『ファウスト』の完成
概要
24歳で書きはじめ、82歳で終えた。60年かけて一つの作品に付き合っている。
場所
50.98°N 11.32°E · ドイツ
関わった人(1)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテAD1749年8月28日–AD1832年3月22日 · 当人本文
ファウストは実在の人物である。16世紀の前半、ドイツの各地を渡り歩いた占星術師であり錬金術師で、悪魔と契約したといううわさが付きまとった。死後まもなく、彼の話はふくらんで民衆本になり、1587年には『ファウスト博士の物語』が出版されて広く読まれた。知識と快楽を求めて悪魔に魂を売り、最後は地獄へ引きずり込まれる。イギリスではマーロウがこれを劇にし、ドイツでは人形芝居の定番の演目になった。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、子どもの頃にこの人形芝居を見て育った。20代の初め、故郷のフランクフルトで弁護士をしながら詩や劇を書いていた頃、ファウストを主人公にした劇を書き始める。1772年から1775年にかけての草稿は、のちに『初稿ファウスト』と呼ばれ、ゲーテの死後に写しが見つかった。

その頃フランクフルトでは、未婚の若い女性が生まれた子を殺した罪で処刑される事件があった。ゲーテはその裁判の記録に触れていたとされ、この事件が劇の中心の悲劇の下敷きになったと考えられている。
1775年、ゲーテはワイマールの公国に招かれ、大臣として政務に追われるようになった。ファウストの原稿はなかなか進まず、1790年に『断片』として一部を出したあと、友人のフリードリヒ・シラーに励まされて書き継ぎ、1808年にようやく第一部を出版した。

第一部は、天上の場面から始まる。悪魔メフィストフェレスが神に、人間ファウストを堕落させてみせると賭けを持ちかける。地上では、あらゆる学問を修めながら満たされない老学者ファウストが、絶望の淵にいる。現れたメフィストに、ファウストは賭けを申し出る。もし自分が一瞬に向かって「とどまれ、お前はじつに美しい」と言うことがあれば、魂を渡そう、と。若返ったファウストは町の娘グレートヒェンを愛し、彼女は母を死なせ、兄を失い、生まれた子を殺して獄につながれる。ファウストは救い出そうとするが、彼女はそれを拒んで神の裁きに身をゆだねる。
第一部が出たあとも、ゲーテは物語の続きを抱えていた。第二部に本格的に取り組んだのは70代の後半になってからである。第二部では、個人の恋の悲劇という枠が外れる。ファウストは皇帝の宮廷に仕えて紙幣を発行させ、古代ギリシアの世界へ降りてトロイアの美女ヘレナと結ばれ、戦争で手柄を立てて海辺の土地を与えられる。人造人間ホムンクルスや、ギリシア神話の怪物たちも登場する。経済、政治、科学、古典、そして自然と人間の関わりまでが一つの劇に詰め込まれている。

最後にファウストが打ち込むのは、海を埋め立てて人の住む土地を作る干拓の事業である。その途中で、立ち退きを拒んだ老夫婦が、メフィストの手下によって家ごと焼き殺される。百歳を超えて盲目になったファウストは、墓を掘る音を工事の音と聞き違え、自由な土地に自由な民と共に立つ日を思い描く。その瞬間になら言えるだろう、とどまれ、お前はじつに美しい、と。そう口にして、彼は倒れる。
メフィストは賭けに勝ったと思い、魂を奪おうとする。だが天使たちが降りてきて、ファウストの魂を天へ運んでいく。たえず努め励む者を、我らは救うことができる、と天使は歌う。天上ではグレートヒェンの魂がファウストを迎える。劇は「永遠に女性的なるものが、我らを引き上げる」という言葉で閉じられる。悪魔と契約した男が救われるこの結末は、民衆本の地獄落ちとは正反対である。なぜ救われるのかは、ゲーテ自身もはっきり説明しておらず、今も読み方が分かれている。
ゲーテが第二部を書き上げたのは1831年の夏、82歳の誕生日を迎える頃だった。書き始めてから60年近くがたっていた。ゲーテは原稿に封をし、自分の死後に出版するよう言い残した。翌1832年3月、ゲーテはワイマールで亡くなり、第二部はその年のうちに刊行された。
『ファウスト』はドイツ語で書かれた最も重要な文学作品の一つとされる。グノーのオペラ、ベルリオーズやフランツ・リストの音楽、マーラーの交響曲第8番など、多くの芸術家がこの劇から作品を生んだ。日本では森鷗外の翻訳がよく知られる。悪魔に魂を売る取引を「ファウスト的取引」と呼ぶ言い方は、今も英語やドイツ語で使われている。