岩のドーム
概要
アブドゥルマリクが、アブラハムがイサクを捧げ、ムハンマドが天に昇った岩の上に建てた。八角形、金のドーム、240メートルの碑文。「神は子を持たない」。最初のイスラームの建築。ビザンツの職人が作った。メッカがイブン・アッズバイルに取られていた年。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(1)
アブドゥルマリクAD646年–AD705年 · 建てた本文
エルサレムの旧市街の東側に、城壁に囲まれた広い台地がある。ユダヤ教徒は「神殿の丘」、ムスリムは「高貴な聖域(ハラム・アッシャリーフ)」と呼ぶ。その中央に、金色のドームを戴いた八角形の建物が立っている。岩のドームである。内部の碑文には、ヒジュラ暦72年(西暦691年から692年)に建てられたと記されている。今に残るイスラームの建築として最も古い、記念碑的な建物だ。
建物の名のとおり、その中心にあるのは一つの岩である。床から突き出した、長さ十数メートルの石灰岩の岩盤で、この岩には幾重にも物語が重なっている。ユダヤ教の伝承では、ここはアブラハムが息子イサクを神に捧げようとした「モリヤの山」であり、ソロモンの神殿と、のちのヘロデの神殿の至聖所があった場所だとされる。紀元70年にローマ軍が神殿を焼き払って(エルサレム神殿の破壊)からは、丘は異教の神殿の地になり、キリスト教の時代には放置されて荒れていた。

7世紀、アラビア半島から興ったイスラームの勢力が東ローマ帝国からヤルムークの戦いでシリアを奪い、エルサレムも630年代の後半にムスリムの支配下に入った。伝承によれば、カリフのウマルは自らエルサレムに来て、荒れた丘を清めさせ、礼拝の場を設けたという。ムスリムにとってもこの地は特別だった。クルアーンの第17章は、預言者ムハンマドが一夜のうちに「聖なるモスク」から「最も遠いモスク」へ旅をしたと語る。後の伝承は、この「最も遠いモスク」をエルサレムの丘に当て、ムハンマドがここから天に昇ったとし、岩に残るくぼみを彼の足跡とまで言うようになった。
建てたのはウマイヤ朝の第5代カリフ、アブドゥルマリクである。ウマイヤ朝は661年に成立した(ウマイヤ朝の成立)が、彼が即位した685年ごろ、イスラーム世界は内乱のさなかにあった。メッカでは、預言者の教友の子イブン・アッズバイルがカリフを名乗り、アラビア半島からイラクまでを押さえていた。アブドゥルマリクは数年がかりでこれを打ち破り、692年にメッカを攻め落として、帝国を一つに戻した。

なぜこの時期に、この場所に、これほどの建物を建てたのか。9世紀の歴史家ヤアクービーは、メッカが敵の手にあったため、アブドゥルマリクは人びとの巡礼の行き先をメッカからエルサレムの岩へ向けようとしたのだ、と書いた。ただしヤアクービーはウマイヤ朝に敵対的な立場の人で、この説には疑問も多い。10世紀のエルサレム出身の地理学者ムカッダスィーは、別の理由を伝える。キリスト教の教会が立ち並ぶこの町で、ムスリムが目を奪われないよう、聖墳墓教会のドームに負けない建物を建てたのだ、というのである。新しい信仰と新しい支配者がこの町の主人であることを示す、という狙いがあったことは、多くの研究者が認めている。
建物の形は、ビザンツの伝統を受け継いでいる。岩を囲んで二重の回廊がめぐり、その外側を八角形の壁が包む。中央の木造のドームは、直径も高さもおよそ20メートルで、近くの聖墳墓教会のドームとほぼ同じ大きさに造られている。内部は色ガラスと金のモザイクで覆われ、つる草や木々、宝石をあしらった冠や首飾りが描かれている。冠はビザンツやササン朝ペルシアの王たちのものに似ており、敗れた帝国の王権の印を戦利品のように飾ったものと解釈されることもある。人や動物の姿は一つも描かれていない。モザイクを手がけたのはビザンツの技術を持つ職人たちだったと考えられている。

内側の回廊の上部には、全長およそ240メートルにわたって、角張った古いアラビア文字の碑文が帯のように巡っている。神は唯一であり、子を持たず、共に並ぶ者はいない、という言葉が繰り返される。マリアの子イエス(イーサー)は神の使徒であり言葉であるが、神の子ではない、神を「三」と言ってはならない、という一節もある。クルアーンの章句を含み、年代のはっきりした書かれたクルアーンとして、最も古いものの一つである。建物の場所と碑文の中身を合わせて読むと、キリスト教徒の多い町の人びとに向けて、イスラームの教えを示そうとしたことがうかがえる。碑文の建設者の名は、9世紀にアッバース朝のカリフ、マームーンが自分の名に彫り替えた。だが年はそのまま残したため、改変はすぐに見破られる。
岩のドームはモスクではない。集団礼拝はすぐ南にあるアル・アクサー・モスクで行われ、こちらはアブドゥルマリクか、その子ワリードの時代に建てられたとされる。岩のドームは、聖なる岩を包み、それを巡ることを想定した記念の建物である。
その後もこの建物は、エルサレムの持ち主が変わるたびに姿を変えた。1099年、第1回十字軍のエルサレム占領のあと、十字軍は岩のドームを教会に改め、「主の神殿」と呼んだ。すぐ南のアル・アクサー・モスクは「ソロモンの神殿」と呼ばれ、ここに本部を置いた騎士修道会が「テンプル(神殿)騎士団」の名で知られるようになる。1187年、サラディンのエルサレム奪還のとき、サラディンはドームの頂の十字架を降ろさせ、建物をイスラームの聖所に戻した。16世紀にはオスマン帝国のスレイマン1世が、外壁を青を基調とするタイルで覆わせた。今のドームの金色は20世紀の修復によるもので、それまでは長いあいだ鉛の板で覆われていた。

1967年の第三次中東戦争でイスラエルは東エルサレムを占領したが、聖域の管理はイスラームの宗教財団(ワクフ)に委ねられ、ヨルダンがその後ろ盾となる形が今も続いている。ユダヤ教徒の一部には、この丘に第三の神殿を建てたいと願う者もおり、聖域の扱いはたびたび衝突の火種になってきた。非ムスリムが建物の中に入ることは、現在は許されていない。
一つの岩を、三つの宗教がそれぞれの物語で聖なるものとしてきた。岩のドームは、その岩をイスラームの建物として包み込みながら、ビザンツの技とペルシアの装飾、ユダヤ教とキリスト教の記憶をその内側に抱え込んでいる。1300年以上たった今も、ほとんど建てられた時の姿のまま、この町の空にその丸い屋根を見せている。