幕末

概要
黒船が来てから15年で、700年近く続いた武家政権が終わった。
この物語について
十五年で、国の形が変わった。外から四隻が来ただけで、なぜ二百六十年の仕組みが崩れたのか。
嘉永6年(1853年)6月、浦賀の沖に四隻のアメリカ軍艦が現れた。うち二隻は煙を吐く蒸気船で、帆船を引いて風に逆らって進んだ。率いていたのはマシュー・ペリーで、大統領の国書を携え、受け取らなければ江戸湾の奥まで進むと迫った。黒船来航は、幕府にとってまったくの不意打ちではない。オランダからは前の年に来航の予告が届いていたし、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことも知られていた。分かっていて、備えきれなかったのである。
幕府はひとまず国書を受け取り、返事を翌年に延ばした。老中の阿部正弘は、この件を大名や旗本に広く諮問した。前例のない手で、外交を幕府だけで決めるという建前が、ここで自ら崩れる。翌年、再び来たペリーとのあいだで日米和親条約が結ばれ、下田と箱館が開かれた。さらに安政5年(1858年)、総領事ハリスとの交渉で、貿易を認める日米修好通商条約が結ばれる。
問題は、この条約に朝廷の許しが無かったことだった。幕府は勅許を求めたが、外国を嫌う孝明天皇は拒んだ。大老に就いた井伊直弼は、清がイギリス・フランスと再び戦っている情勢を見て、勅許を待たずに調印させた。将軍の跡継ぎをめぐる争いも重なり、反対した大名や公家、志士を処罰したのが安政の大獄である。長州の吉田松陰は、取り調べの場で老中の暗殺計画を自ら語り、数え30歳で斬られた。松下村塾で教えた期間は2年あまりにすぎないが、その教え子たちがのちに長州を動かす。
安政6年(1859年)、横浜・長崎・箱館で貿易が始まると、暮らしはすぐに揺れた。生糸や茶が飛ぶように売れて国内の品が足りなくなり、物の値段が上がった。金と銀の交換の割合が日本と海外で大きく違っていたため、外国人は銀貨を持ち込んで日本の金貨に替え、大量の金が国外へ流れ出た。幕府は金貨を小さく作り直してこれを止めたが、そのぶん物価はさらに上がる。暮らしが苦しくなった人びとの不満は、外国人と、外国と手を結んだ幕府に向かった。攘夷の声が武士だけのものでなくなったのは、このためである。
万延元年(1860年)3月3日の雪の朝、井伊直弼は江戸城の桜田門の外で、水戸の浪士らに襲われて首を取られた。桜田門外の変の衝撃は、一人の大老の死にとどまらない。幕府の最高責任者が、白昼、城の門前で殺されたのである。幕府は力で押さえる道をあきらめ、朝廷と手を結ぶ方向へ転じた。和宮降嫁で天皇の妹を将軍家茂の妻に迎えたのは、その一手だった。

井伊の死から二年後の文久2年(1862年)、薩摩の島津久光が兵を率いて京都に入り、勅使を伴って江戸へ下った。幕府は求めに応じて、一橋慶喜を将軍の後見役に、越前の松平慶永を政治の総裁に据え、大名に江戸と国元を一年おきに往復させる参勤交代も大幅に緩めた。外様の大名が兵の力で幕府の人事を動かしたのは、江戸時代が始まって以来のことだった。この文久の改革で、大名の妻子は国元へ帰り、江戸の武家屋敷は急にさびれたという。
ところが朝廷の権威を借りるほど、朝廷を担ぐ側の声も大きくなる。京都では「攘夷」を叫ぶ志士と公家が勢いを持ち、幕府は攘夷の実行を約束させられた。文久3年(1863年)5月、長州は下関の海峡を通る外国船を砲撃した。その前の年には、薩摩の大名行列を横切ったイギリス人が斬られる生麦事件が起きていて、1863年7月、イギリス艦隊が鹿児島を砲撃する薩英戦争になった。薩摩は城下を焼かれながらも艦隊に損害を与えたが、軍艦と大砲の差は明らかだった。薩摩はこの後、むしろイギリスに近づき、留学生を送り出す。
同じ年の8月18日、京都で政変が起きた。薩摩と会津が手を組み、長州の勢力と攘夷派の公家を御所から追い出したのである。八月十八日の政変で居場所を失った長州は、翌年、新選組が京都の旅館で志士を斬った池田屋事件をきっかけに兵を京へ進め、御所の門のまわりで会津・薩摩と戦って敗れた。禁門の変で長州は「朝敵」の名を負い、薩摩を深く恨んだ。
長州の不運は続いた。1864年8月、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国の艦隊が下関を砲撃し、砲台を占領した。四国艦隊下関砲撃事件で、長州も攘夷が無理だと思い知らされる。さらに幕府が送った第一次の征討軍に屈服し、藩の中では幕府に従う派が実権を握った。これを覆したのが高杉晋作で、1864年の暮れ、わずかな手勢で下関に挙兵し、身分を問わない奇兵隊などの諸隊を率いて藩の実権を取り戻した。
ここで、敵同士だった二つの藩が結ぶ。土佐を脱藩した坂本龍馬や中岡慎太郎が間に立ち、慶応2年(1866年)1月、京都で薩摩の西郷隆盛・小松帯刀と長州の木戸孝允が約束を交わした。薩長同盟は、薩摩が長州のために武器を買い入れ、朝廷へのとりなしをするという内容で、龍馬がその約束を裏書きした書状が残っている。この時点で討幕まで約束したのかどうかは、研究者の間でも見方が分かれる。

その年の夏、幕府は再び長州を討とうとした。だが薩摩は兵を出さず、諸藩の動きも鈍かった。洋式の銃をそろえた長州は、四つの国境のどこでも幕府軍を押し返した。戦いのさなかに将軍家茂が大坂城で病死し、幕府は将軍の死を理由に兵を引く。第二次長州征討で、将軍の命令がもう効かないことが誰の目にも明らかになった。
最後の将軍となった徳川慶喜は、フランスの助けを借りて幕府の立て直しを急いだ。しかし1866年の暮れに孝明天皇が急死し、朝廷で幕府を支えていた柱が消える。薩長が武力で幕府を倒す準備を進めるなか、慶喜は慶応3年(1867年)10月、政権を朝廷に返すと申し出た。大政奉還は、土佐の後藤象二郎らの建白を受けたもので、討幕の名目を先に奪い、新しい政体の中で徳川家が主導権を保つ狙いがあったとされる。ほぼ同じ日、薩長には討幕の密勅が下されていた。その翌月、龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎とともに斬られた。

12月9日、薩摩らの兵が御所を固めるなかで王政復古の大号令が出され、幕府も摂政・関白も廃された。その夜の会議で、慶喜に官職と領地の返上を求めることが決まる。大坂に退いた旧幕府側の不満は抑えきれず、慶応4年(1868年)1月、京都の南で鳥羽・伏見の戦いが始まった。兵の数では旧幕府側が上回っていたが、新政府軍に錦の御旗が掲げられると、旧幕府側は朝敵となった。慶喜は戦いの途中で兵を残し、軍艦で江戸へ帰った。
新政府軍は東へ進んだ。3月、旧幕臣の勝海舟は、江戸を攻める総督府の参謀だった西郷隆盛と会い、慶喜の助命と引き換えに江戸城を明け渡す話をまとめた。総攻撃の予定日は翌日に迫っていた。会談の間に新政府は五箇条の御誓文を出し、新しい国の方針を天皇が神々に誓う形で示している。4月、江戸無血開城が成り、百万人が住むといわれた都市は戦火を免れた。

戦いはそれで終わらなかった。新政府は、京都で長州と戦った会津を許さなかった。1868年秋の会津戦争では、若松城が一か月にわたって包囲され、少年の白虎隊の一部が城下の煙を見て自刃した。旧幕府の海軍を率いた榎本武揚は北へ逃れて箱館の五稜郭に拠ったが、明治2年(1869年)5月に降伏する。箱館戦争の終結で、源頼朝以来700年近く続いた武家の政権は完全に終わった。
一年半に及んだ戊辰戦争の戦死者は、双方あわせて一万人に届かなかったとみられる。国の仕組みを根こそぎ替えた内乱としては、規模が小さい。将軍が自ら政権を返し、江戸が戦わずに開かれ、外国の軍隊がどちらの側にも本格的には加わらなかった。どれか一つが違っていれば、もっと長い内戦になっていてもおかしくなかった。

ただ、その代わりに新政府は、自分たちを担いだ武士たちの扱いという難題を抱え込んだ。攘夷を叫んで倒幕を果たした人びとが、今度は開国を進め、西洋の制度を急いで取り入れることになる。黒船に始まった十五年は、外からの圧力に、内側の組み替えで答えた十五年だった。その組み替えがどこへ向かったかは、次の明治の物語になる。
この物語が起きた場所
筋(71)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- マシュー・ペリー人物1794年 – 1858年外から扉を叩いた艦隊を率いて浦賀に現れ、200年余り続いた鎖国を外から開かせた。
- タウンゼント・ハリス人物AD1804年10月4日 – AD1878年2月25日1年半待たされたニューヨークの商人が初代駐日総領事として下田に着き、1年半待たされ、江戸に出て将軍に会い、通商条約を結んだ。アヘンを禁じ、関税を認めさせた。「お吉」の話は後の作り。ペリーが開けた戸を、彼が通った。
- 横井小楠人物AD1809年9月22日 – AD1869年2月15日国是三論熊本の儒者が福井に招かれ、『国是三論』で富国と開国を説いた。「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす」。新政府の参与になって、京で「耶蘇教を広める」と疑われて斬られた。
- 堀田正睦人物AD1810年8月30日 – AD1864年4月26日朝廷の許可を取れなかった蘭学好きの老中が、ハリスとの通商条約に朝廷の許可を取りに京へ行って、取れなかった。公家が反対し、孝明天皇が拒んだ。井伊が大老になって、許可なしで結んだ。堀田は退けられて佐倉に帰った。
- 佐久間象山人物AD1811年3月22日 – AD1864年8月12日東洋道徳、西洋芸術松代藩士。「東洋道徳、西洋芸術」。大砲を鋳て、電信を試し、勝海舟と吉田松陰と坂本龍馬を教えた。松陰の密航に連座して9年蟄居し、出てきて開国を説き、京で河上彦斎に斬られた。
- 井伊直弼人物1815年 – 1860年3月24日(安政7年3月3日)大老として勅許を待たず通商条約を結び、反対派を弾圧した。桜田門外で暗殺される。
- 島津久光人物AD1817年12月2日 – AD1887年12月6日廃藩置県に怒って花火斉彬の異母弟で、藩主の父として薩摩を動かした。寺田屋で過激派を斬らせ、千人で上京し、生麦で英国人を斬られ、薩英戦争になった。倒幕には最後まで反対で、廃藩置県に怒って一晩花火を上げた。
- 阿部正弘人物AD1819年12月3日 – AD1857年8月6日庶民にまで意見を求めた25歳で老中首座になり、ペリーが来ると諸大名と庶民にまで意見を求めた。前例のない開国の決め方。人材を登用し、講武所と長崎海軍伝習所を作り、和親条約を結んで、39歳で死んだ。幕府が動けた最後の人。
- 勝海舟人物1823年 – 1899年幕臣でありながら幕府の限界を見ていた幕臣でありながら幕府の限界を見ていた。西郷と会見し、江戸を戦火から救う。
- 大村益次郎人物AD1824年5月30日 – AD1869年12月7日靖国の銅像周防の村医者が蘭学で兵学を学び、長州の軍を作り直し、第二次長州征伐で幕府軍を破り、上野の彰義隊を一日で潰した。徴兵制と鎮台を設計して、京で襲われて死んだ。靖国神社の銅像は彼。
- 岩倉具視人物1825年 – 1883年公家から討幕を画策し、王政復古の大号令を実現させた。
- 異国船打払令できごとAD1825年十九世紀に入ると、ロシアやイギリスやアメリカの船が日本の近くに現れ、水や薪を求めるようになった。1825年、幕府は、外国の船を見つけたら、理由を問わず砲撃して追い払え、と命じる。1837年には、日本人の漂流民を送り届けに来たアメリカの商船が、浦賀と鹿児島で砲撃された。1842年、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたと知ると、幕府は慌てて、水と薪は与えて帰らせる方針に改めた。外の世界の力を知らないまま、強い命令だけが出されていた。江戸
- 河井継之助人物AD1827年1月27日 – AD1868年10月1日峠長岡藩の家老。藩政を改革して金を作り、ガトリング砲を買った。武装中立を求め、小千谷で岩村精一郎に拒まれ、戦った。膝を撃たれ、会津への峠で死んだ。「峠」の人。
- ジョン万次郎人物AD1827年1月27日 – AD1898年11月12日アメリカを知る唯一の日本人土佐の漁師の子。14歳で漂流し、鳥島でアメリカの捕鯨船に拾われ、マサチューセッツで学び、金鉱で稼いで、10年後に帰った。ペリーが来たとき幕府に呼ばれ、アメリカを知る唯一の日本人として通訳し、咸臨丸に乗った。
- 西郷隆盛人物1828年 – 1877年薩長同盟を結び、討幕軍を率いた。維新後は新政府に背き、西南戦争で死ぬ。
- 松平春嶽人物AD1828年10月10日 – AD1890年6月2日四賢侯越前福井の藩主。橋本左内と横井小楠を使い、慶喜を推して井伊に隠居させられ、文久の改革で政事総裁職に。幕府の側で公武合体を探り続けて、大政奉還のあとは新政府に入った。「幕末四賢侯」の一人。
- 吉田松陰人物1830年 – 1859年11月21日(安政6年10月27日)本人は維新を見ずに死ぬが、教え子たちが動かす松下村塾で高杉晋作・伊藤博文らを教えた。29歳で処刑されたが、教え子たちが維新を動かす。
- 大久保利通人物1830年 – 1878年西郷の幼馴染。維新後は中央集権化を冷徹に進め、暗殺された。
- 孝明天皇人物AD1831年7月22日 – AD1867年1月30日外国を嫌い、幕府を倒す気はなかった外国を嫌い、条約の許可を拒み、攘夷を幕府に迫り、しかし幕府を倒す気はなかった。妹を将軍に嫁がせ、長州を憎み、慶喜を信じた。35歳で天然痘で急死。毒殺説がある。翌年、息子の名で王政復古。
- 木戸孝允人物1833年 – 1877年桂小五郎。長州を代表して薩長同盟に臨み、五箇条の御誓文の草案に関わった。
- 近藤勇人物1834年 – 1868年新選組局長。京都で尊攘派を取り締まったが、幕府の崩壊とともに斬られた。
- 橋本左内人物AD1834年4月19日 – AD1859年11月1日西郷が手紙を持ち歩いた福井藩医の子で、15歳で『啓発録』を書いた。緒方洪庵に学び、春嶽の側で一橋慶喜を将軍にと動き、安政の大獄で斬られた。25歳。西郷が生涯、彼の手紙を持ち歩いた。
- 土方歳三人物AD1835年5月31日 – AD1869年6月20日新選組副長武蔵の農家の子で、薬を売り歩き、道場で近藤勇と会った。新選組副長。局中法度で隊士を切腹させ、鳥羽伏見で負け、宇都宮、会津、箱館。函館の市街戦で馬上で撃たれて死んだ。34歳。
- 坂本龍馬人物1836年 – 1867年12月10日(慶応3年11月15日)藩を脱けた浪士でありながら、薩摩と長州を結びつけた。大政奉還の直後に暗殺される。
- 榎本武揚人物AD1836年10月5日 – AD1908年10月26日五稜郭から大臣へ幕臣。オランダに5年留学し、開陽丸で帰り、江戸開城のあと艦隊を率いて箱館へ。五稜郭で降伏し、黒田清隆が助命した。獄から出て北海道開拓、駐露公使で樺太千島交換条約、逓信・文部・外務・農商務大臣。
- 天璋院篤姫人物AD1836年2月5日 – AD1883年11月20日実家が攻めてくる側薩摩の分家の娘が斉彬の養女になり、13代家定の御台所に入った。夫は2年足らずで死んだ。和宮と大奥で対立し、江戸攻めのとき二人で嘆願した。実家の薩摩が攻めてくる側だった。維新後も徳川家を守って、薩摩に帰らなかった。
- 徳川慶喜人物1837年 – 1913年最後の将軍。政権を自ら朝廷へ返し、鳥羽伏見の敗北後は戦わずに退いた。
- トマス・グラバー人物AD1838年6月6日 – AD1911年12月16日薩長に船と武器をスコットランドの商人が21歳で長崎に来て、薩摩と長州に武器と船を売り、留学生を密航させ、蒸気機関車を走らせ、炭鉱を掘った。維新で破産し、三菱の顧問になり、麒麟麦酒の元を作った。長崎の丘に家が残る。
- 天理教の始まりできごとAD1838年10月26日民衆の中から生まれた宗教大和の庄屋の家の主婦、中山みきは、1838年10月26日、長男の病を治す祈祷の最中に神がかりになり、神の社として身を差し出したと伝えられる。家の財産を貧しい人に施し、家は没落した。安産の守りや病気の治りを通して、農民のあいだに信者が広がる。人びとが助け合って陽気に暮らす世を説いた。幕府と明治の政府からは何度も取り締まりを受け、みきは高齢で何度も拘留された。江戸の終わりから、民衆の中から生まれた新しい宗教の一つである。天理
- 高杉晋作人物1839年 – 1867年身分を問わない奇兵隊を作り、長州を討幕へ転じさせた。倒幕を見ずに27歳で病死。
- 蛮社の獄できごとAD1839年漂流民を送り届けに来た外国船を砲撃した事件のあと、蘭学を学ぶ人びとの集まりにいた渡辺崋山と高野長英は、それぞれ文章を書き、打ち払いの方針を批判した。外国の事情を知る者として、このままでは危ういと考えたのである。1839年、幕府は二人を捕らえ、崋山は国許で蟄居となり、のちに自ら命を絶った。長英は牢に入れられ、火事に乗じて逃げたが、潜伏の末に捕り手に囲まれて死んだ。外の情報を伝える者が、罰せられた。江戸
- 久坂玄瑞人物AD1840年 – AD1864年8月20日防長第一流松陰の妹婿で、高杉と並ぶ弟子。英国公使館を焼き、下関で外国船を撃ち、八月十八日で追われ、禁門の変で京に攻め上って、鷹司邸で自刃した。24歳。松陰が「防長第一流」と書いた。
- 天保の改革できごとAD1841年大飢饉と大塩平八郎の乱のあと、老中の水野忠邦は、幕府の立て直しを急いだ。1841年から、贅沢を厳しく禁じ、芝居小屋を町はずれに移し、物価を下げるため商人の同業の組合を解散させる。江戸に流れ込んだ農民を村へ帰らせる法も出した。だが物の流れは乱れ、物価はかえって上がる。1843年、江戸と大坂の周りの土地を幕府の直轄にしようとして、大名や旗本の猛反対に遭い、水野は失脚した。幕府は、自分の足もとの土地さえ思うようにできなくなっていた。江戸
- 猪山家の家計簿できごと1842年加賀藩の会計係の家が、37年分の収支を書き残した。武士が借金でどれほど追い詰められていたか、何にいくら使ったかが、一文単位で分かる唯一の史料になる。金沢
- 和宮人物AD1846年7月3日 – AD1877年9月2日徳川家の存続を嘆願仁孝天皇の娘、孝明天皇の妹。有栖川宮との婚約を解かれて将軍家茂に嫁いだ。「惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも」。家茂が死んで静寛院。江戸攻めのとき徳川家の存続を嘆願した。31歳で死に、家茂の隣に葬られた。
- 明治天皇人物1852年 – 1912年15歳で即位し、王政復古から近代国家の成立までを名において担った。
- 黒船来航できごと1853年7月8日(嘉永6年6月3日)すべての発端蒸気軍艦4隻が浦賀沖に現れ、開国を迫った。200年余り続いた体制が外から揺さぶられる。浦賀

- 日米和親条約できごと1854年3月31日(安政元年3月3日)下田と箱館を開き、鎖国が終わった。対等な条約ではなく、以後の不平等条約の入口になる。横浜
- 安政江戸地震できごとAD1855年11月11日(安政2年10月2日)鯰絵の世直し黒船の翌年の翌年、夜10時、江戸の直下で。死者1万人。水戸藩邸で藤田東湖が母をかばって圧死し、尊王攘夷の頭が一人消えた。鯰絵が何百種も刷られ、地震は「世直し」と描かれた。江戸
- 迷子しるべ石できごとAD1857年(安政4年)2月江戸では、迷子が出ると、見つけた町がその子を預かって養う決まりだった。人の多い日本橋のあたりでは、それが町の重い負担になる。安政4年、西河岸町の人々は一石橋のたもとに石の柱を建てた。右の面に「志らする方」、左の面に「たづぬる方」と彫ってある。探す者は子の年恰好や着物を書いた紙を左に貼り、心当たりのある者は右に貼る。役所の手を通さず、通りがかりの目を集める掲示板である。同じような石は湯島や浅草にもあった。一石橋のものは、いまも同じ場所に立っている。一石橋
- 日米修好通商条約できごと1858年7月29日(安政5年6月19日)勅許を待たなかったことで幕府は信を失う勅許を待たずに調印した。関税自主権が無く領事裁判権を認める内容で、朝廷と諸藩の反発を招く。江戸
- 安政の大獄できごと1858年条約と将軍継嗣に反対した公家・大名・志士を百人以上処分した。吉田松陰もここで死ぬ。江戸
- 安政のコレラできごとAD1858年(安政5年)異国が持ち込んだ病長崎に入港したアメリカの軍艦から広がり、夏の江戸で3万とも10万とも。「三日コロリ」。棺桶が足りず、火葬場が順番待ち。開港の年で、異国が持ち込んだ病として攘夷の理由になった。緒方洪庵が『虎狼痢治準』を書いた。江戸
- 吉田松陰の刑死できごと1859年11月21日(安政6年10月27日)29歳。松下村塾で学んだ者たちが、この10年後に新しい国を作る。江戸
- 横浜開港できごとAD1859年7月1日(安政6年6月2日)寒村に商館と遊郭条約の「神奈川」を、幕府は東海道から外れた寒村の横浜に読み替えた。100戸の村に外国商館と遊郭が建ち、生糸と茶が出て、金が流れ出た。攘夷の浪士が外国人を斬り始めるのも、ここから。横浜
- 桜田門外の変できごと1860年3月24日(安政7年3月3日)幕府の権威が取り返しのつかない形で傷つく大老が江戸城の門前で暗殺された。幕府の権威が取り返しのつかない形で傷つく。江戸
- 生麦事件できごと1862年9月14日(文久2年8月21日)薩摩の行列を横切ったイギリス人が斬られた。攘夷の実行が、そのまま外国との戦争を招く。生麦

- 和宮降嫁できごとAD1862年3月11日(文久2年2月11日)身は武蔵野の露と孝明天皇の妹が、婚約を解かれて将軍家茂に嫁いだ。公武合体。中山道を25日、行列は数万人。「攘夷を実行する」という幕府の約束の担保だった。家茂は4年で死に、和宮は江戸の無血開城で嘆願書を書いた。江戸

- 文久の改革できごとAD1862年(文久2年)外様が幕政を動かした最初島津久光が千人の兵で上京し、勅使を連れて江戸に来て、幕府に人事を飲ませた。一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に。参勤交代を三年に一度に緩め、大名の妻子を帰した。外様が幕政を動かした最初。江戸
- 薩英戦争できごと1863年8月15日(文久3年7月2日)薩摩が攘夷の不可能を悟る生麦事件の報復。鹿児島は焼かれたが、薩摩は攘夷の不可能を悟り、英国に接近していく。鹿児島

- 八月十八日の政変できごと1863年9月30日(文久3年8月18日)この遺恨が薩長同盟をより劇的にする薩摩と会津が長州を京都から締め出した。この遺恨が、のちの薩長同盟をより劇的にする。京都
- 池田屋事件できごと1864年7月8日(元治元年6月5日)新選組が尊攘派の会合を襲った。長州の怒りが翌月の禁門の変につながる。京都
- 禁門の変できごと1864年8月20日(元治元年7月19日)長州が京都へ攻め上って敗れ、朝敵とされた。ここから長州は追い詰められていく。京都

- 四国艦隊下関砲撃事件できごと1864年9月5日(元治元年8月5日)長州も攘夷を捨てる英仏蘭米の艦隊に砲台を潰された。長州もまた攘夷を捨て、軍備の近代化へ向かう。下関

- 天狗党の乱できごとAD1864年(元治元年)水戸は人を出せなかった水戸の尊攘派が筑波山で挙兵し、幕府軍と戦って、京の慶喜を頼って中山道を西へ。雪の中を千人。越前で降伏し、慶喜は会わず、352人が斬られた。水戸藩は内部で殺し合って、維新に人を出せなかった。筑波山

- 薩長同盟できごと1866年3月7日(慶応2年1月21日)討幕の軸ができる禁門の変で敵同士だった薩摩と長州が、坂本龍馬の仲介で手を結んだ。討幕の軸ができる。京都

- 第二次長州征討できごと1866年将軍の命令が効かないと誰の目にも明らかになる幕府軍が長州に敗れた。将軍の命令で諸藩が動かないことが、誰の目にも明らかになる。下関

- 大政奉還できごと1867年11月9日(慶応3年10月14日)将軍が自ら政権を朝廷へ返した。武力討幕の名分を先に消す一手だったが、流れは止まらなかった。京都
- 坂本龍馬暗殺(近江屋事件)できごと1867年12月10日(慶応3年11月15日)大政奉還のひと月後に斬られた。下手人は今も定まらない。京都
- ええじゃないかできごとAD1867年(慶応3年)秋御札が降った東海道の村に伊勢の御札が降り、人々が踊り出した。「ええじゃないか」。大政奉還の前後、名古屋から京、大阪へ。誰が始めたかは分からない。倒幕派が仕組んだという説と、そうでない説がある。京都

- 王政復古の大号令できごと1868年1月3日(慶応3年12月9日)幕府も摂政関白も廃し、天皇のもとに新政府を置くと宣言した。慶喜には辞官納地が命じられる。京都

- 鳥羽・伏見の戦いできごと1868年1月27日(慶応4年1月3日)戊辰戦争の始まり戊辰戦争の始まり。錦の御旗が翻り、旧幕府軍は朝敵となった。慶喜は大坂から江戸へ退く。鳥羽・伏見(位置は特定されていない)
- 五箇条の御誓文できごと1868年4月6日(慶応4年3月14日)広く会議を興し万機公論に決すべし。新政府がどういう国を作るかを最初に示した。京都
- 江戸無血開城できごと1868年5月3日(慶応4年4月11日)100万都市が戦火を免れた勝海舟と西郷隆盛の会談により、100万都市が戦火を免れた。江戸

- 会津戦争できごと1868年一か月の籠城の末に降伏した。白虎隊の自刃が語り継がれる。会津若松

- 神戸事件できごとAD1868年2月4日(慶応4年1月11日)外国人が立ち会った最初の切腹開港した神戸で、岡山藩の行列を横切った外国人を藩兵が槍で突き、隊長の滝善三郎が発砲を命じた。外国の軍が居留地を占拠。新政府は「攘夷はしない」と告げて、滝を切腹させた。外国人が立ち会った最初の切腹。神戸
- 五榜の掲示できごとAD1868年4月7日(慶応4年3月15日)幕府と同じだった五箇条の御誓文の翌日、民衆に向けた高札。儒教の道徳、徒党と強訴の禁止、キリスト教の禁止、外国人への暴行の禁止、脱藩の禁止。新政府の最初の民衆政策は、幕府と同じだった。京都
- 北越戦争できごとAD1868年(慶応4年)5月ガトリング砲2門長岡藩の河井継之助は中立を求め、新政府軍の使者に拒まれて戦った。ガトリング砲2門。城を取られ、取り返し、また取られた。継之助は傷で会津へ向かう途中で死んだ。「米百俵」は戦後の話。長岡

- 奥羽越列藩同盟できごとAD1868年6月1日(慶応4年閏4月11日)31藩会津と庄内の赦免を求めた東北の藩が、白石に集まり、拒まれて同盟した。31藩。「東北の独立政権」と見る人もいる。半年で崩れ、会津が落ち、庄内が降った。白石
- 箱館戦争の終結できごと1869年6月27日(明治2年5月18日)武家政権が完全に終わる五稜郭が開城し、戊辰戦争が終わった。700年近く続いた武家政権がここで完全に終わる。五稜郭
- 大村益次郎の暗殺できごとAD1869年10月8日(明治2年9月4日)設計者を二人殺された徴兵制と兵学校の建設を進めた兵部大輔が、京都の旅館で攘夷派の元士族に襲われた。2か月後に敗血症で死んだ。横井小楠の暗殺の8か月後。新政府は、自分の側の攘夷派に二人の設計者を殺された。京都
重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
ムンディ先生の講義で学ぶ歴史11件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。明治7件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。武士の700年7件を共有 / 地方の武装集団が政権を取り、そして自ら身分ごと消えるまで。コテンラジオで聞く歴史6件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史3件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。『武士の家計簿』で読む幕末2件を共有 / 加賀藩の会計係の家が、37年つけた家計簿が見つかった。武士は、思われているよりずっと借金に苦しんでいた。感染症と人類1件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。探検と発見1件を共有 / 地平線の向こうに何があるかを、確かめに行った人たちの記録。都市の歴史1件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。誰が書き残したか1件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『想像の共同体』で読む歴史1件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。海の歴史1件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。近代と宗教1件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。