できごと

与謝野晶子『みだれ髪』

Midaregami
AD1901年8月15日
重要度 3
与謝野晶子『みだれ髪』に関わる図版:Akiko Yosano MIDAREGAMI
Akiko Yosano MIDAREGAMI Wikimedia Commons Akiko Yosano(1878-1942); illustration by Takeji Fujisima (1867-1943) · Public domain

概要

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。22歳の女性が恋と体を歌って、罵倒された。3年後、日露戦争の弟に「君死にたまふことなかれ」を書いて、また罵倒された。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

関わった人(1)

与謝野晶子AD1878年12月7日–AD1942年5月29日 · 歌人

本文

明治の半ば、和歌は古い決まりごとの中にあった。宮中の歌会の流れをくむ歌人たちは、昔ながらの題と言葉で、花鳥風月を上品に詠むことをよしとした。これに対して、正岡子規は写生を唱え、与謝野鉄幹は、男らしい力強い歌で旧派を攻撃した。鉄幹は1899年に東京新詩社を作り、翌1900年に雑誌『明星』を創刊する。自我と恋と美を歌う若い詩人たちが、そこに集まった。

大阪の堺の老舗の菓子屋に生まれた鳳晶(与謝野晶子)も、その一人だった。店番をしながら『源氏物語』や古典の歌集を読みふけり、地元の文学の会で歌を作っていた20代はじめの娘である。1900年、『明星』に歌を寄せ始め、その夏、関西を訪れた鉄幹に初めて会う。鉄幹には内縁の妻と子があった。同じく鉄幹を慕う歌人の山川登美子との三人の間で、恋の歌が交わされた。11月には、京都の粟田山で鉄幹と登美子と晶子が紅葉を見て過ごしている。登美子は親の決めた結婚のために身を引き、晶子と鉄幹の恋は深まっていった。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

1901年6月、晶子は家を捨てて東京へ出て、鉄幹のもとに身を寄せた。鉄幹の内縁の妻は子を連れて去った。その2か月後の8月15日、晶子の最初の歌集『みだれ髪』が、東京新詩社などから刊行される。収められた歌は399首。表紙は洋画家の藤島武二が描いたもので、ハートの形の枠の中に、長い髪の女性の横顔が描かれ、そのハートを矢が射抜いている。当時ヨーロッパで流行していたアール・ヌーヴォーの意匠を取り入れた、斬新な装丁だった。

中身は、それ以上に人々を驚かせた。若い女性が、自分の恋と、恋する体とを、ためらいなく歌っていたからである。とくに名高いのは、柔らかい肌の熱い血潮に触れもしないで、さびしくはないのですか、道を説いているあなたは、と問いかける一首だろう。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。道徳や理屈を説く男に、生きた体の情熱を突きつける歌である。豊かな黒髪を誇り、春の美しさを自分の若さに重ねる歌や、乳房という言葉を詠み込んだ歌もあった。女性は控えめで、恋や体を口にしないものとされていた時代である。

若き日の与謝野晶子
与謝野晶子Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

非難はすさまじかった。評論家たちは、淫らだ、風俗を乱すと書き立てた。鉄幹も、その少し前に出た匿名の小冊子で、女を食い物にする男と攻撃されていた。一方で、文学者の上田敏は、この歌集を高く評価し、若い世代の多くが熱狂した。のちの石川啄木をはじめ、多くの若い歌人たちが『みだれ髪』の歌い方に心を奪われた。古い言葉で決まった題を詠むのではなく、自分の心と体をそのまま言葉にしてよいのだ、と。

この年の秋、晶子は鉄幹と結婚し、与謝野晶子となった。それから3年後の1904年、日露戦争が始まる。弟の籌三郎は、旅順を囲む軍に加わっていた(旅順攻囲戦)。晶子は『明星』9月号に、弟に呼びかける長い詩「君死にたまふことなかれ」を発表した。堺の商家の跡取りである弟に、人を殺して死ねと親が教えたことはない、旅順の城が落ちようと落ちまいと、商人の家の掟には無いことだ、と歌い、天皇自らは戦いに出ないではないか、とまで書いた。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

評論家の大町桂月は、国の大事に際して、これは乱臣賊子の言葉であり、国家の刑罰を加えるべきだ、と激しく非難した。晶子は『明星』に夫への手紙の形で文章を載せて応え、歌は歌であって、自分はまことの心をまことの声に出しただけだ、と反論した。『みだれ髪』で恋を歌って罵られた晶子は、ここでまた、戦争のさなかに肉親の命を思うことを歌って罵られたのである。

晶子は生涯に数万首の歌を詠み、十数人の子を産み育てながら、『源氏物語』の現代語訳を手がけ、女性の自立と教育を論じる評論を書き続けた。女性の権利をめぐって平塚らいてうと論争したこともある。一方、晩年の太平洋戦争のさなかには、海軍の士官として出征する四男を送り出す歌を詠み、勇ましく戦えと呼びかけてもいる。弟の無事を願った母と、息子を戦地へ送った母。そのどちらも、晶子であった。1942年、晶子は63歳で亡くなった。『みだれ髪』は、いまも日本の近代の短歌の出発点の一つとして読み継がれている。

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