差別の歴史

概要
線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。
この物語について
人はなぜ、線を引いて内と外を分けるのか。そして、その線を正しいと思わせる理屈は、どこから来たのか。
差別は、心の問題のように語られることが多い。だが歴史を並べると、先に制度があり、後から「だから当然だ」という理屈が足されている場合がほとんどになる。税を取りやすくするため、土地を奪うため、不満の向かう先を作るため。
古い例は、生まれによって身分を固定する仕組みである。古代インドの讃歌集『リグ・ヴェーダ』には、宇宙の原初の人間の身体の各部から、祭司、王族、庶民、隷属民の四つの身分が生まれたとする一節がある。身分の区別に、神話が理由を与えた。ヴェーダの成立は、身分を生まれで固定する仕組みの始まりでもあった。この区別は長い時間をかけて細かな身分の網に育ち、その外側には、触れることさえ避けられる人々が置かれた。
故郷を失った集団は、各地で少数派になる。70年、ローマ軍はエルサレムの神殿を破壊し、135年にはバル・コクバの反乱が鎮圧されて、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを禁じられた。離散したユダヤ人は、地中海とヨーロッパの各地で、異なる信仰を持つ少数派として暮らすことになる。
迫害される側と迫害する側は、入れ替わることがある。3世紀のローマ帝国では、帝国の危機のたびに、皇帝への祭儀を拒むキリスト教徒が不安の的になった。303年からの大迫害を経て、313年のミラノ勅令でキリスト教は公認される。やがて国の宗教となったキリスト教は、今度は異教徒と異端を追う側に回った。13世紀の初め、南フランスで異端とされた人々に対して、十字軍が差し向けられた。異端と名指すことが、殺す理由になった。

不安が大きいとき、少数派はその的にされやすい。14世紀の半ば、黒死病がヨーロッパを襲うと、各地でユダヤ人が井戸に毒を入れたと責められ、多くの町で殺された。15世紀の末には、魔女を見分けて裁くための手引き書『魔女に与える鉄槌』が書かれ、その後の魔女狩りの時代に読まれた。1692年、北アメリカのセイラムの村では、少女たちの訴えから次々と村人が魔女として名指しされ、19人が絞首刑になった。
大西洋をまたぐ奴隷制は、線の引き方を肌の色に結びつけた。アフリカから運ばれた人々を家畜のように売買するために、黒人は生まれつき劣っているという理屈が育てられた。その制度に、少しずつひびが入っていく。1772年、イングランドの法廷は、本国に連れてこられた奴隷を、本人の意思に反して国外へ売り飛ばすことはできないと判断した。1833年のイギリスの奴隷制廃止法でイギリスは帝国の奴隷制をやめたが、補償金を受け取ったのは奴隷の所有者の側だった。アメリカでは南北戦争のさなか、1863年に奴隷解放宣言が出された。

奴隷制が終わっても、線は消えなかった。アメリカの南部では、黒人と白人を学校や列車や水飲み場で分ける法が作られ、1896年に最高裁は、設備が同じなら分けても平等だという判断を下した。理屈は、そのつど作り直される。移民もまた線の外に置かれた。1882年、アメリカは中国からの労働者の移住を禁じる法を作った。特定の国の出身者を名指しで締め出した、最初の連邦法である。鉄道を敷くために呼び寄せた人々を、仕事が済めば締め出した。
19世紀には、線を「科学」で引こうとする学問が現れた。頭の骨の大きさを測り、人種に優劣の順位をつける研究が行われ、人間を遺伝で選り分けるべきだとする優生学が広まった。こうした学問は、移民の制限や、障害のある人への強制的な不妊手術を支える理屈になった。オーストラリアは1901年に白人以外の移民を締め出す政策を取り、フランスでは1894年、ユダヤ人の将校ドレフュスが証拠の薄いまま国家への裏切りの罪を着せられた。
その行き着いた先が、ナチス・ドイツだった。1935年のニュルンベルク法は、祖父母の宗教によって誰がユダヤ人かを定め、市民の権利を奪った。迫害は段階を追って強まり、やがて国家が計画的に人々を殺していくホロコーストに至る。約600万人のユダヤ人が殺され、ロマの人々や障害のある人々も犠牲になった。十九世紀に人種を測ろうとした学問が、二十世紀の絶滅政策の言い訳に使われた。

日本も、線を引く側に立った。北海道では、アイヌの人々の土地と暮らしが開拓の名のもとで奪われ、1899年には保護の名で同化を進める法が作られた。1923年の関東大震災の混乱の中では、朝鮮人が井戸に毒を入れたという流言が広がり、自警団などによって多くの朝鮮人が殺された。災害の中の恐怖が、差別を殺人に変えた。
戦後、線を法でやめる動きが広がった。インドでは1950年のインド憲法の施行により、不可触民として扱うことが禁じられた。憲法の起草を率いたアンベードカルは、自身が不可触民とされた家の出身だった。アメリカでは1954年のブラウン判決が、学校を分けること自体が不平等だと判断した。翌年、アラバマ州モンゴメリーでローザ・パークスがバスの席を白人に譲らずに逮捕されると、黒人の市民は一年あまりバスに乗らない運動で応えた。その運動を率いたキング牧師は、暴力に暴力で返さない抵抗の方法を磨き、1964年の公民権法の成立につながっていく。南アフリカでは、法で人を人種に分けるアパルトヘイトが1990年代に撤廃され、1994年に初めて全人種が参加する選挙が行われた。その前の1976年には、ソウェトの黒人の生徒たちが、支配する側の言葉であるアフリカーンス語での授業を押しつけられることに抗議して街に出て、警官隊の銃撃で多くの子どもが死んでいる。オーストラリアでは、先住民の子どもを親から引き離して白人の家庭や施設で育てる政策が20世紀の半ばすぎまで続き、2008年に首相が国として謝罪した。

それでも、法の差別が消えたあとに残るものがある。住む場所、仕事、警察との関係。2020年にアメリカで黒人の男性が警官に首を押さえつけられて死んだ事件は、法の平等と暮らしの実際との間の隔たりを、世界に見せた。日本では、水俣病の患者たちが、病んだこと自体を理由に結婚や就職で差別された。
もう一つ見えるのは、差別された側が、次に別の誰かを外に置くことがある、ということになる。被害と加害は、きれいに分かれない。迫害を受けた集団が国を持つと、その国の中の少数派を圧迫することがある。線の内側に入れた者が、次の線を引く。線の外に置かれ、国を追われた人々をどこが引き受けるのか。第二次世界大戦の後、1951年に難民条約が結ばれたのは、その問いに国際的な答えを出そうとしたからだった。

線の引き方は、時代によって変わる。信仰で引いた時代があり、血で引いた時代があり、「科学」の名で引いた時代がある。線そのものより、線を正当化する語彙のほうが、その時代をよく表す。
この物語は、誰が誰を外に置き、何を理由にしたかを、時代を追って並べたものになる。自分がいま当然と思っている線が、どの理屈に支えられているかを疑うための材料になる。
この物語が起きた場所
筋(100)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ヴェーダの成立できごとBC1500年身分を生まれで固定する仕組みの始まり口誦で伝えられた讃歌が、後のヒンドゥー教の根になる。カーストの原型もこの時期に現れる。ハラッパー
- エルサレム神殿の破壊できごとAD70年故郷を失った集団が、各地で少数派になっていくユダヤ戦争の末に神殿が焼かれた。ユダヤ教は神殿のない宗教へ形を変えていく。エルサレム

- バル・コクバの乱できごとAD132年反乱の敗北が、離散をさらに広げたハドリアヌスがエルサレムをローマの街に建て直そうとして、ユダヤ人が三年半戦った。指導者は「星の子」と呼ばれ、メシアとされた。鎮圧のあと、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを禁じられ、属州の名がユダヤからパレスティナに変えられた。エルサレム
- デキウスの迫害できごとAD250年帝国の不安が、少数の信徒に向けられた帝国中の住民に神々への犠牲を命じ、証明書(リベルス)を持たせた。エジプトからその証明書が何十枚も出土している。従った信徒と逃げた信徒をどう扱うかで、教会が割れた。ローマ

- ディオクレティアヌスの大迫害できごとAD303年2月23日迫害される側だったキリスト教徒教会を壊し、聖書を焼き、聖職者を投獄し、翌年、全員に犠牲を命じた。10年続き、東方で厳しかった。最後で最大の迫害。それが終わって10年で、皇帝がキリスト教徒になる。ニコメディア

- ミラノ勅令できごとAD313年迫害される側が、公認される側に変わるキリスト教を含むすべての信仰を認めた。300年続いた迫害が終わる。メディオラヌム

- アザーンできごとAD7世紀前半奴隷だった者が、最初の呼びかけ手に選ばれたメディナの信徒が増えると、礼拝の時刻をどう知らせるかが問題になった。キリスト教徒は鐘を鳴らし、ユダヤ教徒は角笛を吹く。ムハンマドはどちらも採らず、人の声で呼ばわることに決めたと伝えられる。最初の呼びかけ手に選ばれたのは、奴隷の身から解かれたエチオピア出身のビラールで、声の良さで選ばれたという。日に五度、決まった文句を、街のいちばん高いところから声を張る。のちにミナレットが建ち、いまは拡声器が使われる。機械は替わったが、届けるのは人の声だという形は残った。メディナ
- ザンジュの乱できごとAD869年大規模に集められた黒人奴隷の反乱東アフリカから連れてこられた奴隷が、イラク南部の湿地で塩の混じった表土をはがす労働に使われ、15年反乱した。バスラを落とし、独自の都を建てる。イスラーム世界最大の奴隷反乱になる。バスラ
- アルビジョア十字軍できごとAD1209年7月22日異端と名指すことが、殺す理由になる南フランスのカタリ派に対して、教皇が十字軍を呼んだ。ベジエ。「全員殺せ。神が自分の者を選り分ける」。2万人。北の騎士が南の土地を取った。20年。トゥールーズは王のものになり、オック語の文化は終わり、異端審問が制度になった。ベジエ

- モンタイユーの異端審問できごと1318年村人を一人ずつ取り調べた記録ピレネーの村の住民が、カタリ派の疑いで一人ずつ尋問された。その調書に、羊飼いの恋愛も、隣人の噂も、死後の世界の考えも残った。中世の村の暮らしを内側から読める、ほとんど唯一の史料になる。モンタイユー
- 黒死病できごと1347年疫病のたびに、少数派が毒を入れたと責められたヨーロッパの人口の3分の1が死んだ。働き手が減って農奴の立場が上がり、封建の仕組みが緩む。
- 浮浪を罰するできごとAD1349年貧しいことそのものを罰した法黒死病で人が減り、労働力が不足した。賃金が上がりそうになる。イングランドは労働者勅令を出し、疫病前の賃金を超えて払うことも受け取ることも禁じ、健康な者が働かずに施しを受けることを罪とした。以後、浮浪はたびたび厳罰化される。1547年の法は、三日以上働かない者を二年間の奴隷とし、胸にVの烙印を押すと定めた。過酷すぎて二年で廃止されている。移動する貧しい者を罰する法は、その後も形を変えて長く残った。ロンドン
- 『魔女に与える鉄槌』できごとAD1487年魔女という枠を作り、手引きにした本ドミニコ会の異端審問官ハインリヒ・クラーマーが、インスブルックで魔女裁判に失敗して司教に追い出され、教皇の勅書を付けて、この本を書いた。魔女は実在する。悪魔と契約し、交わり、天候と作物と男の性器を害する。ほとんどが女である(「女は信仰が弱い(femina=fe minus)」)。訊問と拷問と処刑の手引き。印刷術で30版。魔女狩りは1560年から1630年が頂点で、4万〜6万人が処刑された。シュパイアー

- メノッキオの異端審問できごと1584年自分の頭で考えた粉屋が焼かれた村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。本を読み、自分で考え直した男の宇宙論が、審問の記録に残った。二度目の審問のあと火刑になる。フリウリ(モンテレアーレ)
- シャクシャインの戦いできごとAD1669年先住の人々との交易が、支配に変わる交易の条件をめぐるアイヌの蜂起。和睦の席で首長が謀殺され、以後アイヌは松前藩に従属していく。静内(位置は特定されていない)
- セイラムの魔女裁判できごとAD1692年共同体の不安が、名指しに向かう牧師の娘と姪が発作を起こし、医師が「魔女の仕業」と診断した。少女たちが名を挙げ、告発が連鎖した。200人以上が告発され、19人が絞首、1人が石で圧死、5人以上が獄死した。決め手になったのは「幽霊証拠」——被害者にしか見えない霊が誰の姿をしていたか——である。マサチューセッツ総督が妻を告発されて裁判所を解散させ、幽霊証拠を禁じると、有罪はほぼ止まった。何を証拠と認めるかが、生死を分けた。セイラム

- メイソン=ディクソン線できごとAD1767年奴隷制のある側と、ない側の線ペンシルベニアとメリーランドの領主が八十年争った境界を、決着させるために、二人のイギリス人が呼ばれた。天文学者チャールズ・メイソンと測量士ジェレマイア・ディクソンは、星の位置から緯度を出し、西へ三百キロ以上、直線を刻んでいった。一マイルごとに石を据え、五マイルごとに紋章入りの石を置く。作業は先住民の案内人が同行し、彼らが「ここから先は行けない」と言った地点で止まった。地形とも川とも関係のない線である。それが後に、奴隷制のある側と無い側を分ける言葉になった。フィラデルフィア
- サマセット事件できごとAD1772年6月22日イングランドの土に奴隷はいないジェームズ・サマセットは、アフリカで捕らえられ、ヴァージニアで売られた奴隷だった。持ち主の税関の役人に連れられてロンドンへ来たが、1771年に逃げ、捕まって、ジャマイカへ売り飛ばされる船に閉じ込められた。奴隷制に反対する人々が人身保護の令状を求め、イングランドの首席裁判官マンスフィールド卿が審理した。1772年6月22日、マンスフィールドは、奴隷制はあまりに忌まわしく、それを定めた法が無い限り支えられないとして、サマセットを力ずくで国外へ連れ出すことはできないと判断した。イングランドの土に奴隷はいない、という意味に広く受け取られた。ロンドン
- イクイアーノの自伝できごとAD1789年奴隷にされた側が、自分の言葉で書いた奴隷にされ、自分で自由を買い戻した人が、その体験を書いた。版を重ね、議会でも読まれる。黒人が自分の言葉で書いた本が、そのこと自体で議論を動かした。ロンドン
- 解剖法できごとAD1832年8月1日解剖台に載るのは、いつも貧しい者だったイギリスでは、解剖に回してよい遺体は、処刑された殺人犯だけと定められていた。医学校は増え、処刑は減る。足りない分は、墓を掘り返す者たちが売った。1828年、エディンバラのバークとヘアは、掘るかわりに十六人を殺して解剖学者に売っていたことが露見する。議会が出した答えは、掘る動機を無くすことだった。救貧院や病院で死に、引き取り手のない者の体を、解剖に回せるようにする。墓を暴かれる恐れは消えたが、解剖台に載るのは、変わらず貧しい者だった。ロンドン
- イギリスの奴隷制廃止法できごとAD1833年8月28日帝国が奴隷制をやめる。補償金は所有者に払われた帝国の大半で奴隷制を廃止した。奴隷ではなく所有者に2000万ポンドの補償を払い、国はその借金を2015年まで返し続けた。ロンドン
- グレート・トレックできごとAD1836年のちの人種隔離につながる入植の移動イギリスがケープを取り(1806年)、英語を公用語にし、1834年に奴隷制を廃止した。オランダ系の農民(ボーア人)1万5000人が、牛車で内陸へ移った。ドラケンスバーグを越えて、ズールー王ディンガーンと衝突し、1838年のブラッド・リバーで、円陣を組んだ470人が数千のズールー兵を銃で撃った。川が赤くなった。オレンジ自由国とトランスヴァール。アパルトヘイトの神話の一つになった。ケープタウン
- 鳥の糞の時代できごとAD1840年代逃げ場のない島で働かされた契約労働者ペルー沖の小さな島々には、雨がほとんど降らないため、海鳥の糞が何千年も流されずに積み重なり、厚さ数十メートルの層になっていた。窒素とリンを多く含むこの糞は、畑に撒けば収穫が大きく増える。1840年代、ヨーロッパとアメリカの農家がこぞって買い求め、ペルーの国の収入の大半がこの糞になった。掘ったのは、中国から契約労働で連れてこられた人々で、鼻を突く粉塵の中で、逃げられない島で働かされた。糞は数十年で掘り尽くされる。そのあとを継いだのは、隣の砂漠の硝石をめぐる戦争だった。チンチャ諸島
- ストウ『アンクル・トムの小屋』できごとAD1852年一冊の小説が、国の空気を変えた逃げた奴隷を北部の州も捕らえて返すよう定める法律ができると、牧師の家に育ったハリエット・ビーチャー・ストウは、奴隷制の残酷さを物語で伝えようとした。信仰深い奴隷トムが売られ、最後は残忍な主人に打ち殺される小説は、1852年に本になると一年で数十万部が売れる。北部の世論は奴隷制への怒りに傾き、南部は嘘だと反発した。のちに、黒人を従順に描く型を作ったとも批判され、アンクル・トムは白人に媚びる者を指す悪口にもなった。ボストン
- ドレッド・スコット判決できごとAD1857年3月6日最高裁が壊した南北の妥協奴隷のドレッド・スコットは、主人に連れられて奴隷制の無い州と地域に何年も暮らしたことを理由に、自由を求めて裁判に訴えた。1857年3月6日、連邦最高裁は、黒人は奴隷であれ自由人であれ合衆国の市民ではなく、裁判に訴える資格も無い、と判断する。さらに、議会が西部の地域で奴隷制を禁じることも憲法に反するとした。南北の妥協を最高裁が壊した判決は、北部の怒りをかきたて、四年後の南北戦争への道を早めた。ワシントンD.C.
- セントラルパークできごとAD1858年造る前、そこにあった集落は収用で消された人口が急に増えたニューヨークで、緑地を作るべきだという声が上がった。理由は健康と、都市の体面と、不動産の価値である。設計はオルムステッドとヴォーの案が選ばれ、自然に見える風景を人工的に造った。岩を砕き、沼を埋め、木を何十万本も植える。横切る道路は地面を掘り下げて、公園の景色から隠した。造る前、その土地にはセネカ・ヴィレッジという黒人とアイルランド移民の集落があり、収用で壊されている。誰のための公園かという問いは、最初から付いて回った。ニューヨーク
- 奴隷解放宣言できごとAD1863年1月1日戦争の手段としての奴隷解放反乱している州の奴隷は「永遠に自由である」。合衆国に留まった奴隷州(ケンタッキー、メリーランド等)の奴隷は含まれなかった。戦争の手段として、大統領の軍の権限で。350万人。黒人が北軍に入った。18万人。戦争は「連邦を守る戦争」から「奴隷を終わらせる戦争」になった。奴隷制の廃止は1865年の憲法修正第13条。ワシントンD.C.

- ブラックバーディングできごと1863年島の人々を騙し、さらって働かせる太平洋の島々から、6万人以上が騙されるか攫われるかしてクイーンズランドやフィジーの農園へ運ばれた。奴隷貿易ではないという建前で、40年続いた。スバ

- バハイ教の始まりできごと1863年4月1844年、ペルシアのシーラーズで、バーブと名乗る青年が、神から遣わされた新しい使者の到来が近いと説き、1850年に処刑された。その信徒の一人で、追放されてオスマン帝国のバグダードにいたバハオラは、1863年4月、町の外の庭園で、自分こそバーブが予告した者だと仲間に告げた。バハイ教の始まりである。神は一つで、すべての宗教はその同じ神の教えであり、人類は一つの家族だと説いた。男女の平等、すべての人への教育、科学と宗教の調和も掲げた。バハオラはさらにイスタンブル、エディルネ、パレスティナのアッコへと流され、そこで生涯を終えた。バグダード
- 北海道開拓使できごとAD1869年1869年、明治の政府は蝦夷地を北海道と改め、開拓使という役所を置いて本格的な開発を始めた。ロシアの南下に備えることも大きな理由だった。アメリカから農業の顧問を招き、札幌に碁盤の目の町を造り、農学校を開く。本州から多くの人が移り住んだ。そのなかで、そこに暮らしてきたアイヌの人びとの土地は、持ち主のいない土地として取り上げられ、狩りや漁の暮らしも禁じられていった。開拓は、先住の人びとから見れば奪うことだった。札幌
- 壬申戸籍できごとAD1872年(明治5年)書かれた身分が、のちに差別の資料になった明治政府は、全国の人を一人残らず帳面に載せようとした。江戸時代の宗門人別改帳は寺が作り、身分ごとに別々の台帳があった。新しい戸籍は、住む場所を単位にして、家ごとに家族を並べ、全国同じ様式で作る。これで徴兵も課税も学制も回せるようになる。同時に、この帳面には身分の記載が残され、のちに差別の資料として使われてしまった。1968年に閲覧が止められ、いまも封印されている。人を数える仕組みは、数えた区分をそのまま社会に固定する働きも持つ。東京
- 「失った友」の欄できごとAD1877年から売られて引き裂かれた家族が、解放後も探し続けた奴隷制のもとでは、親子や夫婦が売られて別々の土地へ送られた。解放されたあと、人々はばらばらになった家族を探し始める。ニューオーリンズで出ていたメソジストの週刊紙『サウスウェスタン・クリスチャン・アドヴォケイト』は、「失った友」という欄を設け、尋ね人の広告を無料で載せた。母の名、売られた年、最後にいた農園の主の名。字の読めない人も多いので、牧師は日曜の説教壇からこの欄を読み上げるよう勧められた。二千五百件を超える広告が残っている。再会できたと知らせる便りは、ごくわずかである。ニューオーリンズ
- 中国人排斥法できごとAD1882年5月6日金鉱と大陸横断鉄道の工事のため、十九世紀半ばのアメリカ西部には多くの中国人の労働者が渡った。景気が悪くなると、白人の労働者は、安い賃金で働く中国人に職を奪われていると訴え、暴動も起きる。1882年5月6日、中国人の労働者の入国を禁じる法律が成立した。特定の民族を名指しして移民を締め出す、アメリカで初めての法律である。禁止は延長され続け、中国が同盟国になった第二次世界大戦中の1943年にようやく廃止された。ワシントンD.C.
- 先住民寄宿学校できごとAD1883年教育が奪う手段になった1880年代から、カナダの政府は、先住民の子どもを親から引き離し、教会が運営する寄宿学校に入れる政策を進めた。子どもの中のインディアンを殺す、と言われた同化の政策である。自分の言葉を話すと罰され、病気や栄養不足で多くの子が死に、暴力や性的な虐待も起きた。最後の学校が閉じたのは1996年だった。2008年に首相が謝罪し、2021年、カムループスの学校の跡地で、多くの子どもの墓とみられる痕跡が見つかったと報告された。カムループス
- ウーンデッド・ニーの虐殺できごとAD1890年12月29日土地を追われた人々への最後の虐殺武装解除の最中に発砲が起き、300人近いラコタが殺された。北米先住民との戦争の終わりとされる。ウーンデッド・ニー

- ドレフュス事件できごとAD1894年12月22日軍と世論が、一人のユダヤ人将校を犯人にしたユダヤ人の砲兵大尉が、ドイツへの通敵の罪で、筆跡だけで、終身流刑になった。悪魔島。真犯人エステラジーが分かっても、軍は隠した。1898年1月13日、ゾラの「私は弾劾する」。フランスが二つに割れた。再審、有罪、特赦、1906年に無罪。反ユダヤ主義が街に出た。ウィーンの記者ヘルツルはそれを見て、ユダヤ人の国を考えた。パリ

- 分離すれども平等できごとAD1896年5月18日分離すれども平等1892年、ニューオーリンズの靴職人ホーマー・プレッシーは、白人専用の客車に座り、黒人だとして逮捕された。人種で客車を分ける州法に挑むため、あらかじめ計画された行動だった。1896年5月18日、連邦最高裁は、設備が同じなら分けても平等に反しないと判断する。ただ一人反対した判事は、憲法は肌の色を見ない、と書いた。この判決が、学校や便所や水飲み場まで人種で分ける南部の制度に、半世紀以上の法的な裏づけを与えた。ニューオーリンズ
- ハワイ語の禁止と復活できごとAD1896年学校で禁じられた言葉19世紀のハワイ王国では、宣教師が作ったハワイ語の書き方が広まり、国民の多くが読み書きでき、ハワイ語の新聞が何十も出ていた。1893年、アメリカ系の白人たちが女王リリウオカラニを退位させて王国を倒すと、1896年、新しい政府は、学校の授業を英語で行うことを法で定めた。子どもたちは学校でハワイ語を話すと罰せられ、ハワイ語を話す家庭は急に減った。1980年代には、ハワイ語を母語とする子どもは数十人しかいなかった。1978年、ハワイ州はハワイ語を英語と並ぶ公用語とし、1980年代から、ハワイ語だけで育てる幼稚園と学校が作られ、言葉は少しずつ息を吹き返している。ホノルル
- ボーア戦争できごとAD1899年10月11日南アフリカの内陸に、オランダ系の入植者の子孫ボーア人が作った二つの共和国があった。そこで金とダイヤモンドが見つかると、イギリスは支配を狙う。1899年10月に始まった戦争で、ボーア人はゲリラになって抵抗した。イギリス軍は農場を焼き、女性と子どもを収容所に集める。不衛生と飢えで、ボーア人の二万人を超える子どもと女性が死に、隣の収容所に入れられた黒人も多く死んだ。1902年、共和国はイギリスに併合された。プレトリア
- 北海道旧土人保護法できごとAD1899年土地と暮らしを奪われ、貧しさに追いやられたアイヌの人びとに対して、1899年、政府は保護を名目とする法律を作った。農業をするための土地を与えるとしたが、与えられた土地はやせていることが多く、勝手に売ることもできなかった。学校では日本語が教えられ、アイヌの言葉と習わしは失われていく。旧土人という呼び名の法律は、およそ百年後の1997年まで残った。2019年、アイヌの人びとを先住民族と明記する法律ができた。札幌
- 白豪主義できごとAD1901年移民の入口で、人種を選別する連邦の最初の議会が、移民を事実上ヨーロッパ系に限る法を通した。書き取り試験という形で、当人の知らない言語を選んで落とすことができた。シドニー

- 知能を数にするできごとAD1905年フランスが義務教育を広げると、授業についていけない子をどう見つけるかが問題になった。教師の印象で選べば、貧しい家の子や行儀の悪い子が選ばれてしまう。ビネーとシモンは、年齢ごとにできることを並べた課題の表を作り、実際の年齢とのずれで判断する方法を考えた。目的は、補習を必要とする子を見つけることである。ビネー自身、知能は変えられないものではないと書いていた。この道具がアメリカへ渡ると、意味が変わる。数値は生まれつきの能力の指標とされ、移民の選別や断種の根拠に使われた。パリ
- マダム・C・J・ウォーカーできごとAD1906年抑圧された側が売り手になるとき、何を売るのか洗濯女として働いていたサラ・ブリードラヴは、自分の脱毛に悩んで頭皮の薬を作り、行商を始めた。1906年から売り出した一連の商品は、黒人女性の髪を手入れするための道具と手順の組み合わせである。訪問販売の女性を数千人育て、成績を競わせ、集会を開いた。アメリカで最も早く自力で富を築いた黒人女性の一人になる。その髪型を白人に近づける手助けだという批判は当時からあった。抑圧された側が売り手になるとき、何を売るのかという問いが残る。インディアナポリス
- アズサ通りの集会できごと1906年4月人種の線を越えた集会1906年4月、ロサンゼルスで、黒人の説教師ウィリアム・シーモアの集まりで、人々が聖霊に満たされたとして、知らない言葉で祈り始めた。集会はアズサ通りの古い建物に移り、それから3年あまり、昼も夜も続いた。人種の分け隔てが法で定められていた時代に、黒人と白人、メキシコ系の人々が同じ床に座り、ともに歌い、祈った。新聞はこれを奇妙な騒ぎとしてからかったが、訪れた人々が各地に持ち帰り、ペンテコステ派と呼ばれる流れが生まれる。聖霊の体験を重んじるこの流れは、20世紀の後半、中南米やアフリカ、韓国などで急速に広がり、いまでは数億人の信徒を持つ。ロサンゼルス
- 腸チフスのメアリーできごとAD1907年同じ保菌者のうち、彼女だけが二十六年隔離されたニューヨークの裕福な家庭で料理人として働いていたメアリー・マロンの行く先々で、腸チフスが出た。衛生技師のソーパーが記録を突き合わせ、彼女自身は発症しないまま菌を持ち続けていることを突き止める。本人は認めなかった。自分は病気ではない、と。1907年、当局は彼女を川の島の施設に隔離した。三年後にいったん解かれたが、名前を変えてまた台所に戻り、再び感染を出して連れ戻される。以後二十三年、死ぬまで島にいた。健康なまま人にうつす人がいる。この事実は、病気を症状で見分けてきた社会に、新しい線引きの問題を突きつけた。ニューヨーク
- 盗まれた世代できごと1910年子どもを親から引き離す政策先住民の子どもが、同化のために家族から引き離され施設や里親に預けられた。数は分かっていないが、10人に1人から3人に1人と推定される。2008年に首相が謝罪した。シドニー
- ローザ・パークス人物AD1913年2月4日 – AD2005年10月24日一人が動かないことから始まったバスで席を譲らなかった。偶然の一件のように語られるが、本人は以前から運動に関わっていた。
- アルメニア人虐殺できごとAD1915年4月24日第一次世界大戦のさなか、オスマン帝国の政府は、帝国内のアルメニア人がロシアに通じていると疑った。1915年4月24日、首都でアルメニア人の知識人や指導者が一斉に逮捕される。続いて各地のアルメニア人がシリアの砂漠へ向けて移送され、途中で殺され、あるいは飢えと渇きで死んだ。死者は数十万から百五十万人と推計される。のちに法学者レムキンがジェノサイドという言葉を作ったとき、念頭にあった例の一つがこれだった。トルコ政府はいまも、ジェノサイドと呼ぶことを認めていない。コンスタンティノープル
- タルサの虐殺できごとAD1921年6月1日消されたのは町と、その記憶オクラホマ州タルサのグリーンウッド地区は、黒人の商店や銀行や病院が並ぶ豊かな町で、黒人のウォール街とも呼ばれた。1921年5月31日、黒人の青年が白人の女性に乱暴したという噂が広がり、武装した白人の群衆が地区を襲う。翌日にかけて三十五街区が焼かれ、死者は数十人とも三百人とも言われる。事件は長く教科書にも載らず、語られなかった。百年後、ようやく遺骨の発掘と、生き残った人への補償が議論されている。タルサ
- 関東大震災と朝鮮人虐殺できごとAD1923年災害の中の恐怖が、差別を殺人に変えた1923年9月の大地震で東京と横浜が火の海になるなか、朝鮮人が井戸に毒を入れた、放火している、という流言が広がった。警察や軍の一部もそれを伝えた。住民が作った自警団が、町の角で通る人を呼び止め、発音の違いで見分けて、朝鮮人を次々に殺した。殺されたのは数千人ともいわれ、中国人や、朝鮮人と間違えられた日本人もいた。混乱の中で、社会主義者や無政府主義者も軍や警察の手で殺されている。災害の中の恐怖が、差別を殺人に変えた。東京
- 知里幸恵『アイヌ神謡集』できごとAD1923年自らの言葉で書き残す知里幸恵は1903年、北海道の登別に、アイヌの家に生まれた。祖母と伯母から、神々が自らを語る謡「カムイユカラ」を聞いて育った。15歳のとき、アイヌ語を研究していた言語学者の金田一京助に出会い、その勧めで、謡を自分でローマ字で書き取り、日本語に訳した。1922年、東京の金田一の家で校正を終えた夜、心臓の病で亡くなった。19歳だった。翌1923年、『アイヌ神謡集』が出版された。アイヌの人が自らの言葉で自らの文化を書き残した最初の本である。アイヌ語は、同化の政策のなかで話す人が激減し、いまでは消滅の危機にある言語とされている。東京
- 治安維持法できごとAD1925年4月22日1925年4月22日、国の形(国体)を変えることや、私有財産の制度を否定することを目的に、結社を作ったり加わったりした者を罰する治安維持法が公布された。この年、25歳以上のすべての男に選挙権を与える法も成り、ソ連と国交を結んでいた。共産主義の広がりを抑える狙いだった。1928年には最高刑が死刑に引き上げられ、取り締まりの網は共産主義者から、労働運動、自由主義の学者、宗教団体へと広がった。特高警察の拷問で死んだ者も出た。1941年の改正では、刑期を終えた者を閉じ込め続けることもできるようになった。敗戦後の1945年10月、占領軍の指令で廃止された。東京
- 血液型で性格を占うできごとAD1927年分かりやすい四つの箱血液の型が見つかってまもなく、それが人の気質とも関係するのではないかと考える人が出た。1927年、東京の女子高等師範学校の教師・古川竹二は、血液型と気質を結びつける論文を発表し、話題になる。のちの研究で裏づけは得られず、いったん忘れられた。1970年代、放送作家の本がきっかけで再び流行し、雑誌や番組の定番になる。科学的な根拠は示されていない。血液型で人を決めつける差別も問題になった。東京
- サッコとヴァンゼッティの処刑できごとAD1927年8月23日移民と無政府主義者1920年4月、マサチューセッツ州の靴工場で給料を運んでいた会計係と警備員が撃ち殺され、金が奪われた。捕まったのは、イタリアから来た移民の無政府主義者、靴職人のニコラ・サッコと魚の行商人バルトロメオ・ヴァンゼッティだった。第一次世界大戦のあと、アメリカでは共産主義と移民への恐れが高まっていた。1921年の裁判で、証拠は乏しく食い違っていたが、二人の思想を憎む判事のもとで死刑が言い渡される。別の男が自分も加わっていたと告白しても、裁判はやり直されなかった。世界中で抗議が起きるなか、1927年8月23日、二人は電気椅子で処刑された。ボストン
- キング牧師人物AD1929年1月15日 – AD1968年4月4日差別に抗う方法そのものを設計した非暴力で公民権運動を率いた。ガンディーの方法を、別の大陸で受け継ぐ。
- ニュルンベルク法できごとAD1935年9月15日祖父母で人を分けた1935年9月15日、ニュルンベルクで開かれていたナチ党の党大会に合わせて国会が招集され、二つの法が通された。帝国市民法は、ドイツの血を持つ者だけを市民とし、ユダヤ人から市民の権利を奪った。ドイツ人の血と名誉を守る法は、ユダヤ人とドイツ人の結婚と性的な関係を禁じた。では誰がユダヤ人なのか。血を測る方法は無かったので、11月の施行令は、祖父母のうち何人がユダヤ教の共同体に属していたかで人を分けた。人種の名による差別が、国の法になった。ロマや黒人にも同じ法が当てはめられ、3年後の水晶の夜へ、そして虐殺へと続いていく。ニュルンベルク
- 第二次大本事件できごとAD1935年12月8日国家が教えを裁く1892年、京都府綾部の貧しい女性出口なおが神がかりし、世の立て替え立て直しを告げた。娘婿の出口王仁三郎が教えを広め、大本は大正から昭和にかけて、知識人や軍人も引きつける大きな教団になった。政府は、天皇を中心とする国の秩序を脅かすものとして大本を警戒した。1935年12月8日の未明、警官およそ五百人が綾部と亀岡の本部を急襲し、王仁三郎ら幹部を、治安維持法と不敬の罪で捕らえた。教団は解散させられ、建物はダイナマイトで壊された。1942年の二審で治安維持法の罪は無罪とされたが、教団が自由を取り戻したのは敗戦後だった。綾部
- ベルリン・オリンピックできごとAD1936年8月1日ナチスのドイツは、1936年8月に開いたオリンピックを、国の力と秩序を世界に見せる舞台にした。ギリシャから聖火を走ってつなぐリレーは、この大会で始まる。記録映画も作られた。だが陸上ではアメリカの黒人の選手ジェシー・オーエンスが四つの金メダルを取る。マラソンでは、日本の選手として出場した朝鮮の孫基禎が優勝し、朝鮮の新聞が表彰の写真から胸の日の丸を消して載せ、発行を止められた。祭典の裏に、それぞれの国の抑圧が映っていた。ベルリン
- 水晶の夜できごとAD1938年11月9日パリでドイツの外交官がユダヤ人の青年に撃たれた事件を口実に、1938年11月9日の夜から翌日にかけ、ドイツ各地でユダヤ人の商店や住宅や礼拝堂が襲われた。千を超える礼拝堂が焼かれ、割られたガラスが通りに散らばったことから、水晶の夜と呼ばれる。百人近くが殺され、三万人ほどの男性が強制収容所に送られた。しかもユダヤ人の側に、被害の賠償金が科された。警察も消防も、ユダヤ人の建物を守らなかった。迫害が、法から暴力へ移った夜だった。ベルリン
- 「奇妙な果実」できごとAD1939年4月20日木に吊るされた人を歌うアメリカ南部で黒人がリンチにあい、木に吊るされた姿を「奇妙な果実」にたとえた詩を書いたのは、ニューヨークの高校の教師エイベル・ミーロポルだった。リンチの写真を見て書いたという。1939年、白人と黒人が同じ客席に座れる初めてのナイトクラブで、ビリー・ホリデイがこれを歌う。大手のレコード会社は録音を断り、小さな会社が4月20日に録音した。放送を拒む局も多かった。黒人への暴力を正面から歌った最初の歌の一つで、のちの公民権運動の先ぶれとも言われる。ニューヨーク
- ホロコーストできごと1941年差別が、国家の計画的な絶滅に行き着いた約600万人のユダヤ人が組織的に殺された。近代の官僚機構と技術が、絶滅のために使われた。アウシュヴィッツ

- ヴァンゼー会議できごとAD1942年1月20日1942年1月20日、ベルリン郊外の湖畔の邸宅に、ナチスの親衛隊と各省庁の次官ら十五人が集まり、昼食をはさんで九十分ほど話し合った。議題は、ヨーロッパのユダヤ人一千百万人の「最終的解決」を、役所どうしでどう分担して進めるかだった。すでに東方では大量の射殺が始まっていた。会議の記録は、殺戮を遠回しの役所の言葉で書いている。国家の行政の仕組みそのものが、民族の抹殺のために動かされたことを示す文書である。ベルリン
- 朝鮮語学会事件できごと1942年10月ハングルの綴り方は長く定まっていなかった。言語学者の周時経の弟子たちは朝鮮語学会を作り、1933年、ハングルの正書法の統一案をまとめ、朝鮮語の大辞典の編纂を進めた。日本の統治のもとで、朝鮮語の教育は1938年に正規の科目から外され、1940年には名前を日本式に変えさせる創氏改名が行われた。1942年10月、警察は、朝鮮語学会を独立運動の団体だとして、会員を次々に治安維持法違反で捕らえた。取り調べは過酷で、2人が獄中で死んだ。押収された辞典の原稿は、1945年の解放の後、ソウル駅の倉庫で見つかり、のちに辞典として完成した。ソウル
- ワルシャワ・ゲットー蜂起できごとAD1943年4月19日ワルシャワのユダヤ人は、塀で囲まれた地区に四十万人以上押し込められ、飢えと病で次々に死んだ。1942年の夏、三十万人近くが絶滅収容所へ送られる。残された若者たちは、どうせ死ぬなら戦って死ぬと決めた。1943年4月19日、地区の最後の住民を運び出しに来たドイツ軍に、わずかな拳銃と火炎瓶で立ち向かう。ひと月近く抵抗が続いたが、ドイツ軍は地区を一軒ずつ焼き払った。ナチスの占領下で起きた、最初の大きな市街の蜂起だった。ワルシャワ
- デンマークのユダヤ人の救出できごと1943年10月占領されたデンマークでは、政府が残ってドイツと協力する形をとり、ユダヤ人は3年のあいだ手を付けられなかった。1943年秋、ドイツは一斉検挙を決める。ドイツ大使館の海運担当ドゥクヴィッツがその日取りを漏らし、10月1日の夜に兵が家々を回ったとき、ほとんどのユダヤ人は隣人や見知らぬ人にかくまわれていた。それから数週間、漁師たちが夜の海峡を小舟で往復し、七千人あまりを中立のスウェーデンへ渡した。捕まったのは五百人に満たない。デンマークのユダヤ人の九割以上が、ホロコーストを生き延びた。コペンハーゲン
- ジャッキー・ロビンソンできごとAD1947年4月15日やり返さない約束アメリカの大リーグは、長く白人だけのものだった。黒人の選手は別のリーグで戦っていた。1947年4月15日、ブルックリン・ドジャースのジャッキー・ロビンソンが一塁手として出場し、その壁を破る。球団の幹部は、どんな侮辱にもやり返さないことを約束させていた。観客の罵声、相手の選手の嫌がらせ、脅迫の手紙に耐えながら、彼はその年の新人王になる。いまは毎年4月15日、大リーグのすべての選手が彼の背番号42をつけて試合をする。ニューヨーク
- インド憲法の施行できごとAD1950年1月26日不可触民として扱うことを禁じる1950年1月26日、インドは憲法を施行し、イギリスの国王を元首としない共和国になった。起草の委員会を率いたのは、不可触民とされた身分の出身の法律家アンベードカルである。憲法は、カーストによる差別と不可触民の扱いを禁じ、成人のすべての男女に選挙権を与えた。当時のインドの人々の多くは読み書きができず、それでも一人一票が約束されたのである。条文は世界で最も長い憲法の一つで、宗教と言葉と地域の違う人々を一つの国にまとめる土台になった。デリー
- 難民条約できごとAD1951年7月28日外に置かれた人を、どこが引き受けるか第二次大戦後、ヨーロッパに数百万の帰る場所を持たない人がいた。二十六か国がジュネーヴに集まり、難民を定義し、その保護を条約にした。核心は第三十三条のノン・ルフールマンである。迫害されるおそれのある地へ、追い返してはならない。当初は1951年以前のヨーロッパの事件に限られ、1967年の議定書がその制限を外した。定義は人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団への帰属による迫害である。気候と貧困は、そこに入っていない。ジュネーヴ
- ブラウン判決できごとAD1954年5月17日分けること自体が不平等カンザス州トピーカの黒人の少女リンダ・ブラウンは、家の近くの白人の学校に入れず、遠い黒人の学校へ通っていた。黒人の地位向上を求める団体の弁護士サーグッド・マーシャルは、各地の同じような訴えをまとめて最高裁へ持ち込む。黒人の子どもが白い人形を良いとし黒い人形を悪いと答える心理学の実験も、証拠として出された。1954年5月17日、最高裁は全員一致で、公立学校を人種で分けることは憲法に反すると判断した。分けること自体が不平等だとされた。トピーカ
- 力道山と街頭テレビできごとAD1954年2月19日テレビの放送が始まったばかりの1954年2月、大相撲の関脇から転じたプロレスラーの力道山は、柔道家の木村政彦と組んで、アメリカのシャープ兄弟と東京の蔵前国技館で戦った。試合はテレビで中継された。受像機は高価で、家庭にはほとんど無かったが、駅前や公園に置かれた街頭テレビの前には、何千、何万という人々が押し寄せた。大きなアメリカ人を空手チョップでなぎ倒す力道山の姿に、敗戦で自信を失っていた人々は熱狂した。力道山は戦後の英雄になったが、朝鮮半島の出身であることは長く伏せられていた。1963年、彼は刺されて亡くなった。東京
- モンゴメリー・バス・ボイコットできごと1955年座る場所を分ける決まりに、乗らないことで抗う一人が席を譲らなかったことから、黒人住民が381日間バスに乗らなかった。公民権運動の始まりとされる。モンゴメリー

- エメット・ティルできごとAD1955年8月28日開けたままの棺が、全国に見せたシカゴに住む十四歳のエメット・ティルは、夏休みにミシシッピの親戚を訪ねていた。雑貨屋の白人の女性に口笛を吹いた、とされたことで、数日後の1955年8月28日の夜、白人の男たちに連れ去られ、殺されて川に沈められた。母親は、変わり果てた息子の顔を皆に見せるため、棺を開けたまま葬儀を行う。その写真が雑誌に載り、全国が見た。犯人は白人だけの陪審で無罪となり、のちに雑誌の取材で殺害を認めた。三か月後、モンゴメリーでバスの座席を譲らない女性が現れる。マネー
- 水俣病できごとAD1956年病んだこと自体が差別の理由にされた1956年5月、原因不明の中枢神経の疾患として公式に確認された。手足がしびれ、言葉が不明瞭になり、視野が狭まる。原因は、工場が排出したメチル水銀である。魚に濃縮され、それを食べた人に及んだ。胎盤を通って、胎児にも及んだ。企業は排水を続け、行政は認定を絞り、患者は差別された。公式の確認から国が公害と認めるまで12年かかった。2013年、水銀に関する国際条約が「水俣条約」と名づけられた。水俣
- リトルロックの九人できごとAD1957年9月25日兵士に守られて登校した九人ブラウン判決から三年、アーカンソー州リトルロックの白人の高校に、九人の黒人の生徒が入学することになった。州知事は州兵を出して、彼らが校舎に入るのを阻んだ。罵声を浴びせる群衆の中を一人で歩く少女の写真が、世界に配信される。1957年9月25日、アイゼンハワー大統領は陸軍の空挺部隊を送り、兵士に守られて九人は登校した。冷戦のさなか、アメリカの人種差別はソ連の宣伝の格好の材料にもなっていた。リトルロック
- モータウンの創業できごとAD1959年1月12日黒人が経営する会社の音楽が、みんなの音楽に1959年1月12日、自動車の町デトロイトで、フォードの工場の流れ作業で働いた経験のあるベリー・ゴーディが、家族から借りた800ドルでレコード会社を興した。町の呼び名「モーター・タウン」からモータウンと名づける。近所の若者を集め、作曲、演奏、歌い方、振り付け、舞台での礼儀まで社内で教え、毎週の会議で出す曲を選んだ。シュープリームス、テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ。黒人が作り、黒人が経営する会社の音楽が、白人の若者の順位の上位を占めた。デトロイト
- 公民権法できごとAD1964年7月2日潰すための一語が、別の運動の足場にケネディ大統領が提案し、暗殺のあとを継いだジョンソン大統領が議会を押し切った。南部の議員たちは長い演説で採決を引き延ばしたが、1964年7月2日、法は成立する。店や食堂やホテルで、人種や肌の色や宗教や出身国で客を分けることを禁じ、雇うときの差別も禁じた。性別による差別の禁止も加えられた。法案を潰すために反対派が入れたとも言われるが、そのまま残り、女性の職場での権利の土台になった。ワシントンD.C.
- セルマの橋できごとAD1965年3月7日テレビに映った暴力が、法を動かしたアラバマ州セルマでは、黒人の住民の大半が、読み書きの試験や嫌がらせで有権者の登録を拒まれていた。1965年3月7日、州都モンゴメリーへ向けて歩き出した六百人ほどの行進は、町はずれの橋で州の警官隊に襲われ、棍棒と催涙ガスで追い返された。その映像がテレビで全国に流れる。二週間後、行進はやり直され、五日かけて州都に着いた。8月、投票の登録での差別を禁じる投票権法が成立した。セルマ
- 出身国の割り当てをやめる移民法できごとAD1965年10月3日1924年以来、アメリカの移民の受け入れは、出身国ごとの割り当てで決められていた。北西ヨーロッパの人を多く、南東ヨーロッパの人を少なく、アジアの人はほとんど入れない仕組みである。1965年10月3日、ジョンソン大統領は、自由の女神の足もとで、この割り当てを廃止する法律に署名した。家族の呼び寄せと技能を重んじる形に変わる。大きな変化はないと言われていたが、その後、アジアと中南米からの移民が大きく増え、アメリカの人口の顔ぶれを変えた。ニューヨーク
- ローデシアの一方的独立宣言できごとAD1965年11月11日少数派が独立の名で支配を守ろうとしたアフリカの植民地が次々に独立するなか、イギリスは南ローデシアに、多数派の黒人が政治に加わることを独立の条件とした。人口の一割に満たない白人の政府は、これを拒む。1965年11月11日、首相イアン・スミスは、イギリスからの独立を一方的に宣言した。どの国も承認せず、国連は経済の制裁を科したが、隣の南アフリカなどの支えで、白人の支配は十五年続く。黒人の解放勢力とのゲリラ戦で、数万人が死んだ。ハラレ
- ワッツ暴動できごとAD1965年8月11日法の差別が消えても残ったもの投票権法が成立して五日後の1965年8月11日、ロサンゼルスの黒人の住む地区ワッツで、白人の警官が飲酒運転の黒人の若者を止めた。集まった住民と警官がもみ合いになり、騒ぎは六日間に及ぶ暴動になる。三十四人が死に、多くの店が焼かれ、州兵が出動した。法の上の差別は取り除かれつつあったが、北部や西部の都市の黒人の地区には、仕事の無さと、警察への不信と、住む場所の分け隔てが残っていた。ロサンゼルス
- 異なる人種の結婚できごとAD1967年6月12日結婚は人の基本的な自由白人のリチャード・ラヴィングと、黒人と先住民の血を引くミルドレッドは、1958年にワシントンで結婚し、故郷のヴァージニアに戻った。数週間後、夜中に保安官が寝室に踏み込み、二人は異なる人種の結婚を禁じる州法で有罪になる。州を出て暮らすことを条件に刑を猶予された。1967年6月12日、連邦最高裁は、結婚は人の基本的な自由であり、人種で制限することは憲法に反すると判断した。二人の姓が、そのまま判決の名になった。ワシントンD.C.
- 1967年の国民投票(オーストラリア)できごとAD1967年5月27日人口に数えられなかった人々1967年5月27日、オーストラリアの有権者は、憲法から先住民を差別する二つの条文を消すかを問う国民投票で、九割を超える賛成を示した。国勢調査の人口に先住民を数えないという条文と、連邦政府が先住民のための法律を作れないという条文である。国民投票としては、この国で最も高い賛成の率だった。これで市民権や選挙権が与えられた、と語られることが多いが、それは誤りである。変わったのは連邦が乗り出せるようになったことで、土地の権利をめぐる争いは、それから始まった。キャンベラ
- モハメド・アリの徴兵拒否できごとAD1967年4月28日ベトナムの人々と争う理由はないボクシングの世界ヘビー級王者カシアス・クレイは、1964年、イスラムの教えに入り、モハメド・アリと名を改めた。ベトナム戦争が激しくなると、アリにも徴兵の通知が来た。1967年4月28日、ヒューストンの徴兵の場で、アリは名前を呼ばれても前に進み出ず、入隊を拒んだ。信仰を理由に、自分を差別する国のために、自分に何もしていないベトナムの人々と戦うことはできないと語った。アリは王座を奪われ、3年半にわたって試合を禁じられた。1971年、最高裁判所は有罪の判決を覆し、アリは1974年に王座を取り戻した。ヒューストン
- 表彰台の拳できごとAD1968年10月16日オリンピックで最も知られた一枚1968年10月16日、メキシコシティのオリンピックの男子二百メートルで一位と三位になったアメリカの黒人の選手トミー・スミスとジョン・カーロスは、表彰台で国歌が流れるあいだ、黒い手袋をはめた拳を突き上げ、頭を垂れた。靴を脱いで黒い靴下で立ったのは、黒人の貧しさを示すためだった。二位のオーストラリアの白人の選手も、人権を訴えるバッジをつけて並んだ。二人は選手村から追放され、国に帰っても長く冷遇された。メキシコシティ
- 五・一三事件(マレーシア)できごとAD1969年5月13日独立したマレーシアでは、政治の力はマレー人が、商業と都市の富は華人が多く握っていた。1969年5月の総選挙で、華人の多い野党が議席を伸ばし、勝利を祝う行進が行われる。13日、クアラルンプールでマレー人と華人の衝突が起き、数日の暴動で、公式の発表でも二百人近く、実際にはさらに多くが死んだ。議会は止められ、政府は、マレー人を教育や雇用や事業で優遇する新しい経済政策を始める。民族の間の取り分を国が決める仕組みは、いまも続いている。クアラルンプール
- アボリジナル・テント大使館できごとAD1972年1月26日自分の土地で外国人のように扱われる1972年1月26日、イギリスの入植から184年の記念日の夜、四人の先住民の若者が、キャンベラの国会議事堂の前の芝生にビーチパラソルを立て、「アボリジナル大使館」という看板を掲げた。首相が先住民の土地の権利を認めないと述べた直後だった。自分たちの土地にいながら外国人のように扱われている、という抗議である。テントは撤去と再建を繰り返しながら、いまも同じ場所に立っている。キャンベラ
- プルーイット=アイゴーの爆破できごとAD1972年3月16日1950年代の半ば、アメリカのセントルイスに、11階建ての33棟からなる巨大な公営住宅、プルーイット=アイゴーが完成した。設計したのは、のちにニューヨークの世界貿易センターを設計する日系の建築家ミノル・ヤマサキだった。だが、住む人の多くを占めた貧しい黒人の家族の暮らしは支えられず、維持の予算も足りず、建物は荒れ、犯罪と空き家が増えた。1972年3月16日、最初の棟が爆破されて崩れ落ちる様子がテレビで流れた。ある建築の評論家は、近代建築はこの日に死んだと書いた。セントルイス
- ソウェト蜂起できごとAD1976年6月16日教える言葉の押しつけに、子どもが立った授業をアフリカーンス語で受けさせる方針に、高校生が抗議して行進した。警官が発砲し、倒れた少年の写真が世界に流れる。アパルトヘイトへの国際的な圧力が、ここから強まった。ヨハネスブルグ

- 756号できごとAD1977年9月3日片足を上げて球を待つ一本足打法で、王貞治は本塁打を打ち続けた。1977年9月3日、後楽園球場で通算七百五十六本目を打ち、アメリカの大リーグの記録を抜いたとされる。この日のために、国民栄誉賞という賞が新しく作られた。王は中国の浙江省出身の父を持ち、中華民国の国籍だったため、高校時代に国の大会の一部に出られなかった経験もある。最終的に八百六十八本を打った。日本の野球の記録を、世界と比べて語る時代が来ていた。東京
- 残留孤児の訪日調査できごとAD1981年3月2日国境の向こうに置き去りにされた子どもたち1945年8月、ソ連軍が満洲に入り、開拓団の日本人は逃げまどった。途中で親と死別し、あるいは生きるために預けられた子どもたちが、中国の家庭で育てられた。国交が正常化してから九年後の1981年3月、中国に残された孤児四十七人が、肉親を探しに初めて集団で日本へ来た。名前も、生まれた村も覚えていない人が多い。手がかりは、預けられたときの服や、かすかな記憶や、体の傷だった。報道が顔と特徴を伝え、心当たりのある人が名乗り出た。この回では三十人の身元が分かった。調査はその後も続いたが、分かったのは三割ほどにとどまる。東京
- スリランカ内戦できごとAD1983年スリランカでは、多数派のシンハラ人の政府が、シンハラ語だけを公用語にし、少数派のタミル人を大学や職から締め出す政策をとった。タミル人の武装組織は、北と東に自分たちの国を作ろうとする。1983年7月、兵士が殺された報復に、コロンボなどでタミル人への暴動が起き、多くの人が殺された。内戦は二十六年続き、自爆攻撃も多く使われた。2009年、政府軍が組織を壊滅させて終わったが、最後の戦いで多くの市民も死んだ。コロンボ
- バーブリー・モスクの破壊できごとAD1992年12月6日アヨーディヤーには、十六世紀にムガル朝の時代に建てられたモスクがあった。ヒンドゥーの人びとの一部は、そこがラーマ神の生まれた場所で、もとの寺院を壊して建てられたのだと主張した。1992年12月6日、ヒンドゥー至上主義の団体の集会に集まった十数万の人びとが、モスクを素手と道具で打ち壊す。その後の宗教の暴動で、各地で二千人ほどが死んだ。2019年、最高裁はその土地を寺院の建設に与える判断を下し、2024年、寺院が開かれた。アヨーディヤー
- アパルトヘイトの終結できごとAD1994年法で分けることを、法でやめる全人種が参加する選挙が行われ、マンデラが大統領になった。報復ではなく和解が選ばれる。ヨハネスブルグ

- 閉じ込める数できごとAD1990年代閉じ込めることが産業になると、減らす方へ働かない1970年代から、アメリカの受刑者は増え続けた。麻薬への厳罰、量刑の下限を法で固定する制度、三度目の有罪で終身刑という州法。裁判官の裁量が減り、検察官が起訴の内容で刑を事実上決めるようになる。人口あたりの受刑者数は世界最多になり、黒人の若い男の割合が著しく高い。犯罪が減ったのはこの政策のためだという主張と、他の要因が大きいという研究が並ぶ。刑務所を運営する会社の株が取引される。閉じ込めることが産業になると、需要を減らす方向へは働きにくい。ワシントンD.C.
- スレブレニツァの虐殺できごとAD1995年7月11日隣人だった人々が、民族の名で殺された国連が「安全地帯」と宣言した町。守っていたのはオランダ軍400人。ムラディッチのセルビア人部隊が入り、女子供をバスで運び出し、男と少年8372人を、数日で、倉庫と学校と野原で殺して、埋めた。後に重機で掘り返して別の場所へ移した(骨が散らばって、身元の特定を難しくした)。ヨーロッパで第二次大戦後、最大の大量殺害。国際法廷がジェノサイドと認定した。スレブレニツァ
- ラグビー・ワールドカップと南アフリカできごとAD1995年6月24日一つのチーム、一つの国南アフリカの代表チーム、スプリングボクスは、アパルトヘイトの時代、白人の誇りの象徴で、黒人の多くは相手のチームを応援した。アパルトヘイトが終わり、1994年に大統領になったネルソン・マンデラは、翌年に自国で開かれるラグビーのワールドカップを、国をまとめる機会にしようとした。1995年6月24日、ヨハネスブルグの決勝で、南アフリカは延長の末にニュージーランドを破った。表彰の場に、マンデラはスプリングボクスの緑のジャージを着て現れ、白人の主将に優勝杯を手渡した。白人の多い観客席から、マンデラの名を呼ぶ声が沸き起こった。ヨハネスブルグ
- ダルフール紛争できごとAD2003年スーダン西部のダルフールで、2003年、中央政府に取り残されてきた住民の武装勢力が反乱を起こした。政府は、アラブ系の民兵ジャンジャウィードを使って村々を襲わせる。村は焼かれ、井戸には毒が入れられ、女性たちは暴行された。数十万人が死に、二百万人を超える人が家を追われたと推計される。2009年、国際刑事裁判所は、現職の大統領バシールに逮捕状を出した。現職の国家元首に対する初めての逮捕状だった。エル・ファーシル
- 盗まれた世代への謝罪できごとAD2008年2月13日国として過去を認める2008年2月13日、首相のケヴィン・ラッドは議会で、先住民の子どもを家族から引き離してきた政策について、国として謝罪した。「ごめんなさい(sorry)」という言葉を三度繰り返している。前の首相は、いまの世代が過去の世代の行いを謝ることはできないとして、謝罪を拒んできた。議事堂の外や全国の広場では、画面の前で多くの人が泣いた。補償の基金は作られなかったが、国がその過去を公に認めた日として記憶されている。キャンベラ
- オーバーゲフェル判決できごとAD2015年6月26日オハイオ州のジム・オーバーゲフェルは、20年あまり連れ添った男性のパートナーが難病で死にかけていたとき、同性婚が認められていたメリーランド州へ飛び、空港に止めた医療用の飛行機の中で結婚した。だがオハイオ州は、パートナーの死亡証明書に、彼を配偶者として書くことを拒んだ。2015年6月26日、合衆国の最高裁判所は5対4で、結婚する権利は同性の二人にも憲法で保障されているとし、すべての州で同性婚を認めさせた。多数意見を書いたケネディ判事は、二人が求めているのは法の前での平等な尊厳だと書いた。ワシントンD.C.
- ジョージ・フロイドの死できごとAD2020年5月25日2020年5月25日、ミネアポリスで、偽札を使ったと通報された黒人の男性ジョージ・フロイドが、白人の警察官に首を膝で押さえつけられ、九分あまりのあいだ息ができないと訴えながら死んだ。通りかかった十七歳の少女が、その一部始終を携帯電話で撮っていた。感染症の流行のさなかにもかかわらず、抗議はアメリカ全土と世界の数十か国に広がり、黒人の命も大切だ、という言葉が掲げられた。警察官は殺人の罪で有罪となる。ミネアポリス
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
主権はだれのものか14件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。法と裁判の歴史14件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。二つの大戦11件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。キリスト教のひろがり11件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。民族移動の時代9件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。冷戦のあと8件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。冷戦7件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。女性の権利7件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。都市の歴史6件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。帝国と独立6件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史6件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。近代と宗教5件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。表現の歴史4件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。誰が書き残したか4件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。支え合いの歴史4件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。性の歴史4件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。ローマ人の物語3件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。明治3件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。朝鮮半島3件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。イスラム世界3件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。感染症と人類3件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。交易路とお金3件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。考えることの歴史3件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。教育の歴史3件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。働くことの歴史3件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。非株式会社いつかやるで聞く歴史3件を共有 / YouTubeチャンネル「非株式会社いつかやる」が解説した戦い・人物・病の歴史。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。言葉と文字の歴史3件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。確かめるという方法2件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史2件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『暴力の人類史』で読む歴史2件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後2件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『モンタイユー』で読む中世の村2件を共有 / ピレネーの村人200人が、異端審問で一人ずつ尋問された。その調書から、村の暮らしが丸ごと出てくる。老いと死の歴史2件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。古代オリエント1件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。インドと仏教1件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。武士の700年1件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。技術と産業1件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史1件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『ローマ人の物語』で読むローマ1件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ1件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。『世界史』(マクニール)で読む歴史1件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀1件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『地中海』で読む歴史1件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。『大転換』で読む歴史1件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。『中世の秋』で読む中世の終わり1件を共有 / ルネサンスの前夜ではなく、中世そのものの終わり方。過剰な儀礼と、死への執着に覆われた14〜15世紀。『地に呪われたる者』で読む脱植民地1件を共有 / 植民地支配が人の心に何をするかを、精神科医が診察室から書いた。36歳で死ぬ年に口述された本。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙1件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。『暴力と不平等の人類史』で読む格差1件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『砂糖の世界史』で読む世界商品1件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。『歴史序説』で読む王朝の寿命1件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。障害の歴史1件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。メディアの歴史1件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。戦争と平和の歴史1件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。