概要
ロンドンの蝋燭屋の子、非国教徒。商人(靴下、煉瓦、ジャコウネコ)で破産。パンフレット。『非国教徒への近道』(1702年、皮肉を本気に取られて)で晒し台に立たされ、群衆が花を投げた。政府の密偵(スコットランド合同の工作)。『ロビンソン・クルーソー』(59歳)、『モル・フランダース』、『ペスト年代記』、『ロクサーナ』。500以上の著作。借金取りから隠れて死んだ。
関わったできごと(1)
『ロビンソン・クルーソー』AD1719年4月25日 · 書いた本文
1660年頃、ロンドンのクリップルゲート。ダニエル・フォー。父ジェームズは獣脂の蝋燭屋(肉屋の組合員)。非国教徒(長老派)。1662年の統一法で牧師が追放されるのを見て育った。ペスト(1665年、5歳)、大火(1666年)。ニューイントン・グリーンの非国教徒アカデミー(オックスフォードとケンブリッジは国教徒だけ)。牧師になるはずで、商人になった。靴下、ワイン、タバコ、ジャコウネコ(香料。70匹)、煉瓦とタイル(ティルベリー)、潜水鐘。1684年、メアリ・タフリーと結婚(持参金3700ポンド)。子供8人。
1685年、モンマスの反乱に加わった(セッジムーアから逃げた。恩赦)。1688年、ウィリアムの側。1692年、破産。1万7000ポンド。債務者監獄。1695年頃から「デフォー」(フランス風にした)。パンフレット。『企画論』(1697年。銀行、保険、女子教育、精神病院、道路)。『真正のイングランド人』(1701年。ウィリアム3世を「外国人」と攻撃する人々に。「真正のイングランド人とは、矛盾だ。言葉の上でも、事実の上でも、風刺だ」。イングランド人は混血だ)。
1702年12月、『非国教徒への近道』。高教会の狂信者の口調で、「非国教徒を絞首刑にし、追放せよ」。皮肉だった。高教会派は本気だと思って喜び、それから皮肉だと気づいて怒った。非国教徒も怒った。1703年、逮捕。扇動的誹謗。罰金、ニューゲート、晒し台3日(7月29〜31日。テンプル・バー、チープサイド、コーンヒル)。晒し台の前に『晒し台への賛歌』を刷った。群衆は石でなく花を投げて、彼の健康を祝って飲んだ、と伝える(本当かは怪しい)。
ロバート・ハーリー(後のオックスフォード伯、トーリー)が出した。代わりに、ハーリーの密偵と、ハーリーの新聞。『レヴュー』(1704〜13年。週2〜3回、ほとんど一人で書いた)。1706〜07年、エディンバラ。スコットランドとの合同(1707年)のための工作。「私は商人として、宗教者として、暖炉の話に混ざって、合同を語った」。ハーリーの後は、ホイッグのゴドルフィンにも、またハーリーにも、1714年以後はホイッグのタウンゼンドにも。トーリーの新聞に潜り込んで、内側から骨抜きにした。「政府の秘密の代理人」。
『ロビンソン・クルーソー』(1719年、59歳)。『続編』(1719年)。『シングルトン船長』(1720年)。『ペスト年代記』(1722年。1665年のロンドン。「H.F.」の日記の形。統計、通り、埋葬の穴。デフォーは5歳だった。叔父ヘンリー・フォーの記憶と、印刷物から)。『モル・フランダース』(1722年。「12年娼婦、5度妻(うち1度は自分の弟と)、12年泥棒、8年ヴァージニアの流刑囚、最後は富んで、正直に、悔悛して死んだ」)。『ジャック大佐』(1722年)。『ロクサーナ』(1724年)。『大英国全島周遊記』(1724〜26年)。『イギリスの完全な商人』(1726年)。ジャコバイトの海賊の歴史(『海賊史』、1724年。「チャールズ・ジョンソン船長」名義。デフォーの作、という説)。
『ロビンソン・クルーソー』の後、名前で出したものはほとんどない。全部で、500以上(本、パンフレット、記事)と言われる。誰の作か分からないものが多い。
1731年4月24日、ロンドン、ロープメーカーズ・アレーの下宿。「無気力」(記録)。70歳頃。借金取り(メアリ・ブルック)から隠れていた。バンヒル・フィールズ(非国教徒の墓地。バニヤンとブレイクの近く)。
「私は13回、金持ちになり、貧乏になった」。