できごと

死者の日

The Day of the Dead
AD1550年頃
重要度 4
スペイン帝国ポルトガル帝国アマゾンの狩猟採集民ヌエバ・エスパーニャ副王領ミシシッピ文化ObiwaShoshoniApacheUteNorthern PaiuteIllinnois𐓏𐒰𐓓𐒰𐓓𐒷 𐒼𐓂𐓊𐒻 𐓆𐒻𐒿𐒷 𐓀𐒰^𐓓𐒰^(Osage)コマンチアラパホークロウMescaleroShawneeSanteeKiowaTetonMi'kma'kiBlackfootErieCatawbaカドーカリブの狩猟採集民Caohuiltecsイロコイ連邦Southern PaiutePawneeWichitaYankontaiMuskogeePotawatomiChicaksawYanktonAbnakiChiricahuaCuba (Spain)GuachichilesNavahoIowaQuapawChoctawZacatecsTonkawaHispaniola (Spain)マヤの人びとシャイアンSusquehannaCherokeeCochimàCaloosahatchee cultureHitchitiDelawareネズパースLipanTepehuaneGuachimisCahitasTimucuaMissouriTuteloMiamiTamalipuecaAD1550年頃メキシコシティ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1550年頃の版図を描いています(65勢力)。

概要

11月1日と2日、死者が帰ってくる。家に祭壇を作り、故人の写真と、好きだった食べ物と、匂いの強い花(センパスチル)を置く。墓地で夜を明かし、そこで食べ、歌う。先スペイン期のメソアメリカの死者の祭祀と、カトリックの諸聖人の日・死者の日が重なってできた。死を隠さず、笑いと結びつける。19世紀末、ポサダが描いた骸骨の風刺画(カラベラ)が、その図像を決定づけた。2008年、ユネスコの無形文化遺産。

場所

メキシコシティ
19.43°N -99.13°E · メキシコ

本文

メキシコでは11月の初め、死者が家に帰ってくる。11月1日は諸聖人の日で、幼くして亡くなった子どもたち、アンヘリートス(小さな天使)を迎える日とされる。11月2日が死者の日で、大人の死者を迎える。地域によっては10月31日の夜から始まり、数日にわたって続く。

死者が帰ってくるのだから、迎える支度をする。家の中に段を組んで祭壇(オフレンダ)を作る。7段とする説明もあるが、2段や3段の家も多く、形は地域と家によってさまざまだ。中心には故人の写真を置き、オレンジ色のセンパスチル(マリーゴールドの一種)を飾る。名はナワトル語で「二十の花」を意味する言葉から来ている。強い匂いと鮮やかな色で死者が道に迷わないようにするとされ、玄関から祭壇まで花びらを撒いて道を作る家もある。

死者の日を描いた絵画
死者の日を描いた絵画Wikimedia Commons William-Adolphe Bouguereau · Public domain

祭壇には、道を照らすろうそく、長旅で渇いた死者のための水、清めの塩、コパルという樹脂の香を置く。故人が好きだった食べ物と飲み物も供える。酒やたばこ、料理、子どもの死者には玩具や甘い菓子だ。丸いパンの上に骨をかたどった生地を十字に載せて焼いた「死者のパン」、額に名前を書いた砂糖の頭蓋骨も並ぶ。砂糖の頭蓋骨は生きている友人の名を書いて贈り合うこともあり、いつか誰もが死ぬという冗談めいた贈り物になる。穴を細かく切り抜いた色紙の飾りが風に揺れると、死者が来たしるしだと言われる。

家の祭壇だけでは終わらない。人々は墓地へ出かけ、墓を掃除し、花で埋め、ろうそくを立てる。そしてそのまま墓のそばで夜を明かす。食べ、飲み、楽団が演奏し、故人の思い出を語って笑う。ミチョアカン州パツクアロ湖のハニツィオ島や、オアハカの村々は、この習慣を色濃く残していることで知られる。

Balle-à-leunettes 11
Wikimedia Commons Man vyi · Public domain

この祭りには二つの流れが重なっている。一つは先スペイン期のメソアメリカの死者の祭祀である。アステカの暦には「小さな死者の祭り」と「大きな死者の祭り」と呼ばれる月があり、いまの暦で夏の終わり、8月頃にあたるとされる。死者が行く国はミクトランと呼ばれ、九つの層を越えて4年かけてたどり着くと考えられていた。死者の国を治める女神ミクテカシワトルもいた。神殿には頭蓋骨を並べた棚(ツォンパントリ)が置かれ、2015年からはテノチティトランの遺跡でその実物の発掘が進んでいる。

もう一つはカトリックの暦である。11月1日の諸聖人の日と2日の死者の日はヨーロッパでも墓を訪ね、灯をともす日で、スペインやイタリア、ポーランドなどにいまもその習慣がある。1521年のテノチティトランの陥落のあと、宣教師たちは土地の祭祀をやめさせようとしたが、根こそぎにはできなかった。征服者がよく使ったのは、土地の祭りをキリスト教の祭日に重ねるやり方で、抵抗がいちばん少ない。こうして夏の祭りの要素が11月の祝日に移り、中身が混ざっていったと説明されることが多い。

テノチティトランの陥落に関わる図版:Conquista-de-México-por-Cortés-Tenochtitlan-Painting
テノチティトランの陥落Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ただし、「アステカの祭りがそのまま生き残った」という説明は単純すぎる、と考える研究者も多い。いまの死者の日の姿、とくに祭壇の様式や砂糖の頭蓋骨は、19世紀から20世紀にかけてかなりの部分が形づくられた。さらにメキシコ革命のあと、1920年代以降の文化政策の中で、死者の日は「メキシコらしさ」の象徴として意識して育てられた面がある。どこまでが古い連続で、どこからが近代の創出なのかは、いまも議論が続いている。

カラベラという言葉には、絵の骸骨のほかに、もう一つの意味がある。死者の日の頃に新聞や雑誌に載る短い戯れ詩で、まだ生きている政治家や有名人、ときには身近な知人を死んだことにして、その人柄や失敗を韻を踏んでからかう。権力者も死ねばただの骨だ、という笑いが、祭りの中に古くから組み込まれていた。

ヤクブ・シカネデル画『万霊節』、1888年
ヤクブ・シカネデル画『万霊節』、1888年Wikimedia Commons Jakub Schikaneder · Public domain

今日の死者の日の顔とも言える、華やかに着飾った女性の骸骨にも、作り手がいる。版画家ホセ・グアダルーペ・ポサダ(1852〜1913)は、安い新聞や一枚刷りの瓦版のために、数千の版画を彫った。好んだ題材が骸骨(カラベラ)で、骸骨たちは踊り、酒を飲み、自転車に乗り、革命で戦い、上流階級の服を着て気取った。1910年頃の作とされる「ラ・カラベラ・ガルバンセラ」は、羽根飾りの付いたヨーロッパ風の豪奢な帽子をかぶった女性の骸骨である。ガルバンセラはひよこ豆売りのことで、先住民の血を引きながらそれを隠し、ヨーロッパ人のように振る舞おうとする人々への皮肉と読まれている。

この骸骨に全身と衣装を与えたのが、画家ディエゴ・リベラだ。1947年の壁画『アラメダ公園の日曜の午後の夢』で彼女を画面の中央に立たせ、「カトリーナ」と呼んだ。壁画の中では、少年時代のリベラ自身が彼女の片手に引かれ、もう一方の手をポサダが取っている。その背後には、リベラの妻フリーダ・カーロも描かれている。死者の日の象徴として世界で知られるあの姿は、生まれてからまだ100年ほどしか経っていない。

万聖節(オールハロウタイド)の時期、スウェーデン・レーケ教会外の墓地
万聖節(オールハロウタイド)の時期、スウェーデン・レーケ教会外の墓地Wikimedia Commons This image was produced by me, David Castor ( user:dcastor ). The pictures I submit to the Wikipedia Project are release · Public domain

1950年、詩人オクタビオ・パスは評論『孤独の迷宮』で、ニューヨークやパリの住人が死という言葉を避けるのに対し、メキシコ人は死と戯れ、死を祝う、と書いた。この一節は繰り返し引かれてきたが、パス自身はこの対比を手放しの礼賛としてではなく、死への無関心や生の軽さへの批判を含めて書いている。2008年、死者の祭りはユネスコの無形文化遺産の一覧に載った。

近年の姿には、映画も関わっている。2015年の映画『007 スペクター』の冒頭で、メキシコシティの大通りを骸骨の仮装と巨大な人形が埋める死者の日のパレードが描かれた。だが、このパレードは実在しなかった。映画のために作られた場面である。翌2016年、メキシコシティは実際に同じようなパレードを始め、いまでは大勢の見物客を集める観光の目玉になっている。映画の中の架空の行事が、現実の行事になったのである。

シドニー教区の万霊教会(全聖徒教会)
シドニー教区の万霊教会(全聖徒教会)Wikimedia Commons J Bar · CC BY 3.0

2017年にはピクサーの映画『リメンバー・ミー』がこの祭りを題材にし、世界中で大当たりした。制作の途中の2013年、ディズニーが祭りの名を商標として出願し、強い反発を受けて取り下げたという経緯もある。映画の筋の芯にあるのは、死者は生きている者に忘れられたとき本当に消えてしまう、という考えだった。

この祭りの根にある考え方は単純である。名を呼び、写真を置き、好きだったものを供え、墓のそばでその人の話をする。祭壇の写真は、故人がそこにいるという証拠ではない。まだ覚えている、という家族の宣言である。古い祭祀と教会の暦、版画家の風刺と国家の政策、そして映画と観光が重なりながら、その一点だけは変わらずに受け継がれてきた。

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