中国の王朝

概要
殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。
この物語について
王朝は必ず倒れる。それでも同じ形が三千年、作り直されてきた。何が繰り返し再生産されていたのか。
黄河の中流域では、紀元前2千年紀の前半、河南の二里頭に大きな宮殿を持つ都が営まれていた。伝説の夏王朝の都ではないかとも言われるが、文字の記録が見つかっておらず、決め手はない。確かな文字の記録が残る最初の王朝は殷である。後期の都の跡からは、亀の甲羅や牛の骨に刻まれた大量の甲骨文字が出た。王は戦や狩り、天候や出産の吉凶を占い、そのたびに結果を刻ませた。今の漢字は、この文字から途切れずにつながっている。
紀元前11世紀ごろ、西方の周が殷を倒した。牧野の戦い(殷周革命)で勝った周は、自分たちが王になったことを、天が徳を失った殷を見放し、徳のある周に命を下したのだと説明した。天命は一つの家に永久に与えられるものではなく、徳を失えば別の家に移る。この考えは、王朝を倒した者が自らを正しいとする理屈になり、以後三千年、王朝が替わるたびに持ち出される型になった。天命が改まることを「革命」と呼ぶのも、ここから来ている。

周は一族や功臣に土地を分けて治めさせたが、紀元前8世紀に都を東へ移した後は、王の力が衰えた。諸侯が争う春秋・戦国の五百年あまりのあいだに、孔子や老子、韓非子らの思想家が、乱れた世をどう治めるかを論じた。紀元前221年、西の秦が六つの国を滅ぼした。秦の中国統一で、天下は初めて一つになる。始皇帝は、諸侯に土地を分ける代わりに全国を郡と県に分けて役人を送り、文字や度量衡、貨幣、車の幅までそろえた。皇帝という称号もこのとき生まれた。
だが厳しい法と重い労役は反発を招き、秦は始皇帝の死からわずか4年で倒れた。農民の出の劉邦が開いた漢は、秦の郡県の仕組みを受け継ぎながら、厳しさを和らげた。7代の武帝は、儒学を国の学問とし、北の匈奴を攻め、西域への道を開いた。この頃、司馬遷は伝説の時代から漢までを描く『史記』を書き上げる。前の時代の歴史を書き、自分たちの王朝がそれを正しく受け継いだと示すことは、以後の王朝の大事な仕事になった。漢はいったん王莽に奪われて途切れたが、すぐに一族の光武帝が立て直し、前後あわせて400年続いた。

後漢の末、外戚と宦官の争いで政治が乱れ、184年、黄巾の乱が起きる。反乱を鎮めた豪族や将軍が自立し、220年に漢が終わると、魏・呉・蜀の三国が並び立った。晋が280年にいったん統一したが、内紛の隙に北方の遊牧系の諸民族が華北に国を建て、中国は300年近く南北に分かれた。北を統一した北魏は、遊牧系の鮮卑の王朝でありながら、都を洛陽に移し、服装や言葉まで漢風に改めた。外から来た王朝が、中国の仕組みを取り込んで治める。この型も、ここで一度試されている。
589年、隋が南北を再び一つにした。隋は、家柄ではなく試験で役人を選ぶ科挙を始め、華北と江南を結ぶ大運河を掘った。だが大運河の工事と高句麗遠征の負担で民が背き、わずか30年ほどで倒れる。その仕組みを受け継いだのが、618年に建った唐である。2代の太宗は、臣下の諫言をよく聞いた名君として後世の手本になった。都の長安は人口100万ともいわれ、ペルシアやソグドの商人、日本や新羅の留学生が行き交った。

唐の前半には、中国の歴史でただ一人の女性の皇帝も現れた。高宗の皇后だった武照、のちの則天武后は、夫の死後に実の子を次々に帝位から降ろし、690年に自ら即位して国号を周と改めた。古い貴族を抑えて科挙で選んだ人材を登用し、密告を奨励して反対派を退けた。彼女の死の直前に唐の国号は戻され、後の儒学者たちは彼女を王朝を乗っ取った者として厳しく描いた。だが、その統治のもとで国が乱れたわけではなく、評価は今も揺れている。
唐を傾けたのは、755年に始まった安史の乱だった。辺境の軍を任されていた節度使の安禄山が反乱を起こし、8年にわたって華北が荒れた。この後、各地の節度使が自立し、唐は150年近く命脈を保ったものの、907年に滅びた。半世紀あまり王朝が目まぐるしく替わった後、960年に宋が建つ。宋の初代皇帝は、武将の力が王朝を倒す繰り返しを断つため、軍の指揮権を文官のもとに置き、科挙で選んだ役人に国を運営させた。

宋の時代、中国の経済と技術は大きく伸びた。江南の稲作が広がり、紙幣が使われ、この時代には、粘土の活字による印刷や、航海に使える羅針盤、火薬を使った武器が現れた。ただ、文官を重んじた宋は軍事では弱く、北の契丹や西夏に毎年銀や絹を贈って和を保った。1127年には女真の金に都の開封を奪われ、南へ逃れて王朝を続ける。
科挙もこの時代に、国を動かす中心の仕組みになった。三年に一度の試験に全国から数十万の受験者が集まり、合格すれば身分に関係なく高い官職に就けた。受験者は儒学の経典を丸ごと暗記し、作文の腕を競った。試験会場は一人ずつ狭い小部屋に区切られ、答案は名前を隠して写し直してから採点された。地方の有力者の家も、子を役人にするために学問に投資した。武人ではなく、学問を修めた読書人が社会の上に立つ形は、ここで固まり、清の末まで続く。

その南宋を1279年に滅ぼしたのが、モンゴルだった。チンギス・カンの孫のフビライ・ハンは国号を元とし、大都、いまの北京に都を置いた。中国の全土が初めて、外から来た民族に征服されたのである。元はモンゴル人を上に置き、科挙も長く行わなかった。中国の伝統の外側から治めようとした王朝は、百年ともたずに、紅巾の乱の中から立った明に北へ追われた。
1368年に明を開いた朱元璋は、貧しい農民の出で、僧として托鉢をしていたこともある。明は漢族の王朝として儒学の秩序を立て直し、皇帝に権力を集めた。3代の永楽帝は鄭和の船団を南の海へ送ったが、その後は海を閉ざし、北のモンゴルに備えて万里の長城を今に残る形に築き直した。明の末期には、宦官の専横と重税、飢饉の中で農民の反乱が広がり、1644年、反乱軍が北京に入って最後の皇帝は自ら命を絶った。

その混乱に乗じて長城を越えたのが、満洲族の清である。清は漢族の男に辮髪を強いる一方で、科挙を続け、明の役所の仕組みをほぼそのまま使い、漢族の学者を登用した。康熙帝から雍正、乾隆の三代のあいだに、清はモンゴル、チベット、新疆、台湾を版図に収め、いまの中国の国境の原型を作った。人口は18世紀のうちに倍増し、1800年ごろには3億を超えたとみられる。
1793年、イギリスの使節マカートニーが乾隆帝のもとを訪れ、貿易の拡大と常駐の使節の受け入れを求めた。皇帝は、天朝には何でもあり、外国の品を必要としないと答えて退けた。中国を世界の中心とし、周りの国は貢ぎ物を持って来る存在だと見る考えからすれば、当然の答えだった。だがイギリスは、茶の代金として流れ出る銀を取り戻すため、インドで作ったアヘンを中国へ持ち込む量を増やしていく。

王朝が替わるたびに繰り返されたのは、おおよそ次のような流れだった。新しい王朝は戦乱で荒れた土地を農民に分け、税を軽くして民を落ち着かせる。やがて土地が有力者に集まり、宮廷では外戚や宦官が力を持ち、税が重くなる。そこへ飢饉や洪水が重なると農民が立ち上がり、北の遊牧民が攻め込む。そして新しい王朝が、天命が改まったと宣言する。王朝は倒れても、漢字と、科挙で選ばれる役人と、儒学の教えと、前の王朝の歴史を次の王朝が書くという習慣は、そのまま引き継がれた。外から来た支配者も、この仕組みを使わなければ広い国を治められなかった。
その連続を外側から断ち切ったのが、19世紀にやってきた西洋だった。1840年に始まったアヘン戦争で、清は初めて、自分たちとは違う原理で動く国々に敗れた。1851年には太平天国の乱が起き、十数年の内戦で2000万人以上が死んだとされる。これまでの型どおりなら、ここで新しい王朝が立つはずだった。だが1911年の辛亥革命の後に生まれたのは、新しい王朝ではなく共和国だった。1912年、最後の皇帝が退位し、二千年あまり続いた皇帝の制度が終わる。

それでも、型がすっかり消えたわけではない。一つの党が国の頂点に立ち、試験で選ばれた官僚が広い国を治め、統一こそが正しい姿だとする考えは、今の中国にも見て取れる。王朝の名で呼ばれなくなっても、三千年かけて作り直されてきた仕組みの記憶は、簡単には途切れない。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(232)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- 二里頭の宮殿できごと紀元前19世紀中国最古級の宮殿の跡。伝説の夏王朝にあたるとする説があるが、文字が出ていないので確かめられない。二里頭
- 殷の成立できごとBC1600年頃祖先崇拝が以後の中国の柱になる湯王が夏の桀を倒したと伝わる。考古学で確かめられる中国最古の王朝で、青銅器と甲骨文字と人身供犠を残した。殷墟
- 盤庚の遷都できごとBC1300年頃甲骨文字はここから出た五度目の遷都で殷に落ち着き、以後273年動かなかった。だからこの王朝は殷と呼ばれる。その跡が殷墟で、甲骨文字はここから出た。殷墟
- 甲骨文字できごと紀元前13世紀亀の甲羅を焼いて割れ目で占い、問いと答えを彫りつけた。漢字はここから続いている。殷墟(安陽)

- 箸できごとBC12世紀台所で切ってしまえば、食卓に刃物は要らない殷の遺跡から青銅の箸が出ている。初めは煮えた鍋から具を取るための道具で、食べるのには手を使っていたらしい。食卓の道具になったのは、食べ物を細かく切って調理する形が広まってからだと考えられている。台所で切ってしまえば、食卓に刃物は要らない。儒教は刃物を殺生の道具として遠ざけ、それも後押しした。箸は朝鮮、日本、ベトナムへ広がり、土地ごとに材質と長さが変わる。中国は長く、日本は短く先が細い。魚の骨を外す食べ方に合わせたと言われる。殷墟(安陽)
- 三星堆の青銅器できごと紀元前12世紀殷とはまったく違う造形の巨大な仮面が四川で出た。中国の古代文明が黄河のひとつではなかったことを示す。三星堆
- 牧野の戦い(殷周革命)できごとBC1046年(年代に諸説あり)天命が移るという理屈がここで立つ周が殷を破り、天命は徳ある者に移るという理屈が生まれた。以後の王朝交代はこの型で語られる。牧野(位置は特定されていない)
- 周公旦の摂政できごとBC1042年頃権力を持ち、奪わず、返した幼い王の代わりに政治を執り、反乱を鎮め、洛邑を築き、王位を返した。儒家が理想の政治家とした人で、孔子は夢に見なくなったことを嘆いた。洛陽
- 周公旦人物? – BC1030年頃儒家が最初の聖人と数えた武王の弟。幼い成王の摂政として反乱を鎮め、封建と礼楽の制度を整え、7年で王位を返した。儒家が最初の聖人と数え、『周礼』を仮託した。
- 共和できごとBC841年年が確かに分かる最初の年暴君を民が追い出し、大臣が14年政治を執った。『史記』の年表がこの年から始まる。中国の歴史で、年が確かに分かる最初の年になる。鎬京(位置は特定されていない)

- 周の宣王の中興できごとBC827年西周の最後の光共和の14年のあとに即位し、周を一時立て直した。西の犬戎と南の楚を討つ。その子の幽王が国を失い、周は東へ移る。鎬京(位置は特定されていない)
- 周の東遷できごとBC770年都を鎬京から洛邑へ移した。王の権威は落ち、諸侯が実力で競う春秋時代に入る。洛陽
- 春秋の争覇と鉄製農具できごとBC8〜BC5世紀周王の権威が名ばかりになり、諸侯が覇を競った。鉄の農具と牛耕で収穫が増え、それを支えに新しい人材が身分によらず登用されていく。諸子百家の土壌になる。洛陽
- 斉の桓公の覇できごとBC679年(甄の会盟)王に代わって秩序を保つ覇者の最初周王が弱ったあと、諸侯を会盟に集めて秩序を保つ「覇者」が現れた。最初が斉の桓公で、管仲が塩と鉄の専売で財政を支えた。臨淄
- 管仲人物? – BC645年自分を射た男を宰相にした敵だった公子に仕え、その公子を覇者にした宰相。塩と鉄を国が握り、商業を認めた。「衣食足りて礼節を知る」はこの人の言葉として伝わる。
- 孔子の遍歴できごとBC497年魯の官職を捨て、14年、諸国を回って自分を用いる君主を探した。どこにも用いられず、故郷に帰って弟子を教えた。その弟子が言葉を書き留める。曲阜
- 三家分晋(戦国時代の始まり)できごとBC403年有力な家臣が晋を三つに割り、周王がそれを認めた。下剋上が公認された年として区切りに使う。
- 囲碁できごとBC400年頃琴棋書画のひとつ『論語』と『孟子』に既に名が出る。駒に種類がなく、石はすべて同じ。取ることより囲うことが目的で、勝敗は地の広さで決まる。琴棋書画のひとつとして、士大夫の教養に組み込まれた。7世紀に日本へ入り、正倉院に碁盤が残る。江戸幕府は本因坊など四家に禄を与え、御城碁を年中行事にした。碁の局面の数は、宇宙の原子の数より多い。2016年、アルファ碁が李世乭に勝った。洛陽
- 荀子人物BC313年頃 – BC238年頃弟子が秦を作った趙の人。50歳で斉の稷下に遊学し、3度祭酒。讒言で楚へ。春申君が蘭陵の令にした。春申君が殺されて、免職、蘭陵で死んだ。「性は悪」。「学は止むべからず」(勧学篇)。「青は藍より出でて藍より青し」。「天行は常あり。堯のために存せず、桀のために亡びず」。礼を作った聖人と、礼を学ぶ人間。弟子の韓非と李斯が秦を作り、秦が儒者を埋めた。
- 算木できごとBC300年頃竹や木の小さな棒を、机や布の上に並べて計算する。縦横で位を交互に表し、空いた桁は場所を空ける。位取りの十進法が、記号ではなく物の配置として先に成立していた。赤い棒を正の数、黒い棒を負の数に使い分ける。負の数を実際の計算に用いた、世界で最も早い例である。連立方程式は係数を格子状に並べて解いた。行列の消去法と同じ手続きが、そこにある。宋代に算盤へ、そして数字の記法へ引き継がれた。長安
- 屈原の入水できごとBC278年頃端午の節句の由来楚の王族の詩人。秦との同盟に反対して讒言で退けられ、二度追放された。秦が楚の都・郢を落とした年、湖南の汨羅江に石を抱いて入った。『離騒』『九歌』『天問』。「世を挙げて皆濁り、我独り清めり。衆人皆酔い、我独り醒めたり」。中国で最初の、名前の分かる詩人。人々が舟で探し、米を撒いて魚に食べられないようにした、というのが端午の節句と粽と龍舟の由来とされる。汨羅江
- 荀子と稷下の学できごとBC260年頃儒家から法家が出た斉の稷下の学宮で、荀子は3度「祭酒」(学長)になった。「人の性は悪、その善なるものは偽(人為)である」。孟子の性善説に反対した。礼は聖人が作った制度で、学んで身につける。天は意志を持たず、人が治める。「天を制して用いる」。弟子に韓非と李斯。儒家から法家が出た。楚の蘭陵で死んだ。『荀子』32篇。漢の儒教は荀子の儒教で、宋の儒教は孟子を選んで、荀子を外した。臨淄
- 始皇帝人物BC259年 – BC210年中国を初めて統一し、度量衡・文字・車軌を揃えた。長城と陵墓を築き、死後まもなく王朝は崩れる。
- 劉邦人物BC256年頃(BC247年説あり) – BC195年一介の亭長から身を起こし、秦の崩壊後の争いを制して漢を開いた。
- 都江堰できごとBC256年ごろ川を堰き止めず、真ん中で二つに分けた秦の蜀郡の太守になった李冰は、山から平野へ流れ出る岷江の暴れように手を焼いた。雪解けには洪水が起き、日照りには田が干上がる。彼は川を堰き止めるのではなく、川の真ん中に魚の口のような形の中州を築いて流れを二つに分けた。一方は洪水と砂を流し去り、もう一方は岩山を切り開いた狭い口から平野の用水へ入る。水かさが増せば、余った水は低い堰を越えて戻る。堤は竹籠に石を詰めて作り、毎冬、人々が総出で底をさらった。成都の平野は「天府の国」と呼ばれる穀倉になり、この仕組みはいまも使われている。都江堰
- 秦国BC221年(統一) – BC206年戦国を制して中国を初めて統一した王朝。度量衡と文字を統一し、長城を築いたが、始皇帝の死後わずか数年で崩れた。
- 秦の中国統一できごとBC221年最初の統一戦国の争いを制して中国が初めてひとつになった。度量衡・文字・車軌が揃えられる。咸陽
- 度量衡と文字の統一できごとBC221年枡と秤と物差しを揃え、車の幅を揃え、文字を小篆に揃えた。国ごとに違っていたものを一つにする。方言が違っても同じ字で通じる、という中国の形がここで決まる。咸陽
- 兵馬俑できごとBC210年(始皇帝の死と埋葬)等身大の兵士8000体が、皇帝の陵の東を守っている。一体ずつ顔が違う。1974年、井戸を掘った農民が見つけた。陵そのものはまだ開けられていない。驪山(兵馬俑)

- 匈奴国BC209年(冒頓単于の即位) – AD93年(北匈奴が高原を追われる)漢が最初に負けた相手草原の諸部族を初めて一つにまとめた遊牧帝国。漢は敗れて和親と贈り物で買い、のちに攻めて分裂させた。ローマに来たフン人との関係は、いまも議論がある。
- 文帝(漢)人物BC203年 – BC157年黒い絹の服劉邦の四男。呂后が死んで、功臣が代王を迎えた。肉刑を廃し、田租を減らし、農を勧め、匈奴と和親し、23年、宮殿を建てず、黒い絹の服を着た。遺詔で服喪を3日に減らした。「仁君」の見本。母の薬を自分で嘗めた話が二十四孝。
- 前漢国BC202年 – AD9年秦の崩壊後に興り、西域まで版図を広げた。同じころ地中海ではローマが伸びており、絹の道が両者をつないだ。
- 漢の成立できごとBC202年400年続く枠組みを作る劉邦が項羽を破って皇帝に即いた。同じ頃、地中海ではローマがハンニバルを退けている。長安
- 賈誼人物BC200年 – BC168年33歳洛陽の人。18歳で文名、20歳で博士。改暦、服色、諸侯の削減を説いて老臣に憎まれ、長沙王の太傅に。屈原を弔う賦を書き、フクロウが部屋に入ったのを死の兆しと詠んだ。梁王の太傅として王が落馬で死ぬと、自分を責めて泣いて死んだ。33歳。
- 文景の治できごとBC180年銭の紐が腐った呂后の一族が滅ぼされ、代王が皇帝に迎えられた。文帝は肉刑を廃し、田租を30分の1にし、自分の陵に金銀を入れなかった。息子の景帝が続けた。40年で倉が満ち、銭の紐が腐った。次の武帝が、それを全部使う。長安
- 劉安(淮南王)人物BC179年 – BC122年鶏犬も天に昇る劉邦の孫。父は反乱で餓死した。学者数千を集めて『淮南子』を編み、武帝に『離騒伝』を朝に命じられて昼に献じた。仙術を好み、謀反を疑われて自死。「一人得道すれば鶏犬も天に昇る」。豆腐の祖と伝わる。
- 董仲舒人物BC179年頃 – BC104年頃皇帝を高め、同時に縛った天と人は感応し、皇帝の失政は天災で示される、と説いた。儒学を国の学問にする献策をし、皇帝の権力に儒教の枠をはめた。
- 賈誼「過秦論」できごとBC175年頃秦はなぜ15年で20歳で博士になった秀才が、秦がなぜ15年で滅んだかを書いた。「仁義を施さず、攻守の勢いが異なるのに気づかなかった」。長沙に左遷され、鵩鳥の賦を書き、33歳で死んだ。漢の政治論の手本になり、司馬遷が本文に引いた。長安
- 漢の武帝人物BC156年 – BC87年匈奴と戦い、西域へ使者を送って交易路を開いた。儒学を官学とする。
- 呉楚七国の乱できごとBC154年諸侯王が削封に反発して挙兵したが3か月で鎮圧された。以後、権力は中央へ集まる。
- 司馬遷人物BC145年頃 – BC86年頃この型で歴史を書いた最初の人刑を受けてなお『史記』を書き上げた。紀伝体という書き方を作る。
- 蘇武人物BC140年 – BC60年北海で羊をBC100年、匈奴へ。副使が謀反に加わって、蘇武も捕えられた。剣で自殺しようとして止められた。李陵が説得に来て「私の家族は皆殺しになった」。「私は臣として」。北海。19年。帰って、息子は謀反で死に、80歳で死んだ。『蘇武牧羊』は京劇に。
- 霍去病人物BC140年 – BC117年18歳で初陣、20歳で河西を取り、22歳で匈奴の祭祀の地まで攻めた。「匈奴が滅びぬうちは家など要らぬ」と言い、24歳で死んだ。
- 『淮南子』できごとBC139年本だけが残った淮南王が数千の学者を集めて編んだ21巻。老荘、陰陽、儒、法、天文、地理。宇宙の生成から統治まで。武帝に献じた。17年後、王は謀反で自死し、連座した数千人が罰せられた。本だけが残った。豆腐を発明したという伝説もある。寿春

- 儒学の官学化できごとBC136年以後2000年、官僚は儒学の経典で選ばれる武帝が五経博士を置き、董仲舒の献策で儒学が国の学問になった。以後2000年、官僚は儒学の経典で選ばれる。長安
- 衛青の河南奪回できごとBC127年騎奴が将軍に皇后の弟の騎奴が将軍になり、黄河の湾曲の内側を匈奴から取った。長安の北の脅威が消え、朔方郡が置かれ、10万人が移住した。以後7回出撃し、負けなかった。甥の霍去病が河西を取る6年前。オルドス
- 霍去病の河西遠征できごとBC121年西域への道がここで開く20歳の将軍が匈奴を河西回廊から追い、漢はのちに四つの郡を置いていく。西域への道がここで開き、敦煌が最初の関になる。敦煌
- 南越の征服できごとBC111年九郡趙佗が建てた南越は5代93年。丞相呂嘉が漢に服そうとした王と太后を殺し、武帝が10万で攻めた。番禺が焼けた。九郡。広東、広西、ベトナム北部が漢の郡になった。ベトナムは1000年、中国だった。趙佗の墓は分からず、孫の墓が1983年に広州のホテルの工事で出た。番禺(南越)
- 衛青人物? – BC106年7度出撃して負けず平陽公主の家の騎奴で、姉の衛子夫が武帝の寵を得て、将軍になった。7度出撃して匈奴に負けず、大将軍に。甥の霍去病を並べて大司馬。功を誇らず、士を推薦せず、「私は上の命令で戦うだけ」。主人だった公主を妻にした。
- 太初暦できごとBC104年漢が初めて自分の暦を持った武帝が暦を改め、正月を今の位置に定めた。司馬遷も編纂に加わっている。以後の中国の暦の枠組みになる。長安
- 『史記』の完成できごとBC91年頃伝説の時代から同時代までを紀伝体で書いた。以後2000年の中国の歴史書の型になる。長安
- 蘇武の帰還できごとBC81年19年匈奴に使者として行き、捕えられ、降らなかった。北海(バイカル)で羊を飼った。19年。「雄の羊が乳を出したら帰す」。漢の使者が「雁の足に手紙が」と嘘を言って取り戻した。髭は白く、節(使者の杖)の飾りは落ちていた。忠の型になった。長安
- 塩鉄会議できごとBC81年国家と市場をめぐる最古の討論の一つ国が塩と鉄を専売するのは正しいか。官僚と儒者が朝廷で論じ、その記録が残った。国家と市場をめぐる最古の討論の一つになる。長安
- 霍光の昌邑王廃位できごとBC74年臣下が皇帝を替えた最初昭帝が21歳で死に、霍光が甥の昌邑王を立てた。即位から27日で1127件の勝手な命令・徴発を出したと数えて廃し、民間で育った皇曾孫を探して宣帝にした。臣下が皇帝を替えた最初になる。宣帝は霍光の車に同乗して「背中に針があるようだ」と言った。長安
- 霍光人物? – BC68年背中に針があるようだ霍去病の異母弟。武帝の遺詔で幼帝を支え、20年政治を握った。昌邑王を27日で廃して宣帝を立てた。死後に一族が謀反で滅ぼされる。以後、皇帝を廃した臣下の代名詞になった。
- 常平倉できごとBC54年安い年に買い高い年に出す豊作の年は米が安く、農民が困る。凶作の年は高く、都市の貧民が困る。前漢の宣帝の時代、耿寿昌が提案した。国家が、安い年に買い上げ、高い年に放出する。価格を平らにするので常平という。米を蓄えるだけでなく、市場に介入して値を動かす仕組みである。隋唐の義倉、宋の社倉、そして朝鮮の還穀と日本の江戸期の囲米へ。1938年、アメリカの農業調整法にも同じ名の制度が入った。農務長官ヘンリー・ウォレスが、中国の古典から取ったと述べている。長安
- 王昭君人物BC50年頃 – ?後宮の女性で、匈奴の単于に嫁がされた。絵師に賄賂を渡さず醜く描かれた、という物語は後世の作。草原で二人の単于の妻になり、子を残した。
- 王莽人物BC45年 – AD23年禅譲で帝位に就き、15年で滅んだ外戚から帝位を奪い、周の古制に戻そうとした。改革は行き詰まり、15年で倒れる。
- 王昭君の降嫁できごとBC33年後宮の女性が匈奴の単于に嫁がされ、草原で生涯を終えた。漢と匈奴の和親の証で、その後60年、境は静かだった。詩と物語が千年語り継ぐ。長安
- 光武帝人物BC5年 – AD57年劉氏の血を引く一豪族から、乱世を収めて漢を再興した。都を洛陽に置く。
- 王莽が新を建てるできごとAD9年外戚が禅譲の形で帝位に就いた。周の古制に戻すという理想は現実に合わず、15年で倒れる。長安
- 赤眉と緑林の乱できごとAD23年1万で42万王莽の改革で土地と貨幣が乱れ、飢えた民が眉を赤く塗って山東で立ち、湖北の緑林山にも集まった。劉秀が昆陽で王莽の42万を1万で破った。10月、長安。王莽は未央宮の高台で殺され、首は市で蹴られた。15年の新が終わり、2年後、劉秀が漢を再興した。昆陽
- 後漢の成立できごとAD25年劉秀が乱を収めて漢を再興し、都を洛陽に置いた。前漢と区別して後漢と呼ぶ。洛陽
- 班超人物AD32年 – AD102年少ない手勢で西域の諸国を漢に付けた。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の人。
- 仏教が中国へできごとAD1世紀後漢の明帝は、夢に金色に輝く人を見て、西方の仏という神だと教えられ、使いを西域へ送った。使いは白い馬に経典を載せた僧を連れて帰り、洛陽に白馬寺が建てられた、と伝えられる。実際には、シルクロードを行き来する商人たちとともに、仏教は少しずつ入ってきていた。インドの言葉の経典を漢字に移すには、道教の言葉を借りるほかなかった。数百年かけて中国の仏教が形づくられ、それが朝鮮半島を経て日本へ渡ることになる。洛陽
- 班超の西域経営できごとAD91年少ない手勢で西域50余国を漢に付け、都護となった。絹の道が再び通じる。
- 九章算術できごとAD100年頃前漢から後漢にかけて、複数の手で編まれた。九つの章に246の問題を並べる。田の面積、穀物の交換、土木の人手と工期、税の按分、そして測量である。すべて、問い、答え、術の順で書かれ、証明は無い。分数の計算、負の数、連立一次方程式の解法、平方根と立方根、そしてピタゴラスの定理にあたる勾股の術が含まれる。3世紀に劉徽が注を付け、円周率を三千七十二角形から求めた。東アジアの数学は、以後千五百年、この書の注釈として展開した。洛陽
- 鄭玄人物AD127年 – AD200年私の学は東へ行った北海高密。馬融に学び、帰るとき師が「私の学は東へ行った」と言った。党錮で閉門14年。弟子数千。黄巾が鄭玄の村を避けたと伝わる。袁紹が招いて、官渡へ向かう途中で病死。74歳。経書の注の標準を作った。
- 五斗米道の始まりできごとAD142年張天師は台湾に張陵が鶴鳴山で老君から啓示を受けた、と伝える。病は罪、罪を告白して治す、入信料は米五斗。孫の張魯が漢中を30年治めた。義舎で旅人に米と肉を無料で。曹操に降って、道教は残った。天師道。張天師は今も台湾にいる。鶴鳴山

- 鄭玄の経学できごとAD180年頃注の標準古文と今文の争いを、一人で両方に注をつけて終わらせた。『毛詩』『三礼』『論語』。党錮で14年閉門して書いた。袁紹に招かれ、曹操に招かれ、途中で死んだ。以後、経書を読むとは鄭玄の注で読むことになった。高密
- 曹操の屯田できごとAD196年兵を養う方法戦乱で荒れた田に、兵と流民を入れて耕させ、収穫の半分(官の牛を使う者からは6割)を取った。1年で100万石。「国を定める術は、兵を強くし食を足すことにある」。曹操が勝った理由は、戦の前に米があったことになる。許昌
- 三顧の礼できごとAD207年出師表の一行47歳の劉備が、27歳の諸葛亮の草庵を三度訪ねた。「天下三分の計」。北に曹操、東に孫権、西に自分。『出師表』に「先帝は臣を卑しいと思わず、三たび臣を草廬に顧みた」とある。三顧は本人の言葉で、他は小説。隆中

- 三国の鼎立できごとAD220年魏が漢の禅譲を受け(220)、蜀が漢を継ぐと称し(221)、呉が帝を名乗った(229)。中国が三つに割れる。
- 曹丕の即位(漢の滅亡)できごとAD220年12月11日禅譲の型献帝が三度譲位の詔を出し、曹丕が三度辞退して、四度目に受けた。受禅台。400年の漢が、儀式で終わった。献帝は山陽公として14年生き、曹丕より長生きした。「舜禹の事、私は知った」と曹丕は言ったと伝える。禅譲の型は、晋、宋、斉、梁、陳、隋、唐が真似た。洛陽
- 司馬炎人物AD236年 – AD290年統一して壊した司馬昭の長子。武帝。禅譲で晋を建て、呉を取って統一した。太康の治。占田法。それから羊の車で後宮を回り、羊が止まった所で寝た。後宮1万人。一族を27の王に封じて兵を持たせ、白痴の息子を太子にした。死んで1年で八王の乱。
- 正始の音(玄学の始まり)できごとAD240年清談魏の正始年間。何晏が『論語集解』、王弼が『老子注』『周易注』。「無を本とする」。儒教と老荘を一つに。清談。王弼は24歳で死に、何晏は司馬懿に殺された。竹林の七賢が続いた。中国の哲学は、200年、「無」を語った。洛陽
- 晋による統一できごとAD280年呉が降り、およそ100年ぶりに中国が一つに戻った。ただしこの統一は長く続かない。建業
- 呉の滅亡(晋の統一)できごとAD280年3月96年の三国が終わった王濬が蜀で造った楼船で長江を下り、呉が川に張った鉄の鎖を松明の筏で焼き切った。「千尋の鉄鎖、江底に沈む」。孫皓は石頭城で棺を担いで降った。黄巾から96年。三国が終わり、晋が一つにした。統一は37年しか続かなかった。南京
- 八王の乱できごとAD291年五胡十六国の始まり晋の皇帝が暗愚で、皇后賈氏が皇太后の一族を殺し、皇族が皇后を殺し、皇族同士が16年殺し合った。匈奴と鮮卑の兵を雇って戦い、その兵が国を取る。五胡十六国はここから始まる。洛陽

- 五胡十六国できごと304年北方の諸族が華北に次々と国を建てた。漢人の政権は南へ逃げ、中国は130年あまり割れつづける。長安
- 桓温人物AD312年 – AD373年皇帝になる寸前で死んだ父の仇を討ち、皇帝の娘婿になり、347年に蜀を取り、三度北伐した。「名を流せないなら悪名でも」。皇帝を廃し、九錫を求め、謝安が引き延ばしている間に死んだ。息子の桓玄が30年後に本当に皇帝を名乗り、すぐ滅んだ。
- 東晋の成立できごとAD317年江南が中国の中心になっていく洛陽と長安が匈奴に落ち、皇族の司馬睿が建康で帝位に就いた。北から逃げた貴族が政権を握り、江南が中国の中心になっていく。「王と馬と天下を共にす」と言われた。南京
- 謝安人物AD320年 – AD385年下駄の歯を折った40歳まで会稽の山で王羲之と遊び、出仕して桓温の簒奪を引き延ばし、淝水で甥の謝玄に8万で87万を退けさせた。勝報が来ても碁を打ち続け、客が帰ってから下駄の歯を折った。「東山再起」の東山は彼の山。
- 苻堅人物AD338年 – AD385年私と王猛は劉備と諸葛亮氐族。暴君の従兄を殺して王になり、王猛を得て「私と王猛は劉備と諸葛亮」と言った。華北を統一し、敵の王たちを殺さず側に置いた。王猛の遺言「晋を攻めるな」を破って淝水へ。逃げ帰り、羌の姚萇に捕えられて縊られた。
- 蘭亭序できごとAD353年曲水の宴で詠まれた詩の序文を、王羲之が酔って書いた。醒めてから何度書き直しても及ばなかったと伝わる。書の手本の頂点とされ、原本は唐の太宗の墓に入ったという。紹興(会稽)

- 桓温の北伐できごとAD354年悪名でも残せ東晋の将軍が三度北へ攻め、一度は長安の郊外まで来た。関中の老人が「王師が来るとは」と泣いた。取れずに帰り、その名声で皇帝を廃し、自分が皇帝になる寸前で死んだ。「男子たるもの、名を後世に流せないなら、悪名でも残せ」。長安
- 劉裕人物AD363年 – AD422年草鞋を売っていた京口の貧しい家。草鞋を売り、博打で借金をした。北府兵の兵卒。孫恩の乱で数十人で数千を破った。桓玄を倒し、南燕、後秦、譙蜀を滅ぼし、長安に入った。60歳で皇帝。2年で死んだ。「寄奴」の名で辛棄疾が「金戈鉄馬、気は万里を吞む」と詠んだ。
- 陶淵明人物AD365年 – AD427年五斗米のために腰を折らず曾祖父は東晋の大司馬だったが、家は貧しかった。役人を五度やめ、最後に「帰去来の辞」を書いて帰り、畑と酒と詩で暮らした。「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」。桃源郷の話を作った。
- 前秦の華北統一できごとAD376年殺さなかった王たちが国を建てた氐族の苻堅が、漢人の王猛を宰相にして、五胡十六国の華北を一つにした。異民族を殺さず、降った王に位を与え、儒学を興した。7年後、淝水で南を攻めて崩れ、優遇した異民族の王たちが、それぞれ国を建てた。長安
- 淝水の戦いできごとAD383年南北の分裂が150年延びた華北を統一した前秦の大軍が、東晋の8万に敗れた。「風声鶴唳」の語はこの敗走から。華北は再び割れ、南北の分裂が150年延びる。淝水(位置は特定されていない)
- 北魏の建国できごとAD386年鮮卑の王朝が華北を治める鮮卑の拓跋珪が国を再興し、平城(大同)を都にした。五胡十六国の混乱を53年後に統一する王朝で、以後150年、華北は鮮卑の王朝が治める。平城
- 劉裕の宋建国できごとAD420年禅譲した皇帝を殺した最初草鞋を売っていた北府兵の兵卒が、孫恩の乱と桓玄の簒奪を鎮め、南燕と後秦を滅ぼして長安を取り、東晋の恭帝に禅譲させた。禅譲した皇帝を殺した最初。「宋」。南朝の始まり。彼のあと170年、南の皇帝は貴族でなく軍人から出た。南京
- 北魏の華北統一できごとAD439年鮮卑の王朝が華北をまとめた。のちに自ら漢化を進め、鮮卑の言葉と服装を捨てる。平城
- 太武帝の廃仏できごとAD446年三武一宗の廃仏の最初道教を国教にした北魏の皇帝が、寺に武器が隠されていたのを口実に、僧を殺し寺を壊し経を焼いた。中国の三武一宗の廃仏の最初。6年後に皇帝が殺され、仏教は戻って、雲岡を掘り始める。平城
- 蕭衍(梁の武帝)人物AD464年 – AD549年6月12日皇帝菩薩竟陵八友の文人が、斉を倒して梁を建てた。48年。最初の20年は善政。それから仏教。同泰寺。捨身。肉を断ち、女を遠ざけ、皇帝菩薩。侯景を受け入れて台城に囲まれ、餓死した。「私の天下は私が得て私が失った。恨みはない」。
- 孝文帝人物AD467年 – AD499年言葉と姓を漢に変えた4歳で即位し、祖母の馮太后が23歳まで政治を執った。自分で執ってから10年で、都を移し、言葉と服と姓を漢のものに変え、鮮卑と漢の貴族を結婚させた。33歳で死んだ。鮮卑の兵はこれを恨み、25年後に反乱して北魏を割った。
- 孝文帝の洛陽遷都と漢化できごとAD494年鮮卑が中国になる鮮卑の皇帝が、南征と称して軍を出し、洛陽で「帰らない」と言って都を移した。鮮卑語を禁じ、鮮卑の姓を漢姓に変え、自分も元氏になった。北方の民族が中国になっていく形の、いちばん徹底した例。洛陽
- 高歓人物AD496年 – AD547年妻の持参金の馬懐朔鎮の貧しい鮮卑化した漢人。妻の持参金の馬で役人になった。六鎮の乱に加わり、爾朱栄の下で力をつけ、爾朱氏を滅ぼした。皇帝を立て、皇帝が逃げ、また立てた。鄴。晋陽。宇文泰と5度戦って勝てず、玉壁で負けて死んだ。息子が北斉を建てた。
- 宇文泰人物AD507年 – AD556年三つの王朝の祖父武川鎮の鮮卑。逃げてきた皇帝を迎え、毒殺し、別の皇帝を立てた。関中の貧しい土地で、府兵制を作り、八柱国、十二大将軍。鮮卑と漢人を混ぜた軍。『周礼』で官制を作った。息子が北周を建て、その部下が隋を、その部下が唐を建てた。三つの王朝の祖父。
- 梁の武帝の捨身できごとAD527年一億銭で買い戻した皇帝が同泰寺に入って自分を寺に施し、群臣が一億銭で買い戻した。四度。肉を断ち、一日一食、48年在位して「皇帝菩薩」。侯景の乱で台城に囲まれ、86歳で「自分で得て自分で失った」と言って餓死した。南京
- 東魏と西魏の分裂できごとAD534年北魏が二つに六鎮の乱のあと、鮮卑の兵を握った高歓が洛陽の孝武帝を追い、皇帝は関中の宇文泰の所へ逃げて毒殺された。高歓は鄴で東魏を、宇文泰は長安で西魏を立てた。150年の北魏が二つに。東は北斉、西は北周になり、北周が北斉を滅ぼし、隋がその北周を継いだ。洛陽
- 侯景の乱できごとAD548年南朝の貴族社会がここで壊れる亡命してきた武将が反乱し、建康を囲んだ。仏教に帰依して寺に身を捨てていた老皇帝は、幽閉されて餓死した。南朝の貴族社会は、この乱で壊れる。南京
- 北周の廃仏できごとAD574年隋がすべてを戻す武帝が仏教と道教を同時に廃し、300万の僧を還俗させ、4万の寺を貴族に与えた。「私は五胡ではない、地獄など恐れない」と言った。4年後に死に、次の隋がすべてを戻す。長安
- 魏徴人物AD580年 – AD643年私は鏡を失った道士だった。李密、竇建徳、李建成に仕え、玄武門で建成が殺されると太宗に「なぜ兄弟を離間させた」と問われ、「太子が私の言うことを聞いていれば、今日はなかった」と答えた。用いられた。200回諫めた。死んで太宗が「私は鏡を失った」。碑を自分で書き、後に怒って倒し、また建てた。
- 隋国AD581年 – AD618年南北朝の分裂を約300年ぶりに終わらせた。大運河を掘って南北を物流でつなぎ、37年で倒れる。
- 隋の中国再統一できごとAD589年約300年の分裂が終わる南北朝の分裂が約300年ぶりに終わった。大運河を掘り、南北を物流でつなぐ。長安
- 唐の太宗人物AD598年 – AD649年貞観の治と呼ばれる安定を作った。長安は当時の世界で最大級の国際都市になる。
- 科挙の始まりできごとAD605年家柄でなく試験で選ぶそれまで官吏は、家柄と推薦で選ばれた。九品官人法の下で、有力な家が官職を世襲した。隋の文帝が推薦制を廃し、煬帝が進士科を置いた。試験の成績で選ぶ。唐で制度が整い、宋で決定的になった。宋代には、答案から名前を隠し(糊名)、筆跡で分からないよう書記が写し直した(謄録)。合格率は数千分の一。試験は3日3晩、独房のような号舎に籠って行われた。家柄でなく試験で人を選ぶという考え方は、ここから世界へ広がった。長安
- 大運河の完成できごとAD610年工事が隋を潰した煬帝が、洛陽を中心に、南は杭州、北は涿郡(北京)まで、2500キロを掘らせた。延べ数百万人。堤に柳を植え、40の離宮を置いた。江南の米が北の都と軍を養えるようになり、中国の南北が経済で一つになった。同時に、この工事と3度の高句麗遠征が隋を潰した。運河は残り、その後1300年、中国の背骨だった。揚州
- 唐の成立できごとAD618年長安が世界最大級の国際都市になる長安は人口100万を超える国際都市になり、東アジアの制度と文化の手本になった。長安
- 唐国AD618年 – AD907年長安は人口100万を超える国際都市になり、東アジアの制度と文化の手本になった。安史の乱で西域を失い、以後は縮んでいく。
- 吐蕃国AD618年頃(ソンツェン・ガンポの即位) – AD842年(ラン・ダルマの死と分裂)ソンツェン・ガンポが高原をまとめ、唐と婚姻し、唐と戦った。763年には一時長安を占領している。仏教を国の宗教にし、チベット文字を作った。
- 則天武后人物AD624年 – AD705年12月16日中国史上ただ一人、自ら皇帝を名乗った女性。科挙で人を登用し、後世の史書からは苛烈な評ばかりを受ける。
- 玄武門の変できごとAD626年7月2日貞観の治の前の朝唐の二代目は、宮殿の北門で兄と弟を射殺して皇太子になった。二か月後に父を退位させる。その後の治世が「貞観の治」として理想の政治になったので、この朝のことは薄く書かれた。長安

- 貞観の治できごとAD627年君は舟、民は水太宗の23年。「創業と守成、いずれが難きか」。魏徴が200回諫め、太宗が聞いた。「君は舟、民は水」。人口が戻り、米が安く、死刑が29人の年があった。『貞観政要』。日本の天皇も徳川家康も読んだ。年号が理想の政治の名になった。長安

- 文成公主の入蔵できごとAD641年宗室の娘を送ったソンツェン・ガンポが唐に妃を求め、断られ、吐谷渾を攻め、また求めて、太宗が宗室の娘を送った。仏像、経典、絹、種、暦、医書。ラサに寺を建てた。ジョカン寺。チベットは、この妃で、唐の文化と仏教を受け取ったと語る。統一チベットの始まりの物語。ラサ
- 安市城の戦いできごとAD645年魏徴が生きていれば太宗が自ら高句麗を攻めた。遼東城を落とし、安市城で止まった。楊万春が守った、と伝える。土山を築いて崩れ、冬が来て、帰った。「魏徴が生きていれば、この遠征を止めた」。高句麗はあと23年持ち、唐は新羅と組んだ。安市城
- 玄宗人物AD685年 – AD762年開元と天宝韋后を倒して父を帝位に就け、自分が継いだ。開元の30年は唐の絶頂。晩年、息子の妃だった楊貴妃を奪い、安禄山に国を壊され、蜀へ逃げる途中で兵に妃を殺された。都に戻って上皇として6年、幽閉されて死んだ。
- 則天武后の即位できごとAD690年中国史上ただ一人、女性が自ら皇帝を名乗った。国号を周と改め、15年治める。洛陽
- 開元の治できごとAD713年唐の絶頂玄宗の最初の30年。姚崇と宋璟を宰相にし、戸籍を整え、辺境に節度使を置き、詩人が集まった。人口は5000万を超え、長安は世界最大の都だった。その節度使が、あとで国を壊す。長安

- 楊貴妃人物AD719年 – AD756年荔枝を早馬で玄宗の息子の妃で、道士にされてから玄宗の貴妃になった。荔枝を早馬で嶺南から運ばせた。一族が権力を握り、安禄山の乱で、馬嵬で兵に迫られて縊られた。37歳。白居易が「長恨歌」で歌い、世界三大美女の一人に数えられる。
- 南詔と大理国AD738年(南詔の統一) – AD1253年(モンゴルによる大理の征服)モンゴルがここを取ってから、雲南は中国になる雲南の高原に、唐とも吐蕃とも違う国があった。南詔は唐の軍を二度全滅させ、大理は仏教の王が何人も出家した。モンゴルがここを取ってから、雲南は中国になる。
- 唐詩の頂点できごと740年李白と杜甫が同じ時代に生き、一度会っている。安史の乱を挟んで、詩の調子がまるで変わる。長安
- 安史の乱できごと755年唐の絶頂を折った唐の絶頂を折った大反乱。以後、中央の力は落ち、地方の節度使が実権を握る。長安
- 馬嵬の変できごとAD756年仏堂の前で縊らせた安禄山に長安を追われた玄宗の一行が、馬嵬で止まった。兵が楊国忠を殺し、貴妃も殺せと言った。玄宗は高力士に命じて、仏堂の前で縊らせた。皇太子はそこで父と別れ、北へ行って即位する。馬嵬
- 吐蕃の長安占領できごとAD763年安史の乱で唐が弱ったところへ、高原の軍が都に入った。15日で退くが、唐が西域を失う流れはここで決まる。長安
- 両税法できごとAD780年700年続いた形安史の乱で戸籍が崩れ、均田制と租庸調が回らなくなった。宰相楊炎の案。人でなく、持っている土地と資産に課税する。夏と秋の2回。銭で納める(後に一部は現物)。土地の私有と売買を、事実上、認めた。国家が土地を配る建前が終わり、地主と佃戸(小作)の関係が中国の農村の基本になった。この形が、明の一条鞭法まで800年続いた。長安
- 韓愈「論仏骨表」できごとAD819年仏は夷狄の人法門寺の仏舎利が30年ぶりに宮中に迎えられ、街が熱狂した。韓愈は「仏は夷狄の人、その骨は汚れたもの」と上表した。皇帝は怒って殺そうとし、潮州に流した。儒教の側からの仏教批判の、代表になる。長安
- 甘露の変できごとAD835年私は家奴に制せられている文宗が宦官を殺そうとして、「庭に甘露が降った」と宦官を誘い出す計画を立てた。宦官が伏兵を見つけ、神策軍が宰相ら600人以上を殺した。皇帝は宦官の人質になった。「私は家奴に制せられている」。唐の皇帝は、それから宦官が立てて宦官が殺した。長安
- 会昌の廃仏できごとAD845年中国の仏教の形がここで変わった道教を信じる皇帝が寺4600を壊し、僧尼26万人を還俗させた。教団の富が国庫に入る。中国の仏教は、以後この打撃から完全には戻らない。長安

- 張議潮の帰義軍できごとAD848年200年この軍の土地吐蕃が敦煌を取って60年。吐蕃が内乱で割れると、敦煌の豪族張議潮が立ち、沙州を取り、河西11州を唐に返した。帰義軍。莫高窟に彼の出行図がある。唐が滅んでも、宋が来ても、敦煌は190年近く、この軍の土地だった。11世紀に西夏が来た。敦煌
- 朱全忠(朱温)人物AD852年 – AD912年五代の最初黄巣の部将から唐に降り、全忠の名をもらい、宦官を皆殺しにし、皇帝を殺し、唐を滅ぼして後梁を建てた。息子に殺された。五代の最初の皇帝。
- 黄巣の乱できごとAD875年唐はこれで実質的に終わる科挙に落ちた塩の密売人が反乱軍を率い、広州で外国商人を虐殺し、長安を占領した。唐はこれで実質的に終わる。鎮圧した軍閥が次の王朝を作った。長安
- 黄巣人物? – AD884年塩の密売人で、科挙に落ちた。反乱軍を率いて南は広州、北は長安まで行き、皇帝を称した。長安を出るとき街を焼き、敗れて自死した。
- 五代十国国AD907年 – AD960年華北で五つの王朝が入れ替わり、南に十あまりの国が並んだ53年。版図としてはひと塊で描くしかない。
- 唐の滅亡できごとAD907年清流を濁流に投げよ朱全忠が哀帝に禅譲させ、後梁を建てた。2年前、唐の官僚30人を黄河に投げ込んでいた。「清流を濁流に投げよ」。290年の唐が終わり、53年で五つの王朝が代わる。洛陽
- 柴栄(後周世宗)人物AD921年 – AD959年五代第一の名君茶商人。郭威の妻の甥で養子。954年に即位して高平で北漢を破り、後蜀から4州、南唐から淮南14州、遼から燕雲の3州。廃仏。汴河を浚った。「10年で天下を平らげ、10年で民を養い、10年で太平を」。5年半で死んだ。「五代第一の名君」。
- 趙匡胤(宋の太祖)人物AD927年 – AD976年士大夫を殺すな後周の禁軍の将軍が、遠征の途中で部下に黄袍を着せられて皇帝になった。酒の席で将軍たちに兵権を手放させ、以後、文官が武官の上に立つ。「士大夫を殺すな」という誓いを石に刻んで残した。弟に殺されたという噂がある。
- 大理国の成立できごとAD937年宋が手を出さなかった仏教の国南詔のあとの混乱を段思平が収めた。仏教の国で、22代の王のうち9人が退位して出家した。宋は北の遼と金に追われて、ここに手を出さなかった。大理
- 段思平人物? – AD944年大理の建国者南詔のあとの短い王朝を倒し、大理を建てた。段氏の王家は22代続き、その多くが退位して僧になる。武侠小説の「段皇爺」の元になった家。
- 馮道の儒教経典刊行できごとAD953年国が経典を刷った最初932年に始めて21年、九経を木版で刷って完成させた。国が経典を印刷した最初になる。五代の乱の中で、宰相が始めた事業が、王朝を四つ越えて終わった。開封
- 後周世宗の廃仏できごとAD955年銅の像を銭に五代の最後の皇帝が、寺2694を残して3万あまりを廃し、銅の仏像を溶かして銭にした。「仏は身を捨てて人を救う。銅の像が惜しいはずがない」。三武一宗の最後。世宗は北へ南へ攻めて、39歳で急死した。7歳の子が残り、翌年、趙匡胤が。開封
- 宋の成立できごとAD960年文官が国を運営する体制へ武人ではなく文官が国を運営する体制になった。経済と技術が大きく伸びる。開封
- 宋国AD960年 – AD1279年武人ではなく文官が国を運営する体制になり、経済と技術が大きく伸びた。北を遼と金に押され、最後は南半分だけになる。
- 杯酒釈兵権できごとAD961年翌日全員が辞表陳橋で兵に担がれて皇帝になった趙匡胤が、翌年、担いだ将軍たちを酒宴に呼んだ。「あなたたちも、部下に担がれれば」。「土地と屋敷と美女で、余生を」。翌日、全員が辞表を出した。50年の五代で、兵が皇帝を作る時代が、酒で終わった。文治。開封
- 南唐の滅亡できごとAD975年振り返るに忍びない十国で最も豊かで文化の高い国が、宋に囲まれて1年で降った。王の李煜は詞人。開封に連れて行かれ、「故国は月明かりの中、振り返るに忍びない」と書き、太宗が毒を送った。42歳。詞が、宴の歌から、亡国の嘆きになった。南京
- 范仲淹人物AD989年 – AD1052年粥を凍らせて4つに2歳で父を失い、母が再婚し、朱説と名乗って育った。寺で粥を凍らせて4つに分けて食べた。進士。西夏との戦いで「小范老子」。慶暦の改革。「岳陽楼記」。「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」。義荘。一族のための田。中国の福祉の始まり。
- 宋の科挙と士大夫できごとAD1000年頃皇帝の門下生になる唐の科挙の合格者は年に数十人で、貴族の家の子が多かった。宋は合格者を年数百人に増やし、皇帝自身が最終試験(殿試)を行った。合格者は皇帝の門下生になる。武人の力を削ぎ、文人の官僚が国を運営する体制ができた。受験のための出版が栄え、印刷術が広まった。「万般皆下品、惟有読書高」。同時に、受験は一族の投資になった。一人を合格させるために、村や一族が学費を出し、合格すれば免税と地位が一族に及んだ。開封
- 李元昊人物AD1003年 – AD1048年宋と三度戦って勝ったタングートの首長が、宋の姓を捨て、文字を作らせ、皇帝を称した。宋と三度戦って勝ち、和議で銀と絹を取る。息子の妻を奪い、その息子に鼻を削がれて死んだ。
- 景徳鎮の磁器できごと1004年一つの町が、世界の磁器を焼いた。分業で一日に数万点を作り、ペルシアの藍で染めた皿がイスタンブルにもアムステルダムにも届く。最初の世界商品の一つになる。景徳鎮

- 占城稲の導入できごとAD1012年100日で実る稲11世紀初め、北宋の真宗が、ベトナム中部の占城(チャンパ)から早稲の種籾を取り寄せ、江南に配って栽培を奨励した。干魃に強く、100日ほどで実る。それまで一年一作だった土地で二期作ができ、丘陵にも田を開けるようになった。宋代の人口は、この時期に倍増して1億を超えた。米が余れば、人は都市へ出て、別の仕事に就ける。宋の都市と商業と貨幣経済は、この稲の上に立っている。杭州(臨安)
- 沈括人物AD1031年 – AD1095年官僚として各地を回り、見聞きしたことを『夢渓筆談』に書いた。磁針が真北を指さないことを、世界で最初に記録している。
- 西夏文字の制定できごとAD1036年漢字を退けて自分の文字を作った漢字に似て、漢字より画数の多い6000字を、皇帝の命で一度に作った。仏典と字書が訳され、20世紀に解読された。国が滅びて文字だけが残った例になる。興慶(銀川)
- 西夏国AD1038年(李元昊の皇帝宣言) – AD1227年(モンゴルによる滅亡)宋と遼と金の間で独自の文字を作ったタングート人がオルドスと河西回廊に建てた。宋と遼と金の間で、独自の文字を作り、仏教の経典を訳した。チンギスが最後の遠征で滅ぼし、その死の直後に都が皆殺しになる。
- 宋の活字と羅針盤できごとAD1040年頃活字・羅針盤・火薬がこの時期に出る膠泥活字、羅針盤の航海利用、火薬の兵器化。世界を変える技術がこの時期の中国から出る。開封
- 慶暦の改革できごとAD1043年天下の憂いに先んじて西夏との戦争で財政が傾き、仁宗が范仲淹に改革を任せた。十事。官吏の昇進を実力で、科挙に策論を、田の整理。1年で反対され、范仲淹は地方へ。「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」。25年後、王安石が同じことを大きく。開封
- 完顔阿骨打人物AD1068年 – AD1123年2500の兵で挙兵した女真の部族長。遼の皇帝の宴で舞うことを拒み、2500の兵で挙兵して、10倍の遼軍を破った。1115年に皇帝を称し、女真文字を作らせ、遼の五京をすべて落として死んだ。
- 王安石の新法できごとAD1069年祖宗の法を変えるな神宗が宰相にした。青苗法、募役法、均輸法、市易法、保甲法、方田均税法。国が農民に金を貸し、労役を金で代え、大商人の利を国が取る。司馬光、蘇軾、欧陽修が反対した。「祖宗の法を変えるな」。新法党と旧法党が50年争い、宋は弱った。開封
- 烏台詩案できごとAD1079年最初の文字の獄蘇軾の詩が「新法を誹謗している」と御史台に訴えられ、獄で4か月。「根は九泉に到りて曲がる所なし」の檜は皇帝への不忠、と読まれた。死刑を求められ、太皇太后と王安石が助けた。黄州へ。そこで『赤壁賦』と「東坡」。中国で最初の文字の獄と言われる。開封
- 秦檜人物AD1090年 – AD1155年最も憎まれた宰相金に連れ去られ、逃げ帰って宰相になった。和議を進め、岳飛を殺し、18年権力を握った。中国で最も憎まれた宰相で、その名を子に付ける親はいない。油条という揚げ菓子は、この夫婦を揚げたものだと言われる。
- 羅針盤が海に出るできごとAD1090年頃夢渓筆談の偏角磁石が南を指すことは中国で古くから知られ、占いの盤に使われた。1044年の『武経総要』に、鉄の魚を熱して冷まし磁化する方法がある。1088年、沈括が『夢渓筆談』に、糸で吊るす方法と、磁北が真北からずれること(偏角)を書いた。1117年の『萍洲可談』に、泉州の船乗りが「夜は星を見、昼は日を見、曇りの日は指南針を見る」とある。曇りでも進めるようになった。アラブとヨーロッパへ12世紀に伝わった。泉州
- 水運儀象台できごとAD1092年天の動きを知る皇帝の仕事を、機械にやらせようとした北宋の都開封で、官僚の蘇頌は、高さ十メートルを超える時計の塔を造らせた。水で回る大きな車輪が、一定の間を置いて一段ずつ進む仕掛けで回り、塔のてっぺんの天球儀と、星の動きを示す球を動かす。塔の中では、木の人形が時刻ごとに現れ、鐘を鳴らし、太鼓を打ち、時を記した札を掲げた。暦を正しく保つことは、天の意思を知る皇帝の仕事である。塔は、その仕事を機械にやらせる試みだった。三十数年後、都が女真の金に落ちると、塔は解体されて北へ運ばれ、二度と動かなかった。開封
- 纏足できごとAD1100年頃満洲族はしなかった南唐の宮廷の踊り子から始まった、と伝える。宋代に広まり、明清に、漢族の女の大半に及んだ。4〜6歳で、親指以外の指を足の裏へ折り曲げて布で縛り、骨を変形させる。歩けるが遠くへ行けない。「三寸金蓮」。母が娘に施した。良い縁組の条件で、階級の印で、恥じらいの象徴だった。満洲族とモンゴル族と客家はしなかった。1902年に清が禁令を出し、20世紀の前半に消えた。最後の世代が、いま100歳を超える。開封

- 岳飛人物AD1103年 – AD1142年獄で殺された将軍農民の子から将軍になり、金の軍を何度も破った。北伐の途中で12回の召還命令を受けて引き返し、獄で殺された。39歳。杭州の墓の前に秦檜夫婦の鉄像が跪き、人々が唾を吐く。
- 朱熹(朱子)人物AD1130年 – AD1200年600年の科挙の正解四書を選んで注を付け、理と気で世界を説いた。役人としては9年、あとは教えて書いた。生前は「偽学」として弾圧され、死んで100年で科挙の正解になる。以後600年、東アジアの読書人はこの本で試験を受けた。
- 紹興の和議と岳飛の死できごとAD1141年南宋が金に臣を称した南宋が金に臣を称し、淮河を境にし、銀と絹を毎年送る和議を結んだ。北伐を主張した将軍の岳飛は獄で殺された。罪名を問われた宰相秦檜は「あるかもしれない」と答えたと伝わる。杭州(臨安)
- 金の燕京遷都できごとAD1153年北京が都になった最初女真の皇帝が、都を満洲の会寧府から燕京に移し、中都と名づけた。北京が王朝の都になった最初になる。以後、元・明・清がここに都を置く。北京
- 朱熹の白鹿洞書院できごとAD1179年書院の手本廬山の麓の廃れた書院を建て直し、学規を定めた。父子の親、君臣の義から始まる五つの教え。朱子学の学校の手本になり、朝鮮の書院と日本の藩校がこれを写した。廬山
- 朱子学の成立できごとAD1190年科挙の答案の基準朱熹が四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を選び、注をつけて、五経より先に読む基本の書とした。理(世界の筋道)と気(材料)。「格物致知」——物に至って理を窮める。「性即理」。仏教と道教に対抗して、儒教に形而上学を与えた。生前は「偽学」として禁じられ、死後に正統になり、1313年から科挙の答案の基準になった。日本の江戸、朝鮮、ベトナムの官学。漳州
- モンゴル帝国の拡大できごと1206年外から来た王朝史上最大の陸上帝国。ユーラシアが一つの交通圏になり、人も物も疫病も東西を往復する。カラコルム
- フビライ・ハン人物AD1215年 – AD1294年中国を征服して元を建てた。二度日本へ兵を送り、二度とも失敗する。
- 郭守敬人物AD1231年 – AD1316年天文台と観測機器を作り直し、授時暦を作った。1年を365.2425日とした値は、グレゴリオ暦と同じで、そちらより300年早い。
- 襄陽の攻囲できごとAD1268年6年の囲み漢水の要。南宋の北の鍵。フビライは6年囲んだ。イル・ハン国からペルシアの技師を呼び、回回砲を据えた。1273年、樊城が落ち、襄陽の呂文煥が降った。3年後、臨安。マルコ・ポーロは「私の父と叔父が砲を作った」と書いたが、彼らはまだ来ていなかった。襄陽
- 元国AD1271年 – AD1368年草原の側が中国を丸ごと治めた。モンゴル高原と中国が一つの国になり、大都(北京)が都になる。
- 大元の国号できごとAD1271年モンゴル帝国の五代目の大ハーンとなったフビライは、草原の都カラコルムを離れ、中国の北に新しい都・大都を築かせた。いまの北京のもとになる町である。1271年、易経の言葉から取った大元という国号を定め、中国の王朝の形をとった。1279年に南宋を滅ぼし、中国の全土を一人の支配者のもとに置く。モンゴル人を上に置く身分の区別を残しつつ、中国の役所の仕組みを使って治めた。遊牧の帝国が、中国の王朝の顔を持った。北京
- 崖山の戦いできごとAD1279年3月19日皇帝を背負って海に南宋の最後。8歳の皇帝と20万人が1000隻の船を鎖でつないで海に浮かんでいた。張弘範が水と薪の道を絶った。陸秀夫は皇帝を背負って海に入った。10万の死体が浮いた。「崖山の後に中国なし」と、明末の遺民が言い、日本の学者が広めた。崖山

- 朱元璋(洪武帝)人物AD1328年10月21日 – AD1398年6月24日乞食僧から皇帝へ飢饉で家族を失い、乞食僧になり、紅巾軍に入って皇帝になった。中国史で最も低い所から出た皇帝。宰相を廃し、胡惟庸と藍玉の獄で数万人を殺し、農民を里甲に縛り、海を閉じた。顔が醜いと言った者を殺し、肖像画は二種類残る。
- 永楽帝人物AD1360年 – AD1424年甥から帝位を奪い、南京から北京へ都を移した。紫禁城を建て、『永楽大典』を編ませ、鄭和を七度海へ出す。明が最も外を向いていた時期になる。
- 明国AD1368年 – AD1644年元を北へ追い、漢人の王朝が戻った。鄭和の艦隊を七度出したあと海を閉じ、長城を築き直して内に向かう。
- 明の成立できごとAD1368年モンゴルの100年が終わる紅巾の乱から出た貧農の子が、南京で皇帝になり、元を北へ追った。モンゴルの100年が終わり、漢人の王朝が戻る。皇帝は宰相を廃し、功臣を数万人殺し、農民を土地に縛る国を作った。南京
- 鄭和人物AD1371年 – AD1433年頃雲南のムスリムの家に生まれ、少年で去勢されて宮廷に入り、七度の大航海を率いた。旗艦はコロンブスのサンタ・マリア号の数倍あったとされる。
- 『水滸伝』できごとAD14世紀反乱を讃える話として禁書に十二世紀のはじめ、宋江という者が仲間を率いて各地を荒らした、という短い記録がある。それが語り物の中で膨らみ、梁山泊という沼地の砦に百八人の豪傑が集まる物語になった。元から明にかけて、施耐庵とされる人物がまとめたと伝わる。役人の不正に追われた者たちが、義によって結ばれ、腐った官を懲らしめる。反乱を讃える話として、明や清では禁書にされたこともある。江戸時代の日本でも大流行し、浮世絵の題材になった。杭州(臨安)
- 鄭和の南海遠征できごと1405年七度の航海で数百隻の船団がアフリカ東岸まで達した。植民も征服もせず、朝貢の関係を結んで帰る。だが事業は打ち切られ、記録の多くも失われた。海は他者に委ねられる。南京
- 土木の変できごとAD1449年9月1日皇帝が捕虜に宦官王振に勧められて正統帝が50万で親征し、オイラトのエセンに囲まれ、皇帝が捕虜になった。于謙が弟を皇帝にして北京を守った。エセンは皇帝を返した。帰った皇帝は7年幽閉され、弟が病むと復位して于謙を殺した。明はそれから長城を築き続けた。土木堡
- 李時珍人物AD1518年 – AD1593年湖北の蘄州、代々の医者の家に生まれた。父は息子に科挙を望んだが、三度落ちて医に戻った。楚王府と太医院に仕えたが長く留まらず、郷里で診療した。既存の本草書に誤りと重複が多いことに気づき、二十七年をかけて『本草綱目』を書いた。八百種以上の文献を読み、各地を歩き、農民と猟師と薬売りに聞き、自ら試した。三度書き改めた。刊行を見ることなく死んだ。
- 一条鞭法できごとAD1581年死後に家を潰された張居正が全国を検地して、ばらばらだった税と労役を一本にまとめ、銀で納めさせた。名はもと「一条編」(一つに編む)で、同じ音の「鞭」の字が当てられた。日本とアメリカ大陸から流れ込んだ銀が、それを可能にした。農民は作物を売って銀を得なければならず、市場経済に組み込まれた。張居正が死ぬと一族は財産を没収され、名誉は剥奪されたが、税の仕組みは残った。清の地丁銀へ。世界の銀が、中国の税の形を変えた。北京
- 本草綱目できごとAD1596年李時珍が二十七年かけて書いた薬物の書である。1,892種を、鉱物から人体まで十六の部に分けて並べた。分類の順を、無機から植物、動物へと段階的に上げている。374種を新しく加え、既存の書の誤りを正した。自ら山に入り、農民と漁師と猟師に聞き、自分で試した。生前には刊行されず、死の三年後、南京で出た。日本には1607年に伝わり、江戸期の本草学の土台になった。ダーウィンが「中国の百科事典」として引いている。南京
- サルフの戦いできごとAD1619年明が満洲を守れないと分かった明の大軍を四つに分けて進ませ、ヌルハチが各個に破った。明が満洲を守れないと分かり、25年後に北京が落ちる。サルフ(位置は特定されていない)

- 鄭成功人物AD1624年8月27日 – AD1662年6月23日平戸生まれ。明の再興を掲げて海上で戦い、オランダを追い出して台湾に政権を置いた。
- 丙子胡乱できごとAD1636年明を宗主と仰いできた朝鮮は、北で力を伸ばした満洲人の清に臣従を求められ、拒んだ。1636年の冬、清の皇帝ホンタイジ自ら大軍を率いて攻め込む。朝鮮の王・仁祖は南漢山城に逃れて四十日余り籠城したが、寒さと飢えに耐えられず、翌年の正月、城を出て清の皇帝の前で三度ひざまずき九度頭を地につける礼をして降った。王子たちは人質として清へ連れて行かれる。夷狄とさげすんできた相手に屈したことは、朝鮮の支配層に深い屈辱として残った。漢陽
- 清の中国支配できごとAD1644年最後の王朝明が滅び、満洲族の清が北京に入った。中国最後の王朝が始まる。洛陽
- 清国AD1644年(北京入城) – AD1912年(宣統帝の退位)満洲から入って中国を治め、モンゴル・新疆・チベットを加えた。いまの中国の版図の形はここで決まる。
- 康熙帝人物AD1654年 – AD1722年61年在位し、清の版図と繁栄を固めた。同じ頃ヨーロッパでは絶対王政が全盛を迎える。
- 鄭成功の台湾できごとAD1662年オランダを追い出し、明の残党が海の政権を築いた。20年あまりで清に降る。台南
- ネルチンスク条約できごとAD1689年9月6日170年破られなかったロシアと清が、アムール川の流域で衝突して、初めて対等な条約を結んだ。イエズス会士のペレイラとジェルビヨンがラテン語で仲介した。ロシアはアムールを諦め、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を境に。代わりに北京での交易が認められた。中国が西洋の国と結んだ最初の条約で、170年、破られなかった。1727年のキャフタ条約で、モンゴル方面の国境と、恒常的な交易の場が決まった。ネルチンスク

- 広州の茶貿易できごと1700年イギリスが飲む茶の代金として、銀が中国へ流れ続けた。その流れを逆にするために持ち込まれたのがアヘンになる。飲み物の習慣が、戦争の理由になった。広州
- 乾隆帝人物AD1711年9月25日 – AD1799年2月7日清の版図を最大にした。祖父を超えないよう60年で自ら退位する。その先に西洋との摩擦が待っていた。
- 康熙字典できごとAD1716年文字を整理することは、支配の技術である康熙帝が編纂を命じ、三十人の学者が六年で仕上げた。収録は47,035字。部首を214に整理し、画数の順に並べる。この配列が、以後の漢字の辞書の標準になった。日本の漢和辞典も、これに従っている。各字に、反切による発音と、古い辞書からの引用を、時代順に並べた。誤りも多く、後に王引之が2,588か所の訂正を命じられている。皇帝が編纂を主宰することで、文字そのものが国家の管理下に置かれた。異体字の整理は、同時に、標準の制定である。北京
- 乾隆帝の治世できごと1735年版図は最大。その先に西洋との摩擦が待っている清の版図が最大になった。祖父の在位年数を超えないよう60年で退位する。この先に西洋との摩擦が待っている。北京
- 『紅楼夢』できごとAD1760年頃没落した家の記憶曹雪芹。祖父が江寧織造として康熙帝の南巡を4度迎えた家が、雍正帝に財産を没収されて没落した。北京の西郊で、粥をすすりながら、10年、5回書き直した。賈家の大邸宅の栄えと衰え、宝玉と黛玉と宝釵、400人以上の人物。80回で筆が止まり、高鶚が120回に整えて1791年に刊行された。中国の小説の頂点とされ、これだけを研究する学問(紅学)がある。北京

- 清の文字の獄できごとAD1772年四庫全書乾隆帝が『四庫全書』の編纂を命じ、全国の書物を集めさせた。同時に、その中から満洲を貶める語(「夷」「虜」「胡」)や、明を懐かしむ文を探させた。10年余りで、3000種以上の書物が焼かれ、削られた。詩の一句や、避諱(皇帝の名の字を避けること)の失敗で、一族が処刑された。集めることと、消すことが、同じ事業の表と裏だった。北京
- マカートニー使節団できごとAD1793年9月清が世界をどう見ていたかイギリスが通商を求めて送った使節を、乾隆帝は熱河の離宮で会い、「天朝は何も欠いていない」と退けた。傲慢の例として語られてきたが、当時の清はまだ世界最大の経済だった。熱河(承徳)

- 白蓮教徒の乱できごとAD1796年盛世の終わりを示す乱弥勒の下生を説く宗教結社が、四川と湖北の山地で9年戦った。清の正規軍は役に立たず、地方の郷勇が鎮圧する。清の衰えが見えた最初の乱。北京
- 西太后人物AD1835年11月29日 – AD1908年11月15日幼帝の後見として47年間、清の実権を握った。改革を潰した側とも、遅れて進めた側とも評される。
- アヘン戦争できごと1840年ここで連続が切れる清が英国に敗れ、香港を割いた。この敗北の報が、日本に開国の危機感をもたらす。南京

- 太平天国の乱できごと1851年2000万人以上が死んだとされる内乱。清の衰えを決定づけた。南京

- 袁世凱人物AD1859年9月16日 – AD1916年6月6日竊国大盗河南。科挙に2度落ちて軍へ。朝鮮で12年(甲申政変を潰した)。新建陸軍(北洋軍)。戊戌の変法で光緒帝を裏切った、と言われる。李鴻章のあと直隷総督。辛亥革命で清に呼び戻され、清と革命派の両方を脅して、清を退位させ、自分が大総統。宋教仁を暗殺したと言われる。皇帝。83日。「竊国大盗」。北洋軍閥は彼の部下たち。
- 洋務運動できごとAD1861年道具だけを借りる改革二度のアヘン戦争に敗れ、太平天国の反乱に揺さぶられた清の官僚たちは、西洋の武器と技術を取り入れて国を強くしようとした。1861年、外国との交渉を扱う役所が北京に置かれる。各地に兵器工場や造船所を作り、外国語の学校を開き、留学生を送った。中国の学問を本とし、西洋の技術を用とする、と唱えた。だが政治の仕組みには手をつけなかった。三十年かけて作った北洋艦隊は、1895年、日清戦争でほぼ失われた。北京
- 孫文人物AD1866年11月12日 – AD1925年3月12日2000年続いた皇帝の制度を終わらせた革命の中心。統一を見ないまま死んだ。台湾は国父と呼び、中華人民共和国は「革命の先駆者」と呼ぶ。
- 張作霖人物AD1875年3月19日 – AD1928年6月4日東北王遼寧の貧農の子。馬賊。日露戦争で日本に使われ、清の軍に入れられ、辛亥で奉天を取った。「東北王」。日本と組み、日本を使い、日本に使われた。1924年、北京を取り、1927年、大元帥。北伐に負けて帰る途中、日本に殺された。息子学良が国民政府についた。「満洲の日本の同盟者を、日本が殺した」。
- 蒋介石人物AD1887年10月31日 – AD1975年4月5日国民党を率いて中国を統一しかけ、日本と戦い、内戦に敗れて台湾へ渡った。
- 周恩来人物AD1898年3月5日 – AD1976年1月8日建国から死まで首相を務めた。文化大革命のさなかも実務を回し、米中の接近を用意する。
- 劉少奇人物AD1898年11月24日 – AD1969年11月12日中国のフルシチョフ湖南。モスクワで学んだ。安源の炭鉱の労働運動。『共産党員の修養を論ず』。1959年、国家主席。大躍進のあと、毛の路線を修正した(自留地、農村市場)。「三自一包」。毛は「中国のフルシチョフ」「党内の資本主義の道を歩む実権派」として、文革で倒した。1968年、党から永久除名。開封で、病気のまま放置されて、裸で、死んだ。1980年、名誉回復。灰は海に。
- 義和団の乱できごとAD1900年外国の宣教師と鉄道と商品が入り込み、干ばつが続く華北の農村で、武術の結社・義和団が、清を助け外国を滅ぼせと唱えて広がった。1900年、彼らは北京に入り、清の朝廷もこれに乗って列国に宣戦する。外国の公使館は二か月近く包囲された。日本を含む八か国の連合軍が北京を占領し、翌年の議定書で清は巨額の賠償金を課され、外国軍が北京に駐留することになった。清の権威は地に落ち、十一年後の辛亥革命へ向かっていく。北京
- 鄧小平人物AD1904年8月22日 – AD1997年2月19日市場を導入して中国を世界の工場に変えた。同時に天安門では武力を用いた。
- 林彪人物AD1907年12月5日 – AD1971年9月13日ウンドゥルハーン黄埔軍官学校。紅軍で最も若い軍団長。平型関、遼瀋、平津、海南。10元帥の一人。国防相。『毛主席語録』を編んだ。文革で毛の「親密な戦友」「後継者」(党規約に書かれた)。1971年9月、クーデターを企てたとして(真偽は分からない)、トライデント機でソ連へ逃げ、モンゴルのウンドゥルハーンに墜落した。妻と息子と。「林彪事件」。中国人は、毛の後継者が毛を殺そうとしたと知らされた。
- 辛亥革命できごとAD1911年10月10日2000年続いた皇帝の制度が終わる2000年続いた皇帝の制度が終わった。ただし共和国はすぐに軍閥に割られ、統一までさらに時間がかかる。武昌

- 袁世凱の帝制できごとAD1915年12月12日83日孫文から大総統を受け取った袁世凱は、国会を解散し、国民党を禁じ、1915年、日本の二十一か条を受け入れ、12月、「中華帝国」の皇帝を宣言した。洪憲。雲南の蔡鍔が立ち、各省が独立を宣言し、日本もイギリスも認めなかった。83日で取り消し、6月、尿毒症で死んだ。彼の部下が軍閥になって、10年争った。北京
- 五四運動できごとAD1919年5月4日天安門に3000人パリ講和会議が、ドイツの山東の権益を日本に渡した。北京の学生3000人が天安門に集まり、親日派の曹汝霖の家を焼いた。逮捕、ストライキ、上海の商人の休業、日本製品の不買。政府は調印を拒んだ。新文化運動(『新青年』、陳独秀、胡適、魯迅、白話文)が政治になった。李大釗と陳独秀がマルクスを読み、1921年、共産党。北京

- 張作霖爆殺事件できごとAD1928年6月4日易幟蒋介石の北伐に負けて北京から奉天へ戻る列車を、関東軍の河本大作大佐が、南満洲鉄道との交差点で爆破した。満洲の軍閥を、日本が自分で殺した。田中義一首相は昭和天皇に処分を約束して、できず、天皇に叱られて辞めた。息子の張学良は国民政府についた(易幟)。3年後、柳条湖。奉天(瀋陽)

- 長征できごとAD1934年10月16日1万2500キロ蒋介石の第5次囲剿で江西の根拠地を失って、紅軍8万6000が瑞金を出た。1年、1万2500キロ。湘江で半分を失い、遵義会議で毛沢東が指導権を取り、金沙江、瀘定橋(13本の鉄の鎖の橋を22人が渡った、と伝える)、大雪山、草地(沼)。1935年10月、陝西の呉起鎮に着いたのは8000人。負けて逃げた話が、党の神話になった。瑞金
- 西安事件できごとAD1936年12月12日華清池共産党を討てと言われていた張学良が、満洲を日本に取られたまま、内戦を続けることに耐えられなくなって、督戦に来た蒋介石を華清池で捕らえた。「抗日のために内戦を止めろ」。周恩来が来て交渉した。ソ連が蒋を殺すなと言った。2週間で蒋は釈放され、口約束で国共合作。張学良は蒋について南京へ行き、54年、軟禁された。西安

- 盧溝橋事件できごとAD1937年7月7日8年北京の南西の橋の近くで夜間演習中の日本軍に、銃声。兵が1人いない(用便で、戻った)。翌朝、戦闘。現地で停戦したのに、東京が3個師団を送り、蒋介石が「最後の関頭」と言った。日中戦争。8年。誰が最初に撃ったか、いまも分からない。8月、上海。12月、南京。北京
- 延安整風できごとAD1942年2月文革の型延安の洞窟の街で、毛沢東が党の「作風を正す」運動を始めた。主観主義、宗派主義、党八股。学習、自己批判、告白。康生が「搶救運動」でスパイを探し、1000人以上を自白させた。王実味が処刑された。ソ連帰りの王明の派が消え、毛沢東思想が党の指導理念になった(1945年)。文革の型が、ここでできた。延安

- 二・二八事件できごとAD1947年2月28日日本の統治が終わった台湾に、大陸から国民党の役人と軍がやって来た。汚職と物不足と差別に、島の人びとの不満は高まっていた。1947年2月27日の夜、台北で闇の煙草を売っていた女性を取締りの役人が殴り、抗議した群衆に発砲する。翌28日、抗議は島じゅうに広がった。国民党は大陸から軍を送り、指導者や知識人を含む多くの人を殺す。死者は一万数千から二万を超えるとも言われる。このあと、四十年近い戒厳令が敷かれた。台北
- 簡体字とピンインできごとAD1956年1月28日漢字を簡単にする1949年の中華人民共和国の成立のとき、国民の8割ほどは読み書きができなかったとされる。漢字の数の多さと画数の複雑さが、その壁の一つとみなされた。1956年1月28日、国の政府は「漢字簡化方案」を公布し、画数の多い漢字を簡単な形に改めた。「國」は「国」に、「書」は「书」に。1958年には、漢字の読みをローマ字で表す「漢語ピンイン」が定められ、学校で発音を教えるのに使われた。識字の運動と学校教育の広がりで、読み書きのできる人は大きく増えた。台湾や香港では、いまも伝統の字体の漢字が使われている。北京
- 大躍進できごと1958年鉄鋼と穀物の増産を号令したが、統計が上へ行くほど水増しされた。数千万人が餓死したとされる。北京
- 中ソ国境紛争できごとAD1969年3月2日同じ社会主義の国どうしとして手を組んでいた中国とソ連は、1950年代の終わりから、路線と主導権をめぐって激しく対立していた。1969年3月2日、国境のウスリー川の中州の島で、両国の兵が撃ち合い、多くの死者が出る。ソ連が核兵器で中国を叩くことまで検討したと伝えられ、両国は戦争の瀬戸際に立った。この対立が、中国をアメリカとの接近に向かわせる。三年後、アメリカの大統領が北京を訪れた。珍宝島
- ニクソン訪中できごとAD1972年2月21日一つの中国反共の大統領が、国交のない国へ。空港で周恩来と握手した。ダレスが1954年に拒んだ握手。毛沢東と1時間。万里の長城。上海コミュニケ。「一つの中国」。ソ連への牽制。テレビ生中継。「世界を変えた週」。日本は頭越しに知らされた。北京

- 日中国交正常化できごとAD1972年9月29日アメリカの大統領が中国を訪れると発表したのは1971年で、日本は頭越しの転換に驚いた。首相になったばかりの田中角栄は、1972年9月、北京へ飛ぶ。周恩来と交渉し、9月29日、両国は共同声明に署名して国交を開いた。中国は戦争の賠償を求めないとし、日本は台湾との国交を断った。翌月、二頭のパンダが上野動物園に贈られ、長い行列ができる。経済の結びつきは、その後の数十年で両国の形を変えていく。北京
- 鄧小平の南巡講話できごとAD1992年1月18日社会主義市場経済天安門の3年後、改革が止まっていた。87歳の鄧小平が、肩書きなしで、深圳、珠海、上海を回って、「改革開放を続けろ。計画か市場かは社会主義か資本主義かの区別ではない。発展こそ硬い道理」。北京の保守派は無視しようとして、党大会で「社会主義市場経済」が決まった。中国の30年の成長は、ここから。深圳

- 三峡ダムできごとAD2006年長江の中流の三峡は、洪水が繰り返し下流の人びとを襲う場所だった。孫文の時代からあったダムの構想を、中国の政府は1990年代に動かし、2006年に堤体が完成する。世界最大の水力の発電所になった。貯水で、百万人を超える人が住み慣れた町や村から移住させられ、多くの遺跡が水に沈む。地すべりや水質の悪化も心配されてきた。洪水を抑え電気を生む巨大な工事は、同時に人と土地の大きな犠牲の上に立っている。宜昌
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
ムンディ先生の講義で学ぶ歴史29件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。考えることの歴史24件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。草原の帝国21件を共有 / 匈奴からジュンガルまで、2500年のあいだ農耕世界の北にいた人たちの側から歴史を並べる。誰が書き残したか17件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。交易路とお金15件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。主権はだれのものか14件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。インドと仏教12件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。中華の統一11件を共有 / 殷を倒した周から、初めて中国をひとつにした秦まで。800年かけて「天下」という考えが育つ。表現の歴史10件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。三国志9件を共有 / 400年続いた漢が壊れ、三つに割れ、そしてまた一つに戻るまでの約100年。技術と産業9件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。コテンラジオで聞く歴史8件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。冷戦7件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。確かめるという方法7件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。『世界史』(マクニール)で読む歴史7件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『サピエンス全史』で読む歴史6件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『銃・病原菌・鉄』で読む歴史6件を共有 / なぜ征服したのがスペイン人で、されたのがインカだったのか。ダイアモンドは答えを人ではなく大陸の形に求めた。『大分岐』で読む歴史6件を共有 / 1800年まで、長江下流とイングランドは同じくらい豊かだった。分かれたのは石炭と植民地のせいだ、という本。『中国の科学と文明』で読む技術の歴史6件を共有 / 中国には長い科学技術の蓄積があった。では、なぜ近代科学はそこで生まれなかったのか。『リオリエント』で読む世界経済6件を共有 / 1800年まで、世界経済の中心はアジアだった。ヨーロッパは、その列に遅れて並んだ客にすぎない。『史記』で読む中国6件を共有 / 2000年前に、一人の男が3000年ぶんを書いた。宮刑を受けてなお書き続け、以後の中国の歴史書の型になった。朝鮮半島5件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。都市の歴史5件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。教育の歴史5件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史5件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。言葉と文字の歴史5件を共有 / 話す言葉を書き留める文字が生まれ、印刷と国家と機械が、言葉を広め、整え、ときに奪ってきた。二つの大戦4件を共有 / 一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。女性の権利4件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。帝国と独立4件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。文明のはじまり4件を共有 / 農耕も都市も文字も、離れた場所で別々に始まった。そして始まった順序は、思っているのと違う。食の歴史4件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。探検と発見3件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。日本の古代3件を共有 / 中国の史書にだけ名が残る王たちから、律令の国家ができるまで。手本は常に大陸にあった。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史3件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀3件を共有 / 1250年から1350年まで、世界はすでに一つにつながっていた。ただし中心はヨーロッパではなかった。民族移動の時代2件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。冷戦のあと2件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『暴力の人類史』で読む歴史2件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『反穀物の人類史』で読む歴史2件を共有 / 人が穀物を育てたのではなく、穀物と国家が人を囲い込んだ。最初の国家は、なぜ壁の内側に人を閉じ込めたのか。『交易の世界史』で読む物の流れ2件を共有 / シュメールの銅から現代のコンテナまで。人が物を遠くへ運ぶために、何をしてきたか。海の歴史2件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。明治1件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。大航海時代1件を共有 / 海が壁ではなく道になった。二つの大陸が結ばれ、世界がひとつの市場になっていく。武士の700年1件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『万物の黎明』で読む歴史1件を共有 / 狩猟採集から農耕へ、村から都市へ、そして国家へ。その一本道の筋書きそのものが間違いだ、という本。『負債論』で読む歴史1件を共有 / お金は物々交換の不便から生まれた、という話は史料に無い。先にあったのは借りのほうだ、という本。『オリエンタリズム』で読む歴史1件を共有 / 西洋が「東洋」について語ってきたことは、東洋についての知識ではなく、西洋についての物語だった、という本。『1491』『1493』で読む新大陸1件を共有 / コロンブス以前のアメリカは人の少ない原野ではなかった。以後の世界は、生き物の大移動でできている。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『物質文明・経済・資本主義』で読む三つの層1件を共有 / 毎日の暮らし、市場での取引、そしてその上に乗る資本主義。ブローデルは経済を三層に分けた。『砂糖の世界史』で読む世界商品1件を共有 / 一つの白い粒を追いかけると、カリブの奴隷とイギリスの朝食と産業革命が一本につながる。お金の歴史1件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。性の歴史1件を共有 / 何が自然で何が異常かは、時代ごとに書き換えられてきた。書き換えてきたのは、法と医学と経済になる。交通と旅の歴史1件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。