
概要
話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。
この物語について
私たちは、言葉を話し、文字で読み書きし、画面の上で世界の人々とやりとりする。文字はいつ生まれ、言葉はどのようにして、いまの形に整えられてきたのか。
五千年前のメソポタミアで、粘土に刻む楔形文字が生まれ、中国では占いの骨に文字が刻まれた。地中海の商人たちは、少ない文字で音を表すアルファベットを広めた。文字は長いあいだ、役人と神官と学者のものだった。インドの学者は言葉の文法を体系にまとめ、秦の始皇帝は文字の形を一つにそろえた。日本では漢字からかなが生まれ、朝鮮では王が新しい文字を作った。
紙と印刷は、文字を広く安くした。宗教改革は聖書を人々の言葉に訳し、辞書と百科事典が言葉と知識を整理した。19世紀、国家は「国語」を定め、標準の言葉を学校で教え、方言や少数の言葉を退けた。言文一致は、書き言葉を話し言葉に近づけた。点字と手話は、目や耳の不自由な人々に言葉を開いた。
20世紀には、国の手で文字が改められた。トルコはアラビア文字をラテン文字に替え、中国は漢字を簡単にし、日本は漢字の数を絞った。植民地や占領のもとで言葉を奪われた人々もいれば、消えかけた言葉を取り戻そうとする人々もいる。
コンピューターとインターネットは、世界の文字を一つの番号の表にまとめ、絵文字という新しい書き言葉を生んだ。この物語は、言葉を書き留め、広め、整え、奪い、取り戻してきた人類の歩みを並べたものになる。
この物語が起きた場所
筋(51)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 楔形文字の成立できごと紀元前32世紀粘土に刻む文字最初に書かれたのは詩でも法でもなく、麦とビールの帳簿だった。文字は数えるために生まれている。ウルク
- ウガリットの文字できごとBC1400年頃楔形文字の形で、30の音だけを表す文字が作られた。文字の数を音の数まで減らす発想が、フェニキア文字と並ぶもう一つの源流になる。ウガリット

- 甲骨文字できごと紀元前13世紀骨に刻む文字亀の甲羅を焼いて割れ目で占い、問いと答えを彫りつけた。漢字はここから続いている。殷墟(安陽)

- アルファベットの成立できごとBC11世紀頃少ない文字で音を表す数百の記号を覚えなければ書けなかったものが、22の子音字で書けるようになった。書くことが書記の専門職から離れる。ギリシア文字もラテン文字もアラビア文字もヘブライ文字も、ここから枝分かれしている。ビブロス
- パーニニ人物BC520年頃 – BC460年頃言葉の文法を体系にシャラートゥラ(ペシャワールの近く)の人、と伝える。生涯は何も分からない。生きた年も、BC6世紀からBC4世紀まで説がある。『アシュターディヤーイー』3959の規則(スートラ)。音声学、形態論、統語論、方言、ヴェーダ語と日常語の違い。記述の方法自体が、2000年後の言語学の方法。ブルームフィールド「人間の知性の最も偉大な記念碑の一つ」。パタンジャリ(BC2世紀)の注釈『マハーバーシュヤ』で伝わった。
- アレクサンドリアの図書館できごとBC3世紀プトレマイオス朝の王たちは、世界中の書物を一か所に集めようとした。港に入る船はすべて臨検され、積んでいた巻物は没収されて写しが作られる。返されたのは写しのほうで、原本は図書館に残されたと伝えられる。アテナイから借りた悲劇の台本も、高額の保証金を捨てて返さなかったという。集めるだけでなく、整理もした。カリマコスは蔵書を分野と著者ごとに並べた目録を作り、これが図書目録の始まりとされる。焼失の時期も原因も一つに定まらない。むしろ、支援が細り、学者が去り、写しを取る人がいなくなって、少しずつ失われていった。アレクサンドリア
- 度量衡と文字の統一できごとBC221年文字の形をそろえる枡と秤と物差しを揃え、車の幅を揃え、文字を小篆に揃えた。国ごとに違っていたものを一つにする。方言が違っても同じ字で通じる、という中国の形がここで決まる。咸陽
- ティロの速記できごとBC63年速く書く話す速さで書き取る方法である。キケロの解放奴隷マルクス・トゥッリウス・ティロが体系を作ったとされる。プルタルコスは、カティリナ弾劾に続く元老院の討論で、カトーの演説をこの方法で記録させたのが最初だと書く。約4,000の記号から始まり、中世には13,000にまで膨れた。ローマ帝国の元老院と裁判の記録は、これで取られた。中世の修道院でも使われ、そしてカロリング朝の後に廃れた。ただし ⁊ の記号だけは、アイルランド語の表記に、いまも残っている。ローマ
- 蔡倫の製紙法できごとAD105年紙樹皮や布くずから安価な紙を作る方法をまとめた。600年後、タラス河畔で西へ渡る。洛陽
- 『万葉集』の成立できごとAD759年頃漢字で日本語を書く20巻、4500首。天皇から防人、遊女、乞食まで。大伴家持が最後の歌を759年に詠み、その後に編んだと考えられている。漢字の音で日本語を書いた「万葉仮名」。「令和」はこの本の梅の歌の序文から。読み方が固まるのは、平安の半ばに藤原公任らが訓をつけてから。平城京
- スラヴ語への伝道できごとAD863年スラヴの文字聖書をスラヴの言葉に訳すために、新しい文字が作られた。のちのキリル文字の元になる。モラヴィア(位置は特定されていない)
- 『古今和歌集』できごとAD905年(延喜5年)醍醐天皇の命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が編んだ最初の勅撰和歌集。20巻、1100首。『万葉集』の後の150年から。仮名の序。「やまとうたは、人の心を種として」。それから500年、勅撰集は21回続き、歌の型はこの本が決めた。京都

- 紀貫之『土佐日記』とかな文字できごとAD935年(承平5年)ごろかなで書く平安時代のはじめ、公の文書や男の学問は漢文で書かれ、漢字を崩した「かな」は、和歌や手紙に使う私の文字で、とくに女性の文字とされた。934年、土佐の国司の任期を終えて都へ帰る紀貫之は、その55日の船旅を日記に書いた。冒頭で彼は、男も書くという日記というものを、女の私も書いてみようと思う、と記し、女性のふりをしてかなで書いた。漢文では書けない、旅の不安や、土佐で亡くした娘への悲しみが、日々の言葉でつづられた。かなで書く散文の道を開いたこの日記ののち、『蜻蛉日記』や『源氏物語』など、女性たちのかなの文学が花開いた。京都
- 西夏文字の制定できごとAD1036年漢字に似て、漢字より画数の多い6000字を、皇帝の命で一度に作った。仏典と字書が訳され、20世紀に解読された。国が滅びて文字だけが残った例になる。興慶(銀川)
- 畢昇の活字できごとAD1045年頃膠泥(粘土)を薄く切って字を彫り、火で焼いて硬くした。鉄の板に松脂と蝋と紙の灰を敷き、その上に活字を並べ、温めて押し付けて平らにする。刷り終えたら温めて外す。沈括が『夢渓筆談』に書いた。漢字は数万種あって、一つの本に同じ字が何度も出るので、木版のほうが安かった。それでも、活字の原理は、朝鮮(金属活字、13世紀)へ渡った。グーテンベルクの400年前。開封
- 『神曲』できごと1308年俗語で書くラテン語ではなく話し言葉で書いた。それがイタリア語という書き言葉を作ることになる。フィレンツェ

- 『直指』の印刷できごとAD1377年清州の興徳寺で、白雲和尚の編んだ禅の語録を、金属活字で刷った。現存する世界最古の金属活字本。グーテンベルクの78年前。下巻1冊がフランス国立図書館にある(1887年に駐朝公使コランが持ち帰り、1950年に寄贈された)。朝鮮では1234年に金属活字で刷った記録があり(現物は残らない)、1403年からは国家が鋳字所を置いた。開城
- 訓民正音の頒布できごとAD1446年10月9日王が作った文字世宗が28字の文字を作って公布した。序文。「国の語音、中国と異なり、文字と互いに通ぜず。ゆえに愚民、言わんと欲する所あれども、ついにその情を伸べ得ざる者多し。予、これを憐れみて、新たに二十八字を制る。人々をして易く習い、日々の用に便ならしめんと欲するのみ」。子音は発音するときの口と舌の形をかたどり、母音は天と地と人。両班は「漢字を捨てるのか」と反対した。漢城(ソウル)
- グーテンベルクの活版印刷できごとAD1455年頃活版印刷書物が手写しから機械の複製になった。考えが広がる速さが根本から変わる。

- ルターのドイツ語訳聖書できごと1522年9月聖書を自分の言葉で1521年、ヴォルムスの帝国議会で教えを撤回せず、帝国から追放されたルターは、ザクセン選帝侯にかくまわれ、ヴァルトブルク城に身を隠した。そこで彼は、新約聖書をギリシア語の原典から、わずか11週間ほどでドイツ語に訳した。1522年9月に出版された訳は、数か月で売り切れた。ルターは、学者の言葉ではなく、家の母親や路地の子どもや市場の庶民の口ぶりに耳を傾けて訳したと書いている。1534年には旧約を含む聖書の全訳が出た。誰もが自分の言葉で聖書を読めるようになり、ルターの訳は、方言に分かれていたドイツ語の書き言葉をまとめる土台になった。ヴィッテンベルク
- 欽定訳聖書できごとAD1611年1604年、イングランド王ジェームズ1世は、国教会の中の対立を収めるため、新しい英語訳の聖書を作ることを認めた。50人ほどの学者が6つの組に分かれ、ヘブライ語とギリシア語の原典と、それまでの英語訳を突き合わせて訳を練った。とくに、異端とされて処刑されたウィリアム・ティンダルの訳から多くを受け継いだ。1611年に出版された「欽定訳聖書」は、声に出して読まれることを意識した、荘重で響きのよい英語で書かれた。その後三百年近く、英語を話す人々が最も多く読む本になり、「地の塩」「目には目を」など多くの言い回しが英語に根づいた。ロンドン
- アカデミー・フランセーズの創設できごとAD1635年国が言葉の正しさを定めるパリで文学を語り合っていた私的な集まりに目をつけた宰相リシュリューは、1635年、これを国王の認めた公の機関にした。アカデミー・フランセーズである。会員は40人に限られ、その務めは、フランス語を純粋で雄弁なものにし、芸術と学問を語るにふさわしい言葉に整えることとされた。会員は「不滅の人々」と呼ばれ、亡くなると後任が選ばれる。最初の辞書が出たのは、60年近く後の1694年だった。国が言葉の正しさを定める機関を持つ考えは、スペインなど他の国にも広がった。女性の会員が初めて選ばれたのは、1980年だった。パリ
- 『百科全書』できごと1751年20年かけて全28巻。知識を教会と王の手から取り上げて並べ直す仕事で、たびたび発禁になっている。パリ

- ジョンソンの英語辞典できごとAD1755年辞書書店の組合が、フランスやイタリアのような国家的な辞典を英語にも、と企画した。アカデミーが40年かけた仕事を、サミュエル・ジョンソンは屋根裏で6人の写字生と9年で仕上げた。4万2773語。革新は、語義に文学からの引用を添えたことである。11万4000の用例。定義には彼の癖が出た。「オート麦——イングランドでは馬に、スコットランドでは人に与えられる穀物」「辞書編纂者——無害な苦役者」。150年、英語の標準であり続けた。ロンドン

- ろう学校と手話できごとAD1760年頃手話パリの司祭ド・レペが、街で出会った二人のろうの姉妹に教えるところから始めた。彼はろう者が既に互いの間で使っていた身振りの言葉に気づき、それを土台にした。ここが重要である。話し言葉を教え込むのではなく、彼らの言葉で教える。1760年頃に無償の学校を開き、公開の授業で生徒に質問させて世に示した。フランス手話がここから広がり、ガローデットがアメリカへ運んだ。一方、19世紀後半には口話法が優勢になり、多くの国で手話が学校から締め出された。パリ
- チェロキー文字の完成できごとAD1821年ひとりで作った文字文字というものがある、と知っただけの男が、12年かけて85字の音節文字を作った。文字を「借りた」側の、いちばん分かりやすい例。ニュー・エコタ

- ロゼッタ・ストーンの解読できごとAD1822年9月失われた文字を読む同じ勅令が三つの文字で刻まれた石から、シャンポリオンが聖刻文字を解いた。エジプト3000年の記録が、初めて読めるようになる。パリ
- 点字の考案できごとAD1824年指で読む文字ルイ・ブライユは3歳のとき、父の革細工の錐で目を突いて失明した。パリの盲学校の生徒だったころ、軍人シャルル・バルビエが「夜間文字」——暗闇で読める12点の符号——を持ち込んだ。ブライユは、指の腹で一度に触れる大きさが要ると考え、点を6つに減らした。縦3×横2。64通り。文字も、数字も、句読点も、そして楽譜も書ける。15歳で完成させた。盲人が自分で書けるようになった最初の体系である。学校が公式に採用したのは、彼の死の2年後だった。パリ

- オックスフォード英語辞典できごとAD1857年語の意味を定めるのではなく、その語が歴史の中でどう使われてきたかを、用例で示す。1857年に文献学協会が構想し、完成まで71年かかった。方法は市民の参加である。世界中の読者に本を割り当て、語の用例をスリップに書いて送らせた。集まった紙片500万枚。編集主幹マレーは庭に鉄板の小屋を建て、1000個の仕切りにそれを収めた。最大の寄稿者の一人マイナーは、殺人を犯してブロードムア精神病院に収容されていた軍医だった。1928年完成、全10巻、41万4825語。オックスフォード

- 漢字御廃止之議できごとAD1867年(慶応2年12月)漢字をやめる議論幕府の開成所で翻訳の仕事をしていた前島来輔(のちの前島密)は、慶応2年の暮れ、将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を差し出した。国を強くするには国民の教育を広めなければならないが、何千もの漢字を覚えるのに子どもは長い年月を費やし、肝心の知識を学ぶ暇がない。西洋のように、音を表す文字だけで教えるべきだと説き、仮名で書くことを提案した。建白は取り上げられなかったが、前島は明治になって郵便の制度を作り、仮名の新聞も出した。漢字を減らし、あるいはやめようという議論は、ここから戦後まで繰り返されることになる。江戸
- タイプライターとQWERTYできごとAD1873年機械で書く新聞編集者クリストファー・ショールズらが、実用になる印字機を作った。活字棒が扇形に並び、打つと上へ跳ね上がって紙を叩く。速く打つと隣り合う棒が絡む。そこで、よく続けて使われる文字を離す配置に変えていった。QWERTY である。1873年、銃器製造のレミントン社が製造を引き受けた。紙が見えない、大文字しか打てない、という欠点を抱えたまま普及した。事務の現場に女性が入る大きな入口になり、配列だけが、いまも指の下にある。ミルウォーキー
- ヘブライ語の復活できごとAD1881年死んだ言葉をよみがえらせる典礼と学問には使われ続けたが、日常の話し言葉としては千数百年、誰も使っていなかった。エリエゼル・ベン・イェフダーは、パレスチナへ移り、家庭で息子にヘブライ語だけで話しかけた。近代の生活に必要な語が無い。彼は古い文献から掘り出し、アラビア語の語根から作り、辞書を編んだ。息子イタマルは、数年間、話し相手が父しかいなかった。学校での教授が広がり、二世代で話者が生まれる。死んだ言語が日常語に戻った、唯一の例である。エルサレム
- エスペラントできごとAD1887年7月26日国を超える言葉ビャウィストクは、ポーランド語、ロシア語、ドイツ語、イディッシュ語が入り混じる町だった。眼科医ザメンホフは、諍いの根に言葉の壁があると考えた。誰の母語でもない、学びやすい共通語を作る。文法は十六の規則で、例外が無い。語彙は主にロマンス語とゲルマン語から採った。ドクトーロ・エスペラント、希望する者、という筆名で出した小冊子が、書名ではなく言語の名になった。話者は数十万から二百万と推定が割れる。国家に採用されたことは、一度も無い。ワルシャワ
- 言文一致できごとAD1887年話すように書く明治まで、日本語の書き言葉は話し言葉と別物だった。漢文訓読体、候文、雅文。二葉亭四迷は『浮雲』を書くとき、どう書けばよいか分からず、坪内逍遥に相談した。「三遊亭円朝の落語通りに書いてみろ」と言われた。速記された落語の本が売れていた時代である。「だ」で終える文体ができた。山田美妙は「です」、尾崎紅葉は「である」。学校教育と新聞と、そして活版印刷が、これを全国の標準にした。話すように書く、という当たり前が、作られたものである。東京
- ヘレン・ケラーが言葉を得た日できごとAD1887年4月5日井戸の水を手に受けながら、指に w-a-t-e-r と綴られた。それが名前だと分かった。その日のうちに30の語を覚えたと伝わる。タスカンビア
- 国際音声記号できごとAD1888年音を書き表す記号英語の綴りと発音は大きくずれていて、文字を見ても読み方が分からないことが多い。1886年、パリの英語教師ポール・パシーらは、外国語の発音を正しく教えるための会を作り、1888年、その機関誌で、世界のあらゆる言語の音を書き表すための記号を発表した。一つの音には一つの記号、一つの記号には一つの音。ローマ字をもとに、足りない音には新しい記号を加えた。国際音声記号は、その後も改訂を重ねながら、言語学、外国語の辞書や教科書、言語聴覚士の仕事などで、世界共通の発音の書き方として使われている。パリ
- 大槻文彦『言海』できごとAD1891年国語辞典1875年、文部省は洋学者の大槻文彦に、日本語の辞書を作るよう命じた。西洋の国々が自国の言葉の辞書を持っているように、日本も国の言葉を整えた辞書を持たなければならないと考えられた。大槻は、言葉を五十音順に並べ、一つ一つに品詞と語源と意味を示し、用例を添えるという、西洋の辞書にならった方法で、ほぼひとりで10年あまりかけて原稿を書き上げた。政府は出版の費用を出さず、大槻は自費で1889年から1891年にかけて4冊の『言海』を出した。日本で初めての近代的な国語辞典である。東京
- 「国語」と標準語できごとAD1894年国語と標準語明治のはじめ、日本の言葉は地方ごとにまったく違い、薩摩の人と津軽の人では話が通じなかった。書き言葉も、漢文訓読体、候文、和文と分かれていた。1894年、ドイツで言語学を学んで帰国した上田万年は、日清戦争のさなか、「国語と国家と」と題する講演で、国の言葉は国民の精神の血であると説いた。1900年、小学校の教科として「国語」が生まれ、1902年には国の機関が東京の教養ある人々の話し言葉をもとに標準語を定めることを方針にした。教科書を通じて標準語は全国に広がったが、学校で方言を話した子どもに罰の札を下げさせる地域もあった。東京
- ハワイ語の禁止と復活できごとAD1896年奪われ取り戻された言葉19世紀のハワイ王国では、宣教師が作ったハワイ語の書き方が広まり、国民の多くが読み書きでき、ハワイ語の新聞が何十も出ていた。1893年、アメリカ系の白人たちが女王リリウオカラニを退位させて王国を倒すと、1896年、新しい政府は、学校の授業を英語で行うことを法で定めた。子どもたちは学校でハワイ語を話すと罰せられ、ハワイ語を話す家庭は急に減った。1980年代には、ハワイ語を母語とする子どもは数十人しかいなかった。1978年、ハワイ州はハワイ語を英語と並ぶ公用語とし、1980年代から、ハワイ語だけで育てる幼稚園と学校が作られ、言葉は少しずつ息を吹き返している。ホノルル
- 五四運動できごとAD1919年5月4日話し言葉で書くパリ講和会議が、ドイツの山東の権益を日本に渡した。北京の学生3000人が天安門に集まり、親日派の曹汝霖の家を焼いた。逮捕、ストライキ、上海の商人の休業、日本製品の不買。政府は調印を拒んだ。新文化運動(『新青年』、陳独秀、胡適、魯迅、白話文)が政治になった。李大釗と陳独秀がマルクスを読み、1921年、共産党。北京

- 知里幸恵『アイヌ神謡集』できごとAD1923年自らの言葉で書き残す知里幸恵は1903年、北海道の登別に、アイヌの家に生まれた。祖母と伯母から、神々が自らを語る謡「カムイユカラ」を聞いて育った。15歳のとき、アイヌ語を研究していた言語学者の金田一京助に出会い、その勧めで、謡を自分でローマ字で書き取り、日本語に訳した。1922年、東京の金田一の家で校正を終えた夜、心臓の病で亡くなった。19歳だった。翌1923年、『アイヌ神謡集』が出版された。アイヌの人が自らの言葉で自らの文化を書き残した最初の本である。アイヌ語は、同化の政策のなかで話す人が激減し、いまでは消滅の危機にある言語とされている。東京
- トルコの文字改革できごとAD1928年11月1日文字を替えるオスマン帝国のトルコ語は、アラビア文字で書かれていた。だがアラビア文字は母音を表しにくく、トルコ語の音に合わなかった。読み書きのできる人は国民の一割ほどだった。共和国を建てたケマル・アタテュルクは、1928年の夏、イスタンブルの公園で黒板の前に立ち、ラテン文字をもとにした新しいアルファベットを自ら人々に教えてみせた。11月1日、議会は新しい文字を採用する法を定め、翌年から公の場でアラビア文字を使うことが禁じられた。全国に「国民の学校」が開かれ、大人も新しい文字を学んだ。言葉からアラビア語やペルシア語の語を除く運動も続いた。アンカラ
- 朝鮮語学会事件できごと1942年10月言葉を守るハングルの綴り方は長く定まっていなかった。言語学者の周時経の弟子たちは朝鮮語学会を作り、1933年、ハングルの正書法の統一案をまとめ、朝鮮語の大辞典の編纂を進めた。日本の統治のもとで、朝鮮語の教育は1938年に正規の科目から外され、1940年には名前を日本式に変えさせる創氏改名が行われた。1942年10月、警察は、朝鮮語学会を独立運動の団体だとして、会員を次々に治安維持法違反で捕らえた。取り調べは過酷で、2人が獄中で死んだ。押収された辞典の原稿は、1945年の解放の後、ソウル駅の倉庫で見つかり、のちに辞典として完成した。ソウル
- 当用漢字と現代かなづかいできごとAD1946年11月16日漢字の数を絞る敗戦の翌年、日本の文字のあり方は大きく変わった。占領軍に招かれたアメリカの教育使節団は、漢字の学習が子どもの重荷になっているとして、ローマ字を使うことを勧めた。作家の志賀直哉は、いっそフランス語を国語にしてはどうかと書いた。1946年11月16日、政府は、日常に使う漢字を1850字に限る当用漢字表と、発音に近い書き方にする現代かなづかいを告示した。「てふてふ」は「ちょうちょう」と書くことになった。新聞や教科書はこれに従い、漢字は数を絞られた。1981年には、目安としての常用漢字表に改められ、2010年に2136字になった。東京
- 線文字Bの解読できごとAD1952年クレタ島クノッソスで見つかった粘土板の文字。50年、誰も読めなかった。建築家マイケル・ヴェントリスは14歳でエヴァンズの講演を聞いて取り憑かれ、余暇に取り組んだ。記号の出現位置を統計的に整理し、格子状の表に並べ、音節の対応を推測した。そして自分の予想に反する結論に達した。この言語はギリシア語である。ミケーネ文明がギリシア語を話していたことが、これで確定した。粘土板の中身は、羊の頭数と油の配給の記録だった。彼は4年後、34歳で交通事故で死んだ。ロンドン
- マヤ文字の解読できごとAD1952年アメリカの権威エリック・トンプソンは、マヤ文字は表意的な絵であって言語を書き写したものではない、と主張し、その説が数十年、分野を支配した。レニングラードの若い研究者ユーリー・クノロゾフは、16世紀の司教ランダが残した「マヤのアルファベット」の写しを読み直し、それが音節を表す表だと見抜いた。1952年に発表した。冷戦下で、西側は「ソ連の宣伝」として無視した。1970年代以降、若い世代が彼の方法で読み進め、マヤの王の名と即位の年と戦争の記録が、次々に読めるようになった。サンクトペテルブルク
- 機械翻訳の公開実験できごとAD1954年1月7日機械が訳すジョージタウン大学とIBMが、記者を集めて実演した。ロシア語の六十余りの文を、IBM701が英語に訳す。語彙は250語、規則は六つ。選ばれた文は、あらかじめ分かっていた。報道は熱狂し、五年で機械翻訳は解決すると書かれた。実際には、語義の曖昧さと文脈の問題が、規則では手に負えなかった。1966年のALPAC報告が、資金を打ち切る。統計的手法と、そして機械学習が現れるまで、この分野は長く冬に置かれた。ニューヨーク
- 簡体字とピンインできごとAD1956年1月28日漢字を簡単にする1949年の中華人民共和国の成立のとき、国民の8割ほどは読み書きができなかったとされる。漢字の数の多さと画数の複雑さが、その壁の一つとみなされた。1956年1月28日、国の政府は「漢字簡化方案」を公布し、画数の多い漢字を簡単な形に改めた。「國」は「国」に、「書」は「书」に。1958年には、漢字の読みをローマ字で表す「漢語ピンイン」が定められ、学校で発音を教えるのに使われた。識字の運動と学校教育の広がりで、読み書きのできる人は大きく増えた。台湾や香港では、いまも伝統の字体の漢字が使われている。北京
- ユニコードできごと1991年10月世界の文字に番号をコンピューターは文字を数字に置き換えて扱うが、その対応の決め方は国や会社ごとにばらばらだった。日本語の文書を別の仕組みのコンピューターで開くと、文字化けして読めなくなった。1980年代の末、ゼロックスやアップルの技術者たちは、世界のすべての文字に一つずつ番号を振る仕組みを考え、「ユニコード」と名づけた。1991年1月にユニコード・コンソーシアムが作られ、10月に最初の版が出た。日本と中国と韓国の漢字を同じ字として一つにまとめたことには、日本で反発も起きた。いまでは十五万を超える文字と、日本で生まれた絵文字が収められ、インターネットの文字のほとんどがユニコードで書かれている。マウンテンビュー
- 絵文字できごとAD1999年絵の文字携帯電話で短い文を送り合うようになると、そっけなさが問題になった。「わかりました」だけでは、怒っているのか普通なのか分からない。1999年、携帯電話の情報サービスの開発にいた栗田穣崇らは、十二×十二の点で描いた百七十六個の小さな絵を文字として送れるようにした。天気、顔、乗り物、ハート。声の調子や表情の代わりである。国内の規格がばらばらのまま広まり、2010年、国際的な文字の規格に取り込まれた。日本語の「絵文字」が、そのまま世界の言葉になった。東京
- 誰でも書ける百科事典できごとAD2001年1月15日専門家が書き、査読してから載せる無料の百科事典の計画は、一年かけても記事がわずかしか増えなかった。2001年1月15日、ジミー・ウェールズとラリー・サンガーは、誰でもその場で書き換えられる仕組みで、別の百科事典を始める。間違いはすぐ入り、すぐ直される。数年で既存の百科事典を記事の数で追い越した。広告を載せず、寄付で運営されている。書き手の多くは名前も知られない人びとである。知識の作り方の、新しい形が生まれた。サンディエゴ
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
誰が書き残したか23件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。考えることの歴史14件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。技術と産業10件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。教育の歴史10件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。表現の歴史7件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。メディアの歴史6件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。中国の王朝5件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史5件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。明治4件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。古代オリエント4件を共有 / 文字も法も都市も、まずここで生まれた。そして次々に主が入れ替わる2500年。朝鮮半島4件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。主権はだれのものか4件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。確かめるという方法4件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。キリスト教のひろがり3件を共有 / 迫害される小集団が、300年で帝国の宗教になり、そこから何度も割れながら世界へ出ていった。日本の古代3件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。文明のはじまり3件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。コテンラジオで聞く歴史3件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『想像の共同体』で読む歴史3件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。差別の歴史3件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。障害の歴史3件を共有 / 同じ体でも、社会の作りが変われば障害の重さは変わる。誰を数に入れるかの歴史になる。宗教改革と科学革命2件を共有 / 教会が独占していた「何が正しいか」の答えが、聖書と観測に明け渡されるまで。女性の権利2件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。都市の歴史2件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『繁栄』で読む歴史2件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。ローマ人の物語1件を共有 / ラティウムの一都市が地中海全域を呑み込み、そして西半分が消えるまでの1200年。中華の統一1件を共有 / 殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。冷戦1件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。東ローマ千年1件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。交易路とお金1件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。冷戦のあと1件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。接触前のアメリカ1件を共有 / 旧大陸と行き来のないまま、農耕も都市も国家も別々に生まれた。3000年ぶんの、独立した実験。『サピエンス全史』で読む歴史1件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『反穀物の人類史』で読む歴史1件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史1件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『チーズとうじ虫』で読む一人の宇宙1件を共有 / 16世紀の村の粉挽きが、世界は腐ったチーズから生まれたと語った。裁判の記録から、一人の頭の中を復元する。『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス1件を共有 / 「ルネサンス」という時代の像そのものを作った本。150年たっても、まだその像の中にいる。働くことの歴史1件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。