人物

フランツ・リスト

Franz Liszt
AD1811年10月22日 – AD1886年7月31日(享年74)
ハンガリー重要度 4

概要

ハンガリーの貴族の使用人の子。9歳で演奏会、パガニーニのヴァイオリンを聴いて「ピアノのパガニーニになる」と決めた。ヨーロッパ中を巡演し、熱狂を生んだ。37歳でやめ、ヴァイマルで指揮と作曲と教育に移った。交響詩という形式を作り、ワーグナーを支援し(後に娘コジマがワーグナーの妻になった)、若い音楽家に無料で教えた。1865年、下級の僧籍に入った。

関わったできごと(1)

リストと独奏会の誕生AD1840年 · はじめた

本文

フランツ・リストは1811年10月22日、ハンガリー王国西部の村ドボルヤーン(現オーストリア領ライディング)に生まれた。父アーダームはエステルハージ侯爵家に仕え、領地の羊の飼育を監督する役人だった。若いころ侯爵家の楽団でチェロを弾いた音楽好きで、息子に早くからピアノを教えた。家で話す言葉はドイツ語で、リストは生涯ハンガリー語をほとんど話せなかったが、それでも自分をハンガリー人だと言い続けた。

フランツ・リストの肖像
フランツ・リストの肖像Wikimedia Commons Franz Hanfstaengl · CC0

9歳で近くの町の演奏会に出て評判をとり、土地の貴族たちが資金を出し合って一家をウィーンへ送った。ピアノをツェルニーに、作曲をサリエリに習った。1823年にはパリへ移ったが、パリ音楽院は外国人であることを理由に入学を断った。少年は神童として各地で弾いて回ったが、1827年、16歳のときに父が旅先で死んだ。彼はパリに母を呼び寄せ、ピアノの個人教授で家計を支えた。このころは信仰に深く傾き、聖職者になることも考えた。

1830年代初めのパリで、彼は決定的な出会いを重ねた。ベルリオーズの『幻想交響曲』、フレデリック・ショパンの繊細なピアノ、そして1832年に聴いたパガニーニのヴァイオリンである。悪魔的とまで言われた超絶技巧を目の当たりにして、彼はピアノで同じことをしようと決め、何年も練習に打ち込んだ。

リストの一生(左から少年期・青年期・壮年期・老年期)
リストの一生(左から少年期・青年期・壮年期・老年期)Wikimedia Commons Artist not credited. · Public domain

1835年、マリー・ダグー伯爵夫人が夫と子を残してリストとともにスイスへ移った。二人のあいだには3人の子が生まれ、次女コジマは1837年、イタリアのコモ湖のほとりで生まれている。数年で関係は冷え、1839年、リストは演奏の旅に出た。

それから1847年までの8年あまりで、彼は1000回を超える演奏会を開いたとされる。西はリスボンとダブリン、東はモスクワ、南はイスタンブールまで行き、オスマン帝国のスルタンの前でも弾いた。馬車で眠り、着いた町で弾き、また次の町へ向かう暮らしだった。一人の奏者が一晩の演奏会をまるごと受け持つ独奏会(リサイタル)の形を広めたのも彼である(リストと独奏会の誕生)。聴衆、とりわけ女性たちの熱狂は異様なほどで、詩人ハイネはこれを「リストマニア」と呼んだ。

1884年フランツ・リストと生徒たち
1884年フランツ・リストと生徒たちWikimedia Commons Louis Held (1851–1927) · Public domain

彼の打鍵の強さに当時のピアノは耐えきれず、弦が切れ、ハンマーが折れたため、舞台に予備の楽器を置いたという。手が大きく、鍵盤の上を飛び回る跳躍、両手の交差、親指で旋律を浮かび上がらせる書き方など、彼が編み出した技法は、その後のピアノ音楽の語彙になった。

1847年、35歳で、彼は報酬を取って弾く演奏会をやめた。翌年からヴァイマルの宮廷楽長として、指揮と作曲と教育に軸足を移した。ここで彼は他人の新作を次々に取り上げた。中でも1850年のリヒャルト・ワーグナーの『ローエングリン』の初演は、作曲者がドレスデンの蜂起に加わって追われ、スイスに亡命していた最中のことだった。ベルリオーズの作品を集めた催しを開き、シューマンのオペラも上演した。

フランツ・リスト(ヘルマン・ビオウ撮影、1843年)
フランツ・リスト(ヘルマン・ビオウ撮影、1843年)Wikimedia Commons Herman Biow · Public domain

作曲では、文学や絵画を題材に、一つの楽章で物語や情景を描く管弦楽曲を書き、これを「交響詩」と名づけた。『前奏曲』『マゼッパ』など13曲がある。一つの短い動機を、性格を変えながら全曲に行き渡らせる手法も磨き、1853年のピアノ・ソナタロ短調はその最も徹底した例とされる。

ヴァイマルで彼と暮らしたのが、ポーランドの大地主の娘で、ロシアの公爵と結婚していたカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタインである。二人は結婚を望み、ローマ教皇庁に前の結婚の無効を願い出たが、1861年、式の前夜になって許可が取り消された。二人は結婚しないまま、生涯つながりを保った。

リストの父アダム・リスト
リストの父アダム・リストWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

1860年代はローマの修道院で過ごし、1865年、下級の聖職位を受けた。「アッベ・リスト(リスト神父)」と呼ばれたが、司祭ではないのでミサは立てられない。オラトリオ『キリスト』や、ハンガリーの戴冠式のためのミサ曲を書いた。晩年はローマ、ヴァイマル、ブダペストを毎年巡る「三つに分けた生活」を送り、ブダペストでは新しい音楽院の初代院長になった。

教えることには金を取らなかった。生涯の弟子は数百人にのぼる。大勢の前で一人ずつ弾かせて批評するやり方は、いまのマスタークラスの原型とされる。

14-15歳頃のフランツ・リスト(ジャン・ヴィニョー画、1826年)
14-15歳頃のフランツ・リスト(ジャン・ヴィニョー画、1826年)Wikimedia Commons Jean Vignaud · Public domain

晩年の作品は、調性の枠を越えはじめた。『灰色の雲』(1881年)や『調性のないバガテル』では、和音が解決しないまま宙に浮いて終わる。友人たちは戸惑ったが、彼は自分は槍を未来へ投げているのだ、と語ったと伝えられる。

家族の悲しみも重なった。息子ダニエルは20歳で、長女ブランディーヌは26歳で死んだ。次女コジマはリストの弟子で指揮者のハンス・フォン・ビューローと結婚したが、のちにワーグナーのもとへ去り、彼の妻になった。リストは数年のあいだ娘と口をきかなかったが、1872年に娘ともワーグナーとも和解した。

1886年7月、リストは娘が運営するバイロイト音楽祭を訪れ(バイロイトと『指環』)、そこで肺炎にかかって7月31日に死んだ。74歳だった。コジマは音楽祭の切り盛りに追われ、父をバイロイトに葬った。超絶技巧の演奏家として名を上げた人が、指揮者として、教師として、そして後の世代の響きを先取りした作曲家として、19世紀の音楽をほとんど丸ごと横切っていった。

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