イフェの頭像
概要
写実的な人の頭像が、銅合金とテラコッタで作られた。1910年に紹介されたとき、ヨーロッパの学者は古代ギリシアの影響だと考えた。そうではないと分かるまで数十年かかっている。
場所
7.48°N 4.56°E · ナイジェリア
本文
いまのナイジェリア南西部にあるイフェは、ヨルバの人々にとって世界が始まった場所とされる。神が天から降りて大地を作り、最初の王オドゥドゥワがここで国を開いた、と神話は語る。のちのヨルバの王たちは、その血を引くことを王権の根拠にした。
この町で、12世紀から15世紀ごろにかけて、写実的な人の頭像が作られた。素材は銅合金とテラコッタ(素焼きの土)になる。

銅合金の像は、ロストワックス法で鋳られている。蝋で原型を作り、粘土で包んで焼き、溶けて流れ出た蝋の跡に金属を流し込む。像の厚みは薄く均一で、頬の張り、唇のふくらみ、まぶたの線まで、生きた人の顔のように柔らかい。ほぼ等身大のものが多い。純度の高い銅は流れが悪く、鋳造が難しいが、ほとんど純銅で鋳られたものもある。
顔に細い縦の線が一面に刻まれたものがある。入れ墨か、化粧か、顔の傷を刻む風習か、あるいは様式にすぎないのかは分かっていない。額の生え際や口のまわりに小さな穴が並ぶ像もあり、髪や髭、あるいは顔を覆う飾りを付けたのではないかと考えられている。

イフェの王オバルフォンの顔を写したと伝えられる仮面も、ほぼ純銅で鋳られている。銅や亜鉛の原料はこの近くでは採れず、サハラを越える交易で北から運ばれてきたと考えられている。イフェはまた、ガラスの玉を作る町でもあった。近年の分析で、ガラスそのものをこの土地で作っていたことが確かめられ、その玉は西アフリカの広い範囲で見つかっている。イフェは孤立した森の町ではなく、遠くまで延びる交易の網の結び目にあった。
何に使われたかもはっきりしない。王の葬儀で、亡くなった王の代わりとして衣を着せて飾ったという説があるが、確かめられてはいない。テラコッタの像は数が多く、写実的な頭部のほかに、様式化した顔や動物の像まで幅が広い。

イフェの頭像は、のちのベニンの青銅器と比べると違いがはっきりする。ベニンの像は、時代が下るにつれて目鼻が型にはまり、権威を示す飾りが重くなっていく。イフェの像は、一人一人の顔の違いまで写し取ろうとしているように見える。ただ、それが特定の人物の肖像なのか、理想化された顔なのかは、研究者のあいだで意見が分かれている。
1910年、ドイツの民族学者フロベニウスがイフェを訪れ、頭像を持ち出して紹介した。
問題になったのは、その受け止め方だった。ヨーロッパの学者の多くは、アフリカ人がこれを作れるはずがないと考えた。古代ギリシアの職人が来た、ローマの影響だ、エジプトから伝わった、という説が次々に出た。フロベニウス自身は、ここに大西洋の伝説の島アトランティスの末裔の文明があったと主張している。どの説も、像の作られた時代や技法の証拠からではなく、「アフリカに高い芸術はない」という前提から出てきたものだった。
1938年、イフェの町なかで家を建てようとしていた人々が、地中から銅合金の頭像をまとめて掘り当てた。その後の発掘で、テラコッタの像や、陶片を敷き詰めた舗装なども見つかり、年代の測定も進んだ。像は外から持ち込まれたのではなく、この土地の土器作りと金属加工の伝統の中から生まれたことが、少しずつ認められていった。ヨーロッパの学界がそれを受け入れるまで、数十年かかっている。
イフェの鋳造は、のちのベニン王国の青銅器につながるとされる。ベニンの伝承は、鋳造の技を伝えた職人がイフェから来たと語る。ただ、伝承をどこまで史実として読めるかは議論がある。イフェはその後、政治の中心としてはオヨ王国の騎兵に見るオヨ王国などに力を譲るが、ヨルバの聖地としての地位は保ち続けた。
いま頭像の多くはナイジェリアの博物館にあるが、アフリカ分割のあとの植民地時代に国外へ出たものもある。所有と返還をめぐる議論は、ベニンの青銅器と同じく続いている。
「西洋の目が、何を見ようとしなかったか」の例として、イフェの頭像は繰り返し引かれる。像そのものは何も変わっていない。変わったのは、見る側の前提だった。