人物

白居易

Bai Juyi
AD772年 – AD846年(享年74・推定)
唐重要度 4

概要

詩を老婆に読んで聞かせ、分からなければ直したと伝わる。「長恨歌」「琵琶行」。左遷され、杭州で堤を築き、洛陽で酒と詩の老年を送った。日本では『源氏物語』の時代に最も読まれた詩人になる。

所属

唐

関わったできごと(1)

白居易「長恨歌」AD806年 · 作者

本文

白居易は、唐の中ごろの詩人である。字は楽天。李白や杜甫より半世紀以上後の世代で、平易な言葉で書かれた多くの詩によって、生前から中国だけでなく東アジア全体で読まれた。日本では平安時代の貴族たちに最も愛された詩人になり、その影響は『枕草子』や『源氏物語』の中にも深く刻まれている。

白楽天・『晩笑堂竹荘畫傳』より
白楽天・『晩笑堂竹荘畫傳』よりWikimedia Commons Public domain

772年、河南の新鄭で生まれた。一族は太原の出身を名乗っていた。父は地方の役人だった。安史の乱が終わって十年ほどたっていたが、各地では藩鎮と呼ばれる節度使たちが半ば独立して争い、白居易の一家も戦乱を避けて各地を転々とした。若いころの白居易が都に出て、名高い詩人の顧況に作品を見せたところ、顧況は名前の「居易」をもじって、長安は米が高いから住むのはたやすくない、とからかったが、詩を読むと態度を改めたという逸話がある。後世の書物に載る話である。

800年、29歳で科挙の進士に合格した。合格者17人の中で最も若かったと、本人が誇らしげに詩に詠んでいる。その後、官吏の登用試験で同年代の元稹と知り合い、二人は生涯の友となって「元白」と並び称された。806年、都の西の県の尉に任じられたころ、玄宗と楊貴妃の悲恋を歌った「長恨歌」を書いた(白居易「長恨歌」)。この長編の詩はたちまち評判になった。

白居易(陳洪綬画)
白居易(陳洪綬画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

807年、白居易は宮中で詔の起草に当たる翰林学士に抜擢され、翌年には皇帝に意見を述べる諫官となった。この時期に書いたのが「新楽府」50首などの諷諭詩である。宮廷の役人に炭を安く買い叩かれる老人を描いた「売炭翁」、徴兵を逃れるために自分の腕を石で折った老人を描いた「新豊折臂翁」のように、民の苦しみを詩に託して政治を批判した。文章は時代のために書き、詩は現実の出来事のために作るべきだ、と白居易は元稹への手紙に書いている。その詩を読んで、権力者たちは顔色を変えたという。

811年、母が死んだ。花を眺めていて井戸に落ちたと伝えられる。喪が明けて都に戻ったのち、815年、宰相の武元衡が都の路上で暗殺される事件が起きた。白居易は犯人を急いで捕らえるよう上書したが、諫官でもない者が出過ぎたまねをしたと咎められた。さらに、母が井戸に落ちて死んだのに花や井戸を詠んだ詩を作ったのは不孝だ、という言いがかりまでつけられ、長江中流の江州の司馬に左遷された。

九江から四川への船旅で越えた長江三峡
九江から四川への船旅で越えた長江三峡Wikimedia Commons Content Provider(s):CDC/Dr. Edwin P. Ewing, Jr. · Public domain

江州で白居易は、ある夜、川辺の舟で、かつて都で名を馳せた琵琶弾きの女に出会った。その身の上話に自分の境遇を重ねて書いたのが「琵琶行」で、同じく天の果てに落ちぶれた身、出会ったのが初めてでも、昔からの知り合いである必要があろうか、という一節はとくに名高い。彼は近くの廬山に草堂を建て、自然と仏教に心を寄せるようになった。この時期を境に、政治を批判する詩は減り、日々の暮らしを穏やかに詠む閑適詩が多くなっていく。

その後、都に呼び戻され、822年には杭州の長官(刺史)になった。西湖の水を田畑に引くために堤を築き、水門を整えた。いま西湖にある「白堤」は彼の名で呼ばれるが、白居易が築いた堤は別の場所にあったとされる。続いて蘇州の長官も務めた。晩年は洛陽に住み、名目だけの官職を得て、竜門の香山寺に出入りし、「香山居士」と号した。友人の劉禹錫と詩を応酬し、酒を楽しみ、自ら「酔吟先生」と称した。

龍門の仏像・菩薩像の石窟
龍門の仏像・菩薩像の石窟Wikimedia Commons Alex Kwok · Public domain

白居易は、自分の詩を老婆に読み聞かせて、分からないと言われた箇所は分かるまで書き直した、という話がある。これは宋代の書物に見える逸話で、事実かどうかは分からない。だが、彼の詩が誰にでも分かる言葉で書かれていたことは確かで、同時代には俗っぽいと批判する詩人もいた。白居易は自分の作品を大切にし、晩年にはそれを『白氏文集』として自ら編み、写しをいくつかの寺に納めて失われないようにした。

846年、洛陽で死んだ。数えの75歳。遺言によって香山寺の近くに葬られた。時の皇帝宣宗は彼を悼む詩を作り、子どもでも「長恨歌」を口ずさみ、異民族の子でも「琵琶行」を歌える、と詠んだ。

九江・琵琶亭前の白居易像。ここで「琵琶行」を詠んだ
九江・琵琶亭前の白居易像。ここで「琵琶行」を詠んだWikimedia Commons Gisling · CC BY 3.0

白居易の詩は、生きているうちに海を渡った。838年、唐から戻った船の積み荷の中から見つかった元稹と白居易の詩集が仁明天皇に献上されたという記録がある。同じ年には円仁が唐へ渡っている(円仁の入唐求法)。平安時代の貴族たちは、単に「文集」と言えば白居易の文集を指すほどこれを愛読した。菅原道真の詩にも白居易の影響が色濃い。清少納言は、中宮定子に香炉峰の雪はどうかと問われて、すぐに御簾を高く巻き上げてみせた、と『枕草子』に書いている。白居易の詩の一句「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」を踏まえたやりとりである(『枕草子』)。『源氏物語』は、桐壺帝が亡き更衣を思う冒頭の巻から、「長恨歌」を下敷きにしている(『源氏物語』)。

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