概要
クレタ島生まれ、ヴェネツィアとローマで学び、トレドに住んだ画家。下半分は地上の葬儀(トレドの現実の紳士たちが並ぶ)、上半分は天。二つの世界が、雲の帯で分かたれ、上へ行くほど体が引き伸ばされ、色が燃える。同時代の人は「奇矯」と評した。300年後、セザンヌとピカソが、この歪みを自分の絵の先例として見た。
場所
39.86°N -4.03°E · スペイン
関わった人(1)
エル・グレコAD1541年–AD1614年4月7日 · 描いた本文
1586年、トレド。サント・トメ教会の司祭アンドレス・ヌニェスが、200年以上前の出来事を記念する絵を注文した。
伝説。1323年、オルガス伯ドン・ゴンサロ・ルイスが死んだ。彼はこの教会に寄進を重ねた敬虔な人だった。埋葬のとき、天から聖アウグスティヌスと聖ステファノが降りてきて、自分たちの手で、遺体を墓に納めた。
エル・グレコ。ドメニコス・テオトコプーロス。1541年、ヴェネツィア領クレタ島のカンディア(イラクリオン)。ビザンツのイコン画家として修業した(1563年の記録に「画家の親方」とある)。
1567年頃、ヴェネツィア。ティツィアーノの工房にいた、と伝える。ティントレットの構図、バッサーノの色。1570年、ローマ。ファルネーゼ枢機卿の館に滞在した。そこで、システィーナ礼拝堂の『最後の審判』について「あれを全部消して、私がもっと慎み深く、上手に描き直せる」と言った、と伝わる(それでローマの画家たちに嫌われた)。
1577年、スペインへ。フェリペ2世がエル・エスコリアル宮の装飾のために画家を集めていた。彼は『聖マウリティウスの殉教』を描いた。王は気に入らなかった(構図が奇妙で、殉教の場面が画面の奥に小さく描かれ、手前で聖人たちが議論している)。宮廷画家にはなれなかった。
トレドへ。かつてのカスティーリャの都で、大司教座があり、ユダヤとイスラームとキリスト教の三つの文化が重なっていた街。彼はそこに残り、死ぬまでの37年、そこで描いた。
『オルガス伯の埋葬』。4.8×3.6メートル。
下半分。地上。中央に、黄金の甲冑を着た伯の遺体を、二人の聖人が支えている。聖ステファノ(若く、金の刺繍のダルマティカを着て、その裾に彼自身の殉教=石打ちの場面が刺繍されている)と聖アウグスティヌス(老いて、司教冠)。
その後ろに、黒衣の紳士たちが横一列に並ぶ。全員が、当時のトレドの実在の人物の肖像(顔とひだ襟)。半分は上を見上げ、半分はこちらを見ている。左端に、たいまつを持った子供。その子が指で下を指している。子のポケットからハンカチが覗き、そこに「1578」と署名がある。エル・グレコの息子ホルヘ・マヌエルの生まれた年。子はその肖像。
上半分。天。雲が地上と天を分ける。中央に、大きく開いた両腕のキリスト。左に聖母マリア、右に洗礼者ヨハネ。使徒たち、そして雲の間に、天使が、伯の魂——半透明の、赤ん坊のような小さな姿——を、産道のような雲の隙間を通して、上へ運んでいる。
見え方。地上の人物は、堅く、正確で、写実的。天の人物は、引き伸ばされ、色が燃え(レモン色、青、赤紫)、輪郭が波打つ。上へ行くほど、形が現実から離れる。
同時代の評価。「奇矯」「気まぐれ」。パチェーコ(ベラスケスの師)は1611年に彼を訪ねて、その理論に感心しながら、絵は「粗雑」と評した。
彼の伸びた人体の理由。(1)意図(マニエリスムの様式、そして精神的な高揚の表現)。(2)乱視だった、という19世紀の説(現在は否定されている。乱視なら、模写する対象も伸びて見えるので、絵の中だけで伸びる説明にならない)。(3)ビザンツのイコンの伝統(正面性、非現実の空間、金地)を、西欧の技法の中で保った。
1614年4月7日、トレドで死んだ。73歳。息子ホルヘ・マヌエルが後を継いだが、才能がなかった。
忘れられた。18世紀の批評は「狂人の絵」と書いた。1908年、マヌエル・コッシオの研究。同じ頃、セザンヌが彼の絵を模写し、ピカソが1907年の『アヴィニョンの娘たち』の前に、彼の『第五の封印の開封』(1608〜14年、メトロポリタン美術館)を、友人のスペイン人画家のアトリエで、繰り返し見ていた。
トレドのサント・トメ教会に行くと、この絵が、描かれた場所に、いまもある。