概要
ニエプスが1826年に8時間の露光で窓の外を写し、その死後、共同研究者ダゲールが銀を蒸着した銅板を使う方法を完成させた。露光は数十分。フランス政府が特許を買い上げ、この日、科学アカデミーで公開して「世界への贈り物」とした。同じ頃イギリスのタルボットが、紙の陰画から何枚でも焼く方法を作っていた。一点物か複製か。写真術は後者を選び、それが絵画と記憶と証拠のあり方を変えた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
**カメラ・オブスクラ**。
暗い箱に小さな穴を開けると、外の景色が、上下逆さまに、内側の壁に映る。
紀元前4世紀の墨子と、アリストテレスが記述している。11世紀の**イブン・アル=ハイサム**(『光学の書』)が詳しく論じた。
レンズを付ければ、像は明るく鮮明になる。ルネサンス以降、画家がこれを使って下絵を取った(フェルメールが使っていたという説が繰り返し論じられている)。
**問題は、像を留めることだった**。
**感光物質**。
1727年、**ヨハン・ハインリヒ・シュルツェ**が、硝酸銀の溶液が**光で黒くなる**ことを発見した(熱ではなく、光で)。
彼は、瓶に切り抜いた文字を貼って日に当て、影の形が写ることを示した。
しかし、**定着**ができない。全体を光に当てれば、すべて黒くなる。
**ニエプス**。
**ジョセフ・ニセフォール・ニエプス**。フランス、シャロン=シュル=ソーヌの裕福な家。
彼は当初、**リトグラフ**(石版画)の複製を、手描きでなく光でやろうとしていた。
1822年頃から、感光物質として**ユダヤの瀝青(アスファルト)**を使った。これは、光に当たった部分が硬化し、当たらない部分はラベンダー油で洗い流せる。
**1826年か1827年**、彼は錫の板に瀝青を塗り、カメラ・オブスクラに入れて、自宅の窓から外を撮った。
露光、**8時間以上**(日光の角度が変わったため、建物の左右の両方に光が当たっているように写っている)。
『ル・グラの窓からの眺め』。**現存する最古の写真**とされる(テキサス大学蔵)。
彼はこれを「**ヘリオグラフィ**(太陽の描画)」と呼んだ。
**ダゲール**。
**ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール**。パリの舞台美術家。
彼は「**ジオラマ**」の興行主だった。巨大な半透明の絵に、前後から光を当て、光の変化で場面が変わる見世物である(大当たりした)。
彼もカメラ・オブスクラの像を留めようとしていた。
1829年、二人は共同研究の契約を結んだ。
1833年、ニエプス死去。ダゲールは、研究を続けた。
**発見**。
ダゲールは、**ヨウ素の蒸気にさらした銀めっきの銅板**を使うことにした。表面にヨウ化銀ができ、これが感光する。
しかし、露光しても、目に見える像が出ない。
**1835年**、彼は、露光したがまだ何も見えていない板を、薬品を入れた戸棚にしまった。
数日後に取り出すと、**像が現れていた**。
彼は、どの薬品が原因か調べるため、一つずつ取り除いていった。すべて取り除いても、像が出た。
戸棚の底に、**割れた温度計からこぼれた水銀**が溜まっていた。
**水銀の蒸気**が、目に見えない潜像を現像していた。
(この逸話は、後の伝記による脚色を含むと考えられている。彼が意図的に水銀を試した可能性もある。)
これで、露光時間が**8時間から、20〜30分**に短縮された。
**定着**。1837年、彼は食塩水(後にチオ硫酸ナトリウム)で未反応のヨウ化銀を洗い流し、像を固定する方法を確立した。
**1839年**。
1月7日、科学アカデミーで、物理学者**フランソワ・アラゴ**が、この発明を予告した。
そして、アラゴが動いた。彼は、この発明を**特許にせず、国が買い上げて公開すべきだ**と主張した。
7月、フランス議会が可決。ダゲールに年金6000フラン、ニエプスの息子に4000フラン。
**8月19日**、科学アカデミーと美術アカデミーの合同会議で、製法が公開された。
アラゴは述べた。この技法は「**全世界への贈り物**」である。
(ただし、ダゲールは、公開の数日前にイギリスでだけ特許を取っていた。フランス政府の買い上げの直前である。イギリスでは、以後、この技法の使用に許諾料が必要だった。)
**ダゲレオタイプ**。
特徴。
- **銀板そのものが写真**である。**複製できない**。一点物。 - 像は、非常に鮮明。細部が驚くほど写る。 - 表面が鏡のようで、角度によって陽画にも陰画にも見える。 - 傷つきやすく、ガラスで覆ってケースに入れる。 - **左右が逆**に写る。 - 有毒(水銀)。
**タルボット**。
同じ頃、イギリスの**ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット**が、別の方法に到達していた。
彼は1833年、イタリアのコモ湖で風景を写生しようとして、自分の絵の下手さに苛立った。カメラ・ルシダを使っても、うまく描けない。
「**自然が、自分自身を描いてくれたら**」。
彼は、**紙**に塩化銀を塗って感光させ、**陰画(ネガ)**を作り、それを別の感光紙に重ねて焼き付けて**陽画(ポジ)**を得る方法を考案した。
**カロタイプ**(1841年特許)。
- 紙なので、像が粗い(紙の繊維が写る)。 - しかし、**ネガから何枚でも焼ける**。
ダゲレオタイプの鮮明さに負けて、当初は普及しなかった。
しかし、**複製できる**という原理が、勝った。
現代の写真(フィルム時代まで)は、すべてネガ・ポジ法である。
**その後の速度**。
- 1851年、**コロディオン湿板**(フレデリック・スコット・アーチャー)。ガラス板にコロディオンを塗る。鮮明で、複製できる。ただし、濡れているうちに撮影・現像しなければならない(暗室を持ち歩く必要がある)。 - 1861年、マクスウェルが**カラー写真**の原理(三色分解)を実演。 - 1871年、**ゼラチン乾板**。持ち歩ける。露光が短い。 - 1878年、**エドワード・マイブリッジ**が、走る馬の連続写真を撮り、**四本の脚が同時に地を離れる瞬間がある**ことを証明した。それまで、画家は誰も、その形を描いていなかった。 - 1888年、**コダック**。「**あなたはボタンを押すだけ。あとは我々がやります**」。100枚撮りのフィルムを装填したカメラを25ドルで売り、撮り終えたらカメラごと工場に送り返す。 - 1895年、リュミエール兄弟の**シネマトグラフ**。 - 1900年、**ブラウニー**。1ドル。子どもが持てる。
**変わったこと**。
(1)**肖像**。それまで、自分の顔の像を持てるのは、肖像画を注文できる階層だけだった。1850年代、都市に写真館が並び、労働者が自分と家族の写真を持つようになった。
(2)**記憶**。死んだ子どもの写真(**死後写真**)が、19世紀に広く撮られた。それが唯一の像であることが多かった。
(3)**証拠**。1871年、パリ・コミューンの後、写真が容疑者の特定に使われた。1880年代、ベルティヨンが警察の写真撮影を規格化した。指名手配。パスポート。身分証。
(4)**報道**。1855年、ロジャー・フェントンがクリミア戦争を撮った。1862年、ブレイディの一団がアンティータムの戦場の死体を撮り、ニューヨークで展示した。『**ニューヨーク・タイムズ**』が書いた。「もし彼が、死体を我々の玄関先と通りに並べたのだとしても、これほどのことはしなかっただろう」。
(5)**絵画**。肖像画と記録画の役割が奪われた。画家は別のことを始めた。印象派、そして抽象へ。
ポール・ドラローシュが、ダゲレオタイプを見て言ったと伝えられる言葉。
「**今日から、絵画は死んだ**」。
(この言葉の出典は確認されていない。そして、絵画は死ななかった。)