人物

エミール・ゾラ

Émile Zola
AD1840年4月2日 – AD1902年9月29日(享年62)
フランス第三共和政重要度 5

概要

『ルーゴン・マッカール叢書』20巻。『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』。自然主義。1898年1月13日、『オーロール』紙の一面に「私は弾劾する」。大統領への公開書簡。参謀本部の将軍を名指しで。名誉毀損で有罪、イギリスへ逃げた。1902年、寝室の煙突が詰まって一酸化炭素で死んだ。事故か、反ドレフュス派の職人の仕業か。パンテオンに移された式典で、ドレフュスが撃たれた(軽傷)。

関わったできごと(1)

ドレフュス事件AD1894年12月22日 · 弾劾した

本文

エミール・ゾラは、1840年4月2日、パリに生まれた。父フランチェスコは、ヴェネツィア生まれのイタリア人の技師で、南フランスのエクス・アン・プロヴァンスの町に水を引くダムと運河の工事を請け負っていた。一家はエクスに移ったが、工事の半ばの1847年、父は肺炎で急死し、ゾラは7歳になる前に父を失った。会社の権利を巡る争いで財産を失い、母と祖父母との暮らしは苦しくなった。エクスの中学で、彼は一つ年上の少年と親友になった。のちの画家ポール・セザンヌである。二人は南仏の野山を歩き回り、詩と芸術の夢を語り合った。

ナダール撮影、エミール・ゾラの肖像写真
ナダール撮影、エミール・ゾラの肖像写真Wikimedia Commons Nadar · Public domain

18歳でパリに戻ったゾラは、大学入学資格の試験に2度落ち、職も無いまま貧しい数年を過ごした。1862年、出版社アシェットに荷造りの係として雇われ、まもなく宣伝の部署に移った。そこで新聞や作家とのつながりを得て、自ら記事や批評を書くようになる。美術の批評では、官展から締め出されていたマネや、のちの印象派の若い画家たち(第一回印象派展)を強く擁護した。マネは感謝をこめて、机に向かうゾラの肖像を描いている。

1867年、ゾラは小説『テレーズ・ラカン』を出した。夫を殺した妻とその愛人が、罪の意識と幻覚に苛まれて破滅していく話で、彼はこれを人物の「気質」を科学者のように観察した研究だと称した。同時代の医学と生理学、遺伝の学説に強い関心を持っていた彼は、さらに大きな計画を立てた。一つの家族の何世代もの人々を、遺伝と環境がどう動かすかを、第二帝政の社会全体を背景に描き出すという計画である。1871年から1893年まで22年をかけて書き継がれた『ルーゴン・マッカール叢書』20巻は、「第二帝政下の一家族の自然的・社会的歴史」という副題を持つ。

叢書の舞台は、パリの市場、デパート、株式市場、炭鉱、農村、鉄道、戦場にまで及んだ。ゾラは一作ごとに現地を歩き、人々に話を聞き、分厚い取材のノートを作った。1877年の『居酒屋』は、パリの裏町の洗濯女ジェルヴェーズが、酒に溺れる夫とともに落ちていく姿を、労働者の話し言葉のまま描いた。下品だと非難を浴びながらも大評判になり、ゾラは豊かになって、パリ郊外のメダンに家を買った。そこには、モーパッサンら若い作家たちが集まった。1880年の『ナナ』は、第二帝政の上流社会を食い尽くす高級娼婦を描き、1885年の『ジェルミナール』は、北フランスの炭鉱で飢えた坑夫たちが起こすストライキを描いた。『ジェルミナール』は彼の最高傑作とされ、葬儀のときには、炭鉱の労働者たちが「ジェルミナール」と叫んで棺を見送ったと伝えられる。叢書は、1870年のスダン(セダン)の戦いと帝政の崩壊を描いた『壊滅』で、時代の終わりにたどり着く。人間を遺伝と環境の産物として描くこの書き方は、自然主義と呼ばれ、ゾラはその旗手になった。

スダン(セダン)の戦いに関わる図版:Nap sedan von Wilhelm Camphausen
スダン(セダン)の戦いWikimedia Commons Wilhelm Camphausen · Public domain

私生活では、ゾラは若いころから連れ添った妻アレクサンドリーヌとの間に子が無かった。1888年、彼は家に住み込んでいた21歳の下着や布類の係の女性ジャンヌ・ロズロと恋に落ち、二人の子をもうけた。妻はやがてそれを知って激しく苦しんだが、のちには子どもたちを受け入れ、ゾラの死後には二人の子が父の姓を名乗れるよう手を尽くした。

1894年、ユダヤ系の砲兵大尉アルフレド・ドレフュスが、ドイツに軍の機密を漏らしたとして、ほとんど証拠の無いまま軍法会議で有罪とされ、南米の悪魔島へ流された(ドレフュス事件)。やがて真犯人が別の将校エステルアジであることを示す証拠が出たが、軍の上層部はそれを握りつぶした。1897年の秋、ゾラはドレフュスの兄マチューや、上院の副議長シュレール・ケストネルから話を聞き、無実を確信した。1898年1月11日、軍法会議がエステルアジを無罪にすると、ゾラは2日後の1月13日、クレマンソーが論説を書く新聞『オーロール』の一面に、大統領への公開書簡を載せた。題はクレマンソーが付けた「私は弾劾する」。書簡は、事件に関わった将軍や将校、筆跡の鑑定人たちを一人ずつ名指しし、「私は弾劾する」という句を繰り返して、軍が無実の者を罰し、罪ある者を逃したと告発した。この日の新聞は30万部ほどが売れたとされる。

ドレフュス事件に関わる図版:Alfred Dreyfus (1859-1935) - photo originale
ドレフュス事件Wikimedia Commons Aron Gerschel · Public domain

ゾラは、わざと名誉毀損の訴えを招いた。法廷で事件を公にさせるためである。軍は彼を訴え、2月の裁判でゾラは禁錮1年と罰金3000フランの有罪となった。裁判は手続きの誤りで破棄されたが、7月の裁判でも再び有罪とされ、彼は友人たちの勧めで刑の確定の前にイギリスへ逃れた。ロンドンの郊外で偽名を使って11か月を過ごし、1899年6月に帰国した。その間に、偽の証拠を作った将校が自殺し、エステルアジは逃亡して、事件は大きく動いていた。ドレフュスは再審でなお有罪とされたものの大統領の恩赦を受け、のちに無罪が確定する。ゾラは、作家が自分の名声を賭けて社会の不正に立ち向かう「知識人」の姿を示した人として記憶されるようになった。

1902年9月29日の朝、パリのブリュッセル通りの自宅の寝室で、ゾラは一酸化炭素の中毒で死んでいるのが見つかった。62歳だった。寝室の暖炉の煙突が詰まっていたためで、一緒に寝ていた妻は助かった。警察は事故と判断した。だが1953年、ある新聞が、反ドレフュス派の煙突職人が死の間際に、自分が仲間とわざと煙突を塞いだと打ち明けたという証言を載せた。真偽は確かめられていない。10月の葬儀には大勢の人々が集まり、作家アナトール・フランスは弔辞で、彼は人類の良心の一瞬であったと述べた。参列者の中には、ドレフュスもいた。

マネ《エミール・ゾラの肖像》 1868年
マネ《エミール・ゾラの肖像》 1868年Wikimedia Commons Édouard Manet · Public domain

1908年6月4日、ゾラの遺骸は、国の偉人を祀るパリのパンテオンに移された。その式典の最中、反ドレフュス派の男がドレフュスに向けて発砲し、ドレフュスは腕に軽い傷を負った。事件の傷は、それほど深く社会に残っていた。ゾラの小説は、20世紀の作家たちや、社会の底辺を描く映画にも受け継がれた。若いころの親友セザンヌとは、画家を主人公にした小説『制作』をきっかけに疎遠になったと長く言われてきたが、近年見つかった手紙から、その後も交わりは続いていたとする説も出ている。

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