人物

ロバート・モーグ

Robert Moog
AD1934年5月23日 – AD2005年8月21日(享年71)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

ニューヨークの生まれ。十代でテルミンの組み立て品を売り、その稼ぎで学業を続けた。コーネル大学で工学物理の博士号。1964年、電圧制御の発振器を発表し、音を部品の組み合わせとして作る楽器を実用にした。特許で囲わなかったため規格が広まり、同時に会社は経営に苦しんだ。楽器は演奏者のためのものだという立場を最後まで崩さなかった。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

モーグ・シンセサイザーAD1964年 · 作った

本文

ロバート・アーサー・モーグは1934年5月23日、ニューヨーク市のクイーンズ地区フラッシングに生まれた。日本では「ムーグ」と書かれることも多いが、本人は、英語の「流行(ヴォーグ)」と韻を踏む読み方だと繰り返し正していた。オランダ系の家の名である。

自らが開発したシンセサイザーを前に
自らが開発したシンセサイザーを前にWikimedia Commons Moog Music / Norlin · Public domain

父は電力会社の技師で、日曜日になると息子を電子部品の店に連れて行った。母はピアノの教師で、息子にピアノを習わせた。少年はピアノの練習を好まなかったが、この素養はのちに楽器を作る人として大いに役立った。

14歳のとき、電子工作の雑誌に載っていたテルミンの作り方の記事を見て、父と一緒に組み立てた。テルミンは、二本のアンテナのあいだで手を動かすだけで、触れずに音の高さと大きさを変える、ロシア生まれの電子楽器である。少年はこれに取り憑かれた。19歳のころには自分で設計した回路を雑誌に発表し、自宅でテルミンの組み立て部品の通信販売を始めた。この商売の売り上げが、大学院までの学費になった。クイーンズ・カレッジで物理学を、コロンビア大学で電気工学を学び、コーネル大学で工学物理学の博士号を取った。博士論文を書く一方で、彼はすでに新しい楽器づくりに没頭していた。

モーグ・シンセサイザー
モーグ・シンセサイザーWikimedia Commons . The original uploader was Kimi95 at Italian Wikipedia . · CC BY 3.0

1963年の終わりごろ、彼は作曲家ハーバート・ドイチュと出会った。電子の音で音楽を作りたいというドイチュの話に、モーグは、こういうものなら作れるかもしれないと応じた。翌年、ドイチュがモーグの工房に滞在し、二人で試作機を組んだ。音の高さを決める発振器が二つと、音の大きさを変える回路があるだけの装置だったが、二人は鳴らした音に夢中になったという。1964年秋、モーグはオーディオ技術の学会でこの装置を発表し、作曲家や大学から注文が舞い込んだ(モーグ・シンセサイザー)。

核心は「電圧で制御する」という考えだった。音を出す発振器、音色を削るフィルター、音の立ち上がりや消え方を形づくる回路を、それぞれ独立した部品にし、電圧をかけて動かす。ある部品の出す電圧を、別の部品の制御に使える。部品のあいだを線でつなぎ替えれば、組み合わせ次第で無数の音が作れる。電圧が1ボルト上がると音の高さが1オクターヴ上がる、という取り決めもその一つだった。モーグはこの取り決めを特許で囲い込まなかった。そのため他の会社も同じ取り決めを使い、違う会社の機械どうしを線でつなげるようになった。この方式は、いまも部品を組み合わせるシンセサイザーの世界の標準として生きている。一方で、彼の会社の儲けは薄かった。

特許を取ったものもある。トランジスタを梯子のように積み重ねたフィルターで、太く丸みのある独特の音を生んだ。特許が切れたあと、多くの会社がこの回路をまねた。

転機は1968年に来た。作曲家ウェンディ・カーロスが、モーグのシンセサイザーでヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品を弾いたアルバム『スイッチト・オン・バッハ』を出し、クラシックのレコードとしては異例の大ヒットになったのである。シンセサイザーは、売れる楽器になった。1970年には、線のつなぎ替えなしで演奏でき、舞台に持ち運べる小型の「ミニモーグ」を出した。ロックやジャズの奏者たちがこぞって使い、1万台以上が作られた。

だがモーグは経営者ではなかった。自分は発明家であって事業家ではない、と彼は繰り返し語っている。1971年、資金繰りのために会社の支配権を投資家に渡し、会社はやがてニューヨーク州のバッファローへ移された。1977年、彼は会社を去り、自分の姓を楽器の商標として使うことさえできなくなった。翌年からノースカロライナ州の山あいの町アッシュヴィルに移り、別の名前で小さな会社を営みながら、電子楽器の会社の顧問なども務めた。

時代は彼を追い越していった。1983年、日本のヤマハがデジタルのシンセサイザーを出した。安く、多くの音を同時に鳴らせ、音の高さが狂わない。古いアナログの機械は中古の市場で値崩れした。ところが1990年代になると、アナログの太い音がふたたび求められるようになった。ヒップホップ(ヒップホップの誕生)やテクノ、ハウスの作り手たちが古い機械を探し回り、ミニモーグの中古の値段ははね上がった。2002年、モーグは長い争いの末に自分の名前の商標を取り戻し、新しいミニモーグを世に出した。

2005年4月、脳の腫瘍が見つかった。それから4か月後の8月21日、アッシュヴィルで死んだ。71歳だった。

シンセサイザーは本物の楽器ではない、という批判に、彼は生涯さらされた。それに対して彼は、自分は音楽を作っているのではなく、音楽家のための道具を作っているのだ、奏者がそれで自分を表現できるなら、それは楽器なのだ、という趣旨の答えを返し続けた。電子の音が、ポップスからテレビや映画の音楽まで、いまや耳にしない日はない。その源の一つに、テルミンの部品を地下室で売っていた少年がいる。

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