できごと

ペール・ラシェーズ墓地

Père-Lachaise Cemetery
AD1804年
重要度 4
ペール・ラシェーズ墓地に関わる図版:Pere Lachaise Chemin Errazu
Pere Lachaise Chemin Errazu Wikimedia Commons Peter Poradisch · CC BY 2.5

概要

ナポレオンが、市内の埋葬を禁じ、郊外に新しい墓地を作らせた。宗教と身分を問わず、誰でも入れる。個人ごとの区画を持ち、名前を刻んだ石を立て、遺族が訪ねて花を置く。それまでの共同の墓穴とは、まったく違う考え方である。当初、遠すぎるとして人気がなかった。市は、ラ・フォンテーヌとモリエールの遺骨を移し、次いでアベラールとエロイーズの墓を作った。人が集まり始めた。死者を、個人として記憶する場所が生まれた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

18世紀のパリでは、死者は町の真ん中に埋められていた。中心部のサン・ジノサン墓地には何百年にもわたって遺体が積み重なり、共同の大きな穴に次々と投げ込まれていた。地面は周りの通りより高く盛り上がり、悪臭が漂い、隣家の地下室の壁が遺体の重みで崩れたこともある。1780年、この墓地は閉じられ、まもなく遺骨は地下の古い石切場へ移された(パリの地下納骨堂)。市内のほかの墓地も次々に閉鎖された。では、これから死ぬ人々をどこに埋めるのか。

答えを出したのはナポレオン・ボナパルトの政府だった。1804年6月、皇帝となったばかりのナポレオンのもとで出された埋葬の勅令は、町の中での埋葬を禁じ、墓地を市の外に置くこと、宗教を問わずすべての市民を受け入れること、そして各人に個別の墓所を与えることを定めた。それまで、自分の墓を持てるのは富裕な人や聖職者だけで、ふつうの市民は共同の穴に葬られていた。同じ年に公布されたナポレオン法典が市民の権利を一つの法典にまとめたように、この勅令は、死者を一人ひとりの個人として扱う近代の墓地の考え方を形にした。

丘の上から墓地を見下ろす
丘の上から墓地を見下ろすWikimedia Commons Original uploader was Patik at en.wikipedia · Public domain

同じ1804年、パリの東のはずれの丘に、新しい墓地が開かれた。そこはかつて、ルイ14世の聴罪司祭ラ・シェーズ神父が住んだイエズス会の土地で、神父の呼び名「ペール・ラシェーズ」がそのまま墓地の名になった。設計を任された建築家アレクサンドル=テオドール・ブロンニャールは、のちにパリの証券取引所も手がける人物で、墓地をイギリス式の庭園として設計した。曲がりくねった小道、木立、丘の起伏。整然と区画を並べた墓場ではなく、散策できる公園としての墓地である。

ところが、人は来なかった。当時は市壁の外で、遠すぎた。パリの東側は労働者の住む地区で、格が低いと見なされた。カトリックの正式な聖地ではないと受け取る人もいた。開設の年に葬られたのはわずか十数体で、1812年までに数えても八百あまりにすぎない。広大な敷地に対して、あまりに少なかった。

1850年代の門扉(J.フェラ画)
1850年代の門扉(J.フェラ画)Wikimedia Commons Jules Férat · Public domain

そこで市の当局は、宣伝を打った。有名人の墓を移してくれば人が集まる、という計算である。17世紀の寓話詩人ラ・フォンテーヌと、劇作家モリエールの遺骨とされるものがここへ移された。1817年には、12世紀の神学者アベラールと、その弟子で恋人だったエロイーズの遺骨とされるものが運び込まれ、ゴシック様式の天蓋をかけた墓が建てられた。二人の悲恋と往復書簡(アベラールとエロイーズ)は、当時もっとも有名な恋の物語の一つで、恋人たちが墓を訪れるようになった。もっとも、こうして移された遺骨が本物かどうかには、いまも疑問がある。とくにモリエールは、教会から嫌われた役者として夜にひっそり埋葬されており、もとの場所の特定自体が難しかった。いずれにせよ宣伝は当たった。墓所を買い求める人が増え、1830年には墓の数が三万を超えた。

ペール・ラシェーズで生まれた墓地の形は、やがて世界の標準になった。一人あるいは一家族ごとの区画があり、永代で買うこともでき、期限つきで借りることもできる。期限が切れて更新されなければ、区画は空けられる。墓には石を立て、名前と生没年を刻み、ときにはその人が何者だったかを書き添える。遺族が訪ねて花を置き、掃除をする。共同の穴に葬られた死者は、どこにいるのかさえ分からなかった。ここでは、訪ねる先がはっきりある。墓地は散歩の場所にもなった。19世紀のパリには公園が少なく、日曜日には市民が墓地の木陰を歩いた。同じことはアメリカでも起き、1831年にボストン郊外に開かれた庭園式のマウント・オーバーン墓地が人気を集めたことが、のちの都市公園づくり、ひいてはセントラルパークの構想につながったとしばしば指摘される。

コミューンの壁における年次追悼集会 (イリヤ・レーピン画、1883年)
コミューンの壁における年次追悼集会 (イリヤ・レーピン画、1883年)Wikimedia Commons Ilya Repin · Public domain

いま、この墓地には多くの著名人が眠っている。フレデリック・ショパンの墓もここにあるが、心臓は遺言によってワルシャワの聖十字架教会に納められた。作家のバルザックやプルースト、画家のドラクロワとモディリアーニ、歌手のマリア・カラス(遺灰は後にエーゲ海に撒かれた)やエディット・ピアフ、舞踊家のイサドラ・ダンカン。オペラ作曲家のロッシーニもいったんここに葬られたが、のちに遺骸は故国イタリアのフィレンツェへ移された。1971年にパリで死んだアメリカの歌手ジム・モリソンの墓には、いまも世界中からファンが訪れる。オスカー・ワイルドの墓には、訪れた人が口紅をつけて接吻する習いが広がり、石が傷んだため、2011年にガラスの囲いが設けられた。

墓地の東南の隅には、一枚の壁がある。「連盟兵の壁」と呼ばれる。1871年5月、パリ・コミューンを鎮圧するため政府軍がパリに攻め入った「血の週間」の終わり、最後まで抵抗したコミューンの兵士たちがこの墓地に立てこもり、墓石のあいだで戦った。5月28日、捕らえられた147人がこの壁の前に並べられて銃殺され、その場に掘られた溝に埋められた。コミューンの鎮圧で殺された人の数には諸説あり、一万から二万ともいわれる。以来、この壁はフランスの左翼にとっての記憶の場所となり、毎年5月の終わりに人々が集まる。壁の近くには、ナチスの強制収容所で死んだ人々を悼む碑も並んでいる。

パリ・コミューンに関わる図版:Barricade18March1871 (cropped)
パリ・コミューンWikimedia Commons Public domain

いまのペール・ラシェーズは、面積およそ44ヘクタール、七万ほどの区画を持ち、年に三百万人を超える人が訪れる。世界で最も訪問者の多い墓地の一つである。それでいて、いまも現役の墓地で、新しく葬られるのは原則としてパリの住民かパリで亡くなった人に限られ、空きはごくわずかしかない。丘の道を歩けば、19世紀の壮麗な家族の霊廟から20世紀の簡素な石まで、二百年分の墓が並んでいる。そしてその多くは、もう誰も訪ねてこない。死者を一人ひとり記憶するために作られた場所は、記憶がいつか途切れることも、静かに示している。

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