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Person / 人

ムルタトゥーリ

Multatuli
AD1820年3月2日 – AD1887年2月19日(享年66)
ネーデルラント重要度 4

概要

本名エドゥアルト・ダウエス・デッケル。ジャワの副理事官として、現地の摂政による搾取を告発して、辞職に追い込まれた。1860年、ブリュッセルの安宿で1か月で『マックス・ハーフェラール、またはオランダ商事会社のコーヒー競売』を書いた。筆名はラテン語で「私は多くを苦しんだ」。オランダで最も重要な小説とされ、植民地政策を変えた。「サーイジャとアディンダ」の章。

関わったできごと(1)

ジャワの強制栽培制度AD1830年 · 告発した

本文

1820年3月2日、アムステルダム。エドゥアルト・ダウエス・デッケル。船長の子。ラテン語学校を中退して、商会で働いた。1838年、父の船でジャワへ。

オランダ領東インドの官吏。18年。スマトラ、アンボン、ジャワ。有能で、規則に合わず、金の勘定が下手だった(勤め先の金庫の不足で、責任を問われたことがある)。

1856年1月、西ジャワのレバック県の副理事官(アシステント・レジデント)に任命された。レバックは貧しい県だった。彼は着任して1か月で、現地の摂政(ブパティ、オランダが統治に使った現地の貴族)が、住民から水牛と労働を、規則を超えて取り上げていることを知った。

オランダの統治は「間接統治」だった。少数のオランダ人官吏が、現地の貴族を通して村を治める。貴族の権威が要る。だから、貴族の搾取は、見て見ぬふりをするのが慣例だった。

デッケルは、上司(理事官)に、摂政の告発と、捜査を要請した。上司は「証拠が不十分だ。摂政を動かせば統治が揺らぐ」と答えた。総督も同じだった。彼は3か月で辞職した。無職、無収入、妻と子。

1859年秋、ブリュッセルの安宿の屋根裏部屋。1か月で書いた。

『マックス・ハーフェラール、またはオランダ商事会社のコーヒー競売』(1860年)。

構造が変わっている。語り手は、アムステルダムのコーヒー仲買人ドロフストッペル(「乾いた麦わら」)。俗物で、金勘定しか興味がなく、詩を軽蔑し、自分の敬虔さを信じている。彼が、昔の知人(「ショールを巻いた男」)から原稿の束を渡され、それを本にする、という枠。原稿の中に、ジャワの副理事官マックス・ハーフェラール(デッケル自身)の物語がある。ドロフストッペルが、時々、口を挟んで、話を中断する。

中に、「サーイジャとアディンダ」の物語が入っている。バドゥールの少年サーイジャの水牛が、県の役人に取り上げられる。次の水牛も。父が年貢を払えず、逃げて、獄で死ぬ。サーイジャはバタヴィアへ働きに出る。3年後、金を持って村へ帰ると、恋人アディンダの家は空で、一家は反乱に加わって、スマトラで殺されていた。サーイジャは、オランダ軍の銃剣に向かって歩いて、死ぬ。

そして、最後の数ページで、作者が現れる。ドロフストッペルもハーフェラールも投げ捨てて、直接、書く。

「私は読まれたい。……そして、私はオランダの人民に問う。3000万を超える臣民が、あなたたちの名において虐待されていることを、あなたたちは知っているのか。……そして、もしこの本が読まれないなら、私はそれを、あらゆる言語に訳させる。……そして、私が問うのは、オランダの民よ、あなたたちが、こう答えるかどうかだ。『それは、我々の意思ではなかった』」。

そして最後、ウィレム3世に向かって。「陛下、この3000万以上の臣民が、陛下の名において虐待されているというのは、真実でしょうか」。

売れた。議論になった。「ハーフェラール事件」。オランダの議会で、東インドの統治が議論された。強制栽培制度は、1870年から段階的に廃止された(本だけの力ではないが、本が世論を作った)。1901年の「倫理政策」の遠い起点になった。

筆名。「ムルタトゥーリ」。ラテン語の multa tuli。「私は多くを苦しんだ」(ホラティウス)。

彼自身は、報われなかった。版権を安く売ってしまい(出版者が意図的に高い値をつけて売れ行きを抑えた、と彼は考えた)、生涯、貧しかった。職に戻れなかった。妻と別れ、賭博をし、借金を重ね、たくさんの論争を書いた(『イデー』全7巻)。1887年2月19日、ドイツのニーダーインゲルハイムで死んだ。66歳。オランダで最初に火葬された人の一人。

インドネシアの独立運動の世代は、この本を読んだ。スカルノは「オランダ人自身が書いた、我々のための本」と言った。1949年、アムステルダムの通りが彼の名になった。1987年、ジャカルタ。プラムディヤ・アナンタ・トゥールは「マックス・ハーフェラールは、植民地主義を殺した本だ」と書いた。