できごと

写真の発明

Daguerreotype
AD1839年8月19日
重要度 5
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1839年8月19日パリ
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概要

ニエプスが1826年に8時間の露光で窓の外を写し、その死後、共同研究者ダゲールが銀を蒸着した銅板を使う方法を完成させた。露光は数十分。フランス政府が特許を買い上げ、この日、科学アカデミーで公開して「世界への贈り物」とした。同じ頃イギリスのタルボットが、紙の陰画から何枚でも焼く方法を作っていた。一点物か複製か。写真術は後者を選び、それが絵画と記憶と証拠のあり方を変えた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

暗い箱の壁に小さな穴を開けると、外の景色が上下逆さまになって、向かいの内壁に映る。この現象は古くから知られていた。紀元前4世紀ごろ、中国の墨子の一派とギリシアのアリストテレスがそれぞれ書き残し、11世紀にはイブン・アル=ハイサムが『光学の書』で詳しく論じている。ラテン語で「暗い部屋」を意味するカメラ・オブスクラである。穴にレンズを付ければ像は明るく鮮やかになり、ルネサンス以降、画家たちはこれを下絵を取る道具に使った。ヨハネス・フェルメールが使っていたのではないか、という説も繰り返し論じられている。

問題は、映った像を留めておけないことだった。1727年、ドイツの学者ヨハン・ハインリヒ・シュルツェは、銀を溶かした液が熱ではなく光によって黒くなることを見つけた。瓶に切り抜いた文字の紙を貼って日に当てると、文字の形が浮かび上がる。だが、その像を定着させる方法が無かった。明るいところに出せば、全体が光を浴びて真っ黒になってしまう。

1840年にバイエルン州で撮影されたダゲレオタイプ。前列左端の女性はモーツァルトの妻コンスタンツェとされている。
1840年にバイエルン州で撮影されたダゲレオタイプ。前列左端の女性はモーツァルトの妻コンスタンツェとされている。Wikimedia Commons Karl Clemens della Croce · Public domain

像を初めて留めたのは、フランス中部シャロン=シュル=ソーヌの裕福な家に生まれたジョゼフ・ニセフォール・ニエプスである。彼はもともと、石版画の原画を手で写す代わりに、光で写し取ろうとしていた。1820年代、光に当たると固まり、当たらなかった部分は油で洗い流せる天然のアスファルトを感光材に使う方法を見つける。1826年か1827年、彼はアスファルトを塗った錫の板をカメラ・オブスクラに入れ、自宅の2階の窓から外を写した。露光には8時間以上、一説には数日かかった。その間に日が動いたため、建物の両側に光が当たっているように写っている。『ル・グラの窓からの眺め』と呼ばれるこの一枚が、残っている最も古い写真とされ、いまはアメリカのテキサス大学にある。ニエプスはこの技法を「太陽で描く」という意味でヘリオグラフィと名付けた。

もう一人の主役は、パリの舞台美術家ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールだった。彼は大きな半透明の絵に前と後ろから光を当て、光の変化で昼が夜に、晴れが嵐に変わって見える「ジオラマ」という見世物で大当たりを取っていた。その彼もまた、カメラ・オブスクラの像を留める方法を探していた。1829年、二人は共同で研究する契約を結ぶ。だがニエプスは1833年に亡くなり、ダゲールが研究を受け継いだ。

ダゲール(1844年)
ダゲール(1844年)Wikimedia Commons Public domain

ダゲールは、銀でめっきした銅の板をヨウ素の蒸気にさらし、表面に光に感じるヨウ化銀の膜を作った。ところが、露光しても目に見える像が出てこない。伝えられるところでは、1835年、彼は露光したまま何も見えない板を薬品の入った戸棚にしまっておいた。数日後に取り出すと、像が浮かび上がっていた。どの薬品のせいかを確かめようと一つずつ取り除いても、まだ像が出る。戸棚の底には、割れた温度計からこぼれた水銀がたまっていた。水銀の蒸気が、目に見えない像を現していたのである。この話には後の伝記の脚色が含まれていると考えられ、彼が意図して水銀を試した可能性もある。いずれにせよ、目に見えない像を薬品で現す「現像」によって、露光は8時間から20〜30分ほどに縮まった。1837年には、食塩の水で余分なヨウ化銀を洗い流し、像を留める方法も確かめた。のちには、イギリスのジョン・ハーシェルが見いだしたチオ硫酸ナトリウムが使われるようになる。

1839年1月7日、パリの科学アカデミーで、物理学者で政治家のフランソワ・アラゴがこの発明を予告した。アラゴは、これを特許で囲い込ませず、国が買い取って誰もが使えるように公開すべきだと説いた。7月、議会はそれを認め、ダゲールに年6000フラン、ニエプスの息子に年4000フランの年金を与えることを決める。8月19日、科学アカデミーと美術アカデミーの合同の会で、製法が公開された。アラゴはそれを全世界への贈り物だと述べた。もっとも、ダゲールは公開の数日前、イギリスでだけはひそかに特許を取っていた。そのためイギリスでは、この技法を使うのに許しと料金が必要になった。

ウェリントン公爵のダゲレオタイプ写真
ウェリントン公爵のダゲレオタイプ写真Wikimedia Commons Antoine Claudet · Public domain

ダゲールの名を取ったダゲレオタイプは、銀の板そのものが写真になる。像は驚くほど鮮明で、細かいところまで写った。表面は鏡のようで、見る角度によって陽画にも陰画にも見える。傷つきやすいのでガラスで覆ってケースに収め、左右は鏡と同じく逆に写った。そして何より、一枚しか作れない、複製のできない写真だった。

同じ頃、イギリスでは別の方法が生まれていた。地主で学者のウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットは、1833年にイタリアのコモ湖で風景を写生しようとして、自分の絵の下手さに苛立った。自然が自分で自分を描いてくれたら、と彼は考えた。タルボットは紙に銀の塩を染み込ませて光を当て、明暗が逆になった陰画(ネガ)を作り、それを別の感光紙に重ねて焼き付けて、陽画(ポジ)を得る方法を作った。1841年に特許を取ったカロタイプである。紙の繊維が写り込むので像は粗く、ダゲレオタイプの鮮明さに押されて最初はあまり広まらなかった。だが一枚のネガから何枚でも焼ける、という原理が最後には勝った。フィルムの時代が終わるまで、写真はこのネガとポジの方式で作られ続ける。

78歳のアンドリュー・ジャクソンのダゲレオタイプ写真
78歳のアンドリュー・ジャクソンのダゲレオタイプ写真Wikimedia Commons Unidentified photographer · Public domain

そこから写真は急速に速く、手軽になった。1851年、ガラスの板に薬を塗って濡れているうちに撮る湿板が生まれ、鮮明で複製もできるようになった。1861年にはジェームズ・クラーク・マクスウェルが、三つの色に分けて撮るカラー写真の原理を示した。1870年代に乾いたまま持ち歩ける乾板が現れ、1878年、エドワード・マイブリッジは走る馬を連続して撮り、四本の脚がすべて地面を離れる瞬間があることを示した。それまでの画家は、誰もその形を描いていなかった。1888年、アメリカのコダック社は100枚撮りのフィルムを入れたカメラを売り出し、撮り終えたらカメラごと工場へ送り返せば現像して戻してくれる仕組みを作った。あなたはボタンを押すだけ、という宣伝文句が知られる。1895年にはリュミエールの映画上映で写真が動き出し、1900年には子どもでも買える1ドルのカメラが売り出された。

写真は、人の暮らしと考え方を変えた。それまで自分の顔の像を持てるのは、肖像画を頼める人々だけだった。1850年代には都市に写真館が並び、働く人々も自分や家族の写真を持てるようになった。19世紀には、亡くなった子どもの姿を撮る写真も広く撮られた。それがその子の唯一の像であることも多かった。

写真は証拠にもなった。警察は容疑者の顔を撮るようになり、1880年代にはパリ警視庁のアルフォンス・ベルティヨンが撮り方を決まった形にそろえた(ベルティヨンの人体測定法)。指名手配の写真、やがて旅券や身分証の写真が生まれる。戦争も写された。1855年、ロジャー・フェントンはクリミア戦争の戦地を撮り、1862年にはアメリカの南北戦争の激戦地アンティータムで撮られた戦死者の写真がニューヨークで展示された。新聞は、死体を自分たちの玄関先に並べられたとしても、これ以上の衝撃は無かっただろう、という趣旨の記事を載せた。

クリミア戦争に関わる図版:William Simpson - Attack on the Malakoff
クリミア戦争Wikimedia Commons William Simpson, artist (1823-1899) E[dmond]. Morin, lithographer (1824 - 1882), working for "Day & Son, lithrs. to the · Public domain

肖像や記録の仕事を写真に奪われた画家たちは、別の道を探し始めた。光の印象そのものを描こうとした第一回印象派展の画家たちから、やがて形を離れた抽象へ。画家ポール・ドラローシュはダゲレオタイプを見て「今日から絵画は死んだ」と言ったと伝えられるが、この言葉の出典は確かめられていない。そして絵画は死ななかった。写真という新しい目ができたことで、絵は、目に見えるものを写す以外の何をするのかを問われるようになったのである。

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