建安文学
概要
曹操、曹丕、曹植の三曹と、王粲、陳琳ら建安の七子。鄴の銅雀台。戦乱と短い命を、五言詩で真正面から書いた。「対酒当歌、人生幾何」。「風骨」。中国の詩が個人の声になった最初の場所。七子のうち四人が217年の疫病で同じ年に死んだ。
場所
36.30°N 114.45°E · 中国・河北省臨漳
関わった人(2)
曹操155年–220年3月15日 · 三曹曹植AD192年–AD232年 · 三曹本文
建安は、後漢の最後の皇帝である献帝の年号で、196年から220年まで続いた。その名は、皇帝の治世よりも、この時代の詩によって記憶されている。担い手の中心は、実権を握った曹操と、その息子の曹丕、曹植の「三曹」、そして彼らのもとに集まった文人たちだった。
舞台は、華北の鄴(いまの河北省臨漳の辺り)である。曹操は官渡の戦いで袁紹を破った後、204年に袁氏からこの町を奪い、根拠地とした。210年には城の西北に銅雀台を築く。高い台の上で宴が開かれ、詩が作られた。赤壁の戦いで南への道を断たれた曹操が、華北を固めていた時期にあたる。曹丕と曹植は、父の命でこの台を題に賦を競作したと伝えられる。

集まった文人のうち、のちに曹丕が評論『典論』の「論文」の篇で名を挙げた7人を「建安の七子」と呼ぶ。孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨である。孔融は孔子の子孫で、曹操を皮肉り続けて208年に殺された。陳琳はもとは袁紹に仕え、曹操の祖父の代までさかのぼって罵る檄文を書いた。袁氏が滅びて捕らえられたとき、曹操はその才を惜しんで許したという。頭痛に悩んでいた曹操が、陳琳の檄文を読んで頭痛が治ったと言った、という逸話も伝わっている。
彼らの詩の多くは五言詩で書かれた。一句五字のこの形は、後漢の作者の分からない『古詩十九首』などで育っていたが、建安の詩人たちは、それを名のある個人が自分の思いを述べる器にした。題材は、戦乱、疫病、飢え、人の命の短さ、そしてそれでも抱く志である。王粲は董卓の死後に荒れた長安を逃れるときの光景を「七哀詩」に書いた。道ばたで飢えた女が抱いていた子を草むらに置き、泣き声に振り返りながらも去っていく。自分がどこで死ぬかも分からないのに、二人とも生き延びられるはずがない、と女は言う。

曹操自身の詩も、この時代の声をよく伝える。「短歌行」は「対酒当歌、人生幾何」(酒を前にしたら歌おう、人生はどれほどのものか)と始まり、命を朝露にたとえた後、人材を求めて天下の心を得たいという志へと移っていく。「蒿里行」では、白骨が野にさらされ、千里に鶏の声もしない、民は百人に一人しか残らない、と戦乱の惨状を描いた。老いた名馬は厩に伏しても千里を駆ける志を持つ、という句も彼のものである。曹丕は「燕歌行」で、一句七字の詩を通して書き上げた。まとまった七言詩としては最も早いものの一つとされる。
曹丕は批評家でもあった。『典論』の「論文」で、文章は国を治める大事業であり、朽ちることのない営みだと述べた。文学の価値をはっきり論じた文章として、中国では最も早いものの一つに数えられる。一方、弟の曹植は才気で兄をしのぎ、父に愛されて、一時は後継ぎの座を争った。217年に曹丕が太子と決まり、曹操の死後、曹植は都から遠ざけられて不遇のうちに生きる。国のために身を捨てる若者を歌った「白馬篇」や、洛水の女神との出会いを描いた「洛神賦」は彼の作である。兄に七歩のうちに詩を作れと命じられた、という「七歩の詩」の話は、のちの逸話集『世説新語』に載るもので、史実かどうかは分からない。
217年、疫病が流行し、徐幹、陳琳、応瑒、劉楨が同じ年に死んだ。王粲も同じ年、遠征の途中で病死している。曹丕は友人への手紙で、親しい者の多くが災いにかかり、徐・陳・応・劉が一度に逝ってしまった、と嘆いた。阮瑀はすでに212年に死んでおり、七子はこうしてほとんど同時にいなくなった。3年後には曹操も死ぬ(曹操の死)。
後の時代は、この時期の詩の力強さを「建安の風骨」と呼んで手本にした。南朝の劉勰は『文心雕龍』で、乱世が続き人々が苦しんだために、志が深く筆が長く、気骨のある作品が生まれたと説明している。唐の陳子昂は、漢と魏の風骨が後の時代に伝わらなかったことを嘆いて詩風の改革を唱え、李白は「蓬莱の文章、建安の骨」と詠んだ。宮廷の飾りや無名の民の歌だった詩が、一人の人間の声になった場所として、建安は中国文学史の大きな曲がり角に置かれている。七子の時代は、のちの竹林の七賢と並べて語られることも多い。