ペトラルカの桂冠
概要
カピトリウムで、古代以来初めて詩人が月桂冠を受けた。本人が三年かけて根回しした。ラテン語の叙事詩『アフリカ』のためで、その詩は未完に終わり、残ったのはイタリア語のソネットのほうだった。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ペトラルカAD1304年7月20日–AD1374年7月19日 · 詩人本文
1340年の夏、フランチェスコ・ペトラルカは36歳で、南フランスのヴォークリューズの谷にこもって暮らしていた。教皇庁が教皇のアヴィニョン捕囚の状態にあり、ヨーロッパの学者や詩人はアヴィニョンに集まっていた。ペトラルカもその町で育ち、教皇庁に近い有力な一族コロンナ家の庇護を受けていた。彼は古代ローマの文人たちの写本を探し出して読み、キケロやリウィウスのラテン語を自分の手本にしていた。そして、古代の詩人のように、自分も詩によって月桂冠を受けたいと願っていた。
1340年9月1日、ペトラルカのもとに二通の手紙が届いた。一通はパリ大学の総長から、もう一通はローマの元老院から、どちらも彼に詩人の冠を授けたいという申し出だった。同じ日のうちに相次いで届いた、と本人が友人への手紙に書いている。二つの都が同時に自分を求めた、という話は劇的にすぎる。コロンナ家の人々などを通じて、本人が数年前から両方に働きかけていたと考える研究者が多い。

ペトラルカはローマを選んだ。古代の詩人が冠を受けたのはローマのカピトリウムだったと信じていたからである。ただ、元老院の申し出だけでは格が足りないと考えたのか、彼はまずナポリへ向かい、学問を好んだナポリ王ロベルトに自分の学識を試してもらった。1341年の春、王の前で三日にわたって詩と学問について問答をし、ふさわしいと認められた。王は自分の着ていた外套を彼に贈った。
1341年4月8日、復活祭の日曜日、カピトリウムの丘の元老院の宮殿で式が行われた。ローマの名門の貴族たちが列をなし、元老院議員オルソ・デッランギッラーラがペトラルカの頭に月桂樹の冠を載せた。ペトラルカはラテン語で演説をした。詩人の仕事は、真実を美しい作り話の覆いで包むことだ、と彼は述べ、月桂樹はアポロンの木であり、雷にも打たれないと古くから言われてきた、と冠の意味を説いた。式のあと、ペトラルカはローマ市民の権利と、詩を教える資格を与えられ、冠をサン・ピエトロ大聖堂の祭壇に捧げた。

冠の理由とされたのは、執筆中のラテン語の叙事詩『アフリカ』だった。第二次ポエニ戦争でハンニバルを破った大スキピオをたたえる詩で、ウェルギリウスの『アエネイス』に並ぶものを書くつもりだった。ところがこの詩は、生涯手を入れ続けながら未完に終わった。本人が後世に残ると信じたのは、こうしたラテン語の大作のほうである。
ところが後の世に読まれ続けたのは、本人が「俗語の断片」と呼んだ、イタリア語の抒情詩のほうだった。1327年にアヴィニョンの教会で見かけたラウラという女性への思いを、ペトラルカは生涯にわたってソネットなどの短い詩に書き、366篇を一冊の詩集(のちに『カンツォニエーレ』と呼ばれる)にまとめた。ラウラの名は、イタリア語で月桂樹を意味する言葉と響き合う。冠を求めた心と、ラウラを恋う心は、詩のなかで重なり合っている。この詩集の形式は、のちにヨーロッパ中の詩人にまねられ、イギリスのシェイクスピアのソネットにまでつながった。

「古代以来初めての桂冠詩人」という言い方には注意がいる。古代ローマにも、1世紀末に皇帝ドミティアヌスが始めたカピトリウムの競技祭で、詩の競技の勝者に冠が与えられた例はある。しかしペトラルカが思い描いたような、国が一人の詩人を選んで冠を授ける制度があったわけではない。彼は詩人スタティウスがカピトリウムで冠を受けたと信じていたが、それも誤解を含んでいた。また、1315年にはパドヴァで詩人アルベルティーノ・ムッサートが冠を受けており、ダンテ・アリギエーリもボローニャから冠の申し出を受けて断っている。ローマのカピトリウムで、という点で初めてだったと言うのが正確だろう。ペトラルカは、自分が思い描いた古代を、自分の手で再演したのである。
ローマに滞在したのは数日だけで、ペトラルカはすぐ北イタリアへ去った。しかし冠は彼の名をヨーロッパ中に広め、彼は生涯「桂冠詩人」と呼ばれた。古代の言葉と精神をよみがえらせるという彼の志は、ペトラルカを師と仰いだボッカッチョらに受け継がれ、のちに人文主義と呼ばれる学問の流れを作った。中世の暗さと古代の光を対比する見方も、彼の書いたものに始まるとされる。