概要
亡命したフィレンツェの商家の庶子。ボローニャで法学。教皇庁の書記官。『絵画論』(1435年。遠近法の作図法を初めて文章にした)、『建築論』(10巻。ウィトルウィウス以来初の建築の理論書)、『家族論』。教会と宮殿を設計した(サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の正面、マントヴァのサンタンドレア)。暗号、測量、馬、そして走り高跳び。「万能人」の見本とされる。
関わったできごと(1)
線遠近法の発見AD1413年頃 · 理論にした本文
1404年2月14日、ジェノヴァ。フィレンツェの富裕な商家アルベルティ家は、政争で追放されていた。レオン・バッティスタは、父ロレンツォの庶子(母は名前の分からないボローニャの寡婦)。
パドヴァのガスパリーノ・バルツィッツァの学校(当時最高の人文学の寄宿学校)。ボローニャ大学で教会法。20歳で父が死に、親戚に遺産を奪われ、貧しくなった。過労で目を病んだ。
10代でラテン語の喜劇『フィロドクセウス』を書き、古代の作品だと偽って発表した。何人かの学者が本物だと信じた。
1428年、アルベルティ家の追放が解かれ、フィレンツェへ入った。そこで見たもの。ブルネレスキのドーム(建設中)、ドナテッロの彫刻、マサッチオの絵、ギベルティの扉。
1435年、『絵画論(De pictura)』。ラテン語。翌年、イタリア語版を書いて、ブルネレスキに献じた。序文。「私は、この土地に、古代の人々に劣らぬ才能がいることを見た。フィリッポ(ブルネレスキ)よ、あなたの、空の下にそびえるあの巨大な構造は、トスカーナの全ての人々を覆うほど広く、支柱の助けなしに建てられた」。
内容。第1巻、光学と幾何(視覚のピラミッド、画面はその断面、そして作図法)。第2巻、絵画の三部(輪郭、構図、光の受容)と「イストリア(物語画)」の理論。第3巻、画家の教養(幾何、詩、修辞、そして人格)。
「絵は、開かれた窓である(アペルタ・フィネストラ)」。この一文が、その後500年のヨーロッパの絵の前提になった。
『建築論(De re aedificatoria)』(1452年頃完成、1485年刊)。10巻。ウィトルウィウス以来、初めての本格的な建築の理論書。「美とは、部分と全体の理性的な調和であり、そこから何一つ取り去ることも、加えることも、変えることもできない状態である(コンチンニタス)」。
彼が設計した建物。サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の正面(1470年。中世のゴシックの下部と、古典の上部を、渦巻き=ヴォリュートでつないだ。以後の教会正面の型になった)。ルチェッライ館(柱式を階ごとに重ねた壁面。コロッセオの応用)。リミニのテンピオ・マラテスティアーノ(凱旋門を教会の正面に)。マントヴァのサンタンドレア聖堂(凱旋門と、大きな筒形ヴォールト。バロックの先取り)。
彼は現場に立たなかった。図面と指示を送り、施工は他人が行った。「建築家は、職人でなく、構想する人である」。建築家という職業の位置を、そこで変えた。
その他の著作。『家族論』(イタリア語。家の運営、教育、金銭、結婚)。『彫刻論』。『数学の戯れ』(測量と実用数学)。『暗号論』(1466年。多表式換字暗号を考案した。「西洋暗号学の父」と呼ばれる。円盤を回して文字を対応させる「アルベルティ円盤」)。『モムス』(風刺)。『ローマ市の記述』(極座標で市の地図を作る方法)。
身体。若い頃、走り高跳びで人の肩を越え、槍を城壁の上まで投げ、荒馬を乗りこなした、と自伝的な断片に書いている(本人が書いたので、割り引いて読む必要がある)。
「万能人(ウォーモ・ウニヴェルサーレ)」の見本として、19世紀のブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』が彼を大きく取り上げた。「人が望めば、何でもできる」。彼自身の言葉として、そこに引かれている。
1472年4月25日、ローマで死んだ。68歳。教皇庁の書記官として、生涯、聖職禄で暮らした。