人物

ウォーレス・セイビン

Wallace Clement Sabine
AD1868年6月13日 – AD1919年1月10日(享年50)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

オハイオの生まれ。ハーヴァードで物理を教えていた二十七歳のとき、聞き取れない講堂の調査を命じられた。音響学の予備知識は無い。夜ごとオルガン管を鳴らし、座布団と人を出し入れしながら、残響の消える時間を測り続けた。得た式は、いまも彼の名で呼ばれている。ボストン交響楽ホールの設計に関わり、それは世界で最も響きの良いホールの一つと評価されている。第一次大戦中に軍務で消耗し、五十歳で死んだ。吸音の単位に、彼の名がある。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

残響を測るAD1900年 · 測った

本文

ウォーレス・クレメント・セイビンは1868年6月13日、オハイオ州の小さな町リッチウッドに生まれた。早くから学問に秀で、16歳でオハイオ州立大学に入り、18歳で卒業した。それからハーヴァード大学の大学院に進んで物理学を学んだが、博士号は取らなかった。論文を書かないまま、1890年代の初めに講師として教え始め、そのまま教え続けた。のちに名誉学位はいくつも受けたが、博士の学位は最後まで持たなかった。

1895年、大学は困った問題を抱えていた。新しく建てたフォッグ美術館の講堂で、話し手の声がまるで聞き取れないのである。一つ一つの言葉がいつまでも響き残り、次の言葉と混ざり合う。学長は物理学科に何とかするよう命じたが、年長の教授たちは、解ける見込みがないと引き受けなかった。仕事は序列の低い若手に回された。27歳のセイビンだった。彼には音響学の下地はなかった。

彼はそれから3年近く、夜ごと講堂にこもった。授業のない夜10時ごろから明け方まで測り、朝の講義までにすべてを元に戻す。オルガンのパイプを一本鳴らしてぴたりと止め、音が聞こえなくなるまでの時間をストップウォッチで測る。電気の測定器はまだなく、頼りは自分の耳と時計だけだった。

響きを吸い取るものを出し入れして、時間がどう変わるかを調べた。近くのサンダース劇場から座席の座布団を何百枚も運び込み、枚数を変えて並べては測った。東洋の絨毯、帆布、そして人。学生や助手を座らせ、人の体がどれだけ音を吸うかまで数えた。ほかのいくつもの講堂でも測り、測定の数は数千回に及んだとされる。

1898年の秋、ついに関係が見えた。部屋の響きが消えるまでの時間(残響時間)は、部屋の容積に比例し、壁や床や人や家具が音を吸う力の合計に反比例する。この日、彼は今夜それを見つけた、という趣旨のことを母への手紙に書いたと伝えられる。この単純な式は「セイビンの式」と呼ばれ、メートル法で表すときの係数はおよそ0.161である。1900年、彼はこの研究を建築の雑誌に連載で発表した(残響を測る)。建物の響きを、設計の段階で数で予測する学問、建築音響学の始まりである。

ちょうどそのころ、ボストン交響楽団のための新しいホールの計画が進んでいた。楽団を創設し支えてきた銀行家のヘンリー・リー・ヒギンソンは、セイビンに助言を求めた。設計は名高い建築事務所マッキム・ミード・アンド・ホワイトである。セイビンは残響時間を計算し、設計を手直しさせた。客席を詰め、天井を下げ、壁の形と彫像を置く壁のくぼみに気を配った。1900年に開いたボストン・シンフォニー・ホールは、いまも世界で最も響きのよいホールの一つに数えられ、ほとんどそのままの姿で使われている。

ただ、その成功がすべて式のおかげかどうかは、慎重に見るべきだという指摘もある。靴の箱のような細長い形、2600席ほどという手ごろな大きさ、そして幸運。セイビン自身も慎重だった。自分の式が予測するのは響きの長さだけで、音の質については何も言わない、という趣旨のことを彼は述べている。

その後、彼は多くの教会や劇場や講堂の音響を手がけ、まだ建っていない建物について助言した。音を吸う材料の性能を比べるための試験の方法も作った。晩年には、イリノイ州ジェニーヴァに音響の研究所を作る計画にかかわり、それは彼の死後、従兄弟のポール・セイビンが引き継いだ。同じ姓のため、二人はよく取り違えられる。

第一次世界大戦が始まると、彼はフランスやイギリスへ渡り、のちにはアメリカ陸軍の航空の部門で働いた。いくつもの地点で敵の砲声を聞き取り、届いた時刻の差から大砲の位置を割り出す方法や(ソンムの戦いのような塹壕戦では、見えない敵の砲を探すことが死活の問題だった)、飛行機の音で機影をとらえる研究にかかわった。音の伝わり方を知り尽くした彼の知識が、戦場で使われたのである。飛行機の設計と生産の調整にも追われ、同僚たちは、彼は休まなかったと口をそろえた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1919年1月10日、セイビンは腎臓の病で死んだ。50歳だった。戦争中の無理が死を早めたとされる。

音を吸う力の単位には、彼の名がついている。1サビンは、すべての音を吸い込む面1単位ぶんの吸音力で、開け放った窓がちょうどそれにあたる。窓から出ていった音は、二度と戻ってこないからだ。いまも音響学の教科書は、たいてい彼の式から始まる。演奏会場や教室や駅の構内で声がどう響くかは、ハーヴァードの講堂で一人の若い講師が夜通し座布団を運んだところから、計算できるものになった。

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