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Event / できごと

ルーミー『精神的マスナヴィー』

Rumi's Masnavi
AD1270年頃
年に諸説あり重要度 5

概要

法学者だった彼は、37歳のとき、放浪の修行者シャムスに会って、人が変わった。2年後にシャムスが消え(弟子たちに殺されたとも)、その喪失から詩が溢れ出した。『マスナヴィー』2万5000句。冒頭は葦笛の嘆き。「葦の笛が語るのを聞け。別れを嘆いている。葦原から切り取られてから、私の泣き声に、男も女も泣いた」。旋回舞踏(セマー)は、彼の死後、息子が儀礼にした。アメリカで最も読まれている詩人、と言われる。

場所

コンヤ
37.87°N 32.49°E · トルコ

関わった人(1)

ルーミーAD1207年9月30日–AD1273年12月17日 · 書いた

本文

1207年、バルフ(いまのアフガニスタン北部。ホラーサーンの学問の都市)。父バハーウッディーン・ワラドは、法学者で説教師、スーフィーの導師。「学者の王(スルターン・アル・ウラマー)」と呼ばれた。

1215年頃、一家がバルフを出た。モンゴルの侵攻の前(1220年、チンギス・ハンの軍がバルフを破壊し、住民を皆殺しにした)。理由は、支配者との不和とも、危険を予見したとも。

移動。ニーシャープール(ここで、老いた詩人アッタールに会った、という伝承。アッタールが少年ルーミーを見て「この子は、いつか、愛の炎で世界を焼くだろう」と言い、自作の『秘密の書』を与えた)、バグダード、メッカ、ダマスクス、そしてアナトリア。

1228年、コンヤ。ルーム・セルジューク朝の都。「ルーミー(ルームの人)」の名は、ここから(東ローマ=ルームの旧領)。父が学院で教えた。1231年、父が死に、24歳のジャラールッディーンが後を継いだ。

以後14年、彼は法学者だった。教え、説教し、フェトヴァ(法的な意見)を出した。弟子が数百人。

1244年11月、シャムス・タブリーズィー。放浪の修行者(カランダル)。60歳前後。粗い黒い衣。定住せず、儀礼と学識を軽んじ、直接の体験だけを求めた。

出会いの伝承(複数ある)。ルーミーが本を積んだ驢馬で市場を通っていると、シャムスが問うた。「それは何だ」。「あなたには分からないものだ」。シャムスが本を池に投げ込んだ。ルーミーが叫ぶと、シャムスは手を入れて、濡れていない本を取り出した。「これがあなたには分からないものだ」。

別の伝承。シャムスが問うた。「預言者ムハンマドと、バーヤズィード・バスターミー(『われに栄光あれ、わが位はいかに高きか』と叫んだスーフィー)と、どちらが偉大か」。ルーミーが「もちろん預言者だ」と答えると、シャムスが「では、なぜ預言者は『われらは汝を知るべきほどに知らなかった』と言い、バーヤズィードは『われに栄光あれ』と言ったのか」。ルーミーは、そこで気を失った、と伝える。

二人は、部屋に籠もった。40日とも、数か月とも。誰も入れなかった。

弟子たちが怒った。師が、素性の知れない放浪者に奪われた。1246年、シャムスが去った(シリアへ)。ルーミーは打ちのめされ、息子スルタン・ワラドを送って連れ戻した。1247年12月、シャムスが再び消えた。今度は永久に。

弟子(ルーミーの息子アラーウッディーンを含む)が殺して井戸に投げた、という説がある。証拠はない。ルーミーはシリアへ二度、探しに行った。

そして、詩が始まった。

『ディーワーネ・シャムセ・タブリーズィー(シャムス・タブリーズィー詩集)』。ガザル(抒情詩)約3200篇、四行詩約2000篇。3万5000句以上。彼は自分の詩を、シャムスの名で署名した。「私は彼である」。

『マスナヴィー・イェ・マアナヴィー(精神的マスナヴィー)』。6巻、2万5000句余り。晩年の12年、弟子フサームッディーンに口述した(歩きながら、風呂の中で、夜通し。フサームッディーンが書き取り、読み返し、ルーミーが直した)。

冒頭。

「聞け、この葦の笛が語ることを。/別れを嘆いているのを。/葦原から切り取られてから、/私の泣き声に、男も女も泣いてきた。/別離に引き裂かれた胸がほしい、/憧れの痛みを語るために。/源から遠ざかった者は誰でも、/再び会える時を求める」。

(葦は、切られて笛になる。切られたから、鳴る。人は、神から切り離されたから、憧れる。)

内容は、物語の連鎖。コーランの話、ハディース、民話、動物譚、猥雑な笑話、そしてそこからの脱線と註釈。順序はなく、話が話を呼ぶ。「ペルシア語のコーラン」と呼ばれた(ジャーミー)。

象の話。暗い部屋の中の象を、人々が手で触る。鼻に触った者は「水道管のようだ」、耳に触った者は「扇のようだ」、脚に触った者は「柱のようだ」。「もし各々の手に蝋燭があれば、言葉の違いは消えたのに」。

「私は死んだ、鉱物になった。そして植物になった。植物として死に、動物になった。動物として死に、人になった。なぜ恐れるのか。死んで、劣ったことがあるか。次に人として死ねば、天使になるだろう。天使としても死ななければならない」。

1273年12月17日、コンヤで死んだ。66歳。葬列に、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ人が加わった。

死の日は「シェビ・アルス(婚礼の夜)」と呼ばれる。魂が、愛する者と一つになる夜。

メヴレヴィー教団。彼の死後、息子スルタン・ワラドが組織した。旋回舞踏(セマー)。右手を天に向け、左手を地に向け、右足を軸に、左足で回る。天から受けたものを、地に流す。1925年、トルコ共和国が全ての教団を禁じた。1954年、「文化」として復活が認められた。

いま、コンヤの緑のドームの霊廟に、年200万人が訪れる。

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