できごと

国技館

Ryōgoku Kokugikan
AD1909年6月2日
重要度 3
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国フランス領インドシナラタナコーシン朝(シャム)日本朝鮮王朝フィリピンAD1909年6月2日両国
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1909年6月2日の版図を描いています(9勢力)。

概要

江戸時代の相撲は、寺社の境内に小屋を掛けて興行し、雨が降れば休みになった。1909年、両国に鉄骨の丸屋根を持つ常設の館ができ、晴天でなくても取組ができるようになった。館の名は、開館の案内に書かれた「角力は日本の国技」という言葉から採られたと伝えられる。同じ年、新聞社が幕内でいちばん勝った力士をたたえる仕組みを始め、個人の優勝という考えが生まれた。見物の人々は、東西の勝ち負けより、誰が勝ち越し、誰が優勝するかに目を向けるようになる。相撲が「国技」と名乗ったのは、この建物が最初だった。

場所

両国
35.70°N 139.79°E · 日本・東京都墨田区

本文

江戸時代の相撲は、勧進相撲として興行された。寺や神社の建物の修繕や建て替えの費用を集める、という名目である。興行の場所は寺社の境内で、なかでも両国の回向院がよく使われた。境内に丸太と板で仮の小屋を組み、屋根は葦簀や筵で覆う。雨が降れば取組はできず、その日は休みになった。興行は「晴天十日」と呼ばれ、晴れた日を十日数えるまで続けられたため、雨が多い年には一場所が何週間にも延びた。

明治に入ると、相撲は危うい時期を迎えた。文明開化を急ぐ政府と知識人の目には、裸の男たちがぶつかり合う相撲は、西洋の人々に見せられない古い見世物に映った。裸で外を歩くことが取り締まられ、相撲を廃止すべきだという議論も出た。武家の後ろ盾を失った力士たちの暮らしは苦しく、相撲の組織の中でも争いが起きた。

両国国技館(国技館通りから撮影)
両国国技館(国技館通りから撮影)Wikimedia Commons Souka Kinmei · CC BY 4.0

相撲を立て直したのは、天皇の前で取組を見せる天覧相撲だった。1884年、明治天皇の前で相撲が行われると、その評判が人気を取り戻すきっかけになった。さらに、日清戦争と日露戦争を経て国の誇りが高まると、日本の昔からの武の技として、相撲は改めて人々の関心を集めた。人気力士が現れ、場所は大入りが続いた。そうなると、雨のたびに休み、狭い仮の小屋に客を詰め込む興行のやり方が、いかにも古く見えてきた。

1909年6月、回向院の境内の一角に、鉄骨で組んだ大きな円形の建物が完成した。設計には、東京駅を設計したことで知られる辰野金吾らが加わった。丸い屋根の下に、土俵を囲んで何層もの客席が並び、1万人を超える客が入れた。屋根があるので、雨でも取組ができる。晴天十日の興行は、天気に関係なく決まった日数で行う興行へと変わっていった。

初代国技館(1909年)
初代国技館(1909年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この建物には、最初、名前が決まっていなかった。開館を前に、関係者が配った案内状の文には、角力は日本の国技なり、という一句があった。これを目にした年寄の一人が、国技館という名を提案し、それが採られたと伝えられる。それまで、相撲を日本の国技と呼ぶ習わしは、はっきりとはなかった。建物の名前として掲げられたことで、相撲は国技という言葉と結びつき、やがてそれが当たり前のように語られるようになった。ただし、相撲を国技と定めた法律は、いまも存在しない。

同じ1909年6月の場所から、相撲の見方を変えるもう一つの仕組みが始まった。新聞社の時事新報社が、幕内でいちばん成績のよかった力士の大きな写真の額を、国技館に掲げることにしたのである。最初の額に収まったのは、高見山という力士だった。それまでの相撲は、東方と西方に分かれた力士たちの勝ち負けを、組ごとに競うことに重きが置かれていた。それが、一人の力士が場所で何勝したか、誰が優勝したかに、見る人の目が向くようになった。個人の優勝という考えは、ここから広まっていく。

両国国技館の2代目の建物
両国国技館の2代目の建物Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

のちに、相撲の協会は、優勝した力士に天皇の名を冠した賜杯を授ける制度を整えた。1925年、皇太子だった昭和天皇が相撲を観覧した際の下賜金で作られた賜杯が、その始まりである。優勝額と賜杯は、いまも場所の千秋楽を飾る。

初代の国技館は、波乱の道をたどった。1917年には火事で焼け、建て直された後、1923年の関東大震災でふたたび焼けた。第二次世界大戦の後は、占領軍に接収されて別の用途に使われ、相撲は場所を移した。1950年に蔵前に新しい国技館ができ、1985年には両国に戻って、いまの国技館が開かれた。国技館という名前は、建物が変わっても受け継がれている。

関東大震災に関わる図版:The Great Kanto Earthquake (3767766524) (cropped)
関東大震災Wikimedia Commons urbzoo · CC BY 2.0

建物が名を与え、名が相撲の意味を変えた。寺社の修繕のための勧進の興行が、国の技になった。イギリスでクインズベリー・ルールが殴り合いを決まりのある競技に変え、第1回近代オリンピックが国と国の競い合いの場を作ったのと同じ頃、日本の相撲も、近代の見世物として、そして国を背負うものとして、姿を変えつつあった。遊びや競技の決まりは、紙に書かれるだけではない。建物も、名前も、決まりの一部である。

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