街頭紙芝居
概要
不況の東京で、職を失った男たちが自転車の荷台に木の枠を載せて、路地を回り始めた。拍子木を打つと子どもが集まり、飴を買った子が前に座る。枠の中の絵を一枚ずつ引き抜きながら、声色を使って語る。続きは明日。1930年に生まれた「黄金バット」は、骸骨の顔をした正義の味方で、子どもたちを夢中にさせた。絵は手描きで、同じ絵を何人もの紙芝居屋が借りて回した。字の読めない小さな子にも、物語が毎日届いた。戦後にもう一度盛り返したが、テレビが家に入ると、路地から消えていった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1929年、ニューヨークの株式市場の暴落から始まった世界恐慌は、翌年には日本にも及んだ。昭和恐慌である。生糸の値が崩れて農村が疲れ果て、町の工場は人を減らした。東京の路地には職を失った男たちがあふれた。彼らに要るのは、元手がほとんどかからず、明日からでも始められる商売だった。そのひとつが、自転車で回る紙芝居である。
紙で物語を見せる芸は以前からあった。明治の末から、紙に描いた人物を串に挿して舞台の上で動かす「立絵」という見世物が縁日などで演じられていた。1930年前後、それに代わって、一枚の絵を木の枠に入れ、順に引き抜いて場面を変えていく形が広まる。のちに平絵と呼ばれる、いまの紙芝居の形である。

やり方はこうだ。自転車の荷台に小さな木の舞台を載せ、子どもの多い路地に止めて拍子木を打つ。音を聞きつけた子どもが駆け寄ってくると、まず水飴やせんべいなどの駄菓子を売る。買った子は舞台のすぐ前に座り、買わない子は後ろのほうから覗く。見るのはただで、稼ぎは菓子の売り上げだけだった。だから紙芝居屋は、話をいちばん気になるところで切る。続きはまた明日。子どもたちは同じ時刻に同じ路地へ戻ってきた。
人気を決定づけたのが『黄金バット』である。1930年、鈴木一郎が話を作り、永松武雄(のちの健夫)が絵を描いたとされる。骸骨の顔に金色の体、マントを翻して高笑いしながら悪を倒す正義の味方で、子どもたちは夢中になった。のちに加太こうじらも同じ主人公の話を描き継ぎ、作者を替えながら長く続いた。絵はすべて手描きで、印刷ではない。同じ話の絵が何組もあるわけではなかった。

その絵は、紙芝居屋の持ち物ではなかった。絵を描かせて抱えている「貸元」がいて、紙芝居屋は毎朝そこへ行き、その日の分の絵と菓子を仕入れる。町の東で演じた話の絵は、次の日には西の担当へ回る。こうして一組の絵が何人もの手を渡り、広い範囲の子どもに同じ物語が届いた。東京だけで紙芝居屋が2000人を超えた時期があるとも言われる。
大人たちの目は温かいばかりではなかった。衛生の悪い飴を売る、話が荒っぽく俗悪だ、子どもが学校の勉強より紙芝居に夢中になる、という批判が出て、警察は営業を許可制にした。一方で、子どもが集まり、字の読めない幼い子にも届くという力に目を付けた人々もいた。キリスト教の伝道や学校の授業に紙芝居を使う動きが生まれ、教育のための紙芝居が作られるようになる。

戦争が深まると、国がこの力を使った。1938年ごろから、戦意を高め、節約や防空を呼びかける「国策紙芝居」が大量に作られ、町内会の集まりで大人にも見せられた。路地の娯楽は、銃後の宣伝の道具にもなった。
敗戦の後、紙芝居はもう一度盛り返す。焼け跡の町で職の無い男たちが再び自転車をこいだ。戦後しばらくは全国で数万人が紙芝居で暮らしを立てていたとも言われる。描き手の中には、のちに貸本漫画や劇画へ移っていく者も多く、神戸で紙芝居を描いていた水木しげるもその一人だった。
転機は1953年に始まったテレビ放送である(テレビ放送の始まり)。最初は駅前や広場の街頭テレビで、力道山と街頭テレビの試合には黒山の人だかりができた。やがてテレビは家の居間に入る。子どもたちは路地ではなく家の中で、毎日決まった時刻に続きものを見るようになった。紙芝居屋は1950年代の終わりから急速に姿を消していく。テレビが初めのうち「電気紙芝居」と揶揄されたのは、新しい箱が古い路地の芸を受け継いでいることを、人々がどこかで感じていたからかもしれない。
絵を見せ、声で語り、字は要らない。その点で紙芝居は、中世に絵解きをして歩いた熊野比丘尼の絵解きと同じ系譜にある。違うのは「続き」があったことだ。毎日少しずつ物語を届け、明日もまた来させる。その仕掛けは、のちのテレビの連続番組や鉄腕アトムの放送のような毎週のアニメと同じである。路地の紙芝居屋はいなくなったが、紙芝居そのものはいまも保育園や図書館で読まれている。字を覚える前の子に物語を手渡す道具として、形を変えずに残っている。