
概要
ナポレオンが、市内の埋葬を禁じ、郊外に新しい墓地を作らせた。宗教と身分を問わず、誰でも入れる。個人ごとの区画を持ち、名前を刻んだ石を立て、遺族が訪ねて花を置く。それまでの共同の墓穴とは、まったく違う考え方である。当初、遠すぎるとして人気がなかった。市は、ラ・フォンテーヌとモリエールの遺骨を移し、次いでアベラールとエロイーズの墓を作った。人が集まり始めた。死者を、個人として記憶する場所が生まれた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
**背景**。
1780年、サンティノサン墓地が閉鎖された。
市内の他の墓地も、次々に閉じられた。
**では、どこに埋めるのか**。
**1804年6月12日**、ナポレオンの布告(プレリアル12日令)。
- **市内での埋葬を、禁じる**。 - 墓地は、市の**外**に置く。 - **宗教を問わず、すべての市民を受け入れる**。 - そして——**各人に、個別の墓所を与える**。
(それまで、個人の墓を持てるのは、富裕層と聖職者だけだった。一般の市民は、共同の穴である。)
**この布告が、近代の墓地を作った**。
**ペール・ラシェーズ**。
同じ1804年、パリの東、**モンルイの丘**に開かれた。
(かつて、ルイ14世の聴罪司祭**フランソワ・デクス・ド・ラ・シェーズ神父**〈ペール・ラシェーズ〉が住んだイエズス会の土地だった。その名が、そのまま墓地の名になった。)
設計——**アレクサンドル=テオドール・ブロンニャール**(パリ証券取引所を設計した建築家)。
**イギリス式の庭園**として設計された。
(曲がりくねった道、木立、丘の起伏。整然と区画された墓地ではない。**公園である**。)
**失敗**。
**人が来なかった**。
理由。
- **遠すぎる**(当時、市壁の外である)。 - **東側**——パリの東は、労働者の地区であり、風下である。格が低いと見なされた。 - そして、**聖別されていない**(カトリックの正式な聖地ではない、と受け取られた)。
開設の年の埋葬——**13体**。
1812年までに、833体。
(広大な敷地に対して、あまりに少ない。)
**販売の工夫**。
市の当局が、**宣伝を打った**。
**1804年**、**ラ・フォンテーヌ**(寓話詩人)と**モリエール**(劇作家)の遺骨を、ここへ移した。
(両者の遺骨が本物かどうかは、疑わしい。特にモリエールは、破門された役者として、夜間に密かに埋葬されており、場所の特定が困難だった。)
**1817年**、決定打。
**アベラールとエロイーズ**。
(12世紀の神学者ピエール・アベラールと、その弟子であり恋人であったエロイーズ。彼らの手紙は、ヨーロッパで最も有名な恋文の一つである。アベラールは、彼女の親族に襲われ、去勢された。二人は別々の修道院に入り、生涯、手紙を交わし続けた。)
彼らの遺骨とされるものが、パラクレー修道院から運ばれ、**ゴシック様式の壮麗な天蓋墓**が建てられた。
(遺骨の真正性は、いまも議論がある。)
**効果があった**。
**1830年**、埋葬数**33,000**。
**1900年**、**約100万**。
**構造の意味**。
ここで生まれた墓地の形が、以後、世界の標準になった。
**(1)個人の墓**。
一人(あるいは一家族)に、一つの区画。
**永代使用**が買える。(あるいは、期限付きで借りる。期限が切れて更新されなければ、掘り返される。ペール・ラシェーズでは、いまもこの制度が続いている。)
**(2)名を刻む**。
石を立て、名と、生没年と、そして時に、その人が何者であったかを刻む。
**(3)訪ねる場所**。
遺族が、来る。花を置く。掃除をする。
(それまで、共同の穴に投げ込まれた死者を、**個人として訪ねる**ことはできなかった。どこにいるか、分からないからである。)
**(4)散策の場所**。
公園として設計されている。
19世紀、パリ市民が、**日曜に散歩に来た**。
(当時、公共の公園が少なかった。墓地が、その代わりになった。
同じことが、アメリカでも起きた。1831年、ボストンの**マウント・オーバーン墓地**——アメリカ最初の「田園墓地」。ここが人気を集めたことが、後の**セントラル・パーク**の構想につながった、としばしば指摘される。)
**(5)記憶の場所**。
そして——**誰を記憶するかが、公共の問題になった**。
**そこにいる人々**。
- **ショパン**(心臓は、遺言により、ワルシャワの聖十字架教会の柱に納められている) - **バルザック**、**プルースト**、**モリエール**、**オスカー・ワイルド** - **ドラクロワ**、**モディリアーニ**(妻ジャンヌとともに) - **ロッシーニ**(後にフィレンツェへ移された)、**ビゼー**、**マリア・カラス**(遺灰は後にエーゲ海に撒かれた) - **サラ・ベルナール** - **エディット・ピアフ** - **イサドラ・ダンカン**(火葬。納骨堂に) - **ジム・モリソン**(ザ・ドアーズ。1971年。彼の墓は、最も訪問者が多い場所の一つになり、落書きと騒ぎのため、警備員が配置された時期がある)
**オスカー・ワイルドの墓**。
ジェイコブ・エプスタインによる、翼を持つ人物像。
長年、訪問者が**口紅で接吻の跡を残した**。
(石灰岩に、口紅の油分が浸透し、清掃のたびに石が傷んだ。
2011年、**ガラスの覆い**が設置された。いまは、ガラスに口紅が付く。)
**そして、壁**。
墓地の南東の隅に、一枚の壁がある。
**連盟兵の壁**(Mur des Fédérés)。
**1871年5月28日**。
**パリ・コミューン**の最後の日。
政府軍が、市内を制圧していく「**血の週間**」。
最後まで抵抗したコミューンの兵士たちが、この墓地に立てこもった。
墓石の間で、白兵戦が行われた。
そして、捕らえられた**147人**が、この壁の前に並ばされ、**銃殺された**。
彼らは、その場に掘られた溝に、そのまま埋められた。
(コミューンの弾圧で殺された市民の総数は、諸説あるが、**1万から2万**とされる。)
以後、この壁は、**フランスの左翼にとっての聖地**になった。
毎年、5月の最後の週に、集会が行われる。
(そして、その壁のすぐそばに、20世紀の全体主義の犠牲者を記念する碑が並んでいる。強制収容所で死んだ人々、そして——スターリンの粛清の犠牲者の碑も。)
**現在**。
面積44ヘクタール。約7万の墓。
**年間350万人**が訪れる。世界で最も訪問者の多い墓地とされる。
そして、依然として、**現役の墓地**である。
(新規の埋葬は、パリ市民、あるいはパリで死んだ者に限られる。空きが極めて少ないため、実際には、既存の家族墓への追加が大半である。)
丘の道を歩くと、二百年分の墓石が、順に並んでいる。
19世紀の壮大な家族廟から、20世紀の簡素な石まで。
そして、その多くは、もう誰も訪ねていない。