物語

障害の歴史

出てくるできごと AD1371 – AD2000
できごと 18
この物語に出てくる図版:Reading Braille
この物語に出てくる点字の考案から。Reading Braille Wikimedia Commons Stefan Malmesjö · CC BY 2.0

概要

同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。

この物語について

障害は、その人の体の側にあるのか、社会の作りの側にあるのか。この問いへの答えが、扱い方をまるごと決めてきた。

同じ目の見えない人でも、文字の無い社会と、本と画面で情報がやりとりされる社会とでは、困りごとの重さが違う。同じ車椅子の人でも、段差だらけの町と、どこにでも傾斜路のある町とでは、行ける場所が違う。障害の歴史は、誰を社会の数に入れ、誰を入れてこなかったかの歴史でもある。

古い時代には、障害のある子を捨てる習わしがあったと伝えられる社会もある。一方で、障害のある人が特定の仕事を担う社会もあった。中世の日本では、目の見えない琵琶法師が、琵琶を弾きながら『平家物語』を語り歩いた。『平家物語』と琵琶法師は、文字に頼らず、耳と記憶で長大な物語を伝える職だった。目の見えない人々は、のちに当道座という組合を作り、語りや鍼や按摩を職として営んだ。

教えられないとされた子に、教える方法が見つかっていく。18世紀の半ば、パリの神父ド・レペは、聞こえない子どもたちが身ぶりで意思を通じ合っていることに目を留め、手話を使って教える学校を開いた。ろう学校と手話は、聞こえない人々の教育の出発点になった。19世紀の初め、幼いころに失明したフランスの少年ルイ・ブライユは、指で触れて読む六つの点の文字を考案した。点字の考案によって、見えない人は、自分で読み、自分で書けるようになった。この点字が日本語の仮名に置き換えられたのは、1890年のことである。

日本では、1878年に京都で盲唖院が開かれ、目の見えない子と耳の聞こえない子が学校に入った。1887年、アメリカで、見えず聞こえない七歳の少女ヘレン・ケラーは、教師アン・サリヴァンの指が手のひらに綴る文字と、井戸の水の冷たさが結びついたとき、ものに名前があることを知った。ヘレン・ケラーが言葉を得た日は、言葉が届いた瞬間として語り継がれている。

だが、障害を体の側の問題と考えるなら、やることは治療か、隔離か、保護になる。見えない子には職を与え、治らない病は施設に閉じ込め、劣った者は子を残させない。19世紀の終わりから、人間を遺伝で選り分けようとする優生学が広まった。1907年、アメリカのインディアナ州は、障害のある人などに不妊手術を強いることを認める法を作った。断種法は各州に広がり、やがてほかの国々にも広がった。

二十世紀の前半に、この考え方は科学の顔をして極点まで行った。ナチス・ドイツは1933年に断種法を作り、さらに1939年からは、障害のある人々を「生きるに値しない命」として殺害する計画を進めた。T4作戦と呼ばれるこの作戦で、1941年までに7万人ほどが施設でガスによって殺され、その後もひそかに殺害は続いた。費用で命を測る言葉が、殺害に行き着いた。ここで使われた手法と人員は、のちのユダヤ人の大量殺害に引き継がれた。

サリドマイド禍に関わる図版:Thalidomide-2D-skeletal-wavy
サリドマイド禍Wikimedia Commons Benjah-bmm27 · Public domain

日本も、無関係ではない。戦後の1948年にできた優生保護法のもとで、1996年まで、障害のある人などへの不妊手術が本人の同意なしに行われ、その数は1万6千人あまりにのぼった。2024年、最高裁はこの法を憲法違反と判断した。ハンセン病の患者は、1907年の法律以来、療養所に隔離された。特効薬が使えるようになっても隔離は続き、らい予防法の廃止は1996年のことである。必要が無くなっても、隔離は89年続いた。ハワイのモロカイ島に作られた隔離地でも、隔離が解かれたとき、帰る場所のない人々が残った。

戦争は、障害を負った大勢の人々を生んだ。イギリスの医師グットマンは、第二次世界大戦で脊髄を傷つけた兵士たちの治療にスポーツを取り入れ、1948年に病院で車椅子の競技会を開いた。それが発展して、1960年のローマで最初のパラリンピックが開かれる。4年後の東京でも大会が開かれ、日本の選手たちが外国の選手の明るさと自立した暮らしぶりに驚いたことが、日本で障害のある人の働く場を作る動きにつながった。治す体から、競う体へ。障害のある人が、見られる側から、競い、記録を残す側へと立ち位置を変えた。

同じころ、北欧では、障害のある人も、ほかの人と同じような暮らしを送れるようにすべきだという考えが生まれた。1950年代のデンマークで、知的障害のある子どもの親たちの運動から出てきたこの考えは、ノーマライゼーションと呼ばれ、大きな施設に集めて暮らさせるやり方を見直す流れを作った。国連は1981年を国際障害者年と定め、完全参加と平等を掲げた。

薬や公害が、障害を生むこともあった。1950年代の末に睡眠薬として売り出されたサリドマイドは、妊娠中に飲んだ母親から、手足に障害のある子どもを世界で数千人以上生んだ。日本でも300人あまりの子どもが被害を受け、国と製薬会社の責任を問う裁判が起こされた。日本の水俣病では、工場の排水に含まれた有機水銀が、母親の胎内にいた子どもにまで障害を負わせた。そして公害で障害を負った人々が、今度は差別に苦しんだ。

精神の病の扱いも変わった。1952年にフランスで使われ始めたクロルプロマジンは、精神の病の症状を薬で抑える道を開き、長く病院に閉じ込められていた人々が地域へ戻るきっかけを作った。ただし、多くの国で、地域で暮らすための支えは十分に用意されなかった。

障害を社会の側にあると考えるなら、やることは変わる。段差をなくし、手話で教え、点字を用意し、雇う側の条件を変える。1970年代のイギリスでは、障害のある人々自身が、障害を生んでいるのは体の不自由ではなく、それに合わせない社会の作りだと主張した。行ける場所を決めていたのは、体ではなく、道具の重さと道の造りだった。1930年代に折りたためる車椅子が考案されたことで、車椅子は車に積んで出かけられる道具になった。

アメリカでは、1990年3月、障害のある人々が車椅子を降り、議事堂の階段を腕の力で這い上がって、法律の成立を訴えた。その年の7月に成立した障害を持つアメリカ人法は、雇用や交通や公共の施設で、障害を理由に差別することを禁じた。困難は社会の作りの側にある、と法が認めたのである。2006年には国連で障害者権利条約が採択され、日本も2014年に批准した。私たちのことを、私たち抜きで決めないで、という障害のある人々の言葉が、条約づくりの合言葉になった。

老いもまた、誰もがいずれ経験する障害である。長く生きる人が増えれば、目や耳や足が不自由になる人も増える。2000年に始まった介護保険は、老いによる障害を、家族だけでなく社会で支えようとする試みだった。障害は、一部の人の問題ではなく、すべての人の行く先の問題でもある。

この物語は、教えられないとされた子、隔離された患者、競技場に出た選手、法を作らせた運動を並べたものになる。誰を数に入れ、誰を入れてこなかったかが見えてくる。

動画(1)

障害の歴史 〜声なき声に耳をすませば〜【COTEN RADIO #297 】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO障害の歴史を8回かけて扱うシリーズの第1回

この物語が起きた場所

筋(18)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. 『平家物語』と琵琶法師できごとAD1371年目の見えない語り手が、職として物語を担った鎌倉のはじめ、盲目の僧が琵琶を弾きながら平家の滅びを語り歩いた。文字で読む本ではなく、耳で聞く物語。祇園精舎の鐘の声。当道座という盲人の職能集団が、語りの流派と伝授を管理した。1371年、覚一が語りを整理して口述筆記させた(覚一本)。能・浄瑠璃・歌舞伎が、この物語から題材を取り続けた。日本語の散文の調べを作った。京都
  2. ろう学校と手話できごとAD1760年頃手話で教えるという発想パリの司祭ド・レペが、街で出会った二人のろうの姉妹に教えるところから始めた。彼はろう者が既に互いの間で使っていた身振りの言葉に気づき、それを土台にした。ここが重要である。話し言葉を教え込むのではなく、彼らの言葉で教える。1760年頃に無償の学校を開き、公開の授業で生徒に質問させて世に示した。フランス手話がここから広がり、ガローデットがアメリカへ運んだ。一方、19世紀後半には口話法が優勢になり、多くの国で手話が学校から締め出された。パリ
  3. 点字の考案できごとAD1824年自分で読み、自分で書けるようになるルイ・ブライユは3歳のとき、父の革細工の錐で目を突いて失明した。パリの盲学校の生徒だったころ、軍人シャルル・バルビエが「夜間文字」——暗闇で読める12点の符号——を持ち込んだ。ブライユは、指の腹で一度に触れる大きさが要ると考え、点を6つに減らした。縦3×横2。64通り。文字も、数字も、句読点も、そして楽譜も書ける。15歳で完成させた。盲人が自分で書けるようになった最初の体系である。学校が公式に採用したのは、彼の死の2年後だった。パリ
  4. カラウパパの隔離地できごとAD1866年隔離が解かれても、帰る場所はなかったハワイ王国は、外から持ち込まれた病の広がりに苦しんでいた。1865年の法で、ハンセン病と診断された者はモロカイ島の北、三方を海、一方を高い崖に囲まれた半島へ送られることになった。家族と引き離され、多くは二度と戻らない。初期の入植地には建物も食料の供給もなく、送られた人々が自分たちで作るしかなかった。1873年、ベルギー人の神父ダミアンが志願して住み込み、家を建て、傷を洗い、棺を作った。彼自身も感染して1889年に死ぬ。隔離の法が解かれるのは1969年で、それでも帰る場所のない人々はそこに住み続けた。モロカイ島カラウパパ
  5. 恤救規則できごとAD1874年(明治7年)12月8日救済の対象として、障害が制度に書かれる明治政府は、全国に通じる最初の救貧の決まりを出した。前文は、救済は本来「人民相互ノ情誼」、つまり身内と近所の情けで行うものだと述べる。国が出るのは、その情けが届かない者だけである。対象は、身寄りがなく働けない七十歳以上の老人、重い病人、障害のある人、十三歳以下の孤児に絞られた。渡されるのは米代にあたるわずかな現金で、頼る先があると見なされれば外された。救済は権利ではなく、例外だった。この決まりは、1932年に救護法ができるまで、五十八年ものあいだ使われ続けた。東京
  6. 京都盲唖院できごとAD1878年(明治11年)5月24日教えられないとされた子が、学校に入った目の見えない子と耳の聞こえない子は、学制で学校に行くことになっても、行ける学校がなかった。京都の小学校の教師だった古河太四郎は、手真似と、触れる教具を使って教える工夫を重ね、町の人々の運動が府を動かした。1878年、日本で最初の盲唖院が開いた。開業式は雨だったが、三千人が集まったと伝えられる。入学したのは四十八人。読み書きだけでなく、手に職をつける科も置かれた。教えられないとされてきた子どもたちが、教える対象として制度の中に入った。京都
  7. ヘレン・ケラーが言葉を得た日できごとAD1887年4月5日言葉が届いた瞬間井戸の水を手に受けながら、指に w-a-t-e-r と綴られた。それが名前だと分かった。その日のうちに30の語を覚えたと伝わる。タスカンビア
  8. 断種法できごとAD1907年子を残させないという解決策が、法になった劣った者が子を残すから社会が悪くなる、という考えが、二十世紀の初めに学問の顔をして広まった。優生学である。アメリカのインディアナ州は、施設に収容された者のうち、治る見込みがないと判断された人に、本人の同意なく手術を施せる法を作った。世界で最初の強制断種の法である。やがて三十を超える州が続き、1927年には連邦最高裁が合憲と認めた。半世紀のあいだに六万人以上が手術を受けた。誰を「不適格」と決めるのかは、結局、貧しさや人種や施設にいるかどうかで決まった。インディアナポリス
  9. モンテッソーリの子どもの家できごとAD1907年1月6日知的障害の子への教育から始まった方法ローマのスラム、サン・ロレンツォ地区。親が働く間、放置されていた3歳から6歳の子ども50人余りを預かる施設として始まった。医師マリア・モンテッソーリは、知的障害児の教育で用いた教具を、ここで健常児に試した。子どもは自分で教具を選び、集中し、繰り返し、そして満足すると自分で片付けた。大人が教え込むのではなく、環境を整えて子どもが自分で学ぶのを待つ。子どもの背丈に合わせた家具も、彼女の考案である。ローマ
  10. 折りたためる車椅子できごとAD1933年行ける場所を決めていたのは、道具の重さと道の造り鉱山の事故で脊髄を傷めた技師ハーバート・エヴェレストは、重い木の車椅子では家の外へ出られなかった。友人の技師ハリー・ジェニングスと、鋼管をX字に組んだ折りたたみの車椅子を作る。1933年のことである。畳めば自動車に積めた。二人の会社は、のちにアメリカの市場をほぼ独占し、1970年代には独占として司法省に訴えられる。どこへ行けるかを決めていたのは足ではなく、道具の重さと、道と建物の造りだった。ロサンゼルス
  11. T4作戦できごとAD1939年費用で命を測る言葉が、殺害に行き着いたナチス政権下のドイツで、障害のある人を「生きるに値しない命」と呼ぶ言葉が公然と使われるようになった。1939年、ヒトラーは医師と側近に、回復の見込みがないとされた患者に死を与える権限を与える書付を出し、日付を開戦の日に遡らせた。精神科病院から患者が灰色のバスで運ばれ、六つの施設のガス室で殺された。二年で七万人を超える。家族には偽の死亡通知が送られたが、隠しきれず、1941年にミュンスターの司教が説教で告発した。計画は表向き中止され、その後も別の形で続いた。ここで使われた方法と人員が、のちの絶滅収容所に引き継がれる。ベルリン
  12. クロルプロマジンできごとAD1952年病院から地域へ1952年、パリのサンタンヌ病院の精神科医ジャン・ドレーとピエール・ドニケールは、手術の麻酔を助ける薬として作られたクロルプロマジンを、激しい興奮や幻覚に苦しむ患者に与え、症状が大きく静まるのを見た。それまで、精神の病の治療は、拘束、電気ショック、脳の一部を切る手術くらいしかなかった。薬は数年で世界に広まり、大きな精神病院の中の空気を変えた。患者が病院から地域へ戻る道が開けたが、アメリカなどでは病院の閉鎖が先に進み、行き場を失った人々が街にあふれる問題も生んだ。パリ
  13. 水俣病できごとAD1956年公害が、障害を生み、その障害がまた差別された1956年5月、原因不明の中枢神経の疾患として公式に確認された。手足がしびれ、言葉が不明瞭になり、視野が狭まる。原因は、工場が排出したメチル水銀である。魚に濃縮され、それを食べた人に及んだ。胎盤を通って、胎児にも及んだ。企業は排水を続け、行政は認定を絞り、患者は差別された。公式の確認から国が公害と認めるまで12年かかった。2013年、水銀に関する国際条約が「水俣条約」と名づけられた。水俣
  14. 最初のパラリンピックできごとAD1960年9月18日治す体から、競う体へ第二次世界大戦で、背骨を撃たれて下半身が動かなくなった兵が大勢いた。イギリスのストーク・マンデヴィル病院に来たドイツ出身の医師ルートヴィヒ・グットマンは、寝たきりにさせず体を動かすことを治療の柱にし、1948年、車椅子の競技会を開いた。それが各国に広がり、1960年、オリンピックの閉会から七日後のローマで、二十三か国、四百人の大会が開かれた。のちに第一回のパラリンピックと数えられる。障害のある体を、治す対象としてだけでなく、競う体として人前に出したことが、この大会の転換点だった。ローマ
  15. サリドマイド禍できごとAD1961年薬が障害を生み、補償と規制の議論が起きたつわりに効く安全な睡眠薬として西ドイツで市販され、46か国に広がった。動物実験では毒性が出ず、処方箋なしで買えた国もあった。生まれた子に、腕や脚のない、あるいは極端に短い障害が現れた。世界で約1万人。1961年、ドイツのレンツとオーストラリアのマクブライドが薬との関係を指摘し、回収された。アメリカでは審査官フランシス・ケルシーが承認を保留し続けて被害を防いだ。以後、薬の承認に催奇形性の試験と厳格な手続きが要求されるようになった。ハンブルク
  16. 障害を持つアメリカ人法できごとAD1990年7月26日困難は社会の作りの側にある、と法が認めた車椅子で入れない店、点字のない案内、断られる採用。障害のある人が困るのは体のせいだと長く考えられてきた。この法律は、その見方をひっくり返した。困難は、段差や、字の大きさや、雇う側の思い込みという、社会の側の作りから生まれる。だから直すのは社会である。成立の三か月前、車椅子の人々が議事堂の階段を這って上る抗議を行い、その姿が報じられた。雇用、交通、店舗、通信について、合理的な配慮をしないことが差別だと定められた。障害を、個人の問題から社会の設計の問題へ移す考え方が、法の言葉になった。ワシントンD.C.
  17. らい予防法の廃止できごとAD1996年(平成8年)4月1日必要が無くなっても、隔離は八十九年続いたハンセン病は感染力が弱く、1940年代には治る薬ができていた。それでも日本は、患者を療養所に閉じ込める政策を続けた。1907年に始まり、1931年の法で全患者の隔離が国の方針になり、各県が競って患者を探し出して送り込んだ。療養所では改名させられ、子を持つことを許されず、逃げれば監禁室に入れられた。薬が効くと分かったあとも、法は1953年に作り直されて残る。廃止されたのは1996年、始まりから八十九年後である。2001年、熊本地裁は隔離の継続を違憲と認めた。病そのものより、病を恐れる決まりのほうが、人を長く傷つけた。東京
  18. 介護保険できごとAD2000年4月1日老いによる障害を、家族から社会へそれまで、高齢者の介護は家族が、実際にはその家の女性が担うものとされていた。措置制度の下で、行政が対象者と内容を決めた。2000年、40歳以上が保険料を払い、要介護の認定を受けて、事業者と契約してサービスを選ぶ仕組みに変わった。介護の社会化と呼ばれた。家の中で見えなかった労働の一部が、値段の付いた仕事になった。同時に、その賃金は他の産業より低く、人手不足が続いている。数えられるようになっても、安いままである。東京

重なっているストーリー

同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。

考えることの歴史4件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。教育の歴史4件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。感染症と人類3件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。女性の権利3件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。言葉と文字の歴史3件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。技術と産業2件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。都市の歴史2件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。誰が書き残したか2件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。確かめるという方法2件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。支え合いの歴史2件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。武士の700年1件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。主権はだれのものか1件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。交易路とお金1件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。冷戦のあと1件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。日本の古代1件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。表現の歴史1件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。コテンラジオで聞く歴史1件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。差別の歴史1件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。老いと死の歴史1件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。法と裁判の歴史1件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。子どもの歴史1件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史1件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教1件を共有 / 源平の争乱で焼けた寺の再建と、新しい仏教の広がり。12世紀の終わりから14世紀の初めにかけての、武士と民衆が担い手になった文化。
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
この物語だけに絞って、地図と年表で追う国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →