、鉄道の車掌を務めた。健康を害して退職し、無料乗車券を持っていたという理由で、石油会社の調査に雇われた。大佐の肩書は、地元の信用を得るために会社が名乗らせたものである。塩井の掘削工ビリー・スミスを雇い、鉄管を打ち込む方法で掘り抜いた。特許を取らず、油田の投機で財を失い、病んで動けなくなった。1873年、ペンシルヴェニア州が年金を認めた。
- 動物を守る法できごとAD1822年荷車を引く馬を鞭で打つのも、牛を市場まで殴って歩かせるのも、持ち主の自由だった。動物は財産であり、財産をどう扱おうと他人の口出しすることではない。1822年、リチャード・マーティンの提出した法が議会を通り、家畜への虐待が罰せられるようになる。人間以外の生き物を守る、世界で最初期の法である。二年後には動物虐待防止協会が作られ、自前の監視員が街を歩いて摘発した。所有物への扱いに、公共が線を引いた。子どもを守る法より、家畜を守る法のほうが早かった。ロンドン
- ウイスキーと酒税できごとAD1823年空のシェリー樽が定義を作った1644年、スコットランド議会が蒸留酒に課税した。以後180年、山中の密造と、徴税吏との追いかけっこが続いた。夜に焚くので月光酒と呼ばれた。1823年の酒税法が、免許料を下げ、合法の蒸留を現実的な選択にした。密造者が次々に免許を取った。同時に、この時期に定まったものがある。連続式蒸留機による大量生産と、樽での熟成である。空いたシェリー樽を使ったところ、色と香りが付いた。偶然が、この酒の定義になった。スペイサイド
- ジョゼフ・モニエ人物AD1823年11月8日 – AD1906年3月13日南フランスの生まれ。パリの公園で庭師として働き、後に造園業を営んだ。橙の木を植える鉢が、温度差と根の力で割れることに悩み、金網を入れたモルタルで作ることを思いつく。1867年、鉢と桶で特許を取り、その後、管、貯水槽、床板、橋へと特許を広げた。彼は構造の理論を持っていない。なぜ鉄が引張を受け持つのかを説明したのは、後のドイツの技師たちである。特許を安く売り渡し、豊かにはならなかった。
- フレネル・レンズできごとAD1823年灯台の光を遠くへ届けるには、レンズで束ねればよい。しかし必要な大きさのレンズは、厚く、重く、自重で歪み、そして光を吸ってしまう。オーギュスタン・ジャン・フレネルは、レンズを同心円の帯に分け、曲面だけを残して厚みを削った。板のように薄く、光を通す。さらに外側には全反射するプリズムの環を置き、上下へ逃げる光まで拾った。ジロンド川口のコルドゥアン灯台に据えられ、光の届く距離が倍以上になった。彼は三十九歳で結核により死んだ。ボルドー
- 防水の布できごとAD1823年雨に濡れずに外を歩ける、という条件布に油や蝋を塗れば水をはじくが、重くて硬く、臭う。1823年、グラスゴーのチャールズ・マッキントッシュが、ゴムをナフサで溶かし、二枚の布で挟む方法を特許にした。継ぎ目から水が入る、暑いと粘る、といった欠点は残ったが、雨の多い土地では歓迎される。加硫の技術が加わって実用になり、鉄道員と警官の制服になった。やがて防水の外套は、人名そのままの普通名詞になる。雨に濡れずに外を歩けるという条件が、屋外で働く人の仕事を変えた。グラスゴー
- 点字の考案できごとAD1824年点を6つに減らしたルイ・ブライユは3歳のとき、父の革細工の錐で目を突いて失明した。パリの盲学校の生徒だったころ、軍人シャルル・バルビエが「夜間文字」——暗闇で読める12点の符号——を持ち込んだ。ブライユは、指の腹で一度に触れる大きさが要ると考え、点を6つに減らした。縦3×横2。64通り。文字も、数字も、句読点も、そして楽譜も書ける。15歳で完成させた。盲人が自分で書けるようになった最初の体系である。学校が公式に採用したのは、彼の死の2年後だった。パリ

- ポルトランドセメントできごとAD1824年10月21日リーズの煉瓦積み職人ジョゼフ・アスプディンが、石灰石と粘土を焼いて粉にしたものに特許を取った。固まった色がポートランド島の建築石材に似ているとして、その名を付けた。ただし彼の焼成温度は低く、現在のものとは別物である。息子ウィリアムと、アイザック・チャールズ・ジョンソンが、原料が溶けかけるまで高温で焼くことで、はるかに強いものを得た。石灰と火山灰を探して回る必要がなくなり、どこでも同じ品質の結合材が作れるようになった。リーズ
- 鉄道の開業できごとAD1825年9月27日距離が縮む蒸気機関車が公共の交通になった。人と物が動く速さが桁で変わり、時刻という概念が全国で揃う。マンチェスター
- 乗合馬車できごとAD1826年ナントで製粉業を営むスタニスラス・ボードリーが、郊外の浴場へ客を運ぶ馬車を仕立てたところ、途中で乗り降りする者が増えた。運ぶ相手を決めずに、決まった道筋を決まった時刻に走らせる。乗り場が帽子屋の前にあり、その店の看板に「オムネス・オムニブス」(すべての人に)とあったのが名の由来だと伝わる。二年後にはパリで営業が始まり、ロンドン、ニューヨークへ広がった。個別の注文で動く馬車から、路線と時刻表で動く輸送へ。都市交通はここから数えられる。ナント
- 摩擦マッチできごとAD1826年数分かかった作業が一秒になり、火は炉から離れてポケットに入ったイングランド北東部の薬屋ジョン・ウォーカーが、調合中の棒の先が炉の縁に擦れて発火するのに気づいた。塩素酸カリウムと硫化アンチモンを練り、木の軸に付ける。紙やすりで擦れば、一瞬で燃える。彼は特許を取らず、作り方を隠さなかった。数年で各地が真似をし、白リンを使った安価な版が広まる。数分かかった作業が一秒になり、火は保つものから、要るときに作るものになった。ただし白リンは猛毒で、その代償は作る側が払うことになる。ストックトン・オン・ティーズ
- ロケット号とレインヒルできごとAD1829年10月6日時速47キロリヴァプール・マンチェスター鉄道が機関車を公募した。5台。スティーブンソン父子のロケット号が、多管ボイラーで時速47キロ。翌年の開通式で国会議員ハスキソンが轢かれて死んだ。世界最初の鉄道の死者。鉄道は、それから20年で、イギリスに1万キロ。レインヒル

- 駅と待合室できごとAD1830年9月15日速く動く機械の前で、どう振る舞うべきかを、誰も知らなかったリヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。世界で最初の、旅客の定期運行を主とする鉄道である。馬車は客が集まれば出たが、鉄道は時刻表で出る。だから客が、あらかじめ来て、待つ。切符を買う窓口、荷物を預ける場所、そして等級ごとに分かれた待合室が要った。開業式で、下院議員ハスキソンが線路上で轢かれて死んでいる。速く動く機械の前で、人がどう振る舞うべきかを、誰もまだ知らなかった。リヴァプール
- 石板できごとAD19世紀紙が高かったころ、子どもは薄い石の板に石筆で書いた。書いては拭き、また書く。何度でも使えるので、家計にも学校の予算にも優しい。イギリスやアメリカの教室では、一人一枚の石板が基本の道具だった。欠点もある。書いたものが残らないので、昨日の間違いを見返せない。唾で拭くので不衛生だと、衛生の議論が高まった時期に批判された。紙が安くなると、石板はノートに置き換わる。学びの記録が残るようになったのは、紙の値段が下がってからになる。ロンドン
- ハインリヒ・フォン・シュテファン人物AD1831年1月7日 – AD1897年4月8日仕立屋の子として生まれ、16歳で郵便局の見習いになり、ドイツ帝国郵便の長官まで昇った。国際郵便の料金体系が複雑を極めていることを実務で知り、世界を一つの区域とみなす案を書いた。1874年のベルン会議でそれが通り、万国郵便連合が生まれた。絵葉書の制度化を後押しし、電話をドイツに導入し、ベルリンに郵便博物館を作った。外来語のテレフォンを避け、フェルンシュプレッヒャーというドイツ語に言い換えた人物でもある。
- 報時球できごとAD1833年音ではなく、目に見える合図で、船に時刻を届けた航海に出る船は、船の時計を正確に合わせておかなければ、海の上で自分の居場所を割り出せない。グリニッジの天文台は、屋根に長い柱を立て、赤い大きな球を取り付けた。毎日、昼の一時の少し前に球を柱の上まで引き上げ、一時ちょうどに落とす。テムズ川に停泊する船の上から、航海士たちはその瞬間を見て時計を合わせた。正午にしなかったのは、天文学者たちが正午には太陽を測るのに忙しかったからだと言われる。音ではなく、目に見える合図が、遠くの船に時刻を届けた。グリニッジ
- 岩崎弥太郎人物AD1835年1月9日 – AD1885年2月7日海運の独占土佐の地下浪人の子。藩の商社を引き継いで三菱にし、台湾出兵と西南戦争の輸送を請け負って海運を独占した。政府と組んで大きくなり、政府に潰されかけ、胃癌で死んだ。「三菱」は土佐藩の三つ柏と岩崎の三階菱。
- バベッジの階差機関と解析機関できごとAD1837年蒸気で計算できたなら当時の航海表と対数表は人が計算し、人が写し、誤植だらけだった。バベッジは「これを蒸気で計算できたなら」と言い、多項式を差分だけで求める階差機関を設計した。政府が資金を出し、17000ポンドを使って完成しなかった。彼は途中でより野心的な解析機関に移った。パンチカードで命令を与え、演算部(ミル)と記憶部(ストア)を分け、条件分岐と繰り返しを持つ。汎用計算機の設計である。一台も作られなかった。ロンドン
- ピットマン式速記できごとAD1837年アイザック・ピットマンは、綴りではなく音を書き取る記号を作った。子音を線の向きで、有声と無声を線の太さで書き分け、母音は点と短い線で線の脇に添える。母音は省いてよい。習熟すれば毎分200語を超える。議会と法廷と新聞が採用し、通信教育で世界に広がった。同じころ、ドイツではガベルスベルガーが、後に日本では田鎖綱紀が、それぞれの言語のための方式を作った。話された言葉を、その場で文字にできるようになった。ロンドン
- エドモンソン式乗車券できごとAD1837年書く手間を先に刷っておき、窓口では日付だけを押した初期の鉄道は、駅馬車の流儀で、乗客ごとに係が名前と行き先を手で書いた券を渡していた。混む駅では窓口に列ができ、売上をごまかされても分からない。ニューカースル・アンド・カーライル鉄道のミルトン駅の駅長トマス・エドモンソンは、行き先を刷り込み、一枚ずつ通し番号を打った厚紙の小さな券を作り、売るときに日付だけを機械で押すようにした。券を渡すのは一瞬で済み、売れ残りの番号を見れば売上が合う。この大きさの券は世界中に広まり、日本の近距離の切符はいまもほぼこの寸法で作られている。ミルトン駅(ブランプトン)(位置は特定されていない)
- ウィリアム・パーキン人物AD1838年3月12日 – AD1907年7月14日18歳の失敗からロンドンの大工の子。父は建築業で成功しており、息子を建築家にしたかった。15歳で王立化学カレッジへ入り、ホフマンの助手になった。18歳の休暇の実験で、偶然、最初の合成染料モーヴを作った。師の反対を押し切って学業をやめ、父と兄と工場を建てた。36歳で会社を売り、以後は自宅の研究室で純粋な化学の研究に戻った。合成香料(クマリン)、そして磁気と分子構造の関係。息子三人も化学者になった。
- 蒸気船の大西洋定期航路できごとAD1838年4月23日家具を焚いた同じ日に2隻がニューヨークに着いた。小型のシリウス号(石炭が尽き、家具と予備の帆桁を焚いたと伝わる)と、ブルネル設計のグレート・ウェスタン号。石炭を積むほど船体は大きくなければならず、大きな船ほど効率がよい(体積は三乗、抵抗は二乗で増える)。ブルネルはそれを見抜いていた。風待ちが消え、航海が時刻表になった。1840年、キュナードが定期便を始めた。ニューヨーク
- 写真の発明できごとAD1839年8月19日世界への贈り物ニエプスが1826年に8時間の露光で窓の外を写し、その死後、共同研究者ダゲールが銀を蒸着した銅板を使う方法を完成させた。露光は数十分。フランス政府が特許を買い上げ、この日、科学アカデミーで公開して「世界への贈り物」とした。同じ頃イギリスのタルボットが、紙の陰画から何枚でも焼く方法を作っていた。一点物か複製か。写真術は後者を選び、それが絵画と記憶と証拠のあり方を変えた。パリ
- 鉄道と標準時できごとAD1840年針が二本ある時計それまで、時刻は町ごとに違った。太陽が南中したときが正午である。ロンドンとブリストルでは10分ずれる。歩く速さでは問題にならない。鉄道が走ると、時刻表が組めず、単線ですれ違い事故が起きる。1840年、グレート・ウェスタン鉄道がロンドンの時刻を全線で使い始めた。1855年までにイギリスの時計の98%がグリニッジ時刻に合った。町の時計に針を二本つけた教会もある。時間が、天体からではなく、電信線を通って配られるものになった。ロンドン
- 植物は何を食べるかできごとAD1840年植物は土の腐植を食べて育つ、と考えられていた。ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒは、植物を燃やして灰を分析し、カリウム、リン、カルシウムなどの無機の成分が要ることを示した。足りない一つの要素が、全体の収穫を決める。この考え方は樽の板にたとえられ、いちばん低い板の高さまでしか水が溜まらないと説明された。不足する成分を補えばよい、という発想から、化学肥料の産業が生まれる。彼は同時に、土から取り出した養分を都市が下水として海へ捨てていることを批判した。ギーセン
- 絵具のチューブできごとAD1841年豚の膀胱から錫の筒へそれまで絵具は、顔料を油で練って豚の膀胱に詰め、使うたびに針で穴を開けた。乾く。漏れる。持ち運べない。1841年、アメリカ人の画家ジョン・ゴフ・ランドが、錫の折りたためる筒に詰める方法を特許にした。絵具が保存でき、持ち運べる。屋外で、その場の光を見ながら描けるようになった。同じ頃、鉄道が郊外へ延びていた。ルノワールは後にこう言った。「絵具のチューブがなければ、セザンヌも、モネも、印象派もなかった」。ロンドン
- ねじを揃えるできごとAD1841年規格とは、誰が作っても同じになるよう幅を決めること産業革命の工場では、ねじは職人が一本ずつ切っていた。同じ寸法のねじが二本と無い。壊れれば、そのねじ専用の穴に合う一本を作り直す。ジョゼフ・ウィットワースは、各地の工場のねじを集めて測り、山の角度を五十五度に、直径ごとの山数を決めた規格を提案した。産業界がこれを採り、同じ寸法のねじが、どの工場の機械にも合うようになる。部品を交換できることは、修理と量産の前提になる。のちにメートル法に基づく規格が広がるが、揃えるという発想そのものはここで形になった。マンチェスター
- エイダ・ラヴレスの覚え書きできごとAD1843年命じたことしかできないイタリアの数学者メナブレアが書いた解析機関の解説を、エイダが英訳し、原文の2倍以上の長さの注釈を付けた。注記Gに、ベルヌーイ数を求める手続きが表の形で書かれている。最初のプログラムと呼ばれる。それ以上に重要なのは、彼女が「この機械は数を計算するだけのものではない」と書いたことである。記号の関係を扱えるなら、和声の規則を与えれば作曲もできる。同時に、機械は人が命じたことしかできない、とも書いた。ロンドン
- テムズ・トンネルできごとAD1843年3月25日一度に全部を開けない水底の軟らかい泥の下を掘る。崩れる。マルク・ブルネルは、船食い虫が硬い殻を分泌しながら木を進む様子から、掘る先端を鉄の枠で囲う方法を考えた。掘っては枠を前へ押し、後ろを煉瓦で固める。シールド工法である。1825年に着工し、五度の浸水と、汚水による病と、資金の枯渇に遭い、十八年かかった。息子イザムバードも溺れかけている。開通後は歩行者の通路となり、後に鉄道が通った。いまもロンドン地下鉄が走っている。ロンドン
- 絵を送るできごとAD1843年絵を送る仕組みは、声を送る仕組みより先に考えられたスコットランドの時計職人アレクサンダー・ベインは、電信が文字を送れるなら、絵も送れるはずだと考えた。二本の振り子を同じ速さで振らせ、送る側で金属の文字を針でなぞり、受ける側では同じ動きで薬品を染み込ませた紙に電流を流す。触れたところが変色して、形が現れる。1843年の特許は、電話より三十年以上早い。実用になるのは遅く、新聞社が写真を送るために使い始めるのは二十世紀に入ってからになる。日本では、漢字を送れる利点から事務機として広く普及した。エディンバラ
- モールスの電信できごとAD1844年5月24日神は何を成し給うたかワシントンの最高裁の部屋からボルティモアまで60キロ。「What hath God wrought(神は何を成し給うたか)」。画家のモールスが、点と線の符号と、電磁石の受信機で。10年で全米に電線、1858年に大西洋ケーブル(3週間で切れた。1866年に成功)。情報が人より速く動く最初。株価、ニュース、戦争の命令、時報。ワシントンD.C.
- 木材パルプの紙できごとAD1844年安くなり、そして数十年で崩れるザクセンの織工フリードリヒ・ゴットロープ・ケラーが、濡らした丸太を砥石に押しつけて繊維を削り出し、それを漉いて紙にした。襤褸から解放された。特許を更新する資金が無く、権利は製紙業者フォルターの手に渡り、ケラーは貧しいまま死んだ。紙が安くなり、新聞が大衆のものになる。同時に、木材パルプの紙は酸を含み、数十年で褐色になって崩れる。十九世紀後半以降の書物と新聞が、いま図書館で壊れつつある。ハイニヒェン
- 輪ゴムできごとAD1845年3月17日小さく安い道具ほど、どこから来たかが見えない生のゴムは、夏にはべたつき、冬には固くなる。硫黄を加えて熱すると、暑さ寒さで性質が変わりにくくなることが分かり、ゴムは工業の材料になった。1845年3月17日、ロンドンの文具業者スティーヴン・ペリーが、ゴムの輪で紙や手紙を束ねる品の特許を取る。紐を結んでほどく手間がなくなった。安く、どこでも使え、誰が考えたかは忘れられた。ゴムの木の産地では、その需要が恐ろしい強制労働を生むことにもなる。ロンドン
- 線路の幅できごとAD1846年どちらが優れているかでなく、どちらが多いかで決まったイギリスの初期の鉄道は、会社ごとに線路の幅が違った。スティーヴンソンの系統はおよそ一四三五ミリ、ブルネルのグレート・ウェスタンは二一四〇ミリで、後者のほうが速く快適だと主張された。困るのは乗客と荷物である。幅の違う線が出会う駅では、全員が降り、荷を積み替えなければならない。委員会が調べ、1846年、新線は狭いほうの幅に統一する法が通った。すでに敷かれた距離が長いほうが勝った形になる。どちらが優れているかではなく、どちらが多いかで決まる。規格の争いは、たいていそうなる。ロンドン
- アレクサンダー・グラハム・ベル人物AD1847年3月3日 – AD1922年8月2日聾者の教師エディンバラ。父は視話法(発音を記号で示す方法)の研究者、母と妻は聴覚を失っていた。聾者の教師として音声の伝達を研究するうちに、電話へ。ボストン大学の教授。特許(1876年)は、史上最も価値のある特許と言われ、600件の訴訟に勝った。ヘレン・ケラーをサリヴァンに引き合わせた。飛行機、水中翼船、金属探知機(ガーフィールド大統領の弾を探した)。自分の研究室に電話を置かなかった、と伝える。
- トーマス・エジソン人物AD1847年2月11日 – AD1931年10月18日1%の閃きオハイオ。学校は3か月で、母が家で教えた。少年の頃に難聴になった。電信技手から発明家へ。1876年、メンローパークに「発明工場」(世界初の産業研究所)。特許1093件。蓄音機、電球、発電と配電、映画(キネトスコープ)、蓄電池。交流のウェスティングハウスと争い(「電流戦争」)、負けた。「天才は1%の閃きと99%の汗」。
- 安全ピンできごとAD1849年4月10日発明することと、それで稼ぐことは別の技能ウォルター・ハントは、十五ドルの借金を返すために一日で考えたと伝えられる。針金を一本曲げ、ばねの力で先を受け金に納める。刺さらない留め具ができた。特許はその日のうちに四百ドルで売られ、ハントの手には何も残らなかった。買った側は莫大な利益を得る。彼はミシンも作りながら、縫い子の職を奪うと考えて特許を取らなかった人でもある。発明と、それで稼ぐことは別の技能である。単純な形ほど真似されやすく、誰の発明かは忘れられていく。ニューヨーク
- ロンドンの塵芥山できごとAD1850年頃灰が出なくなって消えた経済家庭から出る灰と燃え殻を、業者が集めて山に積む。そこで、女たちがふるいにかけて選り分けた。細かい灰は煉瓦の材料と肥料に、燃え残りの石炭はまた燃やし、骨は膠と肥料に、ぼろ布は製紙に、金属は鋳直す。塵芥業者は、この選別で財を成した。ディケンズが『我らが共通の友』で、塵芥の山を相続する話を書いている。石炭から都市ガスへ、そして灰が出なくなると、この経済は消えた。回収する動機が、消えたからである。ロンドン
- ロイターの伝書鳩できごとAD1850年電信線の空白を鳩で埋めるベルリンとパリの間に電信線が引かれたが、アーヘンとブリュッセルの約120キロが繋がっていなかった。この空白を、ポール・ロイターが鳩で埋めた。ブリュッセルの株価を薄い紙に書いて鳩に付け、二時間でアーヘンへ運び、そこから電信でベルリンへ送る。郵便列車より数時間速い。翌年、線が繋がって鳩は不要になったが、彼はロンドンへ移り、通信社を作った。情報が速く着くことに、それ自体の値段が付くと分かった時期である。アーヘン
- ミシンと分割払いできごとAD1851年シャツ1枚が14時間から1時間に手縫いでシャツ1枚に14時間かかった。ミシンなら1時間である。1846年にハウが本縫いの機構を特許にし、1851年にシンガーが実用的な足踏み式を作った。特許の争いが泥沼化し、1856年、各社が特許を持ち寄る共同管理(世界最初のパテント・プール)で決着した。シンガーの発明はむしろ売り方にある。高価な機械を、月賦で家庭に売った。分割払いという仕組みが、ここから消費財に広がる。同時に、縫製工場と既製服の産業が生まれた。ボストン
- ロンドン万国博覧会できごとAD1851年5月1日鉄とガラスハイド・パークに、鉄とガラスで、長さ563メートルの温室。水晶宮。9か月で建て、600万人が来た。イギリスの人口の3分の1。蒸気機関、機関車、電信、コルト拳銃、コ・イ・ヌール、印度の象牙の玉座。「万国の産業の作品」。アルバート公が仕切った。利益で自然史博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館。産業革命の勝利宣言。ロンドン

- アリスモメーターできごとAD1851年事務の現場に機械が入ったパスカルとライプニッツ以来、計算機は作られてきたが、どれも一点物で、壊れやすく、実用にならなかった。保険会社の経営者トマ・ド・コルマーは、段付きの歯車を使う機構を1820年に特許にし、その後三十年をかけて、毎日使っても狂わない機械に仕上げた。四則が扱える。1851年から量産に入り、以後半世紀で数千台が売れた。買ったのは保険会社、天文台、測量局、そして軍である。事務の現場に機械が入った最初である。パリ
- 蒸気消防ポンプできごとAD1853年有志の組が常勤の職業になった手押しポンプは、四十人が交代で漕いでも高い建物に水が届かず、人が疲れれば水が止まる。蒸気機関に汲ませればよい。1829年にロンドンで作られたものは、消防隊員自身の反対で使われなかった。仕事が奪われるためである。1853年、シンシナティが公費で運用を始めた。市は同時に、有志の消防組を廃して有給の職員に切り替えた。喧嘩と政治の温床でもあった有志組が、常勤の職業に変わる転機になった。シンシナティ
- 灯油のランプできごとAD1853年7月31日石油は、燃料になるより前に、まず明かりだったガリツィアの山あいでは、地面から黒い油がにじみ出ていた。薬局で働くウカシェヴィチは、それを蒸留して澄んだ灯油を取り出し、燃やすためのランプを作った。1853年の夏、ルヴフの病院で、夜の緊急の手術がこのランプの明かりの下で行われたと伝えられる。翌年、彼は油を汲み上げる井戸を掘り、やがて精製所を建てた。灯油は鯨の油よりずっと安く、どこの家でも夜に本が読めるようになる。石油は、燃料になるより前に、まず明かりとして世界に広まった。リヴィウ(ルヴフ)
- クリミア戦争できごとAD1854年9月14日電信と写真聖地の管理権でロシアとフランスが争い、ロシアがオスマンに攻め、イギリスとフランスがオスマンについた。セヴァストポリ包囲、349日。バラクラヴァの軽騎兵の突撃。電信で新聞が戦争を伝え、写真が撮られた最初の戦争。ナイチンゲールがスクタリの病院で死亡率を42%から2%にした。死者は両方で75万人、ほとんどが病気。ロシアは負けて、農奴解放へ。ウィーン体制が終わった。セヴァストポリ

- オーティスの安全装置できごとAD1854年5月綱が切れたこと自体を、動力にする荷物用の昇降機は古くからある。人を乗せなかったのは、綱が切れれば落ちるからである。エリシャ・オーティスは、綱の張力が消えたときに板ばねが開き、両側の歯付きの案内レールに噛みつく仕掛けを作った。ニューヨーク万国博覧会の会場で、自ら昇降台に乗り、斧で綱を切らせてみせた。台は数センチ落ちて止まった。建物の高さは、階段を上がれる高さで頭打ちになっていた。それが外れ、高い階のほうが高く売れるようになった。ニューヨーク
- モーリーの風と海流の図できごとAD1855年同じ書式で記録しようアメリカ海軍のマシュー・モーリーが、落馬の怪我で海上勤務を離れ、倉庫に積まれた古い航海日誌を読み始めた。何十年ぶんの、日ごとの風向と海流と水温。それを海域ごとに集計して図にした。船長たちは航路を変え、ニューヨークからリオまでの日数が10日縮んだ。彼は各国に「日誌を同じ書式で記録して共有しよう」と呼びかけ、1853年のブリュッセル会議で合意した。国際的な科学協力の早い例。ワシントンD.C.
- モーヴと合成染料できごとAD1856年屋根裏で失敗した実験18歳の学生ウィリアム・パーキンが、復活祭の休みに自宅の屋根裏で、石炭タールから抗マラリア薬キニーネを合成しようとした。できたのは黒い泥だった。洗おうとしてアルコールを注ぐと、鮮やかな紫に溶けた。絹を染めると落ちない。彼は学校をやめ、父の貯金で工場を建てた。ヴィクトリア女王とウジェニー皇后がこの色を着て、流行した。以後、色は畑(藍、茜、コチニール)から工場へ移り、ドイツの染料会社がバイエルとBASFになる。ロンドン
- フレデリック・テイラー人物AD1856年3月20日 – AD1915年3月21日フィラデルフィアの裕福なクエーカーの家。ハーヴァードに合格しながら、視力を理由に進学せず、機械工の徒弟に入った。ミッドヴェール製鋼で職長になり、労働者との対立から、作業を計測する方法に向かう。高速度鋼の開発でも知られる。ストップウォッチと分析用紙を持ち込み、無駄な動作を削る。1911年『科学的管理法の原理』。効率の思想としてフォードにもレーニンにも受け入れられた。極端な性格で、庭の芝の刈り方まで最適化しようとしたと伝えられる。
- ゴム長靴できごとAD1856年足を濡らさない当たり前は、化学と戦争を経由して届いた天然のゴムは、暑ければ溶け、寒ければ割れる。加硫の方法が見つかって、初めて実用の素材になった。1856年、スコットランドで、ゴム引きの部品を貼り合わせて加硫する長靴の製造が始まる。水を通さない。農民と漁師が買い、第一次世界大戦では、塹壕の水に立ち続ける兵のために百万足を超える長靴が作られた。塹壕足という、足が腐る症状を防ぐためである。雨の日に足を濡らさないという当たり前は、化学と戦争を経由して届いている。エディンバラ
- 缶切りできごとAD1858年中身より、開ける手段のほうが遅れて来ることがある缶詰が作られてから、缶切りが現れるまで四十年以上かかった。初期の缶は鉄が厚く、重さも中身と同じくらいある。開け方は、槌と鑿で叩き割るか、銃で撃つ、と説明書に書かれていた。軍の補給には向いても、家庭では扱いにくい。薄い鋼板の缶が作れるようになって、ようやく刃で切る道具が成り立つ。1858年に特許が出て、以後、てこ式、回転刃式と改良された。中身より、開ける手段のほうが遅れて来ることがある。道具は、使う人の手が届く形になって初めて広まる。ウォーターベリー
- 製氷機できごとAD1859年冷やすことが、天候と地理から切り離された液体が気化するとき、周りから熱を奪う。フェルディナン・カレは、アンモニアを水に溶かし、加熱して追い出し、冷やして凝縮させ、また蒸発させる装置を作った。動力に機械ではなく熱を使う吸収式である。氷を、いつでも、どこでも作れるようになった。南北戦争で北部に氷を止められた南部が、これを輸入している。以後、天然氷の交易は縮み、二十世紀初頭に消えた。冷やすことが、天候と地理から切り離された。パリ
- ドレークの油井できごとAD1859年8月27日掘ることを目的として、意図的に掘った最初石油は、地面に滲み出るものを掬って集めていた。灯火用の鯨油が高騰し、代わりが求められていた。元の車掌エドウィン・ドレークが、塩井を掘る技術を油に転用した。柔らかい地層で穴が崩れるため、鉄管を打ち込んでその中を掘る。二十一メートルで油が上がってきた。この一本から、産油という産業が始まる。ドレークは特許を取らず、投機に失敗し、貧しくなった。晩年、州が年金を与えている。タイタスヴィル
- トーネットの14番できごとAD1859年椅子が、職人の一点物から工場の製品になったミヒャエル・トーネットは、ブナの棒を蒸気で柔らかくし、型に沿って曲げる方法を工夫した。1859年の14番の椅子は、曲げた木六本とねじ十本でできている。職人の彫刻も継ぎ手も要らない。分解して箱に詰めれば、一立方メートルに三十六脚入り、船で世界へ送れた。ウィーンのカフェの椅子として知られ、1930年までに数千万脚が売れたと言われる。椅子が、職人の一点物から工場の製品になった。ウィーン
- ビッグ・ベンできごとAD1859年焼けた国会議事堂を建て直すとき、塔に大時計を置くことになった。王室天文官エアリーは、最初の一打が一秒以内に正確であること、毎日グリニッジへ電信で時刻を報せることを求めた。時計職人たちは無理だと反発したが、弁護士で時計好きのデニソンが仕掛けを考え、1859年に動き出す。大鐘はその年のうちにひびが入り、向きを変えて撞き続けている。鐘の名が塔の名として広まった。国の議会の上で、国の時刻が鳴る。ロンドン
- ポニー・エクスプレスできごとAD1860年4月3日電信の開通の二日後に廃業ミズーリ州セントジョセフからカリフォルニアのサクラメントまで3100キロを、10日で運ぶ。15キロごとに中継所を置き、騎手は馬を替えながら100キロ前後を走り、次の騎手に鞍袋を渡す。騎手は体重が軽い若者が選ばれ、「孤児優先」と募集広告にあったと伝えられる。運んだのは軽い書簡だけで、料金は当初半オンスごとに5ドル。18か月で終わった。1861年10月、大陸横断電信が開通し、その二日後に廃業した。セントジョセフ
- ハーマン・ホレリス人物AD1860年2月29日 – AD1929年11月17日晩年は牛を飼っていたニューヨーク州バッファロー。ドイツからの移民の子。コロンビア大学鉱山学校を19歳で卒業し、恩師に誘われて国勢調査局に入った。集計の遅さを見て、機械化を考えた。1884年に最初の特許。1890年の調査で実証し、翌年から各国の調査を受注した。会社は1911年に合併してCTR社となり、1924年にIBMと改称される。彼自身は経営の主導権を失って引退し、晩年はメリーランドで牛を飼っていた。
- 最初の天気予報できごとAD1861年外れることを前提に「予報」と名づけた1859年、嵐でイギリス沿岸に多数の船が沈み、五百人近くが死んだ。海軍の軍人でビーグル号の艦長だったロバート・フィッツロイは、各地の気圧と風を電信で集めれば、荒天の接近を先に知らせられると考えた。彼は港に警報の信号を掲げる仕組みを作り、1861年からは新聞に翌日の空模様を載せた。「フォーキャスト」という語を使ったのは、当たらないこともある推測だと断るためである。占いだと嘲られ、予報は彼の死後にいったん止められた。それでも、漁師たちが再開を求めて署名した。ロンドン
- 小さな鍵できごとAD1861年量産しながら、一つずつ違う鍵にできるそれまでの錠は、鍵が大きく重かった。錠の中の仕掛けが大きいからである。ライナス・イェール二世は、エジプトの木の錠と同じ原理を金属で小さくまとめた。円筒の中に長さの違うピンを並べ、平たい鍵の凹凸でそれぞれを正しい高さへ押し上げる。すべて揃うと円筒が回る。錠の本体は扉の中に収まり、鍵はポケットに入る。同じ形の錠を大量に作り、ピンの組み合わせだけを変えれば、鍵は全部違うものになる。量産と個別性を両立させた設計が、いまの玄関の鍵になっている。スタンフォード(コネチカット)
- 洋務運動できごとAD1861年二度のアヘン戦争に敗れ、太平天国の反乱に揺さぶられた清の官僚たちは、西洋の武器と技術を取り入れて国を強くしようとした。1861年、外国との交渉を扱う役所が北京に置かれる。各地に兵器工場や造船所を作り、外国語の学校を開き、留学生を送った。中国の学問を本とし、西洋の技術を用とする、と唱えた。だが政治の仕組みには手をつけなかった。三十年かけて作った北洋艦隊は、1895年、日清戦争でほぼ失われた。北京
- レオ・ベークランド人物AD1863年11月14日 – AD1944年2月23日靴屋にされかけた子ヘントの靴直しの子。父は読み書きができず、息子を靴屋にしたがった。母が反対し、夜学に通わせた。21歳で博士号。1889年、新婚旅行でアメリカへ渡り、そのまま住んだ。暗室でなくても扱える印画紙ヴェロックスを発明し、コダックのイーストマンに売った。額は自分の想定の何倍かだったと後に語っている。その金で自宅に研究室を建て、1907年、ベークライトに至った。晩年は隠遁的になり、缶詰ばかり食べて過ごしたと伝えられる。
- ロンドン地下鉄の開業できごとAD1863年1月10日煙の充満する地下パディントンからファリンドン・ストリートまで6キロ。世界初の地下鉄。掘割を掘って蓋をする「開削工法」。蒸気機関車が走ったので、煙が充満した(換気口を開け、機関車は自分の煙を水槽に溜める仕組みを積んだ。それでも息苦しかった)。初日に4万人。1890年、電化された最初の深い地下鉄(シティ・アンド・サウス・ロンドン線)。都市が、垂直に広がり始めた。ロンドン
- ヘンリー・フォード人物AD1863年7月30日 – AD1947年4月7日それが黒である限りミシガンの農家。機械が好きで、農業が嫌いだった。エジソン照明会社の技師から、1903年、フォード自動車。1908年、T型。1913年、流れ作業。1914年、日給5ドル。1500万台。「顧客は好きな色を選べる。それが黒である限り」。同時に、労働組合を暴力で潰し、反ユダヤ主義の新聞を出し(後に謝罪した)、ナチスが彼を讃えた。20世紀の工業と、その影を、一人で体現した。
- ロンドンの下水道できごとAD1865年計算の2倍にした1858年の夏、テムズが悪臭を放ち、議会が石灰を浸した布を窓に垂らした。「大悪臭」。18日で法案が通り、ジョゼフ・バザルジェットが132キロの主要下水管と1800キロの支管を作った。汚水を川へ直接流さず、下流へ運ぶ。彼は必要な管の径を計算し、それを2倍にした(「予想外のことは必ず起きる」)。コレラが消えた。堤(エンバンクメント)が造られ、その下に下水管と地下鉄が通った。150年、いまも使われている。ロンドン
- 遺体を、家に返すできごとAD1865年4月21日死者を土に返すまでを、業者が預かる形ができた南北戦争では、兵が故郷から遠い戦場で死んだ。夏の鉄道で何日もかけて運べば、家に着くころには見られる状態ではない。医師トマス・ホームズらが、動脈から薬液を入れて腐敗を遅らせる方法を売り込み、戦場のそばに天幕を張って商売にした。金を払える家の息子だけが、家に帰れた。決定的だったのは大統領の遺体である。暗殺されたリンカーンは防腐処理を受け、二週間かけて各地を巡り、沿線の人々がその顔を見た。死者を土に返すまでのあいだ、専門の業者が預かるという形が、ここでできた。ワシントンD.C.
- 国際電信連合の設立できごとAD1865年5月17日電信の規格をそろえる19世紀の半ば、電信の線はヨーロッパの国境を越えて延びたが、国ごとに機械も料金も規則も違い、国境の局で電文を受け取っては打ち直さなければならなかった。1865年5月17日、ヨーロッパの20か国の代表がパリに集まり、電信の機械の規格、暗号の使い方、料金の決め方をそろえる条約に署名し、国際電信連合を作った。のちに無線の電波の割り当ても担うようになり、国際電気通信連合と名を変えた。いまある国際機関の中で最も古いものの一つで、国際電話の国番号や、衛星の軌道の割り当ても、ここで決められている。パリ
- 大西洋横断電信ケーブルできごとAD1866年10日が数分に1858年、最初のケーブルが繋がり、ヴィクトリア女王とブキャナン大統領が挨拶を交わした。98語の送信に16時間かかり、3週間で切れた。1865年、グレート・イースタン号(当時ずば抜けて巨大な失敗作の客船)が敷設船に転用され、途中で切断。1866年、成功し、落とした前年のケーブルも拾い上げて繋いだ。ロンドンとニューヨークの間の情報の伝達が、10日から数分になった。市場と外交と新聞が、同じ日を共有し始めた。ハーツ・コンテント(位置は特定されていない)

- 気送管の郵便できごとAD1866年手紙そのものを管で飛ばす電信は速いが、局に持ち込んで打ってもらう必要があり、文が短く、内容が人に読まれる。都市の中では、手紙そのものを管で飛ばすほうが良い、と考えられた。地下に鉄の管を通し、圧縮空気で筒を押す。パリでは1866年から網が広がり、最盛期には総延長400キロを超えた。速達の便りは市内を三十分で渡った。プヌマティックと呼ばれ、電話が普及した後も長く残り、廃止は1984年である。パリ
- ライト兄弟人物AD1867年(兄ウィルバー。弟オーヴィルは1871年) – AD1948年(弟オーヴィル。兄ウィルバーは1912年)飛ぶには制御が要る自転車屋の兄弟が、風洞で翼を測り直し、操縦の問題として飛行を解いた。1903年12月17日、12秒。
- 鉄筋コンクリートできごとAD1867年三つの性質が、たまたま揃っていたコンクリートは押されるのに強く、引かれると割れる。鉄は逆である。両者を組み合わせれば、どちらの弱点も消える。しかも熱膨張率がほぼ同じで、アルカリ性のコンクリートが鉄を錆から守る。パリの造園業者ジョゼフ・モニエは、割れない植木鉢を作ろうとして、金網を入れたモルタルを試し、1867年に特許を得た。原理は後にドイツとフランスの技師が構造力学として整理する。二十世紀の建物のほとんどが、この組み合わせで建っている。パリ
- フリッツ・ハーバー人物AD1868年12月9日 – AD1934年1月29日空気の窒素から肥料を作る方法を見つけ、いまの人口の半分を養っている。同じ人が毒ガス戦を指揮した。ユダヤ人として国を追われて死ぬ。
- スエズ運河の開通できごとAD1869年11月17日ヨーロッパとアジアの距離が一気に縮まった。エジプトは建設の負債で英国の支配下に入る。スエズ運河
- 大陸横断鉄道の開通できごとAD1869年5月10日金の犬釘東から西へユニオン・パシフィック、西から東へセントラル・パシフィック。中国人労働者1万2000人がシエラネバダにトンネルを掘った。ユタのプロモントリーで、金の犬釘を打った。電信で「DONE」。ニューヨークからサンフランシスコまで、6か月が1週間に。バッファローが撃たれ、平原の先住民の暮らしが終わり、西部が開かれた。プロモントリー

- 観音埼灯台できごとAD1869年(明治2年)2月11日開国した日本の海には、夜に船を導く明かりがほとんどなかった。幕府は英米仏蘭の四か国と、八つの洋式灯台を建てる約束を交わしていたが、建てる前に幕府が倒れる。約束は明治政府に引き継がれた。最初に灯ったのが、東京湾の入り口の観音埼である。設計はフランスの技師ヴェルニーで、横須賀の製鉄所で焼いたレンガが使われた。着工した11月1日は、いまも灯台記念日になっている。レンガの塔は大正の地震で崩れ、いまの塔は三代目である。観音埼
- スダン(セダン)の戦いできごとAD1870年9月1日鉄道と参謀本部ビスマルクがエムス電報でナポレオン3世を挑発し、フランスが宣戦した。6週間。モルトケの鉄道と参謀本部。スダンで13万のフランス軍が包囲され、皇帝が自分で降伏した。2日後、パリで共和政が宣言された。皇帝は捕虜になり、イギリスで死んだ。フランスはアルザス・ロレーヌを失い、1914年まで取り返すことを考えた。スダン(セダン)

- 金庫と破る者できごとAD1870年代銀行が現金と証券を集めると、それを狙う者が現れる。錠が良くなれば、破る側は蝶番を狙い、壁を破り、床から入る。鋼の箱は厚くなり、何層にも材質を変えて、穴を開けにくくした。次に、鍵そのものが弱点になる。持っている人を脅せばよいからである。そこで鍵のいらない数字合わせの錠が広まり、さらに、決めた時刻まで開かない時計式の錠が加わった。中の人間も開けられないようにすることで、脅しの意味を消す。安全とは、道具の強さではなく、誰に何ができないようにするかの設計になる。ニューヨーク
- 包囲された都市からできごとAD1870年普仏戦争でパリが包囲され、鉄道も電信も断たれた。外へ連絡する手段として、気球が使われる。駅舎を工場にして気球を縫い、水夫や志願者が乗り込んで、風まかせで飛び立った。四か月で六十以上が上がり、二百万通を超える手紙と、伝書鳩を運んだ。鳩は縮小した文書を持って戻り、幻灯で拡大して読まれる。着地した先はノルウェーやドイツ領のこともあり、捕まった者もいた。包囲は、人と物は止められても、風に乗るものまでは止められないことを示した。パリ
- 角底の紙袋できごとAD1871年紙袋は封筒のような平たい形で、物を入れると倒れた。工場で働いていたマーガレット・ナイトは、底を角ばった形に折って糊づけする機械を考える。自立し、たくさん入る袋ができた。模型を作らせた鉄工所の男が、女に機械の発明はできないと言って先に特許を出願する。ナイトは自分の設計図と試作を証拠に提出し、裁判で勝った。1871年に特許を得て会社を作る。角底の袋は、いまも店で使われている形そのままである。発明したことよりも、発明者だと認めさせることのほうが難しかった。スプリングフィールド
- 新橋・横浜間の鉄道できごとAD1872年10月14日(明治5年9月12日)明治の政府は、イギリスから資金と技師を借り、東京の新橋と横浜のあいだ二十九キロに鉄道を敷いた。海の上に堤を築いて線路を通した区間もある。1872年、天皇を乗せた開業の式が行われた。歩けば一日がかりの道のりを、汽車は一時間足らずで走る。運賃は高く、はじめは乗る人も限られたが、時刻表どおりに動く汽車は、分単位で時間を守るという新しい習慣を持ち込んだ。線路は、その後の半世紀で全国に伸びていく。横浜
- タイプライターとQWERTYできごとAD1873年理由が消えた後も、形だけが残る新聞編集者クリストファー・ショールズらが、実用になる印字機を作った。活字棒が扇形に並び、打つと上へ跳ね上がって紙を叩く。速く打つと隣り合う棒が絡む。そこで、よく続けて使われる文字を離す配置に変えていった。QWERTY である。1873年、銃器製造のレミントン社が製造を引き受けた。紙が見えない、大文字しか打てない、という欠点を抱えたまま普及した。事務の現場に女性が入る大きな入口になり、配列だけが、いまも指の下にある。ミルウォーキー
- グリエルモ・マルコーニ人物AD1874年4月25日 – AD1937年7月20日屋根裏で2キロボローニャの地主の子、母はアイルランドのウイスキーの家(ジェムソン)。大学に行かなかった。屋根裏でヘルツの実験を真似て、1895年、2キロ。イタリア政府は興味を示さず、ロンドンへ。1897年、会社。1901年、大西洋。1909年、ノーベル賞。タイタニックの生存者はマルコーニの無線で助かった。1920年代、短波。ファシスト党員、ムッソリーニの上院議員。発明したのは彼でなく(テスラ、ポポフ、ボース)、事業にしたのは彼。
- 万国郵便連合できごとAD1874年10月9日それまで、外国へ手紙を出すには、経由する国ごとに二国間の取り決めがあり、料金の計算が誰にもできなかった。22か国がベルンに集まり、ドイツのシュテファンの案を受け入れた。世界を一つの郵便区域とみなす。料金は差出国が受け取り、配達する国に渡さない。中継する国には、重さに応じた運び賃を払う。切手はどの国のものでも本国のものが有効になる。国境を越える協力の、最も古く、最も静かに続いている仕組みの一つである。ベルン
- 有刺鉄線できごとAD1874年11月24日囲い込みを止めていたのは制度ではなく、柵の値段だった大平原には石も木もなく、柵が作れなかった。だから家畜は放し飼いにされ、土地は共同で使われていた。イリノイの農民ジョゼフ・グリデンが、針金にもう一本を巻きつけて棘を固定する方法で特許を取った。安く、大量に作れる。数年で年に数万トンが売れ、平原が細かく囲われていった。柵を切る者と守る者のあいだで銃撃が起き、水場を囲われた牧場主が破産した。所有権は前からあった。それを地面の上に見える形で示す手段が、このとき初めて安くなった。ディカルブ
- 東京気象台できごとAD1875年(明治8年)明治政府は、外国の技師を雇って気象の観測を始めた。1875年、東京に気象台が置かれ、毎日決まった時刻に気圧と気温と風を記録する。各地に観測所が増え、電信で集まるようになると、1883年から天気図が作られ、翌年には一日三回の全国の予報が出された。当初の予報文は「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」という、どこにでも当てはまる一文だった。外れても文句を言われないよう書かれている。観測の網が細かくなるにつれ、予報は具体的になっていった。東京
- 満載喫水線できごとAD1876年丸に横線19世紀のイギリスで、老朽船に過積みして沈没させ、保険金を得る商法があった。「棺桶船」。船員は乗船を拒めば投獄された。議員サミュエル・プリムソルが、船主の議員たちを相手に10年戦い、議場で「人殺し」と叫んで退場処分になった。1876年の商船法で、船腹に丸に横線の印を義務づけた。この線より下に沈めてはならない。塩分と季節で必要な余裕が違うので、印は数本の線でできている。ロンドン
- バイロイトと『指環』できごとAD1876年8月13日客席を暗くしたワーグナーは、自分の作品のためだけの劇場を作った。オーケストラを床下に隠し(音が溶け、視界を遮らない)、客席を扇形にして貴賓席をなくし、上演中に客席を暗くした(当時、劇場は明るいままで、社交の場だった)。4夜15時間の『ニーベルングの指環』。26年かけて書いた。第1回の祝祭に、皇帝とブラジル皇帝とリスト、そしてチャイコフスキーが来た。ニーチェは失望して去った。バイロイト
- ベルの電話できごとAD1876年3月10日ワトソンくん、来てくれボストンの下宿の一室。聾者の教師だったアレクサンダー・グラハム・ベルが、隣の部屋の助手に言った。「ワトソンくん、来てくれ。用がある」。硫酸をこぼしたから、という話が伝わる。3日前に特許を取っていた。同じ日に、イライシャ・グレイが同じ原理の書類を出していた(数時間の差、と言われる)。1877年、ベル電話会社。1915年、ニューヨークとサンフランシスコ。ボストン
- 蓄音機の発明できごとAD1877年音が消えなくなった錫箔を巻いた円筒に、針で溝を刻む。電話の実験の副産物だった。エジソンが最初に吹き込んだのは「メリーさんの羊」。それまで、音は、鳴った瞬間に消えるものだった。この機械が、死んだ人の声を残し、遠い土地の音楽を運び、演奏を商品にした。彼は用途の第一に「遺言と口述筆記」を挙げ、音楽は第四に置いた。1887年、ベルリナーが円盤に変え、複製ができるようになった。メンローパーク
- 電話交換手できごとAD1878年9月1日初期の電話は、交換台に繋ぎ替える人が要る。最初に雇われたのは電信の少年たちだった。乱暴な口をきき、客と喧嘩し、勝手に線を抜いた。ボストンの交換局が、エマ・ナットという女性を雇う。評判が良く、以後、交換手は女性の職業になった。声の質、忍耐、そして低い賃金が理由に挙げられている。数十万人がこの職に就き、そして自動交換機が、それを消していった。応答の速さと丁寧さは、機械が引き継がなかったものである。ボストン
- アグナー・アーラン人物AD1878年1月1日 – AD1929年2月3日ユトランドの村の学校長の子。十四歳で教員の資格を得て、父の学校で教えた。コペンハーゲン大学で数学と物理を修め、教師をしていたところを、コペンハーゲン電話会社に招かれた。以後二十年、そこで働いた。通話の到着を確率の過程として扱い、必要な回線数を計算する式を作る。論文はデンマーク語で発表され、英訳が出るまで時間がかかった。生涯独身で、蔵書に囲まれて暮らした。腹部の手術の後、五十一歳で死んだ。通信量の単位に、彼の名がある。
- 割り箸できごとAD1878年ごろ清潔さと資源は、たいてい逆を向く外で食べる人が増えると、箸を洗って使い回すことへの抵抗が出る。明治のはじめ、奈良の吉野で、樽を作るときに出る杉の端材から箸を作る商売が始まったと伝えられる。使い捨てにできて、木の香りがつく。鰻屋や蕎麦屋が使い、駅弁に添えられ、外食の広がりとともに定着した。のちに国産材から輸入材へ切り替わり、森林の伐採と結びつけて批判されるようになる。一方で、間伐材や端材を使う限りは無駄ではない、という反論もある。清潔さと資源は、たいてい逆を向く。東京
- アインシュタイン人物AD1879年3月14日 – AD1955年4月18日時間と空間が絶対でないと示した。核兵器の開発を促す手紙に署名し、後に悔いる。
- エジソンの白熱電球できごとAD1879年10月22日京都の竹メンローパークの「発明工場」で、炭化した木綿糸のフィラメントが13時間半光った。翌年、京都の八幡の竹で1000時間以上。電球より重要だったのは、発電所と、配電網と、メーターと、スイッチと、料金の仕組みを、まとめて作ったこと。1882年、ニューヨークのパール街発電所。「私は失敗していない。うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ」。メンローパーク
- 冷蔵船できごとAD1882年南半球の草原と北半球の胃袋1882年、ニュージーランドのポート・チャーマーズを出た帆船ダニーデン号が、圧縮式の冷凍機を積み、羊5000頭分の枝肉を98日かけてロンドンへ運んだ。腐らずに着いた。以後、アルゼンチンの牛、オーストラリアとニュージーランドの羊、アメリカのバターが、ヨーロッパの食卓に流れ込んだ。イギリスの労働者が肉を食べられるようになり、ヨーロッパの農業は打撃を受けた。南半球の草原が、北半球の都市の胃袋に繋がった。ロンドン
- ケルクホフスの原理できごとAD1883年オランダ生まれの言語学者オーギュスト・ケルクホフスが、軍事暗号についての論文で、六つの要件を挙げた。その二つ目が、後に彼の名で呼ばれる。仕組みが敵の手に渡っても、鍵さえ秘密であれば安全でなければならない。装置は盗まれ、人は寝返り、手順は漏れる。秘密にできるのは、取り替えのきく短い鍵だけである。当時の軍は、方式そのものを隠すことに頼っていた。現代の暗号は、逆に、方式を全部公開して、世界中の攻撃に晒して確かめる。パリ
- ブルックリン橋できごとAD1883年イースト川に架ける吊り橋を設計したジョン・ローブリングは、着工前の測量中に事故で破傷風にかかり死んだ。跡を継いだ息子は、川底で基礎を築く潜函の作業で潜水病になり、以後は自宅から望遠鏡で現場を見て指示を出す。妻エミリーが現場と技師のあいだを毎日往復し、実質的な監督を務めた。鋼の針金を束ねた主索は当時としては桁違いに長く、十四年かけて1883年に開通する。開通直後、橋が落ちるという噂で群衆が殺到し、十二人が圧死した。翌年、象の群れを渡らせて安全を示したと伝えられる。ニューヨーク
- オリエント急行できごとAD1883年10月4日国境を越える寝台列車ベルギーの実業家ジョルジュ・ナゲルマケールスは、アメリカで寝台車を見て、ヨーロッパの国境を越えて走る豪華な列車を思い立った。1883年10月4日、彼の国際寝台車会社の列車がパリを出て、ウィーン、ブダペスト、ブカレストを経て、黒海の港から船でコンスタンティノープルへ向かった。のちに線路がつながると、パリからイスタンブルまで列車だけで行けるようになった。食堂車では一流の料理が出され、王族や外交官、富豪が乗った。アガサ・クリスティの推理小説の舞台にもなった。飛行機の時代に客を失い、パリとイスタンブルを結ぶ直通の運行は1977年に終わった。パリ
- 本初子午線会議できごとAD1884年10月1日24の時間帯経度をどこから測るか。各国が自国の天文台を基準にしていた。パリ、カディス、フェロー島、リオ、東京。海図が噛み合わない。25か国がワシントンに集まり、グリニッジを本初子午線とすることを決めた(賛成22、反対1=サント・ドミンゴ、棄権2=フランスとブラジル)。理由は科学ではなく、当時の船舶の7割以上がグリニッジ基準の海図を使っていたからである。同時に、グリニッジの真夜中に始まる世界共通の一日を定めたが、時間帯の区分までは決めなかった。フランスは1911年までパリ子午線を使い続けた。ワシントンD.C.
- ごみ箱できごとAD1884年3月7日パリでは、家庭のごみを夜のうちに道へ出しておくのが習わしだった。夜明け前に屑拾いが来て、売れるものだけを持っていく。残りは道に散らばった。セーヌ県知事ウジェーヌ・プーベルは1884年、建物の所有者に蓋つきの容器を備えさせる条例を出した。しかも三つに分けさせている。生ごみ、紙と布、陶器と貝殻。分別収集の早い例である。費用を負う家主と、稼ぎを失う屑拾いが反対した。新聞はその容器を知事の名で呼び、いまもフランス語でごみ箱は「プーベル」になる。パリ
- 万年筆できごとAD1884年机を離れて書けるようになり、契約の作法が変わったインク壺にペン先を浸す書き方は、机から離れられない。インクを内蔵するペンは早くから試みられたが、漏れるか、出ないかのどちらかだった。保険の外交員だったルイス・ウォーターマンは、契約の場でインクが漏れて商談を逃した話が伝わる。彼が改良したのは、ペン先へ続く溝である。インクが出る分だけ空気が入るようにすると、流れが安定した。持ち歩けるペンは、事務員、記者、旅行者の道具になる。署名はその場でできるものになり、契約の作法も変わった。ニューヨーク
- 最初の摩天楼できごとAD1885年組積造では、高くするほど下の壁を厚くしなければならない。十六階建てなら、一階の壁が二メートルを超える。窓も床面積も失われる。ウィリアム・ル・バロン・ジェニーは、シカゴのホーム・インシュアランス・ビルで、鉄と鋼の骨組みに建物の重さを負わせ、壁を単なる覆いにした。十階、四十二メートル。壁が薄くなり、大きな窓が開いた。エレベーター、鉄骨、電話、そして大火の後の地価が、同じ場所で重なった。シカゴ
- 安全型自転車の登場できごとAD1885年誰でも乗れる自転車1817年、ドイツのドライスが足で地面を蹴って進む二輪の乗り物を作り、のちに前輪にペダルがつき、速さを求めて前輪が巨大になった。だが高い座席の自転車は転ぶと危なかった。1885年、イギリスのコヴェントリーのジョン・ケンプ・スターレーは、前後同じ大きさの車輪をつけ、ペダルの力を鎖で後輪に伝える「ローヴァー」を売り出した。3年後には空気を入れたゴムのタイヤも現れた。誰でも安全に乗れる自転車は、1890年代に欧米で大流行し、とくに女性に、付き添いなしで自由に出歩く手段を与えた。コヴェントリー
- クラレンス・バーズアイ人物AD1886年12月9日 – AD1956年10月7日ニューヨーク州の生まれ。学費が続かずアマースト大学を中退し、農務省の生物調査員になった。1912年からラブラドルで毛皮を商い、そこで先住民の凍結の方法を見た。帰国後、二枚の金属板で挟む急速冷凍装置を作り、1924年に会社を興す。1929年、それをポストラム社に2,200万ドルで売った。生涯に約300の特許を取っている。捕鯨用の銛、赤外線ランプ、製紙用のパルプ、そして電球。晩年は心臓を病み、六十九歳で死んだ。
- 穴をあけて綴じるできごとAD1886年ボンの文具業者フリードリヒ・ゾンネケンは、1886年、紙に穴をあける道具と、その穴に通して綴じる金具付きのファイルを売り出した。紙を重ねて縛ったり、糊で貼ったりしなくても、後から一枚ずつ差し込み、抜き出し、並べ替えられる。穴の位置と間隔を揃えておけば、どこの会社の紙も同じファイルに入る。事務の書類が増えていく時代に、紙を扱う手順が決まった。穴の間隔は、いまも規格として残っている。ボン
- ガソリンで走る車できごとAD1886年1月29日発明した夫と、世に売った妻マンハイムの技術者カール・ベンツは、小さなガソリンエンジンを積んだ三輪の車を作り、1886年1月29日に特許を出した。だが売れない。1888年の夏、妻のベルタは、夫に告げずに十代の息子二人と車に乗り、百キロほど離れた実家まで走った。燃料は途中の薬局で買い、詰まった管は帽子のピンで直したと伝えられる。この遠出が評判になり、改良の手がかりにもなった。自動車は、動くことを証明してみせた者によって世に出た。マンハイム
- コカ・コーラの誕生できごとAD1886年瓶詰めの仕組みが世界へ運ぶ1886年、アメリカ南部のアトランタで、薬剤師のジョン・ペンバートンは、コカの葉とコーラの実のエキスを混ぜたシロップを作り、薬局の売り場で炭酸水に割って売り出した。はじめは頭痛や疲れに効く飲み物とうたわれている。町では酒を禁じる動きが強まっていて、酒に代わる飲み物でもあった。権利を買い取ったエイサ・キャンドラーは、広告と瓶詰めの工場の仕組みで全国に広げる。コカインを含む葉は、20世紀の初めに成分を抜いたものに替えられた。第二次世界大戦では、兵士のいる場所へ一本5セントで届けると約束し、アメリカの生活の象徴として世界に広まった。アトランタ
- 持ち歩ける電池できごとAD1887年電気を持ち歩けるようになって、機械の形が変わったヴォルタ以来の電池は、液体を使う。傾ければこぼれ、寒ければ凍る。持ち運べない。日本の屋井先蔵は、電池で動く時計を作ろうとして、この不便に突き当たった。彼は液をのり状にして漏れないようにし、外側を亜鉛の筒にした乾電池を1887年ごろ作った。特許を取る金が無く、同じころドイツでも同様の電池が作られている。広まったのは日清戦争のころで、寒さの厳しい戦地でも使えると評判になった。電気を持ち歩けるようになって初めて、懐中電灯も、携帯できる機械も成り立つ。東京
- 電流戦争できごとAD1888年エジソンの直流とテスラの交流が争った。エジソン側は公開の場で動物を感電させて交流の危険を示した。勝ったのは交流で、世界の送電はそれに倣う。ニューヨーク

- タイムレコーダーできごとAD1888年機械が押した数字は、争えないニューヨーク州オーバーンの宝石商ウィラード・バンディが、従業員ごとの鍵を差し込むと、時刻が紙に打刻される装置を作った。それまで、出勤と退勤は監督者が帳面に書き留めていた。争いが絶えない。機械が押した数字は、争えない。労働が時間で測られ、時間で支払われるという形が、ここで完成する。彼の会社は合併を重ね、1924年にIBMという名になった。時計を作っていた会社が、後に計算機の会社になった。ニューヨーク
- トマス・ミジリー人物AD1889年5月18日 – AD1944年11月2日発明家の家に生まれ、コーネルで機械工学を修めた。ゼネラルモーターズで、ノッキングを止める添加剤として四エチル鉛を見出し、1921年に実用化した。工場で作業員が中毒死し、彼自身も鉛中毒で療養している。それでも安全だと記者会見で主張した。1930年、無毒な冷媒としてフロンを開発。二つとも大規模に普及し、二つとも後に世界的な規制の対象になった。晩年、ポリオで身体が動かなくなり、自作の滑車装置に絡まって死んだ。
- ホレリスのパンチカードできごとAD1890年穴が水銀に触れて回路がつながる1880年のアメリカの国勢調査は、集計に7年かかった。次の調査が始まるまでに終わらない。技師ハーマン・ホレリスは、鉄道の車掌が切符に乗客の特徴をパンチで刻むのを見て思いついた。人ひとりを1枚のカードにし、穴の位置で属性を表す。カードを機械に通すと、穴を通った針が水銀に触れて回路がつながり、計数器が回る。1890年の調査は、人口の速報が6週間で出た。彼の会社が合併を重ねてIBMになる。国家が人を数えるために、計算機の産業が生まれた。ワシントンD.C.
- バスケットボールの考案できごとAD1891年けがの原因から規則を設計したマサチューセッツのYMCA訓練校で、体育の教師ジェームズ・ネイスミスが、上司から2週間の宿題を出された。冬の間、屋内でできる、退屈しない運動を考えよ。彼は既存の競技を分解して、けがの原因は走りながらの接触だと考えた。だからボールを持って走ることを禁じ、得点する的を頭より高い水平の位置に置いた(上から落とすので、強く投げても意味がない)。桃を入れる籠を手すりに釘で打ちつけた。13条の規則を紙に書いて壁に貼った。最初の試合の得点は1対0だった。スプリングフィールド
- 交換手を外すできごとAD1891年間に人が入ることそのものを外そうとした初期の電話は、交換手に相手の名を告げてつないでもらう仕組みだった。葬儀屋のアルモン・ストロージャーは、町の依頼が競合の店にばかり回ると疑った。交換手が、競合の妻だったという話が伝わっている。彼は人手を介さずにつながる仕掛けを考え、電磁石で腕を段ごとに動かして接点を選ぶ装置を作った。番号を回すと、その回数だけ腕が動く。ダイヤル式の電話は、この装置に合わせて生まれた。人が人をつなぐ仕事が、機械に置き換わった早い例になる。カンザスシティ
- シアーズの目録できごとAD1893年アメリカの農村では、雑貨屋が一軒しかなく、品数も値段も、その主人が決めていた。鉄道の駅員だったリチャード・シアーズが、売れ残りの時計を通信で売ったのが始まりである。分厚い目録を無料で配り、鉄道と郵便で届けた。品数は十万を超え、衣類、農具、楽器、薬、そして組み立て式の住宅まで載った。字の読める者が家族に読み聞かせた。地方の値段が、全国の値段に引き寄せられる。1970年代まで、アメリカ最大の小売業者だった。シカゴ
- 動く歩道できごとAD1893年建物が大きくなりすぎたときに、歩く速さを機械が肩代わりするシカゴ万国博覧会の桟橋に、環状の動く歩道が掛けられた。二重になっていて、外側は立ったまま、内側は腰を掛けたまま運ばれる。船着き場から会場までの数百メートルを歩かせないための仕掛けで、乗客を運んだというより、来場者に未来を見せる展示だった。七年後のパリ万博では三重の速度差を持つ版が現れ、乗り移りながら加速する。歩く速さを機械が肩代わりするという発想は、ここから空港や地下通路へ移り、いまでは長い乗り換え通路の標準になっている。シカゴ
- X線の発見できごとAD1895年11月8日特許を取らなかったヴィルヘルム・レントゲンが、黒い紙で覆った真空管を暗室で放電させると、離れた蛍光板が光った。未知の線。「X線」。7週間、研究室に籠もった。12月22日、妻アンナ・ベルタの手を15分、写真乾板に。骨と結婚指輪が写った。「私は自分の死を見た」と彼女は言った。特許を取らなかった。翌年、世界中の病院が使い始めた。1901年、第1回ノーベル物理学賞。ヴュルツブルク
- リュミエールの映画上映できごとAD1895年12月28日未来のない発明グラン・カフェの地下「インドの間」。入場料1フラン。33人。『工場の出口』『水をかけられた散水夫』。50秒ずつ、10本。翌年から上映した『列車の到着』では、列車が向かって来て、客が逃げた、と伝える。シネマトグラフ。撮影機で映写機で焼付機。リュミエール兄弟は「未来のない発明」と言った。翌年、世界中で興行し、日本には1897年。パリ
- ウォーレス・カロザース人物AD1896年4月27日 – AD1937年4月29日アイオワの生まれ。商業学校の教師の子で、化学を独学に近い形で修め、イリノイ大学で学位を得た。ハーヴァードで教えていたところをデュポンに招かれ、基礎研究の部門を率いた。高分子が長い鎖であることを合成によって示し、ネオプレンとナイロンを生んだ。若い頃から重いうつを繰り返し、青酸カリのカプセルを常に持ち歩いていた。妹の死の後、ホテルの一室でそれを飲んだ。四十一歳。娘が生まれたのは、その七か月後である。
- エスカレーターできごとAD1896年コニーアイランドの遊園地に、傾いた板が環になって回り続ける乗り物が置かれた。乗る人は横向きに座り、坂を運ばれる。遊具として作られたそれが、まもなく段の付いた形になり、デパートの階段脇に置かれる。止まらずに流れ続けるので、待ち行列ができない。エレベーターが一度に運ぶ人数で限られるのに対し、こちらは人の流れそのものを上下させる。売り場を上の階まで見せたい商業建築と相性がよく、地下鉄の深い駅を実用にしたのも、この仕組みだった。ニューヨーク
- アスピリンできごとAD1897年効くものをまず使い、なぜ効くかを知ったのは七十年後だった柳の樹皮が熱と痛みに効くことは古くから知られ、そこからサリチル酸が取り出されていた。だがそのままでは胃を荒らし、飲み続けられない。バイエル社のフェリックス・ホフマンが、分子の一部をアセチル基に置き換えた。効き目は残り、胃への負担が減る。父のリウマチのためだったという話が伝わるが、上司アルトゥル・アイヒェングリュンが自分の指示だったと後に主張した。彼はユダヤ人で、ナチス期に会社の歴史から名前を消された。世界で最も多く飲まれた薬の、功績の帰属は、いまも定まっていない。エルバーフェルト
- ラジウムの発見できごとAD1898年数トンの鉱石から0.1グラムを取り出した。放射能という現象が物質の性質だと分かる。パリ
- ジョゼフ・ニーダム人物AD1900年12月9日 – AD1995年3月24日ケンブリッジの生化学者が、中国語を学び、戦時の中国を旅して、中国の科学技術史を書く仕事に生涯を変えた。全27冊はまだ続いている。
- コンセントが合わないできごとAD20世紀初め最初に敷いた設備が、その後の百年を縛る電気が家に入り始めたころ、配線は電力会社ごと、器具は製造者ごとに作られた。差込口の形も、電圧も、周波数もばらばらである。各国が国内を統一するときには、すでに国ごとに違う形が広まっていた。あとから合わせるには、全部の家の配線と器具を替えねばならない。だから、いまも世界には十数種類の差込口が残っている。日本は、東西で周波数が違うという形で同じ問題を抱え込んだ。最初に敷いた設備が、その後の百年を縛る。規格は、早く決めた者が勝つのではなく、早く広めた者が勝つ。ロンドン
- 飛行船できごとAD1900年流されるだけの気球から、航路を選べる船へ気球は風に流されるままだが、骨組みを持ち、発動機で進む船なら航路を選べる。退役軍人のツェッペリン伯は私財と寄付を集め、ボーデン湖の上に浮かぶ格納庫で巨大な飛行船を組み立てた。1900年の初飛行は十八分で終わり、失敗と書かれたが、改良は続く。第一次世界大戦ではロンドンを爆撃し、戦後は大西洋を越える定期の旅客輸送を担った。船室で食事をし、寝台で眠って海を渡る。速さでは飛行機に劣っても、快適さでは勝っていた。フリードリヒスハーフェン
- ミシュランガイドの創刊できごとAD1900年タイヤを売るための案内の本1900年、フランスのタイヤの会社ミシュランの兄弟は、自動車に乗る人のために、ガソリンの買える店、修理の工場、泊まれる宿、食事のできる店を載せた小さな案内の本を作り、無料で配った。車で遠くへ出かける人が増えれば、タイヤが減り、売れるからである。当時フランスの車は三千台ほどしかなかった。1920年代から有料になり、1926年に料理のうまい店に星を付けはじめ、1931年に一つから三つ星の形が整う。三つ星は「そのために旅行する価値がある」店とされた。タイヤの販売の工夫が、世界の料理人の評価を左右する本になった。パリ
- マルコーニの大西洋横断無線できごとAD1901年12月12日点3つコーンウォールのポルデューから3500キロ、ニューファンドランドのシグナル・ヒルで、凧で上げたアンテナで、モールスの「S」(点3つ)を聞いた。地球は丸いのに電波が届いた(電離層で反射した。当時は知らなかった)。聞こえたか怪しい、と言う人がいる。1909年、ノーベル賞。1912年、タイタニックの遭難信号で700人が助かった。ラジオはここから。セントジョンズ
- 安全剃刀できごとAD1901年道具が先にでき、必要はあとから作られる剃刀を自分で研ぐのは技がいる。だから男は床屋へ通った。1901年、キング・ジレットが、使い捨ての薄い刃を挟む剃刀を売り出す。本体を安く配り、刃で儲ける売り方の原型になった。第一次世界大戦で、アメリカ軍が兵に配る。防毒面を顔に密着させるには髭が邪魔だった、という事情もある。帰還した兵が家でも剃るようになり、床屋へ行く回数が減った。やがて同じ会社が女性向けの剃刀を売り、脇と脚を剃る習慣を広告で作っていく。ボストン
- 吸い取る掃除機できごとAD1901年掃除が、業者の仕事から家電の仕事になった埃は掃いても舞い上がって、また落ちる。技師ヒューバート・セシル・ブースは、吹き飛ばすのではなく吸い込めばよいと考え、1901年に特許を取った。機械は馬車ほどの大きさで、家の前に停めた車から長い管を窓へ通して使う。1902年、国王の戴冠式の前にウェストミンスター寺院の絨毯を掃除して名を上げた。家の中に入る小型の掃除機が広まるのは、電気が各家庭に来てからである。掃除は、家の外から来る業者の仕事から、家の中の家電の仕事になった。ロンドン
- 八幡製鉄所できごとAD1901年鉄は、軍艦にも鉄道にも橋にも要る。国産の鉄を作るため、政府は日清戦争の賠償金の一部を使い、北九州の八幡に官営の製鉄所を建てた。筑豊の炭鉱の石炭と、中国の鉄鉱石を運び込んで使う。1901年、最初の高炉に火が入った。はじめは故障が続いたが、やがて国内の鉄の大半を生み出すようになる。煙突の煙は繁栄の印とされた。のちの公害も、同じ煙から生まれた。八幡(北九州)
- カルーソーの録音できごとAD1902年当時の録音は音が悪く、まともな歌手が吹き込むものではないとされていた。1902年、レコード会社の技師ゲイスバーグは、ミラノのホテルの一室にピアノを運び込み、若いテノール歌手エンリコ・カルーソーに十曲を歌わせた。録音は数時間で終わり、彼は高額の報酬を受け取った。出来上がった盤は、それまでのどの録音より声がよく通った。人々は、歌手を見に行かなくても、その声を家で聴けることを知る。カルーソーは録音で世界的に知られた最初の音楽家になり、レコードは記録の道具から、売り物としての音楽になった。ミラノ
- 空気を調えるできごとAD1902年7月17日目的は人の快適さではなく、紙の寸法だったブルックリンの印刷工場が困っていた。夏になると紙が湿気で伸び縮みし、色が重ならない。若い技師ウィリス・キャリアは、冷やした管に空気を通せば水分が結露して落ちることに着目し、温度と湿度を同時に制御する装置を設計した。目的は人の快適さではなく、紙の寸法である。工場、繊維、たばこ、薬品と広がり、1925年にニューヨークの映画館が導入すると、夏の興行が成り立つようになった。人が涼しさに金を払うと分かってから、この技術は建物そのものの形を変えていく。ニューヨーク
- ライト兄弟の初飛行できごとAD1903年12月17日12秒、36メートル。翼を大きくすることでもエンジンを強くすることでもなく、操縦の問題として解いた。新聞はほとんど報じなかった。キティホーク
- 瓶を機械で作るできごとAD1903年瓶は、職人が吹いて作るものだった。熔けた硝子を竿の先に巻き取り、息を吹き込む。熱い工場で、竿を運ぶ少年が働いていた。1903年、マイケル・オーウェンズが自動製瓶機を完成させる。硝子を吸い上げ、型に入れ、空気で膨らませる工程を機械が続ける。一台で職人数十人ぶんを作った。瓶の値段は数分の一になり、牛乳も薬も飲み物も瓶で売られるようになる。同時に、硝子工場から少年たちが消えた。児童労働の廃止は、法よりも機械が先に決めた面がある。トレド(オハイオ)
- 眠り薬できごとAD1903年エミール・フィッシャーとヨーゼフ・フォン・メーリングが、眠りを誘う化合物バルビタールを見つけ、1903年に売り出された。商品名はヴェロナール。阿片や臭化物よりも扱いやすい薬として、世界中で使われる。だが効く量と死ぬ量が近く、誤って飲み過ぎる事故と自殺が相次いだ。依存もはっきりしていく。1960年代に、より安全なベンゾジアゼピンが取って代わった。眠れないという訴えは古いが、それを薬で解決するという発想は、ここから大衆のものになった。ベルリン
- 第1回ツール・ド・フランスできごとAD1903年7月1日フランスのスポーツ新聞『ロト』の編集長アンリ・デグランジュは、ライバルの新聞との部数の争いに勝つため、フランスを一周する自転車の競走を企画した。1903年7月1日、60人の選手がパリの郊外を出発し、リヨン、マルセイユ、トゥールーズ、ボルドー、ナントを回って、6区間、二千四百キロあまりを走った。勝ったのは、煙突掃除夫だったモーリス・ガランだった。新聞は日々の戦いを書き立てて部数を伸ばした。翌年の大会では、列車に乗るなどの不正が相次いだ。ツールは毎年夏に開かれる大会となり、のちには薬物の使用の発覚にもたびたび揺れた。パリ
- シベリア鉄道の開通できごとAD1904年9289キロモスクワからウラジオストクまで9289キロ(1904年は満洲の東清鉄道を通り、ロシア領だけの全線は1916年)。1891年、皇太子ニコライがウラジオストクで鍬入れした(大津事件の直後)。囚人と農民と中国人の労働。永久凍土、バイカル湖(初めは船で渡し、1904年に環状線)。日露戦争に間に合わせるために突貫した。ロシアが東を「領土」として持てるようになった。ヨーロッパとアジアを7日で結ぶ、いまも世界最長の鉄道。ウラジオストク
- ドレッドノートの進水できごとAD1906年2月10日1906年2月10日、イギリスのポーツマスの造船所で、新しい戦艦ドレッドノートが国王エドワード7世の手で進水した。それまでの戦艦は、大きさの違う砲をいくつも積んでいたが、ドレッドノートは同じ大口径の砲を10門そろえ、蒸気タービンで当時としては速い21ノットを出した。起工からおよそ1年で就役している。この一隻で、世界のすべての戦艦が一度に古くなった。ドイツはすぐに同じ型の戦艦を造り始め、英独の建艦の競争は第一次世界大戦へとつながる。日本語の「弩級」「超弩級」は、この艦の名の頭の音から来ている。ポーツマス(イギリス)
- SOSの採用できごとAD1906年11月3日雑音の中でも聞き分けられる合図無線の電信が船に積まれるようになると、遭難した船が助けを呼ぶための合図が必要になった。マルコーニの会社の無線士は「CQD」を使っていたが、国ごとに合図が違っていた。1906年11月3日、ベルリンで開かれた国際無線電信会議は、短点3つ、長点3つ、短点3つの合図を、世界共通の遭難の信号と決め、1908年に使われ始めた。文字の意味ではなく、雑音の中でも打ちやすく聞き分けやすいことから選ばれた。1912年、タイタニック号の無線士がこの合図を打ち、SOSは広く知られるようになった。ベルリン
- 湯川秀樹人物AD1907年1月23日 – AD1981年9月8日中間子の存在を予言し、日本人で初めてノーベル賞を受けた。戦後は核兵器廃絶を訴える側に立つ。
- ベークライトと合成樹脂できごとAD1907年天然にない物質ベルギー生まれの化学者レオ・ベークランドが、フェノールとホルムアルデヒドを圧力鍋のような容器で反応させた。できたのは、熱で固まり、二度と溶けない樹脂である。天然にない、まったく新しい物質だった。電気を通さず、熱に強く、型に流せば何にでもなる。電話機、ラジオの筐体、電気の絶縁部品、玉突きの球、装身具。「千の用途を持つ素材」と宣伝された。以後、人類は、分解されない物質を作り続けることになる。ヨンカーズ
- 鳩のカメラできごとAD1907年鳥は、手紙を運ぶものから、上から見るものになったドイツの薬剤師ユリウス・ノイブロンナーは、近くの療養所との間で、処方箋や薬を伝書鳩に運ばせていた。あるとき一羽が霧で迷い、四週間も戻らなかった。どこを飛んでいたのか知りたくなった彼は、鳩の胸に付けられる小さく軽いカメラを作った。時計仕掛けで、飛んでいる途中に自動でシャッターが切れる。空から撮った町の写真は、博覧会で人々を驚かせた。飛行機がまだ珍しかった時代、軍はすぐにこれを偵察に使えないかと考えた。鳥は、手紙を運ぶものから、上から見るものになった。クロンベルク
- 電気洗濯機できごとAD1908年一週間分に丸一日洗濯は、家事の中で最も重い労働だった。水を汲み、湯を沸かし、灰汁で煮て、板でこすり、絞り、干す。一家族の一週間分に丸一日かかった。1908年、シカゴのアルヴァ・フィッシャーが、電動機で回す洗濯桶「トール」を売り出した。1920年代にアメリカの家庭に普及し、1950年代に日本へ。歴史家ルース・シュウォーツ・コーワンは、家電が普及しても主婦の家事時間はほとんど減らなかったと指摘した。基準が上がり、外注していた仕事が家に戻ったからである。シカゴ
- うま味の発見できごとAD1908年第五の基本味東京帝国大学の池田菊苗が、昆布だしの味は甘・酸・塩・苦のどれでもない第五の味だと考え、38キロの昆布を煮詰めてグルタミン酸ナトリウムの結晶を取り出した。「うま味」と名づけた。翌年、鈴木製薬所が「味の素」として売り出した。西洋の生理学は長くこれを認めず、2000年に舌のグルタミン酸受容体が見つかって、ようやく第五の基本味として受け入れられた。だしも、チーズも、トマトも、同じ分子を含んでいる。東京
- 娯楽としてのキャンプできごとAD1908年仕立屋のトマス・ハイラム・ホールディングは、少年期に幌馬車の隊で北米の草原を渡った経験を持っていた。自転車が普及すると、軽い装備で野営して回る仲間を集め、1901年に自転車野営者協会を作る。1908年の『キャンプ入門』が広く読まれた。屋外で寝ることが、貧しさではなく選択になる。同じころスカウト運動が始まり、野営が少年の教育に組み込まれた。都市に住む者が、そこから離れることを、わざわざ買うようになった。ロンドン
- T型フォードできごとAD1908年10月1日一つの車種が、国の形を作り替えた自動車は長く金持ちの道楽だった。1908年10月1日、フォード社は、丈夫で修理しやすく、悪路も走れる車を売り出す。T型である。流れ作業で作るようになると値段は下がり続け、1920年代には発売時の三分の一以下になった。二十年近くで千五百万台が売れる。色は黒しか選べない、と言われた時期もあった。農民も労働者も車を持つようになり、道路が整備され、町は郊外へ広がった。一つの車種が、国の形を作り替えた。デトロイト
- 信用格付けの始まりできごとAD1909年鉄道債券の山鉄道の債券が大量に発行され、投資家はどれが危ないか分からなかった。ジョン・ムーディーが、鉄道会社の債券を調べ、AaaからCまでの記号で並べた冊子を売り出した。1916年にプアーズ、1922年にスタンダード統計、1924年にフィッチ。当初は投資家が買う情報誌だったが、1970年代から、格付けを受ける側が料金を払う方式に変わった。評価される者が評価する者に金を払う。この構造が、2008年の金融危機で厳しく問われた。ニューヨーク
- 待ち行列の理論できごとAD1909年コペンハーゲン電話会社の技師アグナー・アーランは、交換機の回線を何本用意すべきかを問われた。多すぎれば無駄、少なければ客が繋がらない。彼は通話の発生を確率の過程として扱い、待たされる確率と、諦める確率を式にした。1909年の論文が、この分野の出発点である。以後、道路、病院、工場、そして計算機の設計に使われた。行列は、平均で足りているときでも生じる。到着がばらつくからである。それが、この理論の中心にある。コペンハーゲン
- 脚気とビタミンの発見できごとAD1910年論文が日本語だった白米ばかりを食べる海軍と陸軍で、脚気が猛威をふるった。明治の日本では、これを細菌の病と考える東大・陸軍と、食事の問題と考える海軍軍医の高木兼寛が対立した。高木が兵食に麦と洋食を混ぜて発症を止めても、原因物質は分からない。1910年、鈴木梅太郎が米糠から有効成分を取り出し、のちにオリザニンと名づけた。論文が日本語だったため、翌年ポーランドのフンクが独立に見つけた「ビタミン」の名が世界に残った。東京
- ウィリアム・ショックレー人物AD1910年2月13日 – AD1989年8月12日8人の裏切り者ロンドン生まれ、パロアルト育ち。MIT。ベル研究所。トランジスタの理論。1956年、ノーベル賞。同じ年、マウンテンビューにショックレー半導体研究所。天才を集めて、疑い、嘘発見器を使い、1957年、8人が辞めた。「8人の裏切り者」。フェアチャイルド、インテル、AMD、ベンチャーキャピタル。シリコンバレーは彼から逃げた人たちが作った。晩年、人種と知能について語って、嫌われた。
- 科学的管理法できごとAD1911年フレデリック・テイラーは、製鋼所で、労働者が意図的に手を抜いていると考えた。作業を要素に分解し、ストップウォッチで測り、最も速い手順を決め、それを守らせる。銑鉄を運ぶ量が一人あたり数倍になったと彼は書いた。数字には脚色があると、後の検証が指摘している。核心は、作業の知識を職人の手から取り上げて、管理する側に移すことである。労働者は考えなくてよい、と彼は明言した。効率は上がり、そして仕事は分解された。フィラデルフィア
- アラン・チューリング人物AD1912年6月23日 – AD1954年6月7日「計算できるとはどういうことか」を機械の形で定義した。大戦中は暗号解読に従事する。戦後に同性愛を理由に有罪となり、41歳で死んだ。
- タイタニックの沈没できごとAD1912年4月15日救命艇は半分処女航海の4日目、夜11時40分に氷山と接触し、2時間40分で沈んだ。2224人のうち1514人が死んだ。救命艇は定員の半分ぶんしかなく、法令はそれを満たしていた(船の大きさでなく総トン数で決める古い規則)。無線技士は氷山の警告を「取り込み中」と断っていた。翌年の海上人命安全条約(SOLAS)で、全員分の救命艇、無線の24時間当直、氷山監視が定められた。タイタニック沈没地点

- フォードの流れ作業できごとAD1913年12時間半が93分にハイランドパーク工場。シカゴの食肉工場の「解体の流れ」を逆にした。組み立てる物が動き、人は動かない。T型フォード1台の組み立てが12時間半から93分に。値段は850ドルから260ドルへ。1914年、日給5ドル(当時の倍)と8時間労働。「私の工場の労働者が、自分の作る車を買えるように」。単純な動作の繰り返し。チャップリンが『モダン・タイムス』で笑った。ハイランドパーク(デトロイト)
- ハーバー・ボッシュ法できごとAD1913年空気から肥料空気の窒素を肥料に変える工場が動いた。土地が養える人の数が、この日から別の桁になる。いまの人口の半分は、この方法で作った窒素でできている。ルートヴィヒスハーフェン

- ファスナーできごとAD1913年留めるという同じ仕事に、新しい答えが出るまで七百年靴のボタンを留めるのは面倒だ、という不満から始まった。最初の試作は外れやすく、二十年ほど売れない。1913年、ギデオン・サンドバックが、同じ形の歯をかみ合わせる方式にたどり着いた。第一次世界大戦で軍が採用し、金の袋と救命胴衣に使われる。服に入るのはさらに後で、子ども服が最初だった。自分で着替えられるから、という理由である。1930年代、男性のズボンに採用されると一気に広まった。名は、閉じるときの音から付いた擬音語である。ミードビル
- リョコウバトの絶滅できごとAD1914年9月1日電信で群れの位置を知らせたかつて北アメリカで最も数の多い鳥だった。推定50億羽。群れが通ると空が数日暗くなったと記録されている。1860年代から、電信で群れの位置を知らせ、鉄道で運ぶ商業的な狩猟が始まった。この鳥は密集して繁殖するので、繁殖地を襲えば一挙に絶える。40年で消えた。最後の一羽マーサが、1914年9月1日午後1時、シンシナティ動物園で死んだ。これほど多い種でも絶滅しうるという事実が、アメリカの自然保護法制を動かした。シンシナティ
- パナマ運河の開通できごとAD1914年8月15日蚊を絶ってから掘ったフランスのレセップス(スエズの成功者)が1881年に着工し、海面式にこだわり、マラリアと黄熱で2万人以上を失って破綻した。アメリカが引き継ぎ、コロンビアが条件を拒むとパナマの独立運動を支援して新国家を承認し、運河地帯の権利を得た。ゴーガスが蚊を絶ち、閘門式に設計を変え、山を切り、川をせき止めて人造湖を作った。ニューヨークからサンフランシスコへの航路が、およそ1万3千キロ短くなった。1999年、パナマに返還された。パナマ運河
- 二枚のハンカチできごとAD1914年十九世紀の女性は、鯨のひげや鋼の骨を入れたコルセットで胴を締め上げた。息が浅くなり、内臓が押されると医師も警告していた。ニューヨークの社交界にいたメアリー・フェルプス・ジェイコブは、薄いドレスからコルセットの骨が透けるのを嫌い、二枚のハンカチとリボンで胸を覆う下着を作った。1914年に特許を取る。第一次世界大戦では、アメリカ政府が鋼の節約のためコルセットを控えるよう呼びかけたと言われる。締める下着から、支える下着へ変わった。ニューヨーク
- 拡声器できごとAD1915年12月24日声の届く範囲が、肺の力ではなく電気の量で決まったデンマーク生まれのピーター・イェンセンとエドウィン・プリダムは、電磁石で振動板を動かす仕組みを大きくして、音を空気へ押し出す装置を作った。1915年12月24日の夜、サンフランシスコ市庁舎前の広場に置かれた喇叭から、音楽と演説が流れた。十万人が集まったと伝えられ、後ろのほうでも聞き取れたという。数日後には、病気で出られない州知事の声を、自宅から線で運んで会場に流した。この日から、一人の声が届く範囲は、肺の力ではなく電気の量で決まるようになる。サンフランシスコ
- 削らない鉛筆できごとAD1915年書く道具の歴史は、手間を一つずつ外していく歴史になる鉛筆は削らなければ書けない。小刀を使い、削りかすが出て、短くなれば持てなくなる。金属の軸に芯を送り込む筆記具は十九世紀から各国で試みられ、日本では早川徳次が1915年に繰り出し式の製品を作った。ねじの機構で芯を少しずつ押し出す。金属の軸は冬に冷たいと言われて国内では売れず、欧米で先に評判になって逆輸入された。彼の会社は、のちに家電の会社として名を残す。削るという手間を一つ消しただけの道具だが、それだけで持ち歩き方と使い方が変わった。東京
- 時計を一時間進めるできごとAD1916年4月30日イギリスの建築業者ウィリアム・ウィレットは、夏の朝、日が昇っているのに人々が寝ているのを惜しみ、夏のあいだだけ時計を進めようと唱えた。議会は相手にしなかった。実行したのは、第一次世界大戦のさなかのドイツである。1916年4月30日の夜十一時、ドイツとオーストリア=ハンガリーは時計を一時間進めた。夕方の明かりに使う石炭を節約するためだった。三週間後にはイギリスも追いかけた。時計の針は太陽の位置ではなく、国が決めるものになった。日本も占領下の四年間だけ、この制度を試している。ベルリン
- ツィンメルマン電報できごとAD1917年1917年1月、ドイツの外務大臣ツィンメルマンは、メキシコの政府に暗号の電報を送った。アメリカが参戦するなら、ドイツと組んでアメリカと戦ってほしい、勝てばテキサスなどの失った土地を取り戻させる、という申し出である。イギリスの暗号解読班がこれを読み解き、アメリカに渡した。3月に新聞で公表されると、中立を保ってきたアメリカの世論は一気に傾く。4月6日、アメリカは参戦した。暗号を解く力が、戦争の行方を変えた。ワシントンD.C.
- シェール・アミできごとAD1918年10月4日第一次世界大戦の終わり近く、アルゴンヌの森で、アメリカ軍の一個大隊がドイツ軍に囲まれて孤立した。数日目、味方の砲兵が、大隊のいる場所をドイツ軍の陣地と取り違えて砲撃を始めた。無線は無い。指揮官は、残る最後の伝書鳩に「我々の砲撃が我々の上に落ちている。頼むから止めてくれ」と書いた紙を託した。鳩は撃たれて胸と脚に傷を負いながら、四十キロ離れた鳩舎まで飛び、砲撃は止んだ。生き残った兵は二百人足らずだった。フランス語で「親しい友」という名のこの鳩は、いまもワシントンの博物館にいる。アルゴンヌの森(位置は特定されていない)
- 二股ソケットの町工場できごとAD1918年暮らしの小さな不便から九歳で丁稚奉公に出た松下幸之助は、電灯会社で働いたのち、1918年、大阪の借家で妻と義弟と三人で電気器具の製造を始めた。一つの電灯の口から、電灯と家電の二つに電気を取れる二股のソケットが売れる。当時の家は、電気の口が天井の電灯しかなかった。のちに、水道の水のように良い品を安く大量に届けて貧しさをなくす、という考えを掲げ、家電の大企業を育てる。暮らしの小さな不便から、日本の家電の時代が始まった。大坂
- 最初のラジオ放送できごとAD1920年11月2日一対一から一対多へウェスティングハウス社の技師が、大統領選挙の開票を電波に乗せた。局名KDKA。聴取者は数百人。無線は、それまで船と船、軍と軍が一対一で交わすものだった。これを、名も知らぬ多数へ一方的に送る(放送する)という考え方が生まれた。5年で全米に500局。音楽と、野球と、そして広告。政治家の声が、家の中に入った。ヒトラーもローズヴェルトも、この装置を使った。ピッツバーグ
- アラステア・ピルキントン人物AD1920年1月7日 – AD1995年5月5日同名の硝子会社の創業家とは血縁が無い。ケンブリッジで機械科学を学び、第二次大戦でクレタ島で捕虜になり、二年半を収容所で過ごした。復員して学業を終え、1947年にピルキントン社へ入った。1952年、皿洗いをする妻の手元で、水に浮いた油の膜を見て着想したと語っている。会社は七年、成果の出ない試験に金を出し続けた。1973年から社長。特許を高圧的に使わず、実施権を広く許諾したことで方式が世界標準になった。
- 貼る絆創膏できごとAD1920年小さな傷を、自分で手当てする医療品会社で綿の仕入れをしていたアール・ディクソンの妻は、台所でよく指を切った。ガーゼを当てて粘着テープで留めても、一人ではうまく巻けない。ディクソンは、テープの上に小さなガーゼを並べて貼り、上から布をかぶせておけば、切って一枚ずつ使えると考えた。1920年のことである。会社が製品にしたが、はじめは手作りで売れ行きも鈍かった。機械で作り、無菌にし、兵士に配られて広まる。小さな傷を自分で手当てするのが、当たり前になった。ニューブランズウィック
- インスリンの発見できごとAD1922年診断から1年で死ぬ病だった糖尿病は、それまで死ぬ病だった。子どもは診断から1年ほどで痩せて死んだ。トロント大学で、外科医バンティングと学生ベストが、犬の膵管を縛って外分泌の組織を萎縮させ、残った膵島の抽出液を取り出した。1922年1月、14歳のレナード・トンプソンに注射した。血糖が下がった。生化学者コリップが精製法を改良し、マクラウドが研究室を貸した。特許は1ドルで大学に譲られた。「私たちのものではない。世界のものだ」。トロント
- クリスチャン・バーナード人物AD1922年11月8日 – AD2001年9月2日兄は5歳で死んだケープ州の貧しい牧師の家。兄は5歳で心臓病で死んだ。ケープタウン大学、そしてアメリカのミネソタ大学で心臓外科を学んだ。1967年、世界初の人から人への心臓移植。一夜で世界的な有名人になった。人種隔離政策の国から出た称賛に、批判も伴った(彼自身は病院の人種別の区分に反対した)。関節リウマチで手術ができなくなり、以後は講演と著述で過ごした。
- 紙の大きさできごとAD1922年紙の大きさが揃っていないと、綴じられず、封筒も合わず、複写もできない。ドイツの規格委員会は1922年、縦と横の比を一対ルート二にする紙の系列を定めた。この比なら、半分に折っても比が変わらない。一平方メートルの紙をA0とし、折るごとにA1、A2と番号が増える。拡大と縮小が単純な倍率で済むので、複写機と相性がよかった。ヨーロッパから世界へ広がり、いま国際規格になっている。採らなかった主な国はアメリカで、そこではレターサイズが使われ続けている。ベルリン
- ブロイラーの誕生できごとAD1923年16週1.1kgが6週2.7kgにデラウェアの主婦セシル・スティールが、注文した50羽の代わりに500羽の雛を受け取った。返さずに育てて売ったところ儲かった。数年で彼女は数万羽を飼っていた。それまで鶏は卵を取るもので、肉は廃鶏だった。ビタミンDの発見で日光なしに屋内飼育ができるようになり、抗生物質と配合飼料と、1948年の「明日のチキン」品評会による品種改良が続いた。1920年に出荷まで16週・体重1.1kgだったものが、いまは6週・2.7kgである。世界の鶏は230億羽を超える。デルマーバ半島
- ラジオの時報できごとAD1924年2月5日時刻が、向こうから届くものになった1924年2月5日、英国放送協会は、グリニッジ天文台の時計が送る六つの短い音を放送し始めた。最後の一音の始まりが正時である。電信や報時球で時刻を知れたのは、港や駅の近くにいる人だけだった。ラジオはそれを家の中へ運び、国じゅうの時計が同じ一秒に合わせられるようになる。日本でも放送が始まるとすぐ時報が流れた。時刻は、見に行くものから、向こうから届くものに変わった。グリニッジ
- フランクフルト・キッチンできごとAD1926年工場の動作研究を家庭へウィーン初の女性建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが、フランクフルト市の公営住宅1万戸のために設計した台所。6.5平方メートル。彼女は主婦の動きを撮影して歩数を数え、作業の順に棚と流しと竈を並べた。回転椅子、引き出し式の材料入れ、作り付けの収納、そして床の色まで(青は蝿が寄らないとされた)。工場の動作研究を家庭に持ち込んだのである。現代のシステムキッチンの原型になった。彼女自身は、後に「私は料理をしたことがなかった」と語っている。フランクフルト

- 週五日、四十時間できごとAD1926年1926年、ヘンリー・フォードは工場の労働を週五日、一日八時間にすると発表した。賃金は下げない。慈善ではないと彼は言った。休みのある労働者は、車に乗り、出かけ、物を買う。余暇が無ければ、大量に作った品は売れない。週末は、宗教の休息日と、消費のための時間とが重なって生まれた。アメリカで週四十時間が法律になるのは1938年である。休む時間は、働く時間の外側にあるのではなく、作って売る仕組みの一部として組み込まれた。デトロイト
- 動く像を電気で送るできごとAD1926年1月26日最初に見せた人と、残った方式は違うスコットランドの技術者ジョン・ロジー・ベアードは、穴をらせん状にあけた円板を回して像を細かい線に分け、電気の信号にして送る装置を、屋根裏の実験室で作り続けた。1926年1月26日、ロンドンの学者たちの前で、動く人の顔を別の部屋の画面に映してみせる。ぼんやりとした像だった。同じ年の暮れ、日本の浜松では、高柳健次郎が電子の束で像を描く方式で「イ」の字を映している。のちに勝ったのは、機械ではなく電子で描く方式だった。ロンドン
- 足を測るできごとAD1927年イギリスの靴のサイズは、大麦の粒の長さを単位にしていたと言われる。三粒で一インチ、その三分の一刻みで番号を付ける。既製の靴が広まると、この番号だけでは合わない人が続出した。足の長さが同じでも、甲の高さと幅が違う。1927年、アメリカのブラノックが、長さと幅と土踏まずの位置を同時に測る器具を作る。靴屋の床に置かれた金属の板である。以後、幅の表示が加わった。体を数字で表す試みは、既製服のサイズと同じく、規格と身体のずれを抱え続けている。シラキュース(ニューヨーク州)
- 除夜の鐘を中継するできごとAD1927年大晦日の夜に寺が百八つの鐘を撞く習わしは、もとは禅宗の寺などに限られていたとされる。1927年、東京のラジオ局が寛永寺の除夜の鐘を中継した。全国の家庭で同じ鐘の音を聞く年越しが生まれ、各地の寺もならって撞くようになる。多くの人がいまも古くからの習わしだと思っている年越しの形は、放送が作った面がある。近年は、夜中の鐘がうるさいという苦情で、昼に撞いたりやめたりする寺も出ている。東京
- 映画がしゃべるできごとAD1927年10月6日それまでの映画は声が無く、字幕と、映画館で弾かれる伴奏と、日本では弁士の語りで観た。1927年10月6日、ニューヨークで公開された『ジャズ・シンガー』は、歌の場面と数か所の台詞に、レコード盤に録って映写機と同じ速さで回す音をつけていた。主演のアル・ジョルソンが、まだ何も聞いちゃいないよ、と語りかけると、客席は沸いた。数年のうちに、映画は音の出るものになる。声の悪い俳優は消え、弁士と楽士は職を失った。ニューヨーク
- リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行できごとAD1927年5月21日大西洋をひとりで越えるニューヨークとパリを無着陸で結んだ者に2万5千ドルを贈るという賞を目指して、何組もの飛行家が挑み、命を落としていた。1927年5月20日の朝、25歳の郵便飛行の操縦士チャールズ・リンドバーグは、燃料を詰め込んだ単発の小さな機「スピリット・オブ・セントルイス」で、ニューヨークの飛行場を飛び立った。眠気と霧と戦いながら、ひとりで33時間半飛び続け、21日の夜、パリのル・ブルジェ飛行場に降りた。十万人ともいわれる群衆が押し寄せた。リンドバーグは世界の英雄になり、空の旅への関心は一気に高まった。パリ
- デシベルできごとAD1928年電話線は長いほど信号が弱る。技術者は当初、標準的な一マイルのケーブルの損失を単位に使っていた。ベル電話研究所が、それを比の対数として定義し直す。十分の一を意味する接頭語を付けて、デシベル。1928年に正式に採用された。比の対数だから、絶対値ではない。何と比べるかを決めなければ、数字にならない。音圧なら、若い健康な耳がかろうじて聞き取る大きさが基準である。人の感覚が対数に近いという経験則が、そのまま単位になった。ニューヨーク
- 折りたたみ傘できごとAD1928年持ち歩ける大きさが、習慣を変えた傘は畳んでも長い。杖のように持ち歩くのが前提で、鞄には入らなかった。1928年、ベルリンのハンス・ハウプトが、骨を入れ子にして縮む傘を考案する。歩行が不自由で杖を持つ必要があり、両手がふさがるのを避けたかったという。小人という意味の名で売り出され、鞄に入る傘が広まった。持ち歩けるようになると、人は雨が降る前から傘を持つようになる。天気予報を聞いて朝に判断するという習慣は、畳める傘があって初めて成り立った。ベルリン
- 宇宙が膨張しているできごとAD1929年口径2.5メートルの鏡ウィルソン山の口径2.5メートルの望遠鏡で、エドウィン・ハッブルは、遠くの星雲までの距離を測った。それらは、銀河系の中の雲ではなく、はるか外にある別の銀河だった。宇宙の大きさが、一挙に広がった。さらに、それらのスペクトルが赤くずれていた。遠いものほど、速く遠ざかっている。距離と速度が比例する。宇宙は、静止していない。膨張している。ルメートルが2年前に同じ結論を理論から導いていたが、フランス語の無名の雑誌に載っていた。ウィルソン山天文台
- フロンの発明できごとAD1930年安定であることが、そのまま問題の原因だった当時の冷媒はアンモニア、塩化メチル、二酸化硫黄である。漏れれば人が死ぬ。家庭用の冷蔵庫の事故が続き、代わりが求められた。ゼネラルモーターズのトマス・ミジリーが、本人の回想では三日で、ジクロロジフルオロメタンに行き着いた。無毒、不燃、無臭。彼は学会で吸い込んで蝋燭を吹き消してみせた。冷蔵庫が家庭に入り、エアコンが普及した。そして四十年後、この物質が成層圏でオゾンを壊すことが分かる。同じ人物が、有鉛ガソリンも世に出している。デイトン
- 急速冷凍できごとAD1930年速く凍らせれば、結晶が小さいゆっくり凍らせると、氷の結晶が大きく育ち、細胞の壁を破る。解けたとき、水が流れ出て、味も歯応えも失われる。クラレンス・バーズアイは、ラブラドルで先住民が氷点下四十度の外気で魚を一瞬に凍らせ、数か月後も生のように食べられることに気づいた。速く凍らせれば結晶が小さい。彼は二枚の冷えた金属板で挟む装置を作り、1930年、マサチューセッツ州スプリングフィールドの食料品店で試験販売した。冷凍庫を持つ家庭がまだ少なく、普及には二十年を要した。スプリングフィールド
- 空を測る気球できごとAD1930年天気を予報するには、地面の観測だけでは足りない。上空の気温と気圧と風を知る必要がある。凧や有人気球で測る試みは危険で、記録は降りてこないと読めなかった。1930年、ソ連のモルチャノフが、気球に小さな送信機を吊るし、測った値を電波で送る装置を飛ばした。使い捨てである。以後、世界中の観測所が毎日決まった時刻に同じ気球を上げるようになった。いまも日に二回、各国が同時に飛ばしている。数値予報の計算に入れる数字は、この気球が集めている。サンクトペテルブルク
- 電子顕微鏡できごとAD1931年ウイルスが初めて見えた光の顕微鏡には、原理的な限界がある。光の波長より小さいものは、見えない。おおよそ0.2マイクロメートル。ベルリン工科大学の学生エルンスト・ルスカと、指導者マックス・クノールが、電子の流れを磁界のレンズで曲げる装置を作った。電子の波長は、光よりはるかに短い。1933年、光学顕微鏡を超える倍率に達した。ウイルスが、初めて見えた。細胞の内部の構造が、見えた。ルスカがノーベル賞を受けたのは、55年後の1986年である。ベルリン
- 炉辺談話できごとAD1933年3月12日政治の言葉が、広場から家の中へ移った就任直後、ローズベルトは取り付け騒ぎを止めるために全国の銀行を閉めた。閉めたままでは終わらない。開けたときに、また人が押しかければ同じことになる。彼はラジオで、銀行に預けた金がどこへ行っているのかを、演説の口調ではなく、台所で話すような言葉で説明した。使った語の八割は、英語でもっともありふれた千語の中にあったという。翌日、多くの銀行が開いたが、行列はできなかった。名づけたのは放送局の側で、「炉辺談話」と呼ばれた。政治の言葉が、広場から家の中へ移った。ワシントンD.C.
- 折りたためる車椅子できごとAD1933年鉱山の事故で脊髄を傷めた技師ハーバート・エヴェレストは、重い木の車椅子では家の外へ出られなかった。友人の技師ハリー・ジェニングスと、鋼管をX字に組んだ折りたたみの車椅子を作る。1933年のことである。畳めば自動車に積めた。二人の会社は、のちにアメリカの市場をほぼ独占し、1970年代には独占として司法省に訴えられる。どこへ行けるかを決めていたのは足ではなく、道具の重さと、道と建物の造りだった。ロサンゼルス
- ロバート・モーグ人物AD1934年5月23日 – AD2005年8月21日ニューヨークの生まれ。十代でテルミンの組み立て品を売り、その稼ぎで学業を続けた。コーネル大学で工学物理の博士号。1964年、電圧制御の発振器を発表し、音を部品の組み合わせとして作る楽器を実用にした。特許で囲わなかったため規格が広まり、同時に会社は経営に苦しんだ。楽器は演奏者のためのものだという立場を最後まで崩さなかった。
- ダストボウルできごとAD1935年トラクターが草地を一斉に耕した南部大平原は、もともと丈の深い草の草原である。根が土を掴んでいる。第一次大戦の小麦の高値と、トラクターの普及で、その草地が一斉に耕された。1930年代、旱魃が来た。裸の土が、風に飛んだ。1935年4月14日の黒い日曜日、高さ数百メートルの砂の壁が来て、昼が夜になった。塵はシカゴを越えてワシントンまで届いた。数十万人が土地を捨てた。以後、土壌保全局が作られ、等高線耕作と防風林が推奨された。土は、資源であり、失えば戻らない。南部大平原
- 磁気テープ録音できごとAD1935年編集という行為が、音に対して可能になったAEGとBASFが、紙とプラスチックの帯に酸化鉄を塗った磁気テープと、録音機マグネトフォンを発表した。円盤と違い、長時間を切れ目なく録れ、そして切って貼れる。戦中のドイツ放送は、深夜に生演奏に聞こえる番組を流し、連合国の情報部を困惑させた。1945年、アメリカ軍の通信兵ジャック・マリンが装置を持ち帰る。ビング・クロスビーが番組の事前録音に使い、放送が生でなくてよくなった。編集という行為が、音に対して可能になった。ベルリン
- ナイロンできごとAD1935年2月28日デュポンが、実用を求めない基礎研究の部門を作り、ハーヴァードからウォーレス・カロザースを招いた。当時、高分子が長い鎖状の分子であることは、まだ論争の対象だった。彼はそれを合成で示し、その過程で溶融した樹脂から糸が引けることに気づく。1935年、ナイロン66が得られた。石炭と空気と水から作る、と宣伝された。1940年に売り出された靴下は初日で完売し、戦時中は落下傘に回された。カロザースは発売を見ずに、うつ病により自ら命を絶っている。ウィルミントン
- 防風林を植えるできごとAD1935年土壌の保全が、国の政策として木と結びついた草原を耕して麦畑にした平原は、干ばつが来ると表土ごと風に飛んだ。空が黒くなり、家の中まで土が積もる。1935年、アメリカ政府は北から南へ、風を弱めるための木の帯を作る計画を始めた。カナダ国境からテキサスまで、畑と畑のあいだに苗を植える。七年で二億本を超えた。失業対策の事業でもある。効果には議論があるが、土壌の保全という考え方は根づいた。耕し方を変えることと、木を植えることが、初めて国の政策として結びついた。グレートプレーンズ
- アウトバーンの開通できごとAD1935年5月19日1933年に政権を握ったヒトラーは、全国に自動車専用の高速道路網を造る計画を打ち出し、その年の9月、フランクフルトで自ら最初の鍬を入れた。1935年5月19日、フランクフルトとダルムシュタットの間の最初の区間が開通した。交差点も信号も無く、上りと下りが分けられた道は、国民に車の時代を約束する宣伝の道具になり、国民車フォルクスワーゲンの計画とも結びついた。失業をなくすための事業と宣伝されたが、雇われた人の数は限られ、のちには捕虜や強制労働も使われた。高速道路の考え方自体は、ナチより前からイタリアやドイツにあった。フランクフルト
- 「計算可能な数について」できごとAD1936年計算する機械という考えの出発点紙テープに記号を書き換えるだけの想像上の機械を定義し、それで計算できないことがあると証明した。コンピュータという考えの出発点になる。ケンブリッジ
- ヒンデンブルク号できごとAD1937年5月6日技術の寿命は、性能ではなく人の感じ方で決まる全長二百四十五メートルの飛行船が、着陸の直前に燃え上がり、三十数秒で骨組みだけになった。乗員乗客九十七人のうち三十五人と、地上の一人が死んだ。設計では不燃のヘリウムを使う予定だったが、産出国のアメリカが軍事物資として輸出を禁じていたため、燃える水素を詰めていた。現場には報道陣が集まっており、写真と映像と、泣き声混じりの実況が世界に流れた。飛行船による旅客輸送は、この一件で終わる。事故そのものより、それが映像で見られたことが大きかった。レイクハースト
- ナイロンの歯ブラシできごとAD1938年道具が安くなっただけでは習慣は変わらなかった歯ブラシの毛は、長く豚や猪の毛だった。柔らかく水を含み、乾きにくく、雑菌が繁殖する。値段も安くない。1938年、デュポンが発明したばかりのナイロンで毛を作った歯ブラシが売り出された。乾きが早く、腰があり、安い。それでも、毎日歯を磨く習慣が広まったのは第二次世界大戦のあとになる。兵に歯磨きを義務づけた軍隊から、復員した者がその習慣を家に持ち帰ったと言われる。道具が安くなっただけでは習慣は変わらず、強いられた経験がそれを定着させた。ウィルミントン
- ボールペンできごとAD1938年押し出すのではなく、転がる球に運ばせるハンガリーの新聞記者ラースロー・ビーロは、輪転機のインクが速く乾くのを見て、同じものをペンに使えないかと考えた。粘るインクは細い溝を流れない。そこで先端に小さな球を仕込み、転がる球が容器のインクを紙に運ぶようにした。ナチスを逃れてアルゼンチンに移り、特許を整える。乾きが速く、気圧が変わっても漏れないので、まず空軍が高空の記録用に採用した。戦後、安い使い捨ての型が広まり、字を書く道具の主役になる。万年筆は、実用品から贈り物へ位置を移した。ブダペスト
- エニグマの解読できごとAD1940年ポーランドの研究を引き継ぎ、機械で機械の暗号を解いた。従事した数千人は戦後30年、この仕事について話すことを許されなかった。ブレッチリー・パーク
- ねじれて落ちた橋できごとAD1940年11月7日開通から四か月、細く軽く作られた吊り橋が、秒速十九メートルほどの風で大きく波打ち始めた。上下に揺れ、やがてねじれ、桁が裂けて川へ落ちた。死者は、取り残された犬一匹である。撮影された映像は、工学の教室で繰り返し流されることになった。当時は共振という言葉で説明されたが、いまは風が作る渦と橋の動きが互いを強め合う現象として理解されている。強度を上げるだけでは足りない。風の中でどう動くかを計算し、模型を風洞で試すことが、以後の橋の設計に組み込まれた。タコマ
- 襟のクリップできごとAD1940年代針金を二重に曲げたクリップは、十九世紀末のイギリスで作られていた。ノルウェーの特許局の職員ヨハン・ヴォーラーも、似た形の特許を取っている。ドイツに占領された1940年代、ノルウェーの人びとは服の襟にクリップを付けた。まとめる、つなぐ、という意味を込めた、声に出さない抵抗の印である。占領当局はこれを禁じた。戦後、クリップはノルウェー人の発明だという話が広まり、巨大なクリップの像まで建てられた。小さな道具が、国の物語を背負った。オスロ
- 円筒分水できごとAD1941年(昭和16年)争いを、話し合いではなく形で終わらせた多摩川から水を引く二ヶ領用水では、下流の村々が水の分け方をめぐって、江戸時代から何度も争ってきた。堰の板を一枚ずらせば、隣の村の田が干上がる。神奈川県の技師平賀栄治は、水を円い筒の真ん中から噴き上げさせ、縁から四方へ溢れさせる装置を設計した。縁の長さを、それぞれの用水路が潤す田の広さに合わせて区切っておけば、水の量が増えても減っても、分かれる割合は変わらない。人が板を動かす余地がないので、疑う余地もない。争いを、話し合いではなく形で終わらせた。この形は、全国の農村に広まった。久地(川崎)
- 人工腎臓できごとAD1943年ソーセージの皮で血を洗う1943年、ドイツに占領されたオランダの小さな町カンペンの病院で、若い医師ウィレム・コルフは、腎臓が働かなくなった患者の血を体の外に引き出し、腸詰めの皮に使うセロハンの管に通して、洗濯の桶のような液に浸し、老廃物を抜いてから体に戻す機械を作った。回転するドラムは、車の部品や缶詰の缶で組み立てた。最初の十数人は助からなかったが、1945年、一人の女性が意識を取り戻して生き延びる。コルフは設計図を無償で世界に配った。人工透析は、いま世界で数百万人の命をつないでいる。カンペン
- アクアラングの発明できごとAD1943年人が魚のように泳ぐフランス海軍の士官ジャック=イヴ・クストーは、魚のように自由に海を泳ぎたいと願っていた。ドイツに占領された1943年、彼は技師エミール・ガニャンとともに、燃料不足の自動車を調理用のガスで走らせるための弁を作り変え、吸うときだけ背中のボンベから空気が出る仕組みを作った。南フランスの海で試し、仲間は60メートルを超える深さまで潜った。船から管で空気を送ってもらう重い潜水服から、人は解き放たれた。クストーは水中の撮影も進め、1956年の映画『沈黙の世界』は、海の中の世界を多くの人に初めて見せた。トゥーロン
- 広島・長崎への原爆投下できごとAD1945年8月6日技術が人類を絶滅させうる力になった一発で都市が消えた。人類が自らを絶滅させうる力を持ったことが、この日から前提になる。広島

- トリニティ実験できごとAD1945年7月16日人類が最初に核爆弾を爆発させた。夜明け前の砂漠で試されたのは、3週間後に長崎で使われるのと同じ型だった。広島の型は試さずに使われている。トリニティ実験場

- 玉音放送できごとAD1945年8月15日ポツダム宣言の受諾が決まった8月14日の深夜、宮内省で天皇の朗読が二度録音された。それを奪って放送を止めようとする将校たちが宮城に押し入ったが、円盤は隠されて運び出された。15日正午、全国のラジオが鳴った。多くの国民が天皇の声を聞くのは、これが初めてである。文語で、雑音が多く、「降伏」の語は出てこない。共同宣言を受諾すると述べただけなので、放送のあとにアナウンサーが意味を説明しなければならなかった。戦争の終わりが、声で伝えられた。東京
- ENIACできごとAD1946年真空管17468本ペンシルベニア大学。弾道計算表を作るために陸軍が資金を出した。真空管17468本、重さ27トン、部屋一杯。それまで一発の弾道の計算に人が20時間かけていたものが、30秒になった。配線を差し替えて「プログラム」したのは、6人の女性数学者だった(当時「計算手(コンピューター)」と呼ばれていた職の出身)。彼女たちの名は長く公表されなかった。翌年からノイマン型の記憶プログラム方式へ移る。フィラデルフィア
- トランジスタの発明できごとAD1947年12月16日真空管より小さくベル研究所のバーディーンとブラッテンが、ゲルマニウムの結晶に2本の金の接点を押しつけて、信号が増幅されるのを見た。点接触型。上司のショックレーは自分が外されたと怒って、1か月で接合型を考えた。真空管より小さく、熱くならず、壊れない。1956年、3人でノーベル賞。ショックレーはカリフォルニアで会社を作り、そこから出た8人がフェアチャイルドとインテルを作った。シリコンバレー。マレーヒル(ベル研究所)
- 電子レンジできごとAD1947年作って食べるから、温めて食べるへレーダーの部品を扱っていた技術者パーシー・スペンサーが、装置の前でポケットの菓子が溶けたことに気づいた。電波が水の分子を揺らし、熱を出す。1947年に売り出された最初の製品は、背丈ほどの大きさで、業務用である。家庭に入るのは1960年代以降になる。日本では、駅の売店や列車の食堂車が早くに採用した。この機械は、料理の順序を変えた。作り置いて冷やし、食べるときに温める。家族が同じ時刻に食卓に着かなくてもよくなり、食事の形そのものが変わっていく。ボストン
- マクドナルドの流れ作業できごとAD1948年待ち時間30秒カリフォルニアのドライブインで、マクドナルド兄弟が店を一度閉め、作り直した。品目をハンバーガーなど9つに絞り、皿と食器をやめ、注文係と焼き係と包む係を分けた。自動車工場の流れ作業を厨房に持ち込んだのである。値段を半分にし、待ち時間を30秒にした。1954年、ミキサーの営業マンだったレイ・クロックが、8台注文が来たこの店を見に行った。加盟店の網が、食の均質化と、農業と物流の再編を引き起こした。サンバーナディーノ
- LPレコードできごとAD1948年それまでの円盤は片面で四、五分しか入らない。交響曲を聴くには、何枚もの重い盤を数分おきに裏返し、取り替え続ける必要があった。コロンビアの技師ピーター・ゴールドマークは、溝を細かくし、回転を遅くし、割れにくい樹脂を使うことで、片面二十分を超える盤を作った。1948年に発表されたこの長時間盤は、音楽の聴き方を変える。楽章の途中で立ち上がらなくてよくなり、やがて、はじめから一枚を通して聴かせることを前提にした作品が作られるようになった。アルバムという単位は、この盤の長さから生まれた。ニューヨーク
- 浜松のオートバイできごとAD1948年町工場が工業を世界へ連れ出した自動車の修理工場から身を起こした本田宗一郎は、戦後、軍の払い下げの小さなエンジンを自転車に取り付けて売り出した。1948年、浜松に本田技研工業を作る。のちの小型のオートバイ、スーパーカブは、蕎麦屋の出前が片手で運転できるように作られ、世界で最も多く作られた乗り物の一つになった。世界の二輪の大きなレースに挑み、勝ち続ける。町工場の技術者が、戦後の日本の工業を世界へ連れ出した。浜松
- 視聴率できごとAD1950年測られるのは、面白さではない放送は、誰が聞いているか分からない。売っているのは電波ではなく、注意である。A・C・ニールセンは、受信機に取り付けて周波数と時刻を記録する装置を買い取り、選ばれた世帯に設置した。ラジオで実用にし、1950年からテレビへ広げる。数千世帯の記録が、全国の視聴の推計になった。番組の生死が、その数字で決まるようになる。測られるのは面白さではなく、消された回数と、次の番組へ残った割合である。表現が、数字の形に合わせて変わっていった。シカゴ
- 計算機で天気を解くできごとAD1950年天気は物理の法則に従って動く。ならば、いまの空気の状態を数字にして方程式を解けば、明日が計算できるはずである。第一次大戦中、イギリスのリチャードソンは手計算でそれを試み、六時間先の予報を出すのに六週間かかった。彼は、六万四千人が計算尺を並べて分担すれば間に合うと書いている。1950年、フォン・ノイマンらはENIACを使い、二十四時間先の予報を、ほぼ二十四時間かけて計算した。実用には届かないが、道筋は示された。計算機が速くなるほど予報が当たるようになるという時代が、ここから始まる。アバディーン(メリーランド州)(位置は特定されていない)
- ソリッドボディのエレキギターできごとAD1950年弾けない人が作ったギター1930年代から、ギターの音を電気で大きくする工夫は始まっていたが、中が空洞のギターに磁石の拾いを付けると、音が共鳴してうなりを上げた。カリフォルニアのフラトンでラジオの修理店を営んでいたレオ・フェンダーは、中の詰まった板の胴に部品をねじで留めた、安くて丈夫で直しやすいギターを作った。1950年に売り出され、翌年テレキャスターの名になる。本人はギターを弾けなかった。同じ年に作った電気のベースとともに、少人数で大きな音を出せる楽団の形を可能にし、ロックの音を決めた。フラトン
- ロンドン・スモッグできごとAD1952年12月5日無風と気温の逆転12月5日から4日間、無風で気温が逆転し、家庭と工場の石炭の煙が地表に留まった。視界が数メートルになり、昼でも暗く、劇場は舞台が見えないので公演を中止した。牛が窒息死し、人が川に落ちた。当時の集計で死者4000人とされたが、後の推計では1万2000人に上る。それまでロンドンの霧は名物であり、風物として描かれてきた。1956年、大気浄化法。無煙燃料への転換と、煙を出す暖房の規制。都市の空気が、政策の対象になった。ロンドン
- ジェット旅客機コメットできごとAD1952年5月2日最初の失敗が、後に続く者を安全にした1952年5月2日、イギリスのデ・ハビランド社のコメットが、ロンドンからヨハネスブルクへ飛び、世界で初めてジェット旅客機が定期便で客を運んだ。プロペラ機のほぼ倍の速さで、揺れも少ない。ところが二年のうちに、コメットは空中で次々に分解して墜ちた。機体を水槽に沈めて圧力をかけ続ける実験で、窓など機体の開口部の角から金属の疲れによる亀裂が広がることが突き止められる。いまの飛行機の窓が丸いのは、この失敗の教訓による。ロンドン
- DNAの二重らせんできごとAD1953年生命の設計図の形が分かった。X線で撮られた「51番写真」が決め手になる。それは撮影者に断りなく見せられた写真だった。ケンブリッジ
- レム睡眠の発見できごとAD1953年古い脳波計シカゴ大学の大学院生ユージン・アセリンスキーが、眠る子どもの眼球の動きを記録した。装置は、指導者クライトマンの研究室にあった古い脳波計である。眠っている間、目が速く動く時間帯が、周期的に現れた。そのとき起こすと、多くが夢を見ていたと答えた。眠りは、一様な休息ではなく、構造を持つ過程である。彼は最初の被験者に、8歳の自分の息子を使った。論文は1953年の『サイエンス』に載った。睡眠が、科学の対象になった。シカゴ
- エベレスト初登頂できごとAD1953年5月29日戴冠式の朝にニュージーランドの養蜂家とネパールのシェルパが、午前11時30分、15分いた。「どちらが先に足を置いたか」を二人は答えなかった。知らせは6月2日、エリザベスの戴冠式の朝に着いた。マロリーとアーヴィンが1924年に着いていたかは、いまも分からない。エベレスト
- かんばん方式できごとAD1953年工場では、部品が工程と工程のあいだに山と積まれて、次の工程を待っていた。トヨタ自動車の大野耐一は、この待っている部品こそが無駄を隠していると考えた。後の工程が使った分だけを、前の工程に取りに行く。取りに行くときに、何をいくつ持っていったかを書いた札を置いてくる。前の工程は、札の枚数だけを作る。アメリカのスーパーマーケットの、減った分だけ棚を補う仕組みから思いついたと大野は書いている。1953年に本社工場の機械工場で始め、十年ほどかけて全社へ広げた。物を待たせないことで、どこで流れが詰まるかが見えるようになった。挙母(豊田)(位置は特定されていない)
- テレビ放送の始まりできごとAD1953年2月1日同じ時刻に同じ映像を見る1953年2月1日、NHKが東京でテレビの本放送を始めた。受信の契約は千件ほどで、受像機は給料の何年分もした。夏には民放の日本テレビが開局し、駅前や公園に大きな受像機を置いた。街頭テレビである。力道山のプロレスや野球の中継に、数千人が群がった。1959年の皇太子の結婚の中継を前に受像機が爆発的に売れ、テレビは十年足らずで家の居間の中心になる。人びとは同じ時刻に同じ映像を見る経験を共有するようになった。東京
- 北海大洪水できごとAD1953年2月1日デルタ計画へ1953年1月31日の夜から2月1日にかけて、北海を渡る強い嵐が大潮と重なり、海面が大きく盛り上がった。国土の多くが海面より低いオランダでは、南西部のゼーラント州を中心に堤防が何百か所も切れ、真夜中の村々に海が流れ込んだ。土曜の夜で、警報はほとんど届かなかった。オランダで1836人が死に、イギリスの東海岸でも三百人あまり、ベルギーでも死者が出た。オランダは、河口を堤防と水門で締め切る「デルタ計画」に乗り出し、40年あまりをかけて、一万年に一度の高潮に耐える守りを築いた。ゼーラント(位置は特定されていない)
- エルヴィスとサン・スタジオできごとAD1954年7月5日ラジオが黒人歌手だと思ったメンフィスの小さな録音室。19歳のトラック運転手が、休憩中にふざけて黒人ブルースの「ザッツ・オール・ライト」を速く歌い出した。技師サム・フィリップスが「もう一度やれ」と言った。彼は前から「黒人の歌を歌える白人がいれば大金になる」と言っていた。ラジオ局は、これを黒人の歌手だと思って掛けた。人種で分けられていた音楽の棚が、この録音から崩れ始めた。メンフィス
- 『中国の科学と文明』の刊行できごとAD1954年中国には科学と技術の長い蓄積があった。ではなぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。この問いと、それを支える膨大な証拠が、一人の生化学者から始まった。ケンブリッジ
- 機械翻訳の公開実験できごとAD1954年1月7日訳せると分かっていた六十の文ジョージタウン大学とIBMが、記者を集めて実演した。ロシア語の六十余りの文を、IBM701が英語に訳す。語彙は250語、規則は六つ。選ばれた文は、あらかじめ分かっていた。報道は熱狂し、五年で機械翻訳は解決すると書かれた。実際には、語義の曖昧さと文脈の問題が、規則では手に負えなかった。1966年のALPAC報告が、資金を打ち切る。統計的手法と、そして機械学習が現れるまで、この分野は長く冬に置かれた。ニューヨーク
- 第五福竜丸できごとAD1954年3月1日1954年3月1日の未明、ビキニ環礁の東で操業していた静岡の焼津のマグロ漁船・第五福竜丸は、西の空が明るくなるのを見た。アメリカの水爆実験だった。数時間後、白い灰が降り注ぎ、乗組員二十三人は被曝する。半年後、無線長の久保山愛吉が亡くなった。汚染されたマグロが捨てられ、魚が売れなくなる。核兵器に反対する署名は三千万を超え、翌年、最初の原水爆禁止世界大会が開かれた。その年の秋、映画『ゴジラ』が公開される。ビキニ環礁
- 洞爺丸事故できごとAD1954年9月26日1954年9月26日、台風15号が北海道に近づくなか、函館と青森を結ぶ国鉄の連絡船洞爺丸は、一時嵐が静まったのを見て、台風の目が過ぎたと判断して函館の港を出た。だが台風は勢いを保ったまま日本海を北上していて、港の外で猛烈な風と波に襲われた。洞爺丸は錨を下ろして耐えようとしたが、車両を積む甲板から水が入って機関が止まり、七重浜の沖で転覆した。乗っていた千三百人ほどのうち、千百五十人あまりが死んだ。この夜、ほかの連絡船4隻も沈んだ。事故は、海峡の下にトンネルを掘る計画を後押しした。函館
- ティム・バーナーズ=リー人物AD1955年6月8日 – ?特許を取らずに公開したCERNで文書を相互に繋ぐ仕組みを考え、特許を取らずに公開した。誰でも情報を出せる世界がここから始まる。
- 押し屋できごとAD1955年(昭和30年)10月24日戦後の東京では郊外に人が移り住み、朝の電車に乗客が溢れた。扉が閉まらず、発車が遅れ、その遅れが次の電車に積み重なっていく。国鉄は新宿駅に、ホームで乗客を車内へ押し込む係を置いた。正式の名は「旅客整理係学生班」で、多くは大学生のアルバイトだった。列に並んで待つ者を、一本でも早く運ぶために、車両の中の隙間を詰める。高度成長期には定員の二倍を超える混雑が当たり前になり、白い手袋で背中を押す姿は外国の雑誌にも載った。線路と車両を増やすまでのあいだ、足りない輸送力を人の手で埋めた仕事である。新宿
- 三種の神器できごとAD1950年代後半家事の時間が減り、働きに出る前提ができた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫。この三つが、戦後の日本で豊かさの目標として並べられた。神話の宝になぞらえた呼び方が広まり、月賦で買う家が増えていく。冷蔵庫が来ると、毎日の買い物が減り、作り置きができる。洗濯機が来ると、冬の水仕事から解放される。家事にかかる時間が減り、その時間の多くは女性のものだった。家電は、家の中の労働の形を変え、働きに出る前提を作った。同時に、電気の使用量が跳ね上がり、発電と送電の計画が引き直されることになる。東京
- 電話で時刻を聞くできごとAD1955年時計を合わせに、電話をかけた1955年、東京で、電話をかけると声が時刻を告げる仕組みが始まった。のちに全国で117番になる。録音した声の断片をつなぎ、十秒ごとに時刻を読み上げる。時計を合わせたいとき、家に正確な時計が無い人はここにかけた。年に数億回かけられた時期がある。電波時計と携帯電話が時刻を自分で合わせるようになり、かける人は減った。正しい時刻は、いまは誰も意識しないまま機械に届いている。東京
- 自動で炊ける電気釜できごとAD1955年かまどで飯を炊くには、夜明け前に起き、火加減を見張り続けなければならない。その仕事は主婦のものだった。1955年、東京の電機会社が、釜を二重にして間接的に熱し、炊き上がると自動で電気が切れる電気釜を売り出した。スイッチを入れて寝ていれば、朝には飯が炊けている。最初は高価だったが、数年で数百万台が売れた。朝の数時間が、女性の暮らしから戻ってきた。のちにタイマーと保温が加わり、電気釜はアジア中の台所に広がる。東京
- 公団住宅と2DKできごとAD1956年ステンレスの流し台戦後の住宅不足は420万戸と見積もられた。1955年、日本住宅公団が発足し、翌年から鉄筋コンクリートの集合住宅を大量に建てた。間取りの標準が2DK。食事をする場所と寝る場所を分ける(食寝分離)という設計思想である。ダイニングキッチン、ステンレスの流し台、水洗便所、そしてベランダ。畳に布団を敷いて一家が寝る暮らしから、椅子とテーブルの暮らしへ。「団地族」と呼ばれた入居者は、抽選の倍率が数十倍の中から選ばれた中間層だった。東京
- コンテナ輸送のはじまりできごとAD1956年4月26日特許を無償で公開トラック運送業のマルコム・マクリーンが、改造したタンカー「アイデアルX」に58個の金属の箱を積み、ニューアークからヒューストンへ送った。荷役費が1トン5.83ドルから15.8セントになった。それまで、船荷は港で人の手で一つずつ積み替えられ、費用の半分近くが港で消えていた。箱の寸法が国際規格になり、船と鉄道とトラックが繋がり、港は都市の中心から沖の埋立地へ移った。工場が海の向こうへ行けるようになった。ニューアーク
- 人工知能という言葉できごとAD1956年名前が付いて、一つの分野が生まれた1956年の夏、ニューハンプシャーのダートマス大学に、若い数学者や技術者が数週間集まった。呼びかけたジョン・マッカーシーは、その研究計画に人工知能という言葉を使う。学習や言葉の理解など、知能のあらゆる面は、機械で真似できるほど正確に記述できるはずだ、という見通しを掲げた。参加者の多くは、一世代のうちに実現すると考えていた。期待は何度も膨らみ、何度も冬の時代を迎えた。名前が付いたことで、一つの分野が生まれた。ハノーヴァー
- スプートニク1号できごとAD1957年10月4日ソ連が人類初の人工衛星を上げた。西側は技術で後れを取ったと衝撃を受け、宇宙開発競争が始まる。モスクワ
- 即席麺できごとAD1958年食べる場所と器から、料理を組み直した戦後の闇市で、屋台のラーメンに人が並ぶのを見た安藤百福は、家で簡単に作れる麺を考えた。裏庭の小屋で試行を重ね、味を付けて蒸した麺を油で揚げると、水分が抜けて穴だらけになり、湯を注げば戻ることを見つける。1958年、袋入りの即席麺が売り出された。値段はうどんの数倍だったが、保存が利き、二分でできる。のちに、アメリカで現地の人が麺を割ってカップに入れて食べるのを見て、容器ごと売る形を思いつく。食べる場所と器から、料理を組み直した商品になった。池田(大阪)
- かみ合うブロックできごとAD1958年1月28日形を変えないという決まりデンマークの村ビルンの大工オーレ・キアク・クリスチャンセンは、大恐慌で家具が売れなくなり、木のおもちゃを作り始めた。社名は「よく遊べ」を縮めたレゴ。戦後、イギリスの製品にならってプラスチックの積み木を作るが、組んでもすぐ外れた。1958年1月28日、上の突起を下の管で挟んで留める形の特許を出す。この年に作られたブロックは、いまのものとそのまま組める。形を変えないという決まりが、何十年分の箱を一つの遊びにつないだ。ビルン
- 集積回路できごとAD1958年9月12日二年ごとに倍になる部品の数トランジスタは小さくなったが、部品を一つずつ配線でつなぐ限り、回路が複雑になるほど手間と故障が増える。ダラスの電機会社にいたジャック・キルビーは、同僚が夏休みで出払った研究室で、一枚の半導体の上に部品をまとめて作ることを考えた。1958年9月12日、試作品が動く。半年後、カリフォルニアのロバート・ノイスが、量産に向いた平らな作り方を考えた。以後、一枚の板に載る部品の数は、ほぼ二年ごとに倍になっていく。ダラス
- 東京タワーできごとAD1958年12月23日テレビの局が増えると、それぞれが電波塔を建てていたのでは東京の空が塔だらけになる。一本の大きな塔にまとめることになり、1958年12月23日、高さ三百三十三メートルの東京タワーが完成した。エッフェル塔より高く、当時は自立する鉄塔として世界一だった。上部の鉄材には、朝鮮戦争で使われた戦車を溶かしたものが含まれていると言われる。展望台には一年で数百万人が上り、復興から成長へ向かう東京の象徴になった。東京
- 植え込み型ペースメーカーできごとAD1958年10月8日体の中に機械を入れて生きる1958年10月8日、ストックホルムの病院で、心臓の拍動が一分に数十回まで落ちて何度も倒れていた43歳の技術者アルネ・ラーションの胸に、小さな電気の刺激の装置が植え込まれた。装置を作ったのは技術者ルーネ・エルムクヴィスト、手術をしたのは外科医オーケ・センニングである。それまでの装置は大きく、患者は電源の線につながれていた。最初の装置は数時間で止まり、二つ目に取り替えられた。ラーションはその後、26回装置を取り替えながら、2001年に86歳で亡くなるまで生きた。執刀医より長生きしたことになる。ストックホルム
- フロート法できごとAD1959年磨く工程を丸ごと消した平らな板硝子を作るのは難しい。鋳造した板を研いで磨くと、材料の三割が削り屑になる。1952年、アラステア・ピルキントンが、溶けた錫の上に硝子を流す方法を思いつく。比重が違うので硝子は浮き、重力と表面張力だけで両面が平らになる。実用になるまで七年と、当時の金で七百万ポンドを失った。1959年に発表され、いまも世界の板硝子のほぼすべてがこの方法で作られている。窓、車、鏡、画面。透明な平面が安くなったことが、二十世紀後半の建物の見た目を決めた。セント・ヘレンズ
- U2撃墜事件できごとAD1960年5月1日ウラルの上でアメリカの偵察機がウラルの上でミサイルで落ちた。アイゼンハワーは「気象観測機」と言い、フルシチョフは操縦士パワーズと写真を出した。2週間後のパリの首脳会談は初日に壊れた。パワーズは1962年にベルリンの橋でソ連のスパイと交換された。スヴェルドロフスク(エカテリンブルク)
- アラル海の縮小できごと1960年灌漑が湖を消した綿花のために二つの大河から水を引き、世界で4番目に大きかった湖がほぼ消えた。漁港が砂漠の真ん中に取り残されている。計画された環境破壊の例として引かれる。アラル海(位置は特定されていない)
- 座席予約システムできごとAD1960年待つ側が、いつ乗れるかを先に知れるようになった航空会社の座席は、回転する棚のカードで管理されていた。電話を受けた係が棚を回し、空きを探し、鉛筆で書く。一件に数十分かかり、間違えれば二重に売る。アメリカン航空とIBMが、大型計算機を電話回線で結ぶ仕組みを作った。名はセイバー。全国の端末から同じ在庫を見て、その場で確定する。世界最大級の民間のオンライン処理系であり、後の予約と発券のほとんどが、この形を踏襲している。待つ側が、いつ乗れるかを、先に知れるようになった。ニューヨーク
- 胸を押して心臓を動かすできごとAD1960年止まった心臓を動かすには、胸を開いて直接もむしかないと考えられていた。ボルティモアの大学病院で、電気技師ウィリアム・クーウェンホーヴェンらは、犬の実験で、胸の上から強く押すだけで血を送れることに気づく。1960年、その成果を発表した。口から息を吹き込む人工呼吸と組み合わせ、心肺蘇生法としてまとめられる。道具が要らず、誰でも覚えられる。病院の外で倒れた人を、居合わせた人が救えるようになった。ボルティモア
- 使い捨てのおむつできごとAD1961年布のおむつは、洗って干して繰り返し使う。その洗濯は、ほとんど母親の仕事だった。日用品会社の技術者ヴィクター・ミルズは、孫のおむつを替えながら、吸い取って捨てられるものを作ろうと考えた。1961年、パンパースの名で試験的に売り出す。はじめは高く、毎日使えるものではなかったが、作り方が改良されて値が下がると一気に広まった。洗濯の手間が消えた代わりに、埋め立て地に大量のおむつが残るようになる。シンシナティ
- 人が初めて宇宙へできごとAD1961年4月12日1961年4月12日、ソ連の空軍中尉ユーリ・ガガーリンを乗せた宇宙船ヴォストーク1号が、カザフの草原の発射場から打ち上げられた。地球を一周し、百八分で帰る。最後は宇宙船から飛び出し、落下傘で降りた。人類で初めて宇宙へ出た人となり、世界じゅうを回って歓迎を受ける。アメリカは衝撃を受け、翌月、大統領が十年のうちに人を月へ送ると宣言した。ガガーリン自身は、七年後に訓練中の飛行機の事故で死んでいる。バイコヌール
- 五桁の郵便番号できごとAD1963年7月1日住所を読まなくても、数字を読めば行き先が決まる第二次世界大戦のあと、アメリカの郵便は二十年足らずで倍に増えた。手紙は宛先の州、町、通りを人の目で読まれ、平均して十数か所で仕分けられていた。郵便検査官ロバート・ムーンは、国を地域に分けて番号を振り、その番号で仕分ける案を戦時中から唱えていた。1963年7月1日、郵便局は五桁の番号を始めた。最初の数字が国の中の大きな地域、次の二桁が仕分けの拠点、最後の二桁が配達する局を表す。住所を読まなくても、数字を読めば行き先が決まる。のちに機械が読むようになり、郵便番号は、人ではなく機械のための住所になった。ワシントンD.C.
- カセットテープできごとAD1963年規格を無償で開いたことが、普及を決めた磁気テープはすでにあったが、リールに巻かれた帯を手で通す必要があり、素人の道具ではなかった。オランダのフィリップスの技師たちは、テープを小さな箱に収めて、差し込むだけで使えるようにした。1963年、ベルリンの見本市で発表される。会社は特許を無料で公開し、規格を各社に開放した。その判断が、世界中で同じ形のテープが使われる結果を生む。買うだけでなく、自分で録る。ラジオから録り、友人に渡し、好きな曲を並べて一本にする。音楽を選んで並べ替える行為が、聴き手の手に渡った。ベルリン
- 鉄腕アトムの放送できごとAD1963年1月1日漫画家の手塚治虫は、自分の人気作を毎週三十分のテレビのアニメーションにしようとした。映画のアニメーションのように一秒に何枚も絵を描けば、とても間に合わない。動く部分を絞り、同じ絵を使い回し、安い値段で番組を納めた。1963年1月1日、日本初の連続のテレビアニメーションとして放送が始まる。視聴率は四割に届いた。この安く速く作るやり方と、その安さの慣行が、日本のアニメーションの産業の形を決めていった。東京
- 名神高速道路の開通できごとAD1963年7月16日日本の道路は信じがたいほど悪い1956年、日本政府が招いたアメリカの調査団(ワトキンス調査団)は、報告書の冒頭に、日本の道路は信じがたいほど悪いと書いた。国道でさえ多くが舗装されていなかった。日本は世界銀行から資金を借りて、初めての高速道路の建設に取りかかった。1963年7月16日、兵庫県の尼崎と滋賀県の栗東の間の71キロが開通し、1965年に名古屋と西宮がつながった。1969年には東名高速道路も全線が開通し、東京から神戸までが一本の高速道路で結ばれた。高速道路は、トラックによる物の運び方を変え、マイカーの時代を後押しした。栗東
- モーグ・シンセサイザーできごとAD1964年電圧で音の高さを決めるテルミンの組み立てで学生時代を過ごしたロバート・モーグが、電圧で音の高さを制御する発振器を作った。鍵盤の電圧を一オクターヴ一ボルトに決め、発振器・フィルタ・増幅器を線でつないで音を組み立てる。1968年、ウェンディ・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』が売れた。1970年のミニモーグで、実験室の装置が舞台の楽器になった。ニューヨーク
- 言葉のいらない案内できごとAD1964年東京オリンピックには、日本語も英語も読めない選手や観客が、世界中から来る。案内をどう書くか。美術評論家の勝見勝のもとに若いデザイナーたちが集まり、競技と、食堂やトイレや更衣室などの施設を、文字を使わない記号で表した。施設の記号だけで三十九種類になった。大会のあと、デザイナーたちは作者の名を求めず、記号を誰でも使えるものとして手放した。ウィーンで生まれた、数を絵で見せる考え方が、道案内の記号になり、次の大会へ、そして駅や空港へと広がっていった。東京
- 東海道新幹線できごとAD1964年10月1日時代遅れと言われた鉄道の復権鉄道は時代遅れで、これからは自動車と飛行機だと、世界の多くが考えていた。国鉄総裁の十河信二と技師長の島秀雄は、線路の幅を広げ、専用の線路を新しく敷いて、東京と大阪を高速で結ぶ計画を押し通す。世界銀行から金を借りた。1964年10月1日、東京オリンピックの九日前に開業し、最高時速二百十キロで両都市を四時間で結んだ。以来、列車の衝突や脱線で乗客が亡くなった事故は起きていない。鉄道の復権は、ここから世界に広がった。東京
- 緑の革命できごとAD1965年飢えを消した技術が、別の問題を作った高収量品種と化学肥料と灌漑で、穀物の生産が倍以上になった。飢饉が消える一方、水を大量に使い、地下水位が下がり、農家の負債が増える。デリー

- 最初の心臓移植できごとAD1967年12月3日18日生きたケープタウンのフルート・スキュール病院。交通事故で脳死になった25歳の女性デニス・ダーヴァルの心臓が、50代半ばのルイス・ワシカンスキーに移された。執刀はクリスチャン・バーナード。手術は成功し、患者は18日後に肺炎で死んだ。免疫抑制のために抵抗力を落としていた。世界が沸き、そして「死とは何か」が問われた。心臓が止まった時ではなく脳の機能が失われた時を死とする定義が、この後、各国で整えられていく。ケープタウン
- 現金を機械からできごとAD1967年人がやっていた取り次ぎを、機械が引き取った銀行は平日の昼間しか開かない。土曜の午後に現金が無ければ、月曜まで待つしかない。技術者ジョン・シェパード=バロンは、板チョコの自動販売機を思い浮かべ、現金を出す機械を考えた。1967年、ロンドン郊外の支店の壁に据えられる。使ったのは、放射性の印を付けた小切手用紙と、四桁の暗証番号だった。桁数は、妻が六桁を覚えられないと言ったからだと本人が語っている。以後、現金の引き出しから銀行員が外れ、窓口の役割が変わった。機械が二十四時間動く前提で、人の働き方も組み直された。ロンドン
- スウェーデンの右側通行への切り替えできごとAD1967年9月3日スウェーデンは長く車が左を走る国だったが、陸続きの隣国はどこも右側通行で、国内の車も多くが左ハンドルだった。1955年の国民投票では8割を超える人が切り替えに反対したが、議会は1963年に切り替えを決める。1967年9月3日の日曜、朝4時50分にすべての車がいったん止まり、ゆっくり道の反対側へ移って、5時に右側を走り出した。前の晩から、全国で標識が付け替えられていた。その日と続く数週間、事故はかえって減った。誰もが慎重に走ったからで、2年ほどで元の水準に戻った。ストックホルム
- レトルト食品できごとAD1968年手間を省くことは、手間を工場に移すことでもある缶詰は重く、開けるのに道具が要り、捨てるのも面倒である。アルミ箔と樹脂を重ねた袋なら、軽く、薄く、湯で温められる。もともとは軍用の携行食として研究されたものだった。1968年、日本で家庭用のカレーが袋入りで売り出される。常温で保存でき、三分で温まる。台所の設備が小さく、単身の世帯が増えていく社会に合っていた。同じころ、冷凍食品と電子レンジも広がる。食事を「作る」ことと「温める」ことの境目が、このあたりから曖昧になっていった。東京
- アポロ11号の月面着陸できごとAD1969年7月20日人類が地球以外の天体に立った。冷戦の競争が、そのまま到達点になった。
- ARPANETの最初の通信できごとAD1969年10月29日LOUCLAのクラインロックの研究室から、スタンフォード研究所へ。「LOGIN」と打つつもりで、「L」「O」で相手のコンピュータが落ちた。「LO」。最初のメッセージ。1時間後、つながった。国防総省の高等研究計画局の金で、パケット交換(データを小さく分けて別々の道で送る)。1971年、電子メール。1973年、TCP/IP。1983年、インターネット。1989年、ウェブ。ロサンゼルス
- リサイクルのマークできごとAD1970年1970年の第一回アースデイに合わせ、段ボール会社が学生を対象に意匠を公募した。南カリフォルニア大学の学生ゲイリー・アンダーソンが、メビウスの帯を三本の折り返す矢印にした案を出し、選ばれた。会社は商標登録を試みたが争われ、結局、権利を主張せず公共の財産として開放した。誰でも使える。そのため、実際には再生されない製品にも印刷されるようになり、何を意味するのか分かりにくい記号になった。シカゴ
- アスワン・ハイ・ダムできごとAD1970年7月21日泥が来なくなったナイルは毎年氾濫し、肥沃な泥を運んできた。エジプトの農業は五千年、それに依存していた。ナセルは、洪水を止め、通年の灌漑と発電を得るために、巨大なダムを構想した。英米が融資を降り、スエズ運河の国有化と戦争に至る。ソ連が引き受けた。湛水でヌビアの村々が沈み、十万人以上が移住させられ、アブ・シンベル神殿は切断して移された。泥が来なくなり、農地は化学肥料に、三角州は侵食に、そして住血吸虫は蔓延に向かった。アスワン
- 大阪万博できごとAD1970年3月15日1970年3月15日から半年、大阪の千里丘陵でアジア初の万国博覧会が開かれた。人類の進歩と調和を掲げ、七十余りの国が館を並べる。アメリカ館の月の石には何時間もの行列ができ、入場者は六千万人を超えた。岡本太郎の太陽の塔は、進歩の祭典の真ん中に、それに逆らうような土俗の顔を立てた。動く歩道、電気自動車、携帯電話の試作品が、未来として並べられた。多くはその後、実際に暮らしの中に入ってくる。大坂
- ジャンボ機できごとAD1970年1月22日海外旅行が金持ちだけのものでなくなった1970年1月22日、ニューヨークからロンドンへ、二階建ての大きな旅客機ボーイング747が初めて乗客を運んだ。それまでの旅客機の倍以上の、四百人近くが乗れる。一度に多く運べば、一人あたりの運賃は下がる。ジャンボ機と呼ばれたこの飛行機で、海外への旅は金持ちだけのものではなくなった。日本でも1970年代から海外旅行が広がり、団体の観光客が世界へ出かけていく。一方で、一度の事故で失われる命も大きくなった。ニューヨーク
- 最初の電子メールできごとAD1971年返事を待たずに置いていける連絡の形が生まれた同じ計算機を複数の人が使う時代、利用者同士が文字を残し合う機能はすでにあった。レイ・トムリンソンは、それを別の計算機へ送れるようにした。必要だったのは、相手が「どの機械の、誰か」を書く書き方である。彼は、人名にも計算機の名にも使われていない記号を探し、キーボードの上にあった@を選んだ。最初に送った文面は覚えていないと本人は言っている。網の上を、人が人に宛てた文が流れ始めた。手紙でも電話でもない、返事を待たずに置いていける連絡の形が生まれた。ケンブリッジ(マサチューセッツ)
- 一つの部品に計算機をできごとAD1971年電卓の部品が、計算機の心臓になった日本の計算機会社ビジコンは、新しい電卓のための部品を、カリフォルニアの新しい半導体会社インテルに頼んだ。求めたのは十数種の専用の部品だったが、インテルの技術者は、計算の手順を書き換えられる一つの部品で済ませる案を出す。日本から派遣された技術者の嶋正利も設計に加わった。1971年、世界初の商用のマイクロプロセッサが売り出される。電卓のための部品が、のちのあらゆる計算機の心臓になった。サンタクララ
- カラオケの誕生できごとAD1971年特許を取らなかった発明「カラオケ」は、歌の入っていない伴奏だけの音、「空のオーケストラ」を指す放送の業界の言葉だった。1971年ごろ、神戸でバンドのドラマーをしていた井上大佑は、客の歌に合わせて伴奏をした経験から、伴奏のテープを入れた機械に硬貨を入れて歌える装置を作り、スナックに貸し出した。同じころ、似た機械を考えた人はほかにもいる。井上は特許を取らなかった。1980年代、岡山の田園に貨物用のコンテナを置いたカラオケボックスが現れ、家族や若者が歌う場になる。いま「karaoke」は、そのまま世界の言葉になっている。神戸
- CTスキャンできごとAD1971年10月1日体を開かずに中を見る1971年10月1日、ロンドンの病院で、脳に腫瘍が疑われる女性の頭が、新しい機械で撮影された。X線を頭の周りの多くの方向から当て、その通り具合を計算機で組み立て直して、頭の輪切りの像を描く。作ったのは、レコード会社EMIの技術者ゴッドフリー・ハウンズフィールドである。それまでのX線の写真では、脳の中は影が重なってほとんど見えなかった。像には、はっきりと腫瘍が写っていた。体を切らずに体の中を見る技術は、MRIとともに、診断のあり方を大きく変えた。ハウンズフィールドは1979年、ノーベル賞を受けた。ロンドン
- 遺伝子組み換え技術の誕生できごとAD1973年1973年、スタンフォード大学のスタンリー・コーエンとカリフォルニア大学のハーバート・ボイヤーは、ある生き物の遺伝子を切り取り、別の生き物の細胞に入れて働かせることに成功した。ボイヤーの持つ遺伝子を切る酵素と、コーエンの扱う大腸菌の小さな環状の遺伝子を組み合わせたのである。翌年にはカエルの遺伝子を大腸菌の中で増やした。生き物の設計図を人の手で書き換える時代が始まる。ボイヤーは会社を興し、1978年、大腸菌にヒトのインスリンを作らせた。いま糖尿病の患者が使うインスリンの多くは、こうして作られている。スタンフォード
- コールドチェーンできごとAD1974年ワクチンは熱で壊れる。製造から接種まで、温度を保ったまま運ばなければならない。1974年、WHOが拡大予防接種計画を始めたとき、最大の障害はこれだった。電気の来ない村へ、二度から八度を保って届ける。灯油とガスで動く冷蔵庫、太陽電池の保冷庫、氷嚢を入れた運搬箱、そして温度が上がると色が変わる標識。天然痘の根絶も、麻疹とポリオの後退も、この鎖が作れたかどうかで決まった。2020年の新型コロナのワクチンで、同じ問題が再び現れた。ジュネーヴ
- バーコードの最初の会計できごとAD1974年6月26日何が、いつ、どれだけ売れたかが、その場で記録されるオハイオ州トロイのマーシュ・スーパーマーケットで、リグレーのチューインガム一箱が読み取られた。67セント。縞の太さで数字を表す仕組みは1949年に特許が取られていたが、読み取る光と計算機が追いつくのに二十五年かかった。業界が共通の規格を作れたことが決定的である。会計が速くなっただけではない。何が、いつ、どれだけ売れたかが、その場で記録される。在庫と、発注と、そして棚の配置が、数字で管理されるようになった。トロイ
- カードの鍵できごとAD1975年鍵が情報になると、人の動きが記録として残るホテルの鍵は落とされ、複製され、退職した従業員の手に残る。錠を替えるには職人を呼ばねばならない。ノルウェーの技術者トール・セルネスは、客ごとに違う穴の並びを開けたカードを鍵にし、客が替わるたびに錠の側の設定を変えられる仕組みを考えた。やがて磁気の帯になり、いまは電波で応じる小さな札になっている。鍵が情報になると、いつ誰がどの扉を開けたかが記録として残る。安全のために入れた仕組みが、そのまま人の動きの記録装置にもなった。オスロ
- 公開鍵暗号できごとAD1976年11月錠を配り、自分だけが開けるそれまでの暗号は、送る側と受ける側が、同じ鍵を先に共有していなければならない。会ったことの無い相手とは、通信できない。ディフィーとヘルマンが、公開する鍵と、秘密に持つ鍵を分ける方式を発表した。錠を配り、自分だけが開ける。翌年、リヴェスト、シャミア、エーデルマンが具体的な方式を作る。イギリスの政府通信本部でも数年前に同じ発想に達していたが、機密とされ、1997年まで公表されなかった。いまの通信のほとんどが、これの上にある。スタンフォード
- コンコルドできごとAD1976年1月21日速さより安さを選んだ空の旅イギリスとフランスが共同で開発した超音速の旅客機コンコルドは、1976年1月21日に定期便の運航を始めた。音の二倍の速さで、ロンドンやパリからニューヨークまで三時間半で飛ぶ。だが燃料を大量に使い、衝撃波の騒音で多くの空港に乗り入れを断られ、客席は百ほどしかなく、運賃は極めて高かった。作られたのは試作機を含めて二十機ほどである。2000年にパリで墜落事故が起き、2003年に引退した。速さより安さを選んだのが、その後の空の旅だった。パリ
- 明かりが消えた夜できごとAD1977年7月13日夏の夜、ハドソン川沿いの変電所に雷が落ち、送電の網が次々に切れて、一時間ほどでニューヨークのほぼ全域が暗くなった。十二年前にも大停電があったが、そのときは人々が助け合ったと語られている。この夜は違った。財政破綻の寸前で、失業が増え、警官も減らされていた街で、暗がりに紛れて千六百を超える店が壊されて荒らされ、千件を超える火事が起きた。明かりが戻るまで、およそ二十五時間かかった。街灯は、見張りでもある。そのことを、明かりが消えたときに人々は知った。ニューヨーク
- ボイジャーできごとAD1977年9月5日広い闇の中の、小さな青い点外側の惑星が一列に並ぶ、百七十年あまりに一度の配置を使えば、一機の探査機で木星、土星、天王星、海王星を次々に訪ねられる。1977年、二機のボイジャーが打ち上げられた。どちらにも、地球の音と画像と言葉を刻んだ金色のレコードが積まれている。1990年、太陽系の外へ向かう一号は振り返って地球を写した。広い闇の中の、小さな青い点である。二機はいまも、人の作った物として最も遠くを飛び続けている。ケープカナベラル
- 日本語ワープロできごとAD1978年音で打って候補から選ぶ。日本語が機械で打てるようになった英語はキーの数だけ文字がある。日本語は数千の漢字を使う。和文タイプライターは活字を拾う職人技で、誰もが打てるものではなかった。1978年、東芝が発表した機械は、仮名で入力した音を漢字かな交じりに変換する方式を採った。候補を出して選ばせる。値段は六百三十万円、机ほどの大きさである。それでも、この変換の考え方が定まったことで、日本語は機械で打てる言語になった。いまの携帯電話の入力も、同じ仕組みの子孫になる。文字の多い言語が、どう機械と折り合うかという問題への答えだった。東京
- スペースインベーダーの流行できごとAD1978年処理が軽くなると敵が速くなる1978年、タイトーが出した業務用のテレビゲーム『スペースインベーダー』は、画面の上から列をなして降りてくる宇宙人を、下の砲台で撃ち落とすゲームだった。作ったのは西角友宏である。敵が減るほど動きが速くなるのは、計算の負担が減ったためで、狙ってそうしたものではなかった。喫茶店のテーブルがゲーム機に替わり、専用の「インベーダーハウス」ができ、百円玉が足りなくなったと言われるほど流行した。補導される少年も出て、社会の問題にもなった。日本のテレビゲームが世界の市場に出ていく、最初の大きな一歩である。東京
- 成田空港の開港できごとAD1978年5月20日羽田空港が手狭になると、政府は1966年、千葉県の三里塚・芝山に新しい国際空港を造ることを、地元の農民に相談しないまま決めた。農民たちは反対の同盟を作り、新左翼の学生たちも加わって、激しい闘争になった。1971年の土地の強制収用では、機動隊員3人が殺された。開港の直前の1978年3月には、過激派が管制塔に侵入して機器を壊し、開港は延期された。5月20日、空港は厳重な警備の中で開港した。1990年代、政府は話し合いの場で、強引な進め方を農民に謝罪した。成田
- ウォークマンできごとAD1979年7月1日同じ場所にいながら、別々の音を聴くようになったソニーの技術者たちは、録音機能を外し、スピーカーも外し、再生と軽いヘッドホンだけを残した小さな機械を作った。社内では、録音できないテープレコーダーが売れるはずがないと反対された。1979年7月、発売。街を歩きながら、電車に乗りながら、自分だけの音に包まれる。それまで音楽は、その場にいる人が共有するものだった。ここから、同じ場所にいながら別々の音を聴くことが当たり前になる。人前でヘッドホンをすることへの違和感は、数年で消えた。いまのイヤホンの景色は、この機械から始まっている。東京
- スリーマイル島原発事故できごとAD1979年3月28日止まった原発の建設1979年3月28日、アメリカのペンシルベニア州の原子力発電所で、冷却の水を送る仕組みが止まり、弁の故障と運転員の判断の誤りが重なって、炉心の半分近くが溶けた。放射性の物質の一部が外へ出て、妊婦と幼い子どもに避難が勧告される。死者は出なかったとされるが、偶然にも十二日前に原発事故を描いた映画が公開されていたこともあって、不安は全国に広がった。アメリカでは、その後長く新しい原発の建設が止まった。スリーマイル島
- 貼ってはがせる紙できごとAD1980年失敗作に、用途が後から追いついた1968年、化学メーカーの研究者スペンサー・シルバーは、強い接着剤を作ろうとして、弱くしか付かない接着剤を作ってしまった。使い道が見つからないまま、社内で紹介し続ける。同僚のアート・フライは、教会の聖歌隊で、譜面に挟んだしおりが落ちるのに困っていた。この糊を塗れば、貼ってもはがせる。試作品は社内で評判になったが、売り出しても最初は売れず、無料で配って使わせてから広まった。1980年に全国で発売される。失敗作に、用途が後から追いついた。セントポール
- TGVの営業開始できごとAD1981年9月27日在来線に乗り入れる高速鉄道日本の新幹線の成功を見たフランスは、独自の高速鉄道を開発した。1981年9月27日、パリとリヨンの間で、TGV(高速列車)の営業運転が始まった。新しく造った専用の線路を時速260キロで走り、それまで4時間ほどかかった道のりを2時間40分に縮めた。専用の線路を出れば、在来の線路にもそのまま乗り入れられるのが強みだった。TGVの路線は国中に広がり、フランスの国内の空の便を減らした。2007年には、試験の列車が時速574.8キロの、車輪で走る列車の世界記録を出している。リヨン
- コンパクトディスクの発売できごとAD1982年10月1日擦り減らない数字として売る1982年10月1日、日本でソニーなどが、音をデジタルの数字にして直径12センチの円盤に刻み、光で読み取るコンパクトディスクと、その再生の機械を売り出した。オランダのフィリップスとソニーが共同で規格を決めたもので、最初に並んだ一枚はビリー・ジョエルの『ニューヨーク52番街』とされる。録音できる長さの74分は、ベートーヴェンの第九が一枚に収まるように決めたという話が伝えられている。針も溝も擦り減らない。日本では1986年にレコードの売上を抜き、音楽がデジタルの信号として売られる時代が始まった。東京
- ファミリーコンピュータの発売できごとAD1983年7月15日半値で出すための部品の買い方1983年7月15日、京都の任天堂は、家庭のテレビにつないで遊ぶゲーム機「ファミリーコンピュータ」を14800円で売り出した。花札とトランプの会社だった任天堂は、安い部品で性能を出す設計で、他社の機械より大幅に安くした。1985年の『スーパーマリオブラザーズ』は、世界で数千万本を売る。アメリカでは、質の悪いソフトがあふれて家庭用ゲームの市場が崩れたばかりだったが、任天堂は他社のソフトに審査を課して信頼を取り戻し、市場を立て直した。家庭でゲームをすることが、世界の子どもの日常になった。京都
- マッキントッシュできごとAD1984年1月24日画面を指し示して操作するそれまでのパソコンは、黒い画面に命令の文字を打ち込んで使うものだった。スティーブ・ジョブズの会社は、研究所で見た画面の上の窓と絵とマウスで操作する方式を、家庭で買える値段の機械に載せた。1984年1月24日、マッキントッシュが発表される。二日前のアメリカンフットボールの決勝の中継で、画一的な支配を若い女性がハンマーで打ち砕く広告が一度だけ流れ、話題になった。画面を指し示して操作するやり方が、やがてすべての計算機の標準になる。クパチーノ
- 日航機墜落事故できごとAD1985年8月12日単独の機体の事故として、世界最悪1985年8月12日の夕方、羽田から大阪へ向かった日本航空123便は、離陸して十二分後に後部の圧力隔壁が壊れ、尾翼と油圧を失った。操縦士たちは三十分あまり機体を保とうとしたが、群馬県の御巣鷹の尾根に墜ちる。乗っていた五百二十四人のうち五百二十人が亡くなり、単独の機体の事故としていまも世界最悪である。七年前の事故のあと、製造会社が行った隔壁の修理に誤りがあった。お盆の帰省の便だった。御巣鷹の尾根(位置は特定されていない)
- チェルノブイリ原発事故できごとAD1986年4月26日リクビダートル午前1時23分、試験中の4号炉が爆発した。黒鉛が10日燃えた。政府は2日黙り、スウェーデンの観測所が気づいた。プリピャチの5万人は36時間後に出た。消防士と「リクビダートル」60万人。死者は31人とも数万人とも。ゴルバチョフは「これが本当のペレストロイカの始まり」と言った。チェルノブイリ
- チャレンジャー号の事故できごとAD1986年1月28日組織が危険の声を聞かなかった1986年1月28日の朝は、フロリダでは珍しく冷え込んだ。スペースシャトル・チャレンジャーは、初めて民間の教師を乗せていた。打ち上げから七十三秒後、機体は空中で分解し、七人全員が死ぬ。授業の一環として、多くの子どもがテレビで見ていた。燃料の継ぎ目を塞ぐゴムの輪が、寒さで硬くなって役目を果たさなかった。技術者たちは前夜、延期を訴えていたが退けられた。組織が危険の声を聞かなかったことが、事故の本当の原因とされた。ケープカナベラル
- 青函トンネルできごとAD1988年3月13日計画と完成のあいだに、時代が変わる1954年、台風で青函連絡船の洞爺丸が沈み、千百人を超える人が亡くなった。海の底を掘って本州と北海道を結ぶ計画が、この事故をきっかけに動き出す。海底の下の軟らかい地層から水が噴き出し、工事は何度も止まった。二十年以上かかり、三十人を超える人が命を落とす。1988年3月13日、全長五十三キロあまりの、当時世界で最も長い鉄道のトンネルが開通した。そのころには、人の多くはすでに飛行機で移動するようになっていた。津軽海峡(位置は特定されていない)
- World Wide Web の誕生できごとAD1989年印刷術以来の変化CERNで提案された仕組みが、誰でも情報を出せる世界を作った。印刷術以来の変化になる。ジュネーヴ
- コラ半島超深度掘削坑できごとAD1989年ソ連が、地殻の底まで掘ることを目指した。1970年に開始し、1989年に12,262メートルに達する。人が開けた最も深い穴である。それでも地殻を抜けていない。得られたもの。予想より深くまで水があった。花崗岩と玄武岩の境と思われていた層は、境ではなく圧力による変質だった。深さ六千メートルの岩から、二十億年前の微化石が出た。温度が想定より高く、二百度近い泥の中では掘進できず、そこで止まった。コラ半島(位置は特定されていない)
- ハッブル宇宙望遠鏡できごとAD1990年4月24日地上の望遠鏡は、大気の揺らぎで星の像がにじむ。大気の外に望遠鏡を置く計画は数十年かかり、1990年4月24日、スペースシャトルで打ち上げられた。ところが最初の画像はぼやけていた。主鏡の形が、髪の毛の数十分の一だけ狂っていたのである。1993年、宇宙飛行士が軌道上で補正の装置を取り付けると、見違えるほど鮮明な像が届いた。遠い銀河の姿は、宇宙の年齢を測り直させ、多くの人に宇宙の美しさを見せた。ケープカナベラル
- 嗅覚受容体できごとAD1991年リンダ・バックとリチャード・アクセルが、鼻の奥の細胞にある受容体の遺伝子の一群を見つけた。数は約千。哺乳類の全遺伝子の三パーセントがこれに充てられていた。一つの細胞は一種類の受容体だけを作り、同じ受容体を持つ細胞は脳の同じ場所へ配線される。匂いの分子は複数の受容体に、それぞれ違う強さで結びつく。その組み合わせの型が、匂いの正体である。視覚が三種類の受容体で色を作るのに対し、嗅覚は千種類の組み合わせで匂いを作る。2004年、二人はノーベル賞を受けた。ニューヨーク
- ユニコードできごと1991年10月文字化けをなくすコンピューターは文字を数字に置き換えて扱うが、その対応の決め方は国や会社ごとにばらばらだった。日本語の文書を別の仕組みのコンピューターで開くと、文字化けして読めなくなった。1980年代の末、ゼロックスやアップルの技術者たちは、世界のすべての文字に一つずつ番号を振る仕組みを考え、「ユニコード」と名づけた。1991年1月にユニコード・コンソーシアムが作られ、10月に最初の版が出た。日本と中国と韓国の漢字を同じ字として一つにまとめたことには、日本で反発も起きた。いまでは十五万を超える文字と、日本で生まれた絵文字が収められ、インターネットの文字のほとんどがユニコードで書かれている。マウンテンビュー
- ショートメッセージできごとAD1992年12月3日規格の隙間に入れたおまけが、最大の収入源になった携帯電話の規格を作るとき、通話の制御に使う隙間の信号に、短い文字を載せられることが分かった。おまけのような機能である。1992年12月、技術者がパソコンから同僚の携帯へ「メリークリスマス」と送った。最初のショートメッセージとされる。当初は受け取るだけで、送るには手間がかかった。ところが若者が使い始め、数字キーを何度も押して文字を打つやり方が広まる。通話より安く、相手の時間を奪わない。電話会社が本命と思っていなかった機能が、最大の収入源になった時期がある。ニューベリー
- 海の上の空港できごとAD1994年9月4日騒音を避けて、海の危険を引き受けた大阪の空港は住宅地の中にあり、騒音への訴えで夜は飛べなかった。沖合五キロの海を埋め立てて島を造り、そこに空港を置く。1994年9月4日、日本で初めて二十四時間使える国際空港として開港した。だが海の底の軟らかい粘土の上に造った島は、予想を超えて沈み続け、護岸を高くする工事が続く。2018年の台風では、高潮で滑走路が水に浸かり、連絡橋にタンカーがぶつかって島が孤立した。関西国際空港
- 英仏海峡トンネルの開通できごとAD1994年5月6日島国が鉄道で大陸とつながるイギリスとフランスの間の海峡の下にトンネルを掘る計画は、ナポレオンの時代から何度も持ち上がったが、島国の守りが崩れることを恐れるイギリスが、そのたびに止めてきた。1980年代、両国の首脳はついに民間の資金で掘ることに合意し、両岸から掘り進めたトンネルは、1990年12月、海の下でつながった。1994年5月6日、エリザベス2世女王とミッテラン大統領が開通を祝った。全長50キロあまりのうち、38キロは海の下を通る。秋にはロンドンとパリを3時間で結ぶ列車ユーロスターが走り始め、イギリスは鉄道で大陸とつながった。英仏海峡トンネル(位置は特定されていない)
- ウィンドウズ95できごとAD1995年8月24日パソコンが家庭に入った年ビル・ゲイツの会社は、ほとんどのパソコンに載る基本のソフトを握っていた。1995年8月24日、新しい版のウィンドウズが世界で売り出される。画面の隅のスタートボタンから操作を始める形が、ここで定まった。日本では十一月の発売日の深夜、秋葉原に長い行列ができた。のちにインターネットを見るソフトを組み込んだことが競争を不当に妨げているとして、アメリカ政府に訴えられる。パソコンは、この年から一気に家庭に入っていった。レドモンド
- ポケットモンスターの発売できごとAD1996年2月27日虫捕りを、通信の線の上に1996年2月27日、任天堂の携帯用ゲーム機ゲームボーイのソフト『ポケットモンスター 赤・緑』が発売された。作ったのは、子どものころ町田の雑木林で虫を捕って遊んだ田尻智のゲームフリークである。151種の「ポケモン」を捕まえて育て、通信の線で友達と交換する。赤と緑でそれぞれにしか出ないポケモンがいて、全部を集めるには友達が要った。発売の直後は目立たなかったが、口伝えで広がり、アニメとカードゲームが加わって世界に広がる。日本で生まれたものとして、世界で最も稼いだキャラクターの一つになった。東京
- 京都議定書できごとAD1997年12月11日削減を義務にした最初温室効果ガスの削減を、先進国に法的義務として課した最初の条約。2008〜12年に、1990年比で全体5%(EU8%、アメリカ7%、日本6%)。排出量取引とクリーン開発メカニズム。アメリカは署名して批准せず、カナダは2011年に離脱し、中国とインドには義務がなかった。2015年、パリ協定が、全ての国が自分で目標を出す方式に切り替えた。京都国際会館

- 海のごみできごとAD1997年ヨットで太平洋を横断していたチャールズ・ムーアは、風の弱い環流の海域で、何日走っても水面に細かなプラスチックの破片が浮いているのを見た。ごみの島があるわけではない。日光と波で砕けた粒が、スープのように水中に漂っている。回収は難しく、魚や海鳥の体内から見つかるようになった。プラスチックは安く、軽く、腐らないという長所で広まった素材である。その腐らないという性質が、そのまま問題になった。捨てるとは、どこかへ移すことにすぎないと、この海域が示している。北太平洋の環流(位置は特定されていない)
- 計算機がチェスの王者に勝つできごとAD1997年5月11日考えたのか、数えたのかチェスは長く、知性の試金石とされてきた。コンピュータ会社IBMのディープ・ブルーは、一秒に二億の局面を読む専用の機械だった。前年には世界王者ガルリ・カスパロフに敗れたが、1997年5月11日、ニューヨークでの六番勝負の最終局に勝ち、通算で王者を破った。カスパロフは、人の手が入っているのではないかと疑った。機械は考えていたのか、ただ速く数えていたのか。人の知性の何が特別なのか、という問いが改めて持ち出された。ニューヨーク
- 明石海峡大橋できごとAD1998年工事中の地震で塔の間隔が広がり、設計を直して続けた本州と淡路島のあいだの海峡は、潮が速く、水深があり、台風と地震の通り道でもある。中央の径間は二キロ近く、世界で最も長い吊り橋になった。工事の途中、1995年の阪神淡路大震災が起きる。二つの主塔の基礎はそれぞれ別の地盤に立っており、地面がずれて塔の間隔が一メートル近く広がった。設計を修正して工事を続け、1998年に開通する。橋を架ける難しさは、長さや重さだけではない。何十年ものあいだに動く地面と風と潮の中で、それでも持つように作ることになる。明石海峡
- リンクで順位をつけるできごとAD1998年ウェブのページが爆発的に増え、欲しい情報を探すのが難しくなっていた。スタンフォード大学の大学院生ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは、多くのページからリンクされているページほど重要だ、という考えで検索の順位をつける方法を作った。学術論文の引用の数え方に似ている。1998年、二人は会社を作り、借りたガレージで事業を始めた。やがて検索に添える広告が巨大な収入になる。何を知るかの入口を、一つの会社の計算が握るようになった。メンローパーク(カリフォルニア)
- 国際宇宙ステーションできごとAD1998年11月20日軌道の上では、同じ空気を吸う冷戦のあいだ宇宙で競い合ったアメリカとロシアが、日本、ヨーロッパ、カナダとともに、一つの宇宙の住まいを組み立てることになった。1998年11月20日、最初の部品がカザフの発射場から打ち上げられる。2000年11月からは、つねに誰かが住んでいる。日本の実験棟「きぼう」も加わった。重さは四百トンを超え、人の作った最大の宇宙の構造物である。地上で国どうしが対立しても、軌道の上では乗組員が同じ空気を吸い続けてきた。バイコヌール
- 絵文字できごとAD1999年携帯電話で短い文を送り合うようになると、そっけなさが問題になった。「わかりました」だけでは、怒っているのか普通なのか分からない。1999年、携帯電話の情報サービスの開発にいた栗田穣崇らは、十二×十二の点で描いた百七十六個の小さな絵を文字として送れるようにした。天気、顔、乗り物、ハート。声の調子や表情の代わりである。国内の規格がばらばらのまま広まり、2010年、国際的な文字の規格に取り込まれた。日本語の「絵文字」が、そのまま世界の言葉になった。東京
- ナップスターできごとAD1999年CDの棚が一つの図書館につながる1999年、ボストンの大学の一年生だったショーン・ファニングは、インターネットにつながった互いのパソコンの中の音楽の圧縮ファイルを、名前で探して直接もらえるソフトを作った。ナップスターである。二年足らずで数千万人が使い、音楽はただで手に入るものになった。ヘヴィメタルのバンド、メタリカや、レコード会社が著作権の侵害で訴え、2001年、裁判所の命令で止められる。しかし、ファイルを分け合う技術は止まらず、レコード会社の売上は長い下り坂に入った。ボストン
- 電子の署名できごとAD2000年制度の遅れは、技術ではなく合意の遅れになる紙に書いた署名は、筆跡と紙の存在が本人性を支えていた。取引が通信の上に移ると、その支えが無くなる。暗号の技術で、本人しか作れない値を文書に付け、改ざんがあれば分かるようにできる。問題は、それを法が認めるかどうかだった。2000年、アメリカの法が、電子的な署名を紙の署名と同じに扱うと定める。日本も同じ年に法を作った。技術はすでにあり、足りなかったのは「これでよい」と決めることである。多くの場合、制度の遅れは技術ではなく、合意の遅れになる。ワシントンD.C.
- iPodの発売できごとAD2001年10月23日千曲をポケットに2001年10月23日、アップルのスティーブ・ジョブズは、「千曲をポケットに」という言葉とともに、小さな硬いディスクを積んだ携帯の音楽の再生機iPodを発表した。回して選ぶ輪の形の操作も新しかった。2003年には、一曲99セントで歌を買えるネットの店を開き、ナップスターで違法に分け合われていた音楽に、手軽で合法な買い方を示す。人々はアルバムではなく一曲ずつ買うようになった。iPodは、のちの携帯電話iPhoneにつながり、アップルを世界で最も大きな会社の一つに押し上げた。クパチーノ
- ヒトゲノム計画できごとAD2003年4月14日データは全部公開された1990年に始まり、6か国の20の研究所で13年、30億ドル。30億の塩基対を読んだ。途中からクレイグ・ヴェンターの民間の会社が別の方法で追い上げ、2000年、ホワイトハウスで「引き分け」の共同発表になった。遺伝子は10万個と思われていたのが、2万個ほどしかなかった。データは全部、無償で公開された。いま、1人分を読むのに数百ドル、1日。ワシントンD.C.
- 実名でつながるできごとAD2004年2月4日2004年2月4日、ハーヴァード大学の学生マーク・ザッカーバーグは、同じ大学の学生が実名と顔写真で互いのページを見られるサイトを始めた。すぐに他の大学に、やがて世界じゅうの誰にでも広がる。友人の近況が次々に流れてくる画面は、利用者の関心を引きつけ続けるように計算され、その関心が広告の売り物になった。利用者は二十億人を超える。選挙への干渉や、偽りの情報や、民族への憎しみを広げる道具にもなったと批判されている。ケンブリッジ(マサチューセッツ)
- YouTubeの開設できごとAD2005年2005年、カリフォルニアで、決済の会社ペイパルにいた三人の若者が、誰でも動画を載せて、誰でもブラウザで見られるサイトYouTubeを作った。最初の動画は、動物園の象の前で共同創業者が話す19秒のものだった。回線が速くなり、デジタルのカメラが安くなった時代に、動画を放送局を通さずに世界に届ける道が開けた。翌年、グーグルが買い取る。個人が作った動画が、テレビの番組と同じように、あるいはそれ以上に見られるようになり、動画で稼ぐ人も現れた。サンマテオ
- スマートフォンの登場できごとAD2007年6月29日電話とネットとカメラが一枚のガラスになった。10年で世界の半分がそれをポケットに入れる。人が何を見て何時間を使うかが、この板で決まるようになった。クパチーノ
- 緊急地震速報できごとAD2007年10月1日揺れる前に知る、数秒地震の揺れには、速く伝わる小さな揺れと、遅れて来る大きな揺れがある。震源の近くの観測点で最初の揺れを捉えれば、大きな揺れが届く前に、数秒から数十秒の猶予ができる。2007年10月1日、気象庁は、この仕組みで強い揺れを知らせる速報を一般に流し始めた。列車を止め、手術の手を止め、机の下に入る時間になる。震源に近い場所では間に合わず、外れることもある。それでも、揺れる前に知るという、かつて無かった数秒が生まれた。東京
- スヴァールバル世界種子貯蔵庫できごとAD2008年2月26日凍土が電気なしで温度を保つ北極圏の島の、永久凍土の山腹に、130メートルの坑道を掘って作られた。各国の種子銀行が、その複製を預ける。所有権は預けた側にあり、貯蔵庫は開けない。金庫の貸金庫と同じ仕組みである。零下18度に保つが、電気が止まっても凍土が数十年、温度を保つ。収蔵は120万点を超えた。2015年、シリアの内戦で研究所を失ったICARDAが、初めて引き出しを求めた。中東の乾燥地の小麦と大麦の種が、モロッコとレバノンへ送られ、殖やされ、そして返された。スヴァールバル
- はやぶさの帰還できごとAD2010年6月13日あきらめない運用の物語日本の探査機はやぶさは、2003年に打ち上げられ、小惑星イトカワに降りて表面の粒を取った。だがその後、燃料が漏れ、通信が途絶え、四台あるエンジンは次々に故障する。技術者たちは、壊れたエンジンの使える部分を組み合わせて動かし続けた。予定より三年遅れの2010年6月13日、カプセルを切り離し、機体は大気の中で燃え尽きる。オーストラリアの砂漠に降りたカプセルには、世界で初めて小惑星から持ち帰った微粒子が入っていた。ウーメラ
- メキシコ湾原油流出できごとAD2010年4月20日2010年4月20日、メキシコ湾の沖で、海底の油井を掘っていた掘削の施設が爆発し、十一人が死んだ。水深千五百メートルの海底の井戸から原油が噴き出し続け、止められたのは八十七日後だった。流れ出た量は、史上最大の海の原油の流出とされる。漁業と観光は大きな打撃を受けた。石油会社は数兆円の賠償と罰金を払う。深い海の底まで石油を追いかける時代の危うさが、はっきりと示された。メキシコ湾の油井(位置は特定されていない)
- 東日本大震災と福島第一原発事故できごとAD2011年3月11日技術が支えていたものが、一度に止まった地震と津波で2万人近くが亡くなり、原子炉が制御を失った。各国のエネルギー政策が見直される。福島第一
- CRISPR-Cas9によるゲノム編集できごとAD2012年6月28日細菌がウイルスを切る仕組みを、狙った場所でDNAを切る道具にした。安く、速く、誰でも使える。人の胚を編集した実験が3年後に報告される。バークレー
- アルファ碁できごとAD2016年3月15日機械が人に教える時代囲碁は打てる手が多すぎて、チェスのようにすべてを読むことができない。計算機が人に勝つのは十年は先だと言われていた。2016年3月、ソウルで、グーグル傘下の会社が作ったアルファ碁が、世界の頂点にいた李世ドルと五番勝負を打ち、四勝一敗で勝つ。自分自身と膨大な対局を重ねて学んだ機械は、人が数千年打ってこなかった手を打った。李世ドルが勝った一局は、人が機械に勝った最後の公式戦の一つになった。ソウル
- キログラムの再定義できごとAD2019年5月20日セーヴルの金庫にある金属の塊が、世界の質量の基準だった。しかしその原器は、同時に作られた複製と比べて百年で五十マイクログラムほどずれていた。原器が変われば、定義上、宇宙の全質量が変わることになる。2018年の国際度量衡総会は、プランク定数の値を定義として固定し、キログラムをそこから導くことに決めた。アンペア、ケルビン、モルも同時に定数で定義され、七つの基本単位すべてが人工物から離れた。ヴェルサイユ
- 生成AIの普及できごとAD2022年11月30日文章を書く機械が公開され、2か月で1億人が使った。書く・訳す・描く・調べるという仕事の前提が、数年で組み替えられていく。サンフランシスコ
- 賈思勰人物羊を飼って失敗した青州の益都の人。高陽太守。それ以外ほとんど分からない。『斉民要術』10巻。「経伝を採り、歌謡を捜し、老いた人に聞き、自分で試した」。羊を飼って失敗した話を書いた。中国最古の農書、最古の料理書、最古の醸造書。
重なっているストーリー
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確かめるという方法89件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。交易路とお金86件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。都市の歴史71件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。表現の歴史34件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。交通と旅の歴史34件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。メディアの歴史27件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。働くことの歴史25件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。二つの大戦23件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。誰が書き残したか23件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。女性の権利21件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。考えることの歴史21件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。冷戦のあと19件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。食の歴史16件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。海の歴史16件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。感染症と人類14件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。帝国と独立12件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。『繁栄』で読む歴史11件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。住まいの歴史11件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。探検と発見10件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。『サピエンス全史』で読む歴史10件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。言葉と文字の歴史10件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。冷戦9件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。武士の700年9件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。中国の王朝9件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史8件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。明治6件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。文明のはじまり6件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『世界史』(マクニール)で読む歴史6件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ホモ・デウス』で読む次の歴史6件を共有 / 飢餓と疫病と戦争を抑え込んだ人類が、次に何を目指すか。『サピエンス全史』の続編。宗教改革と科学革命5件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。イスラム世界5件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。民族移動の時代5件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。キリスト教のひろがり5件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。コテンラジオで聞く歴史5件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史5件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史5件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。教育の歴史5件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。お金の歴史5件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。古代オリエント4件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。朝鮮半島4件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。日本の古代4件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史4件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『文明崩壊』で読む歴史4件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『大分岐』で読む歴史4件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。インドと仏教3件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。主権はだれのものか3件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。『想像の共同体』で読む歴史3件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。老いと死の歴史3件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史3件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。ローマ人の物語2件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。草原の帝国2件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で読む歴史2件を共有 / 資本主義を生んだのは強欲ではなく、救われているか分からない不安だった、という100年前の論文。『大転換』で読む歴史2件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙2件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層2件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『交易の世界史』で読む物の流れ2件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。『リオリエント』で読む世界経済2件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。障害の歴史2件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。戦争と平和の歴史2件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。ポエニ戦争1件を共有 / 地中海の覇権をめぐる、ローマとカルタゴの120年。三度戦い、三度目でカルタゴは消えた。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『暴力の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『万物の黎明』で読む歴史1件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『菊と刀』で読む日本1件を共有 / 一度も日本へ行かないまま、戦時中のアメリカで書かれた日本人論。読み継がれ、批判され続けている。『失敗の本質』で読む日本軍1件を共有 / なぜ負けたのかを、作戦ではなく組織の性質から説明した本。六つの作戦を並べて、同じ型を取り出す。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。『砂糖の世界史』で読む世界商品1件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。『昨日までの世界』で読む伝統社会1件を共有 / 国家のない社会は、争いも子育ても老いも、私たちと違うやり方で扱ってきた。何を学べるか。差別の歴史1件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。性の歴史1件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。近代と宗教1件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。子どもの歴史1件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教1件を共有 / 源平の争乱で焼けた寺の再建と、新しい仏教の広がり。12世紀の終わりから14世紀の初めにかけての、武士と民衆が担い手になった文化。