フレーベルと幼稚園
概要
それまで、就学前の子どもを預かる施設は、母親が働く間の託児所だった。フリードリヒ・フレーベルは、幼児期そのものに固有の意味があると考えた。子どもは遊びを通して世界を理解する。彼は球、立方体、円柱から始まる一連の教具(恩物)を作り、庭仕事と歌と手仕事を組み合わせた。施設を「子どもの庭(キンダーガルテン)」と名づけた。1851年、プロイセンが革命思想の温床として禁止した。彼の死後、弟子たちが世界へ広めた。
場所
50.67°N 11.27°E · ドイツ・テューリンゲン州
関わった人(1)
フリードリヒ・フレーベルAD1782年4月21日–AD1852年6月21日 · 作った本文
18世紀から19世紀のヨーロッパにも、学校に上がる前の小さな子どもを預かる場所はあった。イギリスには子どもを集めて編み物をさせながら字を教える小さな学校があり、1816年には、社会改革家のロバート・オーウェンが、スコットランドのニュー・ラナークの紡績工場に幼い子どものための学校を併設した。フランスには「保護の部屋」と呼ばれる施設が、ドイツには幼児を保護する施設が作られた。だが、そのほとんどは、母親が働いている間に子どもを預かる託児の場だった。目的は子どもを危険と悪い習慣から守ることで、教えるのは道徳と、簡単な読み書きと、手仕事。子どもは、まだ未熟な小さな大人として扱われていた。
幼い子どもの時期そのものに、かけがえのない意味があると考えたのが、フリードリヒ・フレーベルである。1782年、ドイツ中部テューリンゲンの山村オーバーヴァイスバッハに、牧師の子として生まれた。生後9か月で母を亡くし、父は広い教区の仕事に追われていた。父が再婚すると、継母は自分の子が生まれてから彼を疎んじた。

少年はほとんど放っておかれ、一人で庭や森で過ごした。のちに彼の教育論の中心に自然と遊びが置かれたことを、この孤独な幼年時代と結びつける見方は多い。10歳のとき、母方の伯父に引き取られ、ようやく温かい家庭を知った。
若い頃のフレーベルは、自分の道を探して転々とした。15歳で森林管理人の見習いになり、森の中で植物や測量や幾何学を独学した。イェーナ大学で数学と自然科学を学んだが、学費が続かず、借金のために学内の牢に9週間入れられたこともある。測量、農場の仕事、会計、建築の見習いと職を変えた。

1805年、建築家を目指してフランクフルトにいたとき、模範学校の校長グルーナーに出会った。スイスの教育者ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの弟子だったグルーナーは、あなたは建築家ではなく教師になるべきだと勧めた。フレーベルはその場で職を得て教壇に立ち、後に、水を得た魚のようだったと振り返っている。
1808年から2年間、彼はスイスのイヴェルドンで、ペスタロッチその人の学校で学んだ。教育は子どもの内にあるものを引き出すことであり、頭と心と手をともに育て、言葉より先に実物を通して学ばせる。フレーベルはそこから多くを吸収したが、同時に、ペスタロッチのやり方には全体を貫く体系が無いという不満も抱いた。

1813年、ナポレオンとの戦争が起きると、彼はプロイセンの義勇軍に加わった。そこで出会った二人の仲間、ランゲタールとミッデンドルフは、生涯の協力者になる。戦争の後、1816年に彼は自分の学校を開き、翌年テューリンゲンのカイルハウに移した。生徒は最初、亡くなった兄の子どもたちを中心にわずか数人だった。子どもたちは野山を歩いて植物や石を観察し、庭を作り、体を動かし、そのうえで数学や言葉を学んだ。1826年、フレーベルは主著『人間の教育』を出した。
神秘的な言葉づかいが多く、当時もいまも読みやすい本ではない。だがその中心にある考えは明快だった。あらゆるものの中に、一つにつながる神の働きがある。教育とは、子どもが自らそのつながりを見いだすのを助けることであり、幼い子どもにとって、その方法こそが遊びである。遊びはこの時期の人間にとって最も高い営みであり、内にあるものの自由な表れだ、と彼は書いた。

1830年代、フレーベルの関心は、もっと幼い子どもへと移っていった。学校にやって来る子どもたちを見るうちに、その前の時期に、すでに多くのことが決まってしまっていると考えるようになったのである。1837年、彼はテューリンゲンの小さな町バート・ブランケンブルクに、幼い子どものための施設を開いた。最初の名前は「幼児と少年の作業衝動を育てる施設」という長くて覚えにくいものだった。
1840年6月28日、フレーベルはこの施設に新しい名前を与えた。キンダーガルテン、「子どもの庭」である。近くの谷を歩いているときにこの言葉を思いつき、見つけた、と叫んだという話が伝わっている。庭という言葉には、二つの意味が込められていた。

一つは、子どもたちが実際に庭で種をまき、水をやり、植物が育つのを見守ること。もう一つは、子どもそのものが植物だということである。庭師は植物を引っ張って伸ばしたりはしない。土と水と光を整え、育つのを待つ。
フレーベルは、子どもが遊びながら世界のなりたちに触れられるよう、一連の遊び道具を作り、それを「恩物」と呼んだ。ドイツ語では「贈り物」、神から子どもへの贈り物という意味である。最初の恩物は六色の毛糸の球、二番目は木で作った球と円柱と立方体だった。転がる球は完全なまとまりを、どっしり止まる立方体はその対極を、円柱は両者をつなぐものを表す。

三番目からは、立方体を八つに分けた積み木、さらに細かく分けた積み木と続き、その先には板や棒や輪、豆と楊枝を使って点と線を作るものまであった。全体から部分へ、立体から面へ、線へ、点へ。順番そのものに思想が込められていた。子どもは積み木で家や橋のような身の回りの形を作り、左右対称の美しい模様を作り、数や形の関係を確かめる。歌と手遊びをまとめた『母の歌と愛撫の歌』(1844年)を作り、折り紙や切り紙、粘土、編み物、砂遊び、紙に針で穴を開けて図柄を描く遊びも取り入れた。
ところが1851年8月、プロイセン政府は幼稚園を禁止した。社会主義と無神論を広める温床だというのである。同じ姓の甥カール・フレーベルが急進的な著作を書いていて、政府が二人を取り違えたというのが通説である。1848年革命の後の反動の時代で、新しい教育の試みはまとめて疑いの目で見られていた。

敬虔なキリスト教徒だったフレーベルは抗議したが、禁止は解かれなかった。翌1852年6月21日、彼は70歳で世を去った。失意のうちに、と伝えられる。禁止が解かれたのは1860年のことである。
幼稚園を世界に広めたのは、彼の死後の弟子たちだった。中心になったのは、晩年のフレーベルを支えた貴族の女性ベルタ・フォン・マーレンホルツ=ビューローで、ヨーロッパ各地を回って幼稚園の意義を説いた。ロンドンでは1851年に最初の幼稚園が開かれた。アメリカでは1856年、フレーベルに直接学んだドイツ移民のマルガレーテ・シュルツが、ウィスコンシン州ウォータータウンの自宅でドイツ語の幼稚園を始め、1860年には教育者エリザベス・ピーボディがボストンで英語の幼稚園を開いた。
日本では1876年(明治9年)、東京女子師範学校の附属幼稚園が開かれた。いまのお茶の水女子大学附属幼稚園である。主任の保母は、ドイツでフレーベルの教育を学び、日本人と結婚して来日していた松野クララだった。
20世紀に入ると、イタリアのマリア・モンテッソーリが別の方法を打ち出した(モンテッソーリの子どもの家)。彼女はフレーベルの恩物を、大人が決めた象徴の遊びだと批判し、子どもが自分で間違いに気づいて直せる、より具体的な教具を作った。やがて幼稚園は、フレーベルの神秘的な体系から離れ、心理学の研究に基づく自由な遊びの場へと変わっていった。多くの国では、小学校に入る準備として字や数を教える場にもなった。それは、フレーベルが最も避けたかったことでもある。
それでも、彼の残したものは生きている。キンダーガルテンという言葉は、そのまま英語になり、アメリカでは小学校の最初の学年を指す言葉になった。そして積み木も残った。建築家フランク・ロイド・ライトの母は、1876年のフィラデルフィア万国博覧会でフレーベルの恩物を見て買い求め、9歳の息子に与えた。
ライトは自伝で、あの滑らかな楓の積み木の感触はいまも指に残っている、という意味のことを書いている。20世紀の新しい造形の学校の教育にも(バウハウスの創立)、フレーベルの影響を見る人がいる。子どもの時期には、それ自体の意味がある。そう考えて「子どもの庭」と名づけた一人の教育者の考えは、いまでは世界中の幼い子どもの毎日の中にある。