できごと

北山文化と金閣

Kinkaku-ji
AD1397年
重要度 3
シベリアの諸集団明チベットパガン朝スコータイ朝日本クメール帝国朝鮮王朝大越アユタヤ朝大越アイヌモシリチャンパAD1397年京都
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1397年の版図を描いています(13勢力)。

概要

公家と武家の文化が混ざり合った。明との通交で得た富がこれを支える。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

足利義満AD1358年–AD1408年 · 当人

本文

14世紀の日本は、二つの朝廷が並び立つ南北朝の内乱の中にあった。室町幕府の3代将軍足利義満は、10歳で将軍職を継ぎ、成長するとともに有力な守護大名を一つずつ抑えていった。1392年には南朝との講和をまとめ、半世紀以上続いた分裂を終わらせる(室町幕府の成立)。武家の頂点に立った義満は、次に公家の世界でも頂点をめざした。

義満は朝廷の官位を急速にのぼり、1394年に将軍職を子の義持に譲ると、武家としては平清盛以来となる太政大臣に就いた。翌年にはその職も辞して出家する。将軍の位を離れ、官職も捨て、僧の姿になってなお、政治の実権は手放さなかった。武家・公家・仏門のいずれの枠にも収まらない、それらすべての上に立つ存在になろうとしたのである。

Japan Kyoto city urban topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

1397年、義満は京都の北山にあった公家の西園寺家の山荘を譲り受け、大規模な邸宅の造営を始めた。これが北山殿である。寝殿や会所、多くの建物が並び、その中で池に臨んで建てられたのが、舎利殿、すなわち金閣だった。義満はここに移り住み、政治の中心は御所から北山殿へ移った。

金閣は三層の楼閣で、層ごとに様式が違う。一層目は公家の住まいの寝殿造の形で、釈迦如来と義満の像を祀る。二層目は武家の住まいの書院のような造り(和様の仏堂風とする説明もある)で、観音を祀る。三層目は禅宗の寺の様式で、仏舎利を納める。二層目と三層目の外側は金箔で覆われ、屋根の頂には金の鳳凰が置かれた。公家・武家・禅という、義満が束ねようとしたものが、一つの建物に積み重ねられている。

足利義満 - 室町時代の室町幕府第3代将軍
足利義満 - 室町時代の室町幕府第3代将軍Wikimedia Commons Public domain

その富を支えたのが、明との通交だった。1401年、義満は博多の商人の勧めもあって明に使節を送り、翌年、明の皇帝から「日本国王」に封じられた。明は周辺の国が臣下として朝貢することでしか貿易を認めなかったため、義満はこの形を受け入れた。1404年からは、明が発行する勘合という割符を持つ船だけが正式の使節として認められる貿易が始まる(永楽帝の時代)。日本からは刀剣、銅、硫黄、扇などが運ばれ、明からは銅銭、生糸、絹織物、書画、陶磁器がもたらされた。朝貢の形式では、明の皇帝は貢ぎ物を上回る返礼を与えるのが習いで、幕府には大きな利益が入った。

臣下として明に仕える形をとったことは、後に厳しく批判された。室町時代の禅僧の瑞渓周鳳は、外交の記録をまとめた『善隣国宝記』で、日本の君主が臣を称したことを非難している。江戸時代以降も、国の体面を損なった行為として語られることが多かった。一方で、銅銭が不足していた日本にとって、明銭の大量の流入は経済を動かす血液になった。義満の子の義持は父の外交を嫌って一時通交を断ったが、のちの将軍によって再開されている。

金閣寺の舎利殿(現在の姿)
金閣寺の舎利殿(現在の姿)Wikimedia Commons ほっきー · CC0

北山殿は文化の中心でもあった。義満は若い頃に観阿弥と、その子で少年だった世阿弥の猿楽を見て心を奪われ、世阿弥を身近に置いた。能は義満の保護のもとで洗練された芸能に育っていく。禅宗の寺を格付けする五山の制も義満の時代に整えられ、五山の禅僧たちは漢詩文や水墨画、明との外交文書の作成に腕をふるった。公家の和歌や雅楽、武家の好み、禅の漢文化、明からの舶来品が混ざり合ったこの時代の文化を、北山文化と呼ぶ。

1408年、後小松天皇が北山殿に行幸し、20日にわたって宴が続いた。その直後、義満は寵愛する子の義嗣を、親王と同じ作法で元服させている。義満は自分の子を天皇にしようとしていたのではないかという説があるが、裏付けは乏しく、否定する研究者も多い。この年の5月、義満は病に倒れて亡くなった。死後、北山殿は寺に改められ、義満の法名から鹿苑寺と名づけられた。ほかの建物は失われていったが、金閣は応仁の乱の戦火もくぐり抜けて残った。

冬、氷に覆われた金閣寺の池
冬、氷に覆われた金閣寺の池Wikimedia Commons Manish Prabhune · CC BY 4.0

その金閣が焼けたのは、1950年7月2日の未明である。寺に住み込んでいた21歳の学僧が火を放ち、建物は全焼した。中に安置されていた義満の像も焼けた。現在の金閣は1955年に再建されたもので、1980年代には金箔が大規模に張り替えられた。

この事件は、三島由紀夫『金閣寺』の題材になった。美しいものへの憧れと憎しみに引き裂かれた青年の内面を描いた作品で、事件そのものよりも長く読み継がれている。金閣は1994年に「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録された。義満の孫の義政が、のちに東山に銀閣を建てる(銀閣と東山文化)。華やかな北山と、簡素な東山。室町の文化は、この二つの山の名で呼び分けられている。

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