人物

レオン・バッティスタ・アルベルティ

Leon Battista Alberti
AD1404年2月14日 – AD1472年4月25日(享年68)
イタリア重要度 4

概要

亡命したフィレンツェの商家の庶子。ボローニャで法学。教皇庁の書記官。『絵画論』(1435年。遠近法の作図法を初めて文章にした)、『建築論』(10巻。ウィトルウィウス以来初の建築の理論書)、『家族論』。教会と宮殿を設計した(サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の正面、マントヴァのサンタンドレア)。暗号、測量、馬、そして走り高跳び。「万能人」の見本とされる。

関わったできごと(1)

線遠近法の発見AD1413年頃 · 理論にした

本文

レオン・バッティスタ・アルベルティは1404年2月14日、ジェノヴァで生まれた。アルベルティ家はフィレンツェで銀行と毛織物の商いを営む有力な一族だったが、14世紀の末に政争に敗れて町を追われ、ジェノヴァやヴェネツィアなどで亡命の暮らしを送っていた。レオン・バッティスタは父ロレンツォの庶子で、母はボローニャの寡婦だったとされる。庶子であることと、故郷を知らずに育ったことは、彼の生涯に影を落とした。

De re aedificatoria
De re aedificatoriaWikimedia Commons Leon Battista Alberti · Public domain

少年時代、パドヴァのガスパリーノ・バルツィッツァの学校で、ラテン語と古典を学んだ。当時の人文主義の教育で最もよく知られた学校の一つである。その後ボローニャ大学で教会法を学んだが、在学中に父を亡くし、親族との相続の争いで財産を失って、貧しさと病に苦しんだ。20歳ごろに書いたラテン語の喜劇『フィロドクセオス』を古代の作家の作品と偽って回したところ、本物と信じた学者もいたという。

1428年にアルベルティ家の追放が解かれ、彼は1432年ごろから教皇庁の書記官となった。聖職者として教会からの収入を得る身分で、この職は生涯の生活の支えになった。1434年、教皇エウゲニウス4世がローマの騒乱を避けてフィレンツェに移ると、アルベルティもそれに従い、初めて一族の町に腰を据えた。そこで彼が見たのは、ブルネレスキが大聖堂の丸屋根を架けつつあり(ブルネレスキのドーム)、ドナテッロが彫刻を、マサッチオが絵画を新しくしていく町だった。

ブルネレスキのドームに関わる図版:Cattedrale di Santa Maria del Fiore – Il Duomo di Firenze
ブルネレスキのドームWikimedia Commons Gary Campbell-Hall · CC BY 2.0

1435年、アルベルティはラテン語で『絵画論』を書き、翌年、自らイタリア語に訳してブルネレスキに献じた。その序文で、自分は古代にしか無いと思っていた才能が、この町の人々の中に生きていることを知った、と書き、支えの足場なしに空にそびえるブルネレスキの丸屋根を称えている。

『絵画論』は、画家たちが工房の中で手探りしていた遠近法の作図(線遠近法の発見)を、初めて文章で筋道立てて説明した本である。目から対象へ向かう光の線は角錐をなし、絵の画面はその角錐を切った断面である。画面を、そこから物語の場面を眺める「開かれた窓」と考えよ、と彼は書いた。床の格子を消失点へ向かって描く方法を示し、さらに、人物の配置と身ぶりで物語を伝える構図の理論を説いた。画家は職人にとどまらず、幾何学と詩と弁論を学んだ教養人であるべきだとも述べた。この本は、その後何世紀にもわたってヨーロッパの絵の前提になる考え方を言葉にした。

マントヴァのサンタンドレア教会
マントヴァのサンタンドレア教会Wikimedia Commons Sebi1 · Public domain

関心は建築へ移った。ローマの古代建築を測り、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの書物を読み込んで、1450年ごろ、10巻の『建築論』をまとめた。古代以来、初めての本格的な建築の理論書で、彼の死後の1485年に印刷された。美とは、各部分が理にかなって調和し、何かを加えても取り去っても悪くなるしかない状態のことだ、と彼は定義した。建物の用途、構造、そして都市の中での建物の役割まで論じたこの本は、ルネサンス以後の建築家たちに読まれ続けた。

彼は自ら建物も設計した。フィレンツェでは、商人ジョヴァンニ・ルチェッライのために、古代の柱の形を階ごとに重ねた館の正面を設計し、同じルチェッライの依頼で、ゴシックの下の部分を残したサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の正面を、古典の上の部分とつないで1470年に完成させた。高さの違う中央と両脇を大きな渦巻きの飾りでつなぐ形は、その後の多くの教会の正面に受け継がれた。リミニでは古い教会を凱旋門の形の正面で包み、マントヴァでは、巨大な筒形の天井を持つサンタンドレア聖堂を設計した。この聖堂は彼の死の年に着工された。アルベルティは現場で石を積む棟梁ではなく、図面と指示書を送って施工を他人に任せた。建築家を、手で造る職人ではなく、構想する人として位置づけたのは、彼の大きな転換だった。

レオン・バッティスタ・アルベルティの自画像(1435年頃)
レオン・バッティスタ・アルベルティの自画像(1435年頃)Wikimedia Commons Leon Battista Alberti · CC0

書いたものは、驚くほど幅広い。家の運営と子の教育と財産を論じたイタリア語の対話篇『家族論』、彫刻の寸法の取り方を説く『彫刻論』、測量や実用の数学の問題を集めた本、ローマの町の地図を角度と距離で写し取る方法を記した本、神々を風刺した小説『モムス』がある。1460年代に書いた暗号の論文では、内外二枚の円盤を回して文字の対応を次々に変える仕組みを示した。一つの文の中で暗号の対応を切り替えるこの方法は、多表式の暗号の始まりとされ、彼は西洋の暗号学の父とも呼ばれる。

彼について語られる逸話の多くは、本人が書いたとみられる匿名の短い伝記に出てくる。両足をそろえて立った人の肩を跳び越え、どんな荒馬も乗りこなし、音楽は師につかずに身につけた、という。自分で書いた伝記なので割り引いて読む必要があるが、彼が理想とした人間の姿はよく分かる。19世紀の歴史家ヤーコプ・ブルクハルトは『イタリア・ルネサンスの文化』で、この伝記をもとに彼を「万能の人」の典型として描き、人は望めば何でもできる、という言葉を彼のものとして紹介した。のちのレオナルド・ダ・ヴィンチとともに、この呼び名はルネサンスの人間像そのものになった。

アルベルティ『建築論』英訳初版(ジャコモ・レオーニ訳、1452年)の表題紙。イタリア語と英語を並記
アルベルティ『建築論』英訳初版(ジャコモ・レオーニ訳、1452年)の表題紙。イタリア語と英語を並記Wikimedia Commons Leon Battista Alberti; Giacomo Leoni · Public domain

1472年4月25日、アルベルティはローマで死んだ。68歳だった。イタリア・ルネサンスの盛期の芸術家たちが、彼の示した遠近法と比例の考えの上で仕事をし、建築家たちは彼の本を手引きにした。絵を窓として、建物を調和する比例として考える。私たちが当たり前だと思っている見方の多くは、この人が最初に言葉にしたものである。

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