世阿弥
概要
能を大成し、『風姿花伝』に稽古と芸の理論を書き残した。晩年は佐渡へ流される。
所属
日本関わったできごと(1)
『風姿花伝』AD1400年頃 · 著者本文
1363年頃、大和の猿楽の一座、結崎座を率いる観阿弥の子として生まれた。猿楽は、物まねや滑稽な寸劇を出し物とする芸能で、寺社の祭礼に付き従って演じられていた。演じ手の身分は低く、貴族の目から見れば、道ばたの芸人と変わらない。観阿弥はそこに、歌と舞の要素を大きく取り入れ、一座の芸を都でも評判のものにしていた。
1374年(一説に翌年)、京都の今熊野で観阿弥の一座が猿楽を演じた。見物に来ていたのが、17歳の将軍足利義満だった。義満はこの父子の芸に打たれ、以後、一座を庇護するようになる。世阿弥は数えで12歳、藤若と呼ばれていた。将軍の寵愛は、芸だけでなく少年の美しさにも向けられていたとされる。1378年の祇園祭では、義満が桟敷に世阿弥を同席させ、杯を与えた。これを見た公家の三条公忠は、日記に、こうした者を近づけるのは乞食の所業だ、と不快を書きつけている。一方で、和歌と連歌の第一人者だった関白二条良基は少年を気に入り、教養を授けた。世阿弥の芸の言葉の美しさは、この頃に身につけたものと考えられている。
1384年、父が死に、20歳過ぎで一座を継いだ。父の芸は物まねの巧みさにあったが、世阿弥はそこから「幽玄」を中心に置いた芸へと移していく。優美で、品があり、余韻を残す美しさである。将軍や公家という目の肥えた観客の好みに合わせたものでもあった。
1400年頃から、芸の心得を書き記し始めた。それが『風姿花伝』である。年齢ごとの稽古の仕方から始まる。7歳で始める子には、自然に出てくるものをさせよ。12、3歳の少年の魅力は、声も姿も美しいが、それは「時分の花」、その年頃だけの花にすぎない。本当の花は、稽古を尽くした先に咲くものだ。観客が何を面白いと感じるかは、相手の予想の外にある。だから手の内を明かしてはならない。「秘すれば花なり」の言葉はここにある。もともと一族の跡継ぎにだけ伝える秘伝の書で、外に広く知られるのは、明治の末に歴史学者の吉田東伍が刊行してからのことだ。
能の作品も多く書いた。旅の僧の前に土地の霊や亡者が現れ、昔の出来事を語って舞い、夜明けとともに消える。いまの能の典型である「夢幻能」の形は、世阿弥が完成させたとされる。『井筒』『高砂』『忠度』などが彼の作とされる。60歳を過ぎて書いた『花鏡』には、舞う自分の姿を、観客の席から見るように見よ、という「離見の見」や、「初心忘るべからず」の言葉が出てくる。
だが、庇護は永遠ではなかった。1408年に義満が死ぬと、次の将軍義持は田楽を好んだ。1429年に将軍となった義教は、世阿弥の甥の音阿弥をひいきにし、世阿弥父子を遠ざけた。御所での上演を禁じられ、都の大きな舞台も音阿弥に奪われた。1430年には次男元能が芸を捨てて出家し、1432年、跡を継がせていた長男の元雅が、旅先の伊勢で急死した。芸を伝える相手がいなくなった。
1434年、数えで72歳の世阿弥は、理由を明かされないまま佐渡へ流された。島で書いた小謡の集『金島書』が残っていて、流される船旅や佐渡の風景を、淡々とした言葉でつづっている。その後、許されて都へ戻ったのか、島で死んだのかは分からない。1443年頃に死んだとされるが、場所も確かではない。
観世の名を継いだのは、皮肉にも音阿弥の家系だった。いまの観世流は音阿弥の子孫が受け継いでいる。それでも、世阿弥の作った作品と理論は、その後の能のすべての土台になった。北山文化と金閣に象徴される北山の文化のなかで、河原の芸能は、武家と公家が仰ぎ見る芸術へと変わった。江戸時代に入ると、能は幕府の儀式の芸能(式楽)となり、大名たちが競って稽古した。同じ頃に生まれた出雲阿国のかぶき踊りから育った歌舞伎も、能の演目や舞台の形を借りている。600年あまりたったいまも、世阿弥の書いた謡が、同じような舞台で謡われている。