できごと

モチェ文化

The Moche culture
100年 – 700年
期間を持つできごと重要度 3
サバンナの狩猟採集民アマゾンの狩猟採集民パンパの諸文化アンデスの狩猟採集民カリブの狩猟採集民マヤの首長制社会と諸国貝を採る人びとモチェモンテ・アルバン100年モチェ渓谷(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている100年の版図を描いています(9勢力)。

概要

砂漠に運河を引いて谷を潤し、日干し煉瓦の巨大な神殿を建てた。写実的な土器が数万点残り、文字のない社会の暮らしと儀礼を細かく伝えている。

場所

モチェ渓谷位置は特定されていない(誤差 ±30km)
-8.16°N -79.01°E · ペルー・ラ・リベルタ県

本文

南アメリカの太平洋岸、ペルーの北部の海岸は、地球上で最も雨の少ない土地の一つである。沖を流れる冷たい海流のせいで雲が雨にならず、砂漠が海際まで続いている。ただ、東にそびえるアンデス山脈から数十キロおきに川が流れ下り、その流れに沿ってだけ、細長い緑の谷ができる。紀元100年ごろから700年ごろにかけて、この谷々に栄えたのがモチェの人びとである。名前は、中心となった遺跡のあるモチェ谷から取られた。それより前には、アンデスの山中にチャビン文化が栄え、南の海岸では同じころ、ナスカの地上絵を描いた人びとが暮らしていた。

モチェの人びとは、川の水を運河で引いて砂漠を畑に変えた。トウモロコシ、豆、カボチャ、ラッカセイ、トウガラシ、綿を育て、海ではいかだ舟で漁をし、リャマを飼った。いくつもの谷をまたいで、山の上流から長い運河を引いた例もある。運河を掘り、保つには、大勢の人を組織して動かす力が要る。

月のワカ(モチェ文化の遺跡)
月のワカ(モチェ文化の遺跡)Wikimedia Commons Martin St-Amant ( S23678 ) · CC BY 3.0

モチェ谷には、日干し煉瓦を積み上げた二つの巨大な建造物が向かい合っている。大きいほうは「太陽のワカ」と呼ばれ、もとは長さ300メートルを超え、使われた煉瓦は1億個を超えると見積もられている。南アメリカで最大級の日干し煉瓦の建物である。17世紀の初め、スペイン人が中に埋もれた黄金を探すために川の流れを変えてぶつけ、その大部分を崩してしまった。向かいの「月のワカ」は神殿で、何度も建て増しされ、そのたびに古い神殿は新しい層の中に埋められた。おかげで、内側の壁を飾った色鮮やかな浮き彫りがよく残っている。煉瓦の多くには、作った集団を示すとみられる印が押されていて、それぞれの集団が税として煉瓦を納めていたと考えられている。

モチェの人びとは文字を残さなかった。その代わりに、驚くほど豊かな土器を残した。取っ手と注ぎ口を兼ねたあぶみ形の口を持つ壺に、人や動物や植物の姿を形づくり、あるいは細い筆で場面を描いた。とりわけ有名なのは、一人一人の顔を写し取った肖像の壺で、同じ人物が若いときと年老いたときの両方で作られた例もある。ほかにも、病気で顔の崩れた人、手足を失った人、盲人、出産する女性、織物をする人、交わる男女、楽器を奏でる人、戦う戦士、縛られた捕虜。土器は、文字のない社会の暮らしと信仰を伝える、絵入りの百科事典のようなものになっている。

CHAPITRE VII Perou (cropped)
Wikimedia Commons Alain Manesson Mallet · Public domain

1987年、ペルー北部のシパンで、盗掘者が王墓を掘り当て、黄金の品が闇市場に流れはじめた。地元の考古学者ワルテル・アルバは警察とともに遺跡を押さえ、盗掘を免れた別の墓を発掘した。そこに眠っていたのは、金と銀とトルコ石で飾り立てられた支配者だった。黄金の耳飾り、金と銀のラッカセイの形の玉をつないだ首飾り、王笏、何重もの胸飾り。そのそばには、若い女性や戦士、犬やリャマが一緒に葬られていた。「シパンの王」と呼ばれるこの墓は、アメリカ大陸で盗掘を免れた最も豊かな墓の一つになった。

この発見は、土器の絵の読み方を変えた。モチェの土器と壁画には、戦士たちが一対一で戦い、敗れた者が裸にされて縛られ、喉を切られ、その血を満たした杯が身分の高い人物に捧げられる、という場面が繰り返し描かれている。研究者たちは長く、これを神話の場面だと考えていた。ところが、シパンの王が身につけていた冠や飾りは、絵の中で杯を受け取る人物の装いとそっくりだった。のちに別の遺跡では、絵の中の女性の神官と同じ装いの女性の墓も見つかった。月のワカの裏の広場からは、多くの若い男性の骨が見つかり、傷の跡から、戦いのあと犠牲にされたことが分かった。描かれていたのは、実際に行われた儀礼だったのである。2006年には、全身に入れ墨のある女性の支配者のミイラも見つかり、女性が高い地位に就いていたことも明らかになった。

太陽のワカ(モチェ文化の中心地、トルヒーヨ近郊)
太陽のワカ(モチェ文化の中心地、トルヒーヨ近郊)Wikimedia Commons Martin St-Amant ( S23678 ) · CC BY 3.0

モチェが一つの国だったのか、谷ごとの小さな国の集まりだったのかは、議論が続いている。北と南の谷で土器の様式が違い、少なくとも二つの勢力があったとみる研究者が多い。

6世紀の後半、ペルーの山の氷河に残された記録は、激しい気候の変動を示している。数十年にわたる干ばつと、エルニーニョ現象による豪雨と洪水が交互に襲い、運河は壊れ、砂丘が畑を呑み込んだ。モチェ谷の中心地は衰え、人びとは北の谷の奥の、守りやすい場所に新しい都市を築いて移った。それも8世紀の終わりごろまでに放棄され、モチェの文化は姿を消す。その後の北の海岸には、のちにインカと覇を競うことになるチムー王国が現れる(チャン・チャンの造営)。

同じ時代のできごと

王充『論衡』AD80年頃コロッセウムの完成AD80年班超の西域経営AD91年ローマのインスラ(集合住宅)AD1〜2世紀モンテ・アルバンのサポテカAD1世紀九章算術AD100年頃ガンダーラの仏像AD1世紀扶南の港市AD100年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD100年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →