主権はだれのものか

概要
王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。
この物語について
決めてよいのは誰か。王か、議会か、国民か。この問いは、いまも最終的な答えに達していない。では、答えはどのように動いてきたのか。そして「国民」とは、いつから誰のことを指すようになったのか。
この問いの前史は古い。紀元前2100年ごろ、メソポタミアのウルの王ウル・ナンムは、刑罰や賠償を定めた法を文字にして掲げた。王が決まりを示すという形の、知られている最も古い例である。前6世紀の初めのアテナイでは、ソロンが借金のかたに市民が奴隷にされることを禁じた。法は王や有力者が与えるものから、市民どうしが守るものへと、少しずつ姿を変えていく。だが「決める権利がそもそも誰にあるのか」という問いがはっきり立てられるのは、中世の終わりのイングランドからだった。
1215年、イングランド王ジョンは、重い軍役と課税に反発した貴族たちに迫られ、テムズ川のほとりのラニーミードで一通の証文を認めた。マグナ・カルタである。中身の大半は貴族や教会の権利の確認で、民主主義の文書ではない。王はすぐに教皇に頼んで無効にしてもらい、内戦が起きた。それでも、自由人は同輩の正しい裁判か国の法によらなければ捕らえられないとした条文のように、王も法に縛られると文字にしたことが、のちに何度も引かれることになる。1265年には、王に反旗を翻したシモン・ド・モンフォールが、貴族だけでなく各地の騎士と都市の代表も呼んで集会を開いた。議会の原型の一つとされる。

ただし、ヨーロッパ全体が議会の方向へ進んだわけではない。フランスでは17世紀、ルイ14世が宮廷をヴェルサイユに移し、貴族を宮殿に集めて儀礼と恩恵で縛った。「朕は国家なり」という言葉は彼のものとして有名だが、実際に言ったという確かな記録はない。それでも、王の権力は神から授かったもので、だれにも縛られないという王権神授の考えは、この王のもとで頂点に達した。
イングランドでは逆の方向へ事態が動いた。議会の同意なく課税しようとしたチャールズ1世と議会が争い、内戦になる。議会軍を率いたクロムウェルの側が勝ち、1649年1月、議会の設けた法廷が王を裁いて、ロンドンの宮殿の前で首を斬った(清教徒革命と国王処刑)。王が臣下の法廷で裁かれて公開で処刑されたことは、ヨーロッパじゅうに衝撃を与えた。ただその後の共和政はクロムウェルの独裁に近いものになり、彼の死後、王政は復活する。

決着は40年後についた。1688年、カトリックの王ジェームズ2世が国を追われ、議会はその娘メアリとオランダ総督ウィレムを迎えた。ほとんど血が流れなかったので名誉革命と呼ばれる。翌年の権利章典は、議会の同意なしに税を取ることや、平時に常備軍を置くことを王に禁じた(名誉革命と権利章典)。同じ年、ジョン・ロックは『統治二論』を出し、政府は人々の生命・自由・財産を守るために託されたもので、それを裏切れば人々は政府を替えてよいと論じた。王から議会へ、決める場所が移ったのである。
18世紀には、その考えがさらに先へ進んだ。モンテスキューは権力を分けて互いに抑えさせる必要を説き、ルソーは『社会契約論』で、主権は人民全体の意思にあり、譲り渡すことはできないと書いた。ディドロらの『百科全書』は、知識を教会と王の手から取り上げ、読む人々に開こうとした。こうした本は国境を越えて読まれた。
1776年7月4日、イギリスの13の植民地はアメリカ独立宣言を出した。すべての人は平等に造られ、生命・自由・幸福の追求の権利を持ち、政府の正しい権力は治められる者の同意に由来する、と。王ではなく人民が主権者だと宣言した国が、初めて現れた。だがこの文を起草したジェファーソンは、多くの奴隷を所有していた。1787年の合衆国憲法は、議員の数を決めるときに奴隷を一人の5分の3として数えた。「すべての人」は、まだすべての人ではなかった。

1789年、財政危機から始まったフランス革命で、国民議会は8月に人権宣言を採択した。人は生まれながらに自由で平等であり、あらゆる主権の源は本質的に国民にある、と。1793年1月には、ルイ16世が国民公会の裁判にかけられて処刑された。同じ時代、劇作家オランプ・ド・グージュは、宣言の「人」が男しか指していないとして「女性および女性市民の権利宣言」を書いたが、恐怖政治のなかで処刑された。
宣言の言葉をいちばん文字どおりに受け取ったのは、フランスの植民地サン=ドマングで奴隷にされていた人々だった。1791年に蜂起した彼らは、元奴隷のトゥサン・ルヴェルチュールらに率いられて戦い、ナポレオンが送った軍も退けて、1804年1月1日、ハイチとして独立した(ハイチ革命)。奴隷にされた人々が自らの力で国を作った、世界で初めての例である。それはアメリカ大陸の奴隷主たちを震え上がらせ、新しい国は長く国際社会から締め出された。

革命の後、ヨーロッパは揺り戻した。ナポレオンを倒した国々は1814年からのウィーン会議で、革命前の王家の正統を元に戻そうとした。だが主権を国民に求める考えは消えなかった。1820年代までにスペインとポルトガルのアメリカ植民地の多くが独立し、1830年にはフランスで七月革命が起きる。1848年にはパリからウィーン、ベルリンへと革命が連なり、フランスでは成年男子すべてに選挙権が与えられた。多くの革命は鎮められたが、各国の王はこれ以後、憲法と議会を無視して治めることが難しくなった。
19世紀の後半、問いは「誰を国民として数えるか」に移る。アメリカの南北戦争は奴隷制をめぐる戦いで、戦後の憲法修正で奴隷制は廃止され、黒人男性にも投票の権利が書き込まれた。しかし南部では、読み書きの試験や人頭税で黒人の投票が長く妨げられ、実際に投票できるようになるのは1960年代の公民権運動を経てからだった。西半球で最後まで奴隷制を残したブラジルが廃止に踏み切ったのは1888年である。
日本は、この流れを外から取り入れた。1889年2月に発布された大日本帝国憲法の発布は、アジアで早い時期の本格的な憲法で、翌年には帝国議会が開かれた。ただし主権は天皇にあり、最初の選挙で投票できたのは直接国税15円以上を納める25歳以上の男子で、人口の1パーセントほどにすぎなかった。1925年に普通選挙法で納税の条件が外されたが、同じ年に治安維持法も成立している。広げる法と締める法が、同じ議会で通ったのである。

女性が「国民」に入るまでには、さらに時間がかかった。国の規模の選挙で女性が投票した最初の例は、自治植民地だった1893年のニュージーランドの女性参政権とされる。イギリスでは女性参政権を求める人々が窓を割り、獄中で断食して強制的に食べさせられながら運動を続け、1918年に30歳以上の女性が、1928年に男性と同じ条件で選挙権を得た。アメリカは1920年、日本は1945年の暮れ、フランスは1944年である。
20世紀には、国民主権を掲げた国が、国民の名で独裁を生むことも起きた。1919年のヴァイマル憲法は当時最も民主的な憲法と呼ばれたが、非常時に大統領が命令で統治できる条文を抱えていた。世界恐慌のなかでその条文が使われ続け、1933年にヒトラーが首相になると、議会は自ら政府に立法の権限を渡した。選挙で選ばれた者が選挙をなくすことができる、という教訓は重く残った。

その反省の上に、第二次世界大戦の後の秩序は作られた。1948年12月の世界人権宣言は、国がどうであれ人が持つ権利の基準を書き、日本国憲法は主権が国民にあると明記して1947年に施行された。1950年のインド憲法は、読み書きのできない人も含めて成人の全員に一票を与えた。植民地だったアジアとアフリカの国々も、次々に独立して主権を持つ国になった。1980年代の終わりには、フィリピンや韓国、東欧の国々で、独裁や一党支配が人々の抗議で倒れた。チェコスロヴァキアでは、獄にいた劇作家ハヴェルが大統領になった。
それでも答えは出きっていない。選挙で選ばれた指導者が裁判所や報道を抑えこむ国は少なくなく、2021年1月にはアメリカで、大統領選挙の結果を認めない群衆が連邦議会議事堂に押し入った。800年前、貴族が王に約束を守れと迫ったときの問い、つまり権力を持つ者を何が縛るのかという問いは、主権者が王から国民に替わったいまも、形を変えて残っている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(420)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ウル・ナンム法典できごとBC2100年頃王が法を文字にして掲げた最古の例現存する最古の法典。ハンムラビより300年早く、傷害は同害報復ではなく罰金で償わせている。ウル

- ソロン人物BC630年頃 – BC560年頃負債を帳消しにし、財産に応じて参政権を配分した。アテナイ民主政の下地を作る。
- ソロンの改革できごとBC594年借金で人が奴隷にならない、と決めた借金による奴隷化を禁じ、市民を財産で四つに分けた。民主政へ向かう最初の一歩とされる。アテナイ
- タルクィニウスの追放(王政の廃止)できごとBC509年(伝承)二人の執政官を1年で王の息子がルクレティアを犯し、彼女が自殺し、ブルトゥスが短剣を掲げて王を追った。二人の執政官を1年で選ぶ共和政。ブルトゥスは自分の息子二人が王の復帰を謀ったのを処刑した。「王」はそれからローマで最も憎まれる言葉になった。ローマ
- クレイステネスの改革できごとBC508年血縁の集団を解体し、10の地域に組み替えて代表を出させた。抽選で選ばれる評議会と、追放を投票で決める仕組み。民主政の骨格がここで組まれる。アテナイ
- 陶片追放できごとBC487年罪を問わずに、力を持ちすぎた人を減らす仕組みアテナイの民主政は、僭主が現れることを恐れていた。そこで、罪を問わずに人を追い出す仕組みを作る。年に一度、追放すべき者がいるかを民会に諮り、必要と決まれば、市民が壊れた陶器の欠片に名を刻んで投じた。一定数を超え、最も多く書かれた者は十年間、市を離れる。財産は没収されず、名誉も奪われない。戻れば元の市民である。つまり、危険な人物を裁くのではなく、力を持ちすぎた人物を減らすための仕組みだった。やがて派閥の道具になり、百年ほどで使われなくなる。アテナイ
- ローマのケンススできごとBC443年頃censor の語源5年ごとに、市民全員が名と年齢と財産を申告した。監督するのは監察官(ケンソル)。ここで決まるのは、どの階級に属し、どの部隊で戦い、どの投票区で何票を持つかである。数えることは、税と兵役と政治的な権利を同時に割り当てる行為だった。申告を怠れば、財産を没収され、奴隷に落とされることもあった。ケンソルは風紀も監督し、名簿から元老院議員を除くことができた。censor(検閲)の語はここから来る。ローマ
- アルギヌサイの海戦できごとBC406年民会が将軍をまとめて死刑にアテナイが奴隷まで乗せた150隻で勝った。嵐で25隻の乗員を救えなかった。民会は6人の将軍をまとめて死刑にした。その日の議長がソクラテスで、一人だけ違法だと反対した。翌年、艦隊は指揮官を失ったまま、アイゴスポタモイへ。アルギヌサイ
- 三十人政権できごとBC404年民主政が戻って4年後リュサンドロスが立てた30人の寡頭。クリティアス、ソクラテスの元弟子。8か月で1500人を殺し、財産を取り、市民を3000人に絞った。トラシュブロスがピュライから戻ってペイライエウスで戦い、クリティアスが死んだ。民主政が戻り、4年後にソクラテスを裁いた。アテナイ

- カウティリヤ人物BC370年頃 – BC283年頃インドのマキャヴェッリチャーナキヤ、ヴィシュヌグプタ。タクシラの教師で、ナンダ朝の王に侮辱されて、チャンドラグプタを見つけて育て、ナンダ朝を倒させ、マウリヤ朝を作らせた、と伝える(『ムドラーラークシャサ』の劇、仏教とジャイナ教の伝承)。『実利論』の著者かどうかは分からない(AD2〜3世紀の編纂、という説)。「インドのマキャヴェッリ」。目的のためには何でも。しかし「臣民の幸福」を王の目的にした。
- 抽選器できごとBC4世紀アテナイの民主政では、役人の多くと裁判の陪審員を、選挙ではなくくじで選んだ。選挙をすれば、弁の立つ者や金のある者が勝つ。くじなら誰にでも順番が回る。法廷の朝には、石の板に名札を差す溝が縦横に並んだ抽選器が使われた。市民は自分の青銅の名札を溝に差し、脇の筒から黒と白の玉を一つずつ落として、白が出た列の者がその日の陪審員になる。誰がどの法廷に座るかは、朝まで誰にも分からない。買収する相手が、前もって決まらないのである。ただし戦争を率いる将軍だけは、くじではなく選挙で選んだ。アテナイ
- ハスモン朝の独立できごとBC140年80年マカバイの反乱から27年、シモンがセレウコス朝の税を止め、大集会が「永遠の大祭司にして指導者」と決めた。王でなく祭司の王朝。80年。ヨハネ・ヒルカノスがイドマヤを改宗させ、その孫がヘロデ。ポンペイウスが来て終わった。エルサレム
- 同盟市戦争できごとBC91年同盟都市が市民権を求めたイタリアの同盟都市がローマ市民権を求め、拒まれて反乱した。3年、30万人が死んだ。ローマは戦いながら市民権を与えて終わらせた。イタリア人がローマ人になった。マリウスもスッラもポンペイウスの父も、ここで軍を持った。ローマ
- ウェルキンゲトリクス人物BC82年頃 – BC46年ガリアを一つにしたアルウェルニ族の若い首長がガリアの部族を一つにし、焦土でカエサルを疲れさせ、ゲルゴウィアで勝ち、アレシアで負けた。馬でカエサルの前に来て、武器を足元に置いた。6年獄にいて、凱旋式で引き回されて、絞められた。19世紀にフランスの祖になった。
- 元首政の始まり(アウグストゥスの称号)できごとBC27年1月16日共和政の形を残してオクタウィアヌスが元老院で「すべての権限を返す」と言い、元老院が「受け取ってほしい」と頼み、属州の半分と軍を10年預けた。3日後、「アウグストゥス」。「尊厳ある者」。共和政の形を残して、一人が治める。「プリンケプス」、第一の市民。皇帝という語はまだない。ローマ
- 赤眉と緑林の乱できごとAD23年首は市で蹴られた王莽の改革で土地と貨幣が乱れ、飢えた民が眉を赤く塗って山東で立ち、湖北の緑林山にも集まった。劉秀が昆陽で王莽の42万を1万で破った。10月、長安。王莽は未央宮の高台で殺され、首は市で蹴られた。15年の新が終わり、2年後、劉秀が漢を再興した。昆陽
- 徴姉妹の蜂起できごとAD40年ベトナムで最初の抵抗後漢の支配に対して姉妹が立ち、65の城が呼応した。3年だけ自立し、鎮圧されて処刑された。ベトナムで最初の抵抗として記憶されている。紅河デルタ(位置は特定されていない)
- 徴姉妹人物? – AD43年ベトナムで最初の抵抗後漢の支配に対して蜂起し、3年だけ自立した。ベトナムで最初の抵抗として、いまも通りの名に残る。
- アントニヌス勅令できごとAD212年相続税のためカラカラが帝国の自由人全員にローマ市民権を与えた。属州民も。「神々に感謝する者を増やすため」と勅令は言い、ディオは「相続税を取るため」と書いた。市民と属州民の区別が消え、「ローマ人」が地中海の人全部の名になった。ローマ

- 冠位十二階できごとAD603年(推古11年)官僚の始まり徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて12。紫、青、赤、黄、白、黒の冠。氏でなく個人に、世襲でなく功績で。隋と百済と高句麗の制度を見て作った。小野妹子は隋へ渡ったとき「大礼」で、のちには最上位の「大徳」だった。官僚の始まり。飛鳥

- 貞観の治できごとAD627年200回諫めた太宗の23年。「創業と守成、いずれが難きか」。魏徴が200回諫め、太宗が聞いた。「君は舟、民は水」。人口が戻り、米が安く、死刑が29人の年があった。『貞観政要』。日本の天皇も徳川家康も読んだ。年号が理想の政治の名になった。長安

- スィッフィーンの戦いできごとAD657年7月ハワーリジュアリーとムアーウィヤ。ウスマーンの血の報い。ユーフラテスの岸で3か月睨んで、3日戦った。負けそうなムアーウィヤの兵が槍の先にクルアーンを掲げた。「神の裁きを」。アリーは仲裁を受け、それを裏切りとした兵が出て行った。ハワーリジュ。4年後、彼らがアリーを殺した。スィッフィーン

- 庚午年籍できごとAD670年土地を配り、兵を取る白村江で敗れた天智天皇が、全国の民を戸ごとに登録させた。姓と名と年齢と続柄。これに基づいて口分田を配り、租庸調と兵役を課す。日本で最初の全国的な戸籍とされ、氏姓の根本台帳として永久保存が命じられた(のちに失われた)。数えられることは、土地を与えられることであり、同時に税と徴兵の名簿に載ることでもあった。逃亡した者を追う仕組みでもあり、8世紀の戸籍には、実態と合わない女性ばかりの戸が並ぶ(兵役逃れのための偽籍)。飛鳥
- 大宝律令できごとAD701年(大宝元年)法で国が動く刑部親王と藤原不比等が唐の律令を手本に、律6巻、令11巻。二官八省、班田収授、租庸調、戸籍。年号「大宝」。日本が「日本」と名乗り、天皇が「天皇」と書かれ、法で国が動くようになった最初の年。律令そのものは残らず、養老令の注釈から復元されている。藤原京
- 両税法できごとAD780年人でなく土地に課税安史の乱で戸籍が崩れ、均田制と租庸調が回らなくなった。宰相楊炎の案。人でなく、持っている土地と資産に課税する。夏と秋の2回。銭で納める(後に一部は現物)。土地の私有と売買を、事実上、認めた。国家が土地を配る建前が終わり、地主と佃戸(小作)の関係が中国の農村の基本になった。この形が、明の一条鞭法まで800年続いた。長安
- 薬子の変できごとAD810年(弘仁元年)9月式家が倒れ北家が退位した平城上皇が平城京に戻り、寵愛する藤原薬子と兄仲成が「都を奈良に戻せ」。嵯峨天皇は坂上田村麻呂に固めさせ、上皇は東国へ向かう途中で引き返して出家した。仲成は射殺され、薬子は毒を飲んだ。藤原式家は倒れ、北家の冬嗣が蔵人頭になった。京都
- ミフナ(審問)できごとAD833年カリフが教義を決めることは二度とマームーンが死ぬ4か月前に「クルアーンは被造物である」と法学者に認めさせよと命じた。ムウタジラ派の教義。拒んだイブン・ハンバルは鞭打たれた。15年。ムタワッキルが止めた。カリフが教義を決めることは、それきり二度と受け入れられなかった。バグダード
- 甘露の変できごとAD835年宦官が立てて宦官が殺した文宗が宦官を殺そうとして、「庭に甘露が降った」と宦官を誘い出す計画を立てた。宦官が伏兵を見つけ、神策軍が宰相ら600人以上を殺した。皇帝は宦官の人質になった。「私は家奴に制せられている」。唐の皇帝は、それから宦官が立てて宦官が殺した。長安
- ストラスブールの誓いできごとAD842年2月14日互いの兵に分かるようにルートヴィヒの兄弟が、長兄ロタールに対して同盟した。ルートヴィヒはロマンス語(古フランス語)で、シャルルは古高ドイツ語で、互いの兵に分かるように誓った。書き残されたフランス語の最古の文。翌年、ヴェルダンで帝国を三つに分けた。ストラスブール

- ヴェルダン条約できごとAD843年いまのフランス・ドイツ・イタリアの骨格カール大帝の帝国が孫3人に分けられた。この線がフランス・ドイツ・イタリアの骨格になる。ヴェルダン

- ザンジュの乱できごとAD869年東アフリカから連れてこられた奴隷が、イラク南部の湿地で塩の混じった表土をはがす労働に使われ、15年反乱した。バスラを落とし、独自の都を建てる。イスラーム世界最大の奴隷反乱になる。バスラ
- 黄巣の乱できごとAD875年科挙に落ちた塩の密売人が反乱軍を率い、広州で外国商人を虐殺し、長安を占領した。唐はこれで実質的に終わる。鎮圧した軍閥が次の王朝を作った。長安
- 阿衡の紛議できごとAD888年(仁和4年)関白が天皇を上回った宇多天皇が藤原基経を関白にする詔に「阿衡の任」と書いた。基経は「阿衡は位だけで職務がない」と半年出仕を止めた。天皇は詔を書き直し、起草した橘広相を罰した。関白の力が天皇を上回ることを見せた。宇多は基経の死後、菅原道真を用いた。京都
- ファーティマ朝の成立できごとAD909年ファーティマの子孫を名乗ったムハンマドの娘ファーティマの子孫を名乗るイスマーイール派の指導者が、ベルベルのクターマ族を得てアグラブ朝を倒し、チュニジアでカリフを名乗った。アッバースと並ぶ第二のカリフ。60年後にエジプトを取り、カイロを建て、200年、シーア派の帝国だった。ラッカーダ
- ユーグ・カペー人物AD940年頃 – AD996年800年続く家パリ伯の家から、カロリング家の断絶で王に選ばれた。領地はパリとオルレアンの周りだけで、諸侯より弱かった。だが息子を生前に共同王にし、その家が800年続く。カペー、ヴァロワ、ブルボン。
- 高麗の科挙できごとAD958年1894年まで光宗が後周から来た双冀の勧めで科挙を始めた。それまでの豪族の家柄でなく、試験で。同時に奴婢按検法で豪族の私奴を減らした。豪族を殺し、王の力を作った。朝鮮の科挙は1894年まで続いた。開城
- 杯酒釈兵権できごとAD961年兵が皇帝を作る時代が酒で終わった陳橋で兵に担がれて皇帝になった趙匡胤が、翌年、担いだ将軍たちを酒宴に呼んだ。「あなたたちも、部下に担がれれば」。「土地と屋敷と美女で、余生を」。翌日、全員が辞表を出した。50年の五代で、兵が皇帝を作る時代が、酒で終わった。文治。開封
- 安和の変できごとAD969年(安和2年)3月摂関政治の完成左大臣源高明が、娘婿の為平親王を皇太子にする謀反を企てている、と源満仲が密告した。高明は大宰府へ。藤原氏が他氏を追った最後。以後、摂政と関白が常に置かれ、藤原北家が朝廷を持った。「摂関政治」の完成。京都
- 花山天皇の出家(寛和の変)できごとAD986年(寛和2年)6月道長の家はここから19歳の天皇が寵愛した女御を亡くして悲しみ、藤原兼家の子道兼が「一緒に出家しましょう」と夜、元慶寺へ連れ出した。天皇が剃髪すると道兼は「父に別れを」と逃げた。孫の一条天皇が7歳で即位し、兼家が摂政。道長の家は、ここから。京都
- ユーグ・カペーの即位できごとAD987年7月3日王位は選ばれるものカロリング家の王が狩りで死に、ランス大司教が「王位は世襲ではなく選ばれるもの」と説いて、パリ伯を選ばせた。自分の領地は小さく、諸侯は従わなかった。だがその家が、以後800年続く。パリ
- ヘイスティングズの戦いできごとAD1066年10月14日支配層がまるごと入れ替わったノルマンディー公がイングランドを征服した。英語にフランス語が大量に流れ込む。ヘイスティングズ

- 延久の荘園整理令できごとAD1069年(延久元年)証文のない荘園を取り上げた藤原の外戚でない後三条天皇が、170年ぶりに即位して、記録荘園券契所を置き、証文のない荘園を取り上げた。摂関家の荘園も。大江匡房が助けた。枡を統一した。「延久の宣旨枡」。4年で譲位して院政を考え、翌年死んだ。白河がそれを継いだ。京都
- 王安石の新法できごとAD1069年50年争った神宗が宰相にした。青苗法、募役法、均輸法、市易法、保甲法、方田均税法。国が農民に金を貸し、労役を金で代え、大商人の利を国が取る。司馬光、蘇軾、欧陽修が反対した。「祖宗の法を変えるな」。新法党と旧法党が50年争い、宋は弱った。開封
- 後三年の役できごとAD1083年(永保3年)朝廷は恩賞を出さず清原氏の内紛に陸奥守の源義家が介入し、金沢柵を兵糧攻めで落とした。雁の列が乱れて伏兵を知った、と伝える。朝廷は「私戦」と言って恩賞を出さず、義家が自分の財で報いた。武士は源氏に恩を感じ、清衡が平泉を始めた。「武士の棟梁」。金沢柵(横手)

- ドゥームズデイ・ブックできごとAD1086年異議を言えない帳簿征服王が、イングランドの全部の土地と家畜と人を数えさせた。「牛一頭、豚一匹も漏らさず」。1万3000の地名。ラテン語で2冊。「最後の審判の日」のように、異議を言えないから、その名がついた。いまも国立公文書館にある。ウィンチェスター

- アラムートのニザール派できごとAD1090年35年城を出なかったハサン・サッバーフがエルブルズの岩の城を取った。「鷲の巣」。ファーティマ朝のカリフの後継争いで兄ニザールの側に立ち、独自の教団に。フィダーイーが宰相ニザームルムルクを刺した。「アサシン」。35年、城を出なかった。1256年、モンゴルが落とした。アラムート
- エル・シドのバレンシア占領できごとAD1094年6月自分の国カスティーリャを追われた傭兵隊長が、ムスリムの王にもキリスト教徒の王にも仕え、20か月囲んでバレンシアを取った。自分の国。ムラービト朝を退けた。5年で死に、妻ヒメナが3年守って、街は失われた。「わが主」。スペインの国民叙事詩は彼の名で。バレンシア
- ヴォルムス協約できごとAD1122年教会と世俗の権力が分かれていく司教を誰が任命するかをめぐる50年の争いが妥協で終わった。教会と世俗の権力が分かれていく。ヴォルムス

- エレノア・オブ・アキテーヌ人物AD1122年頃 – AD1204年4月1日16年幽閉フランス王妃からイングランド王妃になり、十字軍にも同行した。自身の広大な所領を最後まで手放さなかった。
- ヘンリー2世人物AD1133年3月5日 – AD1189年7月6日コモン・ローの始まりアンジュー伯の子で、エレノアと結婚してスコットランドからピレネーまでを治めた。巡回裁判と陪審の原型を作る。妻と息子たちが反乱し、最後は末子のジョンにも裏切られて死んだ。
- クラレンドン巡回裁判令できごとAD1166年12人の自由民が申告するヘンリー2世が、各地の12人の自由民に、地域で犯罪を犯した疑いのある者を国王の裁判官に申告させる仕組みを作った。告発する陪審である(裁く陪審になるのは後)。国王の巡回裁判官が全土を回り、同じ判断の基準を持ち帰る。地域ごとの慣習ではなく、王国に共通の法。「コモン・ロー」の語はここから来る。判例を積み上げて法とする体系が、この行政の都合から育った。クラレンドン
- トマス・ベケットの殺害できごとAD1170年12月29日王と教会の争い王が「誰かこの厄介な司祭を片づけてくれぬのか」と漏らし、四人の騎士が大聖堂で大司教を斬った。王は裸足で墓に詣でて鞭を受けた。墓はチョーサーの巡礼の目的地になる。カンタベリー

- 守護・地頭の設置できごとAD1185年(文治元年)11月武士が土地に公の権限を義経を追うという名目で、頼朝が朝廷に国ごとの守護と荘園ごとの地頭を認めさせた。北条時政が兵を連れて京に来た。「文治の勅許」。武士が全国の土地に公の権限を持った。鎌倉幕府の始まりを1185年にするのは、この年から。京都
- 割り符と国庫できごとAD13世紀木目は二つと同じものがない。割れば偽造できないイングランドの財務府は、木の棒に切れ込みを入れて金額を記した。千ポンドは手のひらの幅、一ペニーは細い線。刻んだ後で棒を縦に割り、片方を納税者が、片方を国庫が持つ。木目は二つと同じものがないので、合わせれば本物だと分かる。改竄が難しく、読み書きができなくても使える。この方式は六百年以上続き、割り符そのものが債権として転々と売買された。1834年、廃止された棒を国会議事堂の炉で燃やしたところ、煙突から火が移り、議事堂が全焼した。ロンドン
- アルビジョア十字軍できごとAD1209年7月22日オック語の終わり南フランスのカタリ派に対して、教皇が十字軍を呼んだ。ベジエ。「全員殺せ。神が自分の者を選り分ける」。2万人。北の騎士が南の土地を取った。20年。トゥールーズは王のものになり、オック語の文化は終わり、異端審問が制度になった。ベジエ

- ブーヴィーヌの戦いできごとAD1214年7月27日フランスが王国になった日フランス王フィリップ2世が、皇帝オットー4世とフランドル伯とイングランド王ジョンの連合を日曜日に破った。皇帝は逃げ、ジョンはノルマンディーを失ったまま帰って、翌年マグナ・カルタに署名させられた。フランスが「王国」になった日。ブーヴィーヌ

- マグナ・カルタできごとAD1215年6月15日民主主義の文書ではない。それでも「王も法に縛られる」と書いてある王も法に従うと文書で認めさせた。立憲政治の遠い出発点とされる。ラニーミード

- 神明裁判の終わりできごとAD1215年同じ年のマグナ・カルタ被告に熱した鉄を握らせ、傷の治り方で有罪を決める。水に沈めて浮けば有罪。決闘で決める。中世ヨーロッパの裁判は、神が正しい者を守るという前提で成り立っていた。1215年の第4ラテラノ公会議が、聖職者がこの儀式に立ち会うことを禁じた。神の保証が消えた。代わりに、人が事実を認定しなければならなくなる。イングランドは陪審へ、大陸は職権による審理と自白の重視、そして拷問へ向かった。同じ年、マグナ・カルタが署名されている。ローマ
- 御成敗式目できごとAD1232年(貞永元年)道理北条泰時が51か条の法を定めた。「道理」。武士の慣習を文字にした。女の相続、20年の占有、悪口の禁止。「京の人は笑うだろうが、これは文字を知らない者のための法」。それから600年、武家の法はここから始めた。鎌倉
- リトアニア大公国国AD1236年(ミンダウガスの統一) – AD1569年(ルブリン合同)結婚で二つの国が一人の君主の下に並んだヨーロッパ最後の異教の国が、東スラヴの土地を呑み込んでバルト海から黒海の近くまで広がった。1386年に大公がポーランド女王と結婚して改宗し、二つの国が一人の君主の下に並ぶ。
- ルイスの戦いとシモン・ド・モンフォールの議会できごとAD1264年5月14日議会の父シモン・ド・モンフォールがヘンリー3世と王子エドワードを捕えた。翌年、州から騎士を、町から市民を呼んだ議会。「議会の父」。その半年後、イーヴシャムでエドワードに殺され、体を切られた。議会は残った。1295年、エドワードが同じ形で「模範議会」。ルイス
- フィリップ4世(美男王)人物AD1268年 – AD1314年11月29日教皇を捕えた王法律家を使って教会に課税し、教皇を捕え、次の教皇をアヴィニョンに置き、テンプル騎士団を拷問で潰して財産を取った。三部会を最初に開いた。美しく、無口で、何を考えているか分からない、と同時代の人は書いた。
- ドージェの選び方できごとAD1268年ヴェネツィアの元首ドージェは終身で、有力な家が取り合えば共和国が割れる。1268年に定まった選び方は、くじと投票を十回交互に重ねるものだった。大評議会からくじで三十人、それをくじで九人に減らし、九人が四十人を選び、またくじで減らす。これを繰り返して、最後の四十一人が元首を選ぶ。途中で何度もくじが入るので、どこかの家が前もって票を固めておくことができない。玉を引くのは、サン・マルコ広場で最初に出会った少年だった。この仕組みは、共和国が終わる1797年まで使われた。ヴェネツィア
- エチオピア帝国国AD1270年(ソロモン朝の成立) – AD1974年(皇帝ハイレ・セラシエの廃位)ソロモンとシバの女王の子孫を名乗る王朝が700年続いた。アフリカで唯一、ヨーロッパの植民地にならずに残る。1896年のアドワでイタリア軍を破った。
- 鍵をかけられた枢機卿できごとAD1271年9月1日1268年に教皇が死ぬと、ヴィテルボに集まった枢機卿たちは、フランス寄りとイタリア寄りに割れて決められなかった。一年たち、二年たっても決まらない。町の人々と役人は、枢機卿たちを館に閉じ込め、食べ物をパンと水に減らし、屋根まで剥がしたと伝えられる。空位はほぼ三年に及び、ようやく選ばれたグレゴリウス十世は、自ら規則を作った。枢機卿を鍵のかかる部屋に閉じ込め、決まらなければ日を追って食事を減らす。「鍵とともに」を意味するコンクラーヴェの名は、ここから来ている。決められない者たちから、ほかの選択肢を取り上げる仕組みである。ヴィテルボ
- ロバート・ブルース人物AD1274年7月11日 – AD1329年6月7日蜘蛛を見て立ち直った教会の中で対抗馬を刺し殺して王になり、破門され、負けて島に隠れ、蜘蛛が巣を張るのを見て立ち直った、と伝説は言う。バノックバーンで勝ち、独立を認めさせた。心臓は聖地へ運ばれる途中でスペインの戦場に投げ込まれた。
- シチリアの晩祷できごとAD1282年3月30日晩祷の鐘で復活祭の月曜、パレルモの教会の前でフランス兵が女に触れた。晩祷の鐘で、街のフランス人が全部殺された。6週間で島中。シャルル・ダンジューは島を失い、アラゴンが取った。20年の戦争。ビザンツの皇帝が金を出していた。「シチリアの晩祷」はそれ以来、外国支配への一斉蜂起の名。パレルモ
- アナーニ事件できごとAD1303年9月7日王が教皇を捕えたフランス王の使者が教皇を故郷の館で捕え、三日拘束した。頬を打ったと伝わる。教皇は解放されて一か月で死んだ。教皇が王の上に立つ時代は、ここで終わる。6年後、教皇庁はアヴィニョンへ移る。アナーニ
- バノックバーンの戦いできごとAD1314年6月24日スコットランドの独立スコットランド王ロバート・ブルースが、倍のイングランド軍を沼地で破った。前日、王は斧一つで突撃してきた騎士の頭を割った。スコットランドの独立は、これで事実になり、1328年に条約になる。バノックバーン

- 塩税できごとAD14世紀塩は誰にでも要る。肉も魚も、塩がなければ保存できない。だから塩に税をかければ、確実に集まる。フランス王は塩を専売にし、地方ごとに違う税率をかけた。しかも、一定量を毎年必ず買わせる決まりまで作る。税の高い地方と安い地方の境では、塩を担いで越える密売が絶えず、専門の取り締まり官と、子どもまで動員した運び屋が争った。捕まれば漕役刑である。不公平で、逃げ場がなく、生きるために必要なものにかかる。革命で真っ先に廃止された税の一つになった。パリ
- 金印勅書できごとAD1356年誰が皇帝を作るのかを、文書で決めた皇帝を選ぶ七人の選帝侯を文書で確定した。教皇の関与を締め出し、選挙の手続きを法にする。ニュルンベルク

- ワット・タイラーの乱できごとAD1381年6月農民が王と直談判した黒死病で人手が減り、賃金を抑える法と人頭税に農民が怒った。ロンドンを占拠し、王と会い、指導者は殺された。それでも農奴制は崩れていく。ロンドン

- コンゴ王国国AD1390年頃 – AD1665年(アンブイラの戦いで王が戦死し、以後分裂)ポルトガルと対等な国として文通を始めたが、やり取りの中身はしだいに奴隷貿易になっていった。王が自ら人の売買をやめてほしいと書き送っている。
- アザンクールの戦いできごとAD1415年10月25日長弓ヘンリー5世の6000が、赤痢と雨の泥の中で、フランスの騎士2万を長弓で倒した。フランスの貴族が一日で消えた。捕虜を殺せと命じた。5年後、トロワ条約でフランス王の跡継ぎに。2年後に死んで、ジャンヌが出た。シェイクスピアの「聖クリスピアンの日」。アジャンクール

- くじ引き将軍できごとAD1428年(応永35年)1月四代将軍の足利義持は、跡継ぎを決めないまま死の床についた。誰を選んでも、選ばなかった兄弟と、それを推した大名が不満を持つ。重臣たちは、義持の四人の弟の名を籤に書き、石清水八幡宮の神前で引かせることにした。引いたのは管領で、封は義持が息を引き取ってから開かれた。当たったのは、青蓮院の門跡として僧になっていた義円である。彼は還俗して六代将軍義教となった。神が選んだ将軍だという建前は、誰にも異を唱えさせない。義教はその建前を背に、強い将軍として振る舞い、やがて家臣に殺される。石清水八幡宮
- スカンデルベグの抵抗できごとAD1444年国旗の鷲オスマンに人質として育てられたアルバニアの貴族の子が、ニシュの戦場から逃げてクルヤの城を取り戻し、25年、山でオスマンを退けた。20回以上の包囲。彼が死んで10年で、アルバニアは落ちた。アルバニアの国旗の鷲は、彼の旗から。クルヤ
- 訓民正音の頒布できごとAD1446年10月9日両班が反対した世宗が28字の文字を作って公布した。序文。「国の語音、中国と異なり、文字と互いに通ぜず。ゆえに愚民、言わんと欲する所あれども、ついにその情を伸べ得ざる者多し。予、これを憐れみて、新たに二十八字を制る。人々をして易く習い、日々の用に便ならしめんと欲するのみ」。子音は発音するときの口と舌の形をかたどり、母音は天と地と人。両班は「漢字を捨てるのか」と反対した。漢城(ソウル)
- イロコイ連邦国AD15世紀頃(成立年には1142年説もある) – AD1783年(パリ条約。土地がアメリカに渡る)イギリスとフランスの間で200年独立を保った五つの部族が争いをやめて一つの長屋になる、という誓いで結ばれた。決定は会議の合意で、氏族の母たちが首長を選ぶ。イギリスとフランスの間で200年、独立を保った。
- イロコイ連邦の成立(大平和の法)できごとAD15世紀頃(1142年説もある)五つの部族が争いをやめ、一つの長屋に住むと誓った。武器を白い松の根元に埋めた、と伝承は語る。合議と氏族の母による首長の選出が、その法の中身になる。オノンダガ(位置は特定されていない)

- ニッコロ・マキャヴェッリ人物AD1469年5月3日 – AD1527年6月21日夜、正装して古人と語るフィレンツェ共和国の第二書記局長。14年、外交使節としてフランス王、皇帝、教皇、そしてチェーザレ・ボルジアに会った。市民軍を組織した。1512年、メディチが復帰して失職、翌年、陰謀の嫌疑で拷問(吊し責め6回)を受け、釈放されて郊外へ。『君主論』『ディスコルシ(ローマ史論)』『戦術論』『フィレンツェ史』、そして喜劇『マンドラゴラ』。共和主義者が書いた君主の本、という矛盾が、500年、読まれ続ける理由になった。
- ボズワースの戦いできごとAD1485年8月22日駐車場の下からリチャード3世が沼地で馬を失い、「馬を、馬を、私の王国を馬と引き換えに」はシェイクスピア。スタンリー家が途中で寝返った。王冠が茂みから拾われた。薔薇戦争の終わり、テューダーの始まり。遺骨は2012年、レスターの駐車場の下から出た。ボズワース

- 山城国一揆できごとAD1485年12月8年の自治畠山の二つの軍が南山城で睨み合っていた。国人と農民が集まって「両軍とも出て行け」。出て行った。36人の月行事で8年自治した。「下剋上の至り」と公家が書いた。守護の兵を追い出したのは、この国では初めて。山城(南山城)
- 加賀の一向一揆できごとAD1488年宗教の共同体が一国を治めた本願寺の門徒(一向宗)が、守護の富樫政親を高尾城に攻めて自害させた。以後、約90年、加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。実際には、本願寺の坊主と、有力な門徒の土豪が合議で治めた。惣村の寄合と、講の組織が、そのまま政治の単位になった。1580年、織田信長に降伏するまで続いた。日本で唯一、宗教の共同体が一国を治めた例。加賀(金沢御堂)
- トルデシリャス条約できごとAD1494年6月7日大西洋に一本の線を引き、東をポルトガル、西をスペインと決めた。住んでいる人には誰も相談していない。トルデシリャス

- イタリア戦争できごと1494年大使を置き、釣り合いを取る外交の始まり1494年、フランス王シャルル8世がナポリの王位を求めてアルプスを越えた。それから60年あまり、フランスのヴァロワ家と、スペインと神聖ローマ帝国を束ねるハプスブルク家が、豊かなイタリアを舞台に争い続けた。1525年のパヴィアの戦いではフランス王が捕虜になり、1527年には皇帝の軍がローマを略奪した。1559年のカトー=カンブレジ条約で、スペインがミラノとナポリを押さえて終わった。パヴィア
- 京都の町衆と祇園祭できごとAD1500年都市の自治応仁の乱で京は焼けた。祇園祭の山鉾も33年、途絶えた。1500年、町衆(下京の商工業者)が、幕府でも公家でもなく、自分たちで再興した。町ごとに山鉾を出し、順番をくじで決めた(くじ取り式)。町は自警し、地子(地代)を交渉し、法度を作った。都市の自治が、祭りの形をとった。応仁の乱の後の京都を作り直したのは、この人々だった。京都
- アフマド・グラーニュ人物AD1506年頃 – AD1543年火器を導入してエチオピア高原の大半を征服した。ポルトガルの介入で押し返され、戦死する。
- マキャヴェッリ『君主論』できごとAD1513年愛されるより恐れられるほうがよいフィレンツェ共和国の書記官が、メディチ家の復帰で職を失い、拷問を受け、郊外の農場に追われた。夜、汚れた仕事着を脱いで正装に着替え、書斎で古人と語る、と友人に書いた。4か月で書いた。君主は、愛されるより恐れられるほうがよい。必要なら約束を破る。運命は女で、大胆な者に従う。復職のためにメディチに献じたが、読まれなかった。死後5年で刊行され、禁書になり、以後500年、読まれ続けている。フィレンツェ
- フッガーの選挙資金できごとAD1519年選帝侯に金を配った皇帝の位が競売のようになった。カール5世とフランソワ1世が、7人の選帝侯に金を配った。ヤーコプ・フッガーがカールに85万グルデンを貸した。カールが皇帝に選ばれた。「陛下が皇帝の位を得たのは、私なしにはあり得なかったことを、陛下はご存じです」とフッガーは後で書いた。ティロルとハンガリーの銀と銅の鉱山。金融が、帝国の位を決めた。アウクスブルク
- 張居正人物AD1525年5月24日 – AD1582年7月9日10年で財政を立て直した湖広江陵。10歳の万暦帝の首輔(宰相格)として10年、明の後期で唯一、財政を立て直した。考成法(官吏の実績を帳簿で管理する)、全国の検地(隠された土地を洗い出した)、一条鞭法、戚継光を北の守りに置いた。厳しく、専断で、恨まれた。死んだ2年後、皇帝が家を捜索させ、爵位を剥奪し、一族を追い込んだ(長男は自殺)。40年後、名誉が回復された。
- アフマド・グラーニュのエチオピア侵攻できごとAD1529年火器を持つアダルの軍が、剣と槍の高原を14年占領した。教会と写本が焼かれ、エチオピアの記録が断絶する。ポルトガルの銃兵が来て押し返した。ワイナ・ダガ(位置は特定されていない)
- イヴァン4世(雷帝)人物AD1530年8月25日 – AD1584年3月28日息子を杖で3歳で大公、8歳で母を失い、貴族が宮廷で殺し合うのを見て育った。1547年、16歳で「全ロシアのツァーリ」として初めて戴冠。前半は改革(法典、地方自治、全国会議、常備の銃兵隊)。1560年に妻アナスタシアが死んでから変わった。オプリーチニナ、ノヴゴロド、リヴォニア戦争の敗北。1581年、息子イヴァンを杖で打って殺した(レーピンの絵)。「グロズヌイ」は「恐ろしい」より「畏怖させる」。
- 尚寧王人物AD1564年 – AD1620年玉陵に入らなかった第二尚氏7代。1609年、薩摩に攻められ、首里城を明け渡した。鹿児島と駿府と江戸へ連れられ、家康と秀忠に会った。2年後、「琉球は代々薩摩に属する」という起請文に署名して帰った(三司官の一人、謝名利山は署名を拒んで斬られた)。歴代の王が葬られる玉陵に入らず、自分の一族の浦添の墓に葬られた。
- スペインのフィリピン支配できごとAD1565年レガスピが恒久的な拠点を築いた。マゼランの到達から44年になる。アジアでは東ティモールと並ぶ、カトリックが多数を占める国になる。国名は、のちのスペイン王フェリペ2世が皇太子だった1543年に、その名から付けられた。セブ
- オプリーチニナできごとAD1565年国を二つに割ったイヴァン4世は突然モスクワを出て「貴族の裏切りに疲れた」と退位を宣言し、民衆が戻るよう請願すると、条件として国を二つに割った。オプリーチニナ(自分の直轄地)とゼムシチナ。黒衣に犬の首と箒を鞍につけた親衛隊オプリーチニキが、貴族を殺し、土地を奪った。1570年、ノヴゴロドを「裏切り」の疑いで襲い、数千人を殺した。1572年に廃止。ロシアの貴族は折れ、皇帝の下に平らになった。モスクワ

- ポーランド・リトアニア共和国国AD1569年(ルブリン合同) – AD1795年(第三次分割)分割されて地図から消えた王を選挙で選び、議会の一人が反対すれば議決が流れる(リベルム・ヴェト)。ヨーロッパで最大級の版図を持ちながら、その仕組みのために動けなくなり、三度に分けて隣国に分割された。
- 一条鞭法できごとAD1581年検地と考成法張居正が全国を検地して、ばらばらだった税と労役を一本にまとめ、銀で納めさせた。名はもと「一条編」(一つに編む)で、同じ音の「鞭」の字が当てられた。日本とアメリカ大陸から流れ込んだ銀が、それを可能にした。農民は作物を売って銀を得なければならず、市場経済に組み込まれた。張居正が死ぬと一族は財産を没収され、名誉は剥奪されたが、税の仕組みは残った。清の地丁銀へ。世界の銀が、中国の税の形を変えた。北京
- 山崎の戦いできごとAD1582年7月2日(天正10年6月13日)三日天下本能寺の11日後。備中高松で毛利と対していた秀吉が、和睦して、200キロを10日で戻った(中国大返し)。天王山の麓で、秀吉4万、光秀1万6000。細川も筒井も光秀に来なかった。光秀は坂本へ逃げる途中、小栗栖で落ち武者狩りの竹槍に刺された。「三日天下」。秀吉が信長の後継の位置に立った。山崎
- 太閤検地できごとAD1582年(天正10年)〜石高秀吉が全国の田畑を、統一した竿(6尺3寸)と枡(京枡)で測り、等級をつけ、石高で表し、耕作者の名前を登録した。荘園の重なった権利は消え、土地は一人の耕作者と一人の領主のものになった。大名の石高が軍役の基準になり、農民は土地に縛られた。中世が終わって、近世が始まった帳簿。京都
- ヴァレンシュタイン人物AD1583年9月24日 – AD1634年2月25日戦争が戦争を養うボヘミアのプロテスタントの小貴族。カトリックに改宗し、富裕な寡婦と結婚し、白山のあと没収されたボヘミアの土地を安く買い集め、フリートラント公。1625年、皇帝に自分の金で軍を提供した。「戦争が戦争を養う」。5万、10万。デッサウ、シュトラールズント(失敗)、メクレンブルク公。1630年、諸侯が恐れて解任。グスタフ・アドルフが来て、呼び戻された。リュッツェン。1634年、エゲル。ケプラーに星占いを頼んだ。
- リシュリュー人物AD1585年9月9日 – AD1642年12月4日国家理性ポワトゥーの小貴族。兄が司教を辞めて、21歳でリュソン司教。マリー・ド・メディシスの側近から、1624年、ルイ13世の宰相。枢機卿。18年。「私の最初の目的は王の威厳、第二は王国の偉大さ」。ユグノー(ラ・ロシェル)、大貴族(決闘の禁止、城の破壊、処刑)、ハプスブルク(三十年戦争でプロテスタントの側に金と兵を出した)。国家理性。アカデミー・フランセーズ(1635年)。『三銃士』の悪役。
- 刀狩令できごとAD1588年8月29日(天正16年7月8日)兵農分離農民から刀、脇差、弓、槍、鉄砲を取り上げた。「集めた武器は方広寺の大仏の釘とかすがいにする。農民は来世まで救われる」。一揆を防ぎ、農民と武士を分けた。兵農分離。武器は完全には消えず、村には鉄砲が残った。ただ「農民は武器を持たない」という建前ができた。京都
- オリヴァー・クロムウェル人物AD1599年4月25日 – AD1658年9月3日議会軍を率いて王を処刑し、共和政の護国卿になった。その統治もまた独裁と呼ばれる。
- チャールズ1世人物AD1600年11月19日 – AD1649年1月30日王権神授ジェームズ1世の次男。兄が死んで王太子。どもり、背が低く、内気で、頑固。「王権神授」。1629年から11年、議会なしで統治した(船舶税)。ロードの高教会、スコットランドに祈祷書を押しつけて、戦争。1640年、議会。1642年、議会に5人の議員を捕らえに来て、逃げられて、内戦。ネイズビー。捕虜になり、スコットランドと密約して、第二次内戦。処刑。ヴァン・ダイクの肖像。国教会は殉教者にした。
- マザラン人物AD1602年7月14日 – AD1661年3月9日自分で統治しなさいイタリア人、ジュリオ・マッツァリーノ。教皇の外交官で、リシュリューが見込んで、フランスに。1642年、リシュリューが死んで、後継。司祭でないのに枢機卿。アンヌ・ドートリッシュとの関係(秘密結婚、と言う)。フロンド。2度追放されて、2度戻った。ウェストファリア、ピレネー条約(1659年)。ルイ14世を育てた。「陛下、自分で統治しなさい」。莫大な財産と本の蔵書(マザラン図書館)。
- 薩摩の琉球侵攻できごとAD1609年4月5日(慶長14年3月)日中両属島津家久が3000で奄美から攻め下り、1か月で首里城を開かせた。尚寧王は薩摩と江戸へ連れて行かれ、2年後、「琉球は薩摩に属する」と誓って戻された。奄美は薩摩の直轄に。琉球は、明(のち清)に朝貢しながら、薩摩に年貢を納める「日中両属」になった。薩摩は琉球を通した中国の産物で財を作り、その財が幕末の薩摩を動かした。首里

- 武家諸法度できごとAD1615年8月30日(元和元年7月7日)城は一つ大坂の陣の2か月後、伏見城で秀忠の名で13か条。文武弓馬の道、城の修理は届け出、新しい城は禁止、無断の婚姻は禁止、大名の交際は禁止。金地院崇伝が起草した。同時に一国一城令で大名の城を一つに。1635年、家光が参勤交代を加えた。将軍が代わるたびに読み上げた。260年の大名統制の憲法。京都
- ラ・ロシェルの包囲できごとAD1628年10月28日特権が消え信仰は残ったユグノーの港。ナントの勅令で自治と要塞を持っていた。イギリスのバッキンガムが援軍を送った。リシュリューは14か月囲み、海に1.5キロの堤防を築いて港を塞いだ。2万7000の住民が5000に。餓死。降伏。ユグノーの政治と軍事の特権が消え、信仰は残された(1685年まで)。『三銃士』の舞台。ラ・ロシェル

- ステンカ・ラージン人物AD1630年頃 – AD1671年6月16日善き皇帝と悪しき貴族ドン・コサックの家。兄を政府軍に処刑された。1667年からカスピ海でペルシアの沿岸を略奪して、英雄になった。1670年、ヴォルガを遡って農民の反乱に。「善き皇帝と、悪しき貴族」を掲げた(皇太子と総主教が自分と一緒にいる、と偽った)。捕らえられて、モスクワで四つ裂き。歌と伝説になり、1908年、ロシア最初の劇映画が彼を撮った。
- ポペ人物AD1630年頃 – AD1692年頃魔術の罪で鞭打たれた祈祷師が、結び目の紐で日を合わせ、各集落を同時に立たせた。スペイン人を12年追い払った。その像がいま連邦議会に立つ。
- ジョン・ロック人物AD1632年8月29日 – AD1704年10月28日自由主義の父サマセットの法律家の子。オックスフォード、医学。シャフツベリ伯の医者で秘書。伯の肝臓の膿瘍を手術して助けた。伯が失脚して、1683年、オランダへ。1689年、名誉革命でメアリと同じ船で帰った。『人間知性論』(心は白紙。経験が書く)、『統治二論』、『寛容書簡』、『教育論』。カロライナ憲法を起草し、奴隷貿易の会社の株を持った。72歳。「自由主義の父」。
- ヴァレンシュタインの暗殺できごとAD1634年2月25日自分の金で10万の軍皇帝の総司令官が、自分の金で10万の軍を養い、自分で敵と交渉し始めた。皇帝は「反逆者」と布告して、暗殺を認めた。エゲルの城で、部下の将校が宴会で殺され、ヴァレンシュタインは寝室でアイルランド人の大尉に戟で刺された。カトリックの皇帝の、プロテスタント出身の、占星術を信じた将軍。シラーが三部作の劇に書いた。エゲル(ヘプ)
- ルイ14世人物AD1638年9月5日 – AD1715年9月1日否定される側の完成形72年在位した。貴族をヴェルサイユに集めて宮廷に縛り、絶対王政の手本と呼ばれる形を作る。
- カリブの砂糖プランテーションできごと1640年1200万人の大半が砂糖のために小さな島が、世界で最も利益の出る土地になった。砂糖のために数百万人が大西洋を運ばれ、ヨーロッパの食卓に甘さが日常として入る。工場に似た労働の管理も、ここで先に生まれた。バルバドス(位置は特定されていない)
- 清教徒革命と国王処刑できごと1642年議会が王を裁いて処刑した議会が王を裁き、公開で処刑した。王が法の上にいるという考えが、ヨーロッパの目の前で否定される。ロンドン

- フロンドの乱できごとAD1648年8月26日子供のパチンコルイ14世は9歳。母アンヌとマザランが摂政。三十年戦争の税に、高等法院が抵抗し、パリがバリケードを築いた。「フロンド」は子供のパチンコ。1648〜53年。高等法院のフロンド、貴族のフロンド(コンデ大公)。王と母は夜、パリから逃げた。ルイは生涯パリを憎み、ヴェルサイユに行った。貴族は負けて、宮廷で王の靴下を持つ役になった。パリ

- チャールズ1世の処刑できごとAD1649年1月30日国王を裁いた議会派が内戦に勝って、軍が議会を粛清し(プライドの追放)、残った議員が国王を裁いた。「反逆者、殺人者、国家の公敵」。王は裁判所の権限を認めなかった。1月30日、ホワイトホールのバンケティング・ハウスの窓から足場へ。シャツを2枚着た(震えて怖がっていると思われないように)。斧が落ちると、群衆がうめいた。イングランドは共和国になった。11年。ロンドン

- 『リヴァイアサン』できごとAD1651年国家は人工の巨人内戦の間、パリに亡命していたホッブズが書いた。自然状態は「万人の万人に対する闘争」で、人の生は「孤独で、貧しく、汚く、残忍で、短い」。人々は互いに契約して、全ての権利を一人の主権者に渡す。国家は人工の巨人。表紙の巨人は無数の小さな人でできている。王党派は無神論だと言い、議会派は王権論だと言った。近代の政治哲学の最初。ロンドン
- シャクシャイン人物? – AD1669年最後の蜂起交易の条件をめぐって蜂起したアイヌの首長。和睦の席で謀殺された。
- ステンカ・ラージンの乱できごとAD1670年農奴を解放するドン・コサックの首領が、カスピ海の略奪から戻って、ヴォルガを遡った。「農奴を解放する。貴族と役人を殺す」。ツァリーツィン、アストラハン、サラトフ、サマラ。20万人が加わったと言われる。シンビルスクで負け、翌年、モスクワの赤の広場で四つ裂きにされた。囚われのペルシアの姫を舟から川へ投げた、という歌が19世紀に作られ、いまも歌われる。カザン

- 書面と署名できごとAD1677年形式を課すことは、どちらの不正義を選ぶかになる口約束をめぐる裁判が増えていた。言った言わないの争いに、証人を金で雇う者まで現れる。1677年、イングランドの議会は、一定の種類の契約は書面にして署名しなければ裁判で認めない、と定めた。土地の売買、保証、一年を超える契約、そして高額の売買。証拠のために形式を要求するという発想である。これで偽証は減ったが、書面が無いという理由だけで、本当にあった約束が守られないこともある。形式を課すことは、いつも、二つの不正義のどちらを選ぶかという話になる。ロンドン
- 人身保護法できごとAD1679年理由を示せない拘束は違法「身体を差し出せ」。人を拘束している者に対し、その人を裁判所に連れて来て、拘束の理由を示せと命じる令状。中世から存在したが、国王が無視すれば効かなかった。1679年の法律が、期限と罰則と手続きを定めて実効性を与えた。理由を示せない拘束は違法である。アメリカ合衆国憲法は、反乱や侵略のとき以外はこれを停止できないと定めた。独裁が最初に手を付けるのは、たいていこの令状である。ロンドン
- プエブロの反乱できごとAD1680年8月10日結び目を作った紐で日を合わせ、各集落が同時に蜂起してスペイン人を追い出した。北米で先住民が植民者を追い払った唯一の例で、12年続いた。サンタフェ(ニューメキシコ)
- ヴェルサイユ宮殿への移座できごとAD1682年反対の極。貴族を宮廷に集めて縛る貴族を宮廷に集めて日課で縛った。反乱を起こす暇を与えない仕掛けとして、絶対王政の手本になる。ヴェルサイユ
- 名誉革命と権利章典できごと1688年王でも議会の同意なしには税を取れない王を替え、王でも議会の同意なしには税を取れないと文書にした。立憲君主制の出発点とされる。ロンドン

- ロック『統治二論』できごとAD1689年信託に背けば名誉革命の翌年、匿名で。第一論はフィルマーの王権神授説を潰し、第二論が本論。自然状態、自然権(生命、自由、財産)、労働による所有、同意による政府、信託、抵抗権。「政府が信託に背けば、人民は新しい立法部を作る権利を持つ」。アメリカ独立宣言はここから。ロックは死ぬまで著者だと認めなかった。ロンドン

- 宝くじと国家財政できごとAD1694年税を課さずに金を集めるイングランドは、フランスとの戦争の戦費に困っていた。1694年、議会が「百万宝くじ」を可決した。10ポンドの札を10万枚売り、当選者に16年間、年金を払う。外れた者にも元本相当の利子を付けたので、実質は国債である。人々は、返ってこないかもしれない国債は買わないが、当たるかもしれない籤は買う。同じ年、イングランド銀行が設立された。宝くじは、税を課さずに金を集める方法として、各国が使い続けている。ロンドン
- アシャンティ王国国AD1701年(オセイ・トゥトゥの即位) – AD1902年(イギリスによる併合)黄金の椅子に国の魂が宿るとされ、王でさえ座らない。金と交易で栄え、イギリスと四度戦った。19世紀の西アフリカで最も強い国だった。
- ベンジャミン・フランクリン人物AD1706年1月17日 – AD1790年4月17日フランスの参戦を引き出した印刷屋から始めて、避雷針と二重焦点眼鏡を作り、独立宣言に署名し、フランスを味方につけた。「時は金なり」を書いた人でもある。
- イングランドとスコットランドの合同できごとAD1707年5月1日一つになった二つの国一世紀前から、イングランドとスコットランドは同じ王を戴いていたが、議会も法も別々だった。スコットランドは、中米に植民地を作ろうとする事業に国の富の多くをつぎ込んで失敗し、財政は傾いていた。1707年5月1日、二つの国は一つの議会を持つグレートブリテン王国になる。スコットランドの議員たちが金で買収されたとも言われ、エディンバラでは反対の暴動が起きた。三百年後、スコットランドは再び独立を問う住民投票を行い、過半数が残ることを選んだ。ロンドン
- ドゥニ・ディドロ人物AD1713年10月5日 – AD1784年7月31日『百科全書』を20年かけて編んだ。知識を教会と王から取り上げて並べ直す仕事になる。
- ユトレヒト条約できごとAD1713年スペインの王が跡継ぎなく死ぬと、フランスのルイ14世は孫を王位に就けた。フランスとスペインが一人の家に握られることを恐れたイギリスとオーストリアとオランダが戦いを挑み、戦争は十年以上続く。1713年、ユトレヒトで結ばれた講和で、孫の王位は認めるが、フランスとスペインの王冠は決して一つにしない、と定められた。イギリスはジブラルタルと、スペイン領アメリカへ奴隷を売る権利を得る。一国が強くなりすぎないように均衡をとる、という考えがヨーロッパの外交の原則になった。ユトレヒト
- 南海泡沫事件できごとAD1720年最初の首相南海会社は国債を引き受けて、スペイン領アメリカとの貿易の独占を約束された。貿易はほとんどなかった。株は1月の128ポンドから6月末に1000ポンドを超えた。「誰も知らない事業のための会社」まで生まれた。9月に崩れた。ニュートンが2万ポンド失った。「天体の動きは計算できるが、人の狂気は計算できない」。大臣が獄に入り、ウォルポールが収拾して、最初の首相になった。ロンドン
- エカチェリーナ2世人物AD1729年5月2日 – AD1796年11月17日クーデタで夫を退け、34年統治した。啓蒙思想と文通しながら、農奴制はむしろ強めている。
- ジョージ・ワシントン人物AD1732年2月22日 – AD1799年12月14日独立軍を率い、初代大統領になった。二期で自ら退いたことが、その後の型を作る。
- トマス・ペイン人物AD1737年2月9日 – AD1809年6月8日イギリスのコルセット職人が、37歳でアメリカに渡って『コモン・センス』を書いた。フランス革命では国民公会の議員になり、王の処刑に反対して投獄された。
- トゥパク・アマル2世人物AD1738年3月19日 – AD1781年5月18日インカの後継を名乗って蜂起したインカ最後の皇帝の子孫を名乗り、植民地体制に対して蜂起した。処刑の様子が、以後の抵抗の記憶になる。
- トゥサン・ルヴェルチュール人物AD1743年頃 – AD1803年4月7日奴隷にされた側から主権を取りに行ったサン・ドマングの奴隷に生まれ、御者で、字を読み、解放されて、自分も奴隷を持った。1791年の蜂起に加わり、軍を作り、スペイン、イギリス、フランスと戦い、1801年、島を統一して憲法を作った。「黒いスパルタクス」。ナポレオンが3万を送った。捕らえられて、ジュラ山脈の要塞で凍えて死んだ。「私を倒しても、自由の木の根は深く、また生える」。翌年、ハイチが独立した。
- トマス・ジェファソン人物AD1743年4月13日 – AD1826年7月4日平等を書いた人が600人の奴隷を持っていた独立宣言を書き、第3代大統領としてルイジアナを買った。「すべての人は平等に造られている」と書いた人が、600人の奴隷を持っていた。
- カシニのフランス測量図できごとAD1744年敵より測量に領土を奪われた一つの国の全土を、三角測量で測って地図にする。世界で最初の試みである。カシニ家が四代、およそ80年をかけた。基線を精密に測り、そこから三角形を連ねて、全国に骨組みを張る。結果は、意外なものだった。フランスは、それまで思われていたより小さかった。ルイ14世が「私は、敵に奪われたより多くの領土を、あなた方の測量に奪われた」と言ったと伝えられる。革命政府がこの図を接収し、軍が使い、そして各国が真似た。国家が自国の形を正確に知る、最初の道具になった。パリ
- 『百科全書』できごと1751年知識を教会と王の手から取り上げる20年かけて全28巻。知識を教会と王の手から取り上げて並べ直す仕事で、たびたび発禁になっている。パリ

- ルイ16世人物AD1754年8月23日 – AD1793年1月21日錠前作りと狩りを好んだ内気な王。財政の破綻で三部会を召集し、そこから始まった革命に呑まれ、逃亡に失敗して処刑された。
- マリー・アントワネット人物AD1755年11月2日 – AD1793年10月16日マリア・テレジアの娘として14歳でフランスへ嫁いだ。浪費と外国人への憎しみを一身に受け、「パンがなければ」の言葉を言った証拠は無い。夫の9か月後に処刑された。
- ノア・ウェブスター人物AD1758年10月16日 – AD1843年5月28日20の言語を独学したコネチカットの農家。イェール在学中に独立戦争。教師になり、イギリスの教科書しかないことに憤って、自分で綴字教科書を書いた(1783年。青い表紙から「ブルーバック・スペラー」と呼ばれ、1世紀で1億部近く売れた)。著作権法の制定を各州に働きかけて回り、アメリカの著作権制度の父とも呼ばれる。26年かけて辞典を編み、20の言語を独学した。晩年は保守的な連邦派の論客として、しばしば孤立した。
- マクシミリアン・ロベスピエール人物AD1758年5月6日 – AD1794年7月28日自分が作った手続きで死んだ「清廉の人」と呼ばれた弁護士が、死刑廃止を主張し、やがて恐怖政治を主導した。徳のない恐怖は有害で、恐怖のない徳は無力だ、と演説している。
- 第三次パーニーパットの戦いできごとAD1761年まとめられる勢力がいなくなり、会社が入ってくるマラーターがアフガン勢に大敗した。インドをまとめられる勢力がいなくなり、東インド会社の道が開く。パーニーパット

- プロイセンの義務教育できごとAD1763年読み書きできる兵士フリードリヒ2世が一般地方学事通則を出し、5歳から13歳の子に就学を義務づけた。七年戦争の直後である。目的は、読み書きできる兵士と、従順で勤勉な臣民を作ることだった。教員の養成、教科の指定、そして出席の強制。19世紀に整備が進み、学年制、時間割、卒業試験(アビトゥア)が揃った。この模型が、日本、アメリカ、フランス、そして世界中に写された。近代の学校の形は、ほとんどがここに遡る。ベルリン
- ベッカリーア『犯罪と刑罰』できごとAD1764年国家が殺人を教える26歳のミラノの貴族が匿名で出した100ページの本。刑罰の目的は復讐ではなく、犯罪の抑止である。だから、罰は犯罪に比例し、確実で、迅速でなければならない。拷問は無実の弱い者を自白させ、罪ある強い者を放免するので、真実を得る手段として無効である。死刑は、抑止の効果が終身の労役に劣り、国家が殺人を犯すことで暴力を教える。各国語に訳され、エカチェリーナ2世、トスカーナ大公、そしてアメリカの起草者たちが読んだ。ミラノ

- アンドリュー・ジャクソン人物AD1767年3月15日 – AD1845年6月8日20ドル札カロライナの辺境の孤児。13歳で独立戦争、イギリス兵に顔を斬られた。弁護士、決闘で人を殺した。1815年、ニューオーリンズでイギリスを破った。7代大統領。「オールド・ヒッコリー」。西部の白人の男全部の民主主義。合衆国銀行を潰した。猟官制。インディアン移住法。最高裁を無視した。奴隷を150人持っていた。20ドル札の顔で、2016年に外す案が出て、止まっている。
- メイソン=ディクソン線できごとAD1767年星の位置だけで引いた線に、百年後の人が意味を載せたペンシルベニアとメリーランドの領主が八十年争った境界を、決着させるために、二人のイギリス人が呼ばれた。天文学者チャールズ・メイソンと測量士ジェレマイア・ディクソンは、星の位置から緯度を出し、西へ三百キロ以上、直線を刻んでいった。一マイルごとに石を据え、五マイルごとに紋章入りの石を置く。作業は先住民の案内人が同行し、彼らが「ここから先は行けない」と言った地点で止まった。地形とも川とも関係のない線である。それが後に、奴隷制のある側と無い側を分ける言葉になった。フィラデルフィア
- ナポレオン・ボナパルト人物AD1769年8月15日 – AD1821年5月5日革命の混乱から皇帝に上り、ヨーロッパの大半を支配した。敗れた後も法典と国民国家の考えが残る。
- セコイア人物AD1770年頃 – AD1843年8月頃文字を得た民は新聞と憲法を作り、それでも1838年に強制移住させられた読み書きのできない銀細工師が、白人の「話す紙」を見て、12年かけてチェロキー語の音節文字を作った。数年で部族の大半が読めるようになる。
- 西山の乱できごと1771年農民の反乱が二つの王家を倒した三兄弟の農民反乱が二つの王家を倒し、清の大軍まで撃退した。30年でベトナムを一度まとめたが、内紛で崩れ、阮朝に取って代わられる。フエ

- ポーランド分割できごと1772年国が地図から消えるということ三度に分けて隣の三国が分け合い、国が地図から消えた。戻るのは123年後になる。ワルシャワ
- 清の文字の獄できごとAD1772年詩の一句で一族が乾隆帝が『四庫全書』の編纂を命じ、全国の書物を集めさせた。同時に、その中から満洲を貶める語(「夷」「虜」「胡」)や、明を懐かしむ文を探させた。10年余りで、3000種以上の書物が焼かれ、削られた。詩の一句や、避諱(皇帝の名の字を避けること)の失敗で、一族が処刑された。集めることと、消すことが、同じ事業の表と裏だった。北京
- プガチョフの乱できごとAD1773年鎮圧のあと、農奴制はむしろ強められたコサックが死んだ皇帝を名乗り、農奴とウラルの労働者を集めてヴォルガ流域を席巻した。鎮圧後、エカチェリーナは農奴制をむしろ強めた。カザン

- ボストン茶会事件できごとAD1773年12月16日代表なくして課税なしイギリス本国は、経営の苦しい東インド会社を助けるため、植民地で茶を独占して売らせる法律を作った。植民地の人びとは、自分たちの代表のいない議会が決めた税に従う理由はないと反発する。1773年12月16日の夜、先住民に扮した男たちがボストンの港の船に乗り込み、三百四十二箱の茶を海に投げ捨てた。本国は港を閉鎖し、自治を奪う厳しい法で応じる。対立は、一年四か月後の武力の衝突へと進んだ。ボストン
- レキシントン・コンコードの戦いできごとAD1775年4月19日世界じゅうに響いた一発課税をめぐってイギリス本国と植民地の対立が深まるなか、1775年4月19日の夜明け、イギリス軍はボストン近郊のコンコードにある植民地側の武器を押さえに向かった。途中のレキシントンの広場で、民兵と撃ち合いになる。どちらが先に撃ったかは分かっていない。帰り道のイギリス軍は、垣根や木陰から撃つ農民たちに追われて大きな損害を出した。のちに詩人が、世界じゅうに響いた一発と詠んだ。アメリカ独立戦争は、この朝に始まった。レキシントン
- アメリカ独立宣言できごとAD1776年7月4日植民地が本国から離れ、人が生まれながらに権利を持つと宣言した。フィラデルフィア

- 『コモン・センス』できごとAD1776年1月10日匿名の小冊子が、王政そのものを否定して独立を説いた。数か月で10万部を超え、半年後に独立宣言が出る。フィラデルフィア

- ホセ・デ・サン・マルティン人物AD1778年2月25日 – AD1850年8月17日アンデスを越えて南米を解放し、権力を求めずに去ったアンデスを越えてチリとペルーを解放した。ボリバルと会談した後、すべてを譲って身を引く。
- 拷問の廃止できごとAD1780年証拠法が変わったローマ法を継受した大陸の刑事手続きでは、死刑にするには自白か2人の目撃証人が要った。証拠が半分しかないとき、残りを埋めるために拷問が制度化されていた。18世紀、これが次々に廃止される。プロイセン1754年、スウェーデン1772年、トスカーナ1786年、フランスは1780年に予備拷問を、1788年に処刑前の拷問を廃した。理由は人道だけではない。状況証拠から裁判官が心証で判断してよい、という証拠法の転換が並行していた。パリ
- ヨークタウンの戦いできごとAD1781年10月19日独立戦争の決着フランス艦隊が海を塞ぎ、大陸軍とフランス軍が陸を囲んだ。イギリス軍8000の降伏で、独立戦争の決着がついた。ヨークタウン

- シモン・ボリバル人物AD1783年7月24日 – AD1830年12月17日南米北部の独立を率いた。統一国家の夢は果たせず、いくつもの国に分かれる。
- ディポヌゴロ人物AD1785年11月11日 – AD1855年1月8日ジャワの王族に生まれ、5年にわたる反乱でオランダを追い詰めた。和平交渉に呼び出された席で捕らえられ、流刑地で死ぬ。いまインドネシアの国民的英雄になっている。
- 六マイル四方できごとAD1785年5月20日所有が土地の形を決めたのではなく、測量が先にあった独立したばかりの合衆国には、金は無いが西の土地があった。連合会議は、売る前に測ることを決めた。六マイル四方をタウンシップとし、それを一マイル四方の三十六の区画に割る。番号を振り、地図にし、区画ごとに売る。現地を見ずに、番号だけで買える。十六番目の区画は学校のために取り置くと定めた。実際の土地には川も丘もあるが、線は構わず引かれた。いまも飛行機から中西部を見下ろすと、地平線まで正方形が続く。所有が土地の形を決めたのではなく、測量が先にあった。ニューヨーク
- アメリカ合衆国憲法の制定できごとAD1787年9月17日力を三つに分けて縛る独立したアメリカの13の邦は、ゆるい連合を組んでいたが、中央の政府には税を取る力も軍を持つ力も無く、借金も邦どうしの争いも収められなかった。1787年夏、各邦の代表55人がフィラデルフィアに集まり、扉を閉ざして4か月話し合い、まったく新しい憲法を書いた。法を作る議会、法を行う大統領、法を裁く裁判所に力を分け、互いに抑え合わせる。下院は人口に応じて、上院は各州2人ずつ選ぶ。奴隷を人口の5分の3と数える妥協も入った。9月17日に署名され、9州の批准を経て1789年に動き出した。いまも使われている成文の憲法としては、世界で最も古い。フィラデルフィア
- フランス革命できごと1789年身分制を壊し、国民が主権を持つという考えを現実にした。恐怖政治も同じ革命が生んだ。パリ

- イクイアーノの自伝できごとAD1789年奴隷にされ、自分で自由を買い戻した人が、その体験を書いた。版を重ね、議会でも読まれる。黒人が自分の言葉で書いた本が、そのこと自体で議論を動かした。ロンドン
- 人権宣言できごとAD1789年8月26日人は生まれながらに自由で平等。女性は含まれていなかった人は生まれながらに自由で権利において平等である。国民議会が17条で書いた。女性は含まれておらず、2年後にグージュが「女性の権利宣言」で問い直す。パリ

- アッシニアできごとAD1789年12月19日担保があるという設計が、刷る歯止めにならなかった革命政府は破産していた。教会財産を没収し、それを担保として国債の証券を発行する。売却が進めば回収して焼く、という約束である。やがて利子が外され、法定通貨になった。土地の売却は進まず、戦費が要り、刷り続けるしかない。1795年には額面の一パーセント未満まで下がった。物価の統制と最高価格法が失敗し、パンの行列と暴動が続く。イギリスが偽札を大量に刷って流し込んだことも記録されている。担保があるという設計が、刷る歯止めにならなかった。パリ
- ハイチ革命できごと1791年奴隷にされた人びとが自分たちで独立を取った奴隷が蜂起して独立を勝ち取った、史上唯一の例。人権の理念を掲げた本国が、それを植民地に認めなかった矛盾を突いた。ポルトープランス

- ベンサムのパノプティコンできごとAD1791年近代の権力の図式円形の監獄。中央の塔から全部の独房が見え、囚人からは塔の中が見えない。見られているかもしれない、という意識が囚人を規律する。ベンサムは20年、政府に建てさせようとして、金を失った。建たなかった。フーコーが1975年に「近代の権力の図式」として掘り出した。「最大多数の最大幸福」の人が考えた、最も効率のよい監視。ロンドン
- 恐怖政治できごとAD1793年9月革命を守るために、裁判抜きで殺した革命を守るために、疑わしい者を裁判抜きで処刑した。正式な死刑判決だけで約1万6千人が処刑され、最後にロベスピエール自身が処刑されて終わる。パリ

- ルイ16世の処刑できごとAD1793年1月21日王を裁いて殺した。革命は引き返せなくなる国民公会が一票差に近い票決で死刑を決め、革命広場でギロチンにかけた。王を裁いて殺すという行為が、ヨーロッパの王たちを敵に回す。パリ

- シャップの腕木通信できごとAD1794年革命政府が採用した塔の上に、動く腕木を組んだ装置を置く。腕の角度の組み合わせで196通りの符号を作り、望遠鏡で次の塔から読み取って、送り継ぐ。革命政府が採用し、1794年、リールからパリへ、オーストリア軍から町を奪還した知らせが、一時間ほどで届いた。ナポレオンが全土に広げ、最盛期には534の塔が5000キロを結んだ。天候と昼間に縛られ、内容は暗号だったので、送る側と受ける側しか意味が分からない。1850年代、電気の電信に取って代わられて消えた。パリ
- メートル法の制定できごとAD1795年4月7日領主が枡を握っていた王の腕や足ではなく、地球そのものを基準にする。1791年、科学アカデミーの提案で、北極から赤道までの子午線の一千万分の一を一メートルと定めた。ドランブルとメシャンが、ダンケルクからバルセロナまでを、革命と戦争のただ中で六年かけて三角測量した。二人は捕らえられ、資金を絶たれ、それでも測り続けた。1795年の法で単位系が定まり、1799年に白金の原器が納められた。地球は真球ではなく、この定義による値は現在の一メートルより約0.2ミリ短い。パリ
- ハワイ王国国AD1795年(カメハメハ1世の統一) – AD1893年(アメリカ人入植者によるクーデター)条約を結ぶ独立国が、農園主のクーデターで消えたカメハメハ1世が銃と大砲を取り入れて八島を統一した。世界で最も早く識字率が高くなった国の一つで、各国と条約を結んでいた。砂糖の農園主に倒される。
- 白蓮教徒の乱できごとAD1796年軍事の中心が中央から地方へ移った最初弥勒の下生を説く宗教結社が、四川と湖北の山地で9年戦った。清の正規軍は役に立たず、地方の郷勇が鎮圧する。清の衰えが見えた最初の乱。北京
- 所得税できごとAD1799年フランスとの戦争に金が要る。それまでの税は、窓の数や馬車や召使いなど、外から見える贅沢にかけるものだった。首相ピットは1799年、収入そのものに課税する税を導入する。一定額を超える所得に、段階を付けて課す。国が個人の稼ぎを申告させ、それを調べるという発想は、当時としては私事への侵入と受け取られた。戦争が終わると廃止され、書類は焼かれたと伝えられる。だが1842年に復活し、二度と消えなかった。国家の財政の柱が、物の売り買いから、人の稼ぎへ移っていく。ロンドン
- ルイジアナ買収できごとAD1803年土地を売り買いする。住んでいる人は数に入っていない1500万ドルで214万平方キロ。1エーカー3セント。アメリカの国土が一夜で倍になった。ニューオーリンズ
- マーベリー対マディソン判決できごとAD1803年2月24日裁判所が法律を無効にする1801年、任期の切れるアダムズ大統領は、自分の党の人々を判事に駆け込みで任じたが、辞令の一部は届けられないまま、政権はジェファソンに移った。新しい国務長官マディソンは辞令を渡さず、治安判事に任じられたマーベリーは、最高裁判所に渡すよう命じてほしいと訴えた。1803年2月24日、首席判事ジョン・マーシャルは、マーベリーには辞令を受け取る権利があると認めながら、最高裁にこの訴えを直接受け付けさせる法律の条文が憲法に反し、無効だとして、訴えを退けた。裁判所が法律を憲法に照らして無効にできる、違憲審査の始まりである。ワシントンD.C.
- ナポレオン法典できごとAD1804年3月21日40の戦勝より民法典革命前のフランスには、北の慣習法と南のローマ法、そして地方ごとに数百の法体系があった。ナポレオンは4人の法律家に起草させ、自ら102回の審議のうち57回に出席した。全2281条。法の前の平等、所有権の絶対、契約の自由、宗教から切り離された婚姻。同時に、妻を夫の許可なしには何もできない立場に置いた。征服地とその模倣を通じて、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、中東、そして日本の民法へ広がった。彼は言った。「私の真の栄光は、40の戦勝ではない。永遠に生きるのは、私の民法典である」。パリ
- ベニート・フアレス人物AD1806年3月21日 – AD1872年7月18日先住民の出身で大統領になった先住民の出身で大統領になった。フランスが立てた皇帝を退け、教会の特権を削る改革を進める。
- ジュゼッペ・ガリバルディ人物AD1807年7月4日 – AD1882年6月2日二つの世界の英雄ニースの船乗り。マッツィーニの青年イタリアで反乱に失敗して死刑判決、南米へ。ブラジルとウルグアイで12年ゲリラ戦。赤シャツ。妻アニータ。1848年に帰り、ローマ共和国を守って負け、アニータが逃避行で死んだ。ニューヨークで蝋燭を作った。1860年、千人隊。王に南を渡した。カプレーラ島で農業。「二つの世界の英雄」。リンカーンが北軍の指揮を打診した(奴隷解放を条件にして断った)。
- ロバート・E・リー人物AD1807年1月19日 – AD1870年10月12日失われた大義ヴァージニアの名家。ウェストポイント首席。米墨戦争の英雄。1861年、リンカーンが北軍の指揮を打診し、ヴァージニアが離脱すると、辞めて南についた。「私は故郷に剣を向けられない」。北ヴァージニア軍。少ない兵で勝ち続け、ゲティスバーグで負け、アポマトックスで降伏した。戦後、大学の学長。南部の「失われた大義」の聖人になり、その像が2017年から倒され始めた。
- ホネ・ヘケ人物AD1807年頃 – AD1850年8月6日条約の解釈をめぐって旗竿を切り倒したワイタンギ条約に最初に署名し、後にイギリスの旗竿を四度切り倒した。条約が約束と違うと分かったためになる。
- エイブラハム・リンカーン人物AD1809年2月12日 – AD1865年4月15日南北戦争を戦い抜き、奴隷解放を宣言した。終戦の5日後に暗殺される。
- ラテンアメリカ諸国の独立できごと1810年本国がナポレオンに占領された隙に各地が独立した。統一の夢は果たされず、多くの国に分かれる。カラカス
- フンボルトの大学できごとAD1810年敗戦の直後に構想されたナポレオンに敗れ、領土の半分を失った直後のプロイセンで、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが新しい大学を構想した。中世以来の大学は、既にある知識を教える場所だった。彼はそこに研究を持ち込んだ。教授は自分の研究を教え、学生はその研究に参加する(研究と教育の一致)。国家が金を出すが、内容には介入しない(学問の自由)。実験室とゼミナールが中核になった。19世紀後半、アメリカと日本の大学が、この形を輸入した。ベルリン
- カヴール人物AD1810年8月10日 – AD1861年6月6日イタリアはできたトリノの貴族。農業と鉄道と銀行で富み、新聞『リソルジメント』を出し、サルデーニャの首相。クリミアに派兵してナポレオン3世に貸しを作り、1858年、プロンビエールで密約。オーストリアと戦ってロンバルディアを得た。ガリバルディを使って南を得た。1861年3月、イタリア王国。3か月後、死んだ。50歳。「イタリアはできた。イタリア人を作らなければならない」はダゼリオの言葉。
- メキシコの独立できごと1810年始めたのは農民で、終わらせたのは保守派だった村の司祭イダルゴが鐘を鳴らして始まり、11年続いた。先住民と混血の人びとの蜂起として始まったが、独立したのは保守派の主導する帝国だった。メキシコシティ

- 姓を登録させるできごとAD1811年国が個人を取り違えずに指すために姓が要ったナポレオンの支配下に入ったオランダで、住民に姓を届け出ることが義務づけられた。それまで多くの人は、父の名に由来する呼び名や、住む場所や仕事の名で呼ばれていた。同じ村に同じ呼び名の者が何人もいても困らなかったのは、顔で分かる範囲で暮らしていたからになる。国が徴兵し、課税し、登記するには、一人ひとりを取り違えずに指す名前が要る。急に姓を求められた人々の中には、役人をからかうような名を届けた者もいたと伝えられる。国家が個人を把握する道具として、姓が使われ始めた。アムステルダム
- ウィーン会議できごと1814年revolutions を巻き戻そうとした側ナポレオン後の秩序を大国で決めた。この枠組みが約100年、ヨーロッパの大戦争を抑える。ウィーン
- ワーテルローの戦いできごとAD1815年6月18日フランス革命の帰結が閉じるナポレオンが最終的に敗れた。ヨーロッパは秩序の回復を図るが、革命の思想は消えない。ワーテルロー
- ズールー王国国AD1816年(シャカの即位) – AD1897年(ナタールへの併合)1879年にイギリス軍を一度破ったシャカが軍の編成と短い槍で周辺を呑み込み、10年で小さな首長国を王国にした。その移動の波が南部アフリカを組み替える。1879年にイギリス軍を一度破り、その年に敗れた。
- 八時間労働できごとAD1817年ILO第1号条約ロバート・オーウェンが標語を作った。八時間労働、八時間休息、八時間の自由。当時の工場は、一日14時間から16時間が普通で、子どもも同じだけ働いた。彼は自分の紡績工場で、労働時間を短縮し、子どもの就労年齢を上げ、それでも利益が出ることを示した。以後100年、この三つの八が、世界中の労働運動の要求になった。1886年5月1日のアメリカのゼネスト、そしてヘイマーケット事件。1919年、国際労働機関の第1号条約が、これを国際基準とした。ニュー・ラナーク
- アレクサンドル2世人物AD1818年4月29日 – AD1881年3月13日解放皇帝ニコライ1世の子。クリミアで負けた国を継いだ。農奴解放、地方自治(ゼムストヴォ)、陪審制、徴兵制、大学の自治。「解放皇帝」。アラスカを売り、中央アジアを取り、露土戦争でブルガリアを解放した。改革は不十分だと言われ、ナロードニキに何度も狙われた。1881年3月13日、ペテルブルクで、憲法の草案に署名した日、爆弾。
- カールスバート決議できごとAD1819年9月20日大学の監視学生カール・ザントが、ロシアの密偵と噂される劇作家コッツェブーを刺した。メッテルニヒはそれを口実に、ドイツ連邦の全部の国に、大学の監視、学生団体の禁止、出版の検閲を課した。「メッテルニヒ体制」。1848年まで30年、ドイツの自由主義は地下に潜った。ハイネはパリに行った。ウィーン
- ギリシア独立戦争できごと1821年古代への憧れからヨーロッパ中の知識人が支援した。オスマン帝国が内側から崩れはじめる。アテナイ
- ユリシーズ・グラント人物AD1822年4月27日 – AD1885年7月23日無条件降伏オハイオの皮なめしの子。ウェストポイント、米墨戦争、酒で軍を辞め、薪を売った。南北戦争で北軍の将軍に。フォート・ドネルソン(「無条件降伏」)、シャイロー、ヴィックスバーグ、リンカーンが総司令官に。「戦う男だ」。リーを追い詰めた。18代大統領。黒人の権利を守ろうとして、KKKを弾圧し、汚職に囲まれた。破産して、喉の癌で、死ぬ1週間前に回想録を書き終えた。マーク・トウェインが出版し、遺族が救われた。
- ウイスキーと酒税できごとAD1823年免許を下げたら密造者が来た1644年、スコットランド議会が蒸留酒に課税した。以後180年、山中の密造と、徴税吏との追いかけっこが続いた。夜に焚くので月光酒と呼ばれた。1823年の酒税法が、免許料を下げ、合法の蒸留を現実的な選択にした。密造者が次々に免許を取った。同時に、この時期に定まったものがある。連続式蒸留機による大量生産と、樽での熟成である。空いたシェリー樽を使ったところ、色と香りが付いた。偶然が、この酒の定義になった。スペイサイド
- モンロー宣言できごとAD1823年12月2日守ったのはイギリス海軍ラテンアメリカが独立し、スペインとその同盟が取り戻しに来るかもしれなかった。モンロー大統領の年次教書。「アメリカ大陸はヨーロッパの植民の対象ではない。ヨーロッパの干渉は合衆国への敵対とみなす。合衆国もヨーロッパに干渉しない」。実際に守ったのはイギリスの海軍だった。80年後、ローズヴェルトが「合衆国が干渉する」に読み替えた。ワシントンD.C.

- ペドロ2世人物AD1825年12月2日 – AD1891年12月5日58年在位し、奴隷制の廃止を進めた。その翌年、軍のクーデターで退位する。
- デカブリストの乱できごとAD1825年12月26日コンスタンチンと憲法ナポレオン戦争でパリを見た青年将校たちが、憲法と農奴解放を求めて、皇帝の空位に乗じて立った。ペテルブルクの元老院広場に3000の兵を並べて「コンスタンチンと憲法」を叫んだ(兵の多くは「憲法(コンスチトゥーツィヤ)」をコンスタンチンの妻の名だと思った、と伝える)。ニコライ1世は葡萄弾で潰した。5人が絞首刑(縄が3本切れて、二度吊るされた)、121人がシベリアへ。妻11人が地位を捨てて従った。元老院広場(ペテルブルク)

- ジャワ戦争できごと1825年オランダの財政を傾けた5年王族ディポヌゴロが率いた5年の戦い。ジャワ人20万人が死に、オランダも財政が傾いた。この戦費を取り返すために、強制栽培制度が始まる。ジョグジャカルタ

- ケチワヨ人物AD1826年頃 – AD1884年2月8日最後の独立した王。ロンドンで人気者になったシャカの甥で、ズールーの最後の独立した王。イギリスの最後通牒を拒み、イサンドルワナで勝ち、ウルンディで敗れた。ロンドンへ連れていかれ、群衆に歓迎されている。
- ウェブスターのアメリカ英語辞典できごとAD1828年独立した国には独立した言語を独立した国には独立した言語が要る、とノア・ウェブスターは考えた。26年かけて7万語を集め、うち1万2000語はそれまでどの辞書にもなかった。スカンク、ヒッコリー、大統領選挙人。そして綴りを変えた。colour を color に、centre を center に、defence を defense に。理屈は「発音どおりに、簡潔に」だが、動機の半分は独立宣言である。学校用の綴字教科書は1億部売れ、彼の綴りがアメリカの標準になった。ニューヘイヴン
- おかげ参りできごとAD1830年ええじゃないかへ60年ほどの周期で、何百万人もが、突然、伊勢神宮へ歩き出した。1705年に362万人、1771年に200万人、1830年に486万人(当時の人口の6分の1)。奉公人が主人に無断で、子供が親に黙って出る(「抜け参り」)。沿道の人が食事と草鞋と宿を無償で提供した(施行)。柄杓一本を持って歩けば、たどり着けた。祭りと、旅行と、日常からの逸脱が、一度に起きた。1867年の「ええじゃないか」へ。伊勢神宮

- 七月革命できごとAD1830年7月27日王を替えただけシャルル10世が議会を解散し、出版を禁じ、選挙権を狭める勅令を出した。パリは3日で立った。「栄光の三日間」。バリケード。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』。シャルルはイギリスへ。オルレアン家のルイ・フィリップが「フランス人の王」。ブルジョワの王政。革命は、王を替えただけだった。ベルギーがオランダから独立し、ポーランドが立って潰された。パリ

- ベルギーの独立できごとAD1830年8月25日オペラから始まった独立ナポレオンの没落のあと、ウィーン会議は、フランスへの備えとして、いまのベルギーをオランダと一つの王国にまとめた。だが南のカトリックの住民は、北のプロテスタントの王が言葉と宗教と税で押さえつけることに不満を募らせた。1830年8月25日、ブリュッセルの劇場で、圧政への反乱を描くオペラの愛国の歌に沸いた観客が街へ繰り出し、暴動になる。9月の市街戦でオランダ軍は退き、10月に独立が宣言された。翌年、列強はベルギーを永世中立の国として認め、ドイツの小国の公子レオポルドが王になった。ブリュッセル
- ショパンの練習曲できごとAD1833年心臓だけが帰った作品10の12曲。それまでの練習曲は指を鍛えるための練習用の楽譜で、演奏会にはかけなかった。ショパンは、一つの技術的な課題(分散和音、黒鍵、三度、オクターヴ)を、そのまま一つの音楽にした。第12番「革命」は、ワルシャワ蜂起がロシアに潰された知らせを、シュトゥットガルトで聞いた頃の作とされる。彼は二度と祖国に帰らず、パリで死んだ。心臓だけがワルシャワの教会の柱に納められている。パリ
- 1833年工場法できごとAD1833年国が労働の条件を決める綿工場で、9歳未満の労働を禁じ、9〜13歳は1日9時間、13〜18歳は12時間まで、夜業を禁じ、9〜13歳に1日2時間の教育を義務づけた。それまでの法と違ったのは、給料を払う工場監督官を4人置いたこと。国家が、工場の中に人を入れて確かめる。児童労働は消えなかったが、「国が労働の条件を決める」という考えが、ここから広がった。同じ年、大英帝国の奴隷制が廃止された。ロンドン

- イギリスの奴隷制廃止法できごとAD1833年8月28日所有者に補償し、奴隷には払わなかった帝国の大半で奴隷制を廃止した。奴隷ではなく所有者に2000万ポンドの補償を払い、国はその借金を2015年まで返し続けた。ロンドン
- モリオリの征服できごとAD1835年滅ぼした側も、5年後に条約で土地を失う争いを捨てていたモリオリを、同じポリネシア人の子孫であるマオリが数日で殺し、残りを奴隷にした。同じ祖先を環境が分けた例として、本の第2章に置かれる。チャタム諸島(位置は特定されていない)
- グレート・トレックできごとAD1836年アパルトヘイトの神話イギリスがケープを取り(1806年)、英語を公用語にし、1834年に奴隷制を廃止した。オランダ系の農民(ボーア人)1万5000人が、牛車で内陸へ移った。ドラケンスバーグを越えて、ズールー王ディンガーンと衝突し、1838年のブラッド・リバーで、円陣を組んだ470人が数千のズールー兵を銃で撃った。川が赤くなった。オレンジ自由国とトランスヴァール。アパルトヘイトの神話の一つになった。ケープタウン
- グリム兄弟のドイツ語辞典できごとAD1838年統一される前のドイツ語メルヒェンを集めた兄弟の、本来の仕事は言語学である。兄ヤーコプは、ゲルマン語の子音が規則的に推移したことを示した(グリムの法則)。1838年、二人は生涯をかけてドイツ語の歴史的な辞典に取りかかった。ドイツがまだ統一されていない時代に、共通の言語をもって国民を定義する仕事でもあった。ヤーコプはF項の Frucht(果実)まで書いて死んだ。完成したのは1961年、着手から123年後、全32巻である。カッセル
- チャーティスト運動できごとAD1838年5月8日6か条のうち5つ1832年の選挙法改正で選挙権を得たのは中産階級だけだった。労働者は「人民憲章」6か条を掲げた。男子普通選挙、秘密投票、議員の財産資格の廃止、議員の歳費、平等な選挙区、毎年の選挙。署名128万、330万、570万(1848年、偽名が多かった)。議会は3回とも拒んだ。運動は消えた。6か条のうち5つは、1918年までに実現した。ロンドン

- ギュルハネ勅令(タンジマート)できごとAD1839年11月3日宗教を問わず法の前の平等トプカプ宮殿の薔薇の園で、外相レシト・パシャが、16歳の新スルタンの名で読んだ。全臣民の生命・名誉・財産の保障、宗教を問わず法の前の平等、公正な徴税と徴兵、裁判なしの処刑の禁止。「再編成」。ヨーロッパの列強に見せるための、ヨーロッパ式の国家。1876年の憲法まで。コンスタンティノープル

- ヤア・アサンテワー人物AD1840年頃 – AD1921年10月17日黄金の椅子を守るために軍を率いた男たちが黄金の椅子を守らないなら女が戦うと言い、軍を率いた。60代になる。敗れて流刑地で死んだ。
- ヴェルディ『ナブッコ』できごとAD1842年3月9日壁に落書きされた名前妻と二人の子を続けて失い、前作が失敗して、もう書かないと決めていた28歳に、スカラ座の支配人が台本を押しつけた。開いた頁に「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」。バビロン捕囚のユダヤ人の合唱。初演は熱狂で迎えられ、この旋律がオーストリア支配下のイタリアで歌われた。彼の名 VERDI が「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ」の頭文字と重なり、壁に落書きされた。ミラノ
- ニュージーランド戦争できごと1845年条約の解釈をめぐって27年戦われたワイタンギ条約の解釈と土地の売買をめぐって、27年断続的に戦われた。マオリは要塞(パー)を工夫して大砲に耐えたが、最後は土地の没収で押し切られる。アオテアロア(位置は特定されていない)

- ベハンジン人物AD1845年頃 – AD1906年12月10日最後まで抵抗した王ダホメ最後の王。女性だけの部隊を含む軍でフランスと2年戦い、敗れてマルティニークへ流された。
- 穀物法の廃止できごとAD1846年6月25日党を割った1815年から、外国の安い穀物に関税をかけて、地主の穀物の値段を守っていた。工場主は「パンが高いから賃金が高い」と言い、コブデンとブライトの反穀物法同盟が7年運動した。アイルランドの飢饉。保守党の首相ピールが自分の党を割って廃止した。自由貿易。イギリスは食糧を輸入し、工業製品を輸出する国になった。ピールは4日後に辞めた。ロンドン

- 米墨戦争できごとAD1847年9月14日最も不正な戦争テキサスの併合と、リオ・グランデかヌエセス川かの境界の争い。ポーク大統領は戦争を欲しがっていた。ヴェラクルスに上陸したスコットがメキシコシティに入った。1848年、グアダルーペ・イダルゴ条約。メキシコは領土の半分、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコを1500万ドルで渡した。グラントは「強い国が弱い国にした、最も不正な戦争」と回想した。メキシコシティ

- 1848年革命できごと1848年ヨーロッパ各地で同時に蜂起が起きた。ほとんどが鎮圧されたが、旧い秩序は元には戻らなかった。パリ

- セネカ・フォールズ会議できごとAD1848年7月19日72年後の修正第19条ニューヨーク州の小さな町の教会に、300人。奴隷制廃止運動の中で、女性が発言を許されなかったことから生まれた。「所感の宣言」。独立宣言を書き換えて、「全ての男女は平等に造られている」。11の決議。財産、教育、職業、離婚、そして選挙権(これだけは票が割れ、フレデリック・ダグラスの支持で通った)。100人が署名した。72年後、憲法修正第19条。セネカフォールズ
- ルイ・ナポレオンのクーデターできごとAD1851年12月2日二度目は茶番として第二共和政の大統領ルイ・ナポレオンは、憲法で再選できなかった。12月2日(アウステルリッツの日)、議会を解散し、反対派を逮捕し、パリの通りで数百人を撃った。人民投票で92%。翌年、皇帝ナポレオン3世。ユゴーは亡命して「小ナポレオン」と書いた。マルクスは「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」。パリ
- ホセ・マルティ人物AD1853年1月28日 – AD1895年5月19日詩人にして独立運動の組織者。スペインからの独立戦争の緒戦で戦死した。
- ユーレカ砦の反乱できごとAD1854年12月3日南十字星の旗ビクトリアの金鉱で、掘る権利の高い免許料と、警官の取り締まりに、鉱夫が怒った。免許証を焼き、青い南十字星の旗の下で「互いの権利と自由を守る」と誓い、丸太で砦を作った。日曜の夜明け、兵と警官が襲って15分。鉱夫22人、兵5人が死んだ。裁判で陪審は全員を無罪にした。翌年、免許料は廃止され、鉱夫に選挙権が与えられた。オーストラリアの民主主義の神話になった。バララット

- 秘密投票できごとAD1856年誰に入れたかを言わなくてよいことが前提になった十九世紀の選挙は、たいてい公開だった。投票所で名前と候補者を読み上げるか、色の違う紙を人前で出す。誰が誰に入れたかが分かるので、地主は小作に、雇い主は労働者に、そのとおりに投票させることができた。酒や金も配られる。1856年、オーストラリアのヴィクトリア植民地は、政府が全候補者の名を印刷した用紙を配り、仕切りの中で印を付け、箱に入れる方式を定めた。「オーストラリア式投票」と呼ばれ、各国に広がる。誰に入れたかを言わなくてよいことが、投票の前提になった。メルボルン
- フアレスの改革とメキシコ帝国の崩壊できごと1858年先住民出身の大統領が教会の特権を削り、フランスが立てた皇帝を退けた。メキシコシティ

- 登記が権利を作るできごとAD1858年7月1日土地を買うとき、売り主が本当に持ち主かを確かめるには、過去の証書を何十年分もさかのぼって調べるしかなかった。一枚でも欠ければ、後から別の相続人が現れる。南オーストラリアのロバート・トレンスは、船の登録簿の考え方を土地に持ち込んだ。国が台帳を作り、そこに載っている者が持ち主である。証書の連なりを調べるのではなく、台帳の現在の一行だけを見る。誤りがあれば国が補償する。手続きが速く安くなり、この方式は各地に広がった。ただし台帳を作る過程で、書面を持たない先住民の権利は、そこに載らなかった。アデレード
- ガリバルディの千人隊できごとAD1860年5月11日1089人で王国を赤シャツの義勇兵1089人がジェノヴァから2隻の船でシチリアへ。マルサラに上陸し、カラタフィーミで両シチリア王国軍を破り、パレルモを取り、海峡を渡ってナポリに入った。5か月で王国を倒し、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に「イタリアの王」と呼んで献上して、カプレーラ島に帰った。カヴールは彼を恐れ、使い、退けた。パレルモ

- イタリア統一できごとAD1861年ローマ帝国の崩壊から1400年ぶりに半島が一つの国になった。ドイツ統一とほぼ同時期。ローマ

- 南北戦争できごと1861年「誰を数えるか」をめぐる戦争でもあった奴隷制をめぐって国が二つに割れた。60万人以上が死に、合衆国は一つに戻る。ゲティスバーグ

- 農奴解放令できごとAD1861年3月3日上から与えなければロシアの人口の3分の1、2300万人の農奴が、人身の自由を得た。地主の所有でなくなった。土地は、49年の年賦で買い戻す。土地は村(ミール)が持ち、農民は村から出られなかった。「上から与えなければ、下から起きる」とアレクサンドル2世は貴族に言った。買い戻し金は重く、農民は貧しいままで、1905年と1917年に立った。皇帝は1881年に爆弾で殺された。サンクトペテルブルク
- フリチョフ・ナンセン人物AD1861年10月10日 – AD1930年5月13日難民に動物学者。1888年、スキーでグリーンランドを横断した。フラム。北緯86度。1905年、ノルウェーの独立でロンドン大使。1920年、国際連盟。「ナンセン・パスポート」。難民に。ロシアの飢饉。1922年、ノーベル平和賞。
- ホセ・リサール人物AD1861年6月19日 – AD1896年12月30日武装闘争に反対しながら、その死が革命を広げた医師であり小説家。武装闘争には反対しながら、反乱を扇動した罪で銃殺された。その死が革命を広げる。
- ピョートル・ストルイピン人物AD1862年4月14日 – AD1911年9月18日20年の平穏をくれればサラトフ県知事で農民の暴動を自分で説得して鎮めた。1906年、内相、首相。軍法会議で3000人を処刑し、同時に農地改革。ドゥーマを2度解散し、選挙法を変えた。「あなたたちは大変動を望み、我々は偉大なロシアを望む」。1911年9月、キエフのオペラ座で、二重スパイのボグロフに撃たれた。皇帝の桟敷に向かって十字を切って倒れた。
- グリーンバックできごとAD1862年2月25日南北戦争の戦費で、北部の銀行が正貨の支払いを止めた。議会は法定通貨法を通し、金と交換できない紙幣を発行する。裏面が緑のインクで刷られたので、そう呼ばれた。合衆国の政府が自ら発行した、最初の全国共通の紙幣である。総額約四億五千万ドル。金貨に対して値が下がり、一時は四割ほどまで落ちた。戦後、金への復帰をめぐって二十年争われる。農民と債務者は増発を求め、債権者と東部の金融は緊縮を求めた。通貨の量が、政治の争点になった。ワシントンD.C.
- 奴隷解放宣言できごとAD1863年1月1日永遠に自由である反乱している州の奴隷は「永遠に自由である」。合衆国に留まった奴隷州(ケンタッキー、メリーランド等)の奴隷は含まれなかった。戦争の手段として、大統領の軍の権限で。350万人。黒人が北軍に入った。18万人。戦争は「連邦を守る戦争」から「奴隷を終わらせる戦争」になった。奴隷制の廃止は1865年の憲法修正第13条。ワシントンD.C.

- 第一インターナショナルできごとAD1864年9月28日バクーニンと割れたセント・マーチンズ・ホール。イギリスの労働組合、フランスのプルードン派、イタリアのマッツィーニ派、ドイツの亡命者。国際労働者協会。マルクスが創立宣言と規約を書いた。「労働者階級の解放は労働者階級自身の仕事である」。バクーニンとマルクスが割れ、1872年、本部をニューヨークに移して、1876年、解散した。第二インターは1889年。ロンドン

- 第一回ジュネーヴ条約できごとAD1864年8月22日戦争の最中にも守る決まりを、戦争の前に約束したデュナンの本に動かされたジュネーヴの五人が委員会を作り、各国の代表を呼んで話し合いを重ねた。1864年8月、十二か国が条約に署名する。戦場の傷病兵は、どちらの国の兵であっても収容して手当てする。野戦病院とそこで働く者は攻撃しない。そのしるしとして、白地に赤い十字を掲げる。わずか十条の取り決めだった。戦争そのものは禁じていない。戦争をする国どうしが、戦争の最中にも守る決まりを、戦争の前に約束したのは、これが初めてである。ジュネーヴ
- パラグアイ戦争できごとAD1864年指導者の意地が、世代を一つ消した内陸の小国パラグアイは、独裁者のもとで自前の工業と軍を育てていた。1864年、隣のウルグアイの内紛をめぐって、パラグアイはブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国と戦争になる。六年に及ぶ戦いで、パラグアイの大統領ロペスは最後の一人まで戦うことを求め、少年や老人まで戦場に送った。戦闘と飢えと病で、国の人口の大きな部分が失われ、戦後は男性が極端に少ない国になったとされる。南米の歴史で最も多くの命を奪った戦争である。アスンシオン
- アポマトックスの降伏できごとAD1865年4月9日馬は持って帰ってよいリー将軍の北ヴァージニア軍は2万8000に減って、食糧がなかった。マクリーンの家の居間で、リーは正装で、グラントは泥のついた兵卒の服で会った。降伏の条件:武器を置いて帰れ、馬は持って帰ってよい、春の耕作に要る。逮捕しない。北軍の兵が祝砲を撃ち、グラントが止めた。「彼らはまた我々の同胞だ」。5日後、リンカーンが撃たれた。アポマトックス

- 孫文人物AD1866年11月12日 – AD1925年3月12日2000年続いた皇帝の制度を終わらせた革命の中心。統一を見ないまま死んだ。台湾は国父と呼び、中華人民共和国は「革命の先駆者」と呼ぶ。
- カナダ連邦の成立できごとAD1867年7月1日話し合いでできた国南で南北戦争を終えたアメリカが北へ広がるのではないか、という不安が、イギリス領北アメリカの植民地をまとめさせた。1867年7月1日、英語を話すオンタリオ、フランス語を話すケベック、そして東の二つの植民地が一つの連邦となり、カナダ自治領が生まれる。戦争ではなく、議会の話し合いと本国の法律によってできた国だった。やがて西へ広がり、大陸の北半分を覆う。二つの言葉と、先住の人びととの関係は、この国の最初からの課題になった。オタワ
- エミリオ・アギナルド人物AD1869年3月22日 – AD1964年2月6日95歳まで生きたカヴィテの町長。カティプーナンの蜂起で軍を率い、創設者ボニファシオを裁いて処刑した。1897年、香港へ亡命し、1898年、アメリカの艦に乗って戻り、6月12日、独立を宣言した。マロロス共和国の大統領。アメリカと3年戦い、1901年に捕らえられて忠誠を誓った。1935年の大統領選に落ち、日本占領下で協力し、95歳まで生きて、独立記念日が6月12日に戻るのを見た。
- パリ・コミューンできごとAD1871年3月18日72日普仏戦争でパリは4か月囲まれて降伏し、国民議会はプロイセンに屈した。3月18日、モンマルトルの大砲を取りに来た政府軍に、パリの国民衛兵が立った。72日。選挙、政教分離、夜のパン職人の労働禁止、女性の参加。ヴェルサイユの政府軍が5月21日に入り、1週間。「血の週間」。2万人が殺され、4万人が裁かれ、ニューカレドニアへ。「労働者の政府の最初の形」とマルクスは書いた。パリ

- ドイツ帝国国AD1871年1月18日(ヴェルサイユでの帝国宣言) – AD1918年(ヴィルヘルム2世の退位)プロイセンが三度の戦争でまとめ上げ、ヴェルサイユの鏡の間で皇帝が宣された。40年で工業生産がイギリスを抜き、遅れて植民地を取りにいって、第一次世界大戦で解体する。
- 樺太・千島交換条約できごとAD1875年樺太は、日本とロシアの人びとがともに住む境の定まらない島で、争いが絶えなかった。1875年、ペテルブルクで結ばれた条約で、日本は樺太をロシアに譲り、代わりに千島列島のすべてを得る。北の国境が、はじめて線として定められた。島に暮らしていたアイヌやニヴフの人びとは、どちらかの国籍を選ばされ、移住を強いられた人もいる。のちの日露戦争で樺太の南半分が日本に戻り、第二次世界大戦の後は、千島もソ連に占められることになる。サンクトペテルブルク
- 江華島条約できごとAD1876年2月27日清の宗主権を否定するため前年、日本の軍艦雲揚号が江華島の砲台を挑発して砲撃を受け、これを口実に開国を迫った。ペリーの手口を、22年後に、日本が使った。朝鮮を「自主の国」と規定し(清の宗主権を否定するため)、釜山・元山・仁川を開き、日本に領事裁判権と、関税自主権の放棄を認めさせた。不平等条約を結ばされた国が、次に、不平等条約を結ばせた。江華島
- エミリアーノ・サパタ人物AD1879年8月8日 – AD1919年4月10日「土地と自由」。奪われた共有地を村へ返せと要求しつづけ、和解の席に誘い出されて殺された。
- 琉球処分できごとAD1879年4月4日450年の王国が終わった明治政府は1872年に琉球藩を置き、1875年に清への朝貢を禁じ、1879年、松田道之が警官160人と兵400を連れて首里城に入り、沖縄県を置いた。450年の王国が終わった。尚泰王は東京へ。士族の一部は清へ渡って救援を求め(脱清人)、清は抗議し、1880年の分島案(宮古・八重山を清へ)は流れた。日清戦争で決着した。那覇

- イサンドルワナの戦いできごとAD1879年1月22日槍と盾がライフルの野営を全滅させた槍と盾のズールー軍2万が、ライフルを持つイギリス軍の野営を包囲して全滅させた。植民地戦争でイギリスが受けた最大の敗北になる。イサンドルワナ

- ウルンディの戦いできごとAD1879年7月4日王国は13に分割されたイサンドルワナの半年後、方陣とガトリング砲で王都の前のズールー軍が崩れた。王は捕らえられ、王国は13に分割される。ウルンディ

- 太平洋戦争(南米)できごとAD1879年アタカマ砂漠には、肥料と火薬の原料になる硝石が眠っていた。採掘していたのはチリとイギリスの資本の会社で、土地はボリビアとペルーのものだった。ボリビアが会社に新しい税をかけると、1879年、チリ軍が港町アントファガスタを占領し、戦争になる。チリは海でも陸でも勝ち、ペルーの首都リマまで占領した。ボリビアは海への出口を失い、いまも内陸国である。ボリビアでは、失った海を取り戻す日を毎年記念している。アントファガスタ
- ネッド・ケリーの最後できごとAD1880年6月28日ネッド・ケリーは、ヴィクトリアの貧しいアイルランド系の家に生まれ、警官との争いから仲間と山に籠もって、銀行を襲い警官を殺した。1880年6月28日、グレンローワンの宿で警察に囲まれたケリーは、鋤の鉄を打ち出して作った鎧と兜を着て現れ、脚を撃たれて捕らえられる。11月、メルボルンで絞首刑になった。ただの無法者か、貧しい入植者を踏みつけた警察と地主に立ち向かった者か。評価はいまも割れ、鉄の兜はオーストラリアの絵と映画に繰り返し描かれてきた。グレンローワン
- ケマル・アタテュルク人物AD1881年頃 – AD1938年11月10日解体寸前の帝国からトルコ共和国を作った。文字をラテン字に替え、暦も服装も法も入れ替える。
- テ・プエア・ヘランギ人物AD1883年11月9日 – AD1952年10月12日マオリの徴兵拒否を呼びかけた第一次大戦の徴兵を拒み、若者を匿った。土地を奪われた者が、その国のために戦う理由は無いと主張する。
- インド国民会議の創立できごとAD1885年英国人の元官僚が呼びかけて始まった。当初は請願を行う穏健な団体で、独立を掲げていない。それが50年で、帝国を退かせる組織になる。ムンバイ
- ハルツームの陥落できごとAD1885年1月26日13年の国家スーダンの船大工の子ムハンマド・アフマドが「マフディー(導かれた者)」を名乗り、エジプトとイギリスの支配に立った。10か月の包囲。イギリスは撤退のためにゴードンを送り、ゴードンは撤退せずに残った。救援隊の2日前に城が落ち、ゴードンは階段で槍に刺されて死んだ。首はマフディーの前に運ばれた。ロンドンは英雄の物語にした。13年後、キッチナーがオムドゥルマンで機関銃で報復した。ハルツーム

- ビルマの併合できごとAD1885年11月28日王国でなく州にコンバウン朝は3度イギリスと戦って、南から削られていた。1885年、ボンベイ・ビルマ商会の木材の罰金をめぐる争いを口実に、イギリスは最後通牒を出し、11日でマンダレーに入った。ティーボー王と王妃はインドへ流された。ビルマはインド帝国の一州にされた(王国でなく州にしたことが、後の民族運動の芯になった)。ゲリラの抵抗は5年続いた。マンダレー
- コンゴ自由国できごと1885年国ではなく、ベルギー王レオポルド2世の私有地だった。ゴムの割当を満たさない村の手を切り落とし、人口の半分近くが失われたとされる。キンシャサ
- ヘイマーケット事件できごとAD1886年5月4日投げた者は分からないまま5月1日、8時間労働を求めて全米で35万人がストライキに入った。5月3日、シカゴのマコーミック工場前で警官が発砲して死者が出た。翌4日の抗議集会が終わりかけたとき、爆弾が投げられ、警官7人と市民4人が死んだ。投げた者は分からないまま、無政府主義者8人が裁かれ、4人が絞首刑になった。1889年、第二インターナショナルが5月1日をメーデーに定めた。ヘイマーケット(シカゴ)

- ノルマントン号事件できごとAD1886年10月24日1886年10月、イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州の沖で沈んだ。イギリス人の船長と乗組員は救命ボートで逃れたが、乗っていた日本人の乗客二十数人は全員が死んだ。条約で外国人を日本の法で裁くことはできず、イギリスの領事の海難審判は、船長を無罪とする。世論は激しく怒り、のちの裁判で船長は禁錮三か月とされたが、賠償は無かった。この事件は、不平等な条約を改めよという声を国じゅうに広げた。紀州沖(位置は特定されていない)
- ブラジルの奴隷制廃止できごとAD1888年5月13日西半球で最後に奴隷制を廃した西半球で最後の廃止。400万人近くが運ばれた最大の受け入れ国で、ようやく終わった。リオデジャネイロ

- 大日本帝国憲法の発布できごと1889年2月11日(明治22年2月11日)アジアで最初の近代的な成文憲法。天皇が定めて国民に与える形をとり、議会には限られた権限が置かれた。江戸

- 第一回帝国議会できごと1890年11月29日(明治23年11月29日)選挙で選ばれた議員が国政に加わった。有権者は納税額で絞られ、全人口の1%ほど。江戸
- チトー人物AD1892年5月7日 – AD1980年5月4日非同盟クロアチアの農民の子。第一次大戦でロシアの捕虜、革命。パルチザンでドイツと戦い、自分でユーゴを解放した。スターリンに「ノー」と言って生き延びた唯一の共産党指導者。非同盟。「兄弟愛と統一」。彼が死んで11年で国は割れた。
- ニュージーランドの女性参政権できごとAD1893年9月19日「国民」に女性が入るまでに時間がかかった世界で最初に女性の国政選挙権が認められた。署名運動が議会を動かす。ウェリントン
- デュランド・ラインできごとAD1893年11月12日130年の係争イギリス領インドの外務長官モーティマー・デュランドと、アフガニスタンのアブドゥル・ラフマーン・ハーンが、境界を定める協定に署名した。2600キロ。目的は、ロシアとの間に緩衝地帯を作ることである。線は、パシュトゥーン人の居住域を、真ん中で切った。部族も、村も、時には家族も分かれた。アフガニスタンは、独立後、この線を認めていない。パキスタンは国境と主張する。地図の上の一本の線が、130年、係争であり続けている。カブール
- 条約改正(日英通商航海条約)できごとAD1894年7月16日領事裁判権の撤廃領事裁判権の撤廃。幕末の不平等条約から36年、井上、大隈、青木と失敗を重ねて、陸奥宗光が日清戦争の2週間前に結んだ。関税自主権の回復は1911年、小村寿太郎まで待つ。ロンドン
- 東学農民戦争できごとAD1894年執綱所の自治崔済愚が創めた東学(「西学=キリスト教」に対する)は、「人が即ち天」と説いて農民に広がった。1894年、全羅道の郡守の収奪に、全琫準が立った。全州を占領し、政府と和約して、村ごとに執綱所を置いて自治を行った。政府が清に援兵を求め、日本も出兵して、日清戦争になった。再蜂起した農民軍は、日本軍の連発銃の前に、公州の牛禁峙で数万が死んだ。全州

- ドレフュス事件できごとAD1894年12月22日私は弾劾するユダヤ人の砲兵大尉が、ドイツへの通敵の罪で、筆跡だけで、終身流刑になった。悪魔島。真犯人エステラジーが分かっても、軍は隠した。1898年1月13日、ゾラの「私は弾劾する」。フランスが二つに割れた。再審、有罪、特赦、1906年に無罪。反ユダヤ主義が街に出た。ウィーンの記者ヘルツルはそれを見て、ユダヤ人の国を考えた。パリ

- 三国干渉できごとAD1895年4月23日返した下関条約の6日後、ロシア、ドイツ、フランスが遼東半島の返還を「勧告」した。返した。「臥薪嘗胆」が流行語になり、以後10年、軍備を倍にして日露戦争へ向かう。東京
- ホセ・マルティの死できごとAD1895年5月19日独立と、呑まれないこと詩人にして独立運動の組織者が、上陸から一か月半の戦闘で死んだ。スペインからの独立とともに、アメリカに呑まれないことを説きつづけていた。ハバナ
- スバス・チャンドラ・ボース人物AD1897年1月23日 – AD1945年8月18日(航空機事故とされるが異説が絶えない)非暴力によらない独立を主張した非暴力では独立できないとして、枢軸国と組んでインド国民軍を率いた。その評価はいまも割れている。
- ジョモ・ケニヤッタ人物AD1897年頃 – AD1978年8月22日ロンドンで人類学を学び、キクユの社会を内側から書いた。マウマウ団の反乱で9年投獄され、出獄して初代大統領になる。
- マロロス共和国できごとAD1899年1月23日アジアで最初の共和国憲法カティプーナンの蜂起(1896年)と、米西戦争を経て、アギナルドが1898年6月に独立を宣言し、マロロスで憲法をつくった。アジアで最初の共和国憲法。しかしアメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを買い、独立を認めなかった。1899年2月、比米戦争。3年で、フィリピン人の死者は20万人以上。1901年、アギナルド捕縛。1946年まで、アメリカの統治が続いた。マロロス
- 足尾鉱毒事件できごとAD1901年12月10日村が遊水地になった渡良瀬川の魚が死に、田が枯れ、農民が押し出しに出た。衆議院議員の田中正造が議会で10年訴え、議員を辞めて天皇に直訴した。谷中村は遊水地にされて消えた。日本の公害の最初。足尾
- イギリスの女性参政権運動できごと1903年請願では動かないと見て実力行使に踏み切った。投獄と強制摂食が続き、方法をめぐって運動自体が割れる。ロンドン

- ベンガル分割できごとAD1905年分けて統治する手法が、はっきり見えた行政の効率という名目で、ベンガルを東西に分けた。宗教で分ける線でもあった。猛烈な反対運動が起き、6年で撤回される。分けて統治するという手法が、はっきり見えた事例になる。コルカタ
- マジマジ蜂起できごとAD1905年ドイツ領東アフリカで、綿花の強制栽培に対して蜂起した。「マジ」は水を意味する。聖水を浴びれば弾が水に変わると信じられた。25万から30万が死んだとされる。ソンゲア
- 血の日曜日事件できごとAD1905年1月22日皇帝が守るという信仰が消えた司祭ガポンが率いる労働者と家族が、皇帝の肖像とイコンを掲げ、賛美歌を歌いながら、冬宮へ請願に行った。8時間労働、憲法制定議会、日本との戦争の終結。皇帝はいなかった。軍が撃った。公式には130人、実際は1000人以上。「皇帝が我々を守る」という信仰が、その日に消えた。1905年の革命、10月詔書、ドゥーマ。12年後の本番の予行。サンクトペテルブルク
- ノルウェーの独立できごとAD1905年6月7日戦わずに別れた連合1814年、ノルウェーはデンマークからスウェーデンへ譲られ、自前の憲法と議会を持ったまま、スウェーデン王を王に戴く連合に入れられた。外交はスウェーデンが握り、海運国ノルウェーが自前の領事館を持つことも許されなかった。1905年6月7日、ノルウェーの議会は、スウェーデン王はもはや王として務めを果たしていないとして、連合の解消を宣言する。国民投票では解消への賛成が36万8千票、反対は184票だった。戦争にはならず、両国は交渉で別れ、ノルウェーはデンマークの王子を新しい王ホーコン7世に迎えた。オスロ
- フランスの政教分離法できごとAD1905年12月9日ナポレオンがローマ教皇と結んだ1801年の取り決め以来、フランスの国は、カトリックの司祭や、プロテスタント、ユダヤ教の聖職者の給料を払ってきた。19世紀の末、共和派とカトリック教会の対立は、ドレフュス事件でいっそう深まった。1905年12月9日に成った法は、国は良心の自由を保障し、礼拝の自由を守るとしたうえで、どの宗教も公認せず、給料も補助金も出さないと定めた。教会の財産の目録づくりは、翌年、各地で信徒との衝突を招いた。国が宗教から距離を置く「ライシテ」は、フランスの共和国の柱の一つになり、いまも公立学校のスカーフなどをめぐって争われている。パリ
- ストルイピンの改革できごとAD1906年11月ストルイピンのネクタイ1905年の革命のあと、首相ストルイピンは「まず鎮圧、それから改革」で臨んだ。軍法会議の絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。同時に、農民が共同体(ミール)を出て自分の土地を持てるようにした。「強い者に賭ける」。「20年の平穏をくれれば、ロシアを変える」。1911年、キエフの劇場で、皇帝の見ている前で撃たれた。6年後、革命。サンクトペテルブルク
- イラン立憲革命できごとAD1906年8月5日外国に利権を売り渡し、借金を重ねるカージャール朝の王に、商人と宗教学者と知識人の不満が高まった。1905年から抗議が広がり、数千人がテヘランのイギリス公使館の庭に座り込む。1906年8月5日、王は議会を開くことを認める勅令を出し、アジアで早い時期の憲法と議会が生まれた。だが次の王は議会を砲撃し、ロシアとイギリスは国を勢力圏に分け合う。革命は押しつぶされたが、選ばれた議会という考えは、その後のイランに残り続けた。テヘラン
- 青年トルコ革命できごとAD1908年7月24日1年で反革命マケドニアの若い将校たち(統一と進歩委員会)が山に入って反乱し、アブデュルハミト2世は30年前に止めた憲法を復活させた。「自由、平等、友愛、正義」。ムスリムとキリスト教徒とユダヤ人が街で抱き合った。1年で反革命、鎮圧、スルタン廃位。1913年、エンヴェルのクーデター。3人の独裁。ドイツについて、大戦。アルメニア。テッサロニキ

- ウ・タント人物AD1909年1月22日 – AD1974年11月25日アジア初の国連事務総長。キューバ危機の仲介に入り、両国の顔を立てる形を用意した。
- メキシコ革命できごと1910年長期独裁への蜂起から始まり、土地改革を掲げる内戦になった。20世紀最初の大規模な社会革命。テノチティトラン
- 辛亥革命できごとAD1911年10月10日2000年続いた皇帝の制度が終わった。ただし共和国はすぐに軍閥に割られ、統一までさらに時間がかかる。武昌

- 三度、名を変えた都市できごとAD1914年ピョートル大帝が沼地に築いた都は、ドイツ語ふうの響きを持つ名で呼ばれていた。1914年、ドイツと戦争が始まると、政府は名をロシア語ふうのペトログラードに改めた。1924年、レーニンが死ぬと、その名を取ってレニングラードになる。第二次世界大戦の九百日の包囲を耐えたのは、この名の街である。1991年、住民投票を経て元の名に戻された。同じ場所が、同じ人々の一生のうちに三度も呼び名を変えた。地名は、そのときの国が何を掲げているかを、いちばん短く示す。サンクトペテルブルク
- 袁世凱の帝制できごとAD1915年12月12日部下が軍閥に孫文から大総統を受け取った袁世凱は、国会を解散し、国民党を禁じ、1915年、日本の二十一か条を受け入れ、12月、「中華帝国」の皇帝を宣言した。洪憲。雲南の蔡鍔が立ち、各省が独立を宣言し、日本もイギリスも認めなかった。83日で取り消し、6月、尿毒症で死んだ。彼の部下が軍閥になって、10年争った。北京
- アウンサン人物AD1915年2月13日 – AD1947年7月19日独立の半年前に暗殺された日本軍と組み、次いで日本と戦い、イギリスから独立を勝ち取った。その独立の半年前に暗殺される。娘がアウンサンスーチー。
- 顔を貼るできごとAD1915年第一次世界大戦まで、旅券は人相を文章で書いたものだった。額は広い、鼻は普通、顔は長い。当てはまる人は大勢いる。実際に、ドイツの工作員がよく似た他人の旅券で入国した事件が起きた。1915年、イギリスは写真の貼付を義務づける。以後、各国が続き、顔の写真が本人確認の標準になった。表情を作らず、正面を向き、目を隠さない。顔を機械が照合する時代になると、規格はさらに細かくなる。旅券の写真は、国が個人を見分けるために決めた、顔の写し方の決まりでもある。ロンドン
- イースター蜂起できごとAD1916年4月24日敗れた蜂起を、罰し方が勝たせた1916年4月24日、復活祭の翌月曜日、ダブリンで千数百人の武装した人びとが中央郵便局などを占拠し、アイルランド共和国の樹立を宣言した。イギリスは大戦のさなかで、蜂起は市民の支持も薄く、六日で降伏する。ところがイギリスが指導者十五人を次々に銃殺すると、世論は一気に独立へ傾いた。1919年から独立戦争が始まり、1922年、アイルランド自由国が生まれる。北の六州はイギリスに残り、その分断はのちの長い紛争の種になった。ダブリン
- 二月革命(ロシア)できごとAD1917年3月8日(露暦2月23日)臨時政府とソヴィエト国際女性デーにペトログラードの女工がパンを求めて出た。5日で守備隊が加わった。皇帝は列車の中で退位した。300年のロマノフ朝が1週間で終わった。臨時政府とソヴィエトが並び、戦争は続いた。8か月後、レーニン。サンクトペテルブルク

- インディラ・ガンディー人物AD1917年11月19日 – AD1984年10月31日独立後の国家が非常事態でどう振る舞うかを示したインド初の女性首相。バングラデシュ独立を支援し、緑の革命を進め、そして非常事態宣言で民主政を止めた。
- フィンランドの独立できごとAD1917年12月6日帝国の崩壊から生まれた国フィンランドは六百年ほどスウェーデンの一部で、1809年からはロシア皇帝を大公とする大公国だった。自前の議会と通貨を持ったが、19世紀の末からロシア化の圧力が強まる。1917年、ロシアで革命が起きて帝国が崩れると、12月6日、フィンランドの議会は独立の宣言を承認した。年末にはレーニンの政府も独立を認める。だが翌1918年1月、国は社会主義の赤衛隊と、マンネルヘイムが率いる白衛隊に割れて内戦になり、ドイツの支援を受けた白衛隊が5月に勝った。三か月半の内戦と、その後の収容所で、三万数千人が死んだ。ヘルシンキ
- 十四か条の平和原則できごとAD1918年1月8日民族自決ウィルソンが議会で読んだ。秘密外交の廃止、海洋の自由、軍備縮小、民族自決、国際連盟。ドイツはこれを信じて休戦を求め、ヴェルサイユで違うものを受け取った。アメリカ議会は連盟を拒んだ。理想は、言った国が最初に捨てた。ワシントンD.C.

- ヴァイマル憲法できごとAD1919年8月11日最も民主的な憲法ベルリンは革命で危なくて、ゲーテとシラーの街で国民議会を開いた。20歳以上の男女の普通選挙、比例代表、大統領直接選挙、国民投票、「人間らしい生活」の権利、労働者の経営参加。「世界で最も民主的な憲法」。第48条、大統領の緊急命令権。14年後、その条項で、ヒトラーが憲法を止めた。憲法は形の上では1945年まで生きていた。ワイマール

- 五四運動できごとAD1919年5月4日調印を拒んだパリ講和会議が、ドイツの山東の権益を日本に渡した。北京の学生3000人が天安門に集まり、親日派の曹汝霖の家を焼いた。逮捕、ストライキ、上海の商人の休業、日本製品の不買。政府は調印を拒んだ。新文化運動(『新青年』、陳独秀、胡適、魯迅、白話文)が政治になった。李大釗と陳独秀がマルクスを読み、1921年、共産党。北京

- 禁酒法できごとAD1920年1月17日撤廃された唯一の憲法修正合衆国憲法修正第18条により、酒の製造・販売・輸送が禁じられた。飲むこと自体は禁じられていない。運動を担ったのは、禁酒同盟と、女性キリスト教禁酒同盟である。背景に、酒場が政治と労働と移民の男性文化の中心にあったことと、それへの反発がある。結果は、需要が地下へ潜っただけだった。密造、密輸、そして組織犯罪。ニューヨークだけで数万の潜り酒場ができた。1933年、修正第21条で撤廃された。憲法の修正が撤廃された唯一の例である。ニューヨーク
- 旅券の規格できごとAD1920年10月21日国籍が、国境を越えるための条件になった身分証明の書状は古くからある。しかし十九世紀のヨーロッパは、鉄道と自由貿易のもとで、旅券をむしろ廃止する方向へ動いていた。第一次大戦が、それを逆転させる。スパイと脱走兵と敵国人を選り分けるため、各国が旅券と査証を導入した。戦後も戻らなかった。1920年、国際連盟がパリで会議を開き、大きさ、頁数、記載事項、写真、そして仏語併記を定める。国籍が、国境を越えるための条件になった。持たない者は、動けなくなった。パリ
- 国際連盟の発足できごとAD1920年1月10日第一次世界大戦のあと、二度と戦争を起こさないために、国々が集まって争いを話し合いで解く常設の組織が作られた。1920年1月10日、ジュネーヴに本部を置いて国際連盟が発足する。提唱したのはアメリカの大統領ウィルソンだったが、アメリカの議会は加盟を認めなかった。日本は常任の理事国となり、新渡戸稲造が事務次長を務めた。難民や衛生や労働の分野では成果を残したが、大国の侵略を止める力は無かった。その反省から国際連合が作られる。ジュネーヴ
- セレツェ・カーマ人物AD1921年7月1日 – AD1980年7月13日王家の跡継ぎが白人女性と結婚し、イギリスと南アフリカの圧力で追放された。帰国して初代大統領になり、ダイヤモンドの収入を国のものにした。
- ナンセン・パスポートできごとAD1922年旅券が旅券を持てない人を作った第一次大戦とロシア革命の後、国籍を失った人が数百万人いた。旅券がなければ国境を越えられず、働けず、しかしどこにも帰れない。国際連盟の難民高等弁務官フリチョフ・ナンセン(探検家である)が、無国籍者に発行する身分証を作らせた。52か国が受け入れ、45万人以上が使った。ストラヴィンスキー、シャガール、ラフマニノフ、ナボコフが持った。旅券という近代の装置が、逆に、旅券を持てない人を作り出したことへの、最初の応急処置だった。ジュネーヴ

- コロラド川協定できごとAD1922年11月24日紙の上で配った水は、川が運ぶ水より多かったロッキー山脈から砂漠を抜けて流れるコロラド川を、流域の七つの州が奪い合っていた。下流のカリフォルニアは急速に人を増やし、上流の州は取られる前に権利を確かめたかった。商務長官フーヴァーの仲立ちで、七州の代表がサンタフェ近くの宿に集まり、流域を上と下に分けて、それぞれ毎年同じ量の水を使えると決めた。基にした川の水量は、たまたま雨の多かった年の数字だった。のちの研究で、実際の平均はそれより少ないことが分かる。紙の上で配った水は、川が運ぶ水より多かった。その不足は、百年たったいまも協定の見直しを迫っている。サンタフェ(ニューメキシコ)
- トルコ共和国の成立できごとAD1923年10月29日帝国の跡に国民国家を作る解体された帝国の跡に共和国が立った。文字をラテン字に替え、暦も法も服装も入れ替える。アンカラ
- ドイツのハイパーインフレできごとAD1923年中間層の貯蓄が紙になった1914年に1ドル4.2マルクだったものが、1923年11月に4兆2000億マルクになった。第一次大戦の戦費を国債で賄い、敗戦後は賠償と、ルール占領への消極的抵抗の費用を、紙幣の増刷で支えた。物価は数時間で変わり、賃金は日に二度払われ、鞄一杯の札束でパンを買った。年金と預金と生命保険が、紙になった。11月、レンテンマルクの発行で収まったが、中間層の貯蓄と、通貨への信頼と、共和国への支持が、同時に失われた。ベルリン
- ローザンヌ条約できごとAD1923年7月24日クルドとアルメニアの国はセーヴル条約(1920年、オスマンを分割)をケマルが戦争で破棄させた。トルコ共和国の国境。アナトリアとトラキア。治外法権の廃止。ギリシアとトルコの住民交換、宗教を基準に、120万人と40万人。生まれた土地を出た。クルドとアルメニアの国は、なくなった。3か月後、共和国。ローザンヌ

- アミルカル・カブラル人物AD1924年9月12日 – AD1973年1月20日文化を抵抗の武器と呼んだ農学者から独立運動の指導者になった。解放区で学校と診療所を先に作る方法を取る。独立の8か月前に暗殺される。
- フランツ・ファノン人物AD1925年7月20日 – AD1961年12月6日植民地支配が心に何をするかを書いたカリブ生まれの精神科医。アルジェリアの病院で拷問する側とされる側の両方を診て、植民地支配が人の心を壊す仕組みを書いた。36歳で死ぬ。
- 普通選挙法できごとAD1925年(大正14年)広げる法と、締める法が同じ年に通った日本で最初の選挙に投票できたのは、高額の税を納める男だけで、人口の一パーセントほどだった。財産の条件は少しずつ下げられ、1925年、二十五歳以上のすべての男に選挙権が与えられる。有権者は四倍に増えた。ただし女性は含まれない。そして同じ議会が、同じ年に治安維持法を通している。参加を広げる一方で、体制を変えようとする考えそのものを取り締まる仕組みを用意した。広げることと、締めることが、同時に行われた。女性が投票するのは、敗戦後の1946年になる。東京
- ヴァヴィロフと起源の中心できごとAD1926年ルイセンコに敗れた作物は、世界のどこで生まれたか。ニコライ・ヴァヴィロフは、遺伝的な多様性が最も高い場所が、その作物の起源地であると考えた。彼は64か国を回り、種を集めた。エチオピア、アフガニスタン、ペルー、中国。集めた標本は25万点を超え、当時、世界最大の種子の集積になった。目的は、飢饉をなくすことである。多様性の中から、寒さと病に強い品種を探す。彼はスターリンの下でルイセンコに敗れ、1940年に逮捕され、1943年、獄中で餓死した。サンクトペテルブルク
- トルコの文字改革できごとAD1928年11月1日文字を変えて国を変えるオスマン帝国のトルコ語は、アラビア文字で書かれていた。だがアラビア文字は母音を表しにくく、トルコ語の音に合わなかった。読み書きのできる人は国民の一割ほどだった。共和国を建てたケマル・アタテュルクは、1928年の夏、イスタンブルの公園で黒板の前に立ち、ラテン文字をもとにした新しいアルファベットを自ら人々に教えてみせた。11月1日、議会は新しい文字を採用する法を定め、翌年から公の場でアラビア文字を使うことが禁じられた。全国に「国民の学校」が開かれ、大人も新しい文字を学んだ。言葉からアラビア語やペルシア語の語を除く運動も続いた。アンカラ
- タイの立憲革命できごとAD1932年6月24日王を押さえた軍が、次の主にシャムは、東南アジアでただ一つ植民地にならなかった国で、王が全ての権力を握っていた。ヨーロッパに留学した若い官僚と軍人たちは、国を近代化するには王の独裁を改めねばならないと考えた。1932年6月24日の早朝、彼らは首都の要所を押さえ、王に憲法を受け入れさせる。血はほとんど流れなかった。国の名はのちにタイと改められる。だがその後、軍が何度もクーデターを起こして政治に口を出すことが、この国の常になった。バンコク
- ニューディールできごとAD1933年3月9日恐れそのものだ就任の翌日、銀行を全部閉めた。「100日」。緊急銀行法、農業調整法、テネシー川流域開発公社、全国産業復興法、市民保全部隊、証券法。1935年、社会保障法、ワグナー法(労組の権利)、公共事業促進局。「恐れなければならないのは、恐れそのものだ」。炉辺談話。連邦政府が経済に手を入れる国になった。恐慌は終わらず、戦争で終わった。ワシントンD.C.

- コラソン・アキノ人物AD1933年1月25日 – AD2009年8月1日夫を暗殺された主婦から大統領になった。市民が戦車の前に立つ形で独裁を終わらせた「ピープルパワー」の顔になる。
- 国民所得の発明できごとAD1934年市場で取引されないから外にある大恐慌のさなか、政府は経済がどれだけ縮んだかを知らなかった。統計がなかったからである。上院の求めで、サイモン・クズネッツが国民所得の推計を作った。1934年、報告書を提出した。彼はその中で警告している。国民所得から、一国の福祉を推し量ることはできない。何を数えるかは選択であり、彼は軍事支出と広告と投機を除くことを主張した。採用されなかった。そして家事と育児と介護は、市場で取引されないという理由で、はじめから外にある。ワシントンD.C.
- エディ・マボ人物AD1936年6月29日 – AD1992年1月21日「無主の地」という法の建前を裁判で覆した。判決は本人の死の5か月後に出る。
- 少ない標本で当てるできごとAD1936年当時いちばん有名だった選挙予測は、雑誌が読者に葉書を送る方式だった。二百万を超える返信を集め、共和党の候補が勝つと予測する。ジョージ・ギャラップは、五万人ほどを偏りなく選んだ調査で、民主党のローズベルトが勝つと予測した。結果はローズベルトの圧勝である。雑誌の名簿は、電話と自動車を持つ層に偏っていた。恐慌下で、その層と全体では投票先が違う。数を集めることと、偏りなく選ぶことは別である。標本の作り方が結果を決めると示したことで、世論調査という商売が成立した。プリンストン
- 「インドを立ち去れ」運動できごとAD1942年8月8日十万人を牢に入れなければ治められない1942年8月8日、日本軍がビルマまで迫るなか、インド国民会議はボンベイで、イギリスはただちにインドから立ち去れと求める決議をした。ガンディーは「行動か死か」と訴える。翌朝、イギリスはガンディーとネルーら指導者をいっせいに捕らえた。指導者を失った人々は各地で役所や鉄道や電信を襲い、軍と警察は発砲して、千人を超える人が死んだ。運動は数か月で抑え込まれたが、戦争のさなかに十万人を牢に入れなければ治められない植民地を、イギリスが戦後も持ち続けることは難しくなった。ムンバイ
- レフ・ワレサ人物AD1943年9月29日 – ?円卓大工の子。造船所の電気工。1970年のストで解雇。1980年、柵を越えて委員長に。1981年、戒厳令で1年拘束。1983年、ノーベル平和賞。1989年、円卓。1990年、大統領。1995年、負けた。8人の子。「私は、政治家でなく、電気工」。
- アイスランド共和国の成立できごとAD1944年6月17日占領下で決めた独立アイスランドは13世紀からノルウェー、のちにデンマークの王のもとにあった。1918年、デンマークと王を同じくする別の王国として主権を認められ、25年たてば連合を見直せることになった。1940年、デンマークがドイツに占領されると、イギリス軍が北大西洋の要としてアイスランドを占領し、翌年アメリカ軍が引き継ぐ。1944年5月の国民投票では、連合の解消に99%以上が賛成した。6月17日、930年に島の集会アルシングが開かれたシングヴェトリルの野で、雨の中、共和国が宣言された。シングヴェトリル
- セティフの虐殺できごとAD1945年5月8日ヨーロッパの戦勝を祝う日に、独立を求める旗が掲げられ、発砲があった。報復で数千人から数万人が殺される。アルジェリア戦争の起点として記憶されている。セティフ
- ニュルンベルク裁判できごとAD1945年11月20日戦争に負けた国の指導者を、勝った国々が法廷で裁く。1945年11月20日、ナチスの党大会が開かれた町ニュルンベルクで、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の判事による裁判が始まった。侵略の戦争を計画したこと、そして人道に対する罪が問われる。命令に従っただけだ、という弁明は退けられた。翌年、十二人に死刑が言い渡される。勝者の裁きだという批判もあったが、国家の指導者個人が国際法で裁かれるという原則は、のちの国際刑事裁判所につながった。ニュルンベルク
- スティーヴ・ビコ人物AD1946年12月18日 – AD1977年9月12日拘禁中に殺された黒人意識運動を起こした。「抑圧者の最も強力な武器は、被抑圧者の心である」。拘禁中に殴られて死んだ。30歳。
- 日本国憲法できごとAD1946年11月3日敗戦後、日本の政府が出した憲法の改正案は、明治の憲法をほとんど変えないものだった。連合国軍総司令部は自ら草案を作って示し、政府はこれをもとに案を作り直す。帝国議会の審議で、戦力を持たないとする条文の書き方や、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が加えられた。1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行される。国民が主権を持ち、戦争を放棄し、基本的人権を保障する。一度も改められないまま、いまに至っている。東京
- 女性が初めて投票した日できごとAD1946年4月10日明治のはじめから、女性の参政権を求める声はあったが、戦前には実現しなかった。敗戦の年の暮れ、選挙の法律が改められ、二十歳以上の男女に選挙権が与えられる。1946年4月10日の総選挙で、女性たちは初めて票を投じた。投票率は男性より低かったが、三十九人の女性が衆議院議員に選ばれる。その数は、その後半世紀以上破られなかった。戦前から運動を続けてきた市川房枝は、追放されたのち、のちに参議院で長く活躍することになる。東京
- フィリピンの独立できごとAD1946年7月4日どの日を始まりとするかスペインから独立を宣言した共和国は、アメリカとの戦争に敗れ、半世紀近くアメリカの統治下に置かれた。アメリカは、十年後に独立させると約束していたが、その途中で日本の占領を受け、マニラは市街戦で壊滅する。1946年7月4日、アメリカの独立記念日と同じ日に、フィリピンは独立した。だがアメリカの軍の基地は残り、経済もアメリカに有利な約束に縛られた。のちに独立記念日は、スペインからの独立を宣言した6月12日に移される。マニラ
- 人間宣言できごとAD1946年1月1日1946年1月1日、昭和天皇は、新しい日本を建てることについての詔書を出した。詔書は冒頭に明治の五箇条の御誓文を掲げ、そのうえで、天皇と国民の絆は、信頼と敬愛で結ばれているのであって、神話や伝説によるものではなく、天皇を生きた神とし、日本人をほかの民族より優れた、世界を支配すべき民族とする考えは、架空のものだと述べた。新聞はこれを天皇の「人間宣言」と呼んだ。文案には占領軍の側の人々もかかわっていた。天皇を神とする考えは、戦争へと国民を動員するときの支えになっていた。東京
- カシミール紛争の始まりできごとAD1947年ヒンドゥーの藩王が治めるムスリム多数の地域だった。分離のとき帰属を決めかね、その隙に紛争になる。三度の戦争を経て、いまも分割線のまま決着していない。カシミール(位置は特定されていない)
- ラドクリフ・ラインできごとAD1947年8月17日線の公表は独立の2日後インドの分割にあたり、境界の画定を任されたのは、シリル・ラドクリフという弁護士だった。彼はインドへ行ったことがなかった。中立であるという理由で選ばれた。与えられた期間は5週間。彼は古い地図と国勢調査の数字を見て、ベンガルとパンジャーブに線を引いた。線が公表されたのは独立の2日後である。それまで、誰も自分がどちらの国になるか知らなかった。1000万人以上が移動し、数十万人から100万人以上が死んだ。彼は報酬を受け取らず、作業の記録を焼いた。ロンドン
- 郊外住宅の量産できごとAD1947年白人以外への転売を禁じる条項復員兵に住宅がなかった。レヴィット父子は、ロングアイランドのジャガイモ畑を買い、家を工場方式で建てた。基礎を打たず、コンクリート板の上に建てる。部材を寸法通りに切って運び、27の工程に分けた職人の班が家から家へ移動する。1日30戸以上。7990ドル、頭金なしで復員兵に売った。1万7000戸。アメリカの郊外と自動車社会の原型になった。当初の売買契約には、白人以外への転売を禁じる条項があった。レヴィットタウン
- トルーマン・ドクトリンできごとAD1947年3月12日封じ込めイギリスがギリシアとトルコを支えられなくなり、トルーマンが議会で「武装した少数派や外からの圧力に抵抗する自由な人々を支援する」と言った。4億ドル。「封じ込め」。アメリカが世界の警察になると宣言した日。冷戦はここから数える人が多い。ワシントンD.C.
- 世界保健機関の設立できごとAD1948年4月7日加盟国の政治に縛られる国際連合の専門機関として発足した。憲章の前文に、いまも引かれる定義がある。「健康とは、単に病気や虚弱でないということではなく、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態である」。そして「到達しうる最高水準の健康を享受することは、すべての人間の基本的権利の一つである」。天然痘の根絶(1980年宣言)を成し遂げ、ポリオを追い、結核とマラリアと戦い、そして加盟国の政治と予算に絶えず縛られてきた。ジュネーヴ
- ビルマの独立できごとAD1948年1月4日パンロンの約束は守られなかったイギリスと独立の約束を取り付け、少数民族と連邦制で合意した指導者は、その半年前に閣議の最中に暗殺されていた。パンロンの約束は守られず、いまも紛争が続く。ヤンゴン(ラングーン)
- ガンディーの暗殺できごとAD1948年1月30日独立から半年で、同じヒンドゥー教徒に撃たれた祈りの集会へ向かう途中、ヒンドゥー至上主義者に至近距離から撃たれた。独立から半年、分離の暴力のなかで断食を続けていた最中だった。デリー
- 世界人権宣言できごとAD1948年12月10日基準はここで書かれた二つの大戦とホロコーストのあとで、国連総会が48か国の賛成、反対なしで採択した。拷問の禁止、奴隷の禁止、法の前の平等。守られない国は多いが、基準はここで書かれた。パリ

- 外れた見出しできごとAD1948年失敗が、方法を変えた1948年のアメリカ大統領選で、主要な調査機関はそろって共和党のデューイの勝利を予測した。差が大きいと見て、調査は投票日の何週間も前に打ち切られている。当選確実と信じた新聞は、開票を待たずに一面の見出しを組んだ。「デューイ、トルーマンを破る」。実際に勝ったのはトルーマンで、彼はその新聞を掲げて笑う写真を残した。標本の割り当てを調査員の裁量に任せていたことも偏りを生んだ。以後、確率に基づく抽出が主流になり、直前まで調査を続けることが基本になる。シカゴ
- イスラエルの建国できごとAD1948年5月14日イギリスの委任統治が終わる前日の1948年5月14日、ダヴィド・ベン=グリオンがテルアビブでイスラエルの独立を宣言した。ホロコーストを生き延びたユダヤ人にとって、ようやく持てた自分たちの国である。翌日、周りのアラブの国々が攻め込み、戦争になる。戦いのなかで、七十万人ほどのパレスチナのアラブ人が故郷を逃れ、あるいは追われた。彼らはこれをナクバ、大災厄と呼ぶ。同じ一日が、一方には独立の日、もう一方には追放の日として記憶されている。テルアビブ
- トマ・サンカラ人物AD1949年12月21日 – AD1987年10月15日国名を「まっすぐな人々の国」に変えた4年で識字率と予防接種を大きく伸ばし、自分の給与を下げ、公用車を最も安い車にした。側近のクーデターで殺される。
- インド憲法の施行できごとAD1950年1月26日読み書きのできない人にも一票1950年1月26日、インドは憲法を施行し、イギリスの国王を元首としない共和国になった。起草の委員会を率いたのは、不可触民とされた身分の出身の法律家アンベードカルである。憲法は、カーストによる差別と不可触民の扱いを禁じ、成人のすべての男女に選挙権を与えた。当時のインドの人々の多くは読み書きができず、それでも一人一票が約束されたのである。条文は世界で最も長い憲法の一つで、宗教と言葉と地域の違う人々を一つの国にまとめる土台になった。デリー
- アーレント『全体主義の起原』できごとAD1951年新しい種類の支配反ユダヤ主義と、帝国主義と、そして全体主義。三部。ナチズムとスターリニズムを、暴政の一種でなく、新しい種類の支配として分析した。孤立した大衆、イデオロギーとテロル、そして「あらゆることが可能である」という信念。強制収容所は、人間を余計なものにする実験室だった。1961年、アイヒマン裁判を傍聴して『イェルサレムのアイヒマン』。「悪の陳腐さ」。友人の多くを失った。ニューヨーク
- サンフランシスコ講和条約できごとAD1951年9月8日沖縄と小笠原はアメリカの施政下に残る48か国と結んで日本が主権を回復した。ソ連と中国は加わらず、沖縄と小笠原はアメリカの施政下に残る。同じ日に日米安全保障条約が結ばれた。サンフランシスコ

- 難民条約できごとAD1951年7月28日帰れば殺される者を、帰した記憶から作られた第二次大戦後、ヨーロッパに数百万の帰る場所を持たない人がいた。二十六か国がジュネーヴに集まり、難民を定義し、その保護を条約にした。核心は第三十三条のノン・ルフールマンである。迫害されるおそれのある地へ、追い返してはならない。当初は1951年以前のヨーロッパの事件に限られ、1967年の議定書がその制限を外した。定義は人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団への帰属による迫害である。気候と貧困は、そこに入っていない。ジュネーヴ
- 機密指定できごとAD1951年9月24日秘密の量が増えるほど、守るべきものが埋もれる軍事の秘密は古くからあるが、文書に等級を付けて管理する制度は、二つの大戦を経て整った。1951年、トルーマンが大統領令で、平時の行政機関全体に、極秘、秘、部外秘の三段階を適用した。指定できる人と、解除の手続きも定めた。批判はすぐに出た。都合の悪い情報を隠すのに使える。過剰な指定が常態化し、指定件数は年に数千万に達する。ある元高官は、機密の九割は公開してよいものだと述べた。秘密の量が増えるほど、守るべきものが埋もれる。ワシントンD.C.
- マウマウ団の反乱できごと1952年拷問を60年後に政府が認めたキクユの人びとが、奪われた土地を取り戻そうと蜂起した。イギリスは非常事態を敷き、15万人を収容所に入れた。2013年、政府が拷問を認めて補償に応じている。ナイロビ

- モンゴメリー・バス・ボイコットできごと1955年一人が席を譲らなかったことから、黒人住民が381日間バスに乗らなかった。公民権運動の始まりとされる。モンゴメリー

- 水俣病できごとAD1956年公式に認めるまで12年1956年5月、原因不明の中枢神経の疾患として公式に確認された。手足がしびれ、言葉が不明瞭になり、視野が狭まる。原因は、工場が排出したメチル水銀である。魚に濃縮され、それを食べた人に及んだ。胎盤を通って、胎児にも及んだ。企業は排水を続け、行政は認定を絞り、患者は差別された。公式の確認から国が公害と認めるまで12年かかった。2013年、水銀に関する国際条約が「水俣条約」と名づけられた。水俣
- ハンガリー動乱できごとAD1956年10月23日再埋葬に25万人学生のデモがスターリン像を倒した。ナジ・イムレが首相になり、ワルシャワ条約からの脱退を宣言した。11月4日、ソ連の戦車。2500人が死に、20万人がオーストリアへ逃げた。ナジは2年後に秘密裁判で絞首刑。1989年6月16日の再埋葬に25万人が集まり、それが体制の終わりだった。ブダペスト

- 日ソ共同宣言できごとAD1956年10月19日サンフランシスコの講和条約にソ連は加わらず、日本とソ連の間は、法の上では戦争の状態が続いていた。1956年10月19日、鳩山一郎首相はモスクワで共同宣言に署名する。戦争の状態を終わらせ、国交を回復し、抑留されていた人びとを帰すことが決まった。歯舞と色丹の二つの島は、平和条約を結んだあとに引き渡すとされた。ソ連が反対をやめ、その年の暮れ、日本は国際連合に加盟する。平和条約は、いまも結ばれていない。モスクワ
- ナマジラの市民権できごとAD1957年市民権が悲劇を招いた先住民として初めて市民権を与えられた画家が、その権利で買った酒を親族に分けた。当時、市民権のない先住民に酒を渡すのは犯罪だった。有罪になり、釈放の翌年に死ぬ。アリススプリングス
- チベット動乱できごとAD1959年3月10日ラサで蜂起が起き、鎮圧された。23歳の指導者はヒマラヤを越えてインドへ逃れ、以後亡命政府を率いる。8万人以上が続いた。ラサ

- リゴベルタ・メンチュウ人物AD1959年1月9日 – ?キチェ・マヤの活動家。内戦下の先住民への弾圧を世界に伝え、ノーベル平和賞を受けた。証言の細部をめぐる論争もある。
- インダス川水利条約できごとAD1960年9月19日水を分け合うのではなく、川ごと分けたインドとパキスタンが分かれたとき、国境はインダス川の支流を横切って引かれた。川の上流はインド側にあり、パキスタンの畑を潤す水の多くはインドを通って流れてくる。1948年、インドが用水路の水を止め、パキスタンは震え上がった。世界銀行が仲立ちに入り、九年の交渉の末、六つの川を東西に分けて、東の三つをインドに、西の三つをパキスタンに割り当てた。水を分け合うのではなく、川ごと分けたのである。条約は、その後の三度の戦争を越えて守られてきた。だが2025年、テロ事件を受けて、インドは条約の停止を宣言した。カラチ
- 種苗と育成者の権利できごとAD1961年12月2日自家採種の例外が縮んだ新しい品種を作るには、時間と金がかかる。しかし、種は殖える。誰かが一袋買えば、翌年から自分で殖やせる。1961年、パリで植物新品種保護条約が結ばれ、育成者に排他的な権利が与えられた。当初は、農民が自家採種することは認められていた。1991年の改定で、その例外が各国の裁量になった。以後、種苗の権利をめぐる対立が続いている。企業は開発の費用を回収できなければ品種を作れないと言い、農民と途上国は、種を自分で採る権利は数千年の慣行だと言う。パリ
- ケニアの独立できごとAD1963年12月12日支配する者の顔は変わり、土地の偏りは残ったケニアの高地の肥えた土地は、白人の入植者のものになっていた。土地を奪われたキクユの人びとの反乱を、イギリスは十年近く力で抑え、数万人を収容所に入れた。反乱の指導者とされて投獄されたジョモ・ケニヤッタは、釈放されると独立の交渉の中心に立つ。1963年12月12日、ケニアは独立し、ケニヤッタが首相、のちに大統領となった。彼は入植者に報復せず、和解を説いた。だが土地は、新しい支配層の手に集まっていった。ナイロビ
- アフリカ統一機構の設立できごとAD1963年5月25日植民地の国境を変えない1960年前後、アフリカでは次々に国が独立した。1963年5月25日、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエの招きで、独立した32か国の首脳がアディスアベバに集まり、アフリカ統一機構を作った。ガーナのエンクルマは、アフリカを一つの連邦政府にまとめることを求めたが、多くの国は、手にしたばかりの主権を手放すことを嫌った。機構は、互いの内政に干渉しないこと、植民地の時代に引かれた国境を変えないことを原則とし、まだ植民地や白人の支配の下にある地域の解放を支えた。5月25日は「アフリカの日」になった。2002年、機構はアフリカ連合に生まれ変わった。アディスアベバ
- トンキン湾事件できごとAD1964年8月2日宣戦布告なしの戦争駆逐艦マドックスが北ベトナムの魚雷艇と交戦した。2日後の二度目の「攻撃」は、なかった。ジョンソンは議会に決議を求め、下院は416対0、上院は88対2。「大統領は必要なあらゆる手段を」。宣戦布告なしの戦争が始まった。2005年、NSAの文書が「二度目はなかった」と認めた。トンキン湾

- モブツの独裁できごとAD1965年11月24日独立直後のコンゴの混乱の中で、陸軍の指揮官モブツは、アメリカやベルギーの後ろ盾を受けて力を伸ばした。1965年11月24日、クーデターで全権を握る。国の名をザイールに改め、植民地の名残の地名や西洋風の名前を捨てさせ、アフリカの誇りを説いた。だが銅やダイヤモンドの富は彼と取り巻きに流れ、国は貧しいままだった。冷戦のあいだ、西側は反共の同盟者として彼を支え続ける。三十二年後、反乱軍に追われて国を去った。キンシャサ
- ボツワナの独立できごとAD1966年9月30日独立後に成長と民主制が続いた例独立時は世界で最も貧しい国の一つで、舗装道路は十数kmしかなかった。以後半世紀、クーデターも独裁も無く、アフリカで最も長く成長が続いた。ハボローネ
- ビアフラ戦争できごとAD1967年ナイジェリア東部が分離を宣言し、3年で100万から200万が死んだ。その多くが飢餓による。飢えた子どもの写真が世界に流れ、国境なき医師団が生まれる契機になった。エヌグ
- プラハの春できごとAD1968年8月21日道路標識を外したドプチェクの「人間の顔をした社会主義」。検閲の廃止。8か月。8月20日の夜、ワルシャワ条約軍20万と戦車2000両。市民は道路標識を外し、戦車の前に座り、ラジオで抵抗した。その年のうちに137人が死んだ。ドプチェクはモスクワに連れて行かれ、署名させられた。「正常化」。翌年、パラフが焼身した。プラハ

- 誕生日で決まる徴兵できごとAD1969年12月1日ベトナム戦争のさなか、誰を戦場へ送るかは、地域の徴兵委員会の判断に委ねられていた。大学に行ける者は猶予を受け、行けない者が送られる。不公平だという声に押されて、政府はくじに切り替えた。1969年12月1日の夜、三百六十六の誕生日を入れたカプセルが一つずつ引かれ、その様子はテレビとラジオで流された。一番目は9月14日だった。若い男たちは、自分の誕生日が何番目に出るかを見守った。のちに統計学者が、カプセルがよく混ざっておらず、年末の日付ほど早い番号が出ていたことを示した。公平に見えるくじも、混ぜ方までは見えなかった。ワシントンD.C.
- ボーラ・サイクロンできごとAD1970年11月12日救援の遅れが国を割る1970年11月12日の夜、ベンガル湾から巨大なサイクロンが、当時は東パキスタンだったガンジス川の河口の低い島々を襲った。高潮が島を呑み込み、30万人から50万人が死んだとされる。記録に残る最悪の熱帯の嵐である。西パキスタンの政府の救援は遅く、東の人々の怒りは頂点に達した。翌月の選挙では東の自治を掲げるアワミ連盟が圧勝し、それを認めない政府との対立は、翌年の独立戦争につながった。バングラデシュはその後、避難のための建物を海岸に建て続け、嵐の死者を大きく減らしている。ボーラ島(位置は特定されていない)
- バングラデシュの独立できごとAD1971年同じ宗教でも、言葉と経済が違えば一つの国にならなかった。西パキスタン軍の弾圧で数十万から300万が死に、1000万人が国外へ逃れた。インドが介入して独立する。ダッカ
- 十八歳に下げるできごとAD1971年負担を求めるなら、決める場にも入れるという理屈ベトナム戦争で、十八歳で徴兵され戦地へ送られる若者が、投票はできなかった。「戦えるのに、選べないのか」という言い方が広まり、1971年、アメリカは憲法を修正して選挙権の年齢を十八歳に下げた。批准は百日ほどで済み、最も早い修正になる。イギリスは1969年、日本は2016年に同じ年齢へ下げた。誰が有権者かを決める線は、成人の定義でも、能力の判定でもなく、その時代に何を負わされているかで動いてきた。負担を求めるなら、決める場にも入れるという理屈になる。ワシントンD.C.
- 沖縄返還できごとAD1972年5月15日基地はほとんどそのまま残った戦後、沖縄はアメリカの統治下に置かれ、本土へ渡るにも旅券が要り、通貨はドルだった。基地の拡張で土地を奪われ、米兵の事件は裁けない。島ぐるみの復帰運動が続き、1972年5月15日、沖縄は日本に戻った。核を置かず本土と同じに、と約束されたが、基地はほとんどそのまま残った。いまも日本にあるアメリカ軍専用の施設の七割ほどが、国土の一パーセント足らずの沖縄に集まっている。那覇
- ポルトガル領の独立できごとAD1975年植民地の戦争が、本国の体制を倒したアンゴラとモザンビークが独立した。他のアフリカ諸国より15年遅い。本国の政変(カーネーション革命)が先に必要だった。独立の直後から、冷戦の代理戦争としての内戦が始まる。ルアンダ
- ヘルシンキ宣言できごとAD1975年8月1日第7原則35か国。ソ連は戦後の国境の承認を得た。西側は「人権と基本的自由の尊重」を第7原則に入れた。ソ連は紙だと思った。東欧の反体制派はそれを盾にした。「ヘルシンキ・グループ」。憲章77。それが1989年につながった、と言われる。ヘルシンキ
- パプアニューギニアの独立できごとAD1975年9月16日800を超える言語が話される土地が、一つの国として独立した。植民地の境界線がそのまま国境になった例で、統合はいまも課題として残る。ポートモレスビー
- スペインの民主化できごとAD1975年11月20日掘り返さない約束の上の民主化1975年11月20日、三十六年間スペインを支配したフランコが死んだ。後継に指名されていた国王フアン・カルロス1世は、独裁を続けると思われていたが、改革派の首相を任じて、政党を認め、1977年に自由な選挙を行わせる。内戦の傷を掘り返さない、という暗黙の約束の上で、左右が妥協して新しい憲法が作られた。1981年、軍の一部が議会を占拠したが、国王がテレビで憲法を守ると語り、クーデターは失敗する。流血なしの独裁からの移行の手本とされた。マドリード
- ホイットラム首相の解任できごとAD1975年11月11日選ばれていない総督が首相を辞めさせる1975年11月11日、イギリス女王の代理である総督ジョン・カーは、下院で多数を持つ首相ゴフ・ホイットラムを解任した。上院を握る野党が予算の成立を止めていたためである。選挙で選ばれた首相を、選ばれていない総督が辞めさせたことは、国を二つに割る争いになった。ホイットラムは議事堂の階段で「『神よ女王を救いたまえ』と言うがいい。総督を救うものは何もないのだから」と言い放った。翌月の選挙で彼は大敗する。オーストラリアが共和制に移るかどうかの議論は、この日から熱を帯びた。キャンベラ
- ソウェト蜂起できごとAD1976年6月16日高校生の行進が国際的な孤立を招いた授業をアフリカーンス語で受けさせる方針に、高校生が抗議して行進した。警官が発砲し、倒れた少年の写真が世界に流れる。アパルトヘイトへの国際的な圧力が、ここから強まった。ヨハネスブルグ

- 連帯の結成できごとAD1980年8月31日党の外の組織グダンスクの造船所の電気工が柵を越えて、ストライキを率いた。政府が独立自主管理労組を認めた。「連帯」。1000万人。ソ連圏で初めての、党の外の組織。1981年12月、戒厳令。地下へ。1989年、円卓。選挙。ワレサは1990年に大統領になった。グダンスク
- ジンバブエの独立できごとAD1980年4月18日解放の英雄が、新しい独裁者に長いゲリラ戦のあと、白人の政府は交渉に応じ、黒人が投票できる選挙が行われた。解放闘争を率いたロバート・ムガベの党が勝ち、1980年4月18日、国は中世の石の都の名を取ってジンバブエとして独立する。首都の名も2年後にハラレに改められた。ムガベは初め和解を説き、教育と医療を広げた。だが次第に反対派を弾圧し、白人の農場を力で取り上げ、経済は崩れて、紙幣は天文学的なインフレで紙くずになった。彼は三十七年間、権力を手放さなかった。ハラレ
- 国連海洋法条約できごとAD1982年12月10日深海底は人類の共同財産海は誰のものか。17世紀、グロティウスが自由な海を説き、セルデンが閉じられた海を説いた。長く、大砲の届く距離、およそ3海里が領海とされた。20世紀、海底の資源と漁業をめぐって主張が広がった。9年の交渉の末に採択され、ジャマイカのモンテゴ・ベイで署名が始まった条約が、領海12海里、排他的経済水域200海里、そして大陸棚の定義を決めた。深海底は人類の共同財産とされた。アメリカは、その部分を理由に、いまも批准していない。モンテゴ・ベイ
- フォークランド紛争できごとAD1982年4月2日アルゼンチンが島を占領し、イギリスが1万3千キロ先へ艦隊を送った。74日で奪回する。両国の政権の行方が、この戦争で分かれた。ロンドン
- メンチュウの証言できごとAD1983年内戦下の先住民への弾圧を、口述による本で世界に伝えた。1992年にノーベル平和賞。のちに細部の食い違いが指摘され、証言文学とは何かという議論になる。パリ
- ブルキナファソの改名と改革できごとAD1984年8月4日「まっすぐな人々の国」植民地が付けた地理の名を、「まっすぐな人々の国」に改めた。4年で予防接種と識字と植林を進め、自分の給与を下げ、側近のクーデターで殺された。ワガドゥグー
- ピープルパワー革命できごとAD1986年2月25日流血なしに独裁が終わった数十万の市民が装甲車の前に立ち、修道女がロザリオを持って先頭にいた。流血なしに20年の独裁が終わり、夫を暗殺された主婦が大統領になる。マニラ(エドサ通り)

- 六月民主抗争できごとAD1987年6月29日直選制ソウル大生朴鍾哲が拷問で死に、延世大生李韓烈が催涙弾で死んだ。6月、全国で数百万。ソウル五輪の前年。与党の盧泰愚が大統領直選を受け入れた。「6・29宣言」。憲法が変わり、それ以来大統領は国民が選ぶ。漢城(ソウル)
- モントリオール議定書できごとAD1987年9月16日全加盟国が批准した唯一の条約1974年、ローランドとモリーナが、フロンが成層圏で分解してオゾンを壊すと予測した。1985年、イギリスの観測隊が南極上空のオゾンの急減を報告した。予測を、はるかに超える速さだった。2年後、24か国が生産の削減に合意した。後の改定で全廃に至る。親条約のウィーン条約とともに、全ての国連加盟国が批准した最初の条約になった。オゾン層は回復に向かっている。代替品として使われた物質が、強力な温室効果ガスであることが、後に分かった。モントリオール
- インティファーダできごとAD1987年12月9日占領が二十年に及んだ1987年12月、ガザで、イスラエルの軍用トラックが事故を起こしパレスチナ人四人が死んだ。これをきっかけに、ガザと西岸で一斉に抗議が起きる。若者たちは石を投げ、商店は店を閉め、人びとは税を払わず、イスラエルの製品を買わなかった。インティファーダ、振り払うこと、と呼ばれる。戦車に石で向かう少年の映像は世界の見方を変えた。同じ時期、武装闘争を掲げる組織ハマースが生まれている。ガザ
- 台湾の戒厳令解除できごとAD1987年7月15日二・二八事件のあと、1949年から台湾には戒厳令が敷かれ、政党を作ることも、政府を批判することも厳しく禁じられた。多くの人が政治犯として捕らえられた時代は、白色テロと呼ばれる。1987年7月15日、三十八年続いた戒厳令が解かれた。前の年には、禁じられていた野党が結成されていた。以後、新聞は自由になり、1996年には総統を住民の直接選挙で選ぶようになる。アジアで最も自由な民主の国の一つへの道が、ここから始まった。台北
- ビロード革命できごとAD1989年11月17日獄にいた劇作家が大統領に学生のデモが警棒で打たれ、翌日から劇場が閉まり、市民フォーラムができた。11日。ヴァーツラフ広場に50万人。鍵を鳴らした。党が指導的地位を放棄し、12月29日、獄にいた劇作家が大統領に。血は流れなかった。「ビロード」。1993年、国は二つに分かれた。それもビロードだった。プラハ
- ルーマニア革命できごとAD1989年12月22日2時間の裁判ティミショアラの牧師の追放から。12月21日、宮殿前の集会でチャウシェスクが演説中に群衆が叫び、テレビが止まった。翌日、屋上からヘリで逃げ、捕まり、25日、クリスマスの日に2時間の裁判で夫婦とも銃殺された。1989年の東欧で、唯一、血で終わった。ブカレスト
- バルトの道できごとAD1989年8月23日1989年8月23日の夕方、エストニアのタリンから、ラトビアのリガを通り、リトアニアのヴィリニュスまで、およそ二百万人が手をつないで、600キロを超える人の鎖を作った。ちょうど50年前のこの日、ドイツとソ連は不可侵条約の秘密の議定書で、バルトの三国をソ連の勢力の範囲とした。三国は翌年ソ連に呑み込まれる。人の鎖は、その併合が不当だったことを世界に示すためのものだった。三国ではこのころ、民族の歌を大勢で歌う集会が続き、「歌う革命」と呼ばれた。1991年、三国は独立を回復した。リガ
- 8月クーデターできごとAD1991年8月19日戦車の上で新連邦条約の前日、強硬派8人がゴルバチョフをクリミアの別荘に閉じ込め、戦車をモスクワに入れた。エリツィンが戦車の上で「違法だ」。3日。兵は撃たなかった。3人が死んだ。ゴルバチョフは戻ったが、力はエリツィンに。共産党は禁止され、4か月後にソ連はなかった。モスクワ

- ソ連の解体できごとAD1991年12月25日核のボタン12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳がベロヴェーシの森で「ソ連は存在しない」。21日、アルマアタで11か国がCIS。25日、ゴルバチョフが辞任の演説をし、クレムリンの赤い旗が降りて三色旗が上がった。69年。核のボタンはエリツィンに渡った。モスクワ
- マボ判決できごとAD1992年6月3日オーストラリアは無主の地だった、という法の建前を最高裁が覆した。原告本人は5か月前に死んでいる。キャンベラ
- マーストリヒト条約できごとAD1992年2月7日EU市民権ベルリンの壁の崩壊とドイツ統一の直後。ドイツを、通貨を手放させることでヨーロッパに縛る、というミッテランの計算と、コールの決断。欧州共同体(EC)が欧州連合(EU)になった。単一通貨、共通の外交と安全保障、司法と内務の協力。EU市民権。デンマークが国民投票で一度否決し、条件をつけて通した。2002年、ユーロの紙幣と硬貨が12か国で流通した。マーストリヒト
- ボスニア紛争できごと1992年同じ言葉を話し、隣り合って暮らしてきた人びとが、宗教で線を引かれて殺し合った。ヨーロッパで戦争は終わったという前提が、冷戦の3年後に崩れる。サラエヴォ
- オスロ合意できごとAD1993年9月13日ノルウェーの仲介で、イスラエルとパレスチナ解放機構の代表が、オスロの郊外で秘密の話し合いを重ねた。互いを交渉の相手として認め、パレスチナ人が自ら治める地域を段階的に広げていく。1993年9月13日、ワシントンのホワイトハウスの庭で、ラビン首相とアラファト議長が握手した。だが境界やエルサレムや難民の帰還といった難題は先送りされた。二年後、ラビンは和平に反対するユダヤ人の青年に撃たれて死ぬ。合意の約束の多くは果たされないまま残った。ワシントンD.C.
- スレブレニツァの虐殺できごとAD1995年7月11日ジェノサイドと認定された国連が「安全地帯」と宣言した町。守っていたのはオランダ軍400人。ムラディッチのセルビア人部隊が入り、女子供をバスで運び出し、男と少年8372人を、数日で、倉庫と学校と野原で殺して、埋めた。後に重機で掘り返して別の場所へ移した(骨が散らばって、身元の特定を難しくした)。ヨーロッパで第二次大戦後、最大の大量殺害。国際法廷がジェノサイドと認定した。スレブレニツァ
- 京都議定書できごとAD1997年12月11日署名して批准せず温室効果ガスの削減を、先進国に法的義務として課した最初の条約。2008〜12年に、1990年比で全体5%(EU8%、アメリカ7%、日本6%)。排出量取引とクリーン開発メカニズム。アメリカは署名して批准せず、カナダは2011年に離脱し、中国とインドには義務がなかった。2015年、パリ協定が、全ての国が自分で目標を出す方式に切り替えた。京都国際会館

- 香港返還できごとAD1997年7月1日アヘン戦争でイギリスが奪った香港は、のちに新界を九十九年の期限で借りる形で広がった。期限を前にした交渉の末、1997年7月1日、香港は中国に返された。一つの国に二つの制度を置き、五十年のあいだ香港の資本主義と自由を変えない、と約束される。雨の中で英国旗が降ろされた。だが約束の半分も経たないうちに、選挙と言論の自由は狭められ、国家安全の法律が作られた。香港
- 数え直しできごとAD2000年数え直せることが、信用の条件になるアメリカ大統領選の勝敗が、フロリダ州の数百票で決まることになった。使われていた投票用紙は、穴を開けて意思を示す方式である。開けきれず紙片がぶら下がったもの、へこんだだけのもの。どこまでを一票と数えるかで結果が変わる。郡ごとに基準が違い、手作業の数え直しが始まった。三十六日後、連邦最高裁が数え直しを止め、結果が確定する。この一件は、票を数えるという単純に見える作業が、道具と手続きに深く依存していることを見せた。以後、各国が投票の機械と数え方を見直すことになる。フロリダ(位置は特定されていない)
- 9・11同時多発テロできごとAD2001年9月11日テロとの戦争旅客機4機。2機が世界貿易センターの2棟に、1機が国防総省に、1機はペンシルベニアの野に落ちた(乗客が操縦室に突入した)。2977人が死んだ(19人の実行犯を除く)。93か国の人。生中継された。アメリカは「テロとの戦争」を宣言し、10月にアフガニスタン、2003年にイラク。空港の検査、監視法、そして「9・11以後」という言い方が残った。ニューヨーク

- 国際刑事裁判所できごとAD2002年7月1日加盟していない大国ニュルンベルクと東京の裁判は、勝者が敗者を裁く臨時の法廷だった。旧ユーゴとルワンダの法廷も、事件ごとに作られた。常設の裁判所を作る構想は1948年からあり、冷戦で止まり、1998年のローマ規程で実現した。集団殺害、人道に対する罪、戦争犯罪、そして侵略の罪。国家ではなく個人を裁く。国内の裁判が機能しないときにだけ動く(補完性)。アメリカ、ロシア、中国、インドは加盟していない。逮捕は加盟国の協力に頼るしかない。ハーグ

- ロシア・ジョージア戦争できごとAD2008年8月8日ソ連の解体のあと、ジョージアの中の南オセチアとアブハジアは、ロシアの後ろ盾で事実上の独立を保っていた。ジョージアは西側への接近を強め、NATOへの加盟を望む。2008年8月8日、北京オリンピックの開会の日、ジョージア軍が南オセチアの中心の町を攻撃すると、ロシア軍が大挙して反撃した。五日間の戦争でジョージアは敗れ、ロシアは二つの地域の独立を承認する。旧ソ連の国が西へ近づくことを、ロシアが力で止めた最初の例になった。ツヒンヴァリ
- 南スーダンの独立できごとAD2011年7月9日世界で最も新しい国アフリカで最も長い内戦のあと、住民投票で99%が独立を選んだ。世界で最も新しい国。二年後に大統領と副大統領の派閥が戦い始め、40万人が死んだ。ジュバ
- クリミアの編入できごとAD2014年3月18日ロシアが住民投票を根拠に編入を宣言した。国連総会はこれを認めない決議を採択している。この地図は2010年の国境のまま描いており、承認が割れている状態をそのまま置いてある。セヴァストポリ
- 欧州難民危機できごとAD2015年シリアの内戦から100万人がヨーロッパへ来た。ドイツは受け入れ、ハンガリーは柵を建てた。浜辺の3歳の子の写真が世界に回った。ベルリン
- トランプの当選できごとAD2016年11月8日戦後の秩序への不信が票になった公職の経験のない実業家が、世論調査を裏切って大統領になった。得票は相手より300万少なかった。同じ年のブレグジットと並んで、戦後の秩序への不信が票になった年とされる。ワシントンD.C.
- ブレグジットできごとAD2016年6月23日国民投票でEU離脱が52対48で決まった。統合を進めてきた戦後のヨーロッパが、初めて加盟国を失う。実際の離脱までに4年かかった。ロンドン
- 調査が当たらないできごとAD2016年2016年、イギリスの国民投票とアメリカの大統領選で、調査の予測と結果がずれた。全国の得票率の予測は大きくは外れていない。外れたのは、州ごとの予測と、それをまとめた勝敗の見立てだった。原因として挙げられたのは、電話に出ない人が増えたこと、学歴による回答の偏りを補正していなかったこと、そして投票直前に決める人が多かったことである。同時に、確率を示されても人は勝ち負けとして読む、という問題も残った。七割の確率で勝つという表示は、三割で負けるという意味でもある。ニューヨーク
- 香港国家安全維持法できごとAD2020年6月30日一国二制度の約束が50年のうち23年で書き換えられた。前年に200万人が歩いた街で、集会も新聞も消えていく。香港
- タリバンの復権できごとAD2021年8月15日政府軍が溶けたアメリカ軍の撤退が終わる前に、政府軍が溶けてタリバンがカブールに入った。大統領は国を出た。空港で飛行機にしがみつく人が落ちた。女性は中等教育を禁じられた。20年前に戻った。カブール
- アメリカ議事堂襲撃できごとAD2021年1月6日選挙の結果を認めない群衆選挙の結果を認めない大統領の集会から、群衆が議事堂に押し入った。上院と下院が選挙人の認定をしている最中に。5人が死んだ。1814年にイギリス軍が焼いて以来、議事堂が襲われた最初になる。ワシントンD.C.

- ミャンマーのクーデターできごとAD2021年2月1日父のアウンサンが暗殺されてから74年後選挙で大勝した政権を軍が拘束し、10年の民政が終わった。デモへの発砲から内戦になり、いまも続いている。ネピドー
- ロシアのウクライナ侵攻できごとAD2022年2月24日第二次世界大戦以後のヨーロッパで最大規模の戦争になった。冷戦の終わりに固まったはずの国境が、力で動かせるかどうかが問われている。キーウ
- ガザ戦争できごとAD2023年10月7日ジェノサイドの疑いで訴えられたハマスがイスラエルに越境攻撃して1200人を殺し、250人を人質にした。イスラエルはガザを封鎖して攻め、数万人が死に、200万人が家を失った。国際司法裁判所にジェノサイドの疑いで訴えられた。ガザ
- フィンランドとスウェーデンのNATO加盟できごとAD2023年4月4日冬戦争と継続戦争でソ連と戦ったフィンランドは、戦後、大国の隣で生き延びるため、ソ連を刺激しない中立を守った。スウェーデンも、ナポレオン戦争のあとおよそ二百年、どの同盟にも入らずにきた。2022年2月、ロシアがウクライナに全面的に攻め込むと、両国の世論は一変し、5月に二国そろってNATOへの加盟を申し込む。ロシアと1300キロ余りの国境を接するフィンランドは2023年4月4日に加盟し、トルコとハンガリーの承認に手間取ったスウェーデンは、2024年3月に加わった。ヘルシンキ
- ラプ=ラプ人物マゼランを討ち取ったマゼランを討ち取ったマクタン島の首長。フィリピンで、外来の侵略に抵抗した最初の英雄とされる。生没年は伝わらない。
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
ムンディ先生の講義で学ぶ歴史55件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。帝国と独立41件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。考えることの歴史39件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。交易路とお金32件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。冷戦30件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。法と裁判の歴史24件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。女性の権利22件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。冷戦のあと21件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。都市の歴史18件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。誰が書き残したか17件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。二つの大戦16件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。中国の王朝14件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。差別の歴史14件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。武士の700年13件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。戦争と平和の歴史13件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。イスラム世界12件を共有 / 一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。キリスト教のひろがり12件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史12件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。コテンラジオで聞く歴史11件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史11件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。お金の歴史11件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。日本の古代9件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。『地に呪われたる者』で読む脱植民地9件を共有 / 植民地支配が人の心に何をするかを、精神科医が診察室から書いた。36歳で死ぬ年に口述された本。明治8件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。民族移動の時代8件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。接触前のアメリカ7件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。確かめるという方法7件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『想像の共同体』で読む歴史7件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。ローマ人の物語6件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。表現の歴史6件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後6件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。働くことの歴史6件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。朝鮮半島5件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。感染症と人類5件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。教育の歴史5件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。近代と宗教5件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。『暴力の人類史』で読む歴史4件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。言葉と文字の歴史4件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。大学の講義で学ぶ歴史4件を共有 / 東京大学の公開講座や放送大学の動画から、歴史の項目に当たる講義を選んで付けた。研究者が自分の専門を語る、長めの講義が中心になる。共和政の終わり3件を共有 / 500年続いた仕組みが、なぜ一人の男に明け渡されたのか。探検と発見3件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。技術と産業3件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。ヴァイキング3件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。ペルシア戦争3件を共有 / 当時最大の帝国に、都市国家の寄り合いが勝った。ギリシアが自分たちを語りはじめる。『サピエンス全史』で読む歴史3件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『ローマ人の物語』で読むローマ3件を共有 / 塩野七生が15年かけて15巻で書いた、建国から西の帝国の終わりまで。このデータベースの第一期と同じ範囲になる。『砂糖の世界史』で読む世界商品3件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。『黒い皮膚・白い仮面』で読む植民地の心3件を共有 / 支配される側が、支配する側の目で自分を見てしまう。27歳の精神科医が書いた最初の本。支え合いの歴史3件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。食の歴史3件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。メディアの歴史3件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。古代オリエント2件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史2件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『文明崩壊』で読む歴史2件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『負債論』で読む歴史2件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で読む歴史2件を共有 / 資本主義を生んだのは強欲ではなく、救われているか分からない不安だった、という100年前の論文。『大転換』で読む歴史2件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。『近代世界システム』で読む歴史2件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『暴力と不平等の人類史』で読む格差2件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。『収奪された大地』で読むラテンアメリカ2件を共有 / 500年の歴史を、何が持ち去られたかで書く。金、銀、砂糖、ゴム、コーヒー、銅、石油。子どもの歴史2件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。宗教改革と科学革命1件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。インドと仏教1件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。草原の帝国1件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。文明のはじまり1件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ1件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『菊と刀』で読む日本1件を共有 / 一度も日本へ行かないまま、戦時中のアメリカで書かれた日本人論。読み継がれ、批判され続けている。『歴史とは何か』で読む歴史の読み方1件を共有 / 事実は自分では語らない。誰がどれを選んだかが、そのまま歴史になる。この年表そのものへの問いかけ。『ホモ・デウス』で読む次の歴史1件を共有 / 飢餓と疫病と戦争を抑え込んだ人類が、次に何を目指すか。『サピエンス全史』の続編。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層1件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『昨日までの世界』で読む伝統社会1件を共有 / 国家のない社会は、争いも子育ても老いも、私たちと違うやり方で扱ってきた。何を学べるか。『交易の世界史』で読む物の流れ1件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。性の歴史1件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。障害の歴史1件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。海の歴史1件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。住まいの歴史1件を共有 / 洞窟と竪穴の家から、長屋、集合住宅、団地、郊外の一戸建てまで。人はどこに、どう住んできたのか。