人物

蕭統(昭明太子)

Xiao Tong
AD501年 – AD531年(享年30・推定)
梁重要度 4

概要

武帝の長子。2歳で皇太子。「3歳で孝経と論語を読んだ」。東宮に3万巻。文人を集めて『文選』。母の墓の地に「墓に呪いを埋めた」と讒言され、父に疑われた。船で蓮を取っていて落ち、31歳で死んだ。昭明。息子は継げず、弟が継いだ。

関わったできごと(1)

『文選』AD530年頃 · 編者

本文

蕭統は、南朝梁の皇太子で、諡を取って昭明太子と呼ばれる。字は徳施。即位することなく31歳で世を去ったが、彼の名で編まれた詩文集『文選』は、その後千年以上にわたって東アジアで文章を学ぶ者の教科書になった。

501年、襄陽で生まれた。父の蕭衍が、南斉の暴君を倒すために兵を挙げた年である。翌502年、父は梁を建てて皇帝になり(蕭衍(梁の武帝)、梁の武帝)、数えで2歳の蕭統を皇太子に立てた。母は側室の丁令光で、のちに貴嬪の位を受けた。

『梁書』は、幼い皇太子の聡明さを書き連ねる。3歳で『孝経』と『論語』を学び、5歳で五経をすべて読んだ。本を読むときは数行を同時に目で追い、一度目を通したものは忘れなかった。宮中の宴で詩を作らせると、その場ですぐにできあがり、直す必要がなかったという。誇張はあるにせよ、早くから学問と文学に打ち込んだのは確かだろう。

成長した太子の住む東宮には、3万巻近い書物が集められた。そこには劉孝綽、王筠、陸倕、到洽、殷芸といった当時の一流の文人が出入りし、太子と議論し、詩を作り合った。文学理論の古典『文心雕龍』を書いた劉勰も、東宮の役人として太子に重んじられている。父の武帝自身が学問と仏教を好んだ皇帝で(梁の武帝の捨身)、梁の都建康は南朝の文化が最も華やいだ場所になっていた。

この東宮の文人たちとともに、太子は周の時代から梁に至るおよそ八百年の詩文から、優れたものを選び出した。それが30巻の『文選』である(『文選』)。収められたのは130人ほどの作者の700編あまり。賦、詩、詔、上奏文、手紙、論、弔辞など、文章の形ごとに分けて並べてある。序文で太子は、儒教の経典や諸子の書、歴史書は選ばないと断り、深い思索から生まれ、美しい言葉に結実したものを採る、という基準を示した。思想や記録ではなく、文章の美しさそのものを価値とした選集だった。

『文選』に関わる図版:Zhao Ming Wen Xuan, He edition
『文選』Wikimedia Commons He Zhuo 何焯 (Life time: AD 1661 - 1722) · Public domain

太子は陶淵明を高く評価し、その文集を編んで、序文と伝記を書いた。生前にはあまり重んじられなかった陶淵明の作品が後世に伝わったのは、この太子の功績が大きい。

人柄は温厚で、慈悲深かったと伝えられる。飢饉の年には東宮の蓄えを出して民に施し、自分の衣食を切り詰め、父に刑罰を軽くするよう何度も願い出た。仏教への信仰も父に劣らなかった。

その穏やかな人生に影を落としたのが、526年の母の死である。『南史』によれば、墓所を選ぶとき、ある道士が、この土地は長男に不吉だと言い、蝋で作った鵞鳥などを埋めてまじないをした。これを知った宦官が武帝に、太子が父を呪うものを埋めたと告げた。武帝が掘らせると、確かに蝋の鵞鳥が出てきた。太子は深く恥じ、弁明もできないまま、父との間にわだかまりが残ったという。この話は正史の『梁書』には見えず、どこまで事実かは分からない。

531年の春、太子は宮中の池に舟を浮かべて蓮を摘んでいて、水に落ち、腿を痛めた。父に心配をかけまいと傷を隠していたが、病は重くなり、4月に死んだ。数えの31歳。武帝は声を上げて泣いたという。

武帝は、太子の息子の蕭歓を跡継ぎにせず、太子の弟の蕭綱を新しい皇太子に立てた。その後の梁は崩れていく。548年に侯景の乱が起き、86歳の武帝は都を囲まれて幽閉されたまま死に、帝位についた蕭綱も侯景に殺された。蕭統の子の蕭詧は、北の西魏の後ろ盾を得て、江陵に小さな王朝(後梁)を立てた。その孫娘が、隋の煬帝の皇后となった蕭皇后である。

『文選』は唐の時代に科挙の受験生の必読書になった。658年には李善が詳しい注を付けて60巻にした。宋代には「文選に熟達すれば、科挙の半ばは通ったも同然」という言い回しまであった。

日本にも早くに伝わり、奈良時代の役人や文人がこれで漢文を学んだ。清少納言は『枕草子』で、書物として『白氏文集』に続けて『文選』を挙げている(『枕草子』)。2019年に定められた元号「令和」は、『万葉集』の梅花の歌の序文から取られたが、その一節は、『文選』に収められた後漢の張衡の「帰田賦」の言い回しを踏まえたものと指摘されている。千五百年前の皇太子が東宮で選んだ文章が、いまの日本の元号の奥にも流れている。

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