人物

サムドラグプタ

Samudragupta
? – AD375年頃
グプタ朝重要度 3

概要

北インドの王たちを次々に従え、南へも遠征した。その戦績はアショーカの石柱の空いた面に刻まれている。琵琶を弾く姿の金貨が残る。

所属

グプタ朝

関わったできごと(1)

グプタ朝の黄金時代AD320年 · 北インドを併せた王

本文

サムドラグプタは、4世紀の北インドに興ったグプタ朝の2代目の王である。生まれた年は分かっていない。名前の「サムドラ」は海を意味し、海に囲まれた土地までを従える王、という願いが込められているとされる。

Hariti, unfired clay, remains of polychromy and gilding, Pakistan or Afghanistan, 2nd to 4th century, Linden-Museum Stuttgart, Germany, inventory number SA 00864 L
Wikimedia Commons Daderot · Public domain

グプタ家は、もともとガンジス川中流の小さな王家にすぎなかった。父のチャンドラグプタ1世は、北の有力な一族リッチャヴィ族の王女クマーラデーヴィーと結婚し、その結びつきを足がかりに、ガンジス川流域の中心地マガダの一帯を支配する王となった。父母の結婚は一族にとってよほど重要だったらしく、父母が並んだ姿を刻んだ金貨が出されているうえ、サムドラグプタ自身も碑文の中で「リッチャヴィの娘の子」と名乗っている。なお、同じチャンドラグプタという名を持つ、600年以上前のマウリヤ朝の創始者(チャンドラグプタ)とは別人である。

後に王を讃えて刻まれた碑文によれば、父は臣下の居並ぶ宮廷でサムドラグプタを抱きしめ、涙を浮かべて、汝こそ世を治めよ、と告げて後継に指名したという。ほかにも王子がいたらしく、臣下たちの中には落胆した者もいたと碑文はほのめかしている。即位は335年ごろとされるが、正確な年には幅がある。

グプタ朝の最大版図
グプタ朝の最大版図Wikimedia Commons Arab Hafez at English Wikipedia . Later version(s) were uploaded by Beao at English Wikipedia . · Public domain

サムドラグプタの生涯と業績を伝える最大の史料は、いまのプラヤーグラージ(アラーハーバード)にある石の柱に刻まれた長い碑文である。宮廷の詩人であり大臣でもあったハリシェーナが、王を讃えるために、美しいサンスクリットの詩と散文で書いた。碑文は王の戦いを地域ごとに並べている。北インドでは9人の王を「根こそぎにして」その国を自分の領土に併せた。南インドへの遠征では、東海岸に沿って南下し、12人の王を捕らえたが、いったん服属させた後に解放して、もとの王位に戻した。中部インドの森林地帯の王たちは家臣にした。辺境の国々や部族は貢ぎ物を納めて従い、さらに遠く、北西インドのクシャーナ系の王たちやスリランカの王までが、贈り物をもって服従の意を示した、と碑文は言う。

もちろん、これは王を讃えるための文章であり、遠い国々の「服従」には、実際には対等な外交や贈り物のやりとりにすぎなかったものも含まれているとみられる。それでも、南の王たちを殺さずに属国として残したという書き方には、遠い土地を直接治めるよりも、従わせて貢ぎ物を取るほうが得策だという、現実的な判断が読み取れる。

アラハバード石柱碑に刻まれたサムドラグプタの称号(グプタ文字)
アラハバード石柱碑に刻まれたサムドラグプタの称号(グプタ文字)Wikimedia Commons Gupta ruler Samudragupta (2nd century CE) Photograph by Fleet, John Faithfull (1847 – 21 February 1917) · Public domain

この碑文が刻まれた柱そのものにも、歴史が重なっている。柱はもともと、600年ほど前にマウリヤ朝のアショーカ王が建てたもので、表面にはすでに、戦争を悔いて法(ダルマ)による統治を説くアショーカの言葉が刻まれていた(アショーカ王の碑文)。サムドラグプタの碑文は、その空いた面に、征服の戦果を誇る言葉として刻み込まれた。さらに1000年以上後、ムガル帝国の皇帝ジャハーンギールも、同じ柱に自分の系譜を刻ませている。一本の石柱に、時代の違う三つの帝国の声が並んでいる。

サムドラグプタは、多くの種類の金貨を発行した。弓を持つ姿、虎を射る姿、斧を持つ姿など、武人の王としての図柄が多い。そのなかに、寝椅子に腰かけて、膝の上の弦楽器ヴィーナーを弾く王の姿を刻んだものがある。碑文も、王が音楽に優れ、詩人としても名高く、「詩人の王」と呼ばれたことを伝えている。戦いと学芸の両方に秀でた理想の王の姿を、王自身が人びとに示そうとしたのだろう。

サムドラグプタのアラハバード石柱碑文(ブラーフミー文字)
サムドラグプタのアラハバード石柱碑文(ブラーフミー文字)Wikimedia Commons Inscription by Harisena , court poet of Gupta king Samudragupta (2nd century CE) in Gupta script . Photograph by Fleet, · Public domain

宗教の面では、王はヴェーダの伝統に立つバラモン教の儀礼を重んじた。王権の強さを示す古い儀式である馬祀祭(アシュヴァメーダ)を執り行い、それを記念する金貨も出している。1頭の馬を1年間自由に歩かせ、その行く先々の土地を王の支配下とし、最後にその馬を犠牲として捧げる儀式で、後の碑文は、長く途絶えていたこの祭儀を復活させた王としてサムドラグプタを讃えている。一方で、ほかの宗教にも寛容だった。スリランカの王メーガヴァルナが使節を送り、釈迦が悟りを開いた地ブッダガヤに、スリランカから来る巡礼者のための僧院を建てたいと願い出たとき、王はこれを許したと、中国の記録が伝えている。

サムドラグプタは375年ごろに死んだとされる。後を継いだ子のチャンドラグプタ2世の時代に、グプタ朝は西インドまで支配を広げ、最盛期を迎える(グプタ朝の黄金時代)。詩人カーリダーサが活躍し、中国の僧法顕が訪れて、その平和と繁栄を書き残したのはこの頃である。数学や天文学も大きく発展した。

アラハバード碑文(サムドラグプタ)の英訳
アラハバード碑文(サムドラグプタ)の英訳Wikimedia Commons Text: John Faithfull Fleet C.I.E (1847 – 21 February 1917) Image: Thomas A.Rust, circa 1870 · Public domain

20世紀の初め、イギリスの歴史家ヴィンセント・スミスは、各地を次々に征服したサムドラグプタを「インドのナポレオン」と呼んだ。この呼び名は広く知られるようになったが、その根拠のほとんどは、王を讃えるために書かれた一つの碑文にある。王の実像は、その讃辞の向こうに、いまも半ば隠れている。

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