一ノ谷の戦い

概要
福原に戻った平家を、範頼が正面から、義経が裏の崖から。「鵯越の逆落とし」。平家は船で海へ逃げ、平敦盛が熊谷直実に討たれた。17歳。『平家物語』の最も有名な場面。義経の名が上がり、頼朝の疑いが始まった。
場所
34.63°N 135.08°E · 兵庫県神戸市
関わった人(1)
源義経AD1159年–AD1189年6月15日(文治5年閏4月30日) · 崖を下った本文
1183年、木曽義仲に攻められた平家は、幼い安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、西国へ逃れた。だが平家は瀬戸内の水軍を押さえて勢いを取り戻し、その年の冬には備中の水島で義仲の軍を破った。都では、義仲の軍の乱暴と、後白河法皇との対立から、義仲は孤立していった。1184年1月、源頼朝が送った弟の範頼と源義経の軍が都に入り、義仲は近江の粟津で討たれた。
そのころ平家は、かつて平清盛が都を移そうとした摂津の福原(いまの神戸)まで戻っていた(福原遷都)。都を目の前にうかがう構えである。福原は、北に六甲の山々が迫り、南は海で、東西に細長い。平家は、東の入口の生田の森に平知盛と重衡を、西の入口の一ノ谷に平忠度らを置き、北の山の手にも陣を構えた。海には船を並べた。
都の後白河法皇は、平家に対して和平の使者を送ろうとする動きを見せていた。平家の総大将の宗盛は、のちに法皇への返書の中で、法皇の使いから2月8日までは戦をしないと知らされていたのに、その間に攻められたと抗議している。真相は分からないが、平家が奇襲を予想していなかったことはうかがえる。
2月4日、源氏の軍は都を発った。範頼の率いる大軍は山陽道を進んで東の生田の森へ、義経の軍は丹波の道を回って西へ向かった。義経は2月5日の夜、播磨との境の三草山に陣を張っていた平資盛の軍に夜討ちをかけて追い散らした。さらに義経は軍を分け、土肥実平に大半の兵を預けて一ノ谷の西の口へ向かわせ、自らは少数の兵を率いて山の中へ入った。

2月7日の朝、生田の森で戦いが始まった。『平家物語』は、梶原景時が敵の中に取り残された息子を救うために、二度にわたって敵陣に駆け入った話などを伝えている。西の口でも土肥実平の軍が攻めかかった。そこへ、山の上から源氏の兵が平家の陣の背後に駆け下りた。鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』は、義経が勇士70騎余りを率いて一ノ谷の後ろの山、鵯越と呼ばれるところに着いたと記している。
『平家物語』はこの場面を劇的に描く。義経が案内に立てた土地の者に、この崖を鹿は通るかと聞くと、冬には鹿が通ると答えた。義経は、鹿が通れるなら馬も通れると言い、試しに馬を追い落とすと、何頭かは無事に下に降り立った。そこで義経が先頭に立って崖を駆け下り、兵たちも続いたという。いわゆる「鵯越の逆落とし」である。畠山重忠が馬をいたわって背負って下りたという話は、さらに後の『源平盛衰記』に出てくる。背後から火を放たれた平家の陣は総崩れになり、兵たちは海の船へ逃げようと先を争った。

この逆落としについては、昔から議論がある。鵯越と呼ばれる場所は、一ノ谷から東へ8キロほど離れた山の中にあり、一ノ谷の背後の崖とは位置が合わない。義経が実際に下りたのは一ノ谷の裏の鉢伏山のあたりだとする説、鵯越から福原の背後の山の手を攻めたのだとする説などがある。九条兼実の日記『玉葉』は、最初に山の手から攻め落としたのは摂津の武士の多田行綱だったと書いている。義経の奇襲の役割がどれほどだったのかも含めて、確かなことは分かっていない。
逃げ遅れた平家の武将たちが、次々に討たれた。『平家物語』の「敦盛最期」によれば、海へ馬を乗り入れて船へ向かおうとしていた若武者を、武蔵の熊谷直実が呼び止め、組み伏せて首を取ろうとした。兜を押し上げると、薄化粧をした、自分の息子と同じくらいの年の少年だった。直実は逃がそうとしたが、味方の軍勢が迫っていて逃がしきれず、泣く泣く首を取った。腰には錦の袋に入れた笛が差してあった。少年は清盛の甥の平敦盛で、数えで16歳とも17歳ともされる。『平家物語』はこの体験が直実の出家につながったと語る。直実はのちに実際に出家して法然の弟子になり、蓮生と名乗った。ただし出家の直接のきっかけは、所領の争いの裁判だったとも言われる。

平忠度も、この日に討たれた。忠度は和歌にすぐれ、都落ちの際には、わざわざ引き返して歌の師の藤原俊成に自作の歌の巻物を託したことで知られる。討たれた忠度の箙には、「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」という歌を書いた文が結びつけてあったと『平家物語』は伝える。このほか、平通盛、経正、知章、業盛、師盛ら、一門の多くの若い武将が死んだ。清盛の五男で、かつて南都を焼き討ちした重衡は生け捕りにされ、鎌倉へ送られた。
一ノ谷の戦いで平家は大きな打撃を受け、讃岐の屋島へ退いた。義経の名は一気に上がったが、頼朝の許しを得ないまま法皇から官職を受けたことが、のちに兄との対立の種になる。平家は翌1185年、屋島の戦いと壇ノ浦の戦いで滅びた。須磨の須磨寺には、敦盛の首塚や、敦盛のものと伝える「青葉の笛」がある(『平家物語』では、笛の名は「小枝」とされる)。敦盛の死は能や幸若舞の題材になり、幸若舞の「敦盛」の一節を、織田信長が好んで舞ったことはよく知られている。