イスラム世界

概要
一世紀でイベリアからインダスまで。学問を受け継ぎ、育て、そして西へ返した。
この物語について
百年で、イベリアからインダスまで届いた。速すぎる拡大は、軍の強さだけでは説明がつかない。
7世紀のはじめ、アラビア半島は大国のはざまにあった。北では東ローマ帝国とササン朝ペルシアが、602年から四半世紀にわたる戦争で互いに消耗していた。半島の西側の町メッカは、隊商の交易と、多くの部族の神々を祀るカアバ神殿の巡礼で栄えていた。この町の商人の家に生まれたムハンマドは、40歳ごろ、山の洞窟で神の啓示を受けたと語り始める。神は唯一であり、神の前では人はみな平等で、富める者は貧しい者を助けよ。その教えは、部族の神々と巡礼で潤う町の有力者たちと衝突した。

622年、迫害を受けたムハンマドと信徒たちは、北のヤスリブ、のちのメディナへ移った。ヒジュラ(聖遷)と呼ばれるこの移住の年が、イスラームの暦の元年になる。メディナでムハンマドは、信仰の指導者であると同時に、共同体の争いを裁き、戦を指揮する政治の指導者になった。宗教と共同体と政治が初めから一体だったことは、この教えの大きな特徴である。630年、ムハンマドはメッカを無血で開き、カアバの偶像を壊した。632年に彼が死ぬころには、アラビア半島の大半の部族が従っていた。
ムハンマドの後継者はカリフと呼ばれた。イスラムの大征服は、このカリフたちのもとで驚くべき速さで進む。636年ごろ、アラブの軍はヤルムークの戦いで東ローマ軍を破ってシリアを取り、ほぼ同じころイラクでもペルシア軍を破った。エルサレムは638年ごろに、エジプトは640年代に開かれ、651年にはササン朝が滅びた。長い戦争で疲れ切った二つの大国は、砂漠から来た軽装の軍を止められなかった。

速さの理由は、軍事だけではない。征服された土地のキリスト教徒やユダヤ教徒は、税を納めれば信仰を守ることを許された。東ローマの教会から異端とされて迫害されていたシリアやエジプトのキリスト教徒にとって、新しい支配者はむしろ寛容に見えた面もある。征服者たちは、すぐに改宗を迫ったわけではなかった。住民の多数がイスラームに改宗するまでには、地域によって数百年かかったとされる。古い役所と書記をそのまま使い、税の取り方も大きくは変えなかった。支配者が替わっても暮らしがさほど変わらないなら、命を懸けて抵抗する理由は少ない。
ただ、共同体の内側では、誰が後を継ぐかで深い亀裂が生まれた。4代目のカリフでムハンマドの従弟のアリーが殺され、661年、シリア総督のムアーウィヤがダマスクスにウマイヤ朝を開いた。アリーとその子孫こそ正しい指導者だとする人びとがシーア派となり、多数派のスンナ派と分かれる。680年、アリーの子フサインがカルバラーで殺された日は、いまもシーア派の人びとが悼む日である。

ウマイヤ朝のもとで征服はさらに広がった。711年、北アフリカから海峡を渡った軍がイベリア半島の西ゴート王国を倒し、同じころ東ではインダス川の流域のシンドが征服された。ムハンマドの死から、80年ほどしかたっていない。732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルがトゥールとポワティエの間でイスラームの軍を破った。ヨーロッパではキリスト教世界を救った戦いとして語られてきたが、遠征の規模は大きくなかったとする見方もある。
750年、ウマイヤ朝はアッバース家に倒された。アッバース朝は、アラブ人だけを優遇するのをやめ、改宗したペルシア人などを広く登用した。751年、中央アジアのタラス河畔で唐の軍を破ったとき、捕虜になった紙漉きの職人から製紙の技術が伝わったという話は有名だが、実際にはそれより前から中央アジアで紙が作られていたとする研究もある。762年、ティグリス川のほとりに新しい都バグダードが築かれた。
8世紀の末、カリフハールーン・アッラシードの治世に、バグダードは人口数十万から百万ともいわれる大都市になった。『千夜一夜物語』にも登場するこの時代の後、カリフのマアムーンのもとでバグダードの知恵の館が学問の中心になる。ギリシアのアリストテレスやエウクレイデス、ガレノスの書物、インドの天文学と数学の書が、アラビア語に訳された。学者フワーリズミーは、インドで生まれたゼロを含む十の数字による計算法を紹介し、方程式を解く方法を一冊にまとめた。その書名の一語から「代数(アルジェブラ)」が、彼の名から「アルゴリズム」という言葉が生まれている。

受け継いだだけではない。医学者イブン・シーナーの『医学典範』は、ヨーロッパの大学で数百年にわたって教科書として使われた。光学、天文学、化学でも、観測と実験による研究が進んだ。11世紀の末、イベリア半島のトレドがキリスト教徒の手に落ちると、そこでアラビア語の書物が次々にラテン語に訳された。アリストテレスの多くの著作も、まずアラビア語を経てヨーロッパに戻った。いま世界が「アラビア数字」と呼ぶ数字は、この経路の名残である。
一方で、アッバース朝の政治的なまとまりは早くから崩れていった。各地の総督や軍人が自立し、エジプトにはシーア派のファーティマ朝が別のカリフを立てた。11世紀には中央アジアから来たトルコ系のセルジューク朝がバグダードに入り、カリフから「スルタン」の称号を受けて実権を握った。そのセルジューク朝が東ローマを圧迫すると、東ローマは西ヨーロッパに助けを求め、1095年、教皇ウルバヌス2世が十字軍を呼びかけた。1099年、十字軍はエルサレムを奪い、住民を虐殺した。これを1187年に取り戻したのが、エジプトとシリアをまとめたサラディンである。サラディンは、エルサレムの住民に身代金での退去を認め、敵からも騎士道の鑑と称えられた。
だが、最大の打撃は東から来た。1258年、チンギス・カンの孫フレグの率いるモンゴル軍がバグダードを落とし、カリフを殺した。バグダードの陥落で、五百年続いたアッバース朝は終わり、知恵の館の書物はティグリス川に投げ込まれて川が墨で黒く染まったと伝えられる。それでもイスラームは消えなかった。西アジアを治めたモンゴルの君主たちは、やがて自らイスラームに改宗した。

この頃、イスラームは商人と神秘主義者の手で、征服とは別の道を通って広がっていた。サハラを越える交易は西アフリカの王たちを改宗させ、1324年、マリ王国のマンサ・ムーサはメッカへの巡礼の途中にカイロで大量の金を使い、金の値を下げたと伝えられる。インド洋の交易路では、商人の港町が次々にイスラームを受け入れ、15世紀にはマラッカの王も改宗した。今日、イスラーム教徒がもっとも多い国は、アラブの国ではなく、東南アジアのインドネシアである。
14世紀の北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥーンは、王朝は砂漠の民の強い結束から生まれ、都の贅沢の中で結束を失い、三、四代で滅びると論じた。彼の『歴史序説』は、王朝の興亡を社会の仕組みから説明しようとした最初の試みの一つとされる。

15世紀から16世紀にかけて、三つの大きな帝国が並び立った。1453年にコンスタンティノープルを落としたオスマン帝国は、スレイマン1世のもとでハンガリーを取り、1529年にはウィーンを包囲した。イランでは1501年に興ったサファヴィー朝がシーア派を国の宗教とし、アッバース1世の都イスファハーンは「世界の半分」と讃えられた。インドでは1526年にバーブルがムガル帝国を開き、孫のアクバルはヒンドゥー教徒にかけていた税を廃して宗教の融和を図った。ムガルの皇帝が亡き妃のために建てたタージ・マハルは、この時代の豊かさを今に伝える。三つの帝国は、数百年にわたってユーラシアの中央を占め続けた。
その均衡が崩れたのは、18世紀から19世紀にかけてだった。1683年の二度目のウィーン包囲に失敗したオスマン帝国は、少しずつ領土を失い、ムガル帝国はイギリスの東インド会社に飲み込まれた。1869年に開かれたスエズ運河は、エジプトを世界の交易の要にしたが、その借金がもとでエジプトはイギリスの支配下に入る。かつて学問をヨーロッパに渡した側が、今度はヨーロッパから技術と制度を学ばねばならなくなった。

イスラームの世界は、ギリシアとインドの知を受け継ぎ、育て、西へ返した。私たちが数字を書き、アルゴリズムという言葉を使い、アルコールや砂糖のように、アラビア語を経てヨーロッパの言葉に入った語を口にするとき、その長い橋渡しの跡に触れている。世界の人口の4人に1人ほどがイスラーム教徒である今、この世界を理解することは、遠い他者を知ることではなく、私たちの暮らす世界の大きな部分を知ることにほかならない。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(214)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- マカバイの反乱できごとBC167年ユダヤの独立王国セレウコス朝の王が神殿にゼウスの祭壇を置き、割礼と安息日を禁じた。祭司マタティアが村で王の役人を殺し、5人の息子が山へ。ユダ・マカバイが3年で神殿を取り戻した。その日を祝う灯がハヌカー。ユダヤの独立王国が80年続く。モディイン
- ソグド商人のネットワークできごと400年この道がイスラームの東への通り道になるサマルカンドを中心に、中国から黒海まで隊商の網を張った人びと。ソグド語が絹の道の共通語になり、仏教もマニ教もこの商人たちに運ばれた。サマルカンド
- ムハンマド人物AD570年頃 – AD632年メッカの商人から預言者となり、信仰と政治が一体の共同体を築いた。その死から一世紀で版図はイベリアからインダスに届く。
- ハーリド・イブン・アル・ワリード人物AD592年頃 – AD642年神の剣ウフドでムハンマドを破った側の将で、のち改宗して「神の剣」と呼ばれた。背教の諸部族を鎮め、イラクからシリアへ砂漠を横断し、ヤルムークで東ローマを破った。一度も負けなかったが、人気を恐れたカリフに解任され、ベッドで死んだことを悔しがった。
- アリー人物AD600年頃 – AD661年シーア派の最初のイマームムハンマドの従弟で娘婿。最初に信じた男の一人で、第四代カリフになった。ムアーウィヤと戦い、仲裁を受け入れたことで一派が離れ、その一派に礼拝中に斬られた。シーア派は彼こそ正しい後継者だとし、ナジャフの墓に詣でる。
- チャトランガとチェスの伝播できごとAD600年頃シャー・マートインドで生まれた「四つの部分」という名の盤上遊戯。歩兵、騎兵、象、戦車、そして王と大臣。四つの兵科がそのまま駒になった。7世紀にペルシアへ渡ってシャトランジになり(王手を意味する「シャー・マート」が、チェックメイトの語源)、アラブ世界を経て、10世紀にヨーロッパへ。15世紀のヨーロッパで、大臣が最強の駒「クイーン」に変わった。同じ時期にイサベル女王がいたことと結びつける説がある。東へは、中国象棋、朝鮮のチャンギ、そして日本の将棋になった。パータリプトラ
- ムアーウィヤ人物AD602年頃 – AD680年剣より鞭、鞭より舌メッカの名門ウマイヤ家の子で、ムハンマドの敵の側から改宗し、書記になり、シリア総督を20年務めた。従兄のカリフ暗殺の報復を掲げてアリーと争い、勝って世襲の王朝を開いた。「私は剣を使わずに済むところでは鞭を使い、鞭を使わずに済むところでは舌を使う」。
- ヒジュラ(聖遷)できごとAD622年共同体の始まりムハンマドがメッカからメディナへ移り、信仰の共同体を築いた。イスラム暦の元年になる。メディナ
- アザーンできごとAD7世紀前半鐘でも角笛でもなく、人の声で時刻を知らせると決めたメディナの信徒が増えると、礼拝の時刻をどう知らせるかが問題になった。キリスト教徒は鐘を鳴らし、ユダヤ教徒は角笛を吹く。ムハンマドはどちらも採らず、人の声で呼ばわることに決めたと伝えられる。最初の呼びかけ手に選ばれたのは、奴隷の身から解かれたエチオピア出身のビラールで、声の良さで選ばれたという。日に五度、決まった文句を、街のいちばん高いところから声を張る。のちにミナレットが建ち、いまは拡声器が使われる。機械は替わったが、届けるのは人の声だという形は残った。メディナ
- ウフドの戦いできごとAD625年3月弓兵が持ち場を離れたバドルの翌年、メッカの3000がメディナに来た。ムハンマドは山の麓に700。弓兵が戦利品を取りに持ち場を離れ、ハーリドの騎兵が回った。ムハンマドは歯を折られ、叔父ハムザは殺されて肝臓を噛まれた。負けた。それでも、メディナは残った。ウフド

- フサイン・イブン・アリー人物AD626年 – AD680年10月10日カルバラーで殺されたアリーと預言者の娘ファーティマの子。ムアーウィヤの子ヤズィードへの忠誠を拒み、クーファに招かれて向かい、カルバラーで殺された。シーア派の三代目イマームで、その死はアーシューラーの日に毎年演じ直される。
- メッカの征服できごとAD630年1月360の偶像ヒジュラから8年。フダイビーヤの休戦をメッカが破り、ムハンマドが1万で来た。メッカは戦わなかった。「行け、お前たちは自由だ」。カアバの360の偶像を倒し、黒石だけ残した。アブー・スフヤーンが改宗した。2年後、ムハンマドは死んだ。メッカ

- カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)国AD632年(ムハンマドの死) – (続く)ムハンマドの死から一世紀で、イベリアからインダスまで届いた。政体は正統カリフ・ウマイヤ朝・アッバース朝と替わるが、版図としてはひと続きに描いている。
- イスラムの大征服できごと634年一世紀でイベリアからインダスまで一世紀のうちにイベリアからインダスまで広がった。ササン朝は消え、ビザンツは半分を失う。

- ヤルムークの戦いできごとAD636年8月東ローマがシリアを失うヘラクレイオスの大軍が、砂嵐の日に、ハーリドの率いるアラブ軍に六日かけて崩された。皇帝は「シリアよさらば、敵にとって何とよい国か」と言って去った。ローマは700年治めたシリアを、二度と取り戻さない。ヤルムーク川(位置は特定されていない)

- カーディシーヤの戦いできごとAD636年11月ササン朝の主力が破れたヤルムークと同じ年、ユーフラテスの西でササン朝の主力が破れた。象の軍と将軍ロスタムが倒れ、翌年クテシフォンが落ちる。ペルシアの帝国は、以後400年、アラブの下に置かれる。カーディシーヤ(位置は特定されていない)

- ニハーヴァンドの戦いできごとAD642年勝利の中の勝利ザグロス山脈を越えたところで、ササン朝の最後の軍が破れた。アラブは「勝利の中の勝利」と呼んだ。王ヤズデギルド3世は東へ逃げ、9年後にメルヴの粉屋に殺される。ササン朝は終わった。ニハーヴァンド

- アブドゥルマリク人物AD646年 – AD705年文字だけの金貨第二次内乱の中で685年に即位し、イブン・アッズバイルを倒して帝国を一つにした。アラビア語を行政の言葉に。ギリシア語とペルシア語をやめた。文字だけの金貨ディナール。岩のドーム。ハッジャージュ。「私は、傷から膿を出す」。息子が4人カリフに。
- スィッフィーンの戦いできごとAD657年7月槍の先にクルアーンアリーとムアーウィヤ。ウスマーンの血の報い。ユーフラテスの岸で3か月睨んで、3日戦った。負けそうなムアーウィヤの兵が槍の先にクルアーンを掲げた。「神の裁きを」。アリーは仲裁を受け、それを裏切りとした兵が出て行った。ハワーリジュ。4年後、彼らがアリーを殺した。スィッフィーン

- ウマイヤ朝の成立できごとAD661年選ばれるカリフから世襲へ第四代カリフのアリーが暗殺され、シリア総督ムアーウィヤがダマスクスでカリフを名乗った。選ばれるカリフから、世襲のカリフへ。アリーの側はこれを認めず、シーア派になる。ダマスクス
- カルバラーの悲劇できごとAD680年10月10日シーア派が毎年悼む日預言者の孫フサインが、72人の一行でクーファへ向かう途中、ウマイヤ朝の軍に囲まれ、水を断たれ、殺された。首はダマスクスに送られた。シーア派はこの日を毎年、胸を打って悼む。カルバラー

- 岩のドームできごとAD691年神は子を持たないアブドゥルマリクが、アブラハムがイサクを捧げ、ムハンマドが天に昇った岩の上に建てた。八角形、金のドーム、240メートルの碑文。「神は子を持たない」。最初のイスラームの建築。ビザンツの職人が作った。メッカがイブン・アッズバイルに取られていた年。エルサレム
- マンスール人物AD714年 – AD775年一銭の父アッバース朝の第二代で、実質の建設者。革命の功臣アブー・ムスリムを殺し、アリー家の反乱を潰し、ティグリスの西岸に円い都を建てた。倹約で、「一銭の父」とあだ名された。
- ラービア・アル=アダウィーヤ人物AD714年頃 – AD801年バスラの神秘家。報酬も罰も求めず、ただ神を愛するという考え方をイスラームの信仰にもたらした。
- 聖像破壊論争できごと726年ダマスコのヨアンネス像を拝むのは偶像崇拝かをめぐって100年争った。西方教会との溝が深まり、1054年の分裂につながる。コンスタンティノープル
- アブド・アッラフマーン1世人物AD731年 – AD788年一族が殺され、5年逃げて国を建てたダマスクスで一族が殺されたとき、20歳で逃げた。5年かけて北アフリカを横切り、イベリアに国を建てる。故郷を偲ぶ棕櫚の詩が残る。
- トゥール・ポワティエ間の戦いできごとAD732年フランク軍がイスラム軍の北上を止めた。西ヨーロッパがイスラム圏に入らなかった分岐点とされる。トゥール(位置は特定されていない)

- アッバース革命できごとAD750年ウマイヤ家を宴で皆殺しホラーサーンで黒旗を掲げた軍がウマイヤ朝を倒した。預言者の叔父の子孫が新しいカリフになり、ウマイヤ家を宴に招いて皆殺しにした。アラブの帝国が、ペルシア人と改宗者を含む帝国に変わる。クーファ

- タラス河畔の戦いできごとAD751年製紙法を東から受け取った唐がアッバース朝に敗れた。捕虜を通じて製紙法が西へ伝わり、やがてヨーロッパに届く。タラス河畔(位置は特定されていない)
- 後ウマイヤ朝国AD756年(アブド・アッラフマーン1世の即位) – AD1031年(カリフ制の廃止)10世紀の西欧で最大の都市を持ったダマスクスで一族が殺されたとき、一人だけ逃げてイベリアに国を建てた。コルドバは10世紀の西欧で最大の都市になり、図書館と学者を集めた。内戦で崩れて小国に割れる。
- バグダードの建設できごとAD762年円い都マンスールがティグリスの岸に円い都を作った。「平安の都」。直径2キロ、三重の壁、4つの門、中央にモスクと宮殿。10万人の職人。占星術師が着工の日を選んだ。50年で世界最大の都市になり、500年後にモンゴルが焼いた。バグダード
- ハールーン・アッラシード人物AD763年頃 – AD809年バグダードが世界最大の都市だった時代の君主。『千夜一夜物語』に登場する。
- フワーリズミー人物AD780年頃 – AD850年頃バグダードの知恵の館で数学と天文を研究した。代数(アルジャブル)はその書名から、アルゴリズムはその名前から来ている。
- ラービアと神への愛できごとAD780年頃イスラームの神秘主義に「愛」が入った報酬も罰も求めず、ただ神を愛するという考え方を説いた。天国を焼き地獄を消したいと言ったと伝わる。イスラームの神秘主義に「愛」が入った。バスラ
- コルドバの大モスクできごとAD785年(着工)200年かけて広げ、その真ん中に大聖堂が建て込まれた西ゴートの教会の跡に建てはじめ、200年かけて広げた。レコンキスタのあと、その真ん中に大聖堂が建て込まれる。コルドバ
- ハールーン・アッラシードの治世できごと786年バグダードが世界最大級の都市になった。カール大帝と使者を交わした記録も残る。バグダード
- マームーン人物AD786年9月14日 – AD833年8月9日知恵の館ハールーンの子。母はペルシアの奴隷。弟アミーンと4年戦い、バグダードを囲んで、弟の首を受け取った。知恵の館。ギリシアの本を全部訳せ。地球の大きさを測らせた。「クルアーンは被造物」。ミフナ。ビザンツとの戦いの途中で、川の冷たい水で死んだ。
- ムウタスィム人物AD796年 – AD842年1月5日8の数字ハールーンの子。母はトルコの奴隷。兄マームーンの下で、トルコ人の奴隷兵を集めた。カリフになって、サーマッラー。バーバクの反乱を鎮め、838年にビザンツのアモリオンを落とした。「8」の数字。8番目のカリフ、8人の息子、8人の娘、8年。
- 蒸留とアランビクできごとAD800年頃アル=アンビーク液体を熱して蒸気にし、冷やして集める。分離の技術である。原型は古代からあったが、アラビアの錬金術師が装置と手順を洗練させた。アル=アンビーク(蒸留器)、アル=クフル(微細な粉、のちにアルコール)、アル=イクスィール(霊薬、エリクサー)。目的は酒ではなく、薬と、香料と、そして物質の本質を取り出すことだった。この装置がヨーロッパへ渡り、修道院で「生命の水」を生み、蒸留酒の系譜が始まる。バグダード
- ハンマームできごとAD8〜9世紀清めの決まりが、町に浴場を置かせたイスラームでは、礼拝の前に身を清めることが定められている。水を使う施設は、信仰の要件でもあった。ローマの浴場の作りを引き継ぎながら、湯に浸かる大きな浴槽は減り、湯を汲んでかける形が中心になる。町には必ず公衆浴場が置かれ、多くはモスクに併設され、その収益がモスクや学院の維持にあてられた。男女は時間か建物で分けられた。女性にとっては、外出して人と会える数少ない場所でもある。体を洗う場所が、そのまま社交と情報の場になっていた。ダマスクス
- フワーリズミーの代数できごとAD820年頃記号はなく全部が言葉で知恵の館の学者が『ジャブルとムカーバラの計算の書』を書いた。「ジャブル」は移項(負の項を反対側へ移す)、「ムカーバラ」は同類項の整理。二次方程式を6つの型に分けて、幾何の図で解を証明した。記号はなく、全部が言葉で書かれている。ラテン語訳の題「アルジェブラ」が代数の名になり、彼の名前のラテン読み「アルゴリトミ」が算法(アルゴリズム)の語源になった。バグダード

- バグダードの知恵の館できごとAD830年頃ギリシアとインドの書物を訳し、育てたギリシアやインドの書物がアラビア語に訳された。この蓄積が後にヨーロッパへ還る。バグダード

- ミフナ(審問)できごとAD833年クルアーンは被造物マームーンが死ぬ4か月前に「クルアーンは被造物である」と法学者に認めさせよと命じた。ムウタジラ派の教義。拒んだイブン・ハンバルは鞭打たれた。15年。ムタワッキルが止めた。カリフが教義を決めることは、それきり二度と受け入れられなかった。バグダード
- サーマッラーへの遷都できごとAD836年見る者が喜ぶムウタスィムはトルコ人の奴隷兵(マムルーク)を数千人買い、バグダードの民と兵が衝突し、新しい都をティグリスの上流に建てた。「見る者が喜ぶ」。50年。9人のカリフのうち4人がトルコ兵に殺された。螺旋のミナレット。街は一直線に40キロ。サーマッラー
- トゥールーン朝の自立できごとAD868年エジプトが離れた最初トルコ人の奴隷兵の息子アフマドがエジプトの総督になり、税をバグダードに送らなくなった。シリアも。フスタートの北に新しい街と、いまも残るモスク。アッバース朝からエジプトが離れた最初。37年で戻され、60年後にファーティマ朝が来た。フスタート

- ザンジュの乱できごとAD869年イスラーム世界最大の奴隷反乱東アフリカから連れてこられた奴隷が、イラク南部の湿地で塩の混じった表土をはがす労働に使われ、15年反乱した。バスラを落とし、独自の都を建てる。イスラーム世界最大の奴隷反乱になる。バスラ
- サーマーン朝の興りできごとAD875年ペルシア語をアラビア文字でバルフの貴族の孫たちがカリフからトランスオクシアナを与えられた。ブハラ。ペルシア語をアラビア文字で書き、宮廷で使った。ルーダキー、フェルドウスィーの『王書』。イブン・シーナーがブハラの図書館で学んだ。トルコの奴隷兵を育て、その奴隷兵に取られた。ブハラ
- アブド・アッラフマーン3世人物AD891年 – AD961年幸福だった日は14日21歳で崩れかけた国を継ぎ、20年で立て直し、929年にカリフを名乗った。バグダードのカリフと対等に。コルドバの郊外に宮殿都市を建て、50年治めた。「幸福だった日を数えたら14日だった」と書き残した。
- アル=マスウーディー人物AD896年頃 – AD956年バグダードに生まれ、インド・東アフリカ・カスピ海まで旅して『黄金の牧場』を書いた。歴史と地理を一冊に束ねた最初の人とされる。
- ファーティマ朝の成立できごとAD909年第二のカリフムハンマドの娘ファーティマの子孫を名乗るイスマーイール派の指導者が、ベルベルのクターマ族を得てアグラブ朝を倒し、チュニジアでカリフを名乗った。アッバースと並ぶ第二のカリフ。60年後にエジプトを取り、カイロを建て、200年、シーア派の帝国だった。ラッカーダ
- ファーティマ朝国AD909年(イフリーキヤでの成立) – AD1171年(サラーフッディーンによる廃止)シーア派のカリフを名乗り、バグダードと並び立ったシーア派のカリフを名乗り、バグダードのカリフと並び立った。カイロを建て、アズハルを開く。地中海とインド洋の交易をつなぐ位置にあった。
- コルドバのカリフ宣言できごとAD929年三人のカリフアブド・アッラフマーン3世が「信徒の長」を名乗った。バグダードとカイロと、三人のカリフが並ぶ。コルドバは人口数十万、図書館に40万巻、街灯があった。ヨーロッパで最大の都市だった。コルドバ
- メディナ・アッザフラーできごとAD936年水銀の池コルドバのカリフを名乗ったアブド・アッラフマーン3世が、街の西の山の斜面に宮殿の都を建てた。三段の段丘、大理石、水銀の池、1万人の役人と兵。40年で建て、75年で焼かれた。1911年に掘り出し、まだ1割。アンダルスの頂点の、廃墟。メディナ・アッザフラー
- フィルドウスィー人物AD940年頃 – AD1020年頃30年かけて『シャー・ナーメ』を書いた。アラビア語に呑まれかけたペルシア語を、この一作が繋ぎ止めたとされる。
- ブワイフ朝のバグダード入城できごとAD945年カリフが印章を押すだけの人にカスピ海の南のダイラム人の兄弟が、シーア派のままバグダードに入り、スンナ派のカリフを傀儡にした。カリフは印章を押すだけの人になる。100年後、セルジュークが同じことをする。バグダード
- カラハン朝のイスラーム受容できごとAD960年頃草原のトルコ系の王朝が、初めて国としてイスラームを受け入れた。以後、中央アジアのトルコ語圏がイスラーム世界に組み込まれていく。カシュガル
- クレタの奪回できごとAD961年3月海賊の島アラブの海賊の島を、ニケフォロス・フォカスが8か月囲んで取り戻した。135年ぶり。エーゲ海がビザンツの海に戻った。ニケフォロスは2年後に皇帝になり、キリキアとアンティオキアも取り、寝室で妻の愛人に殺された。ハンダクス(イラクリオン)

- イブン・アル=ハイサム人物AD965年 – AD1040年頃目から光が出るのではなく、物から出た光が目に入るのだと示した。主張を実験で確かめるという手続きを、方法として書き残している。
- マフムード・ガズナウィー人物AD971年 – AD1030年北インドへ17回遠征し、寺院の富を持ち帰ってガズナを学芸の都にした。インドでは略奪者として、ペルシア語圏では庇護者として記憶されている。
- アル=ビールーニー人物AD973年 – AD1048年相手の言い分をその言葉で読んでから書いた遠征に随行してインドに滞在し、サンスクリットを学んで『インド誌』を書いた。相手の言い分をその言葉で読んでから書くという構えが、当時としては際立っている。
- イブン・スィーナー人物AD980年 – AD1037年『医学典範』は、イスラーム世界でもヨーロッパでも600年にわたって教科書として使われた。哲学者でもあり、宮廷の医師でもあった。
- トゥグリル・ベグ人物AD990年頃 – AD1063年オグズの一部族を率いてイランを取り、バグダードに入ってカリフから「東西の王」の称号を受けた。カリフの娘を妻に求め、認めさせた。
- ダウ船とモンスーンできごとAD1000年頃縫い合わせた船インド洋は、季節で風向きが反転する。夏は南西から、冬は北東から。この規則性を掴めば、帆船は往復できる。紀元1世紀の『エリュトラー海案内記』に既に書かれている。ダウ船は、板を釘でなく椰子の繊維で縫い合わせ、三角の帆(ラティーン・セイル)で風上へも切り上がった。アラビア、ペルシア、インド、東アフリカを結び、季節ごとに港で数か月を過ごした。スワヒリの都市は、その待ち時間の上に建った。キルワ
- 『シャー・ナーメ(王書)』できごとAD1010年6万対句。アラビア語に呑まれかけたペルシア語を、この一作が繋ぎ止めたとされる。トゥース

- ニザームルムルク人物AD1018年 – AD1092年軍と学校の仕組みを作った宰相二代のスルタンに30年仕えた宰相。イクター制で軍を養い、マドラサを各地に建てた。統治論『政治の書』を残し、イスマーイール派の刺客に殺された。
- ソムナート寺院の略奪できごとAD1026年ガズナ朝の17回目の遠征。持ち帰られた富がガズナを学芸の都にした一方、この記憶はインドで千年語り継がれ、いまも政治に使われている。ソムナート
- 『インド誌』できごとAD1030年征服する側に随行した学者が、サンスクリットを学んでインドの学問と信仰を書いた。相手の言い分をその言葉で読んでから書いている。ガズナ

- セルジューク朝国AD1037年(トゥグリル・ベグの自立) – AD1194年(最後のスルタンの戦死)バグダードのカリフを保護下に置いたトルコ系の遊牧民がイランを取り、バグダードのカリフを保護下に置いた。マンジケルトでビザンツを破ってアナトリアを開き、マドラサを各地に建てる。ニザームルムルクが行政を整えた。
- ダンダーナカーンの戦いできごとAD1040年セルジュークがガズナ朝を破り、ホラーサーンを取った。トルコ系の遊牧民がイランを治める時代がここから始まる。メルヴ

- エル・シド人物AD1043年頃 – AD1099年7月10日サイイドロドリゴ・ディアス・デ・ビバール。「サイイド(主人)」とムスリムが呼び、「カンペアドール(戦場の勝者)」とキリスト教徒が。アルフォンソ6世に追われ、サラゴサのムスリムの王に仕え、バレンシアを取った。『わがシドの歌』。「主人が良ければ、なんと良い臣下」。ブルゴス大聖堂に妻と。
- ハサン・サッバーフ人物AD1050年頃 – AD1124年家の外に二度ラッイの十二イマーム派の家。17歳でイスマーイール派に。カイロへ。1090年、アラムートを金で買って、35年出なかった。「家の外に二度出た。屋根に上るために」。息子二人を処刑した。ワインを飲んだ罪と、殺人の罪で。「ダアワ・ジャディーダ」。フィダーイー。オマル・ハイヤームとニザームルムルクの同級生という話は作り話。
- マリク・シャー人物AD1055年 – AD1092年11月19日中国から地中海までアルプ・アルスラーンの子。18歳。ニザームルムルクが治め、彼は狩りをした。ニザーミーヤ、イクター、暦、天文台。最大の版図。「私の国は、中国から地中海まで」。1092年10月、ニザームルムルクがアサシンに刺され、11月、自分も熱で死んだ。37歳。帝国は割れた。
- ガザーリー人物AD1058年 – AD1111年12月19日宗教諸学の再興トゥース。ジュワイニーに学び、33歳でニザーミーヤの教授。『哲学者の矛盾』。1095年、危機。「舌が動かなくなった」。教授を捨て、ダマスクス、エルサレム、メッカ。スーフィー。『宗教諸学の再興』40巻。『誤りから救うもの』。「イスラームで最も影響力のある人」。
- ニザーミーヤ学院の創設できごとAD1065年マドラサという形式がここから広がる宰相が建てた法学の学院。給費で学生を集め、教授を雇う。マドラサという形式が、ここからイスラム世界に広がる。バグダード
- ノルマンのパレルモ征服できごとAD1072年1月10日イスラームのシチリアが終わるノルマンディーの小貴族の息子たちが、南イタリアの傭兵から始めて、イスラームのシチリアを取った。ギスカールと弟ルッジェーロ。5か月の包囲。アラブ人、ギリシア人、ノルマン人が同じ街に住み、その孫がシチリア王になる。パレルモ
- ムラービト朝のガーナ攻撃できごとAD1076年サヘルの国がイスラーム化する流れの始まりサハラの遊牧民の宗教運動が、南のガーナ帝国の都を攻めた。都を落としたかどうかは史料が割れているが、以後ガーナは衰える。クンビ・サレー(位置は特定されていない)
- ルーム・セルジューク朝国AD1077年 – AD1308年ここでトルコ語が話されはじめたマンジケルトのあと、アナトリア内陸に建った。ここでトルコ語が話されはじめ、いまのトルコの元になる。コンヤにルーミーが住み、キャラバンサライが街道に並んだ。
- ジャラーリー暦できごとAD1079年春分を年の始めにマリク・シャーがイスファハーンに天文台を建て、オマル・ハイヤームら8人に暦を作らせた。春分を年の始めに。1年を365.2424日。グレゴリオ暦より正確。ハイヤームは三次方程式を幾何で解き、酒と無常の四行詩を書いた。イランの暦は、いまもこれ。イスファハーン
- トレドの陥落できごとAD1085年キリスト教勢力が学問の都を得た。ここでアラビア語の蔵書がラテン語に訳され、ギリシアの知がヨーロッパへ戻る。トレド
- アラムートのニザール派できごとAD1090年鷲の巣ハサン・サッバーフがエルブルズの岩の城を取った。「鷲の巣」。ファーティマ朝のカリフの後継争いで兄ニザールの側に立ち、独自の教団に。フィダーイーが宰相ニザームルムルクを刺した。「アサシン」。35年、城を出なかった。1256年、モンゴルが落とした。アラムート
- エル・シドのバレンシア占領できごとAD1094年6月ムスリムの王にもキリスト教徒の王にもカスティーリャを追われた傭兵隊長が、ムスリムの王にもキリスト教徒の王にも仕え、20か月囲んでバレンシアを取った。自分の国。ムラービト朝を退けた。5年で死に、妻ヒメナが3年守って、街は失われた。「わが主」。スペインの国民叙事詩は彼の名で。バレンシア
- 十字軍の呼びかけできごとAD1095年教皇が聖地の回復を呼びかけた。以後200年、ヨーロッパと西アジアが繰り返しぶつかる。クレルモン

- ガザーリー『哲学者の矛盾』できごとAD1095年言葉で信じていて心でニザーミーヤ学院の教授が、イブン・シーナーの哲学を20の点で「矛盾」と論じ、3点で「不信仰」と裁いた。世界の永遠、神の個物の認識、肉体の復活。その年、教授を辞めて、10年放浪した。「私は言葉で信じていて、心で信じていなかった」。『宗教諸学の再興』。イスラームの神学は、それから哲学より神秘を選んだ。バグダード
- ウサーマ・イブン・ムンキズ人物AD1095年7月4日 – AD1188年フランク人を内側から見て書いた十字軍と戦い、十字軍と友人にもなったシリアの武人。90歳を過ぎて書いた回想録が、フランク人を内側から見た数少ない記録になっている。
- マアッラの虐殺できごとAD1098年12月アラブ側の記憶に残った事件降伏した町で数千人が殺された。飢えた十字軍兵が死体を食べたことを、当時のフランク人自身の年代記が記している。アラブ側の記憶に最も深く残った事件になる。マアッラト・アン=ヌウマーン
- 第1回十字軍のエルサレム占領できごとAD1099年7月15日住民が大量に殺された。この記憶が、以後900年にわたって双方の側で引かれることになる。エルサレム

- エルサレム王国国AD1099年(エルサレム占領) – AD1291年(アッコン陥落)サラディンとバイバルスが削っていった相手第一回十字軍が建てた。ヨーロッパの封建制をそのまま持ち込み、200年海の向こうにあった。ヒッティーンのあとは沿岸の帯だけになり、アッコンの陥落で消える。
- アル=イドリースィー人物AD1100年 – AD1165年頃ムスリムの地理学者が、キリスト教徒の王に仕えて世界地図を作った。パレルモは当時、アラビア語・ギリシア語・ラテン語が並んで使われる場所だった。
- イブン・ルシュド人物AD1126年 – AD1198年12月10日コルドバの法官にして医師、そしてアリストテレスの注釈者。ラテン世界では「注釈者」とだけ呼ばれた。
- ルッジェーロ2世のシチリア王国できごとAD1130年12月25日イドリーシーの地図ノルマンの傭兵の孫が、対立教皇から王冠を得て、パレルモでシチリア王になった。ギリシア人、アラブ人、ノルマン人、ユダヤ人の役人。アラビア語とギリシア語とラテン語の文書。イドリーシーに世界地図を作らせた。ヨーロッパで最も豊かで最も混ざった王国。パレルモ

- サラディン人物AD1137年頃 – AD1193年エルサレムを十字軍から奪い返した。敵からも寛大さを讃えられ、騎士道の理想像として語られる。
- マイモニデス人物AD1138年 – AD1204年サラディンの宮廷医コルドバに生まれ、ムワッヒド朝の迫害でモロッコ、パレスティナ、カイロへ移った。サラディンの宮廷医で、ユダヤ教の法典を整え、アリストテレスと聖書を合わせた。「モーセからモーセまで、モーセに並ぶ者なし」と言われる。
- カトワーンの戦いできごとAD1141年9月サンジャルの敗北遼の王族耶律大石が西へ逃げて建てた西遼(カラ・キタイ)が、サマルカンドの北でセルジューク朝のサンジャルを破った。イスラームの軍が東の異教徒に負けた。ヨーロッパに「東方のキリスト教の王が来る」と伝わり、プレスター・ジョンの伝説になった。カトワーン
- エデッサ伯領の陥落できごとAD1144年12月24日十字軍が最初に建てた国が、ザンギーに奪われた。イスラーム側にとっては反撃の始まりで、ヨーロッパ側にとっては第2回十字軍を呼ぶ知らせになる。エデッサ
- イブン・ジュバイル人物AD1145年 – AD1217年メッカ巡礼の道中を日ごとに書き留めた。十字軍の只中で、敵対する土地の農民が平穏に暮らしている様子まで、見たまま書いている。
- ムハンマド・ゴーリー人物AD1149年 – AD1206年奴隷たちが王国を継いだアフガニスタンの山の国から北インドに出て、一度負け、翌年勝ち、デリーを取った。子がなく、奴隷出身の将軍アイバクに任せた。暗殺されたあと、その奴隷がデリーのスルタンになる。
- 『ロジェールの書』と世界地図できごとAD1154年ムスリムの地理学者がキリスト教徒の王のために作った。以後300年、ヨーロッパでこれを超える世界地図は現れない。パレルモ

- アイユーブ朝国AD1171年 – AD1250年(マムルークによる交代)サラーフッディーンの国サラーフッディーン(サラディン)が建てた。エジプトとシリアを一つにし、1187年にエルサレムを取り戻す。十字軍の側からも敵として敬われた、数少ない人物になる。
- ヤークート・アル=ハマウィー人物AD1179年頃 – AD1229年ギリシア人の奴隷として買われ、解放されて書物の商いをした。モンゴルの襲来から逃れながら、地名を引ける『諸国地誌』を編み上げる。
- イブン・ルシュドのアリストテレス注釈できごとAD1180年頃ラテン世界では「注釈者」とだけ呼ばれたギリシア語を読めないまま、アラビア語訳から本文と注釈を精密に書き分けた。哲学と啓示は矛盾しないと論じ、ラテン世界では「注釈者」とだけ呼ばれる。コルドバ
- イブン・ジュバイルの巡礼記できごとAD1183年十字軍の只中を通った巡礼の記録。敵味方に分かれた土地で、商人も農民も普通に行き来していたことが書かれている。メッカ
- サラディンのエルサレム奪還できごとAD1187年88年ぶりに奪い返した。虐殺を行わなかったことが、敵側の記録にも残る。エルサレム
- ヒッティーンの戦いできごとAD1187年7月4日水の無い丘に十字軍の主力を誘い込み、一日で壊滅させた。3か月後、エルサレムが開城する。ヒッティーン

- 第三回十字軍のアッコン攻囲できごとAD1191年7月12日エルサレムは戻らなかったエルサレムを失って四年、イングランドとフランスの王が海から来て、二年囲まれていたアッコンを落とした。獅子心王は捕虜2700人を殺し、サラディンと戦って勝ち、エルサレムには入らずに帰った。アッコン
- タラーインの戦いできごとAD1192年北インドに600年のイスラーム王朝ゴール朝のムハンマドが、前年に負けた相手のラージプート王を、同じ場所で破った。デリーの門が開き、北インドに以後600年、イスラームの王朝が続く。タラーイン(タラオリ)(位置は特定されていない)

- デリー・スルタン朝の成立できごとAD1206年北インドにイスラム政権が定着した。ヒンドゥーとイスラムが混ざり合う長い時代が始まる。デリー
- デリー・スルタン朝国AD1206年(クトゥブッディーン・アイバクの即位) – AD1526年(第一次パーニーパットの戦い)ペルシア語の宮廷文化がインドに根づいた五つの王朝が入れ替わりながら320年続いた。奴隷出身の王が多く、一人だけ女性のスルタンがいる。ペルシア語の宮廷文化がインドに根づき、ウルドゥー語の元になった。
- ルーミー人物AD1207年9月30日 – AD1273年12月17日ペルシア語の神秘詩人。800年後のいまも、英語圏で最も読まれる詩人の一人になっている。
- ラス・ナバス・デ・トロサの戦いできごとAD1212年7月16日イベリアのイスラム勢力が決定的に後退した。ここからレコンキスタの完了まで280年かかる。ラス・ナバス・デ・トロサ

- バイバルス人物AD1223年頃 – AD1277年奴隷として売られ、モンゴルを破り、スルタンになったキプチャクの草原で捕らえられ、奴隷として売られた。アイン・ジャールートでモンゴルを破り、主君を殺してスルタンになる。17年で十字軍の拠点を次々に落とした。
- 『諸国地名辞典』できごとAD1228年書き留めた直後に、その町が失われたギリシア人の奴隷から解放され、商人として各地を歩いた人が、地名を辞書にまとめた。モンゴルの侵攻の直前で、失われた都市の記録が多く残る。バグダード
- ラズィーヤの即位できごとAD1236年デリー・スルタン朝で唯一の女性の君主。4年で貴族に廃され、殺される。デリー
- 水の法廷できごとAD1238年ごろ書類も弁護士もなく、隣人どうしが水の争いを裁くバレンシアの周りの平野には、ムスリムの時代に掘られた用水路が網の目のように走っていた。1238年に町を征服したアラゴン王ハイメ一世は、水の分け方を「サラセン人の時代のとおりに」続けるよう認めた。用水路ごとに農民が選ぶ代表が集まり、水の盗みや順番の争いを裁く。いまも木曜の正午、大聖堂の使徒の扉の前に八人の代表が座り、その場で訴えを聞いて、その場で裁く。書類も弁護士もなく、言葉はバレンシア語である。判決は、それでも守られてきた。守るのは、同じ水路の下流と上流に住む隣人だからである。バレンシア
- 第七回十字軍(ダミエッタ)できごとAD1249年6月6日身代金40万リーヴルルイ9世がエジプトへ。ダミエッタを取り、カイロへ向かい、マンスーラで弟が死に、赤痢で軍が崩れ、王が捕虜になった。身代金40万リーヴル。4年、聖地の砦を直して帰った。1270年、チュニスでまた行って死んだ。聖人になった唯一のフランス王。ダミエッタ

- シャジャル・アッ=ドゥッルの即位できごとAD1250年女性の君主を、カリフが認めなかった奴隷から王妃になり、夫の死を隠して十字軍を退け、自らスルタンとして即位した。貨幣に名が刻まれ、カリフが認めなかった。カイロ
- マムルーク朝国AD1250年 – AD1517年(オスマンによる征服)モンゴルを止め、十字軍を追い出した奴隷として買われ、兵として育てられた者たちの国。血縁ではなく実力で次のスルタンが決まる。モンゴルを止め、十字軍を追い出し、香辛料の道を握って270年続いた。
- イル汗国国AD1256年(フレグのイラン入り) – AD1335年(アブー・サイードの死)バグダードを落としたフレグの家が、イランを治めた。7代目のガザンがイスラームに改宗し、宰相ラシード・アッディーンが『集史』を編む。80年で血統が絶えて割れた。
- シャジャル・アッ=ドゥッル人物? – AD1257年奴隷から王妃になり、夫の死を隠して十字軍を退け、自らスルタンとして即位した。イスラム世界で数少ない女性の君主。
- バグダードの陥落できごとAD1258年学問の中心が失われるモンゴル軍がアッバース朝を滅ぼした。イスラム世界の学問の中心が失われる。バグダード

- オスマン1世人物AD1258年頃 – AD1326年頃オスマンの剣エルトゥールルの子。ビザンツの境の、ソユトの首長。1302年、バフェウスでビザンツの軍を破って、名が知られた。ブルサを囲んで、落ちる前に死んだ。剣。600年のあいだ、新しいスルタンは「オスマンの剣」を帯びて即位した。史料はほとんどなく、100年後の伝説で書かれている。「オスマンの夢」。
- マラーガ天文台できごとAD1259年蔵書40万巻フレグがバグダードを焼いた翌年、捕虜だった学者ナスィールッディーン・トゥースィーの進言で、モンゴルの費用で建てられた。半径4メートルの壁面四分儀、蔵書40万巻、中国とアンダルスから来た学者。惑星の運動を、プトレマイオスのエカントなしで説明する「トゥースィーの対」が作られた。コペルニクスの本に、同じ図と同じ文字が並んでいる(経路はまだ分かっていない)。マラーガ
- アイン・ジャールートの戦いできごとAD1260年9月3日モンゴル軍が野戦で初めて決定的に敗れた。大ハーンの死で主力が引き上げていた隙を、マムルークが突いた。アイン・ジャールート

- ルーミー『精神的マスナヴィー』できごとAD1270年頃葦笛の嘆き法学者だった彼は、37歳のとき、放浪の修行者シャムスに会って、人が変わった。2年後にシャムスが消え(弟子たちに殺されたとも)、その喪失から詩が溢れ出した。『マスナヴィー』2万5000句。冒頭は葦笛の嘆き。「葦の笛が語るのを聞け。別れを嘆いている。葦原から切り取られてから、私の泣き声に、男も女も泣いた」。旋回舞踏(セマー)は、彼の死後、息子が儀礼にした。アメリカで最も読まれている詩人、と言われる。コンヤ
- アッコンの陥落できごとAD1291年5月18日マムルークが最後の都市を落とすマムルーク軍が6週間囲み、城壁を崩した。十字軍国家の最後の都市が落ち、200年の海の向こうの王国が終わる。逃げる船に乗れた者は少なかった。アッコン

- オスマン帝国国AD1299年頃 – AD1922年(スルタン制の廃止)アナトリア北西の小さな君侯国から始まり、コンスタンティノープルを落とし、三大陸にまたがった。19世紀に外から削られ、第一次世界大戦の敗戦で解体する。
- オスマン帝国の始まりできごとAD1299年頃へそから木が生えてビザンツとルーム・セルジュークの境の、ソユトの小さなトルコ人の首長オスマンが、独立を宣言した、と1299年に置く。夢で、へそから木が生えて世界を覆った、とシャイフ・エデバリが解いた。1326年、息子オルハンがブルサを取った。ガーズィー(信仰の戦士)と、農民と、ビザンツの脱走者。600年、36代。1922年に終わった。ソユト
- イブン・バットゥータ人物AD1304年2月24日 – AD1369年頃21歳で巡礼に出て、30年かけて12万kmを歩いた。インド・中国・マリまで行き、帰ってから口述で『大旅行記』を残す。マルコ・ポーロの三倍の距離になる。
- マンサ・ムーサの巡礼できごとAD1324年西アフリカもこの世界の一部だったマリ王が大量の金を配りながらメッカへ向かい、通り道の金相場を崩したと伝わる。トンブクトゥ

- イブン・ハルドゥーン人物AD1332年 – AD1406年歴史を法則で捉えようとした王朝の興亡を連帯意識の盛衰で説明した。歴史を法則で捉えようとした最初期の人。
- ティムール人物AD1336年4月9日 – AD1405年2月18日中央アジアから西アジア・インドまで席巻した。サマルカンドを学問と建築の都にする。
- マンサ・ムーサ人物? – AD1337年頃西アフリカの金を握った王。巡礼の道中で配った金が相場を崩したと伝わる。
- バヤズィト1世(雷帝)人物AD1360年 – AD1403年3月8日雷帝コソヴォで父が殺された天幕で即位し、弟をその場で絞めた。動きが速くて「雷」と呼ばれた。ニコポリスで十字軍を潰し、コンスタンティノープルを囲み、アンカラでティムールに捕えられた。檻に入れられたという話は敵の側の作り。捕虜のまま死んだ。
- ティムール帝国の拡大できごと1370年中央アジアから西アジア・インドまで席巻した。サマルカンドには各地から職人と学者が集められる。サマルカンド
- トランプの伝播できごとAD1370年頃人物を描かない札中国の紙の札が起源とされる。マムルーク朝エジプトの札が、現存する最古のまとまった一組で(トプカプ宮殿蔵)、剣・棒・杯・貨幣の4組に、王と副官と第二副官の絵札が付く。人物は描かれない。偶像を禁じる規範による。これがイタリアとスペインへ渡り、4組の記号がそれぞれの土地で変わった。フランスがハート・スペード・ダイヤ・クラブに単純化し、型紙で刷れるようにしたので、安く大量に作れた。それが英語圏へ渡り、いまの標準になった。カイロ
- ティムール朝国AD1370年(ティムールのサマルカンド掌握) – AD1507年(ウズベクによるヘラート占領)モンゴルの後継を名乗りながら、チンギスの血を引かないので自らはハンを称さなかった。サマルカンドを飾り、征服の先々で職人だけは連れ帰った。
- 『歴史序説』できごとAD1377年王朝の興亡を連帯意識の盛衰で説明した。社会を法則で捉える試みとして、群を抜いて早い。トンブクトゥ

- コソヴォの戦いできごとAD1389年6月15日600年語り続ける日セルビアのラザル公とオスマンのムラト1世が、両方とも死んだ。ムラトは天幕でセルビアの騎士に刺され、ラザルは捕えられて斬られた。セルビアは属国になり、この日を600年語り続ける。コソヴォの野

- ニコポリスの戦いできごとAD1396年9月25日最後の十字軍フランス、ハンガリー、ドイツの騎士が最後の十字軍としてドナウを下り、バヤズィトに壊滅させられた。捕虜3000人が翌朝斬られた。以後、西欧はオスマンに軍を送らない。ニコポリス

- マラッカ王国の成立できごとAD1400年頃イスラムが東南アジアへ広がる入口海峡の細いところに港ができた。ここを通らないと東西の船は動けない。イスラムが東南アジアへ広がる入口にもなる。マラッカ
- ヴラド3世人物AD1431年 – AD1476年竜の子父ヴラド2世は「竜」、ドラクル。息子は「竜の子」、ドラクレア。7年オスマンの人質。父と兄が殺された。三度ワラキア公。貴族を復活祭の宴で串刺しに。オスマンの2万人を串刺しに。ハンガリーに12年幽閉され、戻って2か月で殺された。ルーマニアでは英雄。
- ウルグ・ベクの星表できごとAD1437年息子に殺されたティムールの孫が、サマルカンドに半径40メートルの六分儀を地中に埋めて作り、30年、星を測った。1018個の星の位置。1年の長さを365日5時間49分15秒とした(誤差25秒)。ヒッパルコス以来、最も正確な星表で、ヨーロッパが追い抜くのは17世紀。1449年、王位を継いだ息子に殺された。天文台は宗教者に壊され、20世紀に地中の六分儀の溝だけが見つかった。サマルカンド
- スカンデルベグの抵抗できごとAD1444年25年オスマンに人質として育てられたアルバニアの貴族の子が、ニシュの戦場から逃げてクルヤの城を取り戻し、25年、山でオスマンを退けた。20回以上の包囲。彼が死んで10年で、アルバニアは落ちた。アルバニアの国旗の鷲は、彼の旗から。クルヤ
- カビールの詩できごとAD15世紀織物職人が、ヒンドゥーもイスラームも否定する詩を口語で歌った。「私はヒンドゥーでもムスリムでもない」。その詩がシク教の聖典にも収められている。ヴァーラーナシー
- コンスタンティノープル陥落できごとAD1453年5月29日オスマン帝国が1100年続いた東ローマを滅ぼした。中世の終わりの目印として使われる。コンスタンティノープル

- ベオグラードの包囲(1456年)できごとAD1456年7月22日正午の鐘コンスタンティノープルの3年後、メフメト2世がハンガリーの門へ。フニャディ・ヤーノシュと、説教僧カピストラーノが集めた農民の十字軍が退けた。教皇が正午の鐘を命じ、いまも教会は正午に鳴らす。フニャディは3週間後に疫病で死んだ。ナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)
- ヴラド串刺し公できごとAD1462年串刺しの森ワラキアの公がオスマンの使者のターバンを頭に釘で打ち、貢納を拒み、ドナウを渡って2万人を殺し、メフメト2世が来ると2万人の串刺しの森で迎えた。オスマンは退いた。ドイツのパンフレットが「血を飲む」と刷り、400年後にストーカーが読んだ。トゥルゴヴィシュテ

- ピーリー・レイース人物AD1465年頃 – AD1553年オスマンの提督で地図製作者。1513年の世界図に南アメリカの海岸線が描かれており、その出どころが議論されている。
- セリム1世人物AD1470年10月10日 – AD1520年9月22日冷酷者バヤズィト2世の末の息子。イェニチェリの支持で父を退位させ(父は1か月で死んだ)、兄弟と甥を全部殺した。「冷酷者」。1514年、チャルディラーンでイスマーイール1世を破った。シーア派を4万人殺した、と言う。1516〜17年、シリアとエジプト。ムスリムの聖地の守護者。8年。ペストで死んだ。息子スレイマン。
- ミマール・スィナン人物AD1489年頃 – AD1588年7月17日オスマンの主席建築家。50年で300を超える建物を設計し、ハギア・ソフィアを超える大屋根を目指しつづけた。
- レコンキスタの完了できごとAD1492年1月2日800年続いたイベリアのイスラム支配が終わった。同じ年、その資金でコロンブスが出航する。グラナダ

- スレイマン1世人物AD1494年 – AD1566年オスマンの最盛期の君主。ウィーンを囲み、地中海を制し、法を整えた。
- グル・ナーナクとシク教の成立できごとAD1500年頃バグダードまで歩いたパンジャーブのヒンドゥーの家に生まれ、川で沐浴して3日、姿を消した。戻って最初に言った。「ヒンドゥーもいない、ムスリムもいない」。神は一つ(イク・オンカール)。形を持たず、像に宿らない。カーストを認めない。出家せず、家庭を持ち、働き、分かち合う。共同の食事(ランガル)では、誰もが同じ床に座って同じものを食べる。24年、東はアッサム、西はバグダードまで歩いた。10代のグルを経て、シク教になった。アムリトサル
- サファヴィー朝国AD1501年(イスマーイール1世のタブリーズ入城) – AD1736年(ナーディル・シャーの即位)シーア派を国の宗教に定めた十二イマーム派を国の宗教に定め、いまのイランの宗教的な形を決めた。オスマンとは西で、ムガルとは東で、200年にわたって境を争う。
- ピーリー・レイースの世界図できごとAD1513年20枚の古地図とコロンブスの地図を元にした、と余白に書かれている。南アメリカの海岸線が入っていて、その出どころが議論されてきた。コンスタンティノープル

- チャルディラーンの戦いできごとAD1514年スンナ派とシーア派を分ける線がここで固まるオスマンの鉄砲と大砲が、サファヴィーの騎兵を破った。スンナ派とシーア派の境がこの線で固まる。チャルディラーン
- セリム1世のエジプト征服できごとAD1517年1月22日鉄砲を卑怯だと父を退位させ、兄弟を殺し、チャルディラーンでサファヴィー朝を破ったセリムが、マルジュ・ダービクとリダーニーヤでマムルーク朝を鉄砲で潰した。マムルークは鉄砲を卑怯だと言った。最後のスルタン、トゥーマーン・バイはカイロの門に吊るされた。シリア、エジプト、メッカとメディナ。アッバース朝のカリフの称号を得た、と伝える。8年で領土を倍にした。「冷酷者(ヤヴズ)」。カイロ

- 第一次パーニーパットの戦いできごとAD1526年4月21日バーブルが火砲を使ってデリーの軍を破った。ムガル帝国が始まる。パーニーパット

- モハーチの戦いできごとAD1526年8月29日2時間でハンガリーが三つに割れたスレイマン1世の軍が、2時間でハンガリー軍を潰した。20歳の王が逃げる途中で沼に沈んだ。ハンガリーは三つに割れ、150年オスマンの下に置かれる。モハーチ

- ムガル帝国国AD1526年(第一次パーニーパットの戦い) – AD1857年(インド大反乱の敗北による廃位)ティムールの子孫がインドに建てた。アクバルはヒンドゥーへの人頭税をやめて諸宗教の議論の場を作り、アウラングゼーブはそれを覆して南へ広げた。広げた先で財政が破綻する。
- 第一次ウィーン包囲できごとAD1529年オスマン軍が中欧の入口まで達した。ヨーロッパがイスラム勢力を現実の脅威として意識する。ウィーン

- アクバル人物AD1542年 – AD1605年異教徒への人頭税を廃し、宗教の違いを超えた統治を試みた。ムガルの基礎を固める。
- レパントの海戦できごとAD1571年10月7日オスマンの無敵の評判が地中海で崩れた。ただし帝国そのものはこの後も長く続く。レパント(位置は特定されていない)

- アッバース1世人物AD1571年1月27日 – AD1629年1月19日イスファハーンを「世界の半分」と讃えられる都にした。シーア派がイランの柱として定まる。
- アクバルの宗教討論できごとAD1575年宮廷に「信仰の館」を建て、イスラーム、ヒンドゥー、ジャイナ、ゾロアスター、そしてイエズス会の宣教師を招いて議論させた。文字を読めない皇帝が、聞いて判断している。ファテープル・シークリー
- セリミエ・モスクの完成できごとAD1575年ミマール・スィナンが80代で建て、自ら「親方としての作」と呼んだ。円蓋の直径がハギア・ソフィアをわずかに超える。高さでは及ばなかった。ハドリアノポリス(エディルネ)
- サファヴィー朝のイスファハーンできごとAD1598年「世界の半分」と讃えられた都。シーア派がイランの国家宗教として定まり、いまに続く。イスファハーン
- モカとコーヒーの広がりできごとAD1600年頃夜の勤行のためにエチオピア原産の実を、15世紀のイエメンのスーフィーが、夜の勤行で眠らないために煮て飲んだ。紅海の港モカが積出港になり、オスマンが独占した(種の持ち出しを、煮てから出すことで防いだ)。17世紀、オランダがバンテンとジャワへ、フランスがカリブへ苗を持ち出した。コーヒーハウスは、ロンドンでは新聞と保険(ロイズ)と株式取引を、パリでは革命の議論を生んだ。「1ペニー大学」。モカ
- タージ・マハルの完成できごとAD1653年皇帝が妃のために建てた墓廟。ムガルの富と、ペルシア・インドの様式の融合を示す。アーグラ
- アウラングゼーブの治世できごと1658年版図は最大になり、財政と宗教政策で各地が離れた。最大に広がった時が、崩れはじめる時でもある。デリー
- 第二次ウィーン包囲できごとAD1683年ここから退く側に回るオスマンの前進がここで止まった。以後この帝国は退く側に回り、ヨーロッパの力関係が入れ替わる。ウィーン

- カルロヴィッツ条約できごとAD1699年1月26日220年縮み続けた第二次ウィーン包囲の失敗から16年、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアの神聖同盟にオスマンが負け続けて、ハンガリー、トランシルヴァニア、ポドリア、ペロポネソスを失った。オスマンが領土を割譲した最初の条約。イギリスとオランダが仲介した。ここから220年、オスマンは縮み続けた。「東方問題」。カルロヴィッツ

- ウスマン・ダン・フォディオ人物AD1754年12月15日 – AD1817年学者から指導者になり、ハウサ諸王国を倒して西アフリカ最大の国を作った。
- マフムト2世人物AD1785年7月20日 – AD1839年7月1日オスマンのピョートル従兄弟のセリム3世が改革でイェニチェリに殺され、兄も殺され、宮殿の炉に隠れて生き延びた。1826年、イェニチェリを撃った。ヨーロッパ式の軍、官庁、郵便、新聞、フェズ(ターバンの代わり)、ズボン。ギリシアが独立し(1830年)、エジプトのムハンマド・アリーに2度負け、ロシアに助けを求めた。ギュルハネ勅令の4か月前に死んだ。「オスマンのピョートル」。
- カージャール朝できごとAD1796年大国に挟まれた国の立場サファヴィー朝が倒れたあとのイランは、各地の勢力が争う時代が続いた。トルコ系のカージャール族を率いたアーガー・モハンマドは、敵を容赦なく倒して国を一つにまとめ、1796年に王として即位した。都は小さな町だったテヘランに置かれる。以後百三十年近く続く王朝は、北からロシア、南からイギリスに押され、領土と利権を次々に手放した。いまのイランの首都と、大国に挟まれた国の立場は、この王朝の時代に形になった。テヘラン
- ナポレオンのエジプト遠征できごと1798年近代のヨーロッパが中東に入る起点軍と一緒に160人あまりの学者が上陸した。軍事的には失敗したが、測り、写し、分類した成果は『エジプト誌』全24巻になる。東洋を研究することと支配することが、ここで結びついた。カイロ
- ソコト帝国の成立できごとAD1804年学者が起こした改革運動が、西アフリカ最大の国になった。イギリスが来るまで一世紀続く。ソコト
- イェニチェリの廃止できごとAD1826年6月15日450年の軍団が1日でイェニチェリは14世紀にキリスト教徒の少年を徴集して作った常備歩兵で、19世紀には結婚し、商売をし、改革に反対して、スルタンを何人も殺していた。マフムト2世は新軍を作って、イェニチェリが反乱すると、砲で兵舎を撃った。6000人。「吉祥事件」。450年の軍団が1日で消えた。それから、タンジマート。コンスタンティノープル

- ギュルハネ勅令(タンジマート)できごとAD1839年11月3日薔薇の園トプカプ宮殿の薔薇の園で、外相レシト・パシャが、16歳の新スルタンの名で読んだ。全臣民の生命・名誉・財産の保障、宗教を問わず法の前の平等、公正な徴税と徴兵、裁判なしの処刑の禁止。「再編成」。ヨーロッパの列強に見せるための、ヨーロッパ式の国家。1876年の憲法まで。コンスタンティノープル

- アフマド・ウラービー人物AD1841年3月31日 – AD1911年9月21日自由に生まれたナイル・デルタの村長の子。農民出身で、トルコ・チェルケス系の将校が支配する軍で、初めて大佐になった一人。1881年、宮殿の前に兵を並べて、憲法と議会と、エジプト人の昇進を求めた。「我々は神が創造し、自由に生まれた。奴隷でも財産でもない」。1882年、敗れて、セイロンへ19年。1901年、帰国を許された。エジプト民族主義の出発点。
- アブデュルハミト2世人物AD1842年9月21日 – AD1918年2月10日赤いスルタン1876年、憲法を約束して即位し、翌年、ロシアとの戦争を理由に議会を閉じた。30年。専制。密偵と検閲。同時に、鉄道(ヒジャーズ鉄道)、学校、電信、汎イスラーム主義(カリフとして)。1894〜96年、アルメニア人虐殺(「赤いスルタン」)。ヘルツルがパレスチナを買いたいと言って、断った。1908年、憲法復活、1909年、廃位。テッサロニキで幽閉。木工と探偵小説。
- ムハンマド・アフマド人物AD1844年8月12日 – AD1885年6月22日私はマフディーであるドンゴラの船大工の家。スーフィーの修行者。1881年、白ナイルのアバ島で「私はマフディーである」と宣言した。エジプトの徴税と奴隷交易の取り締まりへの不満、そしてスーフィーの終末待望。1883年、イギリス人ヒックス指揮の1万を全滅させた。1885年、ハルツーム。6か月後、チフスで死んだ。国家は13年続き、1898年、オムドゥルマンで終わった。彼の墓はキッチナーに壊された。
- バハイ教の始まりできごと1863年4月イスラムから生まれた新しい宗教1844年、ペルシアのシーラーズで、バーブと名乗る青年が、神から遣わされた新しい使者の到来が近いと説き、1850年に処刑された。その信徒の一人で、追放されてオスマン帝国のバグダードにいたバハオラは、1863年4月、町の外の庭園で、自分こそバーブが予告した者だと仲間に告げた。バハイ教の始まりである。神は一つで、すべての宗教はその同じ神の教えであり、人類は一つの家族だと説いた。男女の平等、すべての人への教育、科学と宗教の調和も掲げた。バハオラはさらにイスタンブル、エディルネ、パレスティナのアッコへと流され、そこで生涯を終えた。バグダード
- スエズ運河の開通できごとAD1869年11月17日この地域が世界の通り道になるヨーロッパとアジアの距離が一気に縮まった。エジプトは建設の負債で英国の支配下に入る。スエズ運河
- イブン・サウード人物AD1875年頃 – AD1953年11月9日息子45人アブドゥルアズィーズ・イブン・アブドゥッラフマーン・アール・サウード。ナジュドのサウード家(18世紀からワッハーブ派と組んで2度国を作り、2度潰された)。クウェートで亡命。1902年、リヤド。1913年、ハサー。1925年、メッカ。1932年、王国。1938年、石油。1945年、スエズ運河でローズヴェルトと。妻は22人以上、息子45人。それから王は全部、彼の息子。身長2メートル。
- 赤い新月できごとAD1876年中立のしるしは、見る側にも中立に見えなければならないオスマン帝国は早くにジュネーヴ条約に加わっていた。だが、バルカンでの戦いが始まると、白地に赤い十字の腕章は、兵にとって十字軍の旗に見えた。十字を掲げた救護員が狙われることもあったという。1876年、帝国はスイス政府に、自分たちは十字の代わりに赤い新月を使い、相手の赤十字は尊重すると通知した。ロシアとの戦争では、双方がそれぞれのしるしを認め合った。しるしが中立であるためには、見る側にとっても中立に見えなければならない。赤新月が条約に正式に書き込まれるのは、1929年である。コンスタンティノープル
- ウラービー運動できごとAD1882年9月13日エジプト人のエジプトをスエズ運河の建設と浪費で、エジプトは破産し、英仏が財政を管理した。農民出身の陸軍大佐ウラービーが「エジプト人のエジプトを」と立ち、憲法と議会を求めた。アレクサンドリアがイギリス艦隊に砲撃され、テル・エル・ケビールで夜襲に敗れた。ウラービーはセイロンへ流された。イギリスの「一時的な」占領は74年続いた。テル・エル・ケビール

- ジャディード運動できごと1883年宗教を捨てずに近代化する道ロシア帝国のムスリム知識人が、新しい方式の学校と新聞で改革を試みた。宗教を捨てずに近代化するという道は、革命後のソビエトに潰される。バフチサライ

- ハルツームの陥落できごとAD1885年1月26日マフディースーダンの船大工の子ムハンマド・アフマドが「マフディー(導かれた者)」を名乗り、エジプトとイギリスの支配に立った。10か月の包囲。イギリスは撤退のためにゴードンを送り、ゴードンは撤退せずに残った。救援隊の2日前に城が落ち、ゴードンは階段で槍に刺されて死んだ。首はマフディーの前に運ばれた。ロンドンは英雄の物語にした。13年後、キッチナーがオムドゥルマンで機関銃で報復した。ハルツーム

- タバコ・ボイコットできごとAD1891年吸わないという抵抗1890年、イランの国王は、タバコの生産から売買、輸出までを五十年間独占する権利を、イギリス人の会社に売り渡した。タバコを作る農民も、売る商人も、吸う人びとも、外国の会社を通さねばならなくなる。商人と宗教学者が反対し、1891年、最高位の宗教学者の名で、タバコを吸うことは信仰に背くという見解が出された。国じゅうで人びとが吸うのをやめ、王の後宮の女性たちまで従ったと伝えられる。翌年、利権は取り消された。宗教と商人と民衆が組んだこの運動は、のちの立憲革命の先駆けになった。テヘラン
- イブン・サウードのリヤド奪還できごとAD1902年1月15日40人で夜クウェートに亡命していたサウード家の20代の若者が、40人で夜、リヤドの城壁を越え、夜明けにラシード家の総督を門で殺した。ワッハーブ派の戦士イフワーン。30年で、ナジュド、ハサー、ヒジャーズ(メッカとメディナ)。1932年、サウジアラビア王国。6年後、石油。リヤド
- イラン立憲革命できごとAD1906年8月5日選ばれた議会という考えが残った外国に利権を売り渡し、借金を重ねるカージャール朝の王に、商人と宗教学者と知識人の不満が高まった。1905年から抗議が広がり、数千人がテヘランのイギリス公使館の庭に座り込む。1906年8月5日、王は議会を開くことを認める勅令を出し、アジアで早い時期の憲法と議会が生まれた。だが次の王は議会を砲撃し、ロシアとイギリスは国を勢力圏に分け合う。革命は押しつぶされたが、選ばれた議会という考えは、その後のイランに残り続けた。テヘラン
- 青年トルコ革命できごとAD1908年7月24日街で抱き合ったマケドニアの若い将校たち(統一と進歩委員会)が山に入って反乱し、アブデュルハミト2世は30年前に止めた憲法を復活させた。「自由、平等、友愛、正義」。ムスリムとキリスト教徒とユダヤ人が街で抱き合った。1年で反革命、鎮圧、スルタン廃位。1913年、エンヴェルのクーデター。3人の独裁。ドイツについて、大戦。アルメニア。テッサロニキ

- サイクス・ピコ協定できごとAD1916年5月16日いまの国境イギリスのサイクスとフランスのピコが、オスマンの中東を地図の上で分けた。地中海のアッコからペルシアの国境のキルクークまで、「eからkまで線を引く」。北はフランス(シリア、レバノン)、南はイギリス(イラク、ヨルダン)、パレスチナは国際管理。秘密。1917年、ロシア革命でボリシェヴィキが公表した。アラブが裏切りを知った。いまの国境。ロンドン

- バルフォア宣言できごとAD1917年11月2日67語外相バルフォアからロスチャイルド卿への67語の手紙。「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することを好意的に見る。ただし、既存の非ユダヤ人共同体の市民的・宗教的権利を害してはならない」。同じ土地を、フサインにも(1915年)、フランスにも(サイクス・ピコ、1916年)約束していた。「ある民族が、別の民族に、第三の民族の土地を約束した」(ケストラー)。ロンドン

- ムスリム同胞団の結成できごと1928年3月イスラム主義の源1928年、スエズ運河の会社の町イスマイリアで、小学校の教師ハサン・アル=バンナーが、運河で働く6人の労働者とともに、ムスリム同胞団を作った。町では、運河を握るイギリスとフランスの人々が豪邸に住み、エジプト人は粗末な家に住んでいた。アル=バンナーは、イスラムは信仰だけでなく、政治も法も暮らしも包む全体の教えだと説き、学校や診療所を開いて貧しい人々の間に根を張った。同胞団は数十万人の運動に育ったが、暴力に手を染める者も出た。ナセルの政権に弾圧され、のちのイスラム主義の運動の源の一つになった。イスマイリア
- モサッデク政権の転覆できごとAD1953年8月19日イランの石油は、イギリスの会社がほぼ独占して掘り、利益の大半を持ち去っていた。1951年、首相モハンマド・モサッデクは石油産業を国有化する。イギリスは反発し、アメリカの情報機関と組んで、暴動を仕立て軍を動かした。1953年8月19日、モサッデクは失脚し、国外に逃れていた国王が戻る。国王はアメリカの後ろ盾で強権をふるい、その反発が二十六年後の革命につながった。アメリカ政府が関与を公式に認めたのは、六十年後のことである。テヘラン
- 第三次中東戦争できごとAD1967年6月5日エジプトがティラン海峡を封鎖し、周りのアラブ諸国が軍を国境に集めると、1967年6月5日、イスラエルは先に空から攻め、エジプトの空軍を地上で壊滅させた。六日間で、シナイ半島、ガザ、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原を占領する。国の広さは数倍になった。国連は占領地からの撤退を求める決議を出す。ユダヤ教の聖地である嘆きの壁がイスラエルの手に入った一方、西岸とガザのパレスチナ人の暮らしは、いまに続く占領の下に置かれた。エルサレム
- ミュンヘン・オリンピック事件できごとAD1972年9月5日戦後の西ドイツは、1972年のミュンヘン大会を、明るく開かれた国の姿を見せる場にしたかった。警備も目立たないようにした。9月5日の未明、パレスチナの武装組織の八人が選手村に入り込み、イスラエルの選手団を人質にとる。最初に抵抗した二人が殺され、空港での救出の作戦も失敗して、選手団の十一人が死んだ。大会は一日止まったあと、続けられた。この事件のあと、スポーツの大会は厳重な警備の中で開かれるものになった。ミュンヘン
- 第四次中東戦争できごとAD1973年10月6日1973年10月6日、ユダヤ教の最も神聖な贖罪の日に、エジプトとシリアが同時に攻め込んだ。エジプト軍は放水で砂の堤防を崩してスエズ運河を渡り、イスラエルの防衛線を破る。イスラエルは立て直して押し返したが、不敗の神話は崩れた。アラブの産油国は、イスラエルを支える国への石油の輸出を絞り、値段を四倍に上げる。石油危機が世界を揺らした。戦争で面目を取り戻したエジプトは、数年後にイスラエルと和平を結ぶ。スエズ運河
- レバノン内戦できごとAD1975年4月13日レバノンは、キリスト教とイスラム教のさまざまな宗派が、人口の割合に応じて大統領や首相の地位を分け合う仕組みで成り立っていた。人口の比率が変わり、パレスチナの武装組織が入り込むと、その均衡が崩れる。1975年4月13日、ベイルートでバスが銃撃された事件をきっかけに、内戦が始まった。シリアとイスラエルが介入し、首都は東西に分断される。十五年続いた戦いで、十数万人が死んだ。中東のパリと呼ばれた町は、瓦礫になった。ベイルート
- キャンプ・デーヴィッド合意できごとAD1978年9月17日四度戦ったエジプトとイスラエルのあいだで、エジプトの大統領サーダートは1977年、敵の国会で演説するためにエルサレムへ飛んだ。翌年、アメリカの大統領カーターは、両国の首脳を山荘に招き、十三日間閉じこもって交渉させた。1978年9月17日、合意が成る。イスラエルはシナイ半島を返し、エジプトはイスラエルを国として認めた。アラブの国がイスラエルと和平を結んだのは初めてで、エジプトはアラブの国々から裏切り者とされた。キャンプ・デーヴィッド
- ソ連のアフガニスタン侵攻できごとAD1979年12月24日ムジャヒディンクリスマスイヴ、空挺部隊がカブールに降り、大統領アミンが宮殿で殺された。10年。ソ連兵1万5000人、アフガン人100万人が死んだ。アメリカとサウジとパキスタンがムジャヒディンに金と武器を送った。1989年2月15日、最後の戦車が橋を渡った。ソ連は2年後になかった。カブール
- イラン革命できごとAD1979年2月1日イランの国王は、アメリカの後ろ盾で近代化を急ぎ、秘密警察で反対を抑えた。石油の富は一部に集まる。1978年、宗教家から学生、商人、労働者までが加わる抗議が国じゅうに広がり、1979年1月、国王は国を離れた。2月1日、亡命していた宗教指導者ホメイニーが帰国し、四月には国民投票でイスラム共和国が成立する。十一月、学生がアメリカ大使館を占拠し、人質は四百四十四日とらわれた。宗教が近代の革命の旗になり得ることを、世界は知った。テヘラン
- イラン・イラク戦争できごとAD1980年9月22日革命で混乱するイランを見て、イラクのサッダーム・フセインは、国境の川と油田地帯を奪える好機と考えた。1980年9月22日、イラク軍が攻め込む。だがイランは持ちこたえ、戦争は八年に及んだ。塹壕と人海戦術の、第一次世界大戦のような戦いになる。イラクは毒ガスを使い、自国のクルド人の町にも撒いた。両国の石油タンカーが攻撃し合う。1988年に停戦したとき、国境はほとんど変わっておらず、数十万人が死んでいた。バスラ
- サーダートの暗殺できごとAD1981年10月6日1981年10月6日、カイロで、第四次中東戦争の開戦を祝う軍の行進を観閲していたサーダート大統領の前で、行進のトラックから兵士たちが飛び降り、観閲席に銃弾と手榴弾を浴びせた。イスラエルとの和平に反対するイスラム主義の組織の者たちだった。大統領は死に、副大統領のムバーラクが後を継ぐ。ムバーラクは非常事態を三十年続け、アラブの春で倒れるまで権力を握った。和平を結んだ者が、和平を理由に殺された。カイロ
- 湾岸戦争できごとAD1991年1月17日1990年8月2日、イラクがクウェートに攻め込み、併合を宣言した。国際連合は撤退を求め、アメリカを中心とする三十か国あまりの多国籍軍が集まる。1991年1月17日、空からの攻撃が始まり、その映像は夜空に光る対空砲火として世界の居間に生中継された。二月の地上戦は百時間で終わる。日本は巨額の資金を出したが、人を出さないと批判され、翌年、自衛隊を国連の平和維持活動に送る法律を作った。クウェート市
- アフガニスタン戦争できごとAD2001年10月7日アメリカで最も長い戦争同時多発テロから26日で、アメリカがタリバン政権を空爆した。二か月でカブールが落ちた。それから20年、アメリカで最も長い戦争になり、2021年に始めたときの相手に国を戻して終わった。カブール
- イラク戦争できごとAD2003年3月20日兵器は見つからなかった大量破壊兵器を理由に、アメリカとイギリスがイラクに侵攻した。三週間でバグダードが落ち、兵器は見つからなかった。フセインは穴の中で捕まり、絞首刑になった。そのあと8年の内戦で、10万人を超える市民が死んだ。バグダード
- ビン・ラディンの殺害できごとAD2011年5月2日テロから10年パキスタンの陸軍士官学校の近くの屋敷に、アメリカの特殊部隊がヘリで降り、40分で終わった。遺体は海に沈められた。テロから10年。ホワイトハウスで大統領たちが中継を見ている写真が残った。アボッターバード
- シリア内戦できごとAD2011年アラブの春が広がった2011年3月、シリア南部の町ダルアーで、壁に政権を批判する落書きをした少年たちが捕らえられ、拷問された。抗議は全国に広がり、アサド政権は軍で応じた。反政府の側はいくつもの勢力に分かれ、イスラム国も入り込み、ロシアとイランは政権を、トルコやアメリカは反政府の側を支えた。五十万人前後が死に、人口の半分が家を追われたとされる。国外に逃れた人びとの波は、ヨーロッパの政治まで揺るがした。2024年、アサド政権は崩れた。ダルアー
- 「イスラム国」の台頭できごとAD2014年6月29日モスルを落とした武装組織がカリフ制を宣言した。イラクとシリアにまたがる領域を3年支配し、動画で処刑を配信した。バグダード
- イラン核合意できごとAD2015年7月14日紙の上に残った合意イランが濃縮を制限し、査察を受け入れ、制裁が解かれた。12年の交渉。三年後にアメリカが離脱し、イランは濃縮を再開した。2025年、英仏独が制裁を戻す手続きを取り、国連の制裁が復活した。ウィーン

- タリバンの復権できごとAD2021年8月15日20年前に戻ったアメリカ軍の撤退が終わる前に、政府軍が溶けてタリバンがカブールに入った。大統領は国を出た。空港で飛行機にしがみつく人が落ちた。女性は中等教育を禁じられた。20年前に戻った。カブール
- 女性、命、自由できごとAD2022年9月16日イランでは、革命のあと、女性が髪を布で覆うことが法で義務づけられていた。2022年9月、クルド系の二十二歳の女性マフサ・アミニが、覆い方が不適切だとして風紀の警察に拘束され、16日に死んだ。抗議は全国に広がり、女性たちは布を外して火に投げ入れ、髪を切った。女性、命、自由、という言葉が掲げられる。政府は力で抑え込み、数百人が死に、抗議した若者の死刑も執行された。女性の服装が、国のあり方をめぐる争いの前線になった。テヘラン
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
帝国と独立28件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。考えることの歴史20件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史18件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。交易路とお金15件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。キリスト教のひろがり15件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。都市の歴史14件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。草原の帝国14件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。確かめるという方法14件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『アラブが見た十字軍』で読む十字軍14件を共有 / 同じ200年を、襲われた側の年代記だけで書き直した本。彼らはそれを「フランク人の襲来」と呼んだ。主権はだれのものか12件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。表現の歴史12件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。冷戦10件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。東ローマ千年10件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。誰が書き残したか7件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『歴史序説』で読む王朝の寿命6件を共有 / 14世紀の北アフリカで、社会には法則があると考えた人がいた。王朝はなぜ三代で衰えるのか。女性の権利5件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。技術と産業5件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。コテンラジオで聞く歴史5件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『オリエンタリズム』で読む歴史5件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀5件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ4件を共有 / ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。探検と発見3件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。冷戦のあと3件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『地中海』で読む歴史3件を共有 / 歴史には三つの速さがある。ほとんど動かない時間、ゆっくり動く時間、そして事件。捕虜収容所で書かれた本。差別の歴史3件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。海の歴史3件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。近代と宗教3件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。大航海時代2件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。ヴァイキング2件を共有 / 襲撃者として現れ、交易者になり、入植者になった。北アメリカにも、ロシアにも、イングランドにも痕跡がある。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『交易の世界史』で読む物の流れ2件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。『リオリエント』で読む世界経済2件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。教育の歴史2件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史2件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。宗教改革と科学革命1件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。インドと仏教1件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。民族移動の時代1件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『歴史の終わり』と『文明の衝突』で読む冷戦後1件を共有 / 冷戦が終わったあと、世界はどうなるのか。3年違いで出た二冊が、正反対の答えを出した。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。食の歴史1件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。戦争と平和の歴史1件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。大学の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 東京大学の公開講座や放送大学の動画から、歴史の項目に当たる講義を選んで付けた。研究者が自分の専門を語る、長めの講義が中心になる。