概要
狩野元信の孫。信長の安土城、秀吉の大坂城と聚楽第と御所の障壁画。金地に大きな松と檜と獅子。「大画」。『洛中洛外図屏風(上杉本)』は信長が謙信に贈った。『唐獅子図屏風』『檜図屏風』。仕事が多すぎて、東福寺の天井画の途中で倒れて死んだ。48歳。安土も大坂も聚楽第も焼けて、大作はほとんど残らない。
本文
1543年、京。狩野松栄の長男。祖父は狩野元信(狩野派を確立した人)。元信が孫を可愛がり、10歳で将軍義輝に会い、絵を描いて見せた。
1566年、大徳寺聚光院の障壁画『花鳥図』『琴棋書画図』(23歳、父と共に)。1574年頃、『洛中洛外図屏風』(上杉本)。京の街と四季と人物2500人。信長が謙信に贈った。1576年、安土城。天守の7層に、金碧の障壁画。信長の注文。「大画」。1583年、大坂城。1587年、聚楽第。天皇の御所(1590年)。
金地に、大きな松、檜、梅、獅子、鷲。太い幹が画面を斜めに横切り、枝が外に出る。「怪々奇々」。父や祖父の細密な花鳥から、大胆に、大きく。城の大広間の障壁画は、遠くから見て分かる大きさが要った。「大画」は工房で、弟子と分業で、速く描いた。永徳は太い筆で草書のように描いた、と言われる。
『唐獅子図屏風』(宮内庁)。2頭の獅子が金地の上を歩く。『檜図屏風』(東京国立博物館、国宝)。1590年、八条宮の御殿のために。『洛中洛外図』(米沢、上杉博物館、国宝)。『聚光院障壁画』(国宝)。
1590年9月14日、死んだ。48歳。東福寺法堂の天井の龍を描いている途中で倒れた。過労。
安土城は1582年に焼け、大坂城は1615年に焼け、聚楽第は1595年に壊された。永徳の大画は、ほとんど失われた。残った数点で、桃山の絵の様式が分かる。息子光信、孫探幽。狩野派は幕府の御用絵師として江戸時代を通した。