人物

フョードル・ドストエフスキー

Fyodor Dostoevsky
AD1821年11月11日 – AD1881年2月9日(享年59)
ロシア帝国重要度 4

概要

銃殺刑の直前に減刑され、4年シベリアで過ごした。その経験のあとに書いたものが世界中で読まれている。

所属

ロシア帝国

関わったできごと(1)

『カラマーゾフの兄弟』1879年 · 作者

本文

フョードル・ドストエフスキーは1821年11月11日、モスクワの貧民のための病院で、そこに勤める医師の次男として生まれた。父は厳格で気性が荒く、母は信心深い人だった。15歳で母を亡くし、ペテルブルクの工兵学校に入った翌年には、領地にいた父が死んだ。父は農奴たちに殺されたと長く言われてきたが、病死だったとする見方もある。

フョードル・ドストエフスキーの肖像(ヴァシーリー・ペロフ画)
フョードル・ドストエフスキーの肖像(ヴァシーリー・ペロフ画)Wikimedia Commons Vasily Perov · Public domain

工兵学校を出て技師の職に就いたが、すぐに辞めて文学の道に入った。1846年、最初の小説『貧しき人々』を発表すると、批評家ベリンスキーが絶賛し、彼は一夜にして文壇の注目を集めた。だが続く作品は評判が悪く、ベリンスキーとの仲も冷えた。

この頃、彼は空想的社会主義を語り合う若者たちの集まり、ペトラシェフスキーの会に出入りしていた。1849年4月、ニコライ1世の政府は会員を一斉に逮捕した。前年に西欧で革命が相次ぎ、政府は神経をとがらせていた。ドストエフスキーは、ベリンスキーが作家ゴーゴリを批判した手紙を会合で読み上げたことなどを罪に問われ、銃殺刑を言い渡された。

ドストエフスキーの母マリア・フョードロヴナ
ドストエフスキーの母マリア・フョードロヴナWikimedia Commons A. Popova · Public domain

12月22日の朝、死刑囚たちはペテルブルクの練兵場に連れ出された。最初の3人が柱に縛られ、兵士が銃を構えたところで、皇帝の恩赦を伝える使者が来た。減刑は初めから決まっていて、皇帝の指示でこの芝居が仕組まれていた。死を目前にした数分間の体験は、のちの長編『白痴』で、主人公が語る死刑囚の話として描かれている。

ドストエフスキーはシベリアのオムスクの監獄で4年間、重罪犯と同じ足かせをはめられて過ごした。手元に置くことを許された本は、流刑地へ向かう途中で贈られた新約聖書だけだったという。刑期を終えると、さらに一兵卒として中央アジアに近い町で勤務した。この間に持病のてんかんの発作がひどくなり、未亡人と最初の結婚をしている。監獄での体験は『死の家の記録』にまとめられた。ペテルブルクへ戻れたのは1859年、逮捕から10年後である。

ドストエフスキーの父ミハイル・アンドレーヴィチ
ドストエフスキーの父ミハイル・アンドレーヴィチWikimedia Commons A. Popova · Public domain

戻った後も、苦しさは続いた。1864年に妻と、雑誌を共に出していた兄が相次いで死に、兄の借金と遺族の暮らしを背負い込んだ。ドイツの保養地でルーレットにのめり込み、旅費まですった。1866年、彼は『罪と罰』を雑誌に連載していたが(ドストエフスキー『罪と罰』)、出版業者との不利な契約で、期限までに別の長編を渡さなければ自分の作品の権利を奪われることになっていた。そこで速記者を雇い、口述でわずか26日ほどのうちに『賭博者』を仕上げた。その速記者アンナ・スニートキナと、翌年に結婚した。

アンナは家計を引き受け、のちには夫の本の出版まで自分で手がけた。借金取りを逃れて夫婦は4年余りを西欧で暮らし、その間に『白痴』と『悪霊』が書かれた。『悪霊』は、実際に起きた革命組織の仲間殺しの事件を素材にした作品である。若い頃に社会主義に惹かれた作家は、このときには、神を捨てた理想が人を殺すことを描いていた。

晩年のドストエフスキーは、ロシアの民衆と正教会に救いを見る思想家として、大きな影響力を持った。1880年、モスクワでの詩人プーシキンの記念祭で行った講演は聴衆を熱狂させ、泣き出す者まで出たと伝えられる。同じ年、最後の長編『カラマーゾフの兄弟』を完成させた(『カラマーゾフの兄弟』)。父殺しの謎を軸に、神はいるのか、神がいないなら何をしてもよいのか、という問いを兄弟たちにぶつけ合わせた作品である。続編の構想もあったが、書かれることはなかった。

『カラマーゾフの兄弟』に関わる図版:Dostoevsky-Brothers Karamazov
『カラマーゾフの兄弟』Wikimedia Commons Russkii Vestnik · Public domain

1881年2月9日、ドストエフスキーはペテルブルクで死んだ。59歳だった。葬儀には数万人が集まった。そのひと月後、アレクサンドル2世が革命家に暗殺されている。

彼の小説の人物は、信仰と不信、善と悪、卑屈と高慢を一人の中に抱え、その両方を同じ強さで生きている。作者はどちらかに軍配を上げず、議論させたまま放っておく。この書き方を、のちの批評家は多くの声が対等に響き合う小説と呼んだ。20世紀の哲学者や作家、そして日本の読者にも、レフ・トルストイと並ぶロシア文学の頂として読み継がれている。

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