松尾芭蕉
概要
俳諧を文学に高めた。『おくのほそ道』は旅の記録であり、思索の記録でもある。
所属
日本関わったできごと(2)
『おくのほそ道』の旅AD1689年 · 旅をした元禄文化AD1700年頃 · 俳諧本文
1644年、伊賀上野(いまの三重県伊賀市)に生まれた。家は、苗字と帯刀を許された農民の家柄(無足人)だったとされる。10代で、伊賀を治める藤堂家の一族、藤堂良忠に仕えた。良忠は蟬吟の号を持つ俳諧好きで、芭蕉(当時の名は宗房)はその相手をしながら俳諧を覚えた。1666年、主君が25歳の若さで死ぬ。仕える先を失った芭蕉は、やがて俳諧の道で身を立てることを選ぶ。

1672年、29歳で江戸に出た。俳諧の宗匠として弟子を取るかたわら、数年のあいだ神田上水の工事に関わる仕事もしていたとされる。当時の俳諧は、五七五と七七を大勢で付け合っていく連句が中心で、古典の言葉をもじったり、思いがけない取り合わせで笑わせたりする言葉遊びの色が濃かった。芭蕉もはじめはその流行の中で名を上げた。
1680年、37歳のとき、江戸の中心から隅田川を渡った深川の小さな庵に移った。弟子が植えた芭蕉の株が茂り、それが号になる。華やかな宗匠の暮らしを捨てた理由ははっきりしないが、このころから、中国の詩人の杜甫や荘子の思想に深く傾き、句の調子が変わっていく。1682年の大火で庵が焼けたことも、身の回りの無常を思わせる出来事だったと考えられている。

「古池や蛙飛びこむ水の音」は1686年の句である。春の季語である蛙は、それまで鳴き声を詠むのが決まりだった。芭蕉は鳴き声ではなく、水に飛び込む音を詠んだ。音が一つ立ち、それによって、あたりの静けさが際立つ。笑いと機知の遊びだった俳諧が、ここで、心のありようを写す文学になったとされる。
40代の芭蕉は、旅を重ねた。故郷へ向かう『野ざらし紀行』、吉野や須磨をめぐる『笈の小文』の旅。そして1689年、46歳の春、弟子の曾良を連れて深川を発ち、東北から北陸を回って美濃の大垣に至る、約150日、2400キロの旅に出た(『おくのほそ道』の旅)。平泉では「夏草や兵どもが夢の跡」、立石寺では「閑さや岩にしみ入る蟬の声」と詠んでいる。

ただし、『おくのほそ道』は旅をそのまま写した記録ではない。昭和に入って世に出た曾良の旅日記と比べると、日付や行程、出来事が書き換えられている。雨の日を晴れにし、立ち寄った場所を省き、ある場面の順番を入れ替えている。芭蕉は旅から帰って数年をかけて推敲を重ね、旅を一つの作品として組み立て直した。紀行文であり、同時に創作でもある。
旅の途中から、弟子たちに「不易流行」を説いたと伝えられる。いつまでも変わらないものと、新しく変わり続けるもの。そのどちらも、誠を求める同じ心から出てくる、という考えだ。1691年には、弟子の去来と凡兆が編んだ句集『猿蓑』が出た。芭蕉の一門の句風が最も充実した姿を示すもので、「俳諧の古今集」とも呼ばれる。晩年には、重々しさを捨てて日常の言葉で軽やかに詠む「かるみ」を説いた。弟子の去来や土芳が書き残した聞き書きを通して、こうした言葉は後世に伝わった。
芭蕉が生きた時代は、元禄文化が花開いた時代でもあった。同じ頃、大坂では井原西鶴が町人の暮らしを小説に書き、近松門左衛門が浄瑠璃を書いていた。町人が文化の担い手になっていく中で、芭蕉の俳諧は全国の商人や武士のあいだに弟子を広げた。

1694年、故郷から大坂へ向かい、そこで病に倒れた。死の4日前、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」と詠んだ。これが最後の句とされる。旧暦10月12日、数えで51歳で死去。遺言により、近江の義仲寺、木曽義仲の墓の隣に葬られた。
芭蕉の死後、俳諧の発句は、のちに「俳句」と呼ばれる独立した詩になっていく。いま、世界で最も短い詩の一つとして各国の言葉で詠まれている。その元に、旅の途上で死んだ一人の俳諧師がいる。