人物

狩野永徳

Kanō Eitoku
AD1543年2月16日 – AD1590年10月12日(享年47)
狩野派重要度 4

概要

狩野元信の孫。信長の安土城、秀吉の大坂城と聚楽第と御所の障壁画。金地に大きな松と檜と獅子。「大画」。『洛中洛外図屏風(上杉本)』は信長が謙信に贈った。『唐獅子図屏風』『檜図屏風』。仕事が多すぎて、東福寺の天井画の途中で倒れて死んだ。48歳。安土も大坂も聚楽第も焼けて、大作はほとんど残らない。

本文

1543年、京に生まれた。名は州信、通称を源四郎という。狩野家は室町幕府に仕える絵師の家で、曽祖父の正信が将軍家の御用を務めて家を興し、祖父の元信が、中国風の水墨画に大和絵の華やかな色彩を取り入れて、狩野派と呼ばれる画風と工房の仕組みを作り上げた。永徳の父の松栄は穏やかな画風の人だった。祖父の元信はこの孫の才能を早くから見込み、10歳ほどの永徳を連れて将軍足利義輝に会わせたと伝えられる。

聚光院方丈障壁画のうち花鳥図
聚光院方丈障壁画のうち花鳥図Wikimedia Commons Kanō Eitoku · Public domain

狩野派の強みは、一人の天才ではなく、工房として大きな仕事を確実にこなせることにあった。親方が下絵を描き、弟子たちが手分けして仕上げる。手本となる図様を家に蓄え、一門で受け継ぐ。寺院の襖や武家の屋敷の壁を飾る大量の障壁画の注文に応えるには、この仕組みが欠かせなかった。永徳はその頂点に立つ家の跡継ぎとして育った。

1566年、24歳の永徳は、父の松栄とともに京の大徳寺の塔頭、聚光院の襖絵を描いた。永徳の筆とされる『花鳥図』は、太い梅の老木が画面の中を大きくうねり、襖を越えて隣の画面へと枝を伸ばしている。祖父や父の、整った細やかな画面とは違う、力のこもった絵だった。若き日の永徳の代表作として、今も国宝として伝わっている。

唐獅子図
唐獅子図Wikimedia Commons Kanō Eitoku · Public domain

同じ頃に描いたとされるのが、上杉家に伝わった『洛中洛外図屏風』である。六曲一双の金の屏風に、京の町の内外が四季とともに描かれ、御所や将軍の邸宅、寺社、町家、祭りや商いの様子、およそ2500人もの人々が細かく描き込まれている。上杉家の記録によれば、1574年、織田信長が越後の上杉謙信にこの屏風を贈った。もとは将軍義輝が謙信に贈るつもりで永徳に描かせ、義輝が1565年に殺されたため、信長の手を経て届けられたとする説がある。信長が謙信との友好を保とうとしていた時期だった。

信長は永徳を重く用いた。1576年、近江に安土城を築き始めると、永徳はその障壁画のすべてを任された。7層の天守の内部は、金地に極彩色の花鳥や、中国の聖人、仏教の世界が描かれた部屋で埋め尽くされていたと、信長の家臣の記録は伝える。永徳は一門を率いて数年がかりでこれを仕上げた。だが1582年、信長が本能寺で倒れた直後(本能寺の変)、安土城は焼け落ち、永徳の大作は灰になった。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

信長に代わって天下人となった豊臣秀吉も、永徳を手放さなかった。大坂城、京の聚楽第、さらに天皇の御所の造営と、豊臣政権の大きな建物の障壁画は、次々と永徳と狩野一門に任された(秀吉の天下統一)。権力を目に見える形で示すことが求められた時代である。城の大広間を飾る絵は、離れたところから見ても威圧するような、大きく力強いものでなければならなかった。

永徳はそのために画風を変えていった。金箔を貼った地に、巨大な松や檜、獅子や鷲を、太い筆で一気に描く。幹は画面を斜めに横切り、枝は画面の外へはみ出していく。江戸時代の狩野派の画史は、永徳の画風を「怪々奇々」と評し、大画の様式を確立したと書いている。細かく描き込む余裕は無かった。大量の注文をこなすために、永徳は太い筆で草書のように速く描いたとも伝えられる。

許由巣父図(巣父)
許由巣父図(巣父)Wikimedia Commons 伝 狩野永徳 (attributed to Kano Eitoku, 1543 - 1590) · Public domain

数少ない現存作のうち、『唐獅子図屏風』は、金地の上を二頭の獅子が堂々と歩む姿を描いたもので、秀吉が中国攻めの陣中で用い、和睦の際に毛利家に贈ったと伝えられる。『檜図屏風』は、もとは皇族の八条宮の御殿の襖絵だったとされ、うねるように伸びる檜の巨木が画面を圧している。最晩年の作と考えられている。

永徳の名声は絶大だったが、それに挑む絵師も現れた。能登から出てきた長谷川等伯は、1590年、御所の障壁画の仕事を得ようとしたが、永徳の側の働きかけで取り消されたと伝えられる。狩野派は天下人の御用を独占する立場を守ろうとしていた。

許由巣父図(許由)
許由巣父図(許由)Wikimedia Commons 伝 狩野永徳 (attributed to Kano Eitoku, 1543 - 1590) · Public domain

その年の9月、永徳は京の東福寺の法堂の天井に龍を描いている途中で倒れ、まもなく亡くなった。48歳だった。休む間もなく大仕事を続けたための過労だったと考えられている。

永徳が心血を注いだ大画は、その後ほとんど失われた。安土城に続き、聚楽第は1595年に秀吉の命で取り壊され、大坂城は1615年の大坂の陣で焼け落ちた(大坂の陣)。いま永徳の作として確かなものは十点ほどしかない。それでも、そのわずかな作品から、金と巨木に象徴される桃山時代の絵の姿を知ることができる。狩野派は永徳の子の光信、弟子の山楽らに受け継がれ、孫の探幽は江戸幕府の御用絵師として一門を率いた。狩野派はその後も江戸時代を通じて幕府や大名の絵を描き続け、日本の絵画の中心にあり続けた。

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