概要
『ルーゴン・マッカール叢書』20巻。『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』。自然主義。1898年1月13日、『オーロール』紙の一面に「私は弾劾する」。大統領への公開書簡。参謀本部の将軍を名指しで。名誉毀損で有罪、イギリスへ逃げた。1902年、寝室の煙突が詰まって一酸化炭素で死んだ。事故か、反ドレフュス派の職人の仕業か。パンテオンに移された式典で、ドレフュスが撃たれた(軽傷)。
関わったできごと(1)
ドレフュス事件AD1894年12月22日 · 弾劾した本文
1840年、パリ。父はヴェネツィア生まれの技師(エクス・アン・プロヴァンスの運河とダムを作った)で、7歳のとき死んだ。エクスで育った。同級生がポール・セザンヌ。貧しかった。バカロレアに2度落ちた。出版社アシェットの荷造り係、それから宣伝部。新聞に記事を書いた。
1867年、『テレーズ・ラカン』。姦通と殺人と幻覚。「気質の研究」。1871年から1893年、『ルーゴン・マッカール叢書』。「第二帝政の一家族の自然的・社会的歴史」。20巻。遺伝と環境。『居酒屋』(1877年、洗濯女ジェルヴェーズの転落。売れて、金持ちになった)、『ナナ』(1880年、高級娼婦)、『ジェルミナール』(1885年、炭鉱のストライキ)、『大地』(1887年、農民)、『獣人』(1890年、機関車)、『壊滅』(1892年、スダン)。自然主義。取材ノート。医学と生理学の本。「実験小説論」。
1888年、家の女中ジャンヌ・ロズロ(21歳)と。子供が2人。妻アレクサンドリーヌは子がなく、知って、許した。
1897年11月、ドレフュスの弟マチューと、上院副議長シュレール・ケストネルに会って、無実を確信した。12月、『フィガロ』に3本。1898年1月13日、『オーロール』(クレマンソーの新聞)の一面。「J'Accuse...!」。題はクレマンソーがつけた。4500語。「私は弾劾する、パティ・ド・クラム中佐を、司法の誤りの悪魔的な仕事人として」。将軍たち、筆跡鑑定人、第一の軍法会議、第二の軍法会議。「私が告発する人々を、私は知らず、見たことも、憎しみも恨みもない。私の行動は、真実と正義を爆発させるための革命的な手段にすぎない」。名誉毀損の訴えを、わざと招いた。裁判で事件を公開するため。
2月、有罪。1年の禁固、罰金3000フラン。7月、破棄と再審の前に、ロンドンへ逃げた。11か月。1899年6月、帰った。
1902年9月29日、パリのブリュッセル通りの家。寝室の暖炉の煙突が詰まっていて、一酸化炭素。妻は助かった。事故と判断された。1953年、屋根職人が「反ドレフュス派の仲間が煙突を塞いだ」と死ぬ前に言った、と新聞が書いた。確かめられない。
葬儀で、アナトール・フランスが「彼は人類の良心の一瞬だった」。1908年6月4日、パンテオン。その式で、ドレフュスが撃たれた。